気まぐれ流れ星二次小説

翠玉色の竜 ~ 『第5代アリティア王の手記』より

かつて、二度にわたる苛烈な大戦が、この美しきアカネイア大陸を立て続けに襲った。

傷つきあった人々は互いの傷を癒し、手や肩を貸し合い、立ち上がって全てをかつてそうであったように、あるいはそれ以上に立派なものに建て直そうとしていた。その当時、私は5代目の王として国の内政や外交にせわしなく立ち回りつつも、影ながら、かつ比べようのない重要性をもつ責任を果たしていた。前触れもなしにどこからともなく現れる手紙、赤い封蝋に留められた嘆願状に応じて密かに国外へと出向いていたのだ。

この大陸に伝わる炎の紋章とは全く由来を異にする「十字の紋章」。アカネイア大陸をいくつ並べてもなお埋め尽くすことの出来ないこの世界、無数の国々に住まう文化も種族も異なる人々の英雄譚に、その印を携えた伝説の戦士たちは姿形を変えて幾度となく登場している。彼ら「紋章の戦士」たちは様々な国の言葉でささやかれ、讃えられ、尊敬されており、それはここアリティアでも例外ではなかった。

幼い頃、寝付けぬ夜に語り聞かされた紋章の戦士たちの、華々しく息を呑むような活躍。闇から現れる不死身の魔物に人々が脅かされるとき、彼らの助けを求める声に応じてどこからともなく颯爽と現れ、類い希なる武芸や知恵をもってこれを退治し封印しては、何処かへと去ってゆく。権力も富も求めず、ただひたすらに世のため人のために戦う清く正しい聖人たち。年を経るにつれて知恵を付けた幼い私は、彼らのその余りにも現実離れした冒険譚に疑問を差し挟むようになっていったが、そのたびに乳母はこう言って諭したものだ。「紋章の戦士様は本当にいらっしゃるのです。今わたくしがお話した戦士様のお話は確かに昔の事ですが、こうしている間にも当世の戦士様が人知れず、魔物と戦い、これを封じておられるのですよ」と。

月日が経ち、やがて少年と呼べるほどの年齢になった頃、私は自分の考えを改めることになった。父に連れられて社交の場に少しずつ顔を出すようになると、紋章の戦士に対して敬虔な思いを抱いているのは乳母だけではなく周囲の臣民も同様であることを知り、また実際に臣民たちの間で密やかな熱意を持って噂される彼らの活躍を聞いて、おそらく私はそれまで抱いていた子供らしい疑問を徐々に捨て去っていったのだろう。いつしか私は、周りの皆と同じように戦士の存在を心から信じ、誰よりも強く誰よりも賢い彼らに憧れ、少しでも彼らに近づこうと剣の鍛錬や勉学に打ち込むようになっていた。教師たちから建国の祖である初代国王アンリの治世、そこから今に至るまでの歴史を教わったことをきっかけに、紋章の戦士の伝承、昔話ほどの教訓や誇張を含まず紋章の戦士をありのままに書き記した書物にも興味を持ち、城の古文書を持ち出しては空が白むまで読みふけったものだ。

多くの伝承で語られているように、戦士が選ばれる理由は人々のあずかり知らぬところにある。戦士を選び給う「大いなる手」のみぞ知る、とも言われる。だが仮に、私がそれほどまでに熱心だったから選ばれたのだとすれば、ただひたすらにいたたまれない気持ちである。

二度目の大戦が終わってまもなくのこと。遠い異国の地からはるばるいくつもの海と山を越え、この島国へと訪ねてきた当世の戦士が紋章を譲り渡したのは、大陸やこの国にひしめき並み居る勇士ではなく、この私であった。彼はお告げを受けたとしか語らなかった。アカネイアと呼ばれる大陸の一角に、次の戦士にふさわしい者がいると。

戦士とその主人を篤くもてなし、護衛を付けて送り出した後のことは今でもはっきりと覚えている。自室に戻った私はそれまで隠し持っていた十字の紋章を引き出し掌に乗せて、言い伝えや文書の挿絵でもない、現実の形と重みをもったそれをしばらく呆然と眺めていたものだ。

そこからの日々は一変した。政治に与える影響を鑑みて、私が選ばれた事は信頼の置けるごく親しい家臣にしか教えなかったので、私は年若い国王として国内の復興と視察に飛び回り、また外交関係を結んだ各国とも会談を行いつつ、時に、誰も私の顔を知らない遠く離れた土地で魔物と戦っていた。当時の私は忙しいとも思わず、むしろ進んであちこちに出向いていた。疲れを感じにくくなること、それも「戦士」の性質の一つではあるが、ようやく戦争をせずに済むという思いもあったのだろう。あるいは、単に若かったのか。

しかしその若さ故に、私は彼と出会うことができた。途方もなく広い世界で偶々同じ時代に生まれ、選ばれたもう一人の紋章の戦士と。

時は、アカネイア歴611年。英雄戦争終結から3年の月日が経ったある秋の日のことであった。

―――

きらめく硝子を細かく砕き、限りなく黒に近い紺色の、なめらかな絹布にちりばめたような夜空。幾筋か、宙に細長くたなびく雲は未明の空で僅かに色づきつつあった。

地上ではまだ鳥の声も聞こえず、しんと静まりかえった黒い森が見渡す限りに広がっている。ほとんどは平たい葉をつけた木ばかりで、北の方で見られるような針葉樹は少ない。

けものたちの眠りを妨げぬよう、森の木々よりも遥か上を滑るようにして一頭の天馬が飛んでいく。翼の先まで純白の毛並みを持つ高貴なたたずまいの天馬は、その背に二人の男女を乗せていた。これほどの高みにいるにも関わらず、後ろの人物は慣れた様子でフードを押さえ、夜空の名残を眺めている。

手前に座る騎手がふと振り返り、彼に声を掛けた。

「寒くはない?」

それを聞いて、黒いローブにその身をすっぽりと包んだ若い男は笑顔を返す。

「大丈夫だよ、シーダ。星空を見ていたんだ」

「まぁ! いつものことだけれど、頼もしいことね。これから魔物を退治しに行く方とは思えないわ」

「今回の相手は竜だという話だ。竜退治なら僕には自信があるからね」

「それに、あなたは紋章に選ばれているものね。二つの紋章に」

青い長髪を夜風になびかせて目を細め、肩越しに振り返ってそう言ってから、シーダはそこでふと真剣な眼差しを見せ、こう続けた。

「でも、どうか気をつけて。紋章の戦士が敗れたという話は伝わっていないけれど、だからといってあなたが向かうところ敵なしの戦士になったわけではないわ。無理だけはしないでね」

こちらも少し改まった表情で一つ頷き、男は彼女を安心させるように、目をそらさず真っ直ぐに答える。

「分かっているよ。僕には戦士としてだけじゃなく、やるべきことがある。待っている人もいる。そのためにも、僕は必ず戻ってくるから」

それに対し、シーダはただ案じる気持ちの混ざった複雑な笑みを見せて頷いた。内心の憂いを表に出さぬまま行く手に顔を向けたところで、彼女はふと行く手に見えてきたものに気がつく。

「あの明かり……きっとあれが目的地ね。方角は合ってる?」

「うん、間違いないよ」

後ろに座る青年は、風で飛ばされないようにしっかりと掴んで地図を広げ、手元の方位磁針と照らし合わせて言った。いつの間にか空は淡く紫色に染まりはじめ、明かり無しでも地図が読めるようになっていた。彼はそのまま、視線を地上へと向ける。行く手の地平からせり上がるようにゆっくりとこちらを出迎えたのは、どこか哀愁を覚えるぼんやりとした青紫に染まり、長く影をのばす山々。木々を茂らせたなだらかな斜面に沿って、その麓に広がる村が見えてきた。

平地でうっそうと茂っている森よりも少し高いところに、村人が住まう家や作業小屋、集会所が肩を寄せ合い、緩く円に収まっている。その外周を囲うのはただ一列の石垣。村の所有物はその外にも大小の円を散らしたように点在しており、果樹や畑が気ままに延び広がっていた。そこまでを観察した青年には、この村が比較的余裕のあるのどかな農村だというように映っていた。自然の中にぽつんと存在する、人の営みを感じさせる集落。見ているうちにも全てが朝焼けの色にゆっくりと、明るく染まっていく。

山裾には、森の縁をなぞりつつ市街地へと逸れていく街道があった。山村への交通は、そこから分かれる枝道が通り抜ける程度。それでも一応の門はあるようで、石垣と枝道が接したところに松明が焚かれているのだった。ペガサスは騎手の指示に応え、その枝道へとなめらかに降下していった。

通る者もいない明け方の田舎道。

何台とも知れぬ馬車がつけていった轍の残る土に降り立ち、土埃で靴が汚れるのもいとわず、シーダは青年を見送ろうとしていた。

「こんなに遠くで良いの?」

「構わないさ。竜は山奥の湖に出たって言うし、今のうちに山道に足を慣らしておかないと」

依然としてフードを被ったままではあったが、彼は明るい声で少し冗談めかして答える。その様子につられて姫も微笑む。彼女も今でこそごく軽い乗馬用の装備しか着けていないが、かつては武器を持ち鎧を着け、ここにいる青年とともに戦ったことがある。その頃、姫が上空から見守っていた彼は地上で様々な兵士を率い、彼らと肩を並べてアカネイアの大地を駆け回っていたものだ。

「……本当に、あの時のことが夢のよう。もう最後の戦いから3年も経ったのね。それなのにあなただけ戦士に選ばれて、また戦うことになってしまうなんて。神様も、あなたにはよほど目を掛けているのに違いないわ」

少し案じるように言った彼女を見つめ、青年はその気持ちを受け止めた上で優しく笑いかける。

「シーダ、そんなに心配そうな顔をしないでくれ。僕が失敗して帰ってきたことなんてあったかい?」

姫はこちらを見上げ、そして何も言わずに微笑んで、青い髪を揺らし首を横に振った。再び目を合わせたその表情には幾分か明るさが戻っていた。

「明後日の明け方、また迎えに来るわ」

「それまでには解決するよ。あまり長引くとうるさいからね……」

「誰が、とは言わないのね」

秘匿されたもう一つの紋章。その秘密を知る者の中で、この状況で思い浮かぶ者は一人しかいない。共通の顔を思い浮かべた二人は、顔を見合わせて笑う。その笑顔のままで、青年は一つ思い切りをつけるようにきびすを巡らせ、手を振った。

「それじゃあ、行ってくるよ。また2日後に、同じ場所でね」

相変わらずフードを目深に被り、前髪の辺りまで隠した彼があえてあっさりとした口調で言って歩き出そうとした時、若き姫は僅かな間ためらい、そして最後に呼び止める。

「マルス様……」

振り向いた彼に、シーダは優しい笑みを見せて言った。

「ご武運を」

青年は何も言わずに彼女を見つめていたが、やがてフードを取り去り、安心させるように頷いてみせる。

昇り始めた朝日に照らされ本来の色彩を取り戻したその髪の色は、姫と同じ、碧玉のように冴え渡る青色であった。

曙の光を背に浴び、行く手に長く伸びる自分の影と、その先に見えてきた村の遠景を見つめながら黙々と歩く。正体を隠すために羽織っていた黒いローブはすでに肩掛けの袋に収まっており、動きやすそうな軽装の鎧にマントという、いつもの出で立ちが現れていた。峠の通りやすい傾斜を縫い、ゆるく曲がりくねりながら昇っていく山道を踏みしめながら彼は行く手にある村を、そしてその周りの様子を観察しようとしていた。彼らは魔物によってどう苦しめられているのか、魔物は村からどのくらいの位置におり、あるいはどこに隠れているのか。戦いやすい場所までおびき寄せる必要があるのか。それを見定めようとしていた彼は、ふと背後から聞こえてきた音に気づいて立ち止まった。

木製の車軸がきしみ、大柄な蹄が土を一歩一歩踏みしめる。振り返った向こうにいたのはその音から想像したとおり、荷車を曳く馬であった。ただ一点、自分が見慣れている馬よりも大柄であったことだけが予想とは違っていた。足も太くやや短足気味で、速さよりも力強さが求められた品種であることが分かる。

毛色だけはごく普通の鹿毛色であるその馬は、道の幅をほとんど埋めてしまいそうなほどの荷車にたくさんの樽を乗せ、ぼさぼさのたてがみと長いまつげの下でどこか遠くを見つめながらぽくぽくと歩を進めてくる。

「おーい!」

こちらの大陸ではあまり見ないほどの大きさに気を取られていて、馬の横に人がいるのに気がつかなかった。思わず眼を瞬かせてそちらを見ると、ベストを着込んだ白髪交じりの村人がやけに興奮した様子で大きく手を振っているのだった。

「戦士さん! おまえさん、紋章の戦士さんでないか?」

マルスは肯定する返事を返し、相手に見えるよう、首元に掛けた十字の紋章を掲げて見せた。硬貨ほどの大きさのペンダント。金色に輝く表面に彫られたのは円に十字、戦士の証だ。それを見た村人はよく日焼けした顔をくしゃくしゃにして拝むような仕草をした。若き王は少し困ったような顔で笑う。どの土地に行っても、敬虔な人々はおおむね、紋章に対してこういう大げさな反応を返すのだ。

気を取り直し、村人にこう答える。

「見てのとおりです。竜が出たという手紙を受け取って来たのですが、あなたはそこの村の方ですか?」

「おお、そうです! わしらの言葉がしゃべれるんですな。よかったよかった……まぁ見かけない格好だもんで、これはてっきり外人さんかと思ってたとこで」

相手の言葉はやや訛っているが、聞き取ることはできる。そしてこちらの言葉も、向こうに伝わっている。これも大いなる手が戦士に授ける加護の一つだ。

「それにしても戦士さん、まさかこの山まで歩いて来たんで? 無茶をなさっちゃだめだ。おんぼろですが、どうかこの荷車で良ければ乗ってってくれ。ちょっとばかし揺れるが、歩くより速い」

馬はいつの間にかこちらの横にまでたどり着き、村人はこちらの返事も待たずにやってくると背中をぽんぽんたたいて急かし、荷車の後ろに座らせてしまった。荷車はいかにも古そうだったが、村人が言うほどには痛んでいなかった。

「良いんですか?」

「なぁに、大丈夫でさ。こいつはもっとたくさんの荷を積んで領主さんのとこまで行った馬で。このくらいの重さじゃびくともせんです」

そう答えた村人は徒歩なのに、荷車を曳く馬に負けぬ歩調で涼しい顔をして歩きはじめる。「遠くの国からこの山まで歩いて来た」と思われているようだが、本当は道のりのほとんどをペガサスで飛び越している。しかしそれを詳しく言えば言ったで面倒なことになりそうだった。今までに戦士の用件で回ってきた大陸では、翼を持つ馬が絶滅してしまったのか、そもそも生息していないのか、伝説上の生き物として扱われているところさえあったのだ。それに、せっかくの好意を無下にすることもないだろう。

石畳どころか砂利さえ敷かれておらず、むき出しの土が往来する荷馬車に掘り返されて凸凹になった田舎道。しかし馬が賢いのか、村人が上手く御しているのか、荷車は予想していたほどには揺れなかった。ずいぶん慎重に移動しているようにも思えたが、こちらを乗せてから速度を落とした様子もない。元からこの調子で進んできたのだろう。それだけ積み荷が大事なものだということか。そう考えながら、マルスは隣の樽に目をやる。丈夫そうな縄で胴のところを固定されたそれは、車が揺れるたびにのたのたと重い音を立てていた。

「ああ、そいつには水が入ってるんです」

こちらの様子に気づいたのか、村人は振り返ってそう言った。

「あの竜が精霊さまの湖に居座ってからっちゅうもの、井戸も川も水が涸れてしまって、こうして毎日汲みに降りねばならんのですよ」

「この樽……あなたが一人で?」

「いやいやまさか! もう少し若けりゃできたでしょうが、麓には親戚がいるんで、そこの若い衆にやってもらってます。しかしまぁ……」

そこで村人はため息を挟んだ。

「昨日は戦士さまが来たと聞いて、一目見ようと若い連中が村まで戻ってきたもんで。まったく自分の仕事もほっぽりだしてからに、怠け者ばかりで情けないもんだ。村長さまがびしっと叱って若い衆を帰したから良かったものの……お陰で昼に着いたのに水を汲み終えたのが昨日の夜。そこから出るのは危ないから町に泊まって、そんで結局往復が一日がかりになってしまったんでさ」

彼が初めに言った言葉。その意味を理解できるまでに少し時間があった。後半の言葉はほとんど聞こえておらず、荷車の縁を掴んで振り返るとマルスは意気込んだ様子で尋ねかける。

「僕の他にも、紋章の戦士が来ているんですか?」

「ええ、実はそうなんで。つい昨日のことですよ。こんな田舎に来てもらっただけでも有り難いっちゅうのに、まさかこうして2人まで来てくださるとは。いやはや。わしも生きているうちに本物の戦士さまに会えるとは思わなんだ」

「その人は、まだ村に?」

「村にはおりませんが、森に出ていると聞きましたな。竜が降りてこないように見張ってくださってるんでしょう」

それは良いことですね、と半ば上の空で返しながらマルスは姿勢を元に戻した。背後の樽にもたれかかり、空を見上げる。雲一つ無く晴れ渡った秋の空。それを見上げる彼の顔は隠しきれない期待に輝いていた。

さぞかし待ち焦がれていたのだろう。水の樽を積んで村に到着した荷馬車の音を聞きつけ、朝も早いというのにあちこちの家屋から村人が集まってきた。彼らの邪魔にならないよう、なるべく目立たないようにその場を離れようとしたのだが、馬を連れてきた初老の村人が集まった人々にわざわざ「戦士さまが来てくださった」と言って回ったものだから、たちまちのうちに彼らの興味の対象は水から逸れてしまった。腰の曲がったご老人から、やっと大人に混じって働き出した若者までが一堂に集い、尊敬と少なからずの畏怖をもって恭しく、そしてどこか恐る恐る距離を取りつつ、上気した瞳をこちらに向けてざわめく。

「あの『印』、確かに戦士さまだ!」

「勇ましいお姿。いったいどこからいらしたのかね」

「立派な鎧だ。領主さまのとこでも見たことが無い」

「ずいぶん派手な格好だね。あれは衛兵かね」

「まさか! 騎士さまに決まってる」

「あんな衛兵が守るとすれば、金銀でできたお城が要るだろうさ」

人数が集まったことでかえって遠慮が生まれてしまったのだろうか、彼らは胸の中で踊っているだろう疑問を直接こちらに投げかけることもなく、ああでもないこうでもないと互いに牽制しあい、本人を目の前にして自分たちの間だけで言葉を転がしているのだった。

戦士として選ばれるよりも昔から様々な町や村を訪ねてきたつもりだったが、ここまで大層な応対を受けたことはない。彼らの中で際限なく期待と想像が膨らんでいくのを、どこで止めるべきかと迷っていたところで向こうの方から助け船がやってきた。

「ほれ、皆の衆。そんなとこに突っ立って戦士さまを通せんぼするつもりかね」

その声に村人は我に返り、口をつぐんで後ろを見やった。人垣が左右に分かれ、向こうからやってきたのは老人と壮年の男性の二人組。声を掛けた方である老人は落ち着いた深緑を基調とした司祭の平服を着ており、眼鏡の下の目は可笑しそうに細められていた。もう一方は、こちらから目をそらさず、少し強ばった笑みを見せていた。大小に関わらず、責任を背負っている者の顔は一目見れば分かる。おそらく彼がこの村の長なのだろう。勉学か兵役のために一度村の外の世界に出ていたのだろうか、他の村人と比べると垢抜けた印象を受けた。人垣の前に出たところで老司祭は立ち止まり、その一歩前に壮年の男が出た。男はきびきびと会釈し、その仕草と同じくらい歯切れの良い口調でこう言った。

「戦士さま。遠路はるばる、このラルースの村までよくお越しくださいました。村の者一同、心より歓迎いたします」

朝餉の用意をしてくれるというので、できあがるまでの間に情報を集めがてら村を見て回ることにした。しかし相変わらず村の人々はこちらを遠巻きに見るばかりで近づこうとせず、声を掛けられるような雰囲気ではなかった。彼らの目にはまだ、尊敬と共に若干の盲目的な警戒があるように思えた。最初に出会った村人は、どうやら人並み外れて世話好きだっただけらしい。

「ほっほ。戦士さま、どうか気にせんでくだされ」

案内を申し出た老司祭は、マルスの表情から内心の思いを読み取ったかのようにそう言った。

「彼らも悪気はないのです。ちゃんと、あなた様が紋章の戦士であることは分かっている。ですが何しろ、ここは人が暮らす国と獣が暮らす自然の境界にある村。年に一人か二人、山越えをしようという酔狂な旅人くらいしか通りませんでな」

「確かに、この奥はほとんど高山地帯でしたね。でも、それにしては良く栄えていますよ」

そう言うと、老司祭は「おや」と言うように白い眉を上げてこちらを見上げた。

「なるほど、あなた様は良い目をお持ちのようですな。曇り無く上から下までを公平に見ておられる」

この言葉に対し、彼は慎重に振る舞った。内心の感情を表に出さないように努めつつ、肯定とも否定ともとれない笑みを返す。

おそらくこの司祭は、訛りの少なさからして元々はこの村の人ではなく、若かりし頃はそれなりに立派な都市にある教会に勤めていたこともあったのだろう。

騎士や貴族を実際にその目で見たことがあり、並の兵士や戦に生きる傭兵とはどこが異なるのかを知っている。立ち居振る舞いから身だしなみ、背負う責任、そして見えているものと見えないものの違いに至るまで。だが、こちらが王族だとまでは知られていないはずだ。何しろ今日の格好はごく質素な軽装の鎧であり、自国の騎士団に支給されているものとそう変わらない。式典の場に着ていくようなやたらに飾り立てられた装飾鎧ではなく、二度の大戦で使い慣れた実務的な防具なのだ。

そこまでの考えが目まぐるしく頭の中を巡った後に、ふとそれが取るに足らない心配であることに気がついて彼は苦笑した。選ばれたあの日から、戦士である間は正体を悟られるまいと心に固く誓ったのだが、そのせいでどうも神経質になっているようだ。だが落ち着いて考えてみれば、広い海といくつもの陸地を越え、遮るもののない空を一晩掛けてようやくたどり着くような別天地で、自分の正体を知られたところで何になるだろう。伝聞にしか聞いたことのない大陸、初めて耳にする名の村。であれば、向こうもアカネイアの動乱や、アリティアに最近即位した若き王のことなど知らないだろうし、知ったところでその情報をどうしようとも思わないだろう。

声を掛けられて、そこでマルスは我に返った。

「どうぞ。散らかっておりますが、お入りください」

老司祭が手で示したのは教会の入り口。扉は開け放たれたままになっており、朝の日差しが平石を敷かれた玄関に差し込んでいた。司祭と共に教会の中に入ると、乾燥した穀物と藁、そしてどこか青さを感じる爽やかな香りが鼻をついた。どこかの部屋が村の倉庫として使われているらしい。確かにここであれば、余程の悪人でもなければ盗みを働こうとはしないだろう。

彼は礼拝堂の通路を進みながら辺りを見渡していた。見知らぬ宗教の様式に沿って全てが形作られた教会。椅子も床も全てが木製であり、窓から差し込む光が室内を温かい色に染めていた。部屋はそれほど大きくないが、天井のアーチやはめ込み窓に精一杯の工夫を凝らしているのが見て取れる。奥の一段上がったところには祭壇が複数見えており、おそらく多神教であろう、ということしか分からない。こちらには縁のない神々か精霊か、そういった何かしらの尊いものがどことも知れぬ場所からこちらを見定めようとしているような、あるいは物珍しげに見つめているような、そんな感覚を覚えていた。

「村の皆は遠慮してあなた様と話せないでしょうからな。代わりに、これを見てくだされ。我々がどれほどの思いを持っているのか、あなた様の目ならばお分かりになるでしょう」

示された先にあった見慣れたモチーフを見て、マルスは少しほっとする。円と、その中心から左下にずれたところに交点を持つ十字。交差した直線はそれぞれに円を突き抜けており、下の方で台座に固定できるようになっていた。首から提げた紋章を片手に握り、頭を下げて敬意を表してから祭壇に近づく。低い段を登ると、麦と果物の香りが少し強くなっていった。やがて目の前に明らかになった祭壇の様子を見て、彼は目を丸くし、そして口を引き結んだ。

「……竜は、いつ頃から現れていたのですか?」

静かに問いかけた彼に、司祭は落ち着いた声でこう答える。

「いつとも分かってはおりません。湖に見慣れぬ生き物がいると気づいたのが夏、それが我々の手には負えぬ怪物だと分かったのが夏の終わりでしたかの。しかし、異変は年の初めから始まっておりました」

「水不足ですか」

それに対し、司祭は何も言わずに黙って頷いた。

彼らが見つめる先、祭壇は戦士に向けられた手紙を頂き、その周りには村人の供物が並べられているのだった。木彫りや金属製の大小様々な"円に十字"の印、大いなる手の象徴である右だけの手袋、備蓄から引っ張り出されてきた様子の麦の束や干した川魚、青いままもぎ取られてきた柑橘が祭壇を中心になだらかな山を作っている。そこには現世に実在する戦士に対するよりも、もはや神にすがる懇願にも似た気配が漂っていた。

