鏡像アイデンティティー
長い廊下に灯されたランプの炎が、左右の壁に生き生きとした影を映し出していた。
鞘に収めた剣を提げ、小さな肩に得物を担ぎ、あるいはたくましい腕をついて悠々と。シルエットからでも分かる、個性豊かな戦士たちの影は、互いに入れ違いすり抜けながら壁を横切っていく。あたりに響く話し声に合わせて影も動き、それぞれの声音で先ほどの“試合”のことであるとか、間もなく用意されるであろう夕飯のことであるとか、そんな日常の会話を真似ていた。
そんな中をただ一人、黙りこくって腕を組み、わき目もふらずに歩いていく影があった。この世界の標準からすれば古風と捉えられるような、ゆったりとした上衣。背に備わった翼は内心の感情を表して、固く羽根の先まで張りつめているかのよう。その影の主であるところの戦士は、横の壁に映し出された影と同じように黒い髪の下、いらだちも露わに眉をひそめていた。
「あっ、ブラピだ!」
「ブラピー!」
子供たちのそんな声が聞こえてきて彼は一瞬顔をしかめたが、何も言わずに首を振り、無視を決め込む。それは自分の名前じゃないと、態度で示してやれば分かるはずだ。
「聞こえてないのかなぁ」
「さっき、ちょっと立ち止まってなかったか?」
「もう一回呼んでみようよ」
甲高くも騒がしいざわめきの中から、再び呼び声が上がりかける。
「おーい! ブラピー」
「だからその名前で呼ぶなって言ってるだろ!――」
勢いよく振り返った彼は、その先にいた者に目を止める。
「あれあれー? ちょっと大人げないんじゃないの?」
白い衣に身を包み、明るい茶色の髪を持つ天界の使いピット。子供たちと一緒に歩いてきた様子だ。瓜二つの顔でにやにや笑っている彼の手前、行き場を失った握りこぶしを振り払う。
「元はと言えばお前が広めたんだろ。まったく……お前らも何度言ったら分かるんだ。勝手な名前で呼ぶんじゃない」
しかし子供たちにはいまいち響かない。
「だって、ブラックピットじゃ長いよ~」
「第一、なんでイヤなんだ? 別にダサくないだろ」
そんな子供たちの評価を聞いたピットは、腕を組んで自慢げに頷く。
「そうそう。なんたってパルテナ様が付けてくれたんだからね。ブラピだって親しまれた方が良いでしょ?」
「余計なお世話だ」
鼻で笑い、ブラックピットはこう続ける。
「おれは寂しがりやでも甘えん坊でもない。一人じゃロクに戦えねぇような、どっかの誰かとは違うんでね」
「そういうブラピだって、もう一人じゃ飛べないんじゃなかった?」
「一緒にするな。あれは共通の利益のために手を組んでるだけだ」
「共通の利益って……あっ、もしかして僕と闘えるとかそういうの? いやぁまいっちゃうなぁ」
相手が言い返してくることを期待していたピットだったが、ブラックピットはただ黙ってにらみ返し、踵を返してしまった。きょとんと瞬きし、ピットは一拍遅れてそれを追いかける。
「待ってよ、何怒ってるのさ」
「鬱陶しいな。ついてくんなよ」
廊下の壁に映し出された、そっくりな影たちが追いかけあう。
「何か気に障ること言ったなら謝るから」
「嘘つけ。いっつも気に障ることしか言わねぇだろお前は」
「やっぱり変だ。ブラピは愛想はよくないけど、そこまで怒るなんて何か嫌なことでもあったんでしょ。僕でよければ相談に乗るよ」
そう言ってピットは、先を行くブラックピットに近づこうと手を伸ばす。
「誰がお前なんかに!」
掴まれかけた腕を振り払い、そこで相手と目が合った。見上げてくる青い瞳と、苛立たしさを含んだ赤い瞳が向かい合う。一瞬を置いて、ブラックピットは馬鹿にしたように鼻を鳴らし、顔を背ける。そしてそのまま、彼は歩き去ってしまった。
残された白い天使は、差し伸べようとした手を下ろせずに廊下の先を見つめていたが、追いかけてきた子供たちの声に笑顔に戻って振り返った。ブラピはどうしたの、怒らせてしまったのと聞く幼い戦士たちに、彼は首を横に振る。
「大丈夫だよ。なんだか虫の居所が悪かったみたい。ブラピ、疲れてるんじゃないかな? 最近ずっと闘ってばっかりだからね」
トレーニングルームを見下ろす回廊にいて、ブラックピットは手すりに片腕を預け、戦士が思い思いに散らばる部屋の様子を見下ろしていた。
先刻、廊下の向こうから聞こえてきた言葉は彼の耳にも届いていた。
――誰のせいだと思ってんだ。
そう思いながら、知らないうちに顔をしかめていたらしい。気が付けば、ガラス窓に映る自分の顔も、同じような表情でこちらをにらみ返していた。思い出したくもない顔を連想し、彼は視線を逸らす。
眼下のトレーニングルームでは様々な鍛錬が行われていた。赤白の的に向けて緑衣の勇者が弓を構える隣で、狐顔の戦士が同じような的を光線銃で狙う。ランニングマシンの上では、バーにもつかまらずに人間離れした速力で走り続ける覆面の男がおり、あちらでは水色とピンク色の小柄な戦士が壁面に用意された岩を掴んで上へ上へと登っていく。奥の方には広々としたモニタが掲げられており、分割された画面にトレーニング用のステージでザコ敵と一対一で闘っている戦士たちの様子が映し出されていた。
それを観察していたブラックピットだったが、ふと何かに気づいて目を止めた。見物客を認めた戦士が一人、こちらに手を振っているのだ。剣を携え、軽装の鎧に身を包んだ青い髪の王子。彼はブラックピットに手招きをしてみせた。声は聞こえないが言っていることは分かる。一緒にトレーニングしないか、ということだろう。ブラックピットは肩をすくめ、興味がないというように手を振ってみせた。そのままガラス窓から離れて歩き始める。
求めるものはここにはない。トレーニングルームのガラス越しのにぎやかさを後にしながら、彼はそう思っていた。あの部屋にいる大方の戦士には、張りつめた緊迫感というものがない。ステージでは真剣に渡り合うような相手とも、ひとたび試合が終われば笑って肩をたたきあい、談笑する有様。誰もかれも遊び半分でやっているかのようだ。
