成層圏まで何マイル
夏の空はどの季節よりも青く、深い。
よく晴れた空ほど見る者の心を惹きつけるものはなく、道行く人をして思わずその足を止め、見とれさせてしまうものである。ことに夏空は雲の形も質感も変化に富み、また見上げるほどに濃くなっていく混じりけのない青さは時間を忘れさせてしまうほどに美しい。
青空に見とれる理由には、人それぞれの言い分があるだろう。見えない風に流れていく雲の表情が一期一会の芸術だからか、それとも地上には決して現れることのない青色に満たされているからか。いずれの気持ちも、ある種の憧れから来ているのかもしれない。自分にはない何かを、あるいは自分が求める何かを青空に見いだし、日頃の悩みや焦りといったごたごたを一旦脇に置いて、心の中にただよう未だ形にならない夢や言葉にならない感情、漠然とした問いに対する自分なりの答えを見つけたような気持ちにさせてくれる。もちろん、実際に空を見上げている人が全て、いつもこのような複雑なことを意識しながら眺めているわけではない。青い空は美しい、だから見とれてしまうのだ。理由を聞かれればきっとそう答えることだろう。
無数の世界の交差点であり、ありとあらゆる文化と種族が行き交うこの場所でも、不思議なことに青空を美しいと思える感性はおおむね一致しているようであった。
その日も朝から快晴に恵まれていた。
どのスタジアムでも第一試合の形勢が決しはじめ、次の出番を控えた選手達が三々五々待合室へと集まりだす。部屋に入った彼らをまず出迎えるのが、左手の壁に並んで架けられた一見窓かと思えるほど広いスクリーンである。いつもこの時間はそうであるように、そこには各地のスタジアムで現在進行中の試合が映し出されていた。ある者はくつろいだ様子でソファに座ってそれを眺め、またある者は横目に眺めて通り過ぎていく。映し出される光景は屋外のものが多い。つまり、外で行われている試合が多いということになる。この季節は正午に近づくほど気温が高くなるため、観客に配慮して、観覧席がステージとともに屋外に配置されている場所に限り試合を朝と夕方以降に回すようにしてあるのだ。だが、炎熱地獄にも似たノルフェアのようなスタジアムがある一方でこのようなところを忠実に――現実的にしているマスターハンド達の意図は不明である。
ファイター達の宿であり交流場所でもある城は古風な外観のわりに空調設備はしっかりとしており、待合室で観戦している人たちも外の日差しなどすっかり忘れてしまったかのような顔で仲間の活躍を眺めていた。音量の絞られた歓声、試合を盛り上げるアナウンサーの遠い声、それらが待合室に流れる穏やかな音楽に混ざり合い、流れていく。待合室には、とても試合の前とは思えないくつろいだ空気が漂っていた。しかし、それも当然のことであった。
あちこちのスクリーンで次々に歓声が高まり、やがて試合に勝った選手の名前やチームの色が高らかに宣言されていく。それを知っていたようなタイミングで、待合室にそれまでとは違う一団が入ってきた。弓を背に掛け、あるいは剣を鞘に収め、武器を持たぬ者は意気揚々と肩慣らしをし、続々と部屋にやってくる。招待状を受けてやってきた者たちの意志は様々であり、中には選び抜かれた闘士と技を競い、本格的に腕を上げようという熱い思いを持って応じた人々もいる。彼らはそういう部類に入る者たちで、試合前もこうしてぎりぎりまでウォーミングアップをしてくるという訳だ。
待合室の空気がにわかに引き締まったところで、試合から戻ってきた選手が転送装置から次々に姿を現し、人口密度の上昇に拍車を掛けていった。次の試合を控えるファイターと、勝負を終えたばかりの者たちが会話を交わしはじめ、賑やかさも増していく。気の合う者と二言三言、という者もいれば、黙って肩をそびやかせ、出て行く者もあり、はたまた自然と仲間に囲まれてしまう者もいた。天空界から招かれた天使、ピットもその一人である。
「お疲れさまー!」
「さっきの試合、すごかったよ! あのテレビにも映ってた!」
「あれはテレビじゃないよ、マスターさんも言ってたでしょ」
これもいつものことであるが、彼の周りに真っ先に集まってくるファイターには年齢の低い者が多い。おそらくは彼の屈託のない人となりのお陰だろう。年長者だからと気取ることなく、彼は子供達の中に溶け込んでいた。
「いやぁ、初めてのルールだったから緊張したよ。ほら、何て言ったっけ……ああ、そうだ、チーム組み手!」
続けて、ピットはこう尋ねた。
「僕らの記録ってもう発表された? 誰か画面で見てたかな」
「たぶんまだ出てないと思うよ。あ、それで急いで戻ってきたの?」
スクリーンの方へと案内しながらそう聞いたのはネスである。
「試合中はもう次々と出てくるザコ軍団を倒すので精一杯でさ。とてもじゃないけど人数なんて数えられなかったんだよ」
元々は城に備え付けられたトレーニングルームの仮想空間で練習代わりとなっていたザコ敵との戦闘。初めの頃は一対一、時間無制限というシンプルなものだったのだが、戦闘に関して凝り性のファイター数名が自分たちでルールを開発し、代を重ねるごとにより複雑でスリリングな競技にしていった。そこに目をつけたマスターハンドおよびクレイジーハンドがこれを「組み手」として採用し、観客の前で自分たちの腕前を披露する正式な試合形式の一つとなった。最近は二人組のチームで闘うルールも発足し、興味を持った者がそれぞれ仲間を募ってエントリーしはじめている。普段の試合と同様、組み手も成績に応じてボーナスが出るが、元からここでの生活に不自由しない量の給金は出ているため、望んで応募する者は闘うことが好きか、あるいは純粋にスポーツとして楽しみたいか、そのどちらかが多かった。
エントリーは様子見しているものの興味を持っているファイターも多く、ピット達が耐久組み手に挑戦したステージ「戦場」を映し出しているスクリーンには早くも人だかりができていた。
「ほら、どいたどいた! ピットが見れないだろ」
猫目の方のリンクがそう言って、威勢良く大人たちの壁を割っていく。その後から、試合のほどよい疲れと記録への期待が入り交じった笑顔でピットが続いた。やや見上げ気味にスクリーンの前に出たところで、横から声を掛けられた。
「エンドレス組み手、チーム戦。記録は……68体」
シークが落ち着いた声で画面に表示された数字を読み上げ、そのいつもと変わらない冷静な眼差しをこちらに向ける。
「最初の組み手としてはなかなか良い成績だ。現れる敵に対して臨機応変に対応もできている。しかし、キミはパートナーを気にしすぎているようだね。ここにいるのは皆一人前の戦士。時には相手に任せて自分の目の前に専念することも重要だ」
「あはは、分かっちゃいましたか……どうしても気になって、助けに行こうと焦っちゃって」
「悪いことではない。キミの性格上難しいことも分かっている。今の言葉は単なる助言の一つだと思ってくれ」
そう言って表情を和らげた一瞬の間に姫の面影を見せて、シークは待合室を出て行った。あれほど涼しげな様子だったのに、どうやら試合を終えた後の組だったらしい。早くに試合が終わったので、他の仲間の試合を見つつ待合室で休んでいたのだろう。
スクリーンは成績の表示から切り替わり、組み手のダイジェストに移っていた。姿の見えないカメラマンが切り取った、試合の名場面。中にはかなり接近しなければ撮れないはずのものや、ステージの障害物から考えると明らかにあり得ない位置から写されたものもあるのだが、そのメカニズムは未だかつて誰にも明かされたことはない。
「68体かぁ……口にしてみると凄い数字だなぁ。僕ら、そんなに倒してたんだ」
「かっこよかったよぉ! あっちこっちから落ちてくるザコ敵さんをどかっ、ばしって!」
擬音語と身振りを交えて興奮しているのはポポである。相方のナナはそんな彼の様子がおかしいらしく、両手で口を押さえてくすくすと笑っていた。
「まさにじっぱからあげだったね!」
「カービィ。それ言うなら十把一絡げ、だよ」
「あれ、そうなの? からあげといえばぼくおなか空いてきたなぁ」
「え、さっき朝ごはん食べたばっかだろ! まったくお前はホントに食欲のカタマリだなぁ」
「いいねぇ~……ぼく、カタマリのようなからあげがたべたい」
完全に夢想する顔になってよだれを垂らしはじめた彼は放っておき、子供たちは再び組み手の名場面に目を向ける。仲間の勇姿に憧れとライバル心を抱いたその瞳は大人の戦士たちのそれと変わらず、むしろより純粋なほどであった。
戦場もまた屋外スタジアムの一つであり、映し出される場面には例外なく夏の青空が映り込んでいた。周囲や足下で賑やかにざわめいている仲間たちの中にあって、ピットはふと口をつぐみ、何かを思い出したような表情でその空の青をじっと見つめていた。
「やっぱり青い空には真っ白な翼が似合うね」
そんな声がして、彼は現実に引き戻される。美しい絵画を評論するような調子でそう言ったのはアリティアの王子であった。
「マルスさんだってきれいな青で揃えてるじゃないですか」
「僕の格好は空の青とも少し違うかな。それに、こういうのは対比があってこそなんだ。似ている色じゃなく、違っているけどお互いを引き立たせるような色」
彼がそう言ったそばからマリオも顔を出し、大きく頷いた。
「そうそう、青空をバックに翼を広げているのは本当に絵になるよな」
折しも映し出されているのはザコ敵に会心の一撃を放つべく、弓弦を引き絞る天使の姿。撮されているとは知らない自然さで、真剣な表情をしている。バランスを取るためだろうか、その背の立派な翼はその身にみなぎる緊張を現わして大きく広げられていた。敵の攻撃をかわすためにバックステップを行っている最中、ジャンプの頂点でその写真は撮られていた。まるで空を飛んでいるように見える天使の姿。ダイジェストの選定者、だいたいマスターハンドかクレイジーハンドのどちらかだろうが、彼が選んだのも頷ける一枚だった。
誰もが自分の映ったスクリーンを眺める中、当の本人であるピットはなぜかそれほど誇らしげでもなく、どちらかと言えば浮かない顔をしていた。しかし、誰もそれに気づかぬうちに彼は表情を変え、ふと転送装置の方へと顔を向ける。
「あっ、ファルコさん、お疲れ様です!」
「よう、先に戻ってたか」
青い羽根に象られた片手を上げ、彼はまっすぐこちらに歩いてきた。
「その様子だともう結果は発表された後ってとこか」
「ちょっと前に映ってました。68体だったみたいですよ!」
そう目を輝かせて言ったが、ファルコはそれを聞いてぴくっと眉のあたりを動かす。
「かーっ、もう少しだったのかよ! あのとき気を抜いてなけりゃ……」
人で言えば手の甲に当たる部分を額にあて、天井を仰ぐ。彼がもう少しで届くはずだった記録の保持者。それは他ならぬ彼の所属する遊撃隊の隊長、フォックスのものであった。いかにも悔しそうな様子であったが、仕草のオーバーなところを見ると本気で後悔しているわけではなさそうだった。
「ファルコさんも意地張ってないで隊長と組んだら良いのに」
笑ってそう言ったピットに、彼はむすっとした表情を返す。
「そんな訳いくかよ。『お前はすぐ一人で突っ走るから協調性を養え』なんて説教くさいこと言われて見返そうと思わない奴があるか? 俺はぜってぇあいつの記録を超えてやるからな」
今回の試合の前にピットが尋ねたところ、チームでの組み手が始まると聞いて、てっきり一番に自分が相方として呼ばれるものと思っていたそうだ。ところが彼は、せっかくの機会だからお互い別のファイターと組んでみようと、良い笑顔でそう言ったらしい。そのガリ勉っぷりも大概にしろよとからかったところ、先ほどのような言葉を返されてしまったというわけだ。
「しかしピット。お前がこういうタイプの試合に参加するとは思わなかったな」
「そうですか?」
「ああ。時間制限で戦いっぱなしってのはなかなかハードな試合だ。しかもそれが午前2番目の試合なんだからな。次は『フリー』か?」
「ええ、まあ」
「そうか。今のうちに少しは休んでおけよ」
くちばしで器用にニッと笑い、ファルコは翼のような手のひらで拳を作るとこちらの胸を軽くこづいた。きょとんとしているピットを残し、彼は次の試合へと向かっていった。
「今度あんたが挑戦する時は呼んでくれよ」
「僕も、いつでも呼んでください」
ピットがそう言うと、ファルコは振り返らずに手を振りかえして応えてくれた。
横のスクリーンに映るスタジアムはいつの間にか清掃も終わり、次の試合に向けた準備が始まっている。ピットは気づけばそちらの方に顔を向けていた。手を伸ばせば画面を突き抜けて触れられそうなほどに美しい画像。彼の目にはあたかも、それぞれが異なる風景につながる窓のように映っていた。ミニチュアのようなステージ。色の粒にしか見えない観客たち。ただ、どの景色にも共通している色彩があった。スタジアムの喧噪をよそにぽかりと浮かぶ純白の雲と、深い青に輝く夏の空。
行き交う人の波も少しずつ遠のいていき、残された天使は架空の窓から差し込む光を受けてただ一人、ぽつんと佇んでいた。
灰色の敷石が張られた広い大路。その広さたるや衛兵が列をなして行進してもなお余りあるほどだ。しかし、見上げればそこには空ではなく、タイル細工のなされた天井が見えてくる。ここは城の副塔をつなぐ渡り廊下。外から斜めに差し込む日差しが行く手にアーチ状の影を作り出し、それがずっと向こうまで規則正しく続いている。欄干の向こうには、城の眼下に広がる深緑色の森、そしてはるか向こうには青く煙る街の中心部が見えていた。ここからでも街並みの屋根やガラス窓が夏の日差しを反射し、まぶしいほどに輝いている様子が分かる。
しかし、心なしか肩を落とし、憂鬱な顔で歩いていく人影はそちらの方を見ようともせず、渡り廊下の高い天井にうつろな足音をこだまさせて影から影へと歩を進めていく。
渡り廊下の中ほどまで来たところで、彼はようやく進む方向を変えた。中腹から浅く張り出すようにして作られたバルコニー。休憩のためのベンチが置かれてある程度で、すぐに手すりに突き当たってしまうような狭い空間だったが、彼は構うことなく歩を進めていく。行き当たりの欄干を片手で掴み、少し身を乗り出して左手を伺い、それからさっと後ろを振り返って廊下に人がいないことを確認する。
決心をつけ、彼は欄干から手を離し、廊下の方へと向きなおった。顔を仰向かせて腰をぐっと落とし、次の動作に備えて翼を平らに広げたかと思うと、やにわに床を蹴って跳び上がった。そう、それは「飛ぶ」というよりも「跳ぶ」に近かった。長さで言えば大人の腕ほどもありそうなその翼を三度羽ばたかせ、ようやくのことで渡り廊下の屋根が見えてくる。着地の寸前で膝を折り曲げ、口を引き結んで両手を前に突き出した。手のひらと肘、両膝に軽い衝撃が来て、間もなく日の光に熱せられた瓦の暑さがじわりと肌を熱する。彼はこらえていた息をつき、ゆっくりと立ち上がると屋根伝いに渡り廊下の左手へ、主塔を囲む副塔の一つへと歩いていった。