「初めはただ、いつもより“天気の良い日”が続いていると思ったくらいでの。ところが、例年なら雨の降るような季節になっても一滴も雨粒が降らず、どころか雨雲の欠片さえ村に近寄ってこなかったのです。日照りというほどには日差しは強くなかったものの、あまりの晴天続きで川の水かさも減り、ああして他のところから水を汲んでこなければならんという次第でしてな」

「村の方々は、それが竜のせいだと考えているようですが……確か、朝僕を運んでくれた方も、精霊の湖に竜が棲み着いたせいだと」

「見ての通りじゃ。半年以上も異常な天気が続けば、人は何かしらの理由を求めだす。この村は昔、住む場所を探してさまよった民があの豊かな湖を見つけたのが祖とされておってな。今も村を見守る精霊が住んでいると語り継がれておる。その伝承を思い出した者が湖を訪れて、例の竜を見つけたのだそうな」

「湖の伝説ですか」

村長にその話を振り向けると、意外にも彼は困ったような表情を見せた。

「そう言う者もおりますがね……昔は年寄り連中しか言わなかったのですが、このところ急に増えてきまして。私はただ、あの竜が湖の魚を食い尽くしたあげく、腹を空かせて村に降りてくるんじゃないかと気が気じゃなくて。だというのに、お恥ずかしい限りですよ。今の世の中で神だの精霊だのと」

眉間にしわを寄せた彼の肩を、ちょうど配膳にやってきた奥さんが肘でこづく。

「あんた。またそんなこと言って。手紙が消えるところを見たっていうのに、まだ信じられないのかい?」

それからこちらに明るく笑いかけ、彼女はこう続けた。

「さ、戦士さま。どうぞ召し上がってください」

食卓に並べられたのは、木製の食器によそわれた野菜のスープに、果物のソースが添えられた鶏肉。パンは田舎で良く見るようなぼそぼそした茶色いものではなく、ふんわりと白味を帯びたものだった。おそらく戦士を招くにあたって前から用意していたのだろう。スープも具だくさんで、ほとんど汁が見えないくらいに野菜が盛られている。

「ありがとうございます、こんなにしていただいて」

本心から礼を伝えると、村長の奥さんはちょっと慌てたように首を振り、謙遜してこんなことを言った。

「とんでもありませんよ。戦士さまのお口に合うかどうか分かりませんが……」

そのままもごもごと、ごゆっくりというような言葉を口にして彼女は居間を後にしてしまった。村長はその背をやれやれという顔で苦笑しつつ見送る。

「村長、あなたの分は……?」

「ああ、私はもう済ませてしまったものでして。もしお邪魔でしたら」

と村長が立ち上がりかけるのを、彼はとどめた。

「大丈夫ですよ。賑やかなほうが僕は好きですから」

そう伝えると、村長は少しほっとしたような表情で椅子に座り直した。

「そう言っていただけるとは。戦士にも色んな方がいらっしゃるんですね」

「紋章の戦士も人間であることには変わりません。使命を与えられ、大いなる手の代わりに戦う時以外は皆さんと同じく、それぞれの役職を果たしていると思いますよ」

「へぇ、あなた様はお国では何を……」

好奇心からつい、といった様子で村長は口走りかけるが、尋ねるのは失礼だと思ったのだろうか、その言葉は尻すぼみに消えてしまった。彼が不要な謝意を述べる前に、マルスは先手を打つ。

「小国の騎士ですよ。この格好から予想も付くかもしれませんが。ただ、ここのところは大きな戦も無いので、こうして王から外出を許されているのです。ところで……色んな方と仰いましたが、そのもう一人の方は?」

「そう言えば、昨日見たきりですね……。本当はこの食事もその方のためにと用意していたものなのですが……あ、申し訳ない、どうか気を悪くなさらず。まさかこんなへんぴな村に二人も来てくださるとは思っていなかったもので」

「いえ、僕も他の戦士に会うのは初めてですよ。かなり珍しいことなのではないかと」

道理で準備が良いはずであった。彼ないし彼女のために残した方が良いだろうかと内心で迷いつつ、パンをちぎる。

「ということは、その方はずっと森に?」

マルスが尋ねると、村長は頷いた。

「竜が湖に居ると聞いて村の者に案内をさせた後は、戻ってきておりません。ずっと待ち望んでいた戦士さまが来て、私たちも嬉しくなってしまいましてね……ちょっと、しつこくもてなしすぎたのかと思っていたところなのですよ」

村人の様子を見る限りでは、そんな過剰な接待を用意していたようには見えない。

紋章の戦士にまつわる伝承、どの話でも清く正しくあり、魔物に虐げられた民に寄り添う心優しき英雄として描かれた彼らの姿とは少し乖離を感じる振る舞いだ。紋章の戦士も人間だ、と言った他ならぬ自分の言葉を思い返し、若き王は思案するように眉をひそめていた。

湖は村の裏手、土地を真っ直ぐにつらぬく道を登り、森を抜けた先にあるということだった。

山の斜面に沿って開墾された村は、中央の教会や村長の家がある辺りの広場を除けばほとんど平らな場所がなかったが、生まれたときから暮らしている村人にとっては特に不便はないらしく、マルスが坂道を上がっていく横では農具や水を運ぶ村人が慣れた足取りで畑に向かっていき、子供たちもそこそこ急な斜面の草地を駆け下りて追いかけっこをしていた。その一団がこちらに気がつき、ぱっと顔を輝かせて賑やかに走ってきた。

案内を村長から任された少年がそれに気づき、怒ったような顔で声を張り上げる。

「こら! おめぇら、戦士さまに失礼だぞ、向こうで遊んでろや!」

「なんだよ偉そうにー!」

「いつもは一緒に遊んでるくせにー!」

口をとがらせる子供たち。どちらも引く様子はなく、このままではケンカになってしまいそうだった。にらみ合う彼らの間に割って入るようにして、マルスは仲裁を試みる。

「まあまあ、ちょっと立ち話するくらいなら大丈夫だから。君たち、何か聞きたいことがあるのかい?」

そう尋ねると、子供たちは口々にこんなことを言った。

「ぼく見に来ただけ!」

「ねぇねぇ戦士さま、どこから来たの?」

「領主さまのとこ?」

「ねー、お名前は?」

「戦士さまって強いの? 悪い竜たおせる?」

放っておくとどんどん質問ばかりが出てきそうな様子に腹を据えかねたのか、案内の少年が代わりに答えてしまった。

「当たり前だろ、紋章の戦士さまは絶対に死なないんだから。あの緑色の竜だって絶対にやっつけてくれるさ!」

またしても不服の声を上げ、君に聞いてないよ戦士さまに聞いてるんだよと騒ぐ子供たち。マルスはその様子を頬笑ましく思いながら、「見てごらん」と言って膝をついた。子供たちは途端に口をつぐんで近くに集まり、こちらが示した剣に目を向けた。彼らに、ちょっと秘密めかして小声で言ってみせる。

「これは僕が暮らしている大陸に伝わる、伝説の剣なんだ。ここから幾つもの海と山を越えた向こう、人と竜が暮らす国のもので、遙か昔、悪い竜に苦しめられていた人間のために神様から授けられたものなんだよ」

子供たちはどのくらい真剣に聞いていたか分からないが、美しく装飾された剣の鞘や、柄にはめ込まれた赤い宝石にじっと見入っていた。

「戦士さまも竜と戦ったの?」

そう尋ねた子に、彼は頷いてみせる。

「もちろん。頼もしい仲間と一緒にね」

これを聞いて感心したような声を上げる子供たち。今にもその武勇譚を尋ねだしそうではあったが、ここで少年が止めに入った。

「ほらもう十分だろ。早くしないと先に竜を倒されちまう」

そう言ってこちらに頼み込むような目を向けたので、マルスもそこで立ち上がり話を切り上げることにした。見送る子供たちに手を振りかえし、再び歩き出した彼は少年に尋ねかけた。

「先に倒されるって言ってたけど、そんなに気にしてるのかい?」

「別に嫌いってわけじゃないよ」

弁解してから、少年は行く先を向いたままこう続けた。

「でも、どっちかって言ったら戦士さまに倒してほしいかな。あっちの戦士さま、なんか頼りないっていうか、何考えてるかよく分からないから。その人もおれが案内したんだけど、戦士さまと違ってほとんどなんも喋んなかったんだ。耳のとんがった人なんて初めて見たし」

「見た目で判断しちゃいけないよ。ちょっと人見知りなだけかもしれない」

「そうかなぁ……」

村の裏手には何かの果樹が植えられており、村の境界をなす石塀越しにその木々の頭が見えていた。開け放たれたままの裏門を抜け、そこに広がっていた光景を見たマルスは一瞬歩く足をためらわせた。

ほとんど涸れた土に根を下ろし、木々は青く小さな実をつけたまま為す術もなく空を仰いでいる。葉は紅葉の季節には早いにも関わらず黄色みがかっており、どの木も根元に力尽きた葉が何枚も落ちているのだった。木立を透かした彼方には畑も広がっているのが見えたが、そちらも状況は同じようで、麦も葉物もすっかりしおれてしまい、葉を力なく垂らしている。村人はそれぞれに桶に汲んだ水を運び、少しは育ちの良い場所を選んで水やりをしていた。彼らは浮かない顔をしたまま、縮れた葉をつけた作物や、すっかり涸れて底の露わになった水路の横を通り過ぎていく。

「この村のライムはわざわざ港町からも買いに来るくらいなんだ。でも、今年はだめだろうな」

案内の少年もため息混じりにそう言った。

祭壇で山をなしていた供物、精一杯のもてなしが込められた料理、熱意と共に向けられた村人たちの視線。彼らが本当に期待しているのは竜退治ではなく、この異常気象の解決だ。果たして魔物を封じたところで村人の待ち望む雨は降るのだろうか。マルスには自信をもって言い切るだけの根拠を持っていなかったが、それを表に出せば村の人々がますます不安を募らせてしまう。ここは演技であっても、竜を倒せば全ては解決するという、自信に満ちた態度をとらねばならないだろう。紋章の戦士がすべきことは、魔物の封印だけではないのだ。

――先に来ていた戦士は、そういうことは考えなかったのかな。

ほとんど誰とも話さずに森にこもったきりだというもう一人の戦士。それに思いをはせながら、彼は少年の先導で果樹園の道を真っ直ぐに登って行った。

畑が途切れ、村と野山の境界線を示す柵に網が渡された横をくぐり抜けると途端に道が変わり、気づけば地肌から木の根がぼこぼこと顔を出し、階段のようになったところを登っていくような形になっていた。歩調が鈍くなったこちらを気遣うように、少年は少し行ったところで立ち止まってこちらを見ている。湖の周辺はささやかでも平地が広がっていればと願いながら、マルスは山道を登っていった。

「おーい、戦士さーん!」

少年が向こうの方で呼んでいるのが聞こえ、自分のことかと思った彼はふと顔を上げる。しかし案内の男の子は横を向いており、こちらを呼んだのではないらしい。少しして彼のいるところまでたどり着いたマルスは、どうしたのかと少年に尋ねた。

「この辺りで野宿するって言ってたんだけど、見あたらないんだ。もしかして湖に行っちゃったのかな。退治するときは村長を呼んでって言ったのに……」

困った顔で言い、少年はたき火の跡を靴でいじっていた。荷物は片付けられていたが、料理のために丸く集められた小石や敷物を広げた跡など、生活の痕跡は残されたままになっていた。

「湖は向こうかい?」

山道が続いていく先に小手をかざし、マルスは少年に聞いた。

「そう、だけど……行くんなら気をつけてよ。おれ……そこまでは案内できないから」

村で小さな子たちを相手にしていた時のような威勢はどこかに行ってしまい、少年はおずおずと年相応の顔になってそう答えた。

「大丈夫だよ。村長さんからも、ここまでで良いって言われてたでしょ? 後は僕一人で大丈夫だから。案内、ありがとうね」

安心させるように微笑みかけ、それから彼は火の気のないたき火の横を通って山道の続きへと踏み込んでいった。

森にも雨の気配はなく、踏みしだいた土は乾いた音を立てて細かくくずれていく。竜が現れる前までは比較的最近まで村人が行き来していたらしく、道案内だろうか、山道のあちらこちらに立っている古そうな看板には修繕の跡が残っていた。おそらくは魚でも獲っていたのだろう。祭壇に供えられていた干し魚を思い浮かべながらマルスはそう考えていた。この村の先祖に生活の基盤となる飲み水と食べ物を与えたのならば、湖が精霊の住み家として敬われていたのも分かる。

辺りは奇妙なほど静かだった。虫の飛ぶ羽音も鳥のさえずる声も聞こえず、それどころか葉ずれの音さえも聞こえてこない。少年とも別れてしまったので、まるで時間の凍り付いた景色の中で自分一人だけが動いているような、そんな錯覚を覚えていた。

知らず知らずのうちに張り詰めていた彼の感覚が、不思議な音を捉えた。

思わず足を止め、首を巡らせて音の出所を探ろうとする。訝しげな顔に反して、その手は剣の柄に掛けられていなかった。音は危険を感じさせるものではなく、むしろ心を弾ませるような、踊りたくなるような陽気な調べだったのだ。その音楽に誘われたように、彼の足は山道を外れ、森の中へと踏み入っていく。

鬱蒼と茂る木々の中に、ぽかりと丸く日が差し込んでいた。そこの広場だけ何かの理由で木が生えておらず、真ん中に大きな切り株だけが残っている。

半ば苔むしつつある巨木の痕跡、それを椅子のようにして腰掛ける者がいた。緑色の服を着た青年、手に抱えた小振りな笛を吹く横顔が見えてくる。

声を掛けるのも忘れて広場に出かけたところで、向こうの方がこちらに気づいた。笛の音が途切れ、青い瞳がこちらを真っ直ぐに見返す。

森に溶け込むような緑の服装に引き立つ金色の髪。その下から、何も言わずに凝視する、表情の読めない一対の瞳。その耳はここからでも分かるほどに長くとがっており、それで、彼がもう一人の戦士だと気がついた。

「……ごめん、邪魔するつもりじゃなかったんだ」

そう言って敵意などが無いことを示すために手を開き、前に踏み出そうとすると、こんな声が飛んできた。

「君も紋章の戦士?」

その声が意外にも警戒の色を含んでいなかったので、かえってマルスは戸惑ってしまった。困惑し、立ち止まってしまった彼の様子も気にせずに、狩人のような帽子を被った戦士は切り株から降りてこう続ける。

「その首から提げてるの、十字の紋章だろ?」

「そうだけど……そこから見えたんだ」

マルスは首のペンダントと緑の狩人を交互に見ながら、ほとんど独り言のような声量で答えた。紋章は片手で包んでしまえるほどの大きさしか無く、そこに彫り込まれた模様は近くに寄らないと見て取ることはできないはずだ。狩人はそのまま横に置いていた荷物を肩に掛けると、鳥のような形をした不思議な笛を片手に近づいてくる。思っていたよりも若い。自分よりも二つか三つか、そのくらいは下かもしれない。

「うん。それにここじゃあまり見ない格好してるし」

挨拶をするのかと思いきや、彼はそのままこちらの横を通り過ぎていこうとする。

「……え、ちょっと。君、どこに行くの?」

「どこって、湖。君も来る? そろそろ竜が出てくる頃だと思うよ」

ちょっとそこまで星を見に行くとでも言うような軽い口調で、狩人はそう言った。つかみ所のない笑顔。とがった耳だけを見ればアカネイアの竜人族にも見えるが、根本からして何かが違う。まるで妖精のようだ。

紋章を譲ってくれた戦士を除けば生まれて初めて出会う、現役の戦士との出会い。それがあまりにもあっさりしたものになってしまったことに遅まきながら気づきつつも、今更どうすることもできず、マルスはどこか腑に落ちない顔をしながら狩人の後に続いた。

森の中を歩き慣れているのだろうか、緑服の狩人は肩に荷物の袋を掛けたまますいすいと木々の間を縫い、獣道のような場所を歩いて行く。若き王は、彼に置いていかれまいと必死になって追い、茂みや木の根を跨ぎ越していった。

「あ、そういえば君、名前は?」

ふと振り返って狩人がそう尋ねる。

「マルス。アリティアから来た。君は?」

まともな文章で話そうとすれば息が上がってしまいそうだった。

「俺はリンク。アリティアって初めて聞いたんだけど、どこかの地方?」

「いや、国の名前。ここから北西に、しばらく行ったとこ」

「北西って、もしかして海越えてきたの?」

体ごとこちらを向いたまま、リンクと名乗った青年は器用に木の根を踏み越え、歩調を緩めずに歩いて行く。対するマルスは息が切れそうだったので、黙って頷いた。

「へぇ、そんな遠くにも手紙が届くんだ。俺も人のことは言えないけど」

「君は、どこから来たの?」

「ハイラルの辺りって言って、分かるかな」

その名前を聞き、王族の手習いとして地理も学ばされていた彼の記憶におぼろげな世界地図が広がる。

「えっ、ハイラルって……確か結構、北の方じゃなかったっけ……?」

「そうそう。でも、俺は旅してる途中で手紙をもらったからね。たぶん君の方が遠くから来てるよ」

マルスはこれに対しても、短く相づちのような声を出すことしかできなかった。

自分以外の戦士に出会うことを密かに夢見てきた。出会えたなら、聞いてみたいことは山ほどあった。それなのに今の自分は何も聞くことができず、懸命になって山の中を歩き続けている。焦ることはないと自分に言い聞かせながらとにかく足元に意識を集中させていた矢先、前を行く狩人が出し抜けに腕を横に差し出した。

「止まって」

彼がいつの間にか腰を落としていたので、こちらもそれに倣って姿勢を低くする。リンクの視線を辿ると、梢を幾本か越えた向こうで森は途切れ、そこから先には思いがけないほどに広い空間が開けていた。雲一つ無い澄んだ青空と対をなすような大きな湖。風もなく、水面はしんと静まりかえって、まるで一枚の巨大な鏡のようになって空の青を映し出している。

「これが、竜のいる湖?」

今度はリンクの方が黙って頷いた。

固唾を飲んで見守る先、不意に湖の中心が揺らめいた。大きな水滴が落ちたかのように、ゆらりと、同心円状の波が起こる。波はそのままこちらの居る岸の辺りまで到達し、静かな森に派手な波音を響かせて打ち寄せた。音は幾度か辺りの山にこだまし、自分でも説明の付かない戦慄を覚えた次の瞬間、水面が突然山のように持ち上がり、爆発した。

水しぶきを上げて飛び上がったのは、緑色の竜。登れども登れども尾は現れず、その胴はどこまでも長く続いているかに見えた。上空の何かに挑みかかるように赤い牙をむき、金色の目を輝かせる。ようやく水面から尾が離れ、蛇のような長身が露わになったと思った次の瞬間、金属を打ち合わせたような重い音が響き、竜はその身を折った。忌々しげな調子で唸り声を上げ、盛大な音を立てて湖に墜落する。その波飛沫はこちらが隠れる木立にまで到達し、辺りの葉がばらばらと音を立て、二人の上ににわか雨を降らせた。

「あれ、どういうこと? 一体何と戦って……」

「見てたら分かるよ」

言った傍から湖の方で再び動きがあった。鎌首をもたげた竜が空を一心ににらみ、頭をそらしたかと思うと、その大きな口から凄まじい光の息吹をほとばしらせた。まるで光の柱のようなそれは辺りを明るく照らしあげ、急速に伸び上がっていき――そして阻まれた。今度は息吹が阻まれた空の一角に、青い半透明の輝きがあるのが分かった。

「結界……?」

マルスはそう呟く。見守る先で竜は力の続く限り、輝く息吹を放っていた。しかし無情にも青い結界は破れる気配さえなく、やがて竜は息を切らせてしまったのか口を閉じ、今度は力なく湖に潜っていった。

波面が残る他は元通りの静かな湖となり、竜がいた名残、打ち寄せる波の音しか聞こえてこない。

「ああなったらしばらくは上がってこないよ」

そう言ってリンクは立ち上がり、きびすを返した。またも置いて行かれそうな気配を感じてマルスは慌てて立ち上がり、その後を追いかける。

登りよりは下りの方が楽だった。それでも何度か緑色の背中を見落としそうになったが。

山道を下ること十数分、マルスは再び出発地点に戻っていた。すなわちリンクが野宿をしている場所である。丸太を椅子代わりに、後ろの幹に背を預けて座る彼はたき火を熾そうとしているリンクを見ているうちに、ようやく落ち着いて質問をできることに気がついた。何から聞くべきか少し迷って、まずこう言う。

「そういえば君、意外と話すんだね」

「え、そうかい?」

顔を上げた彼は自覚がないのか、きょとんとしている。

「君のこと、村の人たちから聞いてたんだけどさ。てっきり、人見知りなのかと思ってたんだよ」

「ああ。そういうこと」

リンクは何故か、声を落とした。

「ああいう風に見られるの、嫌なんだ。それだけ」

「分からなくもないけど……」

そう相づちを打ってから、マルスは諭すように続ける。

「名誉ある称号に選ばれたからには、それ相応の責任が伴うんだ。人々の期待に応え、人々の理想とする姿を見せなくてはならない。たとえ窮屈でもね」

そこで、年下を相手にしているという意識が先に立ってついつい説教くさい言い方をしてしまったことに気がつき、こう付け加えた。

「……僕は、そう思うよ」

「称号か……」

リンクはこちらの物言いにはほとんど気づかなかったかのように、ぼんやりと真昼の空を仰いでいた。鬱蒼と茂る木々の中、ぽかりと開けた青色を眺めて何か考え事をしているようだったが、何も言わないうちに目の前の仕事に戻り、小石に囲まれた焚き木に火をつける。

「君はいつ選ばれたの?」

たき火を見つめたまま彼は不意にそう尋ねてきた。急に話題が変わってしまった理由を掴みきれぬまま、それでも記憶を辿って答える。

「……えぇと、3年くらい前かな」

「なんだ! それじゃあ俺のほうが先だね」

にこにこと自慢げに、どこか少年のように笑うリンク。

「え、それじゃあ君はいつから?」

「いつかなぁ……」

先だと断言したわりに、彼が答えるまでには少し時間がかかった。

「紋章は赤ん坊の頃から持たされてたらしいんだけど、戦士の手紙が届いたのは7年前……だったかな」

生まれたときから持っていた、という言葉を聞いてマルスは少し目を丸くした。自分が知る限り、つまり文献に残されているかぎりではほぼ全ての戦士が先代の戦士から受け継ぐ形で紋章を授かっている。どんなに当人が望んでも息子や娘、そのほか親戚や親しい者に、大いなる手の意向ではなく自分の意志で継がせることは不可能であるとされており、つまり紋章の戦士に「世襲制」はほとんど存在しないはずなのだ。

だが、同時にそれを詳しく尋ねるべきではないとも感じていた。「持たされていたらしい」と言った時の彼の顔は、戦争で大陸を駆け巡っていた時に出会った、ある種の境遇を背負う者たちとよく似ていたのだ。それにそもそも、まだ才能も見いだされていない幼子が次の後継者だと知らされ、戦士が赤子の元を訪れて将来に託す形で紋章を預けたのだとすれば、何らおかしなところはない。

「じゃあ、魔物とは結構戦ってきたんだね」

気遣いが悟られないよう持ち前の明るさを発揮してそう言うと、リンクは片眉を上げた。ただ、気分を悪くしたわけではないらしい。何故かは分からないが、彼は仕方ないなという風に笑っている。

「君は? 今までどんな相手と戦ってきた?」

そのまま彼は、そんなことを聞いてきた。こちらが戸惑っているうちにたき火に注意を戻し、薬缶に入れた水をのんびりと温め始める。マルスは不意に、自分がまだ子供だった頃を思い出した。アリティアの城に家族と共に暮らしていた頃、王宮付きの教師に口頭試問を受けた思い出が頭をよぎる。記憶の中、こちらに目線を合わせて答えを待つ教師の顔と、目の前にいる若者の顔が重なった。これではどちらが年上か分からない。

「きっと君ほどじゃないだろうけど、それなりには……。えぇと、巨大な花の怪物に、鮮やかな翼の大鳥――」

「人間は?」

その言葉に、マルスは思わず眼を瞬く。目を向けた先、深く青い瞳がこちらを真っ直ぐに見据えていた。笑顔であるにも関わらず、まるでこちらの心の中にある何かを見定めるような視線を向けて、リンクはこう続けた。

「人間の姿をしていなくても、言葉を話せる“魔物”に出会ったことは」

「無い……けど」

“けど、君は会ったことがあるのか”。すんでの所で言いそうになったが、聞くことはできなかった。

「そっか」

こちらの答えを聞いた彼は、どういう意図だろうか、場違いなほどに明るい顔を見せてニッと笑った。その目には、もう先程までのような鋭さは無くなっている。それからリンクはふいと立ち上がり、膝についた砂を払うとこう言った。

「マルス。君、まだ村には降りないだろ? ちょっとここで火を見張っててくれないか」

じゃ、と言い残して彼はこちらの返事も聞かず、きびすを返す。呼び止めようと立ち上がったが、瞬きをした次の瞬間には彼の緑色の服は深い森の中に忽然と消え、どことも知れぬ場所からさくさくとかすかに響く足音だけが、一歩ごとに木立の中へと吸い込まれていった。