やがて通路を抜け、城の外周をめぐる回廊にやってきた。日も暮れかかり、ぼんやりと暗いオレンジ色に染まる静かな廊下。どこに向かっているのかもほとんど意識せずに歩を進め、彼は考え事にふけっていた。
『パルテナの使いがどこか遠くの世界に招かれた』
そんな話が、神々やそれに関わる者たちの間をめぐって自分のもとにも聞こえてきた。戦士としての実力を認められたとの噂に、内心では面白くないと思っていたものの、それを表に出さないようにしていた。そうでなくても周りがうるさかったのだ。特に、幹部として所属することになった自然王の軍勢、そこに元からいた幹部たちや自然王ナチュレ自身が、こちらが何も言わないうちから色々と言ってきたものだ。
『そなたも悔しかろう。まぁ、今回は縁が無かったものと思え。それと、ピットがいないからと言って幹部の仕事をさぼるでないぞ?』
ナチュレは子供のような顔ですました表情をし、言葉ではそう言いながらも再三招待状の話を突っついてきたし、幹部の一人、エレカも
『へぇ~、あのピットくんがねぇ。これが宛名間違えたとかなら笑えるんだけど、残念、そういう様子じゃなさそうね』
と、慰める気もなくこちらをからかうばかり。別の幹部、アロンは
『気にすることはございません。待てば海路の日和あり、ですよ』
と言ってくれたが、慇懃な彼はいまいち真意の読みにくい人物である。ブラックピットは彼らに対して余計な燃料を与えないよう、種々の詮索に対してわざとそっけない返事を返していた。
そうして彼らの興味も他に移り、自分自身もほとんど忘れかけていた頃だった。赤い封蝋を施された真っ白な封筒。それが彼のもとに届いたのだ。
『あいつにできるんなら、おれの方が上手いに決まってる。どっちが上か、向こうのやつらに見せつけてやるさ』
そう言って故郷を後にした自分の声が、脳裏によみがえる。彼はあの時招待状を持っていた方の手を広げ、じっと見つめていた。
「……それがこのざまだ」
自分に言い聞かせるようにひとりごちて、広げていた手をきつく握りしめる。
――おれとあいつの違いは、『時間』だ。
故郷とは異なる法則を持つこの世界においては、当然身の動かし方も勝手が違う。先に招待状をもらい、この世界に渡ってきたピットの方がここでの戦い方を長く学んでいる。
そしてその差は現状、埋めることができていない。それを思い出した彼の顔が、わずかにしかめられる。
あいつと同じように戦い、鍛えていたのではだめだ、そういう思いは常にくすぶっていたのだが、それを突破するための糸口も見つけられずにいた。他の世界から呼ばれた戦士たちはほとんどが先ほどのような呑気な連中であり、まるで親睦を深めるためにやってきましたと言わんばかり。ステージの上ではともかくとして、試合の外ではああしてなれ合っているようにしか見えない。しかしそんな彼らでさえ、こちらが本気でぶつかっても互角の勝負にしかならないのだった。
とにかく、このままではいられない。ここでの戦い方を一刻も早く身につけなければ。そう決心して顔を上げたその時、彼を照らしていた夕日が何かに一瞬遮られた。反射的にそちらを振り向いた彼は、外を飛び過ぎていく一つの影を見いだす。
「あいつは……」
木々の梢も届かない屋外の高みを、音もなく飛んでいく丸く小柄なシルエット。広げられた翼は薄く、夕方の風を受けて静かにはためいていた。それが誰であるかに気づいた時、ブラックピットは自分でもほとんど考えないままに回廊の欄干へと駆けつけ、城の外へと飛び出していた。
他の戦士とは一線を引き、黙々と戦い続ける仮面の剣士。聞いた話では、集中できる場所を求めて城の外でも修行をしているらしい。
傾き始めた太陽の光が真横から最後の輝きを浴びせる中、眩しさに目を凝らして彼の姿を追う。
『なんじゃ、急に呼び出しおって。そなたには乱闘中だけ自由に使える飛翔の奇跡を授けてあったろうに』
幼い子供にも似た自然王の声が響き渡り、ブラックピットは一瞬どきりとする。しかし、神界と関わりのない他の戦士には、そうと意図した時でもない限り神の声は聞こえない。それを思い出し、心を落ち着けてから小声でこう返した。
「悪いな。ちょっとわけありなんだよ」
『なにをひそひそ声で話しておるのじゃ。まさか、やましいことでもしておるのではあるまいな?』
「んなわけあるか。これも腕を磨くためだ。あんたのとこの幹部に強くなってほしいと思うなら、このまま飛ばしてくれよ」
彼にしては丁寧に頼んでいることに気がついたらしい。ナチュレは何かを察したかのようにくすくすと笑った。
『ほう、それは感心じゃな。くれぐれもケガをするでないぞ』
それを最後に、彼女の声はすっと遠のいていく。ブラックピットは再び目の前のターゲットに意識を集中させ、勘づかれないように一定の距離を保ち、緑の輝きをまとった翼をゆっくりと羽ばたかせ続ける。
我知らず息を詰めていた。今追いかけている相手とは、乱闘という名の試合で手合わせしたことがある。だがそれ以外ではあまり言葉を交わしたことはなく、そもそも彼が誰かと長話をしている様子を見たこともない。それでも、彼が戦いの場とその他とで態度を変えない、数少ない方の戦士であることを知るのには十分だった。そんな彼の背中を追いかけ、無言で追跡を続けるうちに、今が乱闘の最中であるかのように感じていたらしい。
首を横に振り、軽くため息をついて余計な緊張を解く。
――ただ見物させてもらうだけさ。本気の修行ってやつを。
そう自分に言い聞かせる。
あたりは静かで、かなたの街やスタジアムから立ち上るざわめきと、自分の翼や服をはためかせる風の音しか聞こえてこない。
相手の姿を見据えるうちにふと、このまま追い付いて話しかけ、見せてくれるように頼んではどうかという考えがよぎった。ナチュレが指摘したから、というわけではないが、このまま黙って追いかけるのはどこか格好がつかないのではないかと気づいたのだ。しかし、今更ここまで来て『奇遇だな』と声をかけるわけにもいかない。何しろ、目立った建物がある場所からだいぶ遠く離れてしまっている。そこまで考えたところで、ブラックピットは眉をひそめた。