城の設計は体の大きいものでもゆったりと過ごせるようにと、少々スケールが大きめに作られているという話だったが、それを知っていても天使の表情は曇ったままだった。日差しに暖められた生ぬるい空気が立ち上る場所を足早に抜けて副塔の影に入ると、急に辺りの気温が下がり、彼は少しほっとしたような顔で歩調を緩める。渡り廊下が副塔に突き当たるところでは屋根の全幅が日陰になっており、まるで明け方の空気がそのままそこに残っているかのような涼気をたたえていた。
浅い三角屋根の頂上まで歩いて登り、寝転がる。見るともなしに見上げる彼の視界には、夏の青い空がいっぱいに広がっていた。空の他には何も映らず、そよ風が吹き抜けるたびに耳元でかすかに、ごうという音が鳴る。まるで空を飛んでいるようだと、翼のない者なら言うことだろう。しかし彼は、ピットはそう思うことができなかった。本物を知っているから、これが飛ぶこととはまるで違うのだと感じてしまう、分かってしまうのだ。それでも彼はここのところこうして、午前中に人知れず渡り廊下の屋根に出てきてぼんやりと空を眺める、そんな癖がついてしまっていた。
正午に向けて、太陽が中天に昇ろうとしていた。雲は彼方からの光に照らされて真っ白に輝き、ゆったりと青い空を流れていく。日陰にいてもこれほどに眩しい光景を眺め続けるのはいささか辛いもので、ピットは片腕を掲げて庇にした。そうしてしばらく目を細めて空を見つめていたが、やがて腕が疲れてしまい、ため息をついて目を閉じる。この時刻の気温も日に日に上がってきていた。そのうち別の隠れ家を探さなくてはならないだろう。でも、それは今じゃない、と彼は心の中でつぶやいた。
目を閉じた分、耳に届く音が鮮明になっていた。木立を吹き抜ける風。森の上を、城の屋根を飛び越えていく鳥の羽音。形の無い空気を捉え、羽根の隙間から逃し、滑るように天空を駆けていく音。意識するまいと思うほど、その音は際だって彼の意識に割り込んでくる。
知らぬ間にしかめていた顔に、ふと怪訝そうな表情が混じった。いくら何でも羽音が大きすぎる。この森にそこまで大きな鳥が住んでいたはずは――
「ピットくん!」
出し抜けに名前を呼ばれ、彼は反射的に跳ね起きた。
屋根の傾斜はそこまできつくないというのに、焦ったのが良くなかった。立ち上がろうとしてついた足が磨き抜かれた屋根瓦の上で滑り、全身の重心を立て直せないまま中途半端な姿勢でずり落ちていく。視界の先、はるか下に見えるのは城を包み込んでなお広い森林地帯。初夏から盛夏に掛けていよいよ深く緑色に染まろうとしている木々は見事なものであった。状況が状況でなければ。
ここはスタジアムではないから、翼をパラシュート代わりに地面までゆっくり降りていけば良い。それよりも心配なのが、ここにいるところを見られてしまったことだ。誰に禁じられているわけでも無いのだが、常識的に考えて『いてはいけない』場所にいたのは事実。その見た目から子供のカテゴリーに入れられ、大人たちから何かあったら保護すべき、見守るべき対象として見られている自分がこんなところにいるのを見られたらどうなるか。その先は考えるまでもなく明らかだ。自分が皆からどう見られているか、どう評価されているか、どういう人物だと思われているかくらいは心得ている。期待を裏切るというと大げさだが、意外とやんちゃなんだねと笑われ、話の種にされるのだけは勘弁したい。
そんなことをぐるぐると目まぐるしく考えていた先で、ふっと風が吹き、空から大きな影が降りてきた。橙色の胴体と足が見えたと思ったとたん重い音がして、足が何かにぶつかり、せき止められた。
いつの間にか目をつぶっていたらしい。おそるおそる目を開け、上を見上げると、見慣れた竜の顔がこちらを見下ろしていた。
「ありがとう、リザードン」
竜の肩あたりにまたがった帽子の少年がねぎらうと、竜はまんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。少年はもう片方の手に何か大きな半透明の袋を持っていた。袋を透かして、色も形も様々なものが入っているのが見える。おそらくは買い物の帰りだったのだろう。状況が飲み込めたピットの肩から、ようやく緊張が抜ける。
「……なんだぁ、君だったのか」
「ごめん、そんなに驚くとは思ってなくて」
「いや、ちょっとね……」
それからピットは、謝るように片手を上げてこう続ける。
「僕がここにいたことは内緒にしてくれる? 知られたらいろいろとやっかいだからさ」
いつものように明るい表情で、ちょっとばつが悪そうに笑っている天使。少年、レッドはそんな彼の様子を何も言わずにしばらくじっと見ていたが、やがて少しためらいがちに、しかし真剣な声音でこう言った。
「……何かあったの?」
ピットは、思わず顔を上げた。無理矢理作った笑顔はどこかに消えてしまい、純粋な驚きがそれに取って代わっていた。ややあって理解が追いつく。彼はおそらく、声を掛けるより前にこちらに気づいていたのだ。近づいたところで表情も見られていたに違いない。いつもの癖で大丈夫だと言おうとして口を開き掛けたが、自分でも分からない何かがそれを妨げた。ややあって代わりに出てきたのは、こんな言葉だった。
「もし、迷惑じゃなかったら……僕を、空まで連れて行ってくれるかな」
また一つの試合が終わり、スタジアムは乱闘中に勝るとも劣らない量の拍手と声援に包まれる。
彼方の空に浮かぶのはその観客を載せた観覧船。船内の歓声は何処とも知れない場所にある拡声器から伝えられてスタジアムの表彰台にまで響いていた。それに応えて最後に大きく手を振ると、天使はきびすを返して大きく一歩を踏み出す。途端に歓声がふっと遠ざかり、引っ張られるような感触があったかと思うと視界が真っ白に包まれる。次の一歩は、先ほどまでの試合で散々駆け回った神殿の道とは異なる硬い感触に迎えられた。
目の前から霧が晴れるように光が薄れていき、もはや日常的な光景となった待合室の風景がピットを出迎える。つるりとした白色の壁、落ち着いた緑色のソファ、個性豊かなステージを映し出すスクリーン。入れ替えの時間をやや過ぎており、待合室には彼の他2、3人しか人がいなかった。
探すまでもなく、ポケモントレーナーの少年はすぐに見つかった。手持ちのポケモン3匹に囲まれ、そのうちの1匹、膝に両手をかける小さなポケモンに微笑みかけ、何事か話しているところだった。横にいた緑色の、つぼみを背負ったポケモンがこちらに気がつき、ツタを器用に操って主人の肩をつつく。顔を上げ、こちらを認めた彼にピットは手を振った。
「遅くなってごめん、思ったよりも試合が長引いちゃって」
そう言うと、レッドは大丈夫だというように頷く。
「だいたい分かってたよ。試合の様子はここから見てたから」
それから傍らの3匹に視線をやる。主人は何も言わなかったが、彼らはちゃんと指示を心得ていたらしい。その場で居住まいを正したかと思うとその姿が光に包まれ、レッドが両手で器用に3つ持って掲げていたボールの中に吸い込まれていった。人の背丈を超える竜までもが、手のひらに収まるモンスターボールの中に入ってしまった。その様子を思わずまじまじと見つめるピット。自分も試合中にアイテムとして使うとはいえ、やはり本場の人間であるレッドの扱い方はやはりこなれており、無駄を感じさせない。
向き直ったレッドはそこで初めてピットの表情に気がつき、なぜか少しだけきまりが悪そうに帽子のつばを下げ、それでも笑ってこう言った。
「それじゃ行こうか」
かつて、招待に応じてやってきた異世界の勇士たちに、出迎えたマスターハンド達はこの世界について次のように説明した。ファイターの世界と文化を全て足し合わせ、バランスを取ってちょうど良いところに収めたのがこの『スマッシュブラザーズ』の世界だと。しかし、実際には一人の例外も無く全てのファイターが目を疑い、唖然とし、あるいは考えることを諦めるような事柄がいくつもある。その一つが城を囲む森林地帯だった。
この森は、見る位置や人によって様々に姿を変えることが分かっている。先ほど屋根に登っていたピットのように高いところから望めば一寸の隙もなく城を取り囲み、徒歩で抜けようとすれば数時間は掛かりそうなほどの広大さを持つ森林に見える。また地上では、ファイター達の安息を守るため、観光客などの一般人には目的地である城の姿も望めないほどに鬱蒼と茂る樹林として映り、一方で普段から出入りしているファイター自身にとっては、手入れの行き届いた木立としてしか映らない。森の中には整備された歩道と車道があり、箱庭のようなこの世界の各地へと延びている。なお、その距離はせいぜい歩いて数十分ほどであり、のんびり歩いても散歩程度の負担にしかならない。まさしく森は変幻自在、奇々怪々なボディーガード。今までに観光客だけでなく、ファイターの側からもメカニズムを明らかにしようと挑む者はいたのだが、どちらの側も結局解明には至らなかったという。
あずかり知らぬ事についてはくよくよと悩まぬのが吉。だいたいのファイターと同じく、城から四方八方に伸びていく小径の一本を行く少年2人もそんな心持ちで歩いてゆくのだった。時刻は午を過ぎ、日差しはいよいよ眩しくなっていたが、道の両脇に並ぶ街路樹が枝葉を茂らせて小高いアーチをなしているため、暑さは大分和らげられていた。また折しもこの日は風のある日で、吹き抜けていく風がさらに体感温度を下げてくれた。
「それでさ、走っても追いつかないから矢でスマッシュボールを壊そうとしたんだけど全然力が足りなくって。どころか変な方向に弾いちゃって、向こうに取られちゃうしさ」
「あれ案外固いよね。僕もこの間、最後の一撃を持って行かれちゃったことがあったなぁ」
「それ良くある! 別に取れたからといって必ず勝てるわけじゃないけど、それでもやっぱり狙いたくなるよね」
「かっこいいからね、やっぱり」
木漏れ日の落ちる道を歩いていく2人。試合であったあれこれを語る彼らの周りでは風がそよぎ、ざわざわと葉ずれの音を伴って光と影とが揺れ動く。会話ではたいてい話す方と聞く方がおり、話題によってそれが入れ替わることもあるが、この2人の場合はどうやらレッドの方が徹して聞き役であるようだった。とはいえ彼がそれに不満を持っている様子はなく、穏やかな笑顔で仲間の話に耳を傾け、頷いていた。
と、何かに気づいて2人は同時に足を止める。彼らが眺める向こうの方から、いくつもの元気な足音、賑やかな声がやってくる。向こうもこちらを見つけて、2人の名前を口々に呼び、手を振りながら駆けてきた。何人かは競争しているようでもある。その様子を見たピットは笑い、こう声を掛ける。
「みんなそんなに走って、暑くないの?」
「ピッカ!」
走ってやってきて後ろ足で立ち、ピカチュウが元気よく手を挙げる。その横にポポも追いついた。
「平気! でもだいぶ暑くなってきたからお城に戻るの」
この時期では一番暑苦しそうな格好をしているにも関わらず、汗一つかいていない。仲良く並んだナナも涼しい顔をしていた。
「わたしたちの山もキレイだけど、こっちの夏も素敵ね。緑もお花もあって」
「海も良いぞ!」
そう断言したのは猫目のリンク。
「そうだ、今度はあの街行こうぜ。何て言ったっけ、あの海がすっごくきれいなとこ……そうだ、ドルピックタウン!」
他の子供たちも賛成し、それから口々に自分の行ってみたい場所を挙げ始める。その輪のそばにいて、皆の様子を和やかに見ていたリュカが、ふとこちらを見上げてこう尋ねた。
「ピットさん、どこか行くの?」
「ちょっとね、空まで散歩。そういうリュカはサッカーだったの?」
彼が両手で抱えた白黒のボールを見てそう返したのだが、子供たちが自分も連れてってと騒ぎ出さないようにはぐらかした、その心の揺れを感じたのだろうか、リュカは少し不思議そうな顔で口をつぐんでしまった。生じた隙間に、すかさず他の子供も混ざってきた。話を半分しか聞いていなかったらしく、明後日の方向の質問ばかりが飛んでくる。
「わぁおでかけ? どこ行くの、もしかしてレストラン?」
「もうお昼過ぎたでしょ。きっとお買い物よ」
「えっ、街行くの? 良いな、おみやげ買ってきてよ」
「そうだ、買い物っていえば……」
ネスのその言葉に、皆は一斉に何かを思い出して「あ!」と声を上げる。そのままの顔で見たのはレッドの方。彼は心得たようににっこりと笑い、頷いた。
「頼まれてた分、買ってきたよ」
それからさりげなくこう付け足した。
「冷蔵庫に入れてあるけど、みんながどういうの好きか分からないから色々買ってみたんだ。好きなの選んでね」
これを聞いて、子供たちは油断のない顔で互いを見合う。行き交うのは火花を上げる真剣な視線だ。
「よしっ、競争だ!」
リンクの元気なかけ声を合図にして、彼らは再び一斉に駆けだした。先を行く数人は本気で走っているのに対し、特に好き嫌いが無いのか、争うほどのペースで走っていない子もいる。彼らの背中が道の向こうに小さくなっていく様子を見送って、ピットは安心したようにため息をついた。
「助かったよ。空に行くって言ったら付いてきそうな勢いだもんね……」
あの年ぐらいの子は好奇心旺盛なものだ。付いてくるのを断る理由もなく、変に言い訳をすれば怪しまれてしまう。
「元々どこかで伝えようと思ってたんだ。そう言えば、特に僕らのって書かなかったんだけど、間違えて他の人食べてないよな……」
「食べるって、何買ってきたの?」
「アイス。この人数分だと、あの子たちじゃ持ちきれないから」
「なるほど、アイスかぁ。この天気だと誰か食べちゃうかもね」
小手をかざして見えるのは、木陰の隙間から垣間見える青空の欠片。中天を通り過ぎようとする夏の太陽に照りつけられ、本来の青みが飛んでしまっている。
「余裕を持って買ってきたから、ちょっとなら大丈夫なんだけど」
「『ちょっと』がちょっとじゃ済まない人もいるもんね」
「まぁね。でもあの様子なら間に合うんじゃないかな」
笑って答えたレッドも、それほど心配している様子は無かった。共通の場所に置いておいたものを食べられたり、うっかり食べてしまったり。こういう集団生活ではつきものであるが、ここでは律儀な人、正義感の強い人、あるいは親切な人がそろっており、未解決のまま放っておかれることもない。
「戻ったら僕らも食べようか。あまり選択肢ないかもしれないけど、良い?」
「良いも何も、僕がつきあわせちゃったんだから。僕は……そうだな、あまり好き嫌いは無いけど、なすび味とか無ければ良いよ」