竜と戦う気だろうか、と思いかけ、停泊場所に置かれた荷物の量を見て訂正する。肩掛けの袋からは食料だけでなく矢筒や爆弾のようなものまでが顔を覗かせており、これほどの武器を持ってきておきながらここに放置して実戦に挑むとすればよほど自信があるか、相手を見くびっているかだ。それにいくら彼でも竜を倒す段になれば、頼まれている通り村長を呼んでくるはず。

そこまで考えたところで、リンクと名乗ったあの若者の一連の行動を思い出し、眉根を寄せる。どうにも彼はつかみ所がない。こちらの常識に当てはめて考えて良いものだろうか。マルスは再び丸太に腰を下ろし、たき火の炎を見つめて思案したが、結局、彼を信用するしかない、と自分に言い聞かせた。

――水を火に掛けっぱなしにしているし、じきに戻ってくるつもりだろう。それに万が一、彼が戦いを仕掛けたとしても音ですぐに分かる。湖への道は村の人が作ってくれた歩きやすい道があるだろうから、迷うこともないはず。

そこまでを一息に考えて、彼は天を仰ぎ、ため息をついた。

「なんだろうなぁ」

どうにももやもやとしたものが頭の上を覆い、離れようとしない。こんなに空は晴れているというのに。

木々が唸り、枝葉が揺さぶられる音で目を覚ました。

慌てて起き上がってから、自分がいつの間にか幹に背をもたせかけて眠ってしまっていたことに気がつく。真っ先に目を向けたのはたき火の方であった。水はすっかりお湯になってふきこぼれてしまったらしい。リンクがせっかく点けた火は消えてしまい、黒い枝のささくれた名残だけが小石の円の中に残っていた。それから湖の方角に目を向ける。突風はすでにここを通り過ぎていたが、耳をつんざくような高音を含んだ竜の雄叫びがまだかすかに聞こえていた。

夜通し空を飛んできた疲れがまだ抜けきらず、眠気を含んだ頭でほとんど何も考えずに立ち上がり、彼はそのまま湖へと続く道へと駆け込んでいく。

視界の端に映る木の根を飛び越え、軽く跨ぎ越し、そうして走っていくうちに血が巡ってきたのか、だんだんと目が冴えてきた。それと共に、寝入る直前まで考えていた物事が脳裏によみがえってくる。

なぜ、自分はあんなにも判然としない気持ちを覚えていたのか。紋章の戦士と言えば誰もが尊敬し、憧れを抱く存在。そう言い聞かされて育ってきたから、当然戦士自身もその称号を誇りにしているのだと思っていた。ところがあの若者は光栄に思うどころか、どちらかと言えば疎ましく思っているような様子さえあった。こちらの方が戦士としては新米だと知った時にはちょっと得意げな表情を見せたが、それにしても子供が見せるような反応でもあった。社会に出る前で、戦士が何たるか、人の世をどのように守っているのかを本質的には理解していない子供たち。

そこまで考えたところではたと気がついた。

――そうだ。彼はきっと、戦士についてよく知らないだけなんだ。

彼は、リンクは、物心ついた時にはすでに紋章を持っていた。何となく大事なものだと思っていたのか、周りから無くすなと言われていたのかまでは分からないが、その本当の価値を知ったのはおそらく、7年前の手紙を受け取った時が初めてだったのだろう。しかしその後も、彼の言動から想像するに、周りに紋章の戦士について深く理解した者はおらず、教えてくれる者もいなかった。だから、彼はただ一人自分の足で歩き、自分の目で見て学んでいかねばならなかった。

戦士が必ずしも行く先々で歓迎されるとは限らない。正しき心の下で振るわれる人並み外れた力は尊敬と崇拝、そして慶福を生むが、同時に妬みや謀略、奸計を呼び寄せてしまうものだ。自分は幸いにしてまだそういう例に出会ったことはないが、語り継がれる伝承の中には戦士を騙そうと、あるいはその無限の力を利用しようとした者たちの話と、大いなる手が下した天罰、彼らの辿った哀れな末路が描かれたものもある。いつの時代も人は変わらない。自分よりも倍以上の時間を紋章の戦士として生きてきたリンクなら、そう言った目に遭ったこともあったのかもしれない。戦士を照らす光も、纏わり付こうとする闇も伝承から学んできたマルスには一応の覚悟はある。だが、それを知らずにいきなり謂われのない敵意を向けられたり、裏切りを受けたりすれば、紋章への信頼さえも揺らいでしまうことだろう。

――もしそうなら、彼があのような態度をとるからといって、一概に責めるわけにはいかない。

彼方でふいに木立がまばらになり、差し込む日差しが足元を明るく照らし始めた。湖が近くなり、空気に水のにおいが混じる。これ以上は余計なことは考えるまい。行く手に目をこらし、後はただ一心に、山道を駆け登っていく。

かすかに声が聞こえ、立ち止まった。

その矢先、どうっと音を立てて辺り一帯の木々が揺れ、風によろめきかけて足を踏ん張った彼の目の前で日が陰り、森が闇の中に包み込まれる。

反射的に頭をかばって上げた腕の向こうで暗闇は来た時と同様に唐突に消え去り、木立を隔てた向こう側、緑色のぼやけた影を残して湖の遠景が目の前に広がる。目をこらすと、湖の上を縦横無尽に飛び回り、何かを追い立てる竜の姿が見えてきた。剣の柄に手を掛けて木立の先に足を踏み出そうとし、そこでマルスは慌てて後ろに飛び退る。またしても竜が飛び込んできたのだ。激しく布を翻すように長く大きな影が踊るたび、風にあおられた枝葉がざわめき悲鳴を上げる。

「なんて素早いんだ……」

再び日差しの戻った森の中に立ち尽くし、呆然と呟く。

彼が見る先、氷竜ほどもあろうかという体躯を持ちながら、深碧色をしたその竜は矢のように疾く、また蛇のようにしなやかな動きで飛び回り、自在に宙を駆けているのだった。

今度は竜が離れるのを見計らってから、姿勢を低くしてそっと顔を覗かせる。視界に大きく開けたのはいびつな円形の湖、その岸を折しもこちらへと駆けてくる人影が見えた。リンクだ。いつの間にか帽子も上衣も青い色のものに着替えている。近づいてくるにつれて見えてきた彼の様子を見たマルスは我が目を疑った。どうしたことか、彼は抜剣したまま戦うでもなくただ湖の周辺を走り、何かを竜に向けて大きな声で叫んでいる。あの魔物を相手に遊んでいるのか、あるいはまさか挑発でもしているのだろうか。唖然として見ていると彼はこちらに気づき、盾を持ったままの右手を振り、駆け込んできた。あの形相の竜に追い立てられているにしては彼の表情には危機感がない。

あの今一つ読み切れない呑気な笑顔を見せて走ってくるリンク、その後ろで起こりつつあることに気づき、マルスは凍り付いた。獲物の動きが狙いやすい一直線になったと見たか、竜が頭を上げ、気合いを溜めようとしていたのだ。

「笑ってる場合じゃない、早く逃げないと!」

「大丈夫、大丈夫」

そう言って彼は木立の間をすり抜けてここまでたどり着くと、逃げるでもなくその場でしゃがみ込んでしまった。

「なんで――」

尋ねかけたが、マントの横を引っ張られて無理矢理座らされる。

その直後、全身を揺さぶるような衝撃が走り、目の前で盛大な白一色の花火が咲き誇った。

……まだ生きている。あの結界は横にも張られていたのだ。すでに座った後で良かった、と心の中で思った。中途半端な姿勢でいたら腰を抜かしてしまったかもしれない。

竜は追撃を諦めたのか低く唸ると、大蛇そのものの動きでゆらりと湖の中へと滑り込み、姿を消した。

「あれ、見たことないの?」

「見たって、何を?」

まだ耳に痺れたような感覚が残る中、ほうけたように尋ね返した次の瞬間。

自分でも訳の分からない感情がわき起こった。

「……君っ、何を考えてるんだ! 僕らは遊びで魔物と戦ってるんじゃない。困っている民がいて、それを助けるためだろう? 僕らの称号は勝ち取ったものじゃなく与えられたもの、他の誰にも倒すことの出来ない魔物を封じるために、大いなる手から授けられた力だ。それなのに君は……」

そこまでを一気にぶつけたところで、不意に胸から火が抜けてしまった。畏縮か、諦念か、どちらとも分からない。後悔しながら顔をそらし、ため息と共に零した。

「……すまない。忘れてくれ」

視線だけで顔を伺うと、若い狩人はまったく堪えた様子もなく、むしろ感心したような表情をしていた。そのまま嬉しそうな笑顔を見せ、こう言う。

「君、真面目だね」

その笑いを見たマルスは自分の目を疑ってしまった。出会った時からどこか眠たげで魂の籠もっていない笑みを見せていた彼が、そのときは本当に、本心から嬉しそうにしていたのだ。自分の言動の何が彼の心を打ったのだろうか。いったいこの世の中に、真っ向から叱られて喜ぶ者がいるだろうか。

唖然としているこちらをそのままに、リンクが立ち上がる。

「大丈夫だよ。本当に戦うって決めたら村長を呼ぶから。さっきのは確かめただけ」

「竜の強さを?」

こちらもつられて立ち上がりつつ、マルスは尋ねた。

「それもあるけど……」

目を細め、湖の方を見つめてから、彼はまたいつものように何の前触れもなくきびすを返し、来た道を下っていく。こちらを振り返ってこんなことを聞いてきた。

「もうすぐ暗くなるから、俺、竜と戦うのは明日にしようと思ってる。君もそれで良い?」

「明日なら、構わないけど……。リンク、村には戻るのかい?」

「いや、俺はここの方が落ち着くから」

そう明るく返事をよこし、彼は飄々とした足取りで山道を降りていった。予想通りといえば予想通りの返事であったが、もう咎める気も起きなかった。

妙な時間に居眠りをしてしまったせいだろうか、どうにも目が冴えてしまって眠れなかった。仕方なく寝台を降りて丸机に向かい、荷物を入れてきた袋から手帖と筆記具を出して日記をつけようとする。窓を遮っているごわごわとした布の窓掛けを引き、ガラス戸を開け放つと月明かりが差し込んで照明代わりになってくれた。だが真新しいページを前にして悩むこと十数分、ほとんど筆は進まなかった。

背もたれに身を預け、曇一つない夜空を見上げる。吹き込む風もなく、窓掛けの束はそよとも揺らがずにぶら下がっていた。窓の向こうで村はしんと静まりかえっており、どこかでかすかに虫の鳴く音が聞こえるばかり。祖国での王としての責務から遠く離れ、一人の無名の戦士として異国にいるにも関わらず、彼の気分は重いままだった。

村には夕食の支度が始まる前に戻ることができ、村長に、今後も食事は一人分だけで良いと伝えることはできた。村の畑や果樹園の、あの悲惨な状況を見た後ではいたたまれないものも感じたが、それを表に出してはかえって失礼だと自分に言い聞かせて食事をとり、感謝を述べて村長の家を辞してきた。

記憶を遡るうちに、夕刻、あの耳の長い狩人と別れた時のことを思い出す。

しばらく二人とも何も言わずに黙々と山道を降りた後、野宿の場所が近づいた辺りでようやくマルスはこう尋ねることができた。

『それで、明日のいつから始める?』

『そうだなあ。昨日見てた感じだと、竜は日が昇ったらすぐ動き出すみたいだった。またああして結界に体当たりを繰り返させると疲れて出てこなくなる。なるべくなら午前中が良いだろうね。一度、早いうちに様子を見ようか』

あっさりと、それでいて自信をもった口調でリンクは答える。そのままたき火の跡にかがみ込み、ああこぼれちゃってたかと頭をかいた。

『じゃあ、日が昇るあたりにここに来るよ』

そう言ってから、当たり前のように共闘するような流れになっていたが、実のところどちらからもそれを言い出していないことに気づくが、リンクも気にしていないようで水筒から薬缶へと器用に水を汲み入れながらこう答えた。

『うん。俺、だいたいこの辺りにいるから』

その言葉に、そこはかとない嬉しさを覚える。つかみ所のない青年であったが、彼が少なくとも自分のことを共に戦う相手として見てくれていることが分かって安心したのだ。別れの挨拶を言ってその場を離れようとした時、背後から彼が、呼び止めるでもなく何気ない調子でこう問いかけてきた。

『マルス。君、あれを見てどう思った?』

『あれって……』

振り返ると、いつの間にか点いていた焚き火の小さな炎に照らされて、狩人の瞳が真っ直ぐにこちらを向いていた。

『君の言う結界だよ。何か感じなかった?』

『いや……初めて見た。あれは封じ込めてるんじゃないのかい? 魔物が人里に降りないように』

『誰が?』

『それは、もちろん……大いなる手だろう』

『あれだけの攻撃を受け止めて、びくともしない結界か。確かに俺たちじゃ作りようもないだろうな』

リンクはそう言いながら薬缶の蓋を開け、乾燥させた茶葉のようなものを放り込んだ。視線はそこに落としたまま、彼はこんな言葉をこちらに振り向けた。

『そこまでのことができるのに、どうして竜を封じないのか。そうでなくても、“魔物”を見つけて結界まで作っておきながらなぜ、自分から戦士に直接知らせずに、辺りの人間が気づくのに任せているのか。そうは思わないか?』

尋ねかける言葉を放つと同時に、再びこちらをひたと見据える。

その視線を受けた時、見誤っていたのではないかという思いが矢のようにひらめいて、胸をよぎった。

北方の国々。森の中には常若の種族が住むという伝承を思い出す。自然と共に暮らし、永遠の若人として生き続ける民。その目で実際に見た者はいないと言われているが、もし彼が、リンクがその種族だったとしたら。自分よりも若いと思ったあの時の直感は間違っており、実際には彼の方が年上なのかもしれない。数年、十数年……あるいはそれ以上に。

こちらが怯んだことを知ってか知らずか、リンクは薬缶に視線を戻す。またいつもの飄々とした口調に戻って話し始めた。

『俺が出会ってきたやつはみんな、結界の中にいた。大きさは色々だ。今回みたいに湖一個しか入らないのもあれば、町の半分くらいが巻き込まれたこともあった。無関係の人がうっかり内側に踏み込んで彼らに攻撃されることもあったけど、俺が結界のことを教えたら怪我人は出なくなった。それに、結界があってこそなんだ。俺たちは』

焚き火が安定したのでしゃがんでいたところから立ち上がり、近場の切り株に腰を下ろす。

『もしも魔物が自在に歩き回れるなら、戦士一人だけじゃ間に合わなくなるから?』

『そういうのもいるだろうね。でも、中には閉じ込めておかないと逃げ出して、どこかに行ってしまうやつもいる』

『……もしかして、あの竜のことを言っているのかい』

マルスが尋ねると、彼は頷いた。

『あれ、たぶん元々は空に棲んでるんだ』

『だとしたら、それがなぜこんな山奥に』

そう言ってから、ふとあることを思い出して怪訝そうに眉を寄せる。

『君……まさかあれを信じてるんじゃないよね。“災いの左手”とか』

善なる存在があれば、その対を想像するのは人の常である。大いなる手にもその対比として悪しき存在が居るという説もあるが、大いなる手とは異なり人民の目で目撃されたことは一度もなく、想像の産物だと言われている。黒き左手、禍き手、名称も一致していないが、左だけの手として描かれることが多い。大いなる手が紋章の戦士を任命するのに反感を抱き、招かれざる存在を魔物として世に降らせる者。あるいは混乱をもたらすために魔物を生み出す元凶で、大いなる手はそれに対抗するために戦士を用意しているのだとも。

しかしリンクは肩をすくめてこう言うだけだった。

『いや。俺は“誰が”って方にはあまり興味ないんだ。誰が彼らを連れてきてるのか。それよりも“どうして”っていうのが気になる』

手を伸ばし、薬缶の蓋を取って中を確かめてから、彼は改めてこちらに目を向ける。

『俺たちが“魔物”を封印すれば、すぐにあの白い手がやってきてどこかに持って行ってしまう。倒したことを証明できるものは何も残らないんだ。だけど、結界があるお陰で、見たいという人がいればその後ろからまあまあ安全に見ることができる。そして結界があるお陰で、たちの悪い“魔物”がどうしようもなく暴れて全てをめちゃくちゃにするなんてことも起こらない。でも同時に、結界は外からの攻撃を全て打ち消してしまう。俺たちの攻撃でさえもね』

『それ……本当かい?』

『ああ。なんなら後で試してみる?』

彼はごくあっさりとした口調でそう言って、背中の矢筒を指さす。

『……いや、いいよ。君のことを疑ったわけじゃない。ただあまりにも突拍子がなくて』

そう言っているうちにマルスは、ふとあることに気がついた。

『そうか、もしも結界の外から攻撃できるなら……直接戦う必要が無くなってしまう。でも、僕が知る限りでそんな戦い方をした戦士はいない。どんな戦士も魔物と直接向き合って、拳や剣を交わして……』

自分はこれまで、それを戦士の誇りや、そういった類の信条であろうと思ってきた。それなのに。

いや、そればかりではない。結界が人の子を守るための大いなる手の心配りだとすれば、自分たちの攻撃まで跳ね返す必要はないはずだ。リンクも肩をすくめる。

『みんなそうするしかなかったのさ。“魔物”は普通の人じゃ太刀打ちできない。ものを壊したり、人を怖がらせたり、そんな感じで辺りに迷惑を掛けるけど、必ずどっかで歯止めが掛かるようになってる。そいつらに気づいた人たちが戦士を呼べるくらいには余裕がある。そんなこんなで俺たち戦士が駆けつけることになって、邪魔することも邪魔されることもない結界の中、もらった力を使って誰にも出来ないことをやり、立会人が見守る向こうで万事丸く治める。だからこそ紋章の戦士は英雄として語り継がれることができたんだ』

そこで眉を上げて見せ、彼はこう問いかけたのだ。

『……うまく出来てると思わないか?』

そのときの自分は、反論するどころか、何も答えることすらできなかった。

あらゆる地に住む民、数多の国に暮らす人々が語り継いできた「紋章の戦士」の輝かしい伝説。魔物を退け弱きを助く彼らと、それを統べる大いなる手。彼らが善であると信じてきたのは自分も例外ではない。だというのに。

大いなる手は善き神である。人々がそう考えてきたのは、英雄を授け、魔物から救ってくれるから、自分たちにとって益であるからだろう。伝承の中で、大いなる手は時に英雄やそのほかの民と言葉を交わすこともあった。だが伝承は常に脚色をはらむものであり、劇的な効果を期待した書き手が想像で付け加えたものなのか、それとも本当に起きた出来事だったのか、伝承が書かれてから永い時の経った今となっては知りようがない。

人々は大いなる手に対して抱く賞賛と畏怖を千の言葉で語り継いできた。しかしながらその実、大いなる手の本質を言い表した言葉はどこにも無いのかもしれない。

紋章の戦士となった後、マルスはそこで初めて大いなる手からの謁見を賜っている。魔物を封じると、大いなる右の手はねぎらう声と共に虚空から現れた。その声は父のような威厳、母のような暖かさをもって耳に心地よく響き、震えるような感謝の気持ちで胸が満たされた。戦士の責務を果たすと必ずその白き手は地上に顕現したが、問いかけようと思ったことは一度も無かった。問いかけるべき疑問も無く、問いかけたいという欲求も起こらなかったのだ。これまでは。

あなたは誰か。なぜ僕らを選んだのか。そしてなぜ、魔物と戦わせるのか。あなたは、何を考えているのか。

考え事に耽るまま立ち上がり、窓枠に手を置いて夜空を見上げる。黒く沈んだ山並みの上に広がるのは砂州のような天の川と、離れたところにぽつりと浮かぶ欠けた月。弦月は自己の存在を主張するように強く光り輝き、それでいて空に散らばる無数の星のどれからも距離を置いている。まさしく偉大なる右手のように、そこに在りながら触れることも叶わず、ただ遠くに望むことしかできない。ましてやその心中など、星屑のように小さな人の子らに推し量れるはずもないのかもしれない。

頭上遥かにどこまでも広がる星の海。その中に自分を見失いそうになり、そこでマルスは首を横に振って一歩後ずさる。

やがて再び目を開けたとき、彼はすでに表情を改めていた。

――それでも……。

それでも、伝承に語り継がれた戦士たちが、善き人であったことは変わらない。そうであったからこそ人々に愛され、その感謝の念が途絶えることなく続いたからこそ言葉や文書の形となって後世に残されているのだ。たとえその戦士を任命した天上の存在がその裡に見通せぬ深淵を隠しているとしても、人々のために、自分は「紋章の戦士」として在り続けよう。

静まりかえった室内で彼は一人決心し、机の上、白紙のまま広げられていた手帖を潔く閉じた。

農村の朝は早いと聞くが、この村も例外ではなかった。

扉を開いた途端、肌寒い早朝の空気が全身を包む。村を一望すると、地平から顔を覗かせたばかりの朝日が山の斜面のこちら側をまんべんなく照らしていた。村の様々なものがこっけいなほど長く影を引く中、村人も同じくらい長く引き延ばされた影を連れて歩き、互いに短く親しげな挨拶を交わしている。

案内なしで村の裏手へ、森の入り口へと向かっていく。こちらに気がつくと、彼らは昨日よりは大分和らいだ表情で立ち止まって見送り、帽子を被っている者はそれを取って礼をする。彼らは長続きする晴天に怒ったり嘆いたりする元気もすでになく、一様にどこか疲れた顔をしていたが、今はそこに希望が加わりつつあった。

混乱や万が一の事故を避けるため、今日魔物を封じるつもりであることは、この共同体の長である村長と、戦士への手紙を書いてくれた司祭にしか伝えていない。彼らもこちらの気持ちと同じであり、絶対に口外しないと誓うことまでしてくれた。村の皆には竜が去って湖が安全になった後、その様子を見せるので十分だろうと、村長は言っていた。

村人に悟られないよう、散歩に行くような何気ない足取りで坂道を昇っていく。たまに、何をしに行くのかと尋ねられることもあったが、森にいるもう一人の戦士と作戦を練りに行くのだと答えた。そうして何事も無く裏門を抜け、果樹園を過ぎて木立の中に踏み入ったところで、マルスは軽く苦笑いする。どうにも戦士になってからというもの、正体や意図を隠す場面がますます多くなり、否応なしに芝居の腕が磨かれたような気がしてならない。

二度行き来するだけでも記憶には残るもので、昨日よりは確実な足取りで山道を登っていく。右に岩が見えてきて、あの木を曲がれば開けた場所にでるはず。もしかしたらリンクはまた昨日のように広場を離れ、どこかで笛を吹いているかもしれない、と思いかけたところで彼はそれを打ち消した。湖へと続く道の横、昨日別れた場所、少し幅が広くなって踊り場のようになった一角に天幕が張られており、簡易的な足つきの寝台に寝そべり、外套らしき布にすっぽりとくるまって眠っている姿が足だけ覗かせていた。あまりにも熟睡しているようなので起こすのも気が引けたが、朝早いうちに一度様子を見るという約束だったので、驚かせないようにほどほどの足音を立てて近づいていく。たき火のあるところまで踏み込んだが、意外にも彼は起きる様子がない。狩人のような格好をしているわりに、こんなに不用心で大丈夫なのかと思いつつ、天幕の下をのぞき込んだ。

「リンク」

声を掛けると、彼は反射的に寝ぼけ眼を開き、何か言葉を発して片腕を宙に、天幕の中の空間に差し伸べた。それからようやく意識が追いついたのか、きょとんと眼を瞬くと腕を引き込み、何事も無かったかのように外套から抜けだして外に出てくる。手の甲で目をこすり、彼はぽつりと呟いた。

「懐かしい夢だったな……よく起こされてたっけ」

これは自分に言ったわけではないだろう、とマルスは見当をつける。果たして彼はこちらにぱっと顔を向け、こう聞いた。

「もう朝なの?」

「見ての通りだよ。朝御飯は、当然まだだよね」

笑ってそう言いつつ、肩掛けの袋から今朝包んでもらった食事を取り出す。途端にリンクは警戒するような顔つきになった。

「……それ、村の人から?」

「村長と司祭に竜退治の話をしていたら、長の奥さん、ご馳走できるのもこれで最後になるかもしれないならって、今朝作ってくれたんだよ。二人分」

最後の言葉を少し強調するようにして、油紙に包まれた料理を差し出した。厚めにスライスしたパンで肉と蒸し野菜を挟んだもの。もう一人の戦士は呼んでも来ないと思うと言うと、奥さんが手早く料理に手を加え、作ってくれたのだ。

「僕はもう食べてきたから。これなら気兼ねなく食べられるでしょ」

しかしリンクは眉をしかめ、これを突き返そうとする。

「いい。こんな無理して作ったものなんて」

「無理したんだとしても、せっかく作ってくれたんだから。食べてあげるのが礼儀じゃない?」

相手はむすっと口をつぐんで腕を組み、何も答えず、「俺はそう思わない」という視線を向けてくる。こういう仕草を見るとむしろ見た目の年齢よりも子供っぽいようにも思えてくるのだから不思議だ。こうして意地を張っている若者が、昨日こちらがたじろぐほどの気迫を見せた人物と同じだとは。

昨日やり込められたことへの意趣返しというつもりではないが、こちらも伊達に大陸を飛び回ったわけではない。一触即発の状況をくぐり抜ける中で何度も試されてきた、交渉の手腕を発揮する