――そういや、ずいぶん遠くまで行くんだな……
城の周囲を守る森も越え、スタジアムを従えた大都市には目もくれずに彼が向かっていく先にはほとんど家屋もなく、自然のままに生い茂る森林と草原しか広がっていない。それなのに相手は迷うこともなく、むしろ徐々に速度を上げて飛んでいく。この世界は、あの白い手袋が言うことが正しいのなら大して広くはない。実際にどこまで広がっているのかを確かめたことは無いものの、このままではこの世界を出てしまうのではないか。それとも修行をするならば、邪魔が入らないと安心できるようなかなりの僻地まで行かないと気が済まないのだろうか。
いぶかしみ始めた彼は、そこで慌てたように目を瞬いた。追いかけていたはずの影が、ほとんど瞬きする間に消えていたのだ。
間髪おかず、目の前に仮面の戦士がすっと降りてきた。
思わず驚きの声を上げ、制動をかけて空中で後ずさる。いつの間に距離を詰められていたのか。
相手はそんなこちらの様子も気に掛けず、じっと仮面の隙間から黄色い眼光を向けていた。鋭く感じられた視線から張りつめていたものが抜け、気づけば彼はいつもの調子に戻っていた。
「なんだ。ファイターか」
彼は開口一番、そう言った。顔のほとんどを仮面で覆った相手にポーカーフェイスも無いものだが、そうとしか言いようのない瞳をこちらに向けている。
「お前は確か……」
その先が続かないので、黒い天使は驚かされたのも忘れてこう言った。
「なんだよ。まさか名前を思い出せないのか? おれはブラックピットだ」
「ああ。そうだったな」
「冗談だろ? もう顔合わせてから数か月は経ってるってのに。おれだってあんたの名前は知ってるぞ。ほんと、あんたは勝負のことしか頭にないみたいだな」
「それは悪かった」
相手は謝ってから、こう続ける。
「ただ、他者に興味がないわけではない。いつもは相手がどのような振る舞いを――ひいては戦い方をするのか。それを良く観察するようにしている。そこには自然と相手の内面が反映されるからな。こういった手合わせの場では、それこそが最も重要なことだ」
「否定はしないが……極端じゃないか? 話さなきゃ分からないこともあるって言うだろ」
ブラックピットがそう尋ねると、彼は仮面の向こうで目を細めた。笑っているのだろうか。表情が読めないままに相手はこう言う。
「まあ、そうだろうな。お前も私に何か『話すべき』ことがあるのではないか?」
いきなり虚を突かれてしまった。
「なっ……なんのことだよ」
思わず言ってしまってから顔を取り繕い、平静を装って腕組みをする。
「ただ見かけたから声かけようとしただけだ。なのにあんたが逃げるような真似するからだろ」
はぐらかそうとしたが、相手には見透かされていた。
「挨拶をするにしてはずいぶんと長く追いかけてきたようだがな。何か聞きたいことでもあったのだろう。あるいは話したいことが」
こちらを見据え、そう尋ねる彼の声は落ち着いていた。手に携えた枝刃つきの剣は下げられており、攻撃の意思もない。それだというのにブラックピットは退路を断たれたような気がしてならなかった。遮るものもない自由な空にいるはずなのに、一瞬で叩き落され、袋小路に追い込まれたかのようだ。
――くそっ、調子が狂う……
背中をぴりぴりとした緊張が走っていた。この様子では、本当のことを話さなければ相手は開放してくれないだろう。
「わかったよ、降参だ。おれはあんたの技を見に来た。ただそれだけだ」
「私の?」
「ほら、いつも修行してるんだろ?」
そう催促すると、少しの間があって相手は頷いた。
「……ああ、そうだな」
「何を用心してるんだ? 別にあんたの技を盗もうなんて思ってないぜ」
できるとも思っていないしな、と心の中で付け加える。何しろ体格が違い過ぎる。ただ剣を使っている以上、何か鍛え方に参考になるものがあるだろうとは思っていたが。
それを聞くと、彼はこちらに向けていた視線を辺りに巡らせ、やがて一点に目を止めた。
「それならば丁度良い。あの舞台で手合わせをしよう」
そう言って剣で指し示した先には、試合が行われておらず上空を漂うままになっている浮島、『戦場』があった。
ブラックピットはひとけのないステージに立ち、戦場の周囲を漂う浮島と、半円形の観客用ステージを眺めていた。もう今日のここでの試合はすべて消化されたのだろう。向こうの島では清掃係のザコ敵が不平も言わずに黙々と椅子の間を縫って歩き、ごみを回収しているが、その姿も数えるほどしかいない。あらかた掃除も終盤に近付いたらしい。
空は橙色に照らされ明々と輝いていたが、それに対する地上は少しずつ薄暗くなってきていた。観客席に目を凝らしていた彼はステージの上に視線を戻す。苔むした円形の廃墟に、スマッシュブラザーズのマークを印した古ぼけた旗がはためいている様子は、よくできているようでいて、どこか少し滑稽にも思えた。
「……おい、ほんとに戦うのか?」
視線の先、こちらを見据える相手に尋ねる。逆光で暗く沈んだ影の中、剣士の双眸だけが黄色く光っている。その瞳の持ち主がこう答えた。
「修行は見世物ではない。それにお前自身が言っていたように、技そのものを見て覚えようとは思っていなかったのだろう? 見に来たとは言うが、お前の本当の目的は違うな」
「なんだよ。おれがあんたに隠し事をしたって言いたいのか」
「そんなつもりはない。おおかた衝動的に追いかけてきたのだろう。理由らしい理由も固まらぬうちに」
「……分かってるんならしつこく聞くなよ。あんた、何が言いたいんだ」
さすがに腹立たしさを覚えて眉間にしわを寄せた向こうで、それを制して剣士が言う。
「当ててみせよう。おそらくお前は、他の誰かとの真剣勝負を心に望み、追いかけてきたのだ。違うか?」
ブラックピットは何も返すことができなかった。