そう言ってからレッドの方を見ると、ジョークとして一緒に笑うべきか、それとも真面目に訂正すべきか、相反する心情がせめぎ合ったなんとも微妙な顔をしてこちらを見ており、謝るよりも先に吹き出してしまった。
「ごめんごめん、冗談」
レッドもつられて笑っていた。
「君のとこにはあるのかなって思っちゃったよ」
その頃、ぱたぱたと賑やかに駆けていく子供たちの中で、サッカーボールを持っているためにちょっと遅れを取っていたリュカはふと、横に現れた意外な人物に気がついた。戻るためにペースを落としてまでやってきた彼に、声を掛ける。
「カービィ、どうしたの?」
「ボールもつー?」
「ううん、大丈夫。それより……」
「うん。よくわかったね!」
歩調を揃え、並んで走りながらカービィは期待の表情でこう尋ねる。
「ピットくん、どこに行くって?」
伝わってくるのはぼんやりとした味覚と満腹のイメージ。ピットの様子を、自分たちに内緒で美味しいものを食べに行くのだと思っているらしい。
「えっと、確か……空に散歩しにいくって」
「なんだ、おさんぽかぁ」
少し遅れて彼の姿が横から見えなくなり、リュカは戸惑って立ち止まる。振り返ると、後ろですっかり足を止め、小さな丸い手をかざして空を見上げるカービィの姿があった。
「カービィ?」
返事は来ない。無意識に彼の心を感じ取ろうとしたが、さっきまでそこにあった感情は、混じりけのないまっすぐな決心に置き換わってしまった。
「ちょっとようじ!」
それだけを言い残し、彼は再び走り出した。その勢いたるや、先ほどまでの遊び半分のかけっことは似つかない。先頭を走っていた集団に追いつき、じりじりと追い越していく。その様子に火が付いたか、他の子供たちも一層乗り気になって走り始めた。やがてトップに躍り出て、それでも勢いを緩めずに駆けていくカービィ。唖然とその様子を見ていたリュカ。少し先を走るネスも怪訝そうな顔をしていたが、この場でカービィの丸い背中に別の意志を見いだそうとしているのは彼らしかいないようだった。ネスが振り返り、リュカに疑問のメッセージを送ってきたので、リュカは首をかしげてみせた。ネスは分かった、というように頷いて再び前を向く。
――事情は分からないけど、あの様子じゃ止めようがないね。とりあえず今のところは任せよう。
彼が伝えてきたのは、おおむねそのような感触の言葉だった。
風の吹く丘を登り切り、軽く息を切らせて辿り着いた頂上で2人はようやく足を止める。見上げた空には綿菓子のように真っ白な雲が流れており、空の澄み切った青さを一層引き立てていた。空を全天に望めるこの場所、街の郊外にある小高い丘が目的地であり、これからの出発地点であった。
「ここから飛ぶの?」
「うん。見晴らしも良いし、人も少ないから」
モンスターボールから出してあげた橙色のドラゴンの首の辺りを優しく叩きながら、レッドがそう答える。この世界はファイターたちの宿である城と、観光客のための施設が揃った街、そして点在するスタジアム以外には建物が無く、したがって場所だけはあるが観光客には見向きもされないスポットが意外とあちこちに存在している。そういった場所が、子供ファイターたちの遊び場であったり、トレーニングルームに飽きた者の修行場所であったり、そういった息抜きに使われていた。目敏いパパラッチでもいれば瞬く間にかぎつけられ、見つかりそうなものなのだが、不思議なことに今までそういうアクシデントは一度も起きていない。その場所へと至る唯一の交通手段が城から森を抜けてつながる小径しか無いという点が、だいたいの真相を物語っているようではあった。
ファイターが一般人に紛れ込む手段は、あるにはある。しかし隠れ蓑をかぶってまで正体を隠すのは結構気を遣うものであり、面倒だとまで思う者もいた。そのため、こういった隠れスポットはマスターハンドから教わるまでもなくファイターたちの間であっというまに伝わり、広まっていた。
丘の彼方、陽炎でじわじわと揺らめいている街とスタジアムの面影を眺めるピット。友人に背を向けた彼の表情には我知らず、憂いとも不平とも取れる陰りが現れている。だが名前を呼ばれ、はっとした拍子にその表情はどこかへと消え去ってしまった。振り返った彼に、レッドがこう言っていた。
「リザードンは2人でも大丈夫みたい。どっちに乗る? 肩にまたがるのと、背中に乗るのがあるけど」
「えっと……それぞれどう違うの?」
「そうだなぁ」
考え込んだレッドの肩を、リザードンが鼻先でつついた。首を巡らせて肩の辺りを示し、それからもう一度レッドの方をじっと見る。
「そうだね。そこはちょっと上級者向けかも。ピットくん、僕が前に乗るから、リザードンの背中の方に乗って。リュックを掴んでて良いから」
首をぐっと下げたドラゴンの肩に、軽い動作でレッドがまたがる。ピットも慌ててそちらに向かい、ちょっと迷ってから尻尾の方から乗ろうと決めた。こちらの様子を察したのか、リザードンが尻尾と翼を下げてくれる。あらわになった背中は意外と狭く、ちょっと大きめの座椅子ほどしか無かった。
「……重くないかな」
「大丈夫。『そらをとぶ』を覚えたポケモンは大人のトレーナーも乗せて飛べるから」
「それって……」
技術で何とかなるものなのかと聞こうとして、止めた。ただでさえ彼の世界に住んでいる『ポケモン』はどれもこれも想像を絶する個性を持っているのだ。一度レッドに、彼の持っている図鑑を見せてもらい、ポケモンたちの奇抜な生態のあれこれを読んで唖然とした記憶のあるピットは、これは聞いてもかえって謎が深まる系統の質問だと判断したのだった。
片方の膝を乗せ、這うようにリザードンの背中に登る。見た目はは虫類のようであるが、意外にも竜の体温は高く、触れているとじんわりと温かい。そのまま正座をするようにして背中の上に収まり、ピットは言われた通りにリュックの紐を片手で掴んだ。振り返り、視線で準備は良いかと尋ねたレッドに、天使は何も言わずに大きく頷いた。
「よし。リザードン、『そらをとぶ』!」
張り切って掛けられた号令に、待ちかねていたようにゴウと吠えるとリザードンは大きく翼を広げ、力強く地面を蹴った。ぐんと腹から持ち上げられる感覚があった。眼下の草むらがなめらかに滑り出したかと思うといきなりぷつりと途切れて、丘の向こう側に広がる草原と2人が先ほどまで歩いていた散歩道が、まるで緑の絨毯に綴られた細い糸のようになって真下に現れる。風になびく、背の高い草むら。中天からわずかに傾ぎ始めた日差しに照らされる夏色の海原が見渡す限りに広がっている。見ているうちにもその様子はぐんぐんと縮んでいき、ぐるりと旋回したかと思うと今度は菓子箱のように小さな建物の集合が見えてきた。
「わぁ……セントラルシティがあんなに小さくなっちゃって」
声を弾ませてそう言ったピットを振り向き、レッドは笑った。
「やっぱり飛び慣れてるんだね。僕が最初にピジョンに乗って空を飛んだ時、怖くて下を見れなかったんだ」
周りでは風が唸っており、珍しく彼が大声を出している。こちらも相手に聞こえるよう、声を張り上げて答える。
「飛び慣れてるというより見慣れてるって感じかな。ほら、エンジェランドの近くに作られたステージがあるでしょ。僕らはいつも、あの天空界にある浮島で暮らしてるんだ」
それから再び、横の景色に目をやる。橙色の立派な翼で目隠しされるたびに、コマ送りのように途切れ途切れで高度が上がっていくのが分かる。リザードンは街を大きく旋回するようにして上空を目指しているらしく、回っていく円の中心にはいつも街の姿があった。
「それでも、地面に足がついたとこから見るのとは全然違うなぁ。地上にこんな高い建物も無かったし」
「本当にここの街は広いよね。一日掛かっても回りきれなさそうだよ」
「レッドくんの所にも無いの? ここまで広くて背の高い街」
「カントー地方はヤマブキやタマムシが一番賑やかだけど、たぶんあの街もこんなに大きくはないかもなぁ」
リザードンはいつの間にか上昇を止め、姿勢を水平にしてゆっくりと同じ高さを巡り始めた。夏の昼過ぎだというのに、さすがにこの高さまで昇ってしまうと気温も低くなり、頭の上からまんべんなく降り注ぐ日差しのわりに辺りは涼しい空気に包まれている。速度を落としたことで風の音もいくらか穏やかになり、2人はしばし上空からの眺めを楽しんでいた。
形も高さも様々な建物を有する大都市が風景の大半を占め、視線を外側に移せば、街を取り囲むように建てられた大小様々なスタジアムが見えてくる。時には移動型のものもあり、ちょうど見ている間にも向こうの海の上に長方形のシンプルなステージと、それを追いかけるように飛ぶ観客用の飛行船が忽然と現れ、滑るようにゆっくりと移動していった。また都市を抜けて各方面、さらには各世界へとつながっていく道路では、金属製の車両が日光を眩しく照り返しながらそれぞれの方向へと一心に向かっていく。
地上は今日も、歓声と喧噪、雑踏に大乱闘、それらが一緒くたになって絶え間ない賑やかさに包まれていることだろう。しかしこうして空の上まで出てしまうとそれらの雑多な賑わいは遥か遠く、リザードンに乗った若いファイター達が地上に見えたものが何であるか予想し合う声の他は、さらに高みを吹き抜けていく涼しげな風の音しか聞こえてこない。
リザードンの肩にまたがり、その首越しに地上を眺めるレッド。いつでも空には出てこられたのだが、今日の出来事が無ければスマブラの世界の上空に散歩に行くという発想は出てこなかったのだろう、彼は目を輝かせて眼下の風景に見入っていた。そのために、後ろの天使の口数が次第に少なくなっていることには気づかなかった。レッドが帽子を庇にして地上をつぶさに観察している後ろで、天使はいつの間にか口をつぐんで同じ方向をじっと見つめていた。やがて顔を上げ、真剣な表情で青い空の底を眺める。意を決して、空いた方の手でレッドの肩を軽く叩いた。
「ねえ。もっと上に行ける?」
振り向いたレッドは、そこで初めて彼の表情に気がついた。どうしたのかと聞く代わりに彼は頷き、リザードンに二言三言指示を与える。ところが、その応答には少しの間があった。これまで彼の指示に素直に従っていた竜が、珍しく迷うようなそぶりを見せたのだ。ピットの見る先で主人と従者は何事か言葉と鳴き声を交わし、やがて合意に至ったと見えてリザードンがまっすぐに前を向き、大きく翼を打ち振るう。リュックを掴んだ方の腕にぐっと力が掛かり、ピットは振り落とされないように足で竜の胴体を浅く挟みつつ、大きな声で尋ねた。
「どうしたの?」
「濡れるのがいやだったんじゃないかな。ここまで進化したら尻尾の火も簡単には消えないんだけど、苦手なものは苦手だから」
行く手の雲はこちらの速度を超える速さで流れていた。避ける手立てはなく、このまま突っ切るしかないだろう。みるみるうちに雲の底が近づき、それに伴って辺りを吹き抜ける風の様子もがらりと変わってきた。ひときわ強い風が吹き、レッドは帽子を飛ばされないように押さえる。
「しっかり掴まってて。雲の向こう側に抜けるから!」
地上から見ている時にはあれほど立体感を持っている綿雲だが、ここまで近づくとやはり正体を隠せなくなるらしい。気がついたときには耳のすぐそばをかすめるような音がして、視界が一気に真っ白になっていた。ぼやけた白い塊が輪郭も見定められないうちに次々と通り過ぎていく。霧雨が顔を打つようになり、ピットは片腕を上げて目の辺りを守っていた。レッドが先ほど言っていたのはこういうことだったらしい。
ふいに、風が和らぐ。ふわりと竜が体勢を立て直し、再び水平飛行に戻った。悠々と羽ばたく翼の少し下では、まるで良く泡立てたメレンゲのように真っ白な雲がいくつも群れをなして浮かんでいる。地上の景色はいよいよ小さくなり、森と草原、荒れ地と山が織りなすパッチワークの真ん中に、円形に区画されたセントラルシティが見えていた。その形は街のあちこちに立てられた案内板に描かれている通り、2本の大路で中心から少し離れたところを十字に切られた円、スマッシュブラザーズのシンボルを模していた。
その光景に見とれていた天使は、レッドの声で我に返る。
「だいたい地上から1キロとちょっと。今日はこのくらいまでみたいだ」
「それって、リザードンがそう言ってるの?」
「何となく分かるんだ。言葉は分からないけど、仕草とかでね。リザードンたちの方が僕らの言うことをよく理解しているかも」
「えっ、そうだったの? ……ああ、でもそうじゃないと指示が伝わらないよね」
「ポケモンは賢いんだよ」
まるで自分のことのように得意げに、レッドはそう言った。
「人間の言葉をちゃんと分かっているし、自分が認めた人間にしか従わない。中には、すごく珍しいけど僕らの言葉を話せるポケモンもいる。ルカリオもそうなんだよ」
「えっ……あのひともポケモンだったの?!」
思わずすっとんきょうな声が出てしまった。だいたいのファイターから『テレパシー』と呼ばれる声を使わない方法ではあるが、仲間たちと流ちょうに会話できている獣人。どちらかと言えばフォックスたちと近い種族だと思っていたのだ。
「もしかしてと思って博士に写真を送ってみたら、そうなんだって。僕の住む地方ではすごく珍しいんだけど、もっと北の方に住んでるポケモンなんだ。いつか捕まえてみたいなぁ……」
「こっちのルカリオさんは捕まえちゃだめだよ。いつか『一匹の方が気楽だ』とか言ってたから」
「そうか、惜しいなぁ」
それでも彼はさほど執着する様子もなく、向こうをむいて明るく笑っている。それを見ていたピットはふと、空に向けて飛び立って以降はレッドの方がよくしゃべっていることに気がついた。彼は、いつか自分でも言っていたが、普段はかなり無口な方である。同年代や、それよりも幼い子供たち、あるいはそう見える者たちとは比較的話せるが、やはり大人が相手だとまだ緊張してしまうのだそうだ。それにしても、今日はいつになく饒舌だ。試合の時は近くにいてやれないポケモンと接することができて嬉しい、というだけでは理由が説明できないように思える。少しの間考え込み、ピットははたと気づいた。思うに、彼はこちらを気遣っているのだ。渡り廊下の屋根で彼がどうしたのかと尋ねた時に見せた真剣な表情。理由も語らずに頼み込んだ天使を、彼は訝りも尋ねもせずにパートナーに乗せてくれた。そして今も。それに気づくと、進行方向をまっすぐに見つめる彼の背中が、こちらの言葉を待っているように思えてきた。
「レッドくん」
少し間があって、帽子の少年が振り向く。いつもの、感情をあまりさらけださない顔が、心持ち何かを予期しているかのように緊張していた。
「不思議に思わなかった? なんで僕が……翼のある僕が、こんな頼み事をしたのか」
真剣な面持ちでそう言った天使の背では、閉じられた純白の翼が静かにはためいていた。高度1400メートルの空で、口を引き結んだ天使と、朴訥な帽子の少年の視線が交差する。