一呼吸置いて、あえて落ち着いた口調で、優しく。

「気持ちは分かるよ。今年の収穫も危ぶまれるような状況なのに、よそ者の僕らがこんなに贅沢をして良いのかって思ってるんだよね」

そこでさりげなく腰を落とし、視線を合わせた。

「でも、あの村の人にとってみればやっぱり君は『紋章の戦士』なんだ。君が戦士って呼ばれることに対して引け目を感じてるんだとしてもね。魔物を封じることは、君や僕のような戦士の他には誰にもできない。たいしたことはしていないって君が言っても、魔物から助けられた人たちの感謝が薄れるわけじゃないんだ。これから僕らがやり遂げようとしていることに対して、あの村が今できる精一杯の感謝の気持ち、それがここに現れてる。だから、ね?」

辛抱強く説得すると、ようやく彼は動いてくれた。

「……わかった。食べ物粗末にしちゃいけないからな」

早朝の山はしんと冷え込んでいた。

身の引き締まるような冷気をかき分けるようにして山道を登り、はやる心を抑えて湖に行ってみると、竜は湖底に身を潜めているのか影も形も見えなかった。夜のうちに結界を破り、どこかへ飛び去ってしまったのだろうかという思いがちらとよぎるが、確かめるために出て行くわけにもいかない。下手に踏み込んで魔物との戦いが始まってしまったら、村長との約束が果たせなくなってしまう。

リンクもそれを分かっており、共に肩を並べて木立と茂みに隠れてじっと湖の方を伺っていた。彼はその手に先程のパンを持っており、もくもくと食べている。眠たげな顔はあまり嬉しそうに見えないが、そのわりには順調に食べ進めていた。渡した二切れを欠片も残さずきれいに食べたところで、彼は手持ちの鞄から瓶入りの牛乳を出し、一気に飲み干す。

「言っとくけど」

空になった瓶に勢いよく栓を閉め、彼は話の口を切った。

「俺、べつにこの紋章をやっかいに思ってるわけじゃないからな」

その言葉に、マルスは湖に向けていた顔を横に戻し、何も言わずにその続きを待つ。

「ていうか、生まれた時から持ってるんだからほとんどお守りみたいなものなんだよ、俺にとって。……やっかいなのはあれさ、紋章を見た人が俺に向ける目や顔つき。態度もそうだ。誰もほんとは俺を見てない。見てるのは紋章だけだ。戦士っていう称号。この紋章を次の戦士に渡してしまったら、俺には何も残らない。またみんな忘れられて……」

最初の勢いは不意にどこかへ行ってしまい、そのまま彼は湖に遠い目を向け、押し黙ってしまった。

「そんなことはない。僕らの活躍はきっと誰かが語り継ぐさ」

そう励ましたものの、狩人は疑わしげな表情で肩をすくめるだけだった。

「……じゃあ僕が書き残してあげる。それで良いだろ?」

「君、文章うまいの?」

不意にからかうような調子でそう聞いてきたので、その落差に思わず笑ってしまった。

「なんだい、せっかく元気づけようと思ってたのに」

「文字に残ったとしても、俺たちがいなくなった後で『こんな人もいたんだね』って言われるくらいだろ? それに、頭には必ず『紋章の戦士の』誰々って文句がついて回る」

「それが不満だったの?」

確認すると、彼はむすっとした顔で頷いた。詳しくは聞くまでもないだろう。人々を脅かす魔物は、実はどんな攻撃も防いでしまえる結界という名の檻に閉じ込められており、それはまるで紋章の戦士に封じられるのを待つかのように、あるいは人々に戦士と魔物の立ち合いを提供しようというように、あつらえ向きの舞台に用意されている――昨日の彼の話が本当かどうかは自分には判断できない。だが、少なくともリンクがそう考え、大いなる手に対して消すことの出来ない疑念を抱いていることは事実だ。そこから転じて、大いなる手が任命し、行く先々で口々にささやかれる「紋章の戦士」という称号にも嫌気がさしているのかもしれない。

戦士を辞めるには、いくつか方法があると言われている。

基本的には大いなる手からの啓示を受けて次の継承者を知り、譲り渡すという手段がほとんどだ。しかし戦士として選ばれたものの何らかの理由で戦い続けることができなくなった者、あるいは戦いをあまり好まない者は、手元に出現する手紙の依頼を断り続けていれば「戦士」としての資格を失い、辞めることができるという。紋章は天へと戻っていき、大いなる手から授かった種々の加護も消える。

継承者が現れるまで戦い抜くよりもずっと簡単で、責任から逃げたように見られるためか、その道を選んだ戦士は後の伝承においてあまり格好の良い書かれ方をしていない。だが、リンクならばそういったことには執着しないようにも見えた。

リンクはそれを知っているだろうか、教えるべきだろうかと自問したが、結局マルスは何も言わずにおいた。彼は、自分の元にある紋章と、戦士のことは切り離して考えている。おそらくその紋章は、気にくわない存在から与えられたにせよ数少ない自分の出自を表す証であり、心のよりどころとなるものなのだろう。であれば、彼は辞めたいとまでは思っていないはずだ。戦士の称号に対する葛藤は自分が口出しするまでもなく彼自身が解決すべき問題であり、これほど頭の回る彼ならばいずれは自分の力で、自分の納得の行く答えを見つけられるだろう。

ふいに肌寒さを覚えて、体重を掛ける足を変え、身じろぎする。朝露を帯びた森。そのわずかな水分が体温を徐々に奪っているようだった。

竜はなかなか出てこなかった。視界の中心にはガラスのようにどこまでも平板な湖が青く深く沈み、その周りを彩るように様々な色合いの緑が森や山の姿を取って広がっている。人の手の加えられていない、自然のままの光景。しかしそれを見るこちらの胸の内は妙なざわめきを覚えていた。正体の掴めない違和感。リンクは何か感じていないかと隣を向くが、彼は立て膝で座り、表情の読めない顔で湖の向こうを眺めている。若干眠たそうにも見える彼に、マルスは思い切って尋ねた。

「……リンク。何か変じゃない?」

少しして彼は目をぱちっと瞬かせ、こちらを向いた。どうやら本当に眠りかけていたらしい。朝方もそうだが、よくこの気温で眠れるものだ。

「変? 何が?」

「どこかは分からないんだけど……湖のあたり」

「湖……」

こちらの言葉を繰り返し、彼は目をこらして湖面をにらんだ。ややあって、合点がいったというような声を出す。

「あれだろ? 湖が凍ったみたいに見えてるの」

「それかもしれない。もしかして、気づいてたのかい?」

「まあ一昨日から来てたから。あれはさ、湖の上、風が全然吹いてないんだよ。この村はずっと晴れたままだって言う話だけど、この湖のあたりは尋常じゃない。ほとんど空気が固まったみたいになってる」

頬杖をついたまま、空いた方の手で湖を指さして彼はそんなことを言った。

「辺りじゃ木の枝どころか葉っぱも揺れないし、空には雲も無いから、見えているものがなんだか絵に描かれたみたいに見えるんだろ?」

彼の指摘はもっともだった。改めて湖の景色をつぶさに観察し、マルスは彼の言ったことが自分の違和感を正しく言い表していると感じていた。山奥にいるはずなのに葉ずれの音も聞こえず、けものたちは竜を恐れているのかどこかに身を潜めており、どこからも物音は聞こえてこない。そのためにますます、見ているものから現実感が失われていくのだ。

ふと、湖の精霊の話が思い出される。しかし竜が降りてきたことに怒ったのであれば、こういう話の常として精霊は加護を授けている人間の住む人里のほうに厄介事を引き起こし、恩を忘れかけた彼らに自分のことを思い出させようとするはずだ。それがなぜ、自分の住み家に近づくほど異変の度合いが大きくなっていくのか。

「風を止めたのは……精霊じゃない?」

ぽつりと思ったままのことを呟くと、隣のリンクがちょっと目を丸くしてこちらを見た。

「精霊って何の話? 妖精のこと?」

「この村の人がそういう話をしていたんだよ。この湖には村を見守る精霊がいて、竜が来たせいで雨を降らせなくなってしまったんだって」

「へーえ」

素直に驚いている様子を見ると、この話は聞いたことがなかったようだ。

「君もさ、もうちょっと人と関わった方が良いんじゃないかな」

「良いよ。別に今まで苦労しなかったし」

特に堪えた様子もなく、彼はあっけらかんとした笑みを見せる。

「どのみち俺たちが戦うのは、君が言うところの“魔物”だろ。その辺りに住む誰もが見たことも、聞いたこともない、そのとき初めて現れたやつ。だからこの場合は誰に聞いてもたいした手がかりは得られない。だったらそいつを直接見て聞いて、自分の頭で考えるのに時間を使った方が良い」

「……昨日のあれもそうだったの?」

「ああ、まあね」

そう答えてから、ふとリンクは湖の方に注意を向けた。

僅かな間をおいて湖面がゆらりと動き、円の中心から竜が姿を現わす。だがそれは半身を露わにしたところで止まり、何かを聞き取ろうとしているのか、鎌首をもたげたまま動こうとしない。二人が息を詰めて見守る中、ついに竜は湖から出てくることなく、再びするりと水面下に姿を消してしまった。

予想に反して竜は暴れ出す様子を見せず、湖の底に隠れてしまったので、二人の戦士は一旦仕切り直すために森の中の広場に戻っていた。それぞれに切り株や丸太の上に座り、早朝の冷え込む空気の中で背を少し丸くしてたき火を囲む。しんと冷えた木立の中でずっと身を潜めていたせいで強ばりかけていた身体が、徐々に温まっていく。

「あれなら都合が良い。こう寒くっちゃ戦うどころじゃないよ」

たき火に手をかざしつつ、リンクがぼやいた。先ほどは何ともない顔をしていたが、やはり彼も寒かったらしい。

「何か……察してるのかな」

尋ねると、彼はすぐに頷く。

「そうかもしれないな」

「あのまま隠れられたらどうする? 戦いようがないよ」

「大丈夫さ。そのときは俺が湖に潜っておびきよせるから」

そう言って彼は荷物の袋から青い服の一式を出してみせた。

「……ああ、なるほど。昨日もそうやって釣ったんだね」

服の色を見て思わずあの時の一部始終を思い出し、マルスは渋い顔をする。

「え、まだ怒ってるの?」

「怒ったんじゃないよ。君があまりにも無茶なことするからさ」

「別にそんな危ないことしてるつもりはなかったんだけどなあ」

困ったように笑い、彼は首の後ろに手をやった。

「俺、いつもやってるから。確かめてるんだ、閉じ込められたやつにこっちの話が通じるかどうか。でもあの竜は無理だったな。こっちの言葉、分かってるかもしれないけど、それ以上に閉じ込められてるせいで苛立っててさ」

それを聞き、マルスは気づくものがあった。

「……君の言ってた『人の言葉を話せる』魔物。その感じだと、やっぱり君は実際に会ったことがあるんだね。でも、今まで彼らが説得に応じたことはあったのかい?」

「説得っていうか、互いに情報を交換するって感じだな。結局のところ彼ら、封印されない限り結界から出られないし、弱らないと封印することもできない。だから話した後はやっぱり戦うことになるんだけどな」

意外な言葉だった。

伝承に残る魔物には、確かに人の姿をしたものもおり、人語を解する獣のようなものもいた。言い伝えの中では、彼らは皆一様に人間への呪詛を吐き、あるいは見下すように侮蔑の眼差しを向け、支配の対象として見るような、そんな傲慢な言動を見せていた。だがリンクのこれまでの口ぶりからするとそのような気配は感じられない。これもまた戦士の栄光をより強く輝かせるため、倒されるべき絶対悪として対比となる彼らの姿が誇張して描かれていたせいなのか。

そんな例は今までに見たことがない。伝承に現れる魔物は、民衆を苦しめ戦士に封じられるそれらは常に、自分たちの暮らしている日の当たる世界とは相容れない存在として書かれていたのだ。

今まで自分は、紋章の戦士に関することなら学者がでたらめを書くはずはないと、実際に見たことではなくても大いなる手に誓って入念に調べているはずだと信じていた。紋章の戦士は大いなる手とは異なり、ある時代ある場所で本当に存在し、生涯を全うした一人の人間だ。だから、彼らと接したことのある人々がそれぞれに戦士の言葉を記憶し、あるいは戦士本人が書き残し、正確に伝えているはずだと。冷静に考えてみれば、真相を知り、その口で語る者はいずれ時の流れに打ち克てず、消えていく。残された言葉も、後世の人々の作為によって書き換えられ、有が無に、無が有に覆ることもあるはずだ。たとえば、真の功労者が様々な思惑によって歴史から消されてしまうように。

紋章の戦士について何も知らないのは、自分の方だったのか。マルスの頭の中ではそんな疑念が暗雲のごとく沸き起こっていた。

「……今まで、どんな話を?」

思い詰めたあげくに短く問いかけると、リンクは可笑しそうに口の片端をあげた。

「聞いちゃうかい? 知りたいなら止めはしないけど」

揺らめくたき火が映り込んだ青い瞳をこちらに据えて、何かを見定めようとするようにじっと見つめる。

マルスは覚悟を決めて頷いた。知らずにいるよりは、知った方が良い。そのうえで自分の立場を定める姿勢こそが、真に公平な態度と言える。

それを見届けた彼の笑みが、ほんの少し意味合いを変えたように見えた。

「……あれは今から何年か前の、冬のことだ」

もったいぶった前置きなど無しに、彼はそう語り始める。

「一つ目の鬼が出たって知らせをもらって、俺はその町はずれの墓地に向かった。待っていたのは暴れるでもなく、ものを壊すでもなく、ただ妙に細長い剣を持ったまま突っ立ってる男だった。あの日は雪が降っていたな。何もかもが真っ白に塗りつぶされた中で、そいつの格好だけが黒く沈んでいるように見えた。彼の顔には確かに一つ目みたいに赤く光っているとこがあったが、よく見るとそいつは顔全体を骸骨みたいな形の仮面か兜で隠しているだけで、両目のところに細長く隙間が空いていた」

降りしきる雪の中、少年と青年の境目に足を踏み入れたばかりの彼が異様な風貌の男と対峙する。そんな光景が頭の中に浮かぶ。

「そいつはこう言った。『お前は逃げないのか』って」

一つ目の男がその眼光で相手を見据える。若き戦士は、黙って首を横に振った。少年がその手にもつ剣と盾、そして彼自身の表情を見て、男は兜の裏で何か考え込むように低くうなる。その声は兜の中で奇妙に反響し、びりびりと震えていた。

『……そうか、そういうことだったのか?』

互いの剣は戦う意図を持たず、緩く下げられたままだった。男は続いて思い出したようにこう尋ねる。

『そうだ。ここは? ここはいったいどこだ』

リンクがこの町の名前を答えると、男は表情の見えない顔を怪訝そうに傾げた。

『聞いたことがない。ずいぶん古くさい名前だな』

相手の心が落ち着いていることを見て取ったリンクは、次の行動に出る。

『おれは、町の人から鬼が出たって聞いてここに来た。……あんたは? あんたはどうしてここにいるんだ』

『お前……俺がここの人間じゃないと知っているのか』

冷徹な声に驚きと、かすかな期待がにじむ。

『いろんなやつに会ってきたからな。あんたも連れてこられたんだろ』

『そうだ。覚えているのは、闘いたいか、と問いかけられたこと。……俺がそれにどう答えたのかは覚えていない。ただ、気がついたときにはこの墓地にいた』

『声を掛けたやつの姿は、覚えているか』

強いて声を落ち着かせて尋ねると、男は雪の降ってくる空をしばし見上げていたが、やがてこちらに顔を戻す。

『……白い手袋だ。俺を包み込んでしまえるほど大きな』

ふと何かを思い出したように顔を傍らの墓石に向け、じっとそれを見つめたまま彼は独り言のようにして呟いた。

『だとすれば、ここは死後の世界なのか? それとも煉獄なのか……?』

そのまま彼が自分の思考に没頭してしまったようなので、リンクは頃合いを見て再び声を掛ける。

『あんたは、元いたところに帰りたいか』

そう尋ねると、男はどこか割り切ったような様子で頷いた。

『帰ったところで戻ることのできる場所があるとも思えないが、ここに閉じ込められて過ごすよりはましだ。目に映るのはただどこまでも続く墓石と一面の雪景色……誰と語り合うことも、誰と闘うこともできない。自分が生きているのか、死んでいるのか、それすらも分からない』

『……だとしたら、おれはあんたと戦わなくちゃならないな』

自分よりもはるかに若い剣士が得物を構えたのを、彼はしばし無言で見つめていた。赤い一つ目が揺らぐことなくじっと、こちらの本質を見定めるかのように据えられる。やがて男は細長い剣を逆手に構え直し、姿勢を落とした。野生の動物、それも狩る側の獣を思わせる滑らかな動き。それはまさしく、熟練した戦士の動きだった。

男はそのまま、出会った時と変わらぬ冷静な声音で言った。

『闘う前にお前の名前を聞いておきたい』

その声がふと、何かを思い出したかのように笑いを挟む。

『これも何かの縁だ。お互い名無しのまま別れるのではつまらないだろう』

『リンク。あんたは』

胸の高ぶりで声が震えるのを出すまいと、短く答えた。

それを聞き届け、男も自身の名を明かす。

『グレイ・フォックス』

鏡のように、透徹な声で。

「……それで、勝てたのかい?」

マルスが最初に聞くことができたのは、そういう言葉だった。リンクは肩をすくめる。

「あれを勝ったと言うならね。何度も吹き飛ばされたよ。彼には倒れたっていうように見えてなかったらしいから、それがせめてもの救いかな」

その声は、手強い魔物を倒した戦士が誇るそれとはほど遠く、どこか同等ないしそれ以上の存在を追想し、その思い出をしみじみと見つめるような感情を含んでいた。

彼は視線を落とし、たき火の揺らめきを見るともなしに見ていた。それを見守っていたマルスは、沈黙をそっと押しやるように、自分の知る一節をそらんじた。

「『そは、かつて皆人を苦しめしもの、未だ生まれぬいみじき魍魎、はるかゆくすえに現る悪しき存在なり』……」

何となく意味は分かるが、と言いたげな、怪訝さの勝る表情でリンクが顔を上げる。控えめに笑ってみせ、マルスはこう付け加えた。

「昔、ある戦士が封じた魔物について尋ねた時、それに答えて大いなる手が宣った言葉だと言われている。魔物はそういうものだと言われてきたし、誰もがそう信じている。でも、そのせいで本当は危害を加えるつもりのない人まで……見慣れないというただそれだけで、恐ろしい魔物として決めつけられてしまったのかな」

「そういうやつも中にはいたさ」

心持ちいつもの表情を取り戻し、リンクは答える。いつもの表情と言っても、あの人なつっこく、それでいてどことなくつかみ所のない笑顔なのだが、こうなってみるとそれが不思議と安心できるのだった。おそらくそれが彼の一番自然な、落ち着いている時の表情だからなのだろう。

「退治しに来た俺を見て、思う存分暴れようと思ってたとこなのにこれじゃ話が違うって言ったやつもいたし、せいいっぱい無害なふりして、なんとか結界の外に出してもらおうとしたやつもいた」

そこで彼は気持ちを切り替えるように言葉を切り、軽く肩をすくめる。

「それにどっちみち、俺たちは彼らと戦って、封印してやらなきゃならない。悪いやつでも、そういうのじゃなくても。君の言ったように、彼らにとってここは『いるべき場所』でも『いるべき時』でもないのは事実だからな」

彼の言葉に同意を示して頷きつつも、マルスは我知らず難しい顔をしていた。

リンクが出会った“一つ目の鬼”は、白い手袋のような存在に声を掛けられ、元いた場所とは異なる世界に連れてこられた。あたかも、自分たち紋章の戦士が大いなる手によって選ばれるように、彼らも――魔物たちも選ばれているのだとしたら。

――でも、誰に?

空想上の悪しき神、未だ誰もその姿を見たことがないと言われる災いの左手か。世に混乱をもたらすために、異なる時と場所に住む者たちを誘惑し、連れ去っては見知らぬ地へと置き去りにする。ある者はこれ幸いと暴れ回ろうとし、またある者は途方に暮れてさまよい出す。これを制するために大いなる手が結界によって閉じ込め、自らの任命した当世の戦士に彼らを封じさせる。

頭の中、巨大な手だけの存在が互いにあらゆる時とあらゆる場所の人々をつまみ上げ、次々と場所を入れ替えて対峙させる、そんな光景が浮かんだ。だが、神とは、なべてそういうものではないだろうか。神話に語られる神はみな移り気で、それでいて気高く、人の思い至らぬ高みで互いの力を比べ合っている。大いなる手にしても、地上の物事には直接手を出さないと、自らに課しているのかもしれない。

――でも、それじゃあまるで……。

思い出されたのは村の光景。ぼろぼろに乾いた土に根を下ろし、縮れかけた葉をつけた果樹。収穫の時期には遠いにも関わらず、黄色くなりつつある麦。疲れ切った表情の中にかすかな希望を灯す村人たちの姿。こんなにも苦しむまで、彼らに本当のことを告げずにいたなんて。

まるで。その先の言葉を、心の中でさえ継げずにいるうちに声が掛けられた。

「で、君はどう思う?」

我に返り、顔を上げると、そこにはこちらの答えを待つリンクがいた。

「僕は……」

どこから話すべきか一瞬見失ってしまい、そこで一旦首を振る。

「……君は、嘘は言っていない。僕は君の話を信じるよ。それでも僕は……自分が見て、聞いて、それから考えてみようと思う」

これを聞いた彼は、嬉しそうに笑った。どうやらこちらの言葉は、求めていた答えに最も近かったらしい。

「それが良い。俺もそうしてきたから。君は君で、君なりの考えを持つと良いよ」

頷いている彼に、マルスはふと思い出すものがあってこう尋ねた。

「リンク。この話、他の戦士はみんなもう知っていることなのか? 戦士だけに語り継がれていて、君も誰かから聞いたのかい?」

「いや、自分で考えたことさ。でもまあ、他の戦士が知ってることなのかどうかは分からないな。なんせ、俺も知り合いを別にすれば、他の戦士と会うのは君が初めてだったから。だから、この話を他の国の戦士に話すのは君が初めてだ」

「なんだ、そうだったのか……」

自力で思い至ったことに感心しつつ、ちょっと拍子抜けするものを感じた。リンクが初対面の際に驚いた様子を見せていなかったので、てっきりもう何人か他の戦士に会っているものだと思っていたのだ。

「でも、君で7年間も旅して僕だけって……結構少ないんだね」

そういうと、リンクも同意するように頷いた。

「そのうち君も、僕以外のやつと会うことになるかもな」

「……そうだ、そういえば。君の言っていた『知り合い』って?」

「ああ。俺の暮らしてた辺りには、紋章を持ってる人がもう一人……いや、持ってるって意味では二人いる」

なぜかそのとき、彼は珍しいほどに苦々しげな表情をしてそう言った。マルスが意外に思っているうちにその表情は消え去り、リンクはこう続ける。

「けれど、その最初に言った一人の方とは情報を交換するようにしてるから、今言ったことはだいたい互いに意見が一致してる。まあ実を言うと……俺のぼんやりした考えをきちんと整理してまとめてくれたのが、その人なんだよな」

「そうすると、ずいぶん賢そうな人だね」

「ああ。まあな!」

今度は明らかに嬉しそうな顔をした。若者がこういう表情を見せるとき、思っていることはだいたい見当が付く。何となく頬笑ましくなって笑いをもらすと、それに気づいたリンクが慌てたように顔を取り繕った。だが心の内にある感情はしっかりと耳の色に表れてしまっている。

「え、何だよ。なに笑ってるんだ」

「何でもないよ」

鋭い洞察を見せる時の彼と、こうして見た目の年齢そのままの振る舞いをする彼の差があまりにも大きくて、悪いとは思うものの、いまさら笑みを引っ込めることはできなかった。

怒るのかと思いきや、リンクは首の辺りをかき、仕方がないなというように大げさなため息をついて立ち上がる。たき火に足でさっと土を掛けて消し、何事も無かったかのような声をしてこう言った。

「……そろそろ行くか。だいぶ暖かくなってきたし」

「分かった。それじゃ僕は村長さんを呼んでくるよ」

湖へと続く道を登りながら、リンクは振り返らずに手を振って応える。

顔を見せたがらない彼の仕草にまた少し笑い、マルスもその場から立ち上がった。下りの道に行きかけて、もう一度後ろを振り返る。心なしか普段より歩調を早めて遠ざかっていく背中を見やるその顔にはまだ笑顔が残っていたが、そこにはいつしか、どこか眩しいものを目をすがめて見るような、そんな感情が混じっていた。

今までに様々な国を、町を、村を歩き、あらゆる職種と階級の人々に出会ってきた。自分の顔を知らない平民には、若さゆえか偉そうに見られず、気さくに話しかけられることもあった。しかし、そこには必ず一線が引かれていた。貴族と平民の間にある、目には見えないにも関わらず、古から続くしきたりによって何人たりとも越えることを許されない一線。城内に戻ればまだ自分に近い者たちがいるが、彼らは彼らで、物心ついた時からたたき込まれてきたより細かい決まりに則って自分の身の振り方を決めており、それはマルスも同様であった。