追跡中に自分が抱えていながら気にも留めていなかった衝動、それが目の前で言葉として形をとったことに驚きを覚えていたのと同時に、それを素直に認めるのは悔しいような気がしていた。しかし、その沈黙が相手にとっては十分な答えになっていたらしい。
「正鵠を射たようだな」
その声には笑いが含まれていたが、ブラックピットはどうにも居心地の悪さをぬぐえなかった。
「……ずいぶん容赦がないな。おれに尾行されたのがそんなに気に食わなかったのか」
思い切って尋ねる。黙ってつけていたのは事実だ。わざわざ怒っているのかと聞くのも野暮だったが、はっきりさせておかなければ気が済まない。ところが相手からは意外そうな声が返ってきた。
「怒っているように見えたのか?」
「いや……」
眉をしかめて理由を探す。
「いつも……そんな単刀直入に物事を言うような奴だったかって、そう思っただけだ」
今度はこちらが言い当てたつもりだったが、これを聞いた相手はどうしたわけか、ふっと笑った。
「そうは思わないな。怒っているのなら黙って立ち去るだろう。何も言わずにな」
返答の意味をつかみきれないうちに、仮面の剣士は話題をもとに戻す。
「さて、立ち話をしに来たのではなかったな。ここであれば邪魔も入らない。どちらかが降参するか、落ちるまで。勝敗を決するのはそれで良いな?」
『落ちるまで』という言葉にブラックピットは一瞬ためらってしまう。飛翔の奇跡は連続して掛けることはできない。この世界も一昔前なら、翼をもつ者たちは一律に滑空することができたらしいが、あいにく今はそういう風にはできていないという話だ。
となれば頼みは一つしかない。しかし試合が開かれていない今、吹っ飛ばされたり撃墜されたりしたファイターを回収する、あのいつものシステムは稼働しているのだろうか。
そこまで考えたところで、はっと目を瞬く。
――何が『自由の翼』だ。これじゃあいつと同じじゃねぇか。
胸の奥でわだかまっていた不安に蹴りを入れ、短く言葉を返す。
「ああ。いいだろう」
幸い、先ほどの葛藤は見抜かれてはいなかったようだ。剣士は頷き返し、ステージの中央を挟んだ向こうからこう言ってよこす。
「武器の選択はお前に任せよう。こちらに合わせて剣で来るのでも、実戦と同じく使い分けるのでも構わない」
「あんたに言われなくても勝手にさせてもらうが……それじゃいつもと変わらないだろ」
「そう言うだろうと思ってな。最初は私の方からは手出しをしない。自由に打ち込んでくると良い」
彼は剣をわずかに持ち直した。臨戦の構えではないものの、いつでも戦いに移れるように。
「遠慮はしないぜ。稽古なんておれには不要だ」
言うや否や。携えていた神弓を二つの剣に変え、真正面から一気に距離を詰める。
間もなく射程に入る、剣を持つ手に力を込めたその寸前、相手の姿が掻き消えた。焦らず、黒い翼をはためかせて瞬時に振り返り、後ろに抜けていた相手を視野に捉える。
剣士は紫色の翼を大きく広げ、その体は未だ宙に浮いていた。
着地の途中。そう見たブラックピットは強く踏み切る。間髪おかずに双剣を振り払った。だが、剣はなんの手ごたえもなく空を切る。
「……まずは当ててみせろってか?」
そう言って見据える先、着地と見せかけて寸前で羽ばたき、後退した剣士の姿があった。
素早く視線を巡らせ、相手の立つ位置、そして『戦場』の空中に静止する三枚の足場を確かめる。
再び真正面からの突進を仕掛けたこちらに対し、見る前で剣士は先ほどと同じく顔の前に剣を構えた。正面からの攻撃を予測している。
それを認めたブラックピットは口の端で笑い、大きく踏み込むと上の足場めがけて跳び上がった。相手は足場の真下。視認された状態だと避けられてしまうのなら、自分の動きを相手に見せなければ良い。あとは相手が後ろに振り返るまでの間に次の構えに移るだけ。
足場をたった一足で素早く踏み越え、両手の剣を二段に構えて空中で身をひねる。足場の陰から再び見えてきた相手は振り向く途中。後ろに抜けられることを予測していたようだったが、まだその目はこちらの剣先を捕捉していない。
先手を打つ。前に構えていた方の剣を押し出すように振り払いかけた、そのタイミングで相手の瞳がこちらを認めた。
――早い……!
焦りを抑え翼で制動をかけると、足が地につかぬうちに矢継ぎ早に斬りはらった。しかしそのすべてが、硬質な音とともに枝刃の剣に阻まれてしまった。こちらが様々な角度から振るった双剣を、相手はたった一本の剣で防いでしまったのだ。一度も当てることのできないまま、ブラックピットは両の剣を手に着地する。
仮面の隙間から覗く瞳が、鋭い光を放っていた。彼は何も言わなかった。わずかに細められた目にも、おそらく戦闘への集中以外の感情はこもっていないのかもしれない。それでも、ここまで一撃も与えられていないブラックピットにとっては、彼がこう言っているかのように感じられていた。『その程度か?』と。
歯を食いしばり、別の神器を構える。電撃をまとった金属の塊、籠手と言うにはかなり大きいそれを、感情に任せてぶん回した。しかし、目の前にいる相手を狙ったとはいえ、その攻撃はあまりにも隙が大きかった。剣士は身をひるがえしてこれを回避し、再びこちらから距離を置いて最初の待機姿勢に戻る。まだ向かってくるつもりはないようだが、こちらの出方を静かに待っている。
先ほどの攻撃は空振りに終わってしまったが、かえって冷静さを取り戻せた。相手には手合わせを切り上げる様子もなく、こちらに向き合うつもりでいると分かったのだ。
『相手がどのような振る舞いを――ひいては戦い方をするのか』
先刻、剣士が言っていた言葉を思い出す。
電撃を帯びた“豪腕”を仕舞い、再び双剣を構える。
――あいつが防御に徹してる間は、間合いの近い武器は通用しない。だとすれば……
剣の柄をつなげ、弓の形に変えるや否や、瞬時に矢をつがえて放った。