風だけが2人の周囲を流れていき、その風音に紛れるようにして、それでもはっきりとピットはこう打ち明けた。
「……僕は、自力じゃ飛べないんだ」
それがきっかけとなって、胸の中にずっと隠していた言葉が堰を切ったようにあふれ出る。
「僕は……ほんとはせいぜい自分の身長くらいまで飛び上がれるだけで、それもここに来てできるようになったばかりなんだ。この翼でできるのは、滑空が精一杯。それだって高いところに昇らなくちゃならないし、自分でそれ以上の高さに昇ることはできない。飛べないのは僕だけなんだ。他のみんなは自分の力で飛べるのに。それが……」
ようやく言葉が感情に追いつき、彼はうなだれてぽつりとつぶやく。
「それが、情けなくってさ」
今の彼に言うべき言葉、掛けるべき声を探してレッドは難しい顔をし、やがて慎重にこう言った。
「他のみんなって、ピットくんの故郷のこと? もしかして、その人たちに何か言われてるの?」
「いや、何も。でもむしろ、言ってくれた方が良いくらいかも。エンジェランドには僕みたいに翼をもった、イカロスがたくさん暮らしている。僕は彼らをまとめる隊長を任されてるんだけど、その隊長が飛べないんじゃ格好が付かないよね」
うつむき加減のまま、彼はそう言って笑った。しかしその笑顔にはいつものような明るさは無く、どこか寂しげでさえあった。
「……格好わるくなんか、ないよ」
その言葉に、ピットは思わず顔を上げていた。夏の青空、山脈のように連なる真っ白な雲、それを背にした赤い帽子の少年、レッドは真剣な表情で、目をそらすことなくまっすぐにこちらを見ていた。
「君が隊長に選ばれたのは、ちゃんと理由がある。いつか聞いたよ、君が偉い人を助けて、平和を取り戻したんだって。みんな君が一番しっかりしてるって、君なら任せられるって思ったから選んでくれたんじゃない? それに、君はファイターとしても選ばれた。たくさんいる中からマスターさんに招待されたんだから、そんなに自信無くさなくっても良い。僕はそう思うよ」
いつになくしっかりとした声でそう言ってから、ちょっと照れくさくなったらしい。彼は帽子のつばを軽く下げて、その下から笑いかけてみせる。
「それに、それを言うなら僕だって。選ばれた中で自分の力で闘ってないファイターなんて僕くらいだよ」
「でも、それは仕方ないよ。君のところではそういう仕組みになってるんだから。それにリザードンもそうだけど、トレーナーってたくさんのポケモンを従えてるんでしょ。それも、自分よりも強い生き物をだよ? それだってレッドくんの力だよ」
「従えてる……のはちょっと違うんだ。モンスターボールを持ってても全てのポケモンが言うことを聞くわけじゃない。こっちのことをトレーナーと認めてないポケモンには何を言っても知らんぷりされるんだ。それか『指図するな』って言うみたいに違うわざを出されたりね」
それを聞いたピットはただ唖然として眼を瞬いていた。2人を乗せたまま、文句も言わずに旋回飛行を続けるリザードンといい、乱闘の際にきびきびと闘う他の2匹といい、いつも見ている彼らの様子からは想像もできないことだった。
「人間がポケモンに命令してその通りに動かすんじゃなくて、一緒に遊んだり、一緒に働いて何かを作ったり、バトルでは僕らが持ってる知識を貸して、一緒に学んで強くなって……そういう風にして仲良く暮らす。僕はそういうものだと思ってる。彼らがいなきゃできないことが沢山あるし、むしろ僕らは、いろんな得意なことを持った彼らから力を貸してもらってるんだ」
そう言いながら、彼は騎手が馬をねぎらうようにしてリザードンの首筋をなでた。それから、再びこちらに顔を向ける。
「だから、苦手なことやできないことがあるのは、そんなに恥ずかしいことじゃないと思う。どんなに偉い人でも、一人で何でもできるわけじゃないから」
今度はちゃんとまっすぐに視線を合わせ、レッドが笑いかける。その笑顔を見ているうちに、ピットもつられて笑っていた。
「ありがとう。なんだか元気出てきたよ」
やはりそれでも、いや、だからこそ彼は力のある人間だ。ピットは心の中でそう思っていた。どんな状況でも一人で切り抜けるのは強さと言えるが、それと同じくらいに誰かの力を借りられるのも、また強さだったのだ。たとえ主従の関係だったとしても、信頼が無ければいつかは愛想を尽かされる。言葉を話せない相手とでさえも心をつなぐことができるのは、力でないとすれば何になるのだろうか。
「僕は僕の思ったことを言っただけ。気にしないで」
普段無口な印象の強い彼にとって、こういうことを言うのはやはり結構勇気のいることだったらしい。行く手の方角に顔を戻し、照れ隠しのようにして青空を見つめている。しかし沈黙の気配に耐えきれなかったのか、再び彼の方から話を切り出した。
「……あ、そういえば、まだ聞いてなかったね。なんで君が空に行きたかったのか」
「えっ、あぁ、たいした理由じゃないよ」
ピットはそう言ってごまかそうとする。レッドのしてくれた話の後では、自分の抱えているもう一つの悩みはあまりにも仕様もない話であるように思えてきていた。
「ずるいよ、僕にここまで話させておいて。今度は君の番だからね」
ちょっといじわるな笑みを見せてレッドが退路に立ちふさがる。
「分かった分かった。でもちょっと時間をくれない?」
片手でなだめるように押しとどめ、それから言葉を整理するためにしばし横を向き、彼方でもくもくと盛り上がる雲に視線をさまよわせた。
「僕が飛べないっていうとなんだかおかしいなって思わなかった? ほら、乱闘で君も見たことあるんじゃないかな、翼を青く輝かせて」
「あるよ。たしかに、あれなら結構高いところまで飛べてたような……もしかして、あれは特別なの?」
ピットは苦笑いして頷く。
「そう。あれは、『奇跡』のお陰なんだ。僕がファイターに選ばれた時、パルテナ様が特別に、僕の飛びたいと思った時に少しだけ飛べる奇跡を掛けてくれた。でも自由に使えるのはステージの上だけで、それ以外だとパルテナ様に申請しなきゃならなくて。『遊ぶために奇跡をレンタルした訳じゃありませんからね』って、言われちゃってるんだ」
「それで、僕に?」
レッドが慎重にそう聞くと、ピットは決まり悪そうに笑って頷く。
「うん、まぁ」
「僕は……君のとこの女神っていう人、遠くにぼんやりとしか見たことないけど、なんだか優しそうに見えるよ。話せば分かってくれるんじゃないかな」
「優しいっていうのも外れじゃないけど、気分屋なんだよね。飽きっぽいというか自分勝手というか、その割にしつこかったりするし、心が広いんだか狭いんだか分からないし」
放っておけばどんどん愚痴が出てきそうな様子を見て取り、レッドは途中で遮るようにして少し強く言った。
「ピットくん」
はたと顔を上げた天使に、レッドは真剣な顔でこれだけを聞く。
「女神さんとケンカしたの?」
「えっ……! あ……その……」
慌てふためき、まごついてごまかそうとし、やがて諦めて彼はため息をついた。心なしか背中の翼も元気を無くしている。
「実は……そうなんだ。僕、あの人を護衛する立場なのに、恥ずかしいよね……。来たばかりの頃は散歩したくなったらパルテナ様に通信を送ってたんだけど、ここのところはなんだか気まずくなっちゃってさ……」
「それで、あんな暗い顔で空を見てたんだ」
やはり彼にはばっちりと見られていたらしい。
「どうしてケンカしちゃったの?」
そう言ってから、急いでレッドはこう付け加えた。
「……あ、いやだったら、無理に言わなくても良いよ」
「いや、ここまで来たら言うよ」
きっぱりとピットはそう言った。ここで撤回してしまうと、結局それは逃げになってしまう。ここ最近のもやもやとした気持ちを払拭するには蓋をして見ない振りをするよりも、誰かに打ち明けてしまった方が良いだろう。
天使は空を見上げて最初の言葉を探す。ここまで高く昇ってしまうと、上空にはぼんやりとした巻雲の筋が走る他には何もなく、ただ太陽だけがそのあまりにもまばゆい瞳で下界を見下ろしていた。
「……まず、僕らの世界には、桁外れな力を持った『神様』がたくさんいる。地上に暮らす人間たちは、自分たちの力じゃ当然そんな神様に太刀打ちできなくて、気まぐれに振り回されたり、いわれのない恨みを買って辛い思いをさせられていた」
そのまま太陽の視線をたどって、地上へと目を向ける。姿形も様々で、幾千とも知れない人々が行き交う街並み。ここから見るそれは、周囲を広大な森や山々、荒野や海原に囲まれたちっぽけな丸い点描画でしかなかった。
「でも、神様の中にも人間の味方はいる。パルテナ様もその一人で、地上にたくさんいる生き物の中でも特別人間のことが気に入っていて、色々な加護を与えているんだ。人間からも、自分たちの守護神として敬われている。僕はパルテナ様をお守りする親衛隊の隊長として、ずっと昔からパルテナ様のそばにいて、その仕事を手伝ってきた。それが――」
地上、ビルディングによって描き出された円に十字のシンボル。同じ印章があしらわれた招待状が届いたその日のことを、ピットは今でもありありと思い出すことができた。
神殿に来るようにとの伝言をもらい、いつになく形式張った形で呼び出されたことに疑問を覚えつつ主の間へと続く階段を昇っていった彼を迎えたのは、これもまたいつもより一層機嫌の良い様子で微笑んでいる女神であった。彼女が手を上に差し伸べ、招き寄せられた光の中からふわりと降りてきたのは、一通の手紙。
『これが今朝方、私の元に届きました。宛先はピット。親衛隊長であるあなたに送られてきたものです』
彼女は言外に、それはあなたが開けるべきものだと言っていた。ついいつもの調子で、中身を見なかったなんて珍しいと言いかけて、ピットは口をつぐんだ。そんな冗談を言う雰囲気ではないことは、すでにここまでの経緯から想像が付いている。その代わりに畏まって一礼してから、宙に浮いている手紙を受け取った。手紙は赤い封蝋で閉じられており、そこに残された蝋印の跡は単純でありながら、今までこの世界のどこでも見たことのない意匠だった。
最後にもう一度玉座の方にいる女神の方を見上げ、はやる心を抑えて静かに封を開け、三つ折りの手紙を取り出す。そこに書かれた文章を読み進めるうちに、訝しげだった天使の表情は驚きへと変わっていく。自分の目が信じられずに何度も何度も読み返し、やがてあるがままに受け止めざるを得ない段階まで来てしまった。そのときの彼は、途方に暮れた顔で女神を見上げるしかなかった。
『おやおや。さては熱烈なファンレターでも届きましたか?』
女神はそう言って笑っていた。いつもの、悪戯の種明かしをしたくてうずうずしている時の笑顔とは違い、従ってこの手紙は女神が作ったものではなく、正真正銘の招待状であるようだった。本物の、こことは異なる世界から届いた招待状。
『それで、何と書いてあったのですか?』
待ちきれなくなったのだろう、光の女神は自ら玉座の置かれた段を下り、ピットのいる場所から一段上のところまでやってきた。そんな主を前にしても、天使はなかなか言い出すことができなかった。新しい世界への期待と招待されたことへの誇らしさはあったが、その一方でここを一旦離れなくてはならないこと、そして女神を一人で置いていくことに不安を覚えていたのだ。しかし女神の期待を込めた眼差しには勝てず、ついにピットは手紙の中身を白状する。
帰ってきた反応は意外なものだった。女神は顔をぱっと輝かせ、それなら備えが必要でしょうと、三種の神器のうちの鏡の盾と光の矢を渡してくれたのだった。ペガサスの翼は地上で闘う時には不便でしょうからと、新たに奇跡まで授けてくれた。
女神は自分のそばに仕えている親衛隊長を送り出すことを渋るどころか、むしろ我が事のように喜んでくれていた。その笑顔を見るうちにピットの心にあった懸念は消えていった。確かにメデューサの一件も落ち着き、地上界にも天空界にも平和が戻っている。自分たち親衛隊の仕事も、女神の代わりに地上を巡って人民の声を集めたり、あるいは暇をもてあました女神の起こすちょっとした騒動を収めたりといったのどかなものばかり。後者についてはイカロスたちだけに任せるにはやや不安が残るが、手紙にもある通り、余程のことになればいつでも戻ってくることができる。
出発の日にも、女神はこう言ってくれていた。
『この休暇は私からのご褒美です。せっかくの旅行なのですから、羽を伸ばしてらっしゃい』
女神の上機嫌は、ピットを送り出した後もしばらく続いていた。というのも、ピットは『スマブラ』に着いてからも自分の故郷、つまりは女神と頻繁に連絡を取り合っており、時には奇跡を頼んで大空を飛び回ったりもしていた。しかし神様とはいえど女性の心は難しいもので、日に日に、奇跡を申請する際に小言を言われるようになり、条件をつけられ、しまいには気分が乗らないと断られるようになってしまった。
ここまでの顛末を語っているうちに思い出すものもあったのだろう、深いため息をついたピットを、レッドは気遣うように見守っていた。
「どうしてそんなことになったんだろう。ピットくんは何か心当たりがあるの?」
「……うん、何となくだけど」
一息挟んだことで幾分落ち着いた顔になっていた。その顔で苦笑いし、そして彼は身を起こす。
「僕がエンジェランドにいるパルテナ様と連絡を取るのは向こうの様子を聞くためでもあったけど、一番大きかったのは、パルテナ様がこっちの世界のことに興味津々だったからなんだよね」
いくら神の力があると言っても、管轄外の世界を思うままにできるほどではないらしく、普段の女神ができることは奇跡を使って試合の一部始終を観客視点で見ることくらいだという。ピットが切り札を使う際にはより近くで鮮明に見られるが、見ることのできるこちらの様子はごく一瞬だけであり、また大乱闘の最中という限定された場面でしかない。女神が特に知りたがったのは人としての――と言うには疑問のある姿をした者も含め――ファイターであり、彼らが共に過ごす中で起こる出来事や事件、ハプニングといった人間くさいエピソードであった。
「最初のうちはほぼ毎日と言っても良いくらい呼び出しが来てさ。それでもほら、ここって何もない日が珍しいくらいじゃない? 来たばかりの僕にとっても目新しいことばかりだったし、報告することには困らなかったんだ」
そこまでを話したところで、ピットは前に座る少年が頬笑ましくこちらを見ていることに気づいた。どうしたのかと聞くと、彼はこう答える。
「パルテナ様って、なんだかお母さんみたいだなって思って」
「お母さん?! ……うーん、まぁ……そうだなぁ。確かに、僕が選ばれたことや僕から聞いた他の世界の話を他の神様に自慢してるとか、そういうところはそれっぽいかもしれないけど……」