線で区切られた外と内。それは徐々に縮まりながら何度も引かれ、そうして同心円状に狭まった中心に近い領域にいるのが自分だ。そこまで来てしまうと本当に対等に話せる者はほとんどいない。他国の王族にしても普段は互いの国のことで忙しく、出会うとしてもだいたいが公的な国の用事でとなる。やりとりは互いの国の事情という堅苦しい鎖に縛られ、心を打ち明けた会話をすることはほとんどない。シーダは例外だ。でもやはりそこには、お互いに異性という遠慮がある。

そんなごく狭い領域に座り、自分は彼方の広い円周にいる者たちが互いにふざけ合い、ばか騒ぎをし、開けっぴろげに話している様を心の中ではずっとうらやましく思っていた。幼い頃は、周りの貴族の子たちと一緒にやんちゃをして見つかり、厳しくたしなめられたものだ。あなたは王子なのですから、それにふさわしい人であることを望まれているのですと。

紋章の戦士となったことで、幾分かその円を外側に出る機会を得ることができてはいた。戦士として振る舞っているうちなら、人々は皆、王ではなく一人の勇士として見てくれる。でも、まさしく同じ領域にいる者――いてくれる者に出会ったのは今日が初めてだった。やや気まぐれな印象を受けることもあったが、自分と話している時の彼は、こちらが生まれ持った肩書きに対する引け目や緊張、妙な期待、あるいは警戒、そういった見飽きるほどに見てきた裏心が全く感じられないのだ。だがそれもきっと、こちらがそんなものを持っているとは知らないからなのだろう。

彼はこちらの素性について詳しく聞こうとせず、また向こうも進んで話そうとはしなかった。ハイラルは、アカネイアの大陸から近からずとも遠からず、十分これまでの行動の範囲内にあり、リンクとは今後もいずれまた会うことになる。これからも彼とは、こういう気のおけない仲でありたい。だから、彼が尋ねてこないのをそのままに、自分の正体については伏せておこう。

森を抜け、果樹園を通り過ぎて歩くことしばし、村の一番奥まった場所にある村長の家にたどり着く。

木造の扉を軽くノックすると、室内でごとごとと音がして、やがて奥さんの方が顔を出した。心なしか表情が緊張している。

「ああ、戦士さまでしたね! どうぞ、お上がりください」

勧められるままに家に上がると、居間で椅子に座り、心ここにあらずといった顔で何もない壁の方を見ていた男が慌てて立ち上がった。

「出発ですか」

太腿まである革鎧を着込んだ、恰幅の良い中年の男。年季の入った革靴まで揃えている。

顔を見るまでそれが村長だと分からなかった。呆気にとられて彼の様子を見ていたマルスは、はたと気がつく。

「……無理に来ていただかなくても良いんですよ。僕は逃げたりしません。僕の国の名に誓って、必ず竜を退治してみせますから」

「いえ、そんな! 決してあなた様を疑っているわけではありません。……村の者に言うからには、私がこの目で見なくてはと……そう思っているだけですから」

そう言いつつも、机に乗せられた手はかすかに震えていた。

と、背後、戸口の方で扉のきしむ音がした。

「ほっほ。そんなところだろうと思っておったわい。なんじゃ、そんなめそめそした顔をして」

「司祭どの! あなたこそそんな……普段着で行かれるつもりですか?」

「なに、“物見岩”のところからこれで見れば十分だよ。ぬしにも貸してやろう」

そう言って老司祭が懐から取り出したのは筒型の遠眼鏡。

「そこにしても湖から一里と離れていないじゃないですか。やっぱり危険です。あなたは村にいてください」

きっちり武装した姿を村人に見られるわけにはいかないのだろう、村長は玄関先まで出て行こうとはせず、その場から強い口調で司祭をいさめている。

「あんた、そんな大声出したらみんな集まっちまうよ」

向こうの部屋から奥さんが声をひそめてそんなことを言ってよこしたが、二人とも引く様子は無い。

「あの、村長」

見かねてマルスが口を挟むと、子供のように不服そうな表情を見せていた司祭も、長として治めるべきところは治めようと気を張っていた村長も揃って口を閉じ、こちらに顔を向けた。そのまま二人がそれぞれの感情を表して見つめてくる中、彼はどこかいたたまれない気持ちを覚えつつもこう伝えた。

「竜のことであれば、どうかご心配なく。昨日、もう一人の戦士に教えてもらったことですが、私もこの目で見てきました。大いなる手は湖に結界を張り、竜そのものはおろか、それが放つ光の息吹さえも閉じ込めていましたよ」

それを聞き、村長も司祭も思わず感嘆の声をもらす。台所で片付けをし、主人の話を邪魔しまいとしていた奥さんも聞き耳を立てていたらしく、向こうの部屋で「まあ」と声を上げた。見る前で村長も司祭もそれぞれに頭を垂れ、神に対する感謝の言葉を呟いている。

彼らの反応を見て、マルスは内心で罪悪感のようなものを覚えていた。嘘をついているわけではないと自分をなだめ、こう続ける。

「……ですから、湖に近づきすぎなければ大丈夫です。ただ、突風や水しぶきなどは防ぎきれないようですから、念のため何かものが倒れたり落ちてくるようなところには行かないようにしてください」

これを聞き、すっかり畏まって村長は深々と頭を下げた。

「承知いたしました。戦士さま」

老司祭も深く頷き、遠眼鏡をしまい込むとこう言った。

「それでは、我々は先に向かいます。麓側から迂回して湖の上にでるので、時間は掛かると思いますが、我々のことは気にせず先に戦っていてくだされ。竜が封じられれば、言い伝えの通りであれば“主なる御手”がいらっしゃる。それを見るだけでも証にはなろうて。な?」

「まあ、そうですが。私は……」

と、また何かを言いかけて、村長は首を振る。

「司祭どのは先に行っていてください。私も家の裏手から森に入ります。戦士さまは」

視線を向けられたので、マルスは彼の言わんとしているその先を了解し、頷いてみせた。

「僕は打ち合わせ通り、あなたの後でここを出ます」

「はい。お手間を取らせてしまい、申し訳ないですが……」

「気にしないでください。僕らとしても、その方が目の前の戦いに集中できますから」

安心させようと、笑いかける。村長もまだ緊張の残る硬い表情ではあったが、やっと少し笑顔を見せてくれた。

麓に降りるふりをして村を遠回りしていく二人がある程度のところまで行けるよう、また村人たちに悟られぬよう、マルスは村長の家を出た後もわざと、村の中を見て回るように歩いたり、時には村人たちに話しかけたりなどして時間を稼ぎつつゆっくりと村の坂を登っていった。

ふと、空を見上げる。村の家屋の低い屋根に縁取られた淡い青が、空の高いところをどこまでも一様に塗り込めていた。この村に来たばかりの自分にとってはどうしても、素晴らしい秋晴れの空として目に映ってしまう。だがそもそも、考えてみれば秋という季節は夏から冬に移り変わるために不安定な天気になりやすいものだ。空がいっぺんの雲もなくここまで晴れ渡り、しかもそれが春から秋の今まで続いているのだとすれば、たとえ農業に就いていない者でも得体の知れない不安に駆られることだろう。そう思うと、辺りで枯れかけた作物の世話をしている村人が、その日よけの帽子で頭上の光景を隠し、強いて空を見上げまいとしているように見えてきた。

あの若き狩人のように自分の直感を信じるのなら、おそらくこの上天気は湖ではなく竜そのものに原因がある。その場に居るだけで辺りの天気を変えてしまえるほどの力を持った竜。いるべき時、いるべき場所ならば晴天の神として崇められたこともあったのだろうか。

――だとすればなおさら、帰してあげなければ。この村のためにも、あの竜のためにも。

静かに決意した頭上、空のきわを縁取る模様は歩を進めるうちに乾燥しかかった木の葉となり、やがて密度を増して小高いアーチを描く緑の天井となった。森に入ったのだ。

昼に近づき、まばゆい木漏れ日が足元の乾燥した土に落ちる様を見ながら歩いていく。

その足が、はたと止まった。

自分が歩くのを止めてもなお、耳に届く足音。それは一人ではなく、またのどかな村人とは異なる生き方をしてきた者の足取り。

剣に手を掛けることも、それどころか振り返ることもせず凍り付いたように立ちすくむ彼の背後から、聞き慣れた老練な声が響いた。

「アリティア王よ」

わずかに頭を垂れ、胸の中で覚悟を決めてから振り返る。

森の中、自分が今まで登ってきた坂の下に二人の男が忽然と現れていた。前に出ているのは白髪を頂いてもなお背の曲がる気配のない老齢の軍師。彼の後ろには、魔道士の青い装束を着た親友が申し訳なさそうな顔をして立っていた。おそらく軍師は彼、マリクに魔法でここまで送るように説得したのだろう。そうでもしなければこんなにも離れた地に来た自分を捕まえることはできない。

「アリティア王、マルス様」

老軍師、かつては騎士団長として歴戦を戦い抜いた男は再びその名を呼んだ。まるで呼び戻そうと、引き戻そうとするかのように。

「……ジェイガン。なぜ僕がここにいると」

不意を突かれたこと、また彼の気迫に押されたことで、かすれたような声でこう言うのがやっとだった。

まさかシーダから聞き出したのか。その言葉はついに出てこなかった。彼女を含め送り迎えをしてくれる人には、自分からは特に「秘密にしてくれ」とは頼んでいない。誰にもそんな重荷は負わせたくないし、自分が戦士になったことを知る限られた仲間たちに、互いに腹を探り合うようなことはしてほしくなかった。

だがそんな彼の思いとは裏腹に、今の彼らは戦士のことを巡り、大まかに二つの群に分かれてしまっていた。すなわち賛成派と反対派だ。幸い、まだその区分はきわめて緩く、ここに来ているマリクのように性格上どちらに付くことも好まず、マルスの送り迎えも引き受けてくれる人もいる。問題はその中に一人か二人、核となるような頑固な人物がいることだった。ジェイガンもその一人である。彼はアリティアに昔から仕える古株の騎士であり、マルスの小さい頃からの守り役でもあった。そのことはシーダもよく知っている。彼女が板挟みとなり、辛い思いをしていなければ良いが。

海を隔てた向こうにいるであろう彼女の事を案じていると、老軍師の声が耳を打った。

「なぜ私には仰らないのですか」

思わず顔を上げたマルスに、彼は強いて胸の内の感情を見せずに、再び静かに訴えかけた。

「私には、仰ることができないのですか」

「そんなことはない」

打ち消すように言った。そのとき彼の脳裏によみがえっていたのは、同盟国の裏切りによって父が討たれ、祖国を追われてただひたすらに身を潜め、東へと旅をした日々。両親を喪い、姉と離ればなれになり、憔悴と怒りと、それらが混じった感情で周りは見えておらず、今となってはどこをどう逃げたのかも覚えていない。だがそんな中でも自分を守ってくれた騎士団と、それを率いるジェイガンの顔、彼らのことはその表情まではっきりと記憶に残っている。

あれから時が経ち、騎士団長も一線を退いた。とげの付いたあの甲冑も今は着ておらず、騎士が平時に着るような軽装に変わっている。だが、その鋭い眼差しはあの時と少しも変わらないのだった。彼の瞳に見据えられ、マルスは胸が詰まる思いをした。

「……ただ、行くと言えばあなたはいい顔をしない」

そう呟くように言ったが、ジェイガンは表情を変えなかった。彼が厳しい顔つきのまま、口を引き結んで何も言おうとしないので、こちらからこう尋ねるしかなかった。

「僕を連れ戻しに来たのかい?」

「それ以外に何がありますか」

彼はそう言って、しわの刻まれた威厳のある顔をしかめた。

「マルス様。一人くらい強く反対する者がいなければ、あなたは周りに期待されるがままに飛び回り、その心は否応なしにあなたの国を遠く離れていくことでしょう」

「それは――!」

反駁しようとしたところで、その切っ先を封じるように語気を強めて制される。

「であればなぜ、あの紋章をお持ちではないのですか」

言葉を失ったこちらに、彼はなおも問いかけた。

「その十字の紋章に選ばれるより以前から、王よ、あなたはアカネイアの姫君よりエムブレムを賜っていたのではありませんか?」

思ってもいなかった方向から痛いところを突かれ、ほとんどむきになって言い返す。

「しかし、それを持ち歩いていたらわざわざ自分の正体を言ってまわるようなものだ……!」

全く動じずに、むしろ背筋を伸ばして老軍師はこれを迎え撃った。

「なぜ隠さねばならぬのです。それは世界を救う者に与えられる覇者の証。……あなたは一体どちらなのですか。アカネイアを救われた英雄ですか、それとも――」

「それとも、どこの誰とも分からない“紋章の戦士”か……。そう言いたいんだね」

すっかり気勢をそがれてしまい、マルスは声を落として彼の言わんとしていた先を継ぐ。開けた坂の上に立っているのに、袋小路に追い詰められたような気がしていた。こちらと向き合い、退こうとしないジェイガン。彼の視線に耐えきれなくなり、その後ろを見やると、マリクが目をそらすこともできず強ばった表情でこちらとジェイガンとを見つめていた。彼は持った杖を強く握りしめており、その柄が震えている様子がここからでも分かる。かつての王子と、それを守っていた騎士団長。対峙する二人に口を挟むまいと必死に耐えているのだ。親しき友の有様が気の毒で見ていられず、マルスはそっと目を伏せる。これは、自分が招いた事態だ。

心が揺らぐ。頼りとしていた紋章の戦士にまつわる伝承は、あの緑衣の狩人と出会ったことで急に頼りのない、不確かなものになってしまっていた。少し前ならば自信をもって言えたはずの言葉を、彼はやっとのことで口にする。

「……どっちを選ぶのかって。選べるわけがないじゃないか。……アリティアの皆も、魔物に苦しめられている民も、比べられるわけがない」

「それでもあなたは今や、アリティアの王なのです。お父上、コーネリアス王の遺された国を治めてゆくべき、ただ一人のお方なのですぞ」

静かに言われた言葉に、唇をかむ。

顔を伏せてしまったこちらを見守る気配があって、やがてジェイガンはこう切り出した。

「……十字の紋章。私もその意味は理解しているつもりです」

マルスは顔を心持ち背けたまま、目を開き、その続きを待つ。

「戦士の紋章は、強く正しき心を讃える名誉の証。あなたが選ばれたのは当然のことでしょう。しかし……その紋章は余りにも強い力をもたらします。怪物との戦いに明け暮れる“勇者”ならいざ知らず、数多の人民を守り、国という巨大な責任を背負い、他国との際どい均衡を保つ王族には、かえって諍いの元になってしまうのです」

耳は傾けているもののなおも目を合わせようとしないこちらに、そこでジェイガンは名前を呼びかけ、振り向かせる。

「マルス様。我々が次の継承者を捜しております。ですから、どうか国にお戻りください。いくら異国の地であなたのお顔も知られていないとは言え、油断はできませんぞ。紋章の持ち主、その意味するところを知らぬ者はおりません。思わぬ所から噂が流れ、アリティアの国王が不死身の体と人並外れた力を手に入れたと知られたら……疑り深い者、策略を巡らす者、悪意を持つ者があなたを、そしてアリティアを脅かしにかかるでしょう」

「ジェイガン……その気持ちは有り難いけど、でも、それはできないんだ」

彼の心配は痛いほどに分かった。それでもこう言うしかなかった。

「継承者は僕らが決めるべきものじゃない。紋章の戦士、強く正しき心を讃える証、と言ったね。でも腕の良さや心の勇敢なことで言えば、僕なんかじゃなく選ばれて然るべき勇士がアリティアだけじゃなく、大陸のあらゆる国に揃っている。でもその中で選ばれたのは僕一人で、僕は今までにお告げももらっていない。……つまり、そういうことなんだ」

「……あなたは、正しき継承者が現れるまで待たれるおつもりですか」

ジェイガンはやっとのことでそう言った。紋章を辞退できることは彼だけでなく、マルスが戦士であることを知る皆が周知している。だが、たとえ表向きに知られぬまま紋章を天に返せたとしても、せっかく授けられた栄誉をみすみす無下にするのは一国の王としてどうにも示しが付かない。それどころか、紋章の存在が後世に知られたとなれば、王に臆病者の仇名が付いてしまうかもしれない。ジェイガンも同じ考えなのだろう、だからこそ継承者を探そうとしてくれていたのだ。せめて次に継ぐ形で、穏便に十字の紋章と手を切ろうと。

軍師はしばらく黙って考え込んでいた。その疲れた表情に隠しきれない老いが現れているのにふと気がつき、マルスはいたわしさに眉を曇らせる。こちらの様子には気づかぬまま、ジェイガンはふと呟くように言った。

「あと何ヶ月か遅ければ、歴史も違えていたであろうか……」

「僕が連合王国の創立を辞退したこと……気にしているのかい?」

二つの大戦が過ぎ去り、平和を取り戻した立役者であるマルスに、宗主国の生き残りであるニーナ王女から全権を譲渡しようという話が持ち上がった。しかしすでにそのとき、マルスは紋章の戦士として選ばれた後であり、自ら招集した家臣たちと夜を徹した議論の末、戦禍の跡残る国内の復興、島国一つだったところからいきなり大陸全土を任されることになる内政と外政への影響、今後も現れるであろう反対勢力、そして未知の力を秘めた十字の紋章――あらゆる要素を吟味した結果、これを謹んで辞退することになったのだ。

「……過ぎたことをとやかく言っても仕方がありませぬ。あなたは示された道しるべから一つを選び、そのほかを選ばれなかった。あなたの先に待ち受けるのは“未来”という名の道無き荒野。であれば今は、是非ともその足元を確かに、先を見据えて歩かれることです」

きっぱりとジェイガンは言い、その言葉に思わず耳を疑ってマルスは顔を上げる。老いた騎士はどこか呆れたようにも、一つ気持ちの整理が付いたようにも見える顔でこう続けた。

「それに、心優しいあなたのことです。おそらく宗主に選ばれた後だったとしても、十字の紋章を受け取られていたかもしれませんな」

そうして、彼は初めて笑みを見せる。苦笑に近いが、それは確かに笑顔だった。これに対してこちらが笑みを返す訳にもいかず迷っていると、ジェイガンは再び表情を引き締めてこう言った。

「王よ。これだけは約束してくだされ。あなたが紋章の戦士だと知る者たちには、行く先を必ず伝えると……。王国に万が一、火急の事態が起これば……もちろん、起こらないに越したことはありませんが、いつでもあなたをお呼びできるように」

「……分かった。約束する」

今度は彼の顔を正面から見て、言うことができた。

ジェイガンはそれを聞き届けて一つ重々しく頷くと、後はもう何も言わずに、深く一礼をし、きびすを返す。そのままマリクを引き連れて、山道を下りていった。マリクだけは最後にこちらを振り返った。まだ申し訳なさそうな顔をしている彼に、マルスは気にするなと言うように微笑んで見せたが、自分でもその笑みがぎこちないのが分かっていた。

彼らの背中が遠ざかっていき、やがて宙に展開した魔方陣の中に消えるまでを見送る。再び山道には自分一人だけとなったが、すぐには歩き出そうという気が起きなかった。彼らのせいで、遠くに置いてきたもの、置いてきてしまったものを思い起こしてしまった。

幼い頃から憧れてきた戦士の称号。そこに逃げたわけではない。逃げているわけでもない。だがこうして、一戦士として肩書きから自由になり、見知らぬ土地に赴いて人々と接することができる魅力には抗いがたいものがあった。それに加えて人からは感謝されるのだから、これ以上に言うことはない。

だが率直に言ってしまえば、それは自己満足だ。結局のところ自分が楽しいからやっているのだろうと言われていれば、返す言葉もなかった。しかし、戦士を続けることに反対しているジェイガンでさえ、そんなことは口にしなかった。彼ならばそもそも、そんなことなど考えにも浮かばないだろう。

道の半ばに立ち尽くし、彼は知らぬうちに顔をしかめていた。

自分とて一人の人間だ。皆のためになるからと言いつつも、次の継承者についてのお告げが来ないことを心の中では安堵しているのではないか。それに、啓示を待たずとも戦士は自分一人ではないのだから、がむしゃらにしがみつく必要もない。魔物の出現は、アリティアに届く範囲の情報ではあるものの年に数回しかない。リンクの国にいるという他の戦士も合わせれば、十分対処しきれる数だ。だから、辞めようと思えばいつでもできる。多少不名誉を被るにせよ。

これは、自分一人の問題ではない。国では解決すべき課題が山となって片付けられる時を待ち、今も自分の書斎には各種の書類が運び込まれていることだろう。城下町では、もしかすると陳情を携えた国民が謁見の時を待っているかもしれない。家臣達はそれぞれの個性を持ち合わせながらも一つの理想の下に集い、自分を支えてくれているが、もう一つの紋章が現れたことによって、かすかだが確かな不協和音が生まれてしまっている。先ほどの様子を見て、自分がこれほどまでに影響を与える存在になってしまったことを、マルスは今更ながら痛感していた。

自分一人の問題ではない。王子の肩書きはありつつも自国の騎士団や同盟国の戦士、進軍を続けるごとに繋がり、顔ぶれを増やしていった仲間、彼らと共に肩を並べて歩んだ頃をいつまでも懐かしんでいる場合ではないのだ。

なぜなら僕は――。

マントを翻し、坂を登ろうとして見上げた先に人影を捉え、それが誰であるかを知ったマルスは動揺する。

湖へと続く坂道、その左手にある小高い段差の上、木立に手を添えて立ち尽くす狩人の影。彼はこちらを向いていたが、その表情はちょうど朝日を背に受け、逆光の中に暗く沈んでしまっていた。

「見ていたのかい……?」

思わず後ずさってしまうほどうろたえ、マルスはそう言った。

昨日会ったばかりで色あせたところのない記憶、彼との会話が耳に、目によみがえる。憧れていた“紋章の戦士”との、思いがけないほどに素朴であっけない出会い。こちらを対等な戦士として、一人の若者として接してくれた青年。大それた肩書きを持たない者たちが見せていたやりとり、決して自分が体験することは無いだろうと諦めていたそれを、まったく気楽な調子で手渡してくれた彼。

だが、こちらがどういう人物であるか、彼はついに知ってしまった。まだ竜を退治してすらいないのに、これでは余りにも情けがない。

「……隠していたわけじゃないんだ。ただ、君があまり自分のことについて話したがらないみたいだったから、僕も……」

影に沈み、ぼやけて表情の見えない彼に向かって必死になって弁解する。言い訳がましいことは自分でもよく分かっていた。それでも言わずにいられなかった。

彼はどう思っている? あのやりとりを見て、どう感じたのか?