紫の輝きを帯びた黒が直線を描き、空間を駆ける。避けようのない速度であり、相手は一撃目をかろうじて叩き落とせたが、後続して放たれていた矢までは対処しきれなかった。仮面の剣士は急いで剣を持つ方の腕を上げ、目を守りつつ防御の姿勢を取る。しかしそのために、視野から相手の姿が外れてしまっていた。
被弾の衝撃から立ち直った矢先、銀色の双剣はすぐそばまで迫っていた。
大きく振るわれた一撃。ブラックピットはあえてそこで止め、それ以上の追撃をしなかった。こちらの腕前を証明するのには十分な打撃となったであろうし、また相手が反撃に出てこないのを良いことに攻撃を浴びせ、優位に立つのは卑怯だと思ったのだ。
衝撃を受け流すためか宙返りをし、剣士は空いた方の手をついて着地した。
「良かろう。それでこそだ」
そう言う相手の表情は、相変わらず仮面の向こうに隠されて読むことができない。それでも彼の剣がようやく攻撃の意図を持つ構えに変わったことを見て取り、ブラックピットは満足げに笑みを返す。
「言ってられるのも今のうちだぜ」
踏み切ったのはほぼ同時。
こちらが数歩も進まぬうちに、相手はすぐ目の前まで迫っていた。
彼が剣を振りかぶったのを見定め、すぐさま盾の神器を呼び出す。“衛星”と名の付く通り主人を中心として浮かんだ盾が、すんでのところで相手の剣を防いだ。振るわれた剣の勢いに引っ張られ、外側に傾く盾。ブラックピットはその盾を目隠しとして双剣を構える。
盾の陰から現れ、風音をたてて振りあがる剣。
上段から斬りかかる銀色の輝きを見て、つられた相手の視線が上を向く。
おとりの一撃目を防いだ剣士の、無防備となった横にもう一方の剣を叩き込んだ。姿勢を崩した相手の隙をつき、双剣で追い打ちをかけようとするも、相手は意外にも早く立ち直る。風を切って振るわれたこちらの剣を剣で防ぎ、その勢いを利用してこちらの間合いから離れた。
その様子を見ながら、ブラックピットは手にした双剣を弓に変える。
「あんた、仮面が邪魔なんじゃねぇか? 外したら少しはましになるかもな」
そう挑発したが、相手は仮面の向こうで笑うだけだった。
「面白いことを言う。そんな相手に剣さえ当てられず、苦戦していたのは誰だ」
「今に分かるさ」
暗く輝く矢をつがえ、放つ。
しかし相手はこれを剣では受け止めず、高く跳躍して身体ごと大きく避ける。
武器の弱点を見抜かれたか。ブラックピットは悔しげに歯を食いしばり、二撃目の軌道を曲げる。しかし相手の動きには追い付かない。そうこうしているうちに頭上の足場を飛び移り、剣士が再び迫ってきていた。弓を戻すのも間に合わず、頭上からの一撃をやむなく片腕で受け止めた、その顔に警戒の色が走る。
翼のはためく音がしたかと思うと、無警戒だった胴に強い衝撃が襲い掛かった。一瞬遅れて、相手があの状態から飛び蹴りを食らわせたのだと理解する。何か仕掛けてくるとは勘付いていたものの、対処が間に合わなかった。
足を踏ん張り、耐えて顔を上げると、すでに眼前の相手は地に足をつけ、剣を横ざまに振りかぶっている。その様子を認めたブラックピットは、食いしばっていた口の形を、自分でも知らぬ間に不敵な笑いへと変えていた。
こちらが双剣をようやく構えた矢先、次々と襲いかかる、金色の鋭利な円弧。
今度はこちらが両の手に持つ剣で防戦し、ありとあらゆる方向から変幻自在に打ちかかる金の剣をいなし、弾こうとする。守り損ねた攻撃が前腕を打ち、かと思えば勢い余ったこちらの剣が相手に当たる。どちらも互いの防具を間に合わせの盾として、ぎりぎりのところで身をひねり、直接の攻撃が身体に当たることを防いでいた。
間断なく、矢継ぎ早に払われる両者の剣が空気を切り裂き、戦場には鋭い風音だけが断続的に鳴り響いている。日はいよいよ傾き始め、かなたの地平線から投げかけられる最後の光が二人の剣と防具をまばゆく輝かせていた。接戦の様相を呈していた接戦は、あたりが夕闇に包まれていく中で徐々に優劣が現れ始める。
少しずつ集中が途切れ、相手の速度に追いつけなくなってきたブラックピットに対し、剣士の方は接近戦を仕掛けた最初と全く変わらぬ涼しげな様子で剣を振るい続ける。ついに黒い天使が体勢を崩したのを好機と見て、彼はとどめとばかりに大きく振りかぶった。
「させるかよ」
片手を乱暴に突き出す。応じて呼び出された盾が剣士の一撃を受け止めた。
剣を弾かれた彼は反撃を警戒し、すぐさま後退して防御の姿勢に移る。絶妙な位置取りだった。弓を構えようとしていたブラックピットは眉をしかめて手を下す。相手の足なら矢を視認してから十分に避けられるほど遠く、かつこちらが軌道を曲げようとしても曲げきれない程度には近い。
後退すればその隙をついて相手は一気に距離を詰め、得意の接近戦に持ち込むつもりだろう。
――そうなるくらいなら、こっちから飛び込んでやる。
退くと見せかけ、ブラックピットは全速力で駆けだした。一歩目を踏み込むとともに、早くも剣を構える。相手は近距離を最も得意としているが、ただ一つ、腕の長さではこちらが勝っている。彼は相手の間合いに入らないうちから鋭く振り払い、相手を牽制した。そうして流れを強引にこちらに引き寄せてから、再び真っ向勝負の打撃戦を挑みにかかる。
目論み通り、最初の一撃で防御の姿勢に入っていた相手は、そのまましばらくこちらの剣をいなすばかりとなった。相手に反撃の隙を与えてはいけない、その気持ちがしかし、知らぬ間に焦りとなって視野を狭めつつあった。
羽ばたくような音がして、相手の姿が一瞬のうちに掻き消える。
あの技だ。それに思い至った時にはすでに遅く、背中を斜め上から叩きのめす手痛い一撃を食らっていた。だが、これくらいで怯んでいては相手に勝つことなどできない。顔をしかめながらもブラックピットは振り向いて、相手が剣を振り下ろしたばかりのわずかな隙をついて豪腕を構え、思い切り振り上げた。
相手がとっさに後退したために直撃とはならなかったものの、かすめただけでも十分な効果はあった。豪腕がまとう電気に痺れ、剣士の動きが硬直する。
――……もらった!