自分で意識したことは無かったのだが、ここに来て『母親』を持つ様々なファイターから家族が何であるかを聞いていたピットには今から考えると色々と思い当たる節があり、思わず考え込まされてしまった。
「でも、ちょっと違うところもあるんだよね……。お母さんって人はさ、別に子供が活躍していても本気でうらやましがったり、意地になって張り合ったりしないじゃない?」
レッドはマサラタウンにいる母親のことを思い浮かべ、頷きを返す。
「でもパルテナ様は、僕の話を聞いているうちにこっちに来たくなっちゃったみたいで。最初は、もしも自分が選ばれたならこんな技を使うって言いながら張り切って披露するくらいだったんだけど、他のみんなは誰からどういう風に招待状を貰ったのかとか、それぞれどういう活躍をしたのが選ばれる決め手になったのかとか、しまいにはマスターさんに話をつけてくれないかって言い出して」
「それって……神様なのに向こうを離れて大丈夫なの?」
レッドが尋ねると、ピットは意気込んで大きく頷いた。
「そう、それなんだ。僕も気になったのは。いくら人間のことが気に入っているとはいえ、きっとパルテナ様がこっちに来たらもう夢中になっちゃって、エンジェランドのことも向こうの人たちのことも忘れちゃうだろうから」
世界のありとあらゆるものを見守り、恵みを与える神々。彼らの相性や利害、友好関係からなる複雑なバランスがあってこそ、ピットの住む故郷の世界は保たれている。ましてや光の女神が寵愛する人間はどの生き物よりも高い知能を持ち、そのために欲深くもある。女神が加護を与え、時に矯めなければ彼らはあっという間に世界のバランスを崩し、他の神々から罰を受けることになるだろう。
「僕はそれが心配で、でも言ったら言ったでへそ曲げちゃいそうで……。結局、ごまかしているうちに機嫌を損ねちゃったみたいなんだ。話をしてもどこかそっけなかったり、前ほど嬉しそうじゃなかったり。そのくせ、文句を言ってきたりするし」
「文句って、たとえばどんな?」
「そうだなぁ……『空を飛べるのも私のおかげなのに、あなたは感謝の気持ちが足りない』とかかな。そんなことを事あるごとに言ってくるんだよ」
「うーん、なんて言うか、神様らしいね」
「そうかなぁ? 僕としてはもうちょっと、ほんとにちょっとだけで良いから威厳をもってほしいんだけど……。それでなんだか話をするのも気まずくて、通信をするのも2日おきとか、3日おきとか、だんだん間が空くようになっちゃって。そういえばもう、しばらく話してないなぁ……」
浮かない顔で空を見上げ、嘆息する天使。昼の空はどこまでも明るく、淡い青が頭の上をずっと覆っていた。しばらく辺りには風の音しかなく、ふと気がついてレッドの様子を見ると彼は心持ちうつむいて難しい顔をしていた。おそらく何と声を掛けたものかと悩んでいるのだろう。ピットは申し訳なさそうに笑いかけ、謝った。
「ごめん、こんなこと言われても困っちゃうよね」
「そんなこと無いよ。僕だって、あまり力になれなくて」
慌ててレッドがそう言ったので、ピットは首を横に振った。
「ううん、十分すぎるくらいだよ。こうして空まで連れてきてくれて、それだけじゃなく話も聞いてもらってさ。だいぶ気持ちが楽になったんだよ」
笑いかけたその顔には、午前中にレッドが空の上から見たあの暗さは無く、いつもの明るい表情が戻っているように思えた。
「それなら良いけど……」
彼の置かれた状況と、今の彼が見せている表情に隔たりを感じて戸惑っていたレッドは、はっと現実に引き戻された。こちらのリュックを支えとして掴みつつ、後ろでピットが膝立ちになったのだ。バランスを取るためにリザードンが何度かゆったりと大きく羽ばたき、再び安定飛行に戻る。
「ピットくん、どうしたの? もしかして――」
「大丈夫だよ。ほら、言ったでしょ。僕は滑空することならできるんだって」
そう言いながらリュックを掴んだ手を離し、純白の翼を大きく広げる。その仕草を見たレッドは急いでリザードンに短く指示を出す。応じてリザードンが炎の灯った尾を心持ち下げた上を、翼で風を掴んだ天使が通り抜けていった。レッドは急いでパートナーに旋回させ、彼の姿を目で追う。それは下ではなく、こちらよりも上にあった。
「ね、言ったとおりでしょ?」
彼は無事だった。ゆったりとした衣装をはためかせ、白い翼を巧みに操ってなめらかな軌跡を描き、こちらの近くへと戻ってきた。そのまま危なげなくこちらの横につき、併走して飛び始める。
「僕が空の上まで連れて行ってって言ったのはこのためだったんだ。滑空するには風が必要なんだけど、自分の力だけじゃ楽しめるほど十分な高さに上がれないから。だから、もう大丈夫」
翼を大きく羽ばたかせ、ふわりと昇っていく。少し遠くなった彼が、その分声を張り上げて言った。
「ありがとう! もしかしたらまた頼んじゃうかもしれないけど、後で何かお礼させてね!」
少しずつ遠ざかっていく彼に、こちらも頑張って大声を出し、伝えようとする。
「お礼なんて良いよ。それより、気をつけてね! あと、女神さんと仲直りできるように、僕も願ってるから!」
だいぶ小さくなってしまった彼の姿が、両手を口の横にあてて何かを言ってよこし、大きく手を振った。その声は風に紛れてしまっていたが、ありがとうと言っていたようだった。
地上ではいよいよ気温が上がり、城でも多くのファイターが快適な室内にこもるか、見た目がどんな環境であろうと闘う側には影響しないステージに上がるかして暑さをしのいでいた。晴れているにもかかわらず湿度がにわかに増してきたことも手伝い、外に出ようとする者はほとんどいない。しかし、今し方食堂から駆け出てきたファイターはどうやらその例外になろうとしているようだった。
口をつけていないアイスクリームを頭の上で持ち、廊下を急いで走っていくのはプププランドのカービィである。指の見あたらない丸い手でどう掴んでいるものか、アイスクリームは彼がどんなに急カーブを切ろうと、階段を猛スピードで降りようと、きれいな螺旋を描いたアイスがコーンから落ちる様子は無かった。やがて彼は城の1階、応接間や大広間にもつながる厳かで見晴らしの良い廊下にたどり着き、張り切ってラストスパートを掛けようとした。
そこで彼の目が、いつの間にか行く手に現れていた影を見いだす。待合室の方角へとつながる横道から出てきた、同じくらいの背丈のひと。仮面の隙間からこれ以上ないほどに呆れかえった視線を向けているのは、同じ星から選ばれた友人であった。彼、メタナイトは一言も言っていないが、その表情は明らかにこう語っていた。『お前はどこまで食い意地が張っているんだ』と。
だが、そんなことは露程も気にせず、カービィは瞬時に次のことを考えた。急ブレーキを掛ければさすがに両手に持ったアイスは放り出されてしまうし、かといって横に避けて通り抜けると、右手の背の高い窓から差し込む日差しでアイスが溶けてしまうだろう。食べ物を最優先に考えて出された結論を、彼は次の瞬間には行動に移していた。
軽く踏み切り、走り幅跳びの要領でスピードを殺さずに友達を飛び越え、浮き上がったピークで手に持ったアイスクリームを口に放り込む。そして、両手を広げて着地。
ポーズまで完璧に決まった彼の後ろで、ため息が聞こえた。
「それで、今度は誰の食べ物を無断で持ってきたんだ?」
振り返った先にいるたったひとりの観客は、選手のこの離れ技には大して心を打たれなかったらしい。カービィは口をとがらせて反論する。
「とったんじゃないよ、ひどいなぁ。レッドくんがみんなにって買ってきてくれたんだもん」
「すると、欲張って他人の分まで取ってきたのか」
「まさかぁ、そんなことしないよ。まちがえて食べちゃったことはあるけど」
「では何故廊下を走っていたのだ」
どちらかといえば詰問するというよりも、こちらができの悪い嘘をついているのではと疑っている口調だった。
「だからぁ、だれかのオヤツをとったんじゃないよ。だって、おいかけられてないのに走るわけないでしょ?」
剣士は相手が走ってきた方角を見やり、しぶしぶ認める。
「……それもそうだな」
「ぼくが急いでたのはね、えーっと、アイテム取りに行こうとしてたからだよ」
笑顔でそう言ったカービィ。数秒の間があってメタナイトが、何かの聞き間違いかという顔で振り向いた。
城の地階には、実際の試合で使われるものと同様のアイテムが収められた保管庫がある。スマートボムやボム兵のようなおよそ宿泊施設の地下に置くべきでないものまで揃っているのだが、今まで事故らしい事故が起きたことはない。というのも、城がステージと同じく恐ろしく頑丈であること、また城から持ち出そうとすれば、どんなに巧妙に隠しても門番に見つかってしまうこと、そして何よりも重要なことであるが、ファイターにかなりの割合で『ヒーロー』がいることが、取り返しの付かない事故が起こることを防いでいるのだ。
持ち出し自由である代わりに、種類と目的によっては責任を持って扱わなくてはならないようなアイテムも収納された保管庫。食べ物はまた別の場所にあり、およそカービィに用事のあるところとは思えなかった。それでもメタナイトが理由を考えようとした矢先、相手がぱっと顔を輝かせてこう言った。
「あっ、そうだ。ちょうどいいや。きみの船かしてくれない?」
「突然何を言い出すのかと思えば……ポップスターからここまでどれくらい掛かると思っているんだ」
「え? ハルバードならこっちで飛んでるじゃない」
「あれはレプリカだ。もし本物なら、私の部下が四六時中操舵させられていることになるだろう」
「なんだぁ張りぼてだったのか」
心底がっかりしたという顔でカービィがため息をつく。
「まったくお前は……もう少し言葉を選べ」
こちらの世界に来たことで彼との遭遇回数も増え、こういう言葉にいちいち真面目に取り合っていても疲れるだけだということを剣士は学んでいた。
「じゃあさ、船はいいからぼくに付いてきて!」
「先程からどうしたんだ。まず何があったのか、あるいは何をしたいのかぐらい話せ」
口調は相変わらず素っ気なかったが、彼の目はいつしか油断無く相手に向けられていた。カービィが食べ物以外のことでこれほどに一途な言動を見せることは滅多にない。果たして、彼は大きく頷くとこう言った。
「ピットくんとレッドくんが空にさんぽにいっちゃったの。だから助けにいくの!」
「空に……?」
思わずつぶやいて、さっと窓を振り仰ぐ。彼らの背丈を遥かに超える背丈の窓。外の景色は柱と格子に区切られ、まるでステンドグラスのようになってそこに広がっていた。空模様をよく見るために、彼は目をすがめて数歩前へと歩み出る。手入れされた城の庭園、芝生と植え込みの緑を明るく照らし上げ、空には相変わらずまばゆいばかりの青色が広がっている。白く大きな雲が次々と風に流され、音もなく窓枠を渡り歩いていた。傍目から見れば上天気にしか見えない空模様だったが、それを見上げる2人の顔は決してのどかなものではなかった。
「ね?」
隣にやってきて窓から差し込む日の光を浴びながら、カービィも同じ空を眺めて言う。
「……確かにこれはまずいな。だが、お前がそこまでしてやる必要はあるのか? 彼らも飛ぶことに関して初心者ではあるまい。自分たちで対処できるはずだ」
「でも、まだもどってきてないんだ。まだ上にいるんだよ。このままじゃ危ないよ!」
食い下がってみたものの、友人は再び小手をかざして空を見上げ、黙って難しい顔をするばかりだった。
「もー。カイショウナシなんだからぁ!」
待ちきれなくなったカービィはむくれてしまい、返事も待たずに再び走り出した。ピンク色の背中があっという間に廊下の向こうへと縮まっていき、地階へと続く階段に吸い込まれるようにして消える。
廊下は再び静まりかえった。落ち着いた色の市松模様の床に立ち、窓枠が落とす格子状の影の側にいたメタナイトはしばらくしてきびすを返し、トレーニングルームに向かうために廊下を歩き始めた。
ふと、彼は顔を上げる。外から聞こえてきたのは、長く尾を引く金属音。頂点に向けて高まっていったかと思うと、衝撃波が軽く窓ガラスをゆさぶり、何かとてつもなく素早いものが空へと打ち上がっていった。眩しさのために目を細め、それが消えていったあたりを彼は長い間見つめていたが、やがて心を決める。
廊下の高い天井に足音を反響させて剣士が走り去り、後には見る者のいなくなった青空が残される。夏の風物詩とも言える、もくもくとした質感を持つ綿雲。窓のこちら側で行われたやりとりも知らず、雲は悠々と空を流れていく。
風に乗り、それぞれの高さを行く雲を横目に眺めながらピットは空を駆け抜けていた。髪の毛や翼の羽、そして広げた腕に心地よい風が当たり、爽快な音を立てて流れていく。どちらへ行くのも思うがまま、自分で翼を傾ければその方角に、うまく風を掴めばふわりと舞い上がることもできる。こうして上昇と下降をうまく繰り返せばいつまでも飛んでいることができそうだ。
久しぶりの滑空飛行で感覚を忘れていないかと心配していたが、一旦飛び始めるとその心配も消えてしまった。次第に大胆になってきて、雲の群れを追い越したり、すれすれを飛ぶように輪郭をなぞったり、その背を指先でかすめて毛羽立ちを作ったり、果てには大きく宙返りをしてまともに雲に飛び込んでしまったり。霧吹きを掛けられたようになった頭を振り、ピットは笑っていた。
思い返せば、本当に一人で自由気ままに飛び回るのはこれが初めてだった。ペガサスの翼でメデューサに挑んだときは当然飛ぶのを楽しむどころではなかったし、こちらに来てからの空の散歩でも、奇跡を与えた見返りとして女神と雑談をしつつの飛行だった。
ひとしきり空に笑い声を響かせ、笑い疲れた彼は安定した気流まで昇り、しばらく何も考えずに水平飛行を続けた。眼下を雲が流れるたびに、真っ白な雲の上に翼を広げた自分の影が黒く映り込む。何にも縛られることのない自由をぼんやりと感じつつ、彼は半ば無意識のうちに翼をゆっくりと羽ばたかせる。今なら、思うままにどこへでも行けそうな気分だった。行く手には雲の山々が連なり、それがだんだんと小さくなりながら水平線の向こうまで続いている。ひたすらに青と白で描かれた、地上のどことも似つかない風景を見ているうちにふと天使の顔にひらめきが走った。試しに翼を軽く動かしてみて、辺りを吹く風の速度を測る。
「よし……」
このまま風に乗ってどこまで行けるのか、試してみよう。ピットは期待に顔を輝かせ、雲海から高く浮かび上がった。次第に風の流れが様相を変え、大河のような気流に出たことが分かった。その目に見えない流れを翼で感じ取り、うまく身を滑り込ませる。途端にぐんと力強い風が吹き、彼は一瞬バランスを取り損ねて翼をばたつかせた。