それを読み取ろうにも表情は依然として見通せず、また彼自身も微動だにしない。ただその瞳でこちらをじっと見据えているのだけが分かる。彼の視線がこちらに、こちらの胸に刺さるような思いがしていた。

これ以上、無益に言葉を重ねても意味がない。そんな考えが浮かんだとき、ついに耐えきれなくなってマルスは顔を背けてしまった。

「……悪かった。僕は、帰るよ。そのほうが君も戦いやすいだろう」

必死の思いで感情を抑えようとしたが、わずかに震えが声に出てしまう。急いできびすを返し、山道を下りかけたそのとき、視界の端でリンクが動いた。

「あー……あのさ、君。さっきからなんでそんなに慌ててるの」

その声に思わず我が耳を疑い、振り返った。段差の上、木立から前に進み出た彼は日陰に入り、ようやくその顔がはっきりと見えるようになっていた。

彼は、変わっていなかった。呆れたようにも、どこか心配しているようにも見えるその表情を、真っ直ぐにこちらへと向けていた。

「聞いちゃいけない話だったんなら、俺も謝るからさ……」

「そんな、君が謝ることじゃ…………でも、それじゃあ……君」

すっかり気が動転してしまい、言いたいことが頭の中でいっぺんに弾けて一向にまとまってくれようとしない。

「……君、知ってたの?」

「ああ。まさか王様だとは思ってなかったけど」

それがどうしたのかと言い出しそうなほどのあっけらかんとした様子でリンクは言い、頭の後ろをかいた。それを聞き届けたマルスは、そこで緊張の糸が切れ、大きなため息とともにがくりと膝に手をつく。

「なんだ……知ってたのか……」

「だって、格好はどこかの国の兵士っぽかったけど、それにしちゃ堂々としすぎてたから」

至極もっともな指摘だった。紋章にまで選ばれるような彼くらいの者ともなれば、ごまかすことなど最初から不可能だったのかもしれない。安心すると同時に自分の慌てぶりが思い起こされてなんだか情けなくなり、自分で自分を笑ってしまう。その向こうでリンクが段差からぽんと飛び降り、近くの草地に着地する音が聞こえた。さくさくと青い枯れ葉を踏み、やってくる。

「何を心配してたのか知らないけど、気は済んだのか? そろそろ竜も我慢しきれなくなって動き出す頃だ」

ひとしきり笑い、笑い疲れてしまったマルスはようやく顔を上げ、晴れやかな顔で頷いた。

「ああ。行こうか」

朝日が差し込む森の中、少しずつ気温が上がっていく。再び歩き始めたこともあって、ようやく緊張がほぐれてきた。

落ち着いてみると、彼が一体いつから気づいていたのかが気になってきた。真っ先に思い当たるのは、竜と対話を試みようとしていたのを誤解し、彼を叱ったあの時の口調。だがリンクのことだ、「会った時から何となく分かってた」と言われそうな気もしていた。とすれば次に考えるのは、彼はなぜ、それでもあんなに率直な態度を見せていたのか。

湖までは、まだ少し距離がある。マルスは前を行く彼に思いついたことを尋ねてみた。

「もしかしてさ、君も王族の血を引いてたりするのかい?」

あえて一番突拍子もない予想をぶつけてみる。振り返ったリンクはちょっと驚いたように目を丸くしていた。

「いいや、別に。俺は何でもないよ。でも、そう見えるのか?」

なぜか少し期待するような目で見てくるので、悪いと思いつつもこう返す。

「あー、だとすれば、君はずいぶんうまく正体を隠せてることになるかもね。僕よりも」

リンクはこれを聞いて笑った。

「なんだよそれ。見えないって言ってるようなもんじゃないか。まあ俺は見てのとおりの人間さ。でも王族っていうのには何人か会ったことがあるし、何となくどんな人かっていうのも分かってる。君からも同じにおいがしたんだ」

「それならなんで……」

言いかけて立ち消えてしまった言葉の先を、彼は正確に捉えていた。

「そういう風に扱ってくれって?」

「……いや」

「だからだよ。俺がこういう感じで話しかけても嫌な顔をしなかった。君は他の何でもなく、君として扱ってほしいんだなって、そう思ったのさ」

にっと笑ってみせて、それから再び彼は行く先に顔を向ける。マルスはその背を呆気にとられた表情で見ていた。まさか、あの雲を掴むような言動も試金石のようなもので、それに対する反応で相手の本質を見極めていたのだろうか。だとすればなんとも恐れを知らないというべきか、大胆というべきか。彼の会ったという王族がどういう人々かは分からないが、これが許されてきたのだとすれば、彼の住む国はずいぶん大らかなお国柄なのだろう。

また同時に、その大胆さにはまさしく年齢相応の若さが感じられた。彼は、リンクは不老の種族などではない。多少年齢以上に聡いところもあるとはいえ、等身大の若者だ。洞察力の深さを生み出すのは必ずしも重ねた年齢ばかりではない。自分がそれを忘れてしまっていたのには、少なからず驕りもあったのかもしれない。

「リンク」

声を掛けると、彼は向こうをむいたまま返事を返す。

盾を背負うその背中をじっと見つめ、真剣な表情で聞いた。

「僕がアリティアの王だってこと……誰にも言わないで、秘密にしてもらえるかな」

彼のことだから、そんなに気にすることかと言われるかと思っていた。しかし、リンクはあっさりとこう返答した。

「いいよ。俺、そういう秘密を守るのは得意なんだ」

「そういう秘密って……?」

まるで自分の他にもそういう依頼をした人がいるかのような言い方だった。リンクは意味ありげに笑うだけで、何も答えなかった。

広大な湖は、遠い彼方の岸を境界線として、辺りの景色を逆さまに映し出していた。わずかに黄みがかった緑の木立と山々、そしてその上に広がるのは一片の雲も無い青空。水面はわずかな揺らぎもなく静まりかえっており、こちら側の岸辺に見える砂利はどれも白く乾ききっている。鳥のさえずりも葉ずれの音も聞こえてこない静寂の中、手や足の先から背筋へと、自分でも理由の分からない緊張が張り詰めていく。

互いに遠く離れた異国からこの山奥にやってきて、昨日出会ったばかりの、2人の紋章の戦士。彼らは境界の外側に跪き、湖そのものではなく、その上に浮かぶものに目を向けていた。

竜は、今やその全身を露わにしていた。何尋もあろうかという長大な身体で大蛇のようにゆるくとぐろを巻き、それほどの巨体を持ちながら、竜は湖から僅かに浮かび上がった状態で静止していた。長らく雨が降らなかったために紅葉をまたずして枯れていこうとしている辺りの木々、褪せた緑色の中で竜のその翠玉色の身体はより一層映え、頭から尾の先まで美しくつややかな光沢を見せていた。

竜は静かに待っていた。彼方の空を見つめ、ただそのときをじっと待ち続けていた。

それは微動だにしなかった。全身を彩る黄色い文様が息づくようにほのかに光り、それによってかろうじてそれが生き物であると分かるほどに。

「……行くか」

その声に横を見ると、ハイラルの青年が盾を構え、早くも立ち上がろうとしていた。彼はあまりにも真剣な、ほとんど別人のような鋭い表情で竜を見据えていたので、こちらも声を掛けるのを一瞬ためらってしまう。

待って、と呼び止めると、振り向いた時にはその表情は嘘のように消え去ってしまっていた。

「ちょっと待って。作戦は?」

「作戦……?」

彼はぽかんとして、その言葉を繰り返した。その様子から察する。彼は今まで、ほとんど一人で戦ってきたのだと。紋章の戦士となる前から、もしかすると子供の頃から。ずっと自分だけで戦ってきたから、その場に応じて動きを変える、まさしく臨機応変の戦法が身に染みついているのだろう。

「君は慣れたものかもしれないけど、今は僕がいる。足を引っ張るわけにはいかないから、どう動いた方が良いのか教えてくれ。それに、互いに何ができるのか知っておいた方が良いんじゃないか?」

「何って、まず君はその剣だろ? 他には……」

「僕はこの剣だけだ。でも、このファルシオンには竜を制する力がある。全く異なる大陸の生き物だけど……あれも竜なら、ファルシオンの力が通じるはずだ」

これを聞いたリンクは感心したように、ちょっと目を丸くした。

「なるほどね。それで君のとこに手紙が行ったのかな」

今のマルスであれば、この言葉も余裕を持って受け止めることができた。

「そうかもしれないね。あるいは、ただ単に一番近くにいたっていうだけかも。……それで、君の方は?」

「俺かぁ……色々あるからな。まあ、ざっくり言うと剣と飛び道具。弓矢とフックショットに……あ、爆弾も持ってたな。投げる時は言った方が良いか?」

「そうしてくれると嬉しいな。怪我をしないとは言っても、驚いてしまうのはどうしようもないから」

そう言うと、リンクは笑い声を上げた。

「慣れだよ、慣れ! でもまあ、分かった。俺も声出してくけど、ちゃんと耳澄ましといてくれよ」

それから彼は再び竜の方に顔を向け、じっと目をすがめてこう続けた。

「……それじゃあ君はだいたい前に出て戦って、俺がちょっと後ろで下がって周りを見といた方が良さそうだな」

「他には?」

「あいつはかなりすばしっこい。一つの方向から追いかけるとすぐに飛び上がるし、そこからこっちの不意を突いてくる。なるべく一カ所に固まらないで、的を散らせた方が良い。あとは湖の上に逃げられると面倒だ。でも、そこは俺が弓矢で何とか焚きつけるよ」

「分かった。そっちは君に任せる」

心からの気持ちでそう伝えたが、それを聞いたリンクが苦笑しながらこちらを向く。

「君なぁ、そういうとこだよ。ほんと、真面目なんだな」

その言葉を聞いて初めて、先ほどの口調に自分の本来の気質が出てしまっていたのだと気づいた。彼は、隠すつもりはあるのかと言いたいらしい。そこまで思い至ると、こちらも自然と笑いが出てしまった。

「……いや、こういう話はつい癖が出ちゃって」

自分の演技がまだまだ未熟であることに呆れてしまったのもあるが、それ以上に、ここまで率直に指摘してくれる彼の口ぶりがやはり、新鮮だった。

「君も苦労してるんだなぁ」

彼は笑いを残しつつも、自らきりをつけるように、そこですっと立ち上がる。マルスも彼の意図を汲み、肩を並べた。

「だいたいこんなとこで十分か?」

「そうだね。後は、状況に応じて考えていこう」

二人揃って見据えるのは、湖に浮かぶ緑色の大蛇。

「それじゃ、行くか」

再び掛けられたこの言葉に、マルスは黙って頷き返した。

山の向こう、はるか麓に広がる平野は午前の日差しに照らされ、一面が秋草色に染まっている。竜は何かを待ち受けるような面持ちで、その地平線の彼方をじっと見つめていた。

二人は打ち合わせ通りに少し距離をあけ、目には見えない境界の内側へと踏み込む。見上げた向こうで、昇りゆく日を頭上から受けて黒く沈んだ竜の頭はそのままの位置に留まっていた。ただその金色の目だけが、木立から姿を現わしたこちらを認め、睨め付ける。

竜はゆらりと頭を巡らせるようにして長い身体を回し、おもむろにこちらに向き直った。この動きを見た戦士達も、それぞれの武器を構える。そんな彼らと対峙し、正面から受け止めるような覚悟を見せたかと思うと、竜は一声、名乗りを上げるように甲高い叫びを響かせた。その絶叫が一帯の山に反響し、淡いこだまを返す中、二人の戦士の姿勢に緊張が走る。

――……来る!

竜は、ぐっと頭を下げ、胴をうねらせたかと思うと――出し抜けに真っ正面から飛び込んできた。ほとんど矢のような勢い。しかしこれをすでに見切っていた二人は左右に散開し、これを難なくかわす。竜は結界の位置を覚えており、それにぶつかる前に身体を捻って衝突を避けた。顔が向いた先にいたのは、マルス。

牙をむき、あぎとを開いた竜。身体からすれば小さな前腕もまた、鋭い爪のついた三本指を威嚇するように広げていた。青眼に構えた剣の切っ先にこれを捉え、彼は腰を心持ち落として神経を集中させる。竜の全身が鞭のようにしなり、湖の外側へ飛び込んだ勢いをいなしてこちらへと矛先を変えていく、その過程が意識の中でゆっくりと、しかし否応なしに過ぎ去っていき、気づけば次の瞬間には剣ごと身を引いて飛び退っていた。

一太刀浴びせる暇も無かった。心の片隅でそれを反省しつつも、強いて目の前に集中を振り向け、素早く立ち位置を変えて相手を視界に捉える。竜は遠くに離れていた。今度は勢いを殺さぬように湖の岸辺を駆け抜けて大回りに回り込み、またこちらへと戻ってこようとしているところだ。その様子を注視しつつも、マルスは心の中でこう考えていた。ああして一直線に飛んでいる間は、速すぎて剣撃を当てるどころではない。方向転換する時に狙っていくしかないだろう。しかし、それには自分もその場に居合わせる必要がある。向かってきたところで素早く後ろに回り込めば、上手くすれば竜もこちらを振り返り、止まってくれるだろうか。

そんなことを考えている向こうで、それまで剣を構えていたリンクが慣れた動作で弓と矢に持ち替え、瞬きするうちに狙いを定めると次々に矢を放つ。折しも竜は円を描き終えてこちらに真っ直ぐに飛び込んでくる辺りであり、動いている的であるにも関わらずだいたいの矢が身体のどこかしらに当たった。最初のうちは耐えていた竜も次第に堪えきれなくなり、唸り声を上げて鎌首を引き上げると、一息に上空へと飛び上がる。

結界の上限をこするように、複雑な紋様を描いて飛び回る黒い影。日は少しずつ天の頂上へと近づき、目を細めないとその姿を捉えることも難しくなっていた。竜はそれを狙っているのだろうか。

「来た……逃げろ!」

「分かってる!」

声が飛び交い、直後、それをかき消すような勢いの突風が地上を襲う。経験と勘に身を任せ、ほとんど何も考えずに後ろに飛び退いた向こうで乾いた砂礫の嵐に紛れ、緑色のぼやけた影が踊っている。目をやられないよう腕を上げて顔を守り、すがめた目で状況を窺っていると、出し抜けに破裂するような音が耳を打ち、砂嵐が中から明るく照らし出された。見ると、竜が動きを止めている。

風が止み、何かを投げきった姿勢のリンクが砂埃の向こうに見えた。

「今だ!」

その声に我に返ると、マルスはすぐさま剣を横に構えて駆け出し、最後の一踏みに切り上げの動作を重ね、斜め一文字に竜の身体を斬りつける。手応えがあって、竜はこれまでのどの攻撃を受けた時よりも激しい動揺を見せた。振り上げた剣の勢いをいなし、捻って返す。追撃を狙ったのだが、相手の方が早かった。近くの地面を闇雲に尾で打ち付けたかと思うと、はじけ飛んだ砂利に思わずこちらが怯んだ隙に飛び去ってしまった。

よほど警戒しているらしい。竜は湖を挟んだ向こう岸に留まってぐるぐるとその場を巡り、こちらから目を離さずにいた。訝しんでいるようにも見えた。おおかたあの砂塵の中、竜はどちらがあの攻撃を当ててきたのか分からなかったのだろう。

小手をかざして眺めるリンクが、驚いたように目を丸くしていた。

「へぇー……ずいぶん効いてたみたいだな」

「だけどあの素早さじゃ、一撃当てるのが精一杯だ」

「どうにかして留めれば良いんだろ?」

「そうだけど……手はあるの?」

「まぁ、一発勝負だな。君はあっちから回り込んでくれるか。俺は反対側から向かう。そっちに合わせるから、全力で走ってくれて構わないよ」

「両側から挟み込むのかい……? でも、横には湖がある。そっちに逃げられないか?」

「大丈夫さ。俺に任せて」

そう言って、行ってこいというように背中を叩かれる。聞きたいことはあったが、じっくり話し合っている暇は無いと自分に言い聞かせて走り出した。迷いを切り捨て、後ろで聞こえ、遠ざかっていく足音を信じ、ただ目の前に意識を振り向ける。

視界の中で竜の威容がだんだんと大きくなっていく。相手もすぐには飛び立とうとせず、首を巡らせてこちらとあちらを、湖の縁をなぞるように向かってくる戦士たちを油断無く見つめていた。

その仕草に、不意に相手の考えを察する。

――狙い撃つつもりだな、僕らが固まったところを。

果たして竜は、こちらをぎりぎりまで引きつけたところですべるように横に逃れ、その赤い口を大きく開いた。宙の一点から光が生じ、徐々に丸く、大きくなっていく。砲弾くらいの大きさになったところで、しかしその光はふと揺らめき、竜は口を閉じて後ろを振り返ると、ぎょっとしたような様子で身を引いた。つられてそちらを見ると、リンクがなんと水上を走ってやってくるのだった。魔法か、科学か、はたまた呪術か。

「ほらっ、そっち行くぞ!」

かなりの運動なのか、さすがのリンクも息を弾ませて言い、その流れで竜に牽制の剣撃を浴びせる。竜は堪らず後退し、その長い胴が岸辺に乗り上げた。この機会を逃さずにマルスは前に踏み込み、今度は相手が怯んでいる間に矢継ぎ早に斬りつけていく。頭上で竜の顔がびくりと動いてこちらを認め、睨み付けるような気配があった。

苛立ちを含ませたその唸り声に気づいていなかったら、避けられなかったかもしれない。

鋼の大剣を力任せに振るうような、そんな錯覚と共に、退却したこちらのすぐ目の前を何かとてつもなく素早いものが横切った。竜がその尾を鞭のようにしならせ、振るったのだ。攻撃の手を止めたこちらを上から睨め付けて、竜はあたりの空気をびりと振るわせて吠える。

竜は飛び立とうとせず、そのまま尾をしならせて蛇のような仕草で距離を詰める。怒っているのだ。だが同時に、堪えているようでもあった。後ろに引かれたその尾に、いきなり緊張が走る。今度はそれを見逃さなかった。

ぐっと踏み込んで身をかがめた頭上を、丸太ほどもあろうかという竜の尾が通り過ぎる。重心を前に倒した勢いを殺さぬよう、そのまま前へと駆けだした。攻撃をかいくぐり懐に飛び込んできたこちらを見て、竜はすかさず口を開き、あの光の砲弾を溜め始める。だがそれは突然明後日の方向へと放たれ、結界に当たって消えてしまった。竜は死角からの攻撃でのけぞった頭を横に向け、おそらくはその先にいる射手を睨んで唸る。その矢を放った相手に心の中で短く感謝を告げ、竜が見せたわずかな隙を逃さず再びの攻撃に移った。突き、振り払い、返す手で横様に斬る。竜は飛び立つ力も湧いてこないのか、ただ身を縮こまらせていくばかり。

「よし、そのまま!」

声が聞こえ、振り下ろして次の動きに目をやるついでに見上げると、リンクの投げ放った金色の円盤が目に映った。紋章と同じ十字の刻まれた台座。戦士に与えられた力の一つ、魔物を封じるための不可思議な物体だ。魔物が十分に弱っていれば、これによってたちまちのうちに銅像と化し、動けなくなる。

しかし竜はこれを見切った。先程まで動けなかったのが嘘のように、円盤を視認した竜はまず頭を横にそらし、それが通り抜けていく軌道を避けるように長い胴を、尾をくぐらせていく。

封印の円盤がかすりもせずに飛び去ったところで竜は軌道を変え、まったくの唐突に、風を唸らせ自分めがけて突撃を仕掛けてきた。お返しとばかりに執拗に、こちらが避けた先を追いかけるように何度も飛び込んでくる。身をかわし損ねて弾き飛ばされ、地面に転がされ、何とか受け身を取って立ち上がる。竜はこれでひとまずの鬱憤を晴らしたのか、悠々と湖の向こう側に飛んでいった。

いつものことだが、大いなる手の加護により痛みはたとえ遠くに感じる程度でしかなくても、突き飛ばされることそのものに対する視界の揺れはどうしようもない。頭を振って息をついた傍らで、リンクも厳しい顔をして膝をついていた。

「いけると思ったんだけどな……もう少し弱らせないとダメみたいだな」

「……あの竜は?」

目に見える景色に違和感を感じ、マルスはふと尋ねた。湖を越えて向こう岸に行くように見えたのだが、いつの間にか姿を消している。

「……」

答えが返ってこないので横を見る。緑の狩人は一層険しい表情になり、湖の彼方を見つめていた。ふと見ると、彼は片手を地面につけている。どうやら神経を集中させているらしい、そこから伝わるもの――震動に。

「離れろ!」

すっと肝が冷えるような感覚があって、足元が地面ごと持ち上がる。

目の前の地面が丸く盛り上がっていく。その円はその内側に自分をすっぽりと捕らえていた。

遅すぎた。そう頭の片隅で思いながらも、何とか直撃だけは避けようと後ずさる。と、剣を守って後ろに引いていた右腕の裾が誰かにぐいとつかまれ、力強く引っ張られた。背中から倒れ込んだ、その足元で地面が炸裂する。

唖然として見る前で竜は風の鎧をまとって天高く舞い上がり、再び落ちてくる。その軌道を見ていたマルスははっと我に返り、今度は自力で横に転がり込んだ。その背に土と砂利が雨あられと降り注ぐ。竜が強引に、風の力を使って土を押しのけ、大地に飛び込んでいったのだ。

竜の次の動きに備えて後ろに向き直る。マントを引き寄せて顔を覆った先ではまだ土塊が盛大に飛び散っており、見る前でようやく竜の尾が地面の下に消えていった。全身を緊張させて待ち受ける彼の背後でこんな声がした。

「無茶するなぁ……ヒレが引っかかったらどうするんだか」

首を巡らすと、盾と剣を携えてはいるが、どう見ても防戦の態勢ではないリンクがしゃがんでいた。ついさっきまでの剣幕が嘘のように、彼はこちらの肩を通り越した向こう側に呆れたような顔を向けていた。

「大丈夫。あいつは向こうに行ったよ」

彼の言葉の通り、竜は湖の向こう岸で再び地上に現れる。明らかに先ほどよりも勢いが衰えていた。

「……ただものじゃない」

アカネイアには理性を保ったまま竜に変じる種族がいるが、彼らとはまた違った知性を感じる。天から飛び込むのでは見切られてしまうので、一か八か、地中から狙おうとしたのだろう。その目論見はもう少しで上手くいくところだった。魔物……ただの獣には考えられない機転。たまたまリンクが腕を引いてくれたから良かったものの、そうでなければ今頃自分はどうなっていたことか。

あの瞬間が鮮烈によみがえる。耳を聾する音と共に地面が割れ、天へ昇る竜が靴底を擦るような勢いですり抜けていったあの時。思わず肩を強ばらせたこちらに、リンクはこんな声を掛けてくれた。

「でも相手は一匹。こっちは二人だ。頭も二人分、だよな?」

「そんな……さっきから君に任せてばかりだ」

申し訳なくて、元気のない笑みを返すのが精一杯だった。リンクはそんなこちらの様子を、黙ったままちょっと意外そうな顔で見ていた。やがてそのまま何も言わずに盾を背に掛け、空いた手で拳を作るとこちらの鎧の肩を軽くこづいてから立ち上がった。

ぽかんと見上げた向こうで彼は再び盾を手に取り、走り去っていく。その歩調に現状を思い出して湖を見渡し、その視線を上へと向ける。竜はこちらの、少なくとも剣は届かない高みに留まっていた。小休止を取っているのだろうか。呼吸は心なしか荒く、向こうも少しずつ消耗しているらしい。

リンクはどうするつもりかと再び地上に目を向けると、彼は少し離れたところで弓を片手に持ち、狙いを定めて引き絞っている最中だった。刺激し、地上に引き下ろす作戦なのだろう。そう考えていると彼と目があった。彼はこちらに視線を合わせ、黙って頷いてみせる。相手の心を察し、頷き返す。それからマルスはきっぱりと立ち上がり、リンクの前衛を背負うべく一直線に駆けていった。

たどり着く辺りで頭上の高いところで風を切る音が立ち、続いて竜の怒りを含んだ短い咆哮が響く。

固まるわけにはいかない。相手は、まだあの技を隠している。結界を破ろうとして放った光の息吹だ。あれを受ければ戦士といえどもひとたまりもないだろう。吹き飛ばされ、相手に時間を与え、ここまで二人で繋いできた戦いの流れが相手に渡ってしまう。まとめて倒されることのないよう、彼は相方から少し右に距離を置いたところで立ち止まり、剣を引き上げて迎え撃つ姿勢を取った。

竜が降りてくる。まばゆい太陽を背に、黒く塗り込められた竜の姿がうねり、力を溜めて一直線に飛び込んでくる。

狙い通り――そう思った矢先、突然、胸の底に氷塊のような戦慄を感じた。

――竜が見ているのは僕らではない、僕だ。

ほとんど反射的に横に飛び退いた傍らを、緑色の嵐が駆け抜ける。視界の端で竜の頭が回り込むように動き、背後に消えた。思わずそちらを目で追い、背後に向き直った途端、打ち据えられるような感覚があって前にのめり、倒れ込む。尾で弾かれたのだ。背に、かすかに焼けるような感触を覚えながらも急いで手を、膝をつき、立ち上がろうとする。上を見ろという緊迫した声に顔を仰向かせ、慌てて転がり込んだ向こうで光が弾けた。乾いた土がはぜ、煙となって巻き上がる。むせ込み、目を瞬かせて、中腰のまま辺りに視線を巡らせる。土煙の向こう、竜は相変わらずその長い胴でこちらを完全に包囲し、執拗に円を描いているようだった。攻撃の機会を窺っているらしい。

マルスは一つ息をつき、両手に掛かった剣の重みを意識し、心を落ち着かせようとする。そうして注意を竜に向けつつ、ちらと空に視線をやり、湖と結界の位置を推定する。竜はその巨体ゆえ、飛び込んだ勢いを矯めるには少なからずの距離を必要とする。ここまで接近した状態から突撃を掛けるなら、結界に飛び込むような方向には繰り出さないはずだ。

心を決め、結界を背にして立つ。下段に剣を構えて竜の動きを目で追い、それが真正面に巡ってくる瞬間めがけて走り出した。それを認めた竜はぎくりと身を引き、行動を取りあぐねたか、僅かな間戸惑いを見せる。ようやく鎌首をもたげて光を溜め、砲弾を放ったが、それはこちらを外れた後ろに着弾する。相手の動揺が収まらぬうちに詰め寄り、とぐろを巻いたその胴体を素早く斬り上げた。先ほどのように怯んでいては追撃を受けると思ったか、竜は口の端を歪ませながらも高く飛び上がり、ようやくこちらから離れていく。日の光に緑色の身体を輝かせ、竜はそのまま弧を描いて湖の中に飛び込んだ。高く上がった水柱が収まるのも待たず、続いてマルスは湖の岸に味方の姿を探す。思っていたよりも彼は遠くにいた。竜の攻撃から逃れようとしているうちに引き離されていたのだ。彼は弓と盾を手に、駆け寄ってくる。こちらも合流しようと足を動かしかけ、そこではたと立ち止まった。つかの間の安堵でゆるみかけていた神経に、まだごく僅かに残されていた緊張が目を覚まし、危険を伝えた。

「止まれ!」

空いた手を大きく横に振り、身振りでも相手にそれを伝える。遅れて目の前の地面が生き物じみた動きで盛り上がり、ひび割れ、それを勢いよく突き抜けて竜の頭が姿を現わした。それは口を軽く開いており、牙の隙間からはすでに光が見えていた。黄色い瞳が動き、こちらを認める。

逃げようと地を蹴ったのと、竜が頭を打ち振るい、光の砲弾を放ったのはほとんど同時であった。幸いにも直撃は避けられたが、足元の地面ごと弾き飛ばされ、ほとんど転げるようにして避ける形になってしまった。見上げた向こうで、こちらの態勢が整わないのを良いことに竜は次々と気合いを溜め、輝く球をぶつけてくる。その横顔にはリンクが放っているらしい矢が途切れることなく当たっていたが、もはや竜はそちらを見ようともしていなかった。それを認め、背筋にすっと冷たいものが走る。

上にばかり気を取られていた。急に耳元で風が唸り、頭の中に閃光が瞬く。思わず視線を向けた先、脇腹を打ち据えた竜の尾を捉えたと思った途端、断ち切られたように目の前が暗くなった。