口に出す余裕もなく踏み込むと、交差して構えた双剣を勢いよく振り払う。
相手の姿は強烈な剣撃を受け止め――そして、ガラスのように砕けた。
驚愕に目を見開いていたブラックピットは不意にその身をこわばらせる。振り返らずとも分かった。相手の剣の切っ先がわずかな距離を置いて自分の背を捉えているのだ。剣が指す先はその一点でしかない。そのはずなのに、全身が、手足の先に至るまで動かせなくなっていた。下手に動けば斬られる、その直感が闘争心を縛り付け、完全に抑え込んでしまった。
数分間とも数十分とも思える時間が過ぎ去り、凍り付くようなプレッシャーはやってきた時と同様に幻のように消え失せた。ようやく振り返ることができたブラックピットは、見る先の相手がすでに剣を下げていることに気がついて、いらだったように眉をしかめる。
「……おい、まだ決着がついてねぇだろ」
しかし、それには答えようとせず相手はこう返した。
「迷いがあるな。あるいは、気の張りが」
「なんのことだ」
訝しげに眉をひそめ、ブラックピットは聞き返す。
「お前が武器を振るう時、わずかなためらいを感じた」
そう言って、剣士はその双眸でこちらの目を見据える。
「誰かを重ね合わせているのか? ……自分の立ち居振る舞いに」
「何が言いたい、おれが本気で戦ってないとでも言いたいのか」
それに対する返答は無かった。
日はすでに地平線の向こうに消えていたが、その残光が空を幻想的な色合いに染め上げていた。地上にも、そして戦場の上にも影はなく、陰影を取り除かれた相手の仮面が、いつもより鈍い銀色に見えていた。
「あんたには関係ないことだろ」
「話すも話さぬもお前の勝手だがな。ひとに断りもなく、黙って後ろを追いかけてくるほどには思い詰めているのだろう?」
そういう彼は怒っている様子ではなく、むしろ言葉の端に笑いを含ませているくらいだった。要するに、ここで何も話さずに立ち去れば葛藤は解決できず、何も得ることはできないと言いたいのだろう。
「ああ、ったく……。わかったよ」
荒くため息をつき、先ほどから手に持ったままになっていた双剣を片づける。幾多の戦士によって踏み均された石畳を横切ると、草地から突き出る遺跡の名残に寄りかかり、冷たい石に肩を預けて彼は腕を組んだ。剣士の方も翼を広げて跳躍し、少し離れた場所にある石の塊に飛び乗る。
ブラックピットはその姿勢のまま、少しの間何も言わずに地平線を見つめていた。夜空の藍色を帯び始めた空を、底の方から太陽の残り火が橙赤色に照らし上げる。かなたの大都市は黒いシルエットとなっていたが、戦場は紫色を帯びた淡い光に包まれ、静かにたたずんでいた。
「……あんたも、あいつのことは知ってるだろ」
「誰だ」
「あいつだ。ピットさ」
「あの白いほうか」
「……どういう覚え方だよ。おれならまだしも、あいつとは同期ってやつなんだろ?」
ここまで他人に興味のないファイターだったのだろうか。ブラックピットは片眉をあげて相手を見やる。彼も仮面の奥から表情の読めない視線を返し、再び地平線に目をやった。
肩をすくめ、続ける。
「まあいい。そのピットのことだ。あんたも知ってのとおり、エンジェランドからは誰よりも先に、まずあいつだけがファイターに選ばれた」
「不満を持っているようだな」
「今となってはな。あのふざけた手袋が後からおれを呼んだせいで、あいつに差をつけられちまったんだよ」
これを聞き、剣士が横からこちらを向いた。
「連敗ではないのだろう?」
「勝てるときもあるさ。だがな……そもそも、あんなに負けるはずが無い。あいつに負けてるものは無いんだからな。それに、おれはあいつみたいに縛られちゃいない。規則や義理なんてものとも無縁だ。おれのほうが自由に戦えるはずなんだ。それなのに……」
「ずいぶん執着が強いようだな。お前とは兄弟か何かなのか?」
「おい。なんだよ、似てるって言いたいのか」
「似てないと言うほうが難しいだろう。だが、それよりもお前が彼のことばかり気にしているように見えた。加えて、彼に備わっているものは自分にも、当然のようにあると言いたいようだったからな」
そう言う剣士の顔は地平のかなたを向いていたが、視線だけがこちらをうかがっていた。冷静に心の底を観察するかのような瞳。遠慮や気遣いは感じられないが、かえってそういう相手にこそ、自分が抱える真実を打ち明けられるように思えた。
地平の向こうに目を向け、黒く影に沈む大都市と、沈んでしまった太陽の名残に染め上げられた夕刻の空を見つめる。しばらく彼はそうして黙っていたが、やがて自分からこう切り出した。
「あいつとおれの間には、深い因縁がある。……おれは言わば、あいつの『本質』ってやつなのさ」
「本質?」
その言葉だけを繰り返して、相手はその先を促す。
「ああ。おれ達の故郷には、昔、ある奇妙な鏡があった。映り込んだ相手の本質を実体化させるという『真実の魔鏡』。あいつはある時、女神に命じられてそれを破壊しに来たんだが、その寸前、あいつの姿が鏡に映った。……おれは、そうしてここにいるってわけだ」
そこまでを語ってやったところで、ブラックピットは相手が何やら考え込んでいる様子であるのに気がついた。
「……鏡か」
「どうかしたか?」
「いや。よく似た話があるものだと思っただけだ。続けてくれ」
「それにしてはずいぶん真剣なツラだったな。……まあいい。それで、その魔鏡はもともとあいつらが敵対する軍勢の持ち物で、その特性を利用して兵士をコピーし、無尽蔵に増やすために使われていたとかいう話だ。本当だとすればずいぶんうますぎる話だがな。ともかく、鏡は本質を忠実に映し出すだけだから、『元』より強くなることも弱くなることもない。だから、おれとあいつとは互角のはずなんだ。……それが、こっちに来てから調子が狂いっぱなしなのさ」
「彼とお前とは同じだと。そのうえで差が出るのなら、それは時間のせいだと。そう言いたいんだな?」
「……そんな目で見るなよ。馬鹿げた言い訳なのは承知の上だ。……本当はそうじゃないってこともな」
足を組み替え、再び夕暮れの空に顔を向ける。
「おれとあいつの差が過ごした時間にあるのなら、その分を取り戻すくらいの戦いをこなせば良い。そう考えて、おれはこっちに来てからずっと戦い続けた。数で言えばもうじきあいつに追いつく。だが……どうしても勝てない。どころか……」