こうなれば頭で考えるよりも感覚に任せた方が良い。勘で翼を傾けているうちにうまく掴めた感触があったかと思うと、身体がふわりと軽くなり、辺りの雲が滑るように飛び去っていった。あまりの速度に身を縮ませていた彼は最初はおずおずと、そして思い切って手足を伸ばし、風に対する抵抗が掛からないようにする。耳元で鳴る風音はますます騒がしくなり、力を込めて広げた翼にはいつにないほどの緊張がみなぎっていく。あまりのスリルに顔をこわばらせ気味ではあったが、それでも彼は笑顔を見せていた。
雲の切れ間から見える地上にはいつの間にか陸地が無くなり、日光を照り返す海原が辺り一面に広がっていた。それを見下ろしていたピットの顔に、遅れて徐々に訝しげな表情が浮かぶ。『スマッシュブラザーズ』の世界は中心の街とスタジアムの他、何もない狭い世界だという話を思い出したのだ。『何もない』というのは単に人々にとって用のある場所が無い、ということなのか、それとも本当に何もなく、その先には世界の果てや奈落、虚無が待ち受けているのか。慌てて顔を上げたが、行く手の空は今までと変わらず一様な青さを見せている。その青さの向こう側を見透かそうと目をこらしつつ、彼はさらに考えた。あるいは、別の世界につながっているのかもしれない。ここはあらゆる世界の交差点とも言われているから、陸地の道だけでなく、空の見えない道が他のどこかの空に通じていてもおかしくはない。そこまでを考えたところで、ピットの翼にためらいが表れた。このまま行くべきか、それともおとなしく戻るべきか。
そのとき、風が表情を変えた。
翼ごと身体が横にゆらりと持っていかれ、ほとんど直感的に左を向いた彼はそこに音もなく現れていた巨体を目にし、驚愕する。
見上げるほどの高さまで続く白い壁。その巨大な雲の塔は見ているうちにも生き物めいた動きで伸び上がっていたが、ピットにはその様子を悠長に眺めている暇はなかった。壁がもくもくと蠢きながら恐ろしい速度で膨らんでくる――いや、こちらが引き寄せられているのだ。急いで方向転換し、翼の傾きを変えて風の流れを遡ろうとした。しかし焦っていたせいか、それとも間が悪かったのか、振り向いて立て直そうとした矢先に突風が吹き付け、まだ開いたままの翼がそれに捕らえられてしまった。思わずもがくように手を動かしたが、空の上では掴まることのできるものも、すがることのできる人もいない。ひとたまりもなく吹き飛ばされ、背中から叩きつけられるような感覚があったのを最後に、あれだけ視界を占めていた青空は灰色のもやの中へと閉ざされてしまった。
白一色で描かれた山や谷、丘陵地帯を通り抜けて飛んでいく、橙色の竜。雲の切れ間に流れるのは川ではなく、水よりも透明な空気を透かして望む地上の風景だ。風を切り、雲が織りなす雄大で複雑な『地形』を望む爽快な飛行のはずなのだが、竜の肩にまたがった少年は帽子の下で浮かない顔をしていた。パートナーの方もそんな主人の様子が気になるのか、時折ちらちらと視線を向け、少年の顔を伺っている。
レッドが気に掛けているのは、結局良い言葉が見つからないまま向こうに気を遣わせてしまい、未消化のまま別れてしまったことだ。
彼が本当はどうにかして女神と仲直りしたいと願っていることは分かっていた。しかし、それでもレッドは掛けるべき言葉を探し、考えあぐねてしまった。彼の世界にも人智を越えた力を持つポケモンはいるのだが、それにしたってポケモンであることには変わりがない。言い伝えではあるものの、ひとたび主人として認められればトレーナーの指示にも素直に従うと言われている。要するに、レッドの故郷にいる人々はピットの世界にいるような類の『神』といった存在について真剣に考えたこともなく、レッドもまた同様で、あのときのピットにいったいどういう助言や励ましを与えたものかと悩んでしまったのだ。これが父母や兄弟姉妹ならば想像も付くのだが、この場合、安易に当てはめてしまうとどこかで女神の不興を買い、ピットの故郷が混乱に陥ってしまうかもしれない。そんなことをぐるぐると考えているうちに、向こうの方からそれを取り下げられてしまったというわけだ。せめて何か慰めるような言葉でも掛けてやれば良かったかもしれない。
思い返しているうちに情けなくなってしまい、大きくため息をつく。
「僕っていつもこうだよなぁ……」
ぼやいたトレーナーをじっと見つめていたリザードンは、一つ鳴き声を上げ、主人の気を引いた。顔を上げたレッドに、彼は首を少し後ろの方へと曲げてみせる。戻ろう、と言っているのだ。
「……だめだよ、リザードン。ピットくんは今、ひとりになりたいんだ。僕が行ったら邪魔になるよ」
それから視線を前に向け、青い空と、ゆっくりと過ぎ去っていく岩山のような雲の塊を見るともなしに眺めながら彼は続ける。
「誰だって、そっとしておいてほしい時はあるんだ。ピットくんの気持ち、全部じゃないけど分かる気がする。僕だって……本当は自分の力じゃないのに、みんなから凄いトレーナーだって言われて、騒がれてさ。行く先々でバトルを挑まれたり、変に気を遣われたり。窮屈で仕方なかったからチャンピオンを辞めたんだけど、それでも周りの人の目は変わらなかった。特別な何かに選ばれるっていうのは、それぐらい大きなことなんだよ。人間って……複雑で面倒なんだ」
しっかりとした質感を持った雲が織りなす、高低差のある山脈。それを眺めるレッドの瞳は、故郷にある別の風景を見いだしていた。
シロガネ山。ポケモンリーグが置かれた場所からさらに奥地へと進んだところにあり、恐ろしく強いポケモンが生息しているために特別な許可を得た者しか立ち入ることのできない聖地。カントー地方に蔓延っていたロケット団を退け、そればかりかこの地方のチャンピオンにまで登りつめたレッドは、天才少年として瞬く間に名が知れ渡り、リーグにはひっきりなしに挑戦者が訪れるようになっていた。大半は手前の四天王に破れ、泣く泣く帰っていったが、時にはレッドの元までたどり着くトレーナーもいた。彼らが自分に向けてくる視線は、旅の途中で勝負を挑んできたどのトレーナーとも違っていた。彼らは誰一人として自分を見ていなかった。1人の、等身大の少年としてではなく、もっと何か大きな存在として。そんな熱に浮かされたような目で見てきたのだ。それが続くうちに、レッドは自分が疲れ果てていることに気づいた。あれだけ楽しんでいたポケモン勝負も、今や挑戦者を退けるだけの単純な作業になってしまっていた。それを自覚し、彼は休暇を取ってリーグを離れ、しばらくの間シロガネ山で修行を続けていた。パートナーを回復させるため、あるいは自分が休息を取るためにポケモンセンターに戻る時以外は人と会わず、野生のポケモンとバトルを続ける日々。時にはリザードンを含む手持ちのポケモンと共に、シロガネ山を取り巻く荒削りな自然を眺め、物思いに耽ることもあった。
遠い眼差しで雲海を眺めていたレッドは、リザードンの鳴き声で我に返る。見ると、彼は再び首を振って後ろを示す。主人の言わんとしていることに同意しつつも、『今はそれどころではない』と伝えているようだ。彼がやけに切羽詰まった様子でこちらを見つめてくることに疑問を覚えつつも、レッドはこう言ってリザードンをなだめようとする。
「だけど、ピットくんは大丈夫だって。リザードンも見たでしょ、ちゃんと飛べてたじゃない」
しかし、パートナーはそんな主人の顔をじっと見ていたかと思うと、不意に前に向き直り、翼を大きくはためかせつつ身体をゆっくりと傾けていった。見る間に辺りで雲の山脈がぐるりと向きを変える。彼のしようとしていることは分かったが、その理由が分からずにレッドは戸惑ってパートナーの名を呼ぶ。
「リザードン?」
ちらりと振り向いた彼は、旅立ちの日、ヒトカゲとして出会った時から変わらない青緑色の瞳をこちらに向けた。彼は鳴き声一つ立てなかったが、トレーナーであるレッドには彼が信頼してくれと言っているのが分かった。そこでレッドも頷き、心を決めてパートナーの首元にしっかりと掴まった。
リザードンが背中の筋肉に力を込めたかと思うと、今までとは異なるペースで力強く羽ばたき始める。今まで通り過ぎてきた雲の景色があっという間に過ぎ去っていき、真っ白な山々をくぐり抜けてついに現れたそれを見たレッドは思わず息を呑んだ。
「……いつの間に」
その先は続かなかった。トレーナーとパートナーとが唖然として見つめる先、そこにあったのは巨大な入道雲だった。まだ距離があるにも関わらずその幅は視野の半分を占め、高さに至っては太陽に届かんばかりに頭を伸ばし、手前に従えた雲の丘陵に黒々と影を落としながらなおも成長していく。色が白くなければ雲とは思えず、それはほとんど岩壁のようになって行く手に立ちはだかっていた。先に衝撃から立ち直ったリザードンが焦りもあらわに辺りを見渡しはじめ、レッドも今すべきことに気がついた。眼下の雲には切れ間もなく、重く水分を溜め込んで底の方から暗くなりはじめたものまで見える。どんなに目をこらしても友人の茶色い髪、金色の装飾はどこにも見あたらず、最後の望みを掛けてレッドはポケギア――腕時計にも似た彼の世界の通信機器を開く。登録してあるピット宛の番号を選び、呼び出したが、いつまで経っても呼び出し中の音が聞こえるだけで返事はかえってこない。通話を切り、彼は口を強く結んで行く手にそびえる積乱雲を見つめた。
上か、下か。まず考えたのは、彼が今どこにいるのか。焦燥を抑えようとしつつ頭を働かせる少年の見る前で、巨獣のような雲は不気味なほどの速度で伸び上がっていく。
――上に向かって風が吹いているとすれば……
もしも翼を広げたままなら、強風に絡め取られて高空に吹き飛ばされているだろう。だがとっさの判断で身体を縮こまらせていたなら事情は違ってくる。焦りが募る一方で無情にも思考は空回りするばかり。レッドは首を横に振り、パートナーに判断を任せることにした。同じく翼を持つ彼ならば、答えを知っているはずだ。そんな少年の心の声を聞き取ったかのようにリザードンが振り返り、一つの思いをその表情に込めて主人の意志を問う。今度は迷うことなく、レッドは頷きを返した。それだけでリザードンには伝わっていた。彼は首をぐっと下げ、応じてレッドも帽子のつばを掴んで姿勢を低くする。少年をその肩に乗せて大きく翼を打ち振るうと、リザードンは雲の塔めがけて真っ直ぐに向かっていった。
橙色の背が予兆に震え、間もなく1人と1匹は真下からぶつかるような強風を食らう。翼を少し傾けて勢いを逃しつつ、リザードンが食いしばった口の端から炎を吹いた。高度が急に変わり、耳の辺りから挟み込まれるような嫌な感覚がして音が遠くなる。同時に頭上がふっと陰りはじめたかと思うとバラバラと音を立てて氷の粒が降ってきた。見ると、懸命に広げられた橙色の翼にまともに雹がぶつかっているのだ。
レッドはパートナーの名前を、ほとんど叫ぶようにして呼ぶ。彼は振り返らずに、大丈夫だと言うようにもう一度大きく翼を羽ばたかせた。もう、彼が飛べる限界高度は超えているはずだった。リザードンはいつの間にか荒い息をつき、吐息と共に炎が漏れ出ていた。その背に乗るレッドも当然平気な顔ではいられず、なるべく体力を消費しないように姿勢を低くしつつも顔だけは前を向かせ、わずかな兆しも逃すまいとしていた。だがそんな彼らの苦労も知らずに雲は密度を増していき、辺りはいよいよ本当の暗雲に閉ざされていく。自分の帽子や腕、そして仲間の身体に打ち付ける雹の音を聞いていたレッドは悔しげに歯を食いしばり、もう一度彼の名前を呼んだ。
何が最善の手かを考え、命じるのがトレーナーの役目。時には引き際を判断するのもその一つだ。レッドは具体的に何をしろとも言わなかったが、長く連れ添ったリザードンには声の調子だけで通じていた。役に立てなかったことを詫びるように鳴き、翼を縮めて身体を傾かせる。レッドもそれに合わせてそちらに体重を掛けた。途端に揚力が失われ、彼らは暗い灰色のもやに包まれて落下していく。地上に引きずり込まれるような錯覚におそわれたが、レッドはリザードンの首に片腕を乗せ、それを支えにしてぐっとこらえた。間もなく雲の底を抜け、雹が冷たい雨粒に変わる。リザードンは不平一つ言わず、それでも雨雲のある辺りを抜けようと急いで翼を広げた。
レッドは後ろを振り向く。はるか下の町並み、海沿いの地区にぽかりと黒い影を落とし、だだっ広い暗雲の底から恐ろしいほど静かに雨が降り注いでいた。向こう側を見透かすことができないほどの豪雨であるにも関わらず、風が吹きすさぶ音も、雨粒が降り注ぐ音も聞こえない。ぶつかるもののない上空だから当たり前ではあるのだが、それがレッドの抱える無力感をより一層強めていた。それはどうやら彼のパートナーも同じようで、橙色の竜は辺りの様子が良く見えるように雨雲をなぞって旋回しつつも、悔しげに顔をしかめていた。
翼の皮膜をはためかせ、うつろに響く風音。聞くともなしにそれを聞いていたレッドはふと顔を上げた。かすかに、別の音が聞こえてきたのだ。リザードンも同じ方角を向いて訝しげな顔をしていた。
そうしている間にもその音はだんだんと大きくなっていき、彼方の空からまばゆい七色の光を引き連れて、何かが凄まじい速さで接近してきた。
乱気流にかき回され、上も下もとうに分からない。ただ、自分がどこまでも運ばれていく感覚だけがあった。
正確な判断ができる状況ではなかった。雲の中でぶつかるものも無いはずなのにピットは無我夢中で腕と足を縮こまらせ、それどころか翼で我が身を守るように包み込もうとしていた。確かにこの激しい気流の中で翼を開けば怪我どころでは済まないだろう――普通ならば。普段の生活では意識しにくいことではあるが、今のピットは他のファイターと同じく、現実と虚構をまたいだような存在になっている。大きなダメージを受けた際に怪我をすることも痛みを感じることもなく、ただ銅像のような姿、フィギュアになるというのもその性質の一つで、今の状況でも怖い思いをする時間を長引かせるくらいならば諦めて成り行きに任せた方が楽ではある。だが、これまでの生涯で培ってきた危機回避の感覚がもちろんそれを許すはずもなく、彼にはただ必死になって身を丸めることしか思いつかなかった。
滑空で空を飛ぶことができるとは言えど、人並みの体重はある。翼を閉じて身体を小さくまとめれば揚力は働かず、従って今は地上に向けて真っ逆さまに落下しているはずだ。恐怖と混乱でほとんど狭められてしまった頭の中で、ピットは懸命になって思考に意識を振り向けようとしていた。積乱雲の中で荒れ狂う風を抜ければ、この服のはためきも止まる。そうしたら翼を広げてゆっくりと降りていけば良い。何度も自分にそう言い聞かせたが、不安は収まる気配を見せなかった。
雨粒を吸った服の重みを支えきれなかったら? 雲が思ったよりも地表の近くまで降りていて、滑空で速度を抑える余裕が無くなっていたら? それ以前に、これほど不安定な天候に放り込まれて雷に打たれずに済むのだろうか?