何度戦っても、この感覚は慣れない。

白い霧に包まれた中から徐々に風景が浮かび上がり、遠くから音がよみがえる。作り物のように感じられる手足に少しずつ力が戻り、自分の体が自分の意識の元に戻ってくる。

戦士は不死身だと語られているが、その表現は少し間違っている。正しくは、目に見えて傷つくことがなく、何度倒れても甦ることができるというだけだ。技能や勘といった中身は変わっていないので、こうして倒されてしまうこともある。

ぼんやりとした疲労と反省の念を覚えながら視線を向けた足元、そこにあったものに気づいた彼は頬を叩かれたような顔をした。

十字に円。それは、封じられた魔物の足元に現れる台座と同じ紋章だった。

無辺に広がる海と大地、精密に書き込まれた世界地図、それを見下ろす両の手、彼らがつまみ上げ、対峙させる無数の駒たち、戦士と魔物の終わることのない戦い――神々の遊戯。断片的でとりとめのない空想が頭の中を駆け巡り、混乱を覚えて堪えきれずに目を固くつぶり、頭を振る。

次に目を開けたとき、すでに彼は台座から地面に、戦いの場に降り立っていた。

竜は少し離れたところでリンクと戦っていたが、忽然と姿を現わしたこちらに気がつくと低く唸り、向かってこようとする素振りを見せた。すかさずリンクが矢を放ち、敵意をそらそうとする。終いに彼は何か丸いものを思い切り放り投げた。宙に爆炎が咲き、竜は思わず怯んで身をすくめさせる。頭上の爆発から逃れて下げられた頭が、不意に何かに引っ張られたかのようにぐいと動かされた。見ると、顔を飾るように伸びる四本のヒレのうち、下にある方に鎖が巻き付いているのだった。ピンと渡されたその先は、リンクが手に持つ道具に続いている。彼は足を踏ん張り、渾身の力で竜を大地に引き留めていた。

「……今だ、早く!」

口の端から絞り出すような言葉、それを聞く頃にはすでに走り出していた。だが、あまりにも距離がありすぎた。駆けつけ、やや焦り気味に剣を振り払い、どうにか切っ先をかすめさせることはできた。しかし当てられたのはその一撃だけで、竜は自分たちの見る前で鎖をふりほどき、風を打ち据えて空に飛び上がってしまった。

またしても上空からの突進を仕掛けるのか。ようやくリンクの近くまでたどり着いたマルスは、少しの距離をおいて立ち、互いに無言のまま視線を交わす。相手の顔には緊張はありつつも、疲労の色はそこまで濃くはなかった。彼は、油断するなというように首を振り、上に視線を向けてみせた。

空の底に、不意に雷鳴がとどろいた。見れば、一片の雲も無い晴天だったはずの空に黒雲が現れ、みるみるうちにふくれあがっていくのだった。竜はそれを煽るように雲の下で飛び回っている。黒い影としか見えなくなったその姿の中で、不意にこちらを睨め付ける気配があったかと思うと、稲妻が閃き、宙を駆け、耳をつんざくような音と共に地をえぐる。雷撃は、天を見上げる戦士二人の間に落ちていた。まるで彼らを引き離そうとするかのように。

当然、雷はその一撃では収まらない。やがて最初の雷を引き金に、竜は次々と稲妻を落としてきた。だが、戦士の側もただ避けるばかりではなかった。辺りで閃く光と音の暴力、それに意識を向けるうちに、どうやら同時に幾つもは操ることができないようだ、ということに二人は同時に気がつく。目配せをし、彼らは互いに正反対の方向へと駆けだした。

そうする間にも真横、背後、時には目の前の地面にまばゆい光が炸裂し、そのたびに見る景色が青ざめた白色に塗り込められる。

離れれば、竜が狙うのは確実にこちらだ。走りながらマルスはそう思っていた。だが、不思議と不安は感じなかった。先ほど目を交わした時、頷き返したリンクの顔にこちらを信じ、何かを託すような、そんな感情を見いだしたのだ。雷撃が次第に的を絞り、距離を詰めてくる。狩人の方は諦め、まず先にこちらを片付けようという魂胆らしい。自分に剣しか無いことはリンクに伝えてある。竜が上空にいる以上、自分ができることは全力で走り、なるべく注意を引き続けることしかない。雷はいよいよこちらに近づき、轟音と共に石の礫が飛び散り、大気に金属のような異様な匂いが混じりだす。あわや次は直撃か、そう思って回避を考えたその時、ほとんど等間隔で聞こえていたはずの落雷の音が聞こえなくなっていることに気がついた。見上げると、竜も上空で動きを止め、訝しげに地上を見回している。

頬を雨粒が打ち、やがて驟雨が湖を煙らせて降り出した。柔らかな雨音の向こう側、この状況には少し場違いな音色が聞こえてくる。

三拍子の舞曲。草原を騒がす春の嵐、その風を受けて回る風車、そんな印象を受ける曲を吹いているのはやはりリンクであった。竜も同時に気づいたらしい。上空で首を巡らせ、一声吼えると狩人めがけて一直線に降りていく。雨は彼が笛を吹き終えてもなお降り続いていたのだが、天から降りた竜が一喝した途端、風とも異なる波動が駆け抜けて雨を吹き散らしてしまった。頭上が明るくなったのでふと見上げると、まるで切り裂かれたように散り散りになった黒雲の欠片が青空のそこここにたゆたい、消えていこうとしていた。

竜の唸り声で我に返る。自分以外の者が天候を制するのは我慢がならなかったのだろうか。竜は今度はリンクに的を絞り、攻撃を加えようとしていた。辺りの空気を震わせて吼え、竜が飛びかかる。狩人が放つ矢の輝線は何かに妨げられたかのように逸らされ、あらぬ方向へと散開していく。竜は風を鎧のようにまとい、身を守っているのだ。僅か数瞬のうちに竜の長い身体が地をかすめ、結界の縁をなめるように動き、捻って再び狩人へと向かっていく。長い胴の向こう側に仲間の姿が消えていこうとしている。取るべき行動は一つしかない。加勢のため、マルスは再び駆けだした。

辺りには風の唸る音と地のはぜる音が響き渡り、それはまるで巨大な鞭が独りでに暴れているようであった。聞く者をすくみ上がらせるような音であったが、対峙する狩人は怯む様子もなく竜の突撃を右に左に、鮮やかにかわしていた。竜がまとう風の鎧によって矢を使うこともできず、素早い動きによって剣を当てることもできない。しかし彼がこちらの攻撃に全く当たろうとしないこと、それだけでも竜を苛立たせるには十分だった。

近づいてくるこちらを認めたリンクが、そこで一度竜を避けるための前転を挟み、こちらを見て何かを投げるような身振りをしてみせた。彼の意図することをくみ取り、頷き返す。

徐々に視野の中で大きくなっていく竜、その動きを見据え、首に提げた紋章に片手を当てる。紋章が暖かい光を放ち、滑らせた手にはいつの間にか円盤が握られている。投げる動作に入ったそのとき、竜の黄色い眼がこちらに気がついた。

間に合わない。だが、やるしかない。

顔をしかめながらも全力で投げ放った。金色の円盤は真っ直ぐに飛んでいき、竜のうねらせた胴体、何もない虚空を突き抜けていった。だがそのとき、円盤は同時に別の方向からも投げられていた。竜は慌てて身を引き、窮屈そうな角度に胴を折りたたんで辛うじてこれを避けてしまった。無防備なところにやってきたこちらを、そしてその剣を認め、竜は急いで飛び去ってしまう。

リンクは無事だった。膝立ちのまま竜が逃げていった方角を見つめ、厳しい表情をしている。

「……ごめん、外した……!」

息を弾ませて伝えると、彼の顔にあった険しさは嘘のように消え去り、こちらを向いて笑みを見せた。

「惜しかったな! まさか俺のまで避けられるなんてね」

「それって……」

その後が続く前に、思わず笑ってしまう。彼は最初から、こちらの一投目をおとりとして使うつもりだったらしい。見る前で彼は軽く勢いをつけて立ち上がり、湖の先を見据えてこう尋ねた。

「さて、どうする?」

彼の見る先、湖を挟んだ向こう岸には竜がいた。巨体ゆえに、それが抱える疲労はここからでもはっきりと見てとれた。肩に相当する部分を上下させており、荒い吐息が静かな湖畔を渡り、かすかに聞こえてくる。ここまで明確に弱っていれば封じることは可能なはずだ。後は、当てることさえできれば。その心を読んだように、リンクがこう言う。

「どうにかしてあいつの動きを止めないといけないよな」

「竜はたぶん、もう僕の剣には当たろうとしないだろう。君の爆弾で怯ませても、僕が間に合うほどの時間じっとしていてはくれなさそうだ」

「もっと長い時間動けなくなる方法か……」

彼の多彩な武器を持ってしても、考えあぐねるほどらしい。こちらの持つ武器はそれ以上に限られている。だとすれば、残る選択肢は――相手の攻撃だ。

竜は今までに様々な攻撃を仕掛けてきた。自在に宙を飛び回り、風で身を守り、天候を操って雷を落とすことさえしてみせた。尾を打ち振るい、地中からの奇襲を掛け、口からは輝く砲弾を放ち、戦士を寄せ付けまいとした。そこまで考えたところで、マルスは竜がまだ自分たちに対して見せていない攻撃があることに気がつく。

――『ああなったらしばらくは上がってこないよ』

昨日、出会ったばかりの狩人に連れられて見に行った湖での出来事。光の柱と見まごうほどの輝く息吹を放つ竜。結界を打ち破ることは叶わず、それはやがて力尽き、気落ちした様子で湖の底に姿を消していった。

「リンク。今竜は僕らから距離を置いている。ここで僕らがこのまま固まっていたら、竜はあの光る息吹を使ってくると思う?」

「あいつには後がない。一気に片付けられる方法があるならそうするだろうな」

「何か手立てはある? あの息吹をやり過ごせる方法は」

竜の動きを注視したまま問うと、リンクが怪訝そうな顔でこちらを向いた。

「やり過ごすったって、あれをか? あんなでっかい光の柱みたいなの……」

そこまで言ったところで、彼ははっと目を見ひらいた。何か思い出したものがあったらしい。

「……心当たりがあるんだね?」

「まだあいつには見せてないから、避けられる心配もない。だが、効くかどうかも分からない。それでもやってみるか?」

向こう岸で息を整えた竜がゆらりと身を起こし、滑るように湖の上を渡り始めた。それを迎え撃つようにこちらも前衛後衛に分かれ、相手の出方を待つ。リンクは弓を構えた姿勢で立ち膝をつき、牽制するように弓弦を引き絞っている。マルスも剣を構えてその後ろに立ち、攻撃の姿勢を相手に示していた。

竜はこちらの直線上にあった。神々しくも猛々しい瞳をこちらに据え、ゆっくりと近づいてくる。その瞳に自分たちの考えを見透かされているような、そんな考えがちらと浮かび、マルスはそれを心の中で打ち消す。竜は確かに賢い。だが、自分たちがまだ見せていない技まで見切るほどではない。現に、自分たちは今日の戦いで何度も相手の裏をかいてきた。そのたびに竜も学習し、慎重に振る舞うようになってはいる。今もこちらの動きを窺うような目をして、じりじりと距離を詰めようとしている。

焦りか、緊張か。竜の動きがやけにのろのろとしたものに映り、無意識のうちにわずかに歯を食いしばっていた。と、前で弓を構えるリンクの肩がぴくりと動く。マルスもそれに気づいた。

竜はぐいと頭をもたげ、胸の黒い紋様をあらわにして口を大きく開いた。赤く開かれた口の中に光が灯り、だんだんと大きくなっていく。今までに放っていたような光の球、それらの大きさを超えてなおも成長し続ける。地上に太陽が降りてきたような錯覚を覚え、剣を握った手に言いようのない震えが走った。ぎりぎりまで引きつけるつもりか、リンクの方を見ると彼はまだ弓を構えたまま動いていなかった。何をやっている、早く、と言いそうになる自分を、今度は強いて押さえつけた。彼は真剣だ。真剣に、目の前の竜と向き合っている。打ち倒すべき魔物としてではなく、自分たちと同じ、威厳をもった一つの生き物として。

見つめる先で光が急速に膨れあがり、辺りの景色を見る間に白一色に覆い尽くしていった。打ち合わせ通りに、そしてリンクの作戦を頼りに、マルスはすぐさまその場にかがみ込んだ。

光の奔流。甲高い風の音に目を開くと、まず見えてきたのがそれだった。光はものを見るために必要だが、あまりにも明るすぎるとかえって何も見えなくなるものだということを知った。ごく近くにある地面の土が風に飛ばされていく様子は辛うじて見えるものの、それより遠くのものは見ることができない。ふと気がついて前に目をやると、くっきりと黒く浮かび上がったリンクの影が何か大きな盾を手に、こちらと同じくかがみ込んでいるのが見えてきた。

「それは……?」

「ミラーシールド。光を跳ね返すんだ。まさかこんな大層なものにまで効くとは思わなかったけど。ものは試しってやつだね」

向こうをむいたままではあったが、明るい声で彼はそう答えた。それから少し真面目な調子になって続ける。

「マルス。俺は盾を構えてるから、光が途切れたらすぐ封印の円盤を投げてくれ」

「分かった。次は外さないよ」

真っ直ぐにそう答えた。再び紋章に手を重ね、金色の円盤をその手に取る。目をこらし、竜がいるであろう方角を見据えてじっと待った。

これほどの高い威力を持つ攻撃でありながら、竜が今までこの技を使わなかったのには理由があったのだろう。ひどく消耗し、動けなくなってしまう。向かってくる相手が二人ならば、なおさら安易に使うことはできない。だからこそ、それよりも威力の上では劣るが続けて撃つことのできる光の球ばかりを使い、この息吹は取っておいていた。確実に決着をつけられる、そんな瞬間が来るまで。

――落ち着け、落ち着け……

自分に言い聞かせ、円盤を投げるそのときの動きにだけ意識を集中させる。

光が、不意に弱まった。錯覚ではない。今や目を細めなくとも向こうを見られるようになっている。白い光の向こうに見えてきた竜は顔を伏せていた。やがて光は、やってきた時と同様に急速に弱まり、完全に消え去った。

「よし、いけ!」

その声を聞いたのとほぼ同時に立ち上がり、頭の中でずっとなぞってきた動きを現実に表し、勢いをつけて円盤を投擲した。一直線に飛んでいく金色の輝き。多少距離があったが、しかし今度は竜に避ける素振りは見られなかった。竜は顔をうなだれさせ、こちらに目を向けることもしていなかった――いや、瞳だけが、こちらを向いている。

これほどの距離がありながら、二人にははっきりと分かった。竜が見ているのは自分に向かってくる円盤ではなく、それを成し遂げた自分たちだと。竜の目にはどこか、強者を認めるような輝きがあったのだ。

円盤はそのまま、身じろぎ一つしない竜の身体に当たり、あれだけの巨体は一瞬にして人と変わらぬ大きさの銅像となって封じられた。竜の像はつかの間宙に留まり、やがて思い出したように落ちていく。あわや湖に没するかというとき、水面に当たるか当たらぬかのところで見えない力に阻まれた。

見上げると――そこには“大いなる手”が忽然と現れているのだった。

言い伝えにあるような大げさな楽の音も、五色の光もなく、飾り気のない登場であることはいつもと変わらない。大いなる白き手はそのまま、湖の上に浮かんでいた竜の像をその掌に迎え入れると、そっと握りしめた。指の間から朝日のような輝きが漏れ、次に手を開いたとき、その中には何も残っていなかった。

やがてそれは、重々しくも暖かみのある口調で言った。

『お見事であった、紋章の戦士たちよ。さまよえる竜はいるべき時、いるべき場所に帰っていった』

いつもであれば、最上の敬意を示して跪くところだった。しかし今日は、自分でも説明の付かない何かがそれを留めさせていた。

自分の前にいたリンクもいつの間にか立ち上がり、大いなる手を見上げていた。ここからでは彼の表情は見えない。だが、彼の盾を持たぬ方の手は決然として握られており、彼の心情を推し量るには十分であった。その感情の激しさに、思わずマルスはたじろいでいた。何が、彼をここまで怒らせているのかと。

果たして彼は、詰問した。

「……答えろ。この紋章は、戦士も封じられるのか」

今までに彼がこちらに向けた声とは全く異なる、硬く冷たい声。それは彼がその背に背負った剣と同じくらいに鋭利な輝きを隠し持っていた。だがマルスはそれ以上に、彼の発した言葉に驚いていた。

戦士は戦士を封じることができるのか。

そんな話はこれまでに聞いたことがない。紋章の戦士はいついかなる時も人々の味方であり、種族も国も分け隔て無く魔物の脅威から救う勇者なのだ。与えられた力は魔物と戦うことのみに使い、富にも権力にも興味を持たず、従って誰かと衝突することもない。だから戦士同士でいがみ合い、戦ったという言い伝えなど存在するはずもないし、現にこれまで見つかったこともない。

――『紋章の戦士も人間であることには変わりません』

昨日、自分自身が言った言葉が蘇った。戦士も人の心を持つ。リンクも心の中に複雑な葛藤を抱えながらも紋章を手放さず、魔物と戦い続けている。自分も国王と戦士という二つの責任の間で揺れ動き、民の求める英雄と自分の望む生活と、それらを前に正しさとは何かと考え続けている。そう、僕らも普通の、一人のひとなのだ。だとすれば、意見を対立させ、倒そうと決意するまでになってしまった相手が紋章の戦士にいてもおかしくはない。

これほどまでに近くにいるのに、リンクの背中はひどく遠く感じられた。おそらくこれは、自分の立ち入ることができる領域ではない。

それでもマルスは、彼を案じて見つめていた。大いなる手が戦士を罰したという話は伝わっていないが、戦士の力を悪用しようとした者たちを破滅させたという物語は数え切れないほどに存在している。それのどこまでが本当のことかは分からない。だが、その話の中には誰もが当然であると頷けるものもあれば、なぜこれほどまでに厳しい罰を受けなくてはならないのか、というものもある。

神の御心は、民草には計り知ることなどできない。何が無礼とされ、どんな仕打ちを受けるものか分かったものではない。彼のこの問いに大いなる手はどう答えるのか。気分を害し、そもそも答えようとしないか。……あるいは、紋章を剥奪されるのか。危惧した向こうで、不意に大いなる手の声が降ってきた。

『繰り返すも、繰り返さぬもお前の自由だ。繋がりの勇者よ』

その声音は初めと何ら変わらない、子を見守る親のように暖かな声であった。

「どういうことだよ……」

呆然として呟いていたリンクは、そこで大いなる手が立ち去る素振りを見せたことに気づき、「おい、待て!」と大声を張り上げた。だがもはや手はそれに答えず、こちらに甲を向けて淡い光の中に溶け、消えてしまった。

うなだれるリンク。先ほどよりも彼は近くに戻っていたが、その背にみなぎっていた覇気が去ってしまった今、どこかその姿は年齢以上にも幼く見えていた。

「……7年」

やがて、彼はぽつりと言葉をこぼした。

「7年だ。ここまで揃えるのに、7年掛かった。……7年掛けても取り戻せないものもたくさんあった。そんなことをする必要は無いはずだったんだ。でも、いろんなものと引き替えに俺とあの人で封じた魔王を、あの紋章は……」

「……その“魔王”が、紋章の戦士なのか?」

ようやく、そう問うことができたマルス。リンクはこちらを振り返り、先ほどよりもいくらか生気の戻った声で答える。

「ああ、そうさ。どういうわけか、あいつは紋章を持っていた。あいつを閉じ込めるために賢者たちが力を合わせて作り上げた封印も、あの手が渡した紋章のせいでヒビを入れられ、ついに壊されてしまった。もし、この紋章の力であいつを封じられるなら。そう思って、俺たちは……」

彼は腕に巻いた飾り、そこに結わえ付けられた紋章を握りしめる。飾り紐は藤紫色を基調とした品の良い色使いであり、一種のお守りの意味が込められているように見えた。

そうして彼は黙りこくっていたが、やがてふと笑い、首を横に振った。

「ごめんな、あんなの見せちゃって。君には関係ないのにさ」

離れていこうとする彼の心を、掴む。

「……いや。一度戦った以上、僕らは仲間だ」

正面から向き合い、マルスはそう伝えた。相手はこちらの顔をぽかんと見つめていたが、次第にその顔に笑顔が戻ってくる。

「なんだよ」

彼の声は笑っていたが、その笑みは彼の抱えるもう一つの感情を含み、どこか滑稽に小さく歪んでいた。

「君って、ほんと真面目だな」

竜が去った後の森は、まさに息を吹き返したようだった。そよ風に葉は揺らぎ、黄色い枯れ葉を落としながらもさわさわと耳に心地よい音を立てている。午後の木漏れ日の中で静かに落ちていく葉が光を散らし、遮りながら降り積もっていく。まもなくこの森に住む動物や虫たちも戻ってくるだろう。少しずつ活気を取り戻し始めた山道を下りながら、二人は会話を続けていた。

「それで、君はその……魔王を捜して旅をしているのかい?」

「まあ、それもある」

「その様子だと、自分で出てきたって感じだね」

「ああ。もうしばらく戻ってないよ」

彼は、そんなことを明るい調子で言うのだった。

「……何か、国で嫌なことでもあったの?」

「いや。辛い目に遭わされたわけじゃないさ。もう、ひとりぼっちってわけでもない」

ふとそこで遠くを見るような目をしていたが、リンクはいつものように独りでにそこから戻ってきた。

「むしろ、みんなは優しくしてくれる。けど、俺の知ってるみんなと、みんなの知ってる俺は同じじゃない。これから先も、同じにはならない。それがどうにもやるせなくて。で、あの国を出てきたってわけさ。魔王が姿をくらましたから、俺とあの人とで手分けして行方を捜してるってのもあるけど」

「そうか……」

そう言うことしかできなかった。彼は魔王を封じるために、何を失わなければならなかったのだろうか。想像の上でその重みは際限なく膨らんでいき、余計に正体を分からなくさせていく。木漏れ日の向こう側、雲の欠片が戻り始めた空を見つめて言葉を探し、やがてマルスはこう言うことにした。

「……もし君がアカネイア大陸に来ることがあったら、ぜひアリティアに来てくれ。君の旅のために、力になるよ」

「それって君の国、だよな?」

元気が戻ってきたらしい。リンクはそう返すだけの余裕を取り戻していた。

「ああ、そうさ!」

少し大げさに返してみせる。

「僕の国では、僕が戦士だということは伏せている。君も一人の旅人として迎えるつもりだ。ごく普通の、王と顔見知りの異邦人としてね」

「そうだな……この際、海を渡ってみるのも良いかもしれない」

そう言って、そこで彼は一つ伸びをした。折しも涼しい風が二人の周りを吹き抜け、木々をそよがせながら村の方角へと下っていく。

「……ああ。やっぱり風があるって、良いな」

森を抜け、果樹園が見えてくる辺りで二人は、先に山を下りていた村長と老司祭に出迎えられた。ふと軽い違和感を感じて見渡すと、辺りの畑に人影が見あたらない。聞けば、竜の退治を見届けて間もなく村長が急いで村を回り、村民にそのことを知らせたのだという。村長のその言葉だけで納得してくれるとは、よほど信があるのだろうと思ったが、彼曰く農業を生業とする村民は元から天候に敏感で、ほとんどの者は長が来る前に変化を察していたという。

今は老いも若いも総出で、ささやかながら宴の用意をしているということだった。

「竜退治のお願いを聞いてくださったうえに、重ねてお頼みすることになってしまい申し訳ないですが……」

腰を低くし、恐縮した様子で言葉を重ねる村長。どうやら離れたところではあったが、自分たちが竜と戦う様子を見たことで彼なりに何か感服し、あるいは驚嘆したところがあったらしい。そんな彼の様子を見て、後ろに立つ司祭は可笑しそうに笑っていた。

「喜んでお受けしますよ。僕は元々、明日出るつもりでしたし」

これ以上村長に気まずい思いをさせないよう、明るい声でそう答えた横で、思わぬ言葉が聞こえた。

「俺も行こうかな」

マルスを含め、その場にいた三人が驚きの表情で彼を見た。それぞれの視線を飄々と受け流し、緑帽子の青年は軽くほほえむ。

その日の夕方から始まった宴は、これまで村が干ばつに悩まされていたことを考えると決してささやかとは言えないものだった。おそらく麓の町の市場に行ってまで、新鮮な野菜や肉といったものを揃えてきたのだろう。ハーブをふんだんに使ったパイにオムレツ、色とりどりの旬の果物、初めて食べるような味のソースをかけた鶏肉のソテー。これを買うためにどれほどの村の蓄えを崩したのかと思うと胸が痛んだが、周りで同じ料理をとりわけ、杯を交わして喜び合う村の人々を見ているうちにそれは少し和らいでいった。今晩はその料理が自分たちにだけ振る舞われているのではなく、村の者全員に行き渡っているのだ。そんなこちらの心を読んだかのように、向こうから司祭が顔を出して目配せをする。