葛藤に、口を引き結ぶ。
「認めたくはないが……最近はあいつに負け越している」
「彼も腕を上げているのだろう」
ブラックピットはそれを聞いて鼻で笑う。
「あいつが? まさか。あいつは遊んでばかりなんだぜ。人間のチビと一緒になって走り回ったり、女神のわがままに付き合わされたり、のんきに他の戦士と外に出歩いたり。……そんな適当な奴に負けたら、あんただって納得がいかないだろ」
「いいや」
清々しいまでの返答に、さすがに耳を疑って黒い天使は身を起こす。
「本気で言ってるのか?」
「全力を掛けて戦い、相手の本気を引き出すことができたうえで負けたのなら納得も行く。悔しいとは思うがな。次は勝てるように精進するだけだ」
「……ああ、あんたはそういうやつだったか。聞く相手が悪かったな」
彼が、食う寝る遊ぶしか頭にないようなピンクだまを長年のライバルとしていることを思い出し、ブラックピットは呆れたように肩をすくめた。
「あいにく、おれはそこまで出来た戦士じゃないんだ。これ以上あいつが大きな顔をするのは我慢がならない」
言い切った黒い天使に、剣士はふとこう尋ねる。
「一つ聞くが、お前は彼と戦うためだけにここに来たのか?」
「ああ。あいつとは、まだ決着がついてないのさ。直接戦うにせよ、他の戦士と戦って競うにせよ、あいつにどっちが上なのかをはっきり教えてやらなきゃおれの気が済まない」
そう断言したブラックピットに、相手はこんなことを言った。
「仮に勝てたとしよう。勝って、自分が優れていることを証明した後、お前はどうするつもりだ」
「どうって……」
「それから何をやっていくつもりだ。お前は、彼の後を追うだけの『影』で良いのか?」
剣のように差し伸べられ、示された言葉。冷徹な問いの前に、ブラックピットは言葉を失う。
それが闇雲な憤慨にならないうちに、相手はこう続けた。
「戦い、力を競うのは構わない。だが、自分がどうありたいかをはっきりさせておかなければ、お前の進むべき道は見えてこないだろう」
「おれが、どうありたいか……」
眉をひそめて考え込み、半ば無意識のうちにそう繰り返す。
「無論、私の考え方を押し付けるつもりはないがな」
そう言って彼は目を伏せ、肩をすくめるような仕草をした。
「……一つ、お前に話をしてやろう」
徐々に青味がかってきた薄暮の空に顔を向けたまま、彼はそう切り出す。
「ある者の本質、あるいはこうありたい、こうなりたいという願いは、表に出ていないから、叶えられていないからこそ本質であり、願いでいられる。その理由は様々だ。本人さえも気づいていない、現状である程度は満足している、他の誰かや何かの為を思って叶えることを諦めている……あるいは、意識することさえ許されぬ悪だと感じている」
悪、と聞いたブラックピットはわずかに顔を上げる。まだ彼が自我と身体を得て間もないころ、彼のことを『邪念に満ち、破壊衝動のままに暴れまわる』だろうとしてピットに倒すことを命じた、女神の声を思い出したのだ。
過去を思い返す天使の横で、相手はこんなことを言った。
「私の故郷にも、お前の言った魔鏡とよく似た鏡がある。相手の“願い”を映し出す鏡だ」
「願いを映し出す……? それは、映った願いを叶えるということか?」
「そう言われていた。だがある時、その鏡の奥に邪心が巣食ったことによって鏡の性質は歪められてしまった。鏡に映った者が持つ悪しき心を実体化させる、そう伝えられていたようだな。だが、実際にはそれも願いを叶えようとする流れの一環だったのではないかと、私はそう考えている」
「あんたの言う押し込められた願い。それを叶えられるような心を持ったやつを作り出すってことか?」
「推測の域は出ないがな」
そう言って彼は、仮面の隙間から視線を返す。
「真相はどうあれ、その鏡を頂く“鏡の国”は邪なる黒い影によって支配され、その影響はやがて向こう側の世界に……つまり、私たちが暮らす世界までにも及ぼうとしていた。お前にも想像の付く通り、あの世界の住民は何も知らずに呑気に過ごすばかりで、鏡の国の異変を察知した者はたったひとりしかいなかった。彼は鏡の元へとたどり着き、異変の源を断とうとした。だが、彼はこの鏡に対し、一点において不用意なまま臨んでしまった」
「自分の姿を鏡に映してしまったんだな」
「そうだ。そうして映し出され、鏡の向こうから現れた“影”は彼とよく似ていたが、それでいてあらゆる点で異なっていた。その身を覆う防具には至る所に細かな傷がつき、広げられた翼の端も、布を乱雑に破いたような有様だった。しかし、話はそこでは終わらない。彼は己の影を、自分と酷似したその顔をめがけて何の躊躇いもなく剣を振るったのだ。――おそらく彼が秘匿していた願いというのは、それほどまでに認め難いものだったのだろうな」
思わずその瞬間を想像し、ブラックピットは返す言葉を失ってしまった。
「……あいつの場合は、少なくともそうじゃなかったな。むしろおれが……」
似過ぎた姿をしているのが気に食わないと蹴り飛ばした時のことを思い出しかけ、ブラックピットは頭を振ってそれを追いやる。
「で、そいつはそのまま自分の影を倒してしまったのか?」
「いや。むしろその逆だった。傷だらけの影は出会いがしらの一撃にも怯まずに挑みかかり、つばぜり合いの末に相手を鏡の中に封じ込めたのだ。目を背けたくなるほどの本質、理性によって押し殺された願いほど、無意識に深く根を張り力を蓄えている、ということなのだろう」
映し出された本質が勝つ。これを聞いたブラックピットはしかし、どうしたわけか素直に羨ましいとは思えなかった。自分の姿は、色合いを除けばピットと瓜二つだ。どこにも損ねられたようなところはない。しかし、それはつまり彼が自分の本質をそこまで強くは否定していなかった、ということになるのだろうか。
そこまでを考えたところで、彼の脳裏に一つの記憶がよみがえった。
焼け焦げた白い翼。羽根も抜け落ち、見るも無残な姿になった天使。あれは、女神を救うという目的で彼と手を組み、共闘した時のことだった。仕留め損ねていた敵の最後のあがきによって、自分は翼を封じられた。飛ぶこともできずに混沌の底に落ちようとする彼を見たピットは、取るものも取り敢えずすぐさま追いかけ、自分の翼を犠牲にしてまで助けようとしたのだ。