雲の中は恐ろしいほど静かだった。風で自分の服や髪がはためく音の他は何も聞こえず、その音さえも霧の中に踏み込んだ時のようにくぐもってしまう。それでも薄目を開けると形の捉えられない暗闇が目まぐるしく蠢き、不意に紫色の火花が散って不定形の影を視界に焼き付ける。ピットは今になって自分が電気を引きつけやすい金属類を身につけていることを思い出したが、だからといってそれを放り出そうという気にもならなかった。これは餞別にと渡された大切な神器。いくら命の危機とは言えど、それを捨ててしまうわけにはいかない。
そこまでを考えた時に、彼の脳裏にある人の面影がよみがえった。天上の光でつややかにきらめく緑色の長髪。輝きに包まれた一対の翼。こちらの自慢話も相談事も頷きながら聞いてくれた、おおらかで優しい笑顔。そして自分がファイターとして選ばれたと伝えた時に見せてくれた、純粋な喜びの表情。
引き結んだ口を自分でも説明の付かない感情に歪ませて、彼は肩口に付けた宝飾に震える手を伸ばし、それに触れようとする。
どこか遠くで笑い声が反響し、手を差し伸べられたような感覚を覚えたのもつかの間、緊張が続いていた彼の意識はそこでふっと遠のいていった。
どうやら眠ってしまっていたらしい。目を開けるが、そこには誰もいない。ただ真っ暗な天井が見えるばかり。天井には所々穴が開いているのだろうか、目が慣れてくるとぽつぽつと砂をまいたように光が散っているのが分かってきた。まるで星空のように――
そこまでを考えたところで、ピットは驚いて跳ね起きた。ぐらりと身体が半回転し、ようやく彼は自分の置かれた状況を認識する。眼下に大きく弧を描いて横たわるのは、青く輝く大気をまとった大地。雲さえも、ここからでは薄っぺらく引き延ばされた白い綿となって、見えない層を隔てて地表をゆるやかに覆っている。ぽかんと口を開けたままゆっくりと視線を上に向けると、そこには頭上に向けて藍色から黒へと移り変わっていく星空が広がっていた。
「こんなところにいたのか」
不意に声を掛けられ驚いて振り向くと、ちょうどその方角から翼をはためかせて一頭身の剣士がやってくるところだった。彼がなぜこんなところにいるのかも気になったが、呆然としたまま口をついて出たのはこんな言葉だった。
「あの……ここは、宇宙ですか?」
それに対し彼は律儀に上を見上げ、少し考えてから答えた。
「いや、その入り口にようやく着いたという辺りだろう」
こちらもややあって間の抜けた質問をしてしまったことに気づき、また顔見知りと出会えたことからくる安堵がようやく心に追いついて、ピットは照れくさそうに笑う。
「宇宙だったらこんなにのんびりしていられませんよね、空気ないんだし……」
最後の言葉を聞いた剣士が少しの間を置いて訝しげに視線を向けたのだが、ピットはそれに気づかないまま次の言葉を継ぐ。
「……ということはもしかして、メタナイトさん、この上に飛んでいったことあるんですか?」
「一度だけだがな。この世界がどこまで続いているのかを確かめようとしたのだ」
そう答えたところで、仮面の剣士は相手がちょっと意外そうな顔をしてこちらを見ていることに気がついた。
「……驚くことか? 誰しも多かれ少なかれ好奇心を持っているものだと思ったが」
「それもそうですけど、なんで翼でそんな高さまで昇れるのかなって……」
「君もひとのことは言えまい」
静かにそう返され、指摘されたことの意味を理解するまでにたっぷり数秒かかった。背中に意識だけを向け、そこで初めて、自分の意図とは切り離された動作でゆっくりと翼が羽ばたいていることに気づいた。おそるおそる振り向くと、青い輝きに包まれた自分の翼が見えてくる。呆気にとられて翼をまじまじと見つめている彼に、こんな声が掛けられた。
「見あたらないと思っていたが、自力で嵐を抜けていたというわけか。考えたものだ。確かにこの高さまで昇ってしまえば風も弱い」
ここまで感心されてしまうと、誤解を解くのがかえって申し訳ないくらいだった。苦笑いしつつ、ピットは自分の翼を指さして言う。
「いや、僕の力じゃないんです。これ……」
それから『奇跡』についてかいつまんで話したが、彼が見せた反応はレッドに比べるとあっさりとしたものだった。おそらく彼とこちらとでは余りにも姿形がかけ離れており、自力で飛んでいようと他の何かの力を借りていようと、その事実は他の数多の疑問と同じ程度の驚きしかもたらさなかったようだ。
「そうだったのか。一つ勉強になった」
何を学んだのか分からないがそう言ったメタナイトに、天使は続いて遠慮がちにこう尋ねる。
「あの……さっき見あたらないって言ってましたけど、もしかして僕のことを探してたんですか?」
『皆さんで』という言葉は、さすがに恐ろしくて言えなかった。目の前にいるファイターは、乱闘に対する姿勢や覚悟で二分したうちの『本気』組に満場一致で入れられるような根っからの修行好きであり、そんな彼が乱闘やトレーニングをほうってこんなところに現れるということはつまり、彼までが駆り出されるような大規模な捜索が行われているということになる。
「それは向こうの方だ。私はまた彼が迷惑を掛けないか、見晴らしの良い場所まで昇って見張りに来た。それだけのことだ」
礼を言われるのは慣れていないのだろう。感謝される前に手を打ったのが分かるような、そっけない口調だった。またそれと共に、彼の言葉から思ったほどの騒ぎになっていないことが分かった。安心と申し訳ない気持ちが入り交じった笑顔を見せ、ピットは頭を下げる。
「……すいません。心配を掛けてしまって」
「礼を言うなら彼に言いたまえ」
さりげなくそう答えて、それから彼は何かに気づいて眼下の雲海に視線を向けた。
「噂をすれば――」
雨の気配を持って蠢く灰色の雲。薄く引き延ばされた雲海の中からしぶとく伸び上がり、こちらまで達するかというほどに成長した積乱雲の中に目映い光が灯ったかと思うと、目の前が真っ白に弾けた。雷と錯覚するほどの眩しさに思わず驚きの声を上げ、顔を覆ったピットの耳に聞き慣れた声が届いた。
「よかったぁ、ぶじだったんだね!」
目を開けると、そこにいたのは明るい笑顔を見せるカービィ。彼は七色に輝く翼をもった白いボディの乗り物にちょこんと座っており、名前は思い出せないものの、ピットはそれが乱闘のアイテムとして使われているものだと気づいた。
「これでふたりとも見つかったよ。ピットくんもだいじょうぶそうだね」
「2人……そうだ、レッドくんは? まさか……まだあの辺りに残ってたの?」
ピットがにわかに表情を張り詰めさせて尋ねた向こうで、相手はきょとんと眼を瞬かせ、続いて笑顔で頷く。
「あのおおきなくもが雨をふらせちゃうまで、なかに入ってさがしてたんだって。くもが雨になってふってきたからいそいで出てきて、で、ぼくを見つけたんだ。ピットくんもいっしょにおちちゃったかもって言ってたから、レッドくんはくもの下、ぼくはてわけして上をさがしてたんだ」
「2人とも……レッドくんも、リザードンも無事?」
「うん!」
それを聞いて、ピットは安堵のため息をついた。彼に大変な苦労を掛けてしまったことは後で謝らねばならないが、まず今は何よりも、この悪天候で怪我をしていなかったのが何よりだった。
「それじゃぼく、レッドくんにもつたえてくるから。またあとでね!」
そう言って手を振るが早いか、カービィはマシンに方向転換をさせるとその場で力を溜めはじめる。甲高く空気を吸い込むような音がして、次第に大きくなっていく。
「そうだな……ピット、とりあえず耳をふさいでおけ」
見ると、後ろで剣士が耳――見あたらないが、おそらくそれがある辺り――を両手で押さえていた。仮面から覗く目が、若干あきらめの色を浮かべているように思えたのは気のせいだっただろうか。言われるままに耳をふさいだすぐ傍でほとんど衝撃のような何かが駆け抜け、光の爆発を残してマシンが去っていった。見つめる先で光線は積乱雲にまともに突っ込み、それが刺激になったのか上空に向けて一筋、ひょろひょろとした電光が駆け上がっていく。
手でも防ぎきれなかった爆音に耳鳴りを覚えつつも、ピットは首を振って苦笑いした。
「あー……何て言うか、あなたが心配する理由も分かりますね……」
「彼も悪気は無いのだ」
そう言ってから、剣士はこう付け加えた。
「とはいえ、ここでは野放しにしておくのも憚られる。せめて同郷の者が面倒を見なければと思っているのだが、大王は止めるどころか張り合う始末だからな……」
放っておけばいくらでも愚痴は出てきそうな様子だったが、彼はかぶりを振り、気持ちを切り替える。
「ピット。帰り道は分かるか」
「帰り道、ですか……?」
ピットは目を瞬き、聞き返した。ここから地上までは遮るものもない。道と言われても、せいぜい雲の隙間をくぐり抜けていくことくらいしか想像が付かなかった。そんなこちらの様子を見て、相手は何かを察したようだった。何も言わず、なるほど、というように頷き、眼下の蒼穹に視線を向ける。
「あの……どうかしましたか」
おずおずと尋ねると、彼はこちらを振り返らずに答えた。
「この天気で空に昇ろうとするのは、何か理由があると思っていたのだ。人間は時に不思議な競技をする。高波に板を浮かべて乗ろうとしたり、不安定な乗り物で荒れ地を走ったり。……だが、君たちは単純に知らなかったというだけだったのだな」
空と大地が織りなす複雑な模様を眺め、まるでそこから何かを読み取ろうとしているかのような視線。
「……もしかして、天気が崩れるの分かってたんですか」
「行動する領域が違えば、注意を向ける対象も変わるものだ。しかし、今日の空は私も確信を持てなかった」
つまり、真っ先に走り出したのはカービィの方だったのだろう。いつも食べ物に昼寝にと己の望むまま、天真爛漫に振る舞っている彼がこんな風に行動することもあるものかと、ピットは内心でひとり感心していた。
積乱雲を上から遠回りに避けつつ降りていき、少し下に筋雲がまばらに浮かぶところまで連れてきてもらったところでピットは剣士と別れた。この状態では翼を自分で動かしていないと知ってかえって心配になったらしく、本当に1人で大丈夫なのかと二回ほど念を押されてしまった。何とか彼を説得して先に帰ってもらい、その丸い影が十分に遠ざかったところでピットは覚悟を決め、一つ深呼吸をする。
無限の星を抱く宇宙への入り口と、青く輝く大気に包まれた地上の世界。その狭間に浮かんで天使は辺りを見渡し、呼びかけた。
「パルテナ様、そこにいるんですよね!」
思いの外返事はすぐに返ってきた。それも、ピットのすぐ傍で。
「はいはい。そんなに大声出さなくても聞こえていますよ」
振り返ると、ゆらめく後光をその背にたたえた巨大な女神の幻影が待ち構えていた。白を基調とした美麗な衣を金色の装飾で飾ったその姿は、腰から下が雲海の下に消え、その一方で若緑色の長髪をたなびかせる頭はこちらのはるか上にあり、悠々とピットを見おろしていた。『慈しみを与える光の女神』にしてはいささか大きすぎ、どちらかと言えば星を股に掛けて宇宙を跋扈する『怪獣』を連想させるスケールだった。そんな巨大なお化けがすぐ後ろに現れて、平気な顔をしていられる訳がない。顔を引きつらせて驚いているこちらを見て、女神は可笑しそうに微笑んでいる。どうやら確信犯だったらしい。
「相変わらず良い反応ですね。リアクション芸人でも目指しているんですか?」
「い……いつからそこにいたんですか!」
「あら。私はずっとここにいたのですよ」
「だってさっき上から見たときはどこにも……」
すると、杖を持たない方の手を胸元に添え、厳かな声音で女神が答える。
「信じる者にだけ、私の姿は見えるのです」
「え、これってそういうシステムだったんですか?」
危うく信じかけたところでピットは気がつく。
「……って、だったら僕が切り札使ってる時に現れるあれは何なんですか。ばっちりカメラに映ってますし、観客にも見えてますよ!」
やや間があって、それがあったかというように女神はぽんと手を打った。
「そういうことだったのですね。ずいぶん多くの視線を感じると思っていましたが、まさか私の威光がこんな異境の地にまで行き渡っているとは……。ああ、私はなんて罪深い女神なのでしょう」
額に手の甲をあて、芝居がかった仕草で顔を仰向かせる。
「もう……つっこみませんからね」
「久しぶりに出会ったというのに、つれないですね」
「僕は今、ものすごく疲れてるんですよ……」
「それはそうでしょうね。呼ばれて様子を見に行ったら積乱雲に飛び込んでいるんですから。新手の罠に掛かったのかと思いましたよ」
「天候操るとかどんな罠ですか! 普通に自然現象ですよ!」
「その自然現象を見抜けなかったんですよね」
にこにこと良い笑顔で、こちらの痛いところを的確に突いてくる。
「う……面目ないです」
「声が小さいですよ」
「……助けてくださりありがとうございます、パルテナ様」
まだどこか渋々といった様子ではあったが、天使はそう言って頭を下げる。
「素直でよろしい。素直が一番成長しますよ」
鷹揚に微笑みながら頷き、それから女神はこう続けた。
「それにしてもしばらく連絡が無いと思っていたらこんなことになっていたなんて。『びっくりしたなぁ、もう』ですよ。あなたのことですから、通信機を犬に食べられてしまったとか、ナスビにされて電話もできないとか、死神と追いかけっこに興じているとか、あるいはこの大都会で迷子になっちゃったとか、そんなところだと思ってました」
「ひどいなぁ、僕そんなドジっこじゃないですよ」
「でも、迷子は当たらずとも遠からずだったでしょう?」
「ま、まぁそうですけど……」
「あまりにも音沙汰がないので、迷子の店内放送をしてもらおうと思ってたのですよ」
「店内って、そんなスケールじゃないですよねここ!」
ピットのつっこみも聞かず、むしろそれを面白がるように女神はどんどん脱線していく。
「はい、それでは予行練習をしてみましょうか。ぼく、お名前は?」
「え……あの、ピットですけど」
「ピットくんね。どこから来たの? おうちはどこ?」
「エンジェランドです」
「お年はいくつかな?」
「……それ僕に聞きます?」
「分からないのね。それじゃあ、ママかパパのお名前は言えるかな?」
「え……いやあのパパとかママとかも……」
言っているうちにレッドとの会話が脳裏をかすめ、ピットは思わずそこで固まってしまった。幸いなことにパルテナは迷子放送の審査で忙しく、彼のその様子には気づかなかったようだ。
「うーん、まあ珍しい名前ですから他人に間違われることは無いとは思いますが。おまけをつけて60点というところでしょうか。いつ迷子になっても良いように、今度練習しておきましょうね」
女神の上機嫌が続いているうちにと、ピットは顔を伺いながら遠慮がちに尋ねた。
「あのー、パルテナ様? 助けてもらったのは非常に有り難いんですけど、そろそろ下ろしてもらっても良いですか……?」
まさかこれほど話が長引くとは思っていなかったピットは、少し焦りを見せていた。女神が顕現してから少なからぬ時間が経っており、このままでは下界で待っているレッドやカービィたちが心配して戻ってくるかもしれない。
「ああ、そういえばそうでしたね。私もすっかり忘れていましたが、そういえばあなたに知らせることがあったのですよ」
「またエンジェランドで事件を……事件が起きたわけじゃないですよね」
すんでのところで言い換えるピット。
「重要な神託ですよ。聞きたくないのですか?」
笑顔が何とも意味ありげだった。どことなく嫌な予感を覚えつつ、女神の顔を振り仰ぐピット。彼女はとびきりの笑顔を輝かせながら、こう告げた。
「その『奇跡』は、あと1分で切れます」
「は……」
口をぽかんと開ける天使。唖然の表情が、じわじわと驚愕に移り変わっていく。
「……え、えぇーっ?!」
時間制限があること自体が初耳だった。しかし言われてみれば、乱闘中に使っている短縮版の奇跡は、確かにある程度飛ぶと身体が動かなくなり、問答無用で落下する。それがここで起こるとすると、非常にまずいのは確かだった。全く身動きできないままこの途方もない高さを落下することをちらりと考え、恐ろしくなってピットは首をぶんぶんと振る。
時間を消費した理由の一部が自分にあるにも関わらず、そんな素振りは露程も見せない女神。むしろ何故かうきうきしながらこんなことを言っていた。
「ほら。阻止限界点を越えるまでに帰りますよ」
「この場合むしろ落ちなきゃいけないでしょ! 落下を阻止してどうするんですか」
「大丈夫、あなたならできます」
「おだてないでくださいよ! 第一、こんな高さからどうやって帰るんですか、しかも1分以内に!」
「あら。親衛隊長ともあろう人がそんなことで良いのかしら? こういうときは神や仏や、それに類する名前のついた超常の存在に奇跡を願うのが定石でしょう。心配しなくても、まだ私の『飛翔の奇跡』は続いているのですよ」
そう言って女神は杖を掲げて見せた。杖の先に浮かぶ青い宝玉は、ピットの翼と同じ色の光を淡くまとっていた。そのまま優雅な仕草で杖を振るうと、それに操られた翼がピットを眼下の雲海へと向き直らせる。
「さあ、あなたも一緒に。無限の彼方へ――」
「む、無限?! いやどう見たって『有限』ですよねこれ、地上っていうゴールが見えてますよねパルテナ様。それともまさか地面を貫通する気じゃぁ――」
その先は言葉にならなかった。視界の端、すっかり乗り気になってしまった女神がかけ声とともに勢いよく杖を振り下ろしたかと思うと全てが流れるようにぼやけ、途端に凄まじい強風が頬を、腹を、全身を一気に打ちのめす。口は叫び声を上げる形に開いていたが、次から次へと吹き上げる風に負けて音は全く出てこない。いや、出ているのかもしれないが、それにも増して風の音がひどかった。地上と比べれば十分に空気の薄い場所にいるはずである。それでもこれほどまでに風が厳しいということは、単に重力に任せて落下しているのではなく、積極的に推進し、『飛び込んでいる』ということなのだろう。
髪の毛も服も盛大に暴れ、ベルトが背中やら脇腹を打ちすえる。たまらず腕で顔を覆っていると、肩口の宝玉から声が聞こえてきた。