「戦士さま、どうかお気になさらず。これは冬まで日照りが続いた場合に備えて蓄えていた分でな」

「本当に、無理はなさっていないんですよね」

「もちろん。ほれ、あれを見てくだされ」

顎でそっと示した先を見ると、熱気でほてったと言って一旦席を辞した村長が向こうの部屋で他の村人となにやら話し合っている様子が見えてきた。賑やかで明るいざわめきの向こう側、「万が一」「もうじき雨が」「氾濫に備えて」と言った言葉が断片的に聞こえてくる。それを聞いたマルスは内心で感心していた。竜がいなくなれば確かに、あるべき天候の揺らぎが戻ってくるだろう。大地も川も、春先からの干ばつで乾ききっている。どんな小雨でも警戒するに越したことはない。そう思いながら見つめていたのだが、周りの村人たちは違う意味で受け取ったらしい。戦士が村長の方を眺めているのに気づいた何人かがわさわさと立ち上がり、手を引いたり、笑って背中をどやしたりしながら村長を宴の席に連れ戻してしまった。

つい昨日の朝、物怖じした様子で遠巻きにしていたのが嘘のように、村の人々はすっかり打ち解けた様子でこちらに話しかけてきた。誰も彼もが“竜退治”の話をせがみ、こちらが話し出せば口をつぐんで真剣に聞き入った。自分がその場に居られたならと嘆息する若者たちが目に映り、マルスは知らぬ間にそこにかつての自分を重ねていた。

ふと思い出してもう一人の戦士の方に目をやると、彼は彼で村人に囲まれており、口数は少ないながらも彼らの期待に応えているのが見えてきた。心配するまでもなかったかと思いかけ、そこでマルスは訝しげに眉をひそめる。周りの人々は気づいていなかったが、彼の表情はどこか曖昧でつかみどころが無く、辺りの活気から少し浮いた静けさをたたえていた。それはあの時の表情と同じだった。森の奥で彼と初めて出会ったとき、こちらもまた戦士であると気づく前に見せていた、仮面を被ったあの眼差しと。

宴は村人の気質を反映し、賑やかでありつつも終始和やかなままお開きとなった。

時刻は深夜を回った頃。とうに宴の片付けも終わり、下の階はしんと静まりかえっている。宿として貸し出されていた集会場の二階。階段を上がった先に設けられた小さなホールには人影があった。夜も更けたというのに、部屋から起き出して丸机に向かい、腰をかがめているのは若き王。彼はすでに身支度を済ませており、旅の荷物も傍らに置いていた。ホールに置かれた机は本来花瓶を置くためのものであり、椅子などは備え付けられていなかった。一重咲きの秋の花が生けられた花瓶を倒さないように注意しつつ、少し窮屈な姿勢で何かを書き付けていた彼はふと手を止め、顔を上げた。

別の部屋の扉が開き、窓の向こうから差し込む月光に目を細めながら青年が現れる。緑帽子は脱いでおり、金髪のあちこちに寝癖が付いているのが分かる。

「なんだ、帰るのか?」

まだ声に寝ぼけを残したままではあったが、彼はこちらの様子を見てすぐにそう察していた。

「ああ。迎えが来るから、それに間に合うように出なきゃ」

「そっか。それじゃ俺も」

「待ってて。今手紙を書き終える」

「誰に?」

相変わらず眠たげに目を細めたままやってきて、リンクはちょっと離れたところからこちらの手元をのぞき込んだ。彼もまた戦士であるから、異国の言葉ではあっても読めているだろう。何に感心したのか、「ふぅん」とだけ言って彼は自分の部屋に戻っていった。もそもそと、身支度をしているらしい音が聞こえてくる。

村長と司祭、そしてこの村の人々。彼らの顔と、暖かいもてなしを思い起こしながら文章を綴っていく。果たしてお礼に何を置いていくべきか。最後の締めくくりを前にして考え込んでいると、見る前で机の上に鮮やかな色の宝石が転がってきた。細長い六角形にカットされた、色とりどりの石。

「これ、ハイラルの辺りではお金なんだけどさ。俺はこれで代わりにする」

「……良いのかい?」

「ああ。それに君、国の金貨なんかは置いていけないだろ」

宴の間も、村人が向けてくる特定の質問をはぐらかしていた様子を、彼にはしっかりと見抜かれていたらしい。何となくきまりが悪くなって、肩をすくめて笑う。

「それもそうだ」

二人連れだって、村の門を後にする。

せめて別れの挨拶をしたいところだったが、長居はお互いにとって無用だ。自分たちはすでに戦士として果たすべき責任を果たした。戦士はおおよその魔物と違って人に厄介を掛けないものの、非日常の存在であることには間違いがない。村にもそろそろ通常の生活を戻してやったほうが良いだろう。

夜更けまで続いた宴に疲れたのか、地平の彼方で曙光が見え始める時刻になっても村は寝静まったままだった。村を出てくる時はかすかに聞こえていたのどかな寝息やいびき、寝言ももうここからでは聞こえない。自分が今後、この村を訪れることは無いだろう。そう思うと急に言いようのない名残惜しさが湧いてきて、それを断ち切るためにマルスはようやく前を向く。ふと気づくと、隣を歩くリンクがそんなこちらの様子を横目で見ていた。面白がっているような、それでいてどこか大人びたような笑みをうかべている。なんだ、と言うように訝しげな顔をしてみせたが、彼は笑って首を横に振るだけだった。

行く手に拓けた空は、夜の藍色と朝の橙色がせめぎ合い、そこに腹だけが明るく照らし出された雲の群れが加わって複雑な色彩を生み出していた。遠くで鳥が鳴き始め、風が海鳴りのような音を立てて木々を揺るがせる。自分たちの歩く道にも少しずつ、暖かな日差しが差し込み始めた。

辺りの全てが薄明るい橙色に色づいていくなか、マルスはこう切り出した。

「無理して出なくても良かったのに」

軽く耳をあげるように首を傾げ、リンクは怪訝そうな表情を返す。そんな彼に顔を向けて言葉を継いだ。

「君には君の考えがあるんだろう。僕に言われたことを気にしたのかい?」

戦士は人々の期待に応え、人々の理想とする姿を見せなくてはならない。リンクが昨晩の宴に出ると言ったのは、自分がそう言ったからなのではないか。宴の席で彼が見せていた表情を見てからというもの、ずっとそれが引っかかっていた。

しかし、リンクはこちらの尋ねたいことを察するとすぐにこう答えた。

「ああ。ちがうよ」

一片の曇りも無い、明るい表情。彼はそのまま行く手の空に顔を向け、何かを探すような間を置いてからこう続ける。

「君のせいかというなら、ある意味ではそうかもね」

彼らしい、謎めいた言い回し。思い当たることを急いで頭の中に並べようとした先で、リンクはそれを見透かしたかのようにふと笑いを挟んだ。

「君とは、つい昨日会ったばかりだ。それなのに、気づいたらいつの間にか、俺はあそこまで自分のことを話してた。あんなこと、そうそうあることじゃない。俺にもよく分からないけど、でも、君にはそうさせる何かがあったんだ」

彼はそう言って、素直な感心と好奇心の交じった瞳をこちらに向けていた。

「すぐには変われない。でも、少しずつ変えていくのも悪くないかなって、そう思ったのさ」

「僕の言葉が役に立ったのなら何よりだ。僕のほうも、君に会ってから色々と考えさせられたからね」

良い意味で言ったつもりだったが、なぜか相手はちょっとばつが悪そうに視線を泳がせる。

「あ、それさ……。君みたいなのが珍しかったから、ついこっちも本気になっちゃって。でも、俺が最初に思ってたのとは違った。君は本当に紋章の戦士のことを信じていて、憧れている。上っ面だけで偉そうにしているのとは違う。そうと知ってたらあんな話はしなかった」

「構わないよ。僕は気にしてない。むしろ、君が話してくれて良かったと思ってる」

逸らすことなく目を向けて答える。もしも話すまいとしていたなら、彼は最後まで捉え所のない仮面を被り、内に本心を閉じ込めたまま自分と接していたことだろう。波風は立たないかもしれないが、それではあまりにも味気がなさすぎる。

「ほんとか?」

苦笑と申し訳なさの混じった素直な顔を向けてリンクは言った。

「ああ、本当さ!」

はっきりと頷き返し、それから再び行く手に顔を向けたところで、彼は空の一点にふと目を留めた。

隣でリンクも同じものに気がついていた。目を細め、あれほど遠くにいる点のような姿を見分けようとしている。

「あれは鳥……いや、違う。馬に翼が生えてるんだ」

「僕の迎えだよ。その様子だと君のところにもペガサス、いないんだね」

「へぇ、ペガサスっていうのか……」

好奇心もあらわに、彼はよく見ようと小手をかざして首を伸ばしている。

「君は? 歩いて行くのかい?」

「いや、俺にも相棒がいる。まあちょっと見てな」

そう言うとリンクは荷袋からさっと笛を取り出し、両手で包むように持つと一つの調べを奏でた。初めて出会ったときのそれとも、竜と戦ったときのものとも異なる、のどかでのんびりとした曲。緑の牧場を思い出すような音色が早朝の山に淡くこだましたかと思うと、彼方のほうでそれに応えるように馬のいななきが聞こえてきた。蹄を鳴らす高らかな音がそれに続いて徐々に大きくなっていき、しばらくして眼下の山道、一つ斜面を隔てた下の道に見事な栗毛の馬が颯爽と現われた。体つきのどこを取っても無駄がなく、たてがみをなびかせ、茶色の毛並みに朝日を受けて走る様は絵のように美しい。

鼻筋に白く模様の入った馬はそのまま道を曲がって一旦姿を消し、再びこちらの道の右手から山道を登ってきた。迷わずリンクの元に向かうと、再会を喜ぶように鼻先を近づけた。リンクも嬉しそうにその馬をなでてやっている。

「ずいぶん良い馬だね」

「分かるか?」

彼は得意げに含み笑いする。栗毛の馬も顔を上げてこちらを見つめ、考え深げな顔をして一つ尻尾を振った。

リンクは笛をしまった荷袋をさっと肩に掛け、もう一度空の方へ、ペガサスがやってくる方角に目をやる。

「さて、それじゃ。そろそろ俺は行くかな」

そう言って軽く眉を上げて笑ってみせる。彼のことだ、きっと騎手の姿も見えたのだろう。こちらも笑みとともに頷き、こう返す。

「君の言ってたもう一人の戦士、いつか紹介してくれよ」

「ああ、いいよ。でももしかしたら、君のことだから俺が紹介するまでもなく会うことになるかもな。光か影のどっちか」

「光か影……?」

訝しげに繰り返したが、リンクはにっと笑ってはぐらかしてしまった。

「会えば分かるさ。とにかく、俺みたいに耳の長い人だから、見ればきっとすぐに分かる。俺のことを知ってると言えば話が早いと思うよ」

そう言って馬に向き直り、先に荷袋を載せた後に勢いをつけてその背に足をかけ、跨る。その場で栗毛の馬に方向転換させ、鼻先を坂道に向けさせると馬上からこちらを振り向いた。

「じゃあ。マルス、また会おうな」

「うん、色々とありがとう。また一緒に戦えたら嬉しいよ」

「こっちもだ。そのときはよろしくな!」

そうして最後に手を振ると、彼は馬に足で合図をし、ゆっくりと常歩で坂道を下り始めた。田舎道にポクポクとのどかな音を立てながら、緑の服の背がだんだんと遠ざかっていく。道なりに下の山道までたどり着き、やがて木立が作る隧道、秋色の天幕に隠れて消えていこうとする影にマルスは手を振り、口の横に片手を添えてこう伝えた。

「よかったら、いつかアリティアにも来てくれよ。そのときは僕が案内するからさ」

馬の背で揺られる影がこちらを見上げ、手を振ってそれに応えた。

麓に降りたところで、蹄の音は弾みをつけたように威勢の良いものとなり、朝の空にその音を高らかに響かせながら少しずつ遠く、小さくなっていった。やがて街路に出た小さな点のような姿が朝日に向けて走っていくその姿を、若き王は、迎えの天馬が降りてくるまでずっと見送っていた。

ペガサスは乗り手に従い、羽が舞い降りるように静かな着地をしてみせた。シーダは風で乱れた髪を片手ですくい、少し急いだ様子で天馬から降りるとこう言った。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」

「いや。僕もさっき着いたところさ」

そう答えたが、彼女はそれでもまだ何かを案じているような顔をしていた。

「……その、そちらにどなたか行ったかしら?」

これを聞いてすぐに合点がいく。

「ああ。でも、問題は無かったよ。……君の方は?」

シーダは首を横に振り、ようやく笑顔をみせる。

「聞かれなかったわ。あなたったら、書庫から借りてきた地図を返すの、忘れてるんですもの」

「え……。あ、それでここが分かったのか……」

戦士の任務を果たしに行く際はいつも、城を出る日付や時刻、通る道から旅の手段に至るまでを念入りに考えている。だが、何度かそれを乗り越えたことによる気の緩みがここに来て足を出したらしい。それでもまさか、目に付くところに置いてあったわけではないだろう。そうではないと信じたい。

急いで記憶を遡っている様子の彼を、シーダは頬笑ましく見守っていた。

「安心したわ。その様子なら、それほどきついことは言われなかったようね」

「うん、まあね。彼はきっと……」

自分の考えを言いかけて、マルスは首を振った。その推測は、結論とするには未だ早い。自分の願望も多分に入ってしまっている。彼は、内心でどう考えているにせよ、これからもきっと自分を引き留めるように動くだろう。自分が本当に果たすべきことから、辿るべき道から離れていかないように。心の中でそう整理をつけてから、代わりに彼はこう尋ねる。

「……そっちは、変わりなかったかい?」

「ええ。大きなことは、何も。いつも通りだったわ」

こちらを安心させるように、彼女は笑顔とともにそう答えた。

「紋章の戦士さま、あなたの方は?」

そのまま明るい声で尋ね返されたマルスは数瞬、返す言葉を見失う。

シーダに迎えを頼むと、いつも決まってされる質問だ。これまでの自分なら、意気込んで“魔物との戦い”がいかに胸躍るものだったかを語るところだった。それが今日は、頭の中で言葉になりきれない思いが渦巻き、何かに堰き止められたようになって一向に出てこようとしない。

それでも彼女を心配させまいと、すぐに言えることを探し出した。

「僕は今回、もう一人の戦士に会えたよ」

「まあ、本当? ……もしかして、あの平原を馬で駆けていった方かしら」

そう言ってシーダは麓の方を、緑の旅人が去っていったあたりの方角を見つめる。こちらも同じ方に顔を向け、朝日に目を細めながら頷いた。

「そうだね。彼も挨拶していけば良いのに。まあ、あまりそういうのは得意じゃないんだろうな。でも、気を悪くしないでくれ、彼は良い人だから」

「あなたが言うなら間違いはないわね。そうしたら、竜とは二人で戦ったのね?」

「ああ。色々と学ぶことがあったよ」

短く答えたが、口をつぐんだあとも胸の内では様々な言葉が立ち上り、行き交い、過ぎ去っていた。わずか数日のうちに、自分はあまりにも沢山のことを知ってしまった。もはや一昨日の自分には、紋章と勇者と大いなる手の織りなす伝説に純粋な憧れを抱いていた自分には戻れないだろう。

傍らで同じ朝日を浴び、そよ風に遊ばれる青髪を押さえる想い人。マルスは彼女の横顔をそっと見つめる。まだ自分が少年だった頃、騎士団に守られてたどり着いた東方の島国。彼女はその国の王女だった。自分はその国で起こったある戦いをきっかけとして旅立ち、シーダもその戦いの恩を返そうと同行し、たびたび力になってくれた。

多くの出会いと別れを経験した。どんな苦境が訪れようとも、いつでも仲間がそれを支えてくれた。自分は今でも、彼らの顔を、彼らと行ったやりとりを覚えている。アカネイアの大戦が終わってからもう三年の月日が経とうとしているとは、にわかに信じがたいくらいだ。それほどまでに、あの戦いは辛く厳しいものだったのだろう。だが、終戦の宣言で全てが終わったわけではない。むしろ、ここからが始まりだ。戦争によって払われた多くの犠牲を経てもなお、自分たちには解決すべき課題が残されている。これからは、このような争いを起こさずに済むような世界を築いていかなければならないのだ。

そんな最中、自分にもたらされたもう一つの予期せぬ紋章。心の中で密かに憧れていた十字の印。

その重みは今でも自分の懐にある。この紋章をここまで、自分まで繋いできた数え切れない先代の戦士たち。彼らがその才能と慈愛によって民衆の間に育ててきた信頼と信奉。それらは決して軽んじられるものではない。だが果たして、自分はそれを受け継ぐに値する人物だろうか。どちらも取ろうとした挙げ句、どちらも中途半端になってしまうのではないだろうか。あるいはそれよりも悪い結果に。

それでも続けるか?

答えは、心の奥からすぐに返ってきた。

目を閉じ、その答えをしばし見つめ直す。裡を見つめるその眼差しには少しばかりの驚きが含まれていた。内容の新鮮さと、それが余りにも早くやってきたことに意外の念を覚えていたのだ。もう一人の戦士との出会いはどうやら、自分に混じりけのない真実を教えたばかりではなく、思考の柔軟さをもたらしてくれたようだった。それが実現すればどれほど良いことか。霧の向こうから現われ、おぼろげながら確かな色彩を備えていく未来への期待と使命感に胸が静かに高鳴っていたが、彼はそこで思考をとどめ、目を開く。

――そのためには、僕一人の力では足りない。たとえ戦士となっても、僕は……

二人の前に広がる空、朝焼けを受けて橙色に輝く雲の群れがゆったりと流れていく様を見つめてマルスは言った。

「帰ろう」

彼の心に何かしら明るい変化の起こったことを察した顔でシーダは頬笑み、頷いた。

「ええ、そうしましょう。あなたの思うままに」

―――

それから“表”の世界に起こった出来事は、私が改めて書くまでもないだろう。美しく豊かで、愛らしく小さな島国であるアリティアがいかにして世界に――アカネイア大陸を超えた、人の行き来がある限りの領域に安定した地位を確立し、揺らぐことのない存在感を示すことになったのか。それは歴史学者に任せよう。無数の国々と、そこに住まう人々の動静を描くことは私の手にはいささか余る仕事だ。

ただ、彼らはきっとこんな疑問を抱くことだろう。他の大陸に対し、その自己完結した豊かさから一種の孤立主義とも言える態度をとっていたアカネイアの国々、そこからなぜアリティアが先陣を切って外交へと踏み出したのか。そしてなぜ、アリティアの国王は、それまで見たこともないはずの遠方の国々について、その歴史や文化から国内の実情に至るまでを“あたかも自分の目で見たように”知っていたのか。

私がこれからこの本に記していく個人的な手記には、その手がかりとなる小話が幾つも挟まれることになる。ここでは、初めにアリティアが友好関係を結んだのがハイラルであるということが一つの手がかりだ、とだけ記しておこう。

私の親愛なる友人、後に再び勇者と呼ばれることになるハイリア人の青年と出会ったあの日から時は流れ、私の身の回りから国内外の情勢に至るまで、あらゆる物事が大きく移り変わっていった。自分が戦士として選ばれたことを知る数少ない人々も、年老いたものから一人また一人と私に先立ち、多くの人々に惜しまれながら天へと召されていく。

結局自分は、もう一つの紋章を堅持し、外交関係の広がりとともに徐々に活動範囲を狭めつつも、最後まで戦士であり続けた。それが正しいことだったのか、最善の手だったのか。こればかりはいくら旅をし、いくら語り合ってもこれという答えは得られなかった。そういうものなのかもしれない。たった一つに収束した答えなど、無いのかもしれない。ただ、それでもそれを考え続けることが肝心なのだと思いたい。

良く生きるには、正しく在るにはどうすれば良いのか。私はきっと、これからもそれを自分に問い続けることだろう。紋章を手放し、戦士でなくなった後も。……彼がこれを読んだなら、君は相変わらず難しいことを考えているなと茶化すことだろう。

私はこの文章を、旅路の途中で書いている。次の継承者に紋章を渡すための旅だ。

そう。明日、私はこの十字の紋章を次の世代の戦士に託す。彼には訪問を知らせる手紙を送ってあるが、用件は詳しく書かずにはぐらかしたので、遠い異国の王が一侯爵家の公子に何の「個人的な」用があるのかと訝しんでいるかもしれない。だが少なくとも、私の私信に対して返された直筆の手紙には、恐縮しつつも喜んでこちらの訪問を受け入れる旨の文章が丁寧に書かれていた。その文体は噂に聞く彼の気質と性格を如実に表していた。それを読んだとき、私はすぐに確信した。彼はきっと良い戦士になる、と。

戦士の紋章。今となれば言えることだが、これが我が子の誰かに受け継がれるようなことがなくて幸いだった。ただでさえこういった「継承」というものは、ともすれば親しき国や気心の知れた友、時には血肉を分けた兄弟にさえ争いを起こしてしまう。

頭を悩ませる種がこれで一つ減り、肩の荷も軽くなった。おまけにこれで、アリティア王が紋章の戦士であることを隠しきれたことになるのだから、もはや言うことはない。この巡り合わせもきっと、あの双神の御心なのだろう。

確信は無い。だが私は、いつの日かこの紋章が再び大陸に戻ってくるという強い予感がしている。自分のよく知る者、あるいは自分の子孫のどこかの代に。私が今になって、戦士として選ばれた頃の日記を持ち出し、こうして手記としてまとめ始めたのはそのためだ。ただ、どちらかと言えばまだ見ぬ未来の彼らに見せるためというよりも、自分自身の来た道を振り返り、漠然としたままの思いつきや主義といったものにここで整理をつけるために書いている。書き終えた後は、私はこれを王家の保管庫にしまうつもりだ。他のとりとめもない日誌と区別の付かない、さりげない表紙をもつ数冊の本として。そうすれば誰かに書き換えられることもなく、我が子の誰かが間違えて読んでしまうこともない。

当然この内容は、これから会いに行く青年には見せられない。新たに戦士となる彼には、最初からこのような複雑怪奇で人間の知など到底及ばないような真実を知らせるべきではない。彼もまた自分と同じように様々な物事を見て、聞いて考えるべきだし、彼はそれができる人だと信じている。

かつて私が先代の戦士から紋章を受け取った時、その獣の顔を持つ藍色の戦士から何とかして戦士にまつわる話を聞き出そうとしたものだ。だが彼は必要以上のことを喋ろうとはせず、こちらのほとんどの質問には「いずれ分かる」とだけ答えた。そのときは人種が異なることもあり、こちらを完全には信用していないのだろうと少し落胆していた。しかし本当は、彼は答えたくても答えられなかったのかもしれない。今であれば彼の気持ちも分かる気がしている。私も自分が紋章の戦士であったこと、そしてそれによって知ったことを今後も、少なくとも自分の生きているうちは伏せておこうと思っている。

それより先の未来は? どの時代にも豊かな探求心を持ち合わせた人がいるものだ。いつか、そんな物好きが、王家にさえ滅多に目を向けられることのない保管庫に立ち入り、そしてこの手記を見つけるかもしれない。埃を被り、茶色っぽく変色した古書。彼、ないし彼女がそれを読むことを、私は妨げるつもりはない。書いておいて無責任なようだが、これをどう受け止めるかはその時代の人々の自由だと思っている。

ただ、これだけは守ってほしい。いかなる時代のいかなる国の言葉で書き写されることになろうとも、一言一句、私が書き残した通りに翻訳すること。私も自分の筆が及ぶ限り、戦士として見聞きしたことを正確に、ありのままに書いていく。その結果として残された文章が後世の人々の常識を覆し、嫌悪感を抱かせるようなことになるのであれば、書き換えることはせず、ただこの本を誰の目にも付かない場所に封じてほしい。書き写すのであれば、私が知ることになったこの世界の真実と向き合う覚悟を持つこと。

私はそれを願う。王として命ずるのではなく、かつて戦士として闘い、紋章と向き合い続けたもう一人の人間として。

エレブ大陸南部 フェレ侯爵領へと向かう旅の途上にて

裏話

ちょっと前になりますが、ようやく手をつけられた「紋章の謎」と「時のオカリナ(3DS版)」。この話ではこれらをいい感じに……混ぜられていたらいいなーと思います!

懐かしい「スマブラ図書館」での企画小説……当時の私は、これで私の小説を初めて読む人もいるだろうからと、読み切りとは異なる新規の設定を立てて書いていたものです。書き始めこそ色々と空想が膨らむのですが、書いていくうちに……いつもの読み切り短編は基本的に原作の設定から大きく変えようとしていないので、その分考える部分が少なくて楽だったのだと気づかされるはめになります。でもやめられない。

今回の設定は、おおよそのスマブラ登場作品が互いにくっついている世界を想像している点は「鋼鉄の国に紅の葉を」と似ていますが、ここではさらに「それぞれのファイターがそれぞれそれっぽい時代に有限の時間を持って生きており、称号を受け継いでいく」という設定が加わっています。年老いて引退を迎えた先代の戦士から、まだ若い次世代の戦士へと紋章が受け継がれていく……現代に近いところ、さらに未来まで……これまでの企画小説と同様、おぼろげに夢想しているところはありますが、まだ書き出せるほどの形にはなってません。

(文章が思いつかない時の)作業BGM、今回は「架空の伝説のための前奏曲」です。元々ホルスト「惑星」やラヴェル、ドビュッシーの吹奏楽曲は好みだったのですが、ここ最近、今まで通りのジャズ/フュージョン/電子音楽を聞きつつも、こういう吹奏楽の音色に再び手を伸ばしつつあります。

(2018-11-11)

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