悔しさにも似た感情を覚え、眉をしかめながら彼はこう尋ねる。
「じゃあ……あいつがお人好しだからか? あいつが自分の本性を嫌ってないから、おれはいつまで経っても強くなれない、あいつに勝てないっていうのかよ」
「その身に備わったものがすべてではない。それに、勝敗だけがその者の全てを測る物差しではないだろう」
「あんたには分からねぇよ」
苛立ちからぶっきらぼうに言い放ったが、剣士はそれを笑って受け流した。
「そうだな。勝ちたいと思うのも戦士の性分だ」
ブラックピットはそれを聞き、しばらく黙って彼方の空を見つめていた。
空と地の境に残っていた赤い残光もいよいよ薄れ、熾火のようにくすぶる光だけが菫色の空の底を照らしている。雲が煙のような色をしてたなびく中、いつの間にか白い星が一つだけ、頼りなさげに瞬いていた。
それを見ていた彼は、決心する。
「……なあ。知ってるのなら教えてくれ。どうすれば強くなれる」
思い切って尋ねたこちらの真剣な表情に対し、向き合った相手はしばらく何も言わずに目を向けていた。吟味しているのか、言葉を探しているのか。
見通し難い沈黙の向こうからやがて返ってきたのは、こんな言葉だった。
「それはお前が考えることだ」
あまりにもそっけない返答に唖然とするも、彼の言葉には続きがあった。
「自分のやりたいようにすれば良い。せっかくこのような場に呼ばれたのだ。彼だけを気にして、彼だけを超えようとするのでは意味がない。強くなりたいと思うのならば、自分らしくあれ」
ブラックピットはこれに対し、つい反射的に言い返そうとしたが、自分から取りやめた。ぐずぐずと文句ばかり言い、『それは答えにならない』と不平をぶつけるのではどうにも格好がつかないように思えたのだ。それでもまだ内面でくすぶっている様子の彼を見ていた剣士は、やがてこう言った。
「先ほどの手合わせ。迷いがあるとは感じたが、それでも十分な戦いぶりだった。お前は、自分自身が思っているほどには弱くない」
「でもあんたが勝ったろ。下手な慰めはよせよ」
「……ああ、そのことだがな。あれはお前の勝ちということにしてくれ」
「なんだって?」
耳を疑い、身を起こす。あの状況から勝ちを譲られるなんて、馬鹿にされたのかと思ったのだ。
「からかっているのではない。事実として、あれは良い勝負だった。私もつい熱中してしまい、おとなげない手を使ってしまった。そうでなければあのとき、お前が勝てていただろうからな」
そう告げて、彼は遺跡の欠片から地面に降り立つ。
「……さて。ずいぶん時間をとってしまった。そろそろ私は行かせてもらおう」
空はすっかり日も暮れ、太陽の白い名残がぼんやりと夜空を照らしていた。彼が歩いていく方角が城の方ではないことに気がつき、ブラックピットは呆れたような顔をする。
「まだ修行するつもりか? こりねぇなあんた……」
「それも私の自由ということだ」
仮面の向こうで笑ってそう答え、彼はそのまま振り返らずに戦場から飛び立っていった。
幸い、試合の行われていないステージでも転送装置は稼働していた。
冷え込んできた屋外の戦場から、瞬く間に暖かな光満ちる城内に戻ってきたブラックピットだったが、心の中はそう簡単には切り替わらなかった。夕暮れの中での真剣勝負、その後に交わした、影と本質に関する会話。
我知らず眉をひそめて考え込んでいた彼だったが、何かが意識の端をつつき、ふと顔を上げる。
待合室の数あるモニター。その一つに、今しがた決着のついた様子の試合風景が映っている。そこにいた者の姿を認め、ブラックピットは思わず驚きの声を上げてしまった。小柄な体ながら、勝負した相手と対等に握手を交わす仮面の剣士。つい先ほどまで自分と話していた相手が、まったく別のステージで戦っていたのだ。
急いで転送装置の並ぶ場所へと駆け戻る。
試合から戻ってきた彼は出迎えがあるとは予想していなかったらしく、また相手がいつになく動転した様子であるのを見て怪訝そうなまなざしをした。その顔で見上げてくる剣士に、ブラックピットは息せき切って尋ねる。
「あんた……さっきまで『戦場』にいたんじゃなかったのか……?!」
「……戦場? いや」
依然としていぶかしげなまま、彼は短く答えた。しかし、こちらが冗談を言うような性格ではないことに気づいた様子で、続いて真剣な声音でこう問い返す。
「戦場で何かあったのか」
その表情を見ていたブラックピットの顔に、ややあって何かがよぎった。
「……いや、なんでもない。気のせいだ」
少し落ち着きを取り戻し、そう取り繕って立ち去ろうとした。
ふと思い立って、彼は剣士を肩越しに振り返る。
「そうだ。メタナイト。あんた、おれの名前は言えるか?」
「君の名前か? ブラックピットだろう」
相手は、さほど迷わずに答えた。
これで納得がいった。自分が戦場で対面した“彼”こそ、映し出された願いの方だったのだ。
まだいぶかるような視線を向けている相手に、大したことじゃないと言い、ブラックピットは踵を返した。
ランプの明かりが満ちる渡り廊下。先に夕食を済ませた者と、これから食堂に向かう者とが往来し、時に挨拶をかわし、立ち話をしてはまた別れていく。
欄干の向こうに広がる空はすでに暗く、星々が瞬く空から吹き込んだ夜風がランプの炎をそっと揺らめかせ、戦士たちの影をそよがせていた。そんな中を歩いていく黒い天使は辺りの様子に見向きもせず、一人考え事にふけって黙々と歩いていた。すれ違う他の戦士が掛ける声にも、半ば上の空で返事を返すばかり。
向こうからやってきた者の声を耳にして、彼はようやく足を止めた。
「あれ、ブラピ。どうかしたの? 難しい顔しちゃって」
見上げた先にいる彼は、今度は一人で立っていた。こちらをまっすぐに見る青い瞳。自分と鏡写しの存在を見る彼の顔にはどこにも疎むような様子はなく、こちらに笑顔さえ向けていた。
その能天気な様子につい、いつもの癖からブラックピットは顔をしかめてにらみ返したが、それに自分で気がつくとふっと笑い、首を横に振る。
「なんでもねぇよ」
そう言って、そのまま彼の横を通り過ぎて歩いていく。相手が不思議そうな顔をしてこちらを見送っているのを背中で感じつつ、ブラックピットは顔を上げた。
――やりたいように……か。言われなくてもやってやるさ。
そうして彼は、戦士たちが行き交う廊下を迷うことなく、まっすぐに歩いて行った。