「縮こまってどうするのです。風に逆らわず、姿勢をまっすぐになさい」
「そんなこと言っても……!」
ほとんど垂直に近い角度で落ちている今、それは彼方の地上を見つめて逆立ちせよと言っているようなものだった。普段飛び慣れているとは言ったものの、さすがにあらゆる雲が下に見える高さから見たことはない。ピットは半ばやけになって、目をつぶり、どうにでもなれと心の中で叫ぶ。吹き荒れる風の中で足を、続いて腕を伸ばし、全身を投げ込むようにして身体を倒した。
その途端、ふっと魂のようなものが後ろに置いて行かれるような感触があって、風の音がぴたりと止んだ。おそるおそる目を開けてみた直後、天使はその行動を後悔することになる。
深い青から淡い水色へと移り変わっていく青空、空に浮かぶ雲、地上に張り付いたパッチワークのような街並み。全てが気持ち悪いほどなめらかに、際限なく拡大している最中だった。そして視野の中心、直角よりもやや斜めというくらいの直滑降で降りていく先、そこに待ち構えていたのは――
「なんでよりによってこのコースを選ぶんですか!」
「リベンジです。さあピット、あの積乱雲に目にもの見せてやりなさい!」
「積乱雲に目なんかありませんよ。目があるのは台風でしょ?! せっかく安全なルートを見つけてもらったのに!」
これほどの緊急事態でもつっこむ癖が抜けないのはさすがであった。頭を抱えようにも腕がぴくりとも動かず、ただ絶望的な表情もあらわに凝視する向こうには、いよいよ大気の境目に到達し、かなとこ雲と呼ぶにふさわしい姿となった因縁の積乱雲が、その堂々たる巨体を見せていた。
「ふふふ……まだ気づきませんか」
その声に横を振り仰ぎ、そこでピットは初めて、髪を騒がせる風が吹いていないことに気がついた。身体を限りなく平らにし、翼だけを広げた自分の周りにどうやら見えない層ができており、それで風を受け流しているらしい。
ピットとまったく同じ速さで、まるで視界に張り付いたようになって降りてくる女神。雲間に見え隠れしながらもしたり顔で笑って見せ、彼女はこう言った。
「確かに私には、そちらの世界に干渉する権限がありません。しかし元々こちらにいたあなたにであれば、力を与えることができるのですよ。今はあなたの周りだけ空気抵抗を無くしてみたところです。これでさらに速度が上がるはずですよ」
そんな女神の顔を訝しげに見つめていたピットは、ややあってこう尋ねる。
「……今更聞くのもなんですけど、なんでそんなに僕を飛ばせようとするんです? まぁ痛いのは嫌ですけど、あのとき積乱雲から落ちていてもフィギュアになるくらいで、後でマスターさんか誰かが助けに来てくれたでしょうし……」
「そんな残念なピットくんは見たくありませんよ」
雲の合間からいつになく真剣な口調が聞こえて、天使は改めて女神の顔に注意を向ける。神々しく、厳格な表情を見せていた彼女は、そのままほほえみを返した。
「手段はどうあれ、あなたは飛べるのです。それを証明するために、何としてでも奇跡が尽きる前に地上に降りてくださいね」
「パルテナ様……」
「それに、ここでのあなたは私の有り様を語る唯一の使者なのですから。間違っても『天空界の女神は自分が選ばれなくてスネてる』とか、『機嫌を損ねて親衛隊の隊長に八つ当たりしてる』なんておかしな噂を立てないように。ですから、このまま自分の翼で降りてみせるのです。分かりましたね?」
「ぜ、善処します……」
まるでレッドとの会話を聞かれていたかのような言葉だった。こちらが一方的に連絡を絶ちきったかのようにされている点が気に掛かったが、翼の手綱とこちらの命運を握られている今、細かいところをつついている場合ではない。ピットは行く手の積乱雲、灰色の横腹に意識を振り向ける。
「でも、いくら速度を上げてもあの乱気流は……」
と言いかけたところで、天使ははたと気がついた。
「なるほど、エンジェランドにあったものに加護を与えられるなら、僕の剣であの雲を一刀両断、あるいは弓矢で真っ二つにもできるってことですね!」
「それはさぞかし格好いいでしょうねぇ」
「……え?」
数秒の遅れをもって、ピットは聞き返す。女神はにっこりと笑って人差し指を立てて見せた。
「あなたの装備品に狙って奇跡を掛けるには、ここからだとちょっと距離がありすぎるのですよ。すなわち――」
後光を頂き、緑色の髪を柔らかく輝かせて女神はさりげなく杖を上げてみせる。嫌な既視感があった。
「まさか……」
軽く顔を引きつらせるピットの見る前で、自分を包む風の鎧が徐々に青い輝きを帯び始める。
「そう、そのまさかです」
空中で居住まいを正したかと思うと、彼女は立つ場所も無いはずなのに難なく、すっと胸を張って直立する。エンジェランドの女神は、自らの親衛隊を率いる天使、彼の活躍した試合を対戦相手に至るまで実につぶさに見ていた。だからこそ、ここまで堂に入った物真似ができたのだろう。積乱雲に目標を据え、空いた方の手で帽子を直すような素振りをしたかと思うと、輝く杖で勢いよく指し示した。
「ピット、たいあたり!」
「この写真を撮れた人も、まさかそんなことがあったなんて思わないだろうね」
そう笑顔で返し、レッドは折りたたまれた新聞を手渡した。ピットはそれを受け取り、自分の記事に目をやる。朝の白い日差しに照らされ、はためく第一面に載っているのはほとんどが試合での出来事。スタジアムでもない街の様子が写っている自分の写真は少し目立っているように思えた。
あらゆる道が交差するが、実質的な広さはさほどでもないこの世界においてニュースといえばもっぱらファイターに関することばかり。したがって『スマッシュブラザーズ』で刷られている新聞は日々の試合で見られた名場面や珍プレー、スタジアム周辺の混雑予測、天気予報、交通機関の情報といったものが載せられた、ほとんど芸能誌のようなものであった。どこかの世界から一旗揚げようとやってきた人々が、小は個人的なメディアカメラマンから大は新聞社やテレビ局の支部までこの世界に集まり、それぞれに日々特ダネを捕まえようと苦心しているのだが、ファイターが滅多に人前に姿を見せないために、ほとんどのニュースはどこも似たり寄ったりの名場面集となっている。それが先日、堂々と街の上空にファイターが現れ、しかも勇士として選ばれるに値する力を遺憾なく発揮したのだから、これが撮り逃されるはずもなかった。
記事の頭にはひときわ大きな文字で『天界からの戦士 入道雲を退治す』とある。あの日のピットは、何とか奇跡が切れる前に戻ってこられたという安堵で頭がいっぱいになっており、疲れ果てていたこともあって、結局自分が飛び込まされた積乱雲があの後どうなったのかとはちらりとも考えに浮かばぬまま自室に戻り、そのままベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。疲れが取れてようやく夕方、部屋を出てリビングに降りてみると、件の夕刊を囲んで賑わう仲間たちに出くわしたというわけだ。
写真は、当の本人が訳も分からぬままに通り過ぎていった光景を克明に写しだしていた。街の上空に迫りつつあった暗雲。ひときわ大きく、不穏にそびえたつ積乱雲がちょうど中央から真っ二つに裂け、その間からあふれ出した神々しい光の中、翼をもった小さな影がぽつりと浮かんでいる。顔も分からないほど遠くから写されていたが、どのみちあの状況で凛々しい表情などできるはずもなかったのだからむしろ幸いだった。記事の文章によれば、天使に両断された雲はその後、千々にちぎれて霧散し、広い地域に申し訳程度の小雨を降らせて消えてしまったという。この活躍で中止にならずに済んだ試合件数は云々――
「本当に良かったの?」
ピットは傍らから聞こえた友達の声で我に返った。知らぬ間に空を見上げていた視線を横に戻し、ピットは笑って答える。
「ん? うん。まあね」
その笑顔には少しの曇りもなかった。
新聞の一件には、まだ続きがあった。幸運なカメラマンが撮ったその写真には、左右に分かたれた入道雲の向こう側、そこに荘厳たる後光を輝かせて浮かぶ女神の様子もはっきりと写っていた。飛べるだけじゃなく、天気まで変えられるなんてと感心しきりの仲間たちに、ピットはその誤解が定着しないうちに、女神の姿を指し示して本当のことを伝えたのだ。
「いつかは言わなきゃいけないと思ってたんだ。すっかりこっちに来てから時間も経っちゃって、言うタイミングが無くってさ」
「試合だと飛べるからね。そう思われちゃうのも無理ないかも」
空を眺めながら、レッドはそう言った。傍らでは彼の手持ち3匹がじゃれ合ったり、辺りの風景を物珍しげに見ていたり、思い思いの行動をしている。乱闘中では見られないのびのびとした様子に頬笑み、それからピットも頭上の青い空に顔を向けた。
彼らは再び、あの渡り廊下の屋上にいるのだった。ただし居る場所は副塔の陰ではなく、長く渡された屋根のちょうど真ん中である。日の光がまともに当たるので長くはいられないが、ここであれば万が一ずり落ちてしまってもすぐ下のバルコニーに落ちるだけで済む。
街に近づいていた雨雲が吹き散らされたせいか、ここ数日は上天気が続いていた。この日の青空も見事なもので、空の果てから地平の向こうまで切れ間なく広がる透き通った青を背景に、真っ白な羊雲が朝日に照らされてゆったりと漂っていく。手をついた屋根瓦はまだ夜の冷気をたたえてひんやりと冷たいが、空の向こうで昇り始めた太陽が全身を良いあんばいに温めてくれていた。リザードンがゼニガメの相手をしている横で、蕾を背負ったポケモン、フシギソウも気持ちよさそうに目を閉じて日光を浴びている。
「城にこんな場所があったなんて知らなかったよ。ここは静かで良いね」
「そうでしょ? 登ってるとこ見つかっちゃうと危ないけど」
「見つかったら怒られるかな?」
「怒られるんじゃないかなぁ。それかネタになっちゃうかも」
「でも、大人の人も色んな場所探検してると思うよ。この前も……いつだったかなぁ、廊下を歩いてたら上からスネークさんが落ちてきたんだ」
「落ちてきた?」
「うん。びっくりして、思わず上見たんだけど天井には穴も何も開いてなくってさ。きっと、裏道通ろうとしてワープしちゃったんだろうね。この城、色々と不思議なところあるから」
「それで、スネークさんどうしたの?」
「そのまま着地して、何事も無かったみたいに立ち上がって。驚かせたなって謝られたよ。何をしてたんですかって聞きたかったけど……なんだか怖くて聞けなかった」
「聞いたら良かったのに。あの人、見た目は恐いかもしれないけど結構気さくだよ」
「うん、そうなんだろうなぁとは思うんだけど……」
そう言って彼はちょっと照れくさそうに笑った。本来なら、このくらいの見た目であればこれが普通の反応なのだろう。ある程度の年齢を重ね、大人と自分の間にある時と経験の差が幼い頃よりもはっきりと意識できるようになり、どこか警戒にも似た緊張を覚えてしまうのかもしれない。ここで周りから自分が『年の割に社交的だ』と言われることを思い出しながらピットがそう考えていると、耳元で鈴の音が鳴った。
「あ、ちょっとごめん。また戻ってくるから」
一言断ってから立ち上がり、ピットは屋根伝いに少し離れた場所まで移動していった。会話の声で邪魔にならないように気を遣ったらしい。レッドも何の気なしにそちらの方に目をやる。ピットの前にぼんやりと浮かんでいる女神という人の声は聞こえなかったが、友人の方は途切れ途切れに聞こえていた。忙しいのにお願いしてすみません、とか、今日はちょっとそこまでと答え、そこで無茶なことを言われたのか、失笑している様子も分かった。
「え? そんな高くまで飛ばなくて良いですよ! ……この前ので空気抵抗の減らし方が分かったって、それは良かったですけど、はい、今日は遠慮します。みんなを置いていくわけにはいかないですし。……ええ、そうです。僕とレッドくんとで、順番に空まで連れて行く予定で……あ、もしあれでしたら一度だけでも良いです。パルテナ様も忙しいでしょうし」
その声を少し遠くから聞きながら、レッドもつられて笑っていた。頭上でも笑うような鼻息が聞こえ、見上げるとリザードンも同じ方角を見つめていた。
「仲直りしたみたいだね」
そう言うと、リザードンは同意するようにのどの奥で唸った。
友達から頬笑ましい視線を向けられていることには気づかず、ピットは女神との通信を続けていた。
「そうそう、この前やっと水鏡が完成したのですよ」
「水鏡? 一体何に使うんですか」
きょとんと聞き返すピット。女神はそれに対し含み笑いしたかと思うと、やや大げさな仕草で傍らを示した。それに合わせたかのように、女神の横に台座に支えられた水盆が浮かび上がる。
「こちら、ただの鏡ではありません。なんとこの水鏡、はるか彼方の風景まで映し出すことができるのです!」
その言葉の通り、水の表面にはくっきりとこちらの様子が映し出されていた。落ち着いた灰色の屋根に立ち、ぽかんと口を開けた自分が円形の水越しにこちらを見つめている。
「しかもこのようにピンチ操作すれば、拡大縮小も自由自在!」
耳慣れない単語と共に、女神の指がつまんだ形となって水の表面に近づく。そのまますっと指を開くと、水鏡に映った映像がぐいっと拡大された。
「これであなたも、どんなに遠く離れたところでもピンポイントで、奇跡を授けることができます。画面の前のみなさん、こんなチャンスは滅多にありませんよ。さあ、今すぐお電話を!」
「そんなの欲しいの神様くらいじゃないですか」
言ってから、ピットははたと気がつく。
「こっちが映ってるということは、ここに持ってくればエンジェランドが映るってことですか?」
「さすがはピットですね。今はまだ試作段階で見ることだけしかできないのですが、ゆくゆくは先程言った通り、『スマッシュブラザーズ』の世界にいながらも遠隔でエンジェランドを見守り、加護を与えられるようにするつもりです」
これが欲しいと決めたら譲らないこの熱意、さすがは神といったところだろう。呆れを通り越してむしろ感心してしまった。
「まだ諦めてなかったんですか……」
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
「それはそうでしょうけど、でも神様がファイターに選ばれたなんて聞いたことありませんよ」
「前例の無いことは理由になりません。むしろ、そこが狙い目なのです」
と、自信ありげに人差し指を立ててみせる女神。
「ファイターとして選出される条件、これは明かされていないんでしたよね。しかし、私はあなたたちの様子を見ているうちに一つの法則に気づきました。最初のうちは基本的にヒーローやアイドルくらいのものだったのが、今やその相棒やヒロインであったり、悪役やライバルであったりと――」
「選ばれる範囲が確実に広がっている、ということですね」
ピットはその先を受け取りつつ、内心で素直に驚いていた。こちらでの物事を根掘り葉掘り聞いてくるのはただ単に好奇心だと思っていたのだが、どうやらあれは歴とした情報収集だったらしい。それにしても、伝聞だけの情報からここまでを組み立てるのは並大抵のことではない。
「確かに私は救い出された経験はあるのですが、どうもヒロインと呼ぶにはかよわくないのですよね。しかし、この調子であれば次こそは私に声が掛かるはずです」
ピットはこちらにいる『ヒロイン』と思しき人の顔を思い浮かべつつ、欠けているのはかよわさでは無いのではと思っていたが、それは言わずにおいた。
「やけに自信たっぷりですね」
「私には良い考えがあるのですよ」
「何かすごくイヤな予感がするんですけど……」
「心配しなくても大丈夫。終わりよければ全て良しと言うでしょう?」
「予感が確信に変わりました」
「大丈夫ですって。私も神の端くれ、不正はしませんよ」
「その言葉信じても良いんですよね?」
そう言うと、女神はつんとそっぽを向いてしまった。
「あんまりしつこいと奇跡は無しですよ」
「そんな『オヤツは無し』みたいな感じで言わないでください」
振り回されて困り果てている天使。女神はそんな彼の様子を横目で見ていたが、やがて楽しそうに笑う。杖を持ち直し、優雅な仕草で振るって光を灯す。それと同時にピットの翼にも淡く青い輝きが宿った。
「こちらのことは私に任せて、久々の休暇なのですから楽しんでらっしゃい。とりあえず、イカロスの翼を外でも使えるようにしましたからね。時間制限が近づいたらその宝石が点滅するようになっています。それ以上のバックアップはできませんから、気をつけるのですよ」
にっこりと笑って手を振り、そのまま女神の幻は空の青色に溶け込んで消えてしまった。
ピットはそのまま、視界いっぱいに広がる夏の青空を眺めていた。そうしているうちにふと、彼はずいぶんと自分の気が楽になっていることに気がつく。それは、久々に空の散歩を堪能したためだけではないようだった。空を行く羊雲を数えながら少しの間だまって考えてみて、その理由に思い至った。結局のところ、ここに来てからの自分がコンプレックスだと思っていたのは『飛べないこと』では無かったのだ、と。翼があるからこそ先入観を持たれ、またそれが、実際に試合では飛べるように見えるためにより強固に定着してしまう。そうして自然にできあがってしまった『本当は飛べないのに、飛べると思われている状況』、それがプレッシャーになっていたのだ。人の良い性格が災いし、相手が素直にこちらの才能をほめてきたり、頼ってきたりするのを細々と訂正することもできず、しかしそれはそれで嘘をついているような気がしてならず、そういったもやもやとした葛藤で自分を縛り付けていたのかもしれない。
燦然と輝く夏の空。手をかざせば溶け込んでしまいそうなほどに青く澄み渡り、純白の雲がもくもくと力強ささえ感じる質感を帯びてゆっくりと流れていく。その輝きに臆することなく、天使は真正面から向き合っていた。そよ風に白い衣をはためかせ、その背では翼が輝きをまとって飛び立つ時を待っている。
そうして彼は青い瞳で空を眺めていたが、やがてきりをつけるように一つ深呼吸し、この世界で出来た新しい友人たちの元へと歩いて行った。