気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第4章 歓びをもらたす者 ①

 

 

 

淡い青色の空の下、朝靄の中から浮かび上がってきたのは、樹海のごとく地上を埋め尽くす無機物のシルエット。

ひときわ高い建物たちは雲の腹に届かんばかりにすらりと伸びあがり、朝の日射しを横から受けて柔らかな橙色に照らされている。形はおおむね直方体が多いが、時たま円錐形、楕円形の輪郭を持つものもある。それらが落とす影の中には背丈の低い建物群が群れをなしてひしめきあい、わずかな隙間も作るまいと言わんばかりに立ち並んでいた。

人工的な線と面で構成された、大小様々な構造物。個々の建物はきちんと秩序をもって設計されたはずだが、それらが地平線の果てまでを埋めるようにして建ち並び、ランダムに敷き詰められて出来上がった全体像はどこか生き物めいていて、コンクリートジャングルと形容するのがふさわしいくらいだった。

その石造りの密林を目掛けて、ちっぽけな人影が翼を広げて飛び込んでいく。彼が通り抜けていった後には青い輝きが淡く残っていたが、それも徐々に薄れながら朝靄に溶け込んで消えていった。

 

ひときわ高い建造物の立ち並ぶ領域までたどり着くと、彼は翼を一つ大きくはためかせて全身を下に傾ける。翼を心持ち折りたたんで宙を蹴った途端、彼の身体は重力に引かれ、地上を目掛けて螺旋を描き、吸い込まれるように降下していく。

周囲の建物に接近するたびに、磨き抜かれたガラス窓に彼の姿がくっきりと映し出される。使者は降下の途中ではあったが、物珍しげにあちこちを眺め、すぐそばのガラス窓を駆け抜けていく自分の写し身や、建物の隙間から垣間見えるミニチュアのような街並みを観察していた。

そうしているうちにやがて地上が近づいてきて、彼は空中でくるりと器用に姿勢を変えると、足を下にして着地する。

膝を曲げて衝撃を吸収したところから背筋を伸ばし、彼は改めて小手をかざして頭上の光景を、人工物の密林を見上げた。

「これ……全部人間が建てたものなんですか……?」

彼の問いかけに応え、肩口の宝飾に赤い光が灯る。

『そのようです。天をも掠めんばかりの高層建築物、スカイスクレイパー。訳して摩天楼とは、言い得て妙ですよね』

光の女神。彼方のエンジェランドに住まう彼の主人が穏やかな声音でそう言った。

「“スカイスクレイパー”に“摩天楼”ですか……なんかそういう名前の武器とかありそうですね。それにしたって、凄い眺めですよ。これ、材料はコンクリートなんでしょうか? こんなに高く積み上げて、折れたりひび割れたりしないのが信じられないです。それにガラスも、あんなにふんだんに使ってるなんて……」

『必要は発明の母。狭い土地にたくさんの人間が集まるのなら、やがてはこういうものが必要になってくるのですよ』

「たくさんの人間ですか……」

そう言ってから、天使が目をむけたのは肩に掛けた茶色のカバン。その蓋は、弾け飛びそうなほどに膨らんでしまっている。今回はいつになく中身が詰まっているようで、蓋の隙間からはぎゅうぎゅう詰めになった封筒の束が見えていた。

それを少なからぬ倦怠の表情で見つめ、彼はこう言った。

「――確かに今回は、ずいぶんたくさんのキーパーソンがいるみたいですね。これは長丁場になりそうだなぁ……」

ため息をついた矢先、にわかに辺りが騒がしくなってピットは顔を上げる。

目に映るのは、背が低く、それでいて妙に顔ばかり大きな人々の姿。誰もかれも、まるで卵に顔を描いたような面持ちで笑顔を見せて、こちらに走ってくる。

彼らの髪の毛は被り物のようにつるっとして作り物めいており、時には眉毛や口など、顔のパーツが明らかに顔面をはみ出て、宙に浮いている者までいる。彼らは頭でっかちで三頭身くらいしかないにも関わらず、頭を支える身体は細長く、手足も棒のように細くて頼りない。それでも彼らは全くふらつくこともなく、軽い足取りでこちらに駆け寄ってくるのだった。

彼らは目を輝かせ、興奮した様子で口々にこう言っている。

「本物だ!」

「こんなとこで会えるなんて」

「信じられない、ラッキーだわ!」

「こっち見てー!」

妙にデフォルメされた姿の人間たち。彼らからすれば“見慣れない”はずのピットに対し、全く物怖じすることも警戒することもなく、あっという間に周囲を取り囲む。

「サインお願いします!」

こちらの手元に手帳とペンを差し出してきた人もいれば、

「一枚、良いですか?」

カメラを手に尋ねてきた人もいた。

「握手してください!」

差し出されたのは、指の見当たらない丸い手。勢いに半ば呑まれつつ、ピットはそのまん丸な手をとりあえず片手で包み込む。

言われるがままにポーズを取ってみせ、並んで記念撮影に応え、差し出された紙に名前を書き――ようやく全員の要求に応えた後には、疲労困憊の天使が残されていた。

群衆が散っていく中、人疲れしたのか、放心状態で宙を眺めているピット。その彼の肩口の宝飾に、再び赤い光が灯った。

『おやおや。あなたも有名人になったものですね』

可笑しそうに笑っている女神。一方、ピットは宝飾に向けて困惑の表情を返す。

「でも僕、今までこんな場所に降臨した覚えはありませんよ。それにあの人たち、僕の名前は一言も……。誰かと勘違いしたんでしょうか」

『勘違いだったとしても、ちやほやされるのは悪くないでしょう?』

そう言われた天使は、一拍置いてちょっと照れたような笑みをこぼす。

「否定はできないですね」

 

女神の情報をもとに、まずは今回のパートナーとなる人物と合流すべく、ピットは通りを歩いていく。だが、数区画も歩かないうちに幾度もタマゴ頭の住民に見つかり、呼び止められ、サインと写真をせがまれる。最初のうちこそ律儀に返していた天使だったが、何度も繰り返すうちに徐々におざなりになっていき、しまいには名前の代わりに適当な落書きを書いて返すようになっていく。しかし書かれた相手がまったく何も気づいていないかのように感謝の言葉を述べ、嬉々としてその場を去っていくのを何度も見せられるうちにばつが悪くなったのか、再び自分の名前を書いてやるようになった。

 

また一群の市民を片づけ、天使はペンを持っていた手をもう片方の手でマッサージしながら眉間に皺を寄せていた。

「こんなに短時間で自分の名前を何度も書いたの、たぶん初めてですよ。そのうちどういう文字を使ってたか分からなくなっちゃいそうです。……確かこういうの、名前ありましたよね。なんて言うんでしたっけ?」

いつもの癖で空を見上げて問い掛けると、女神の答えは肩の宝飾から返ってきた。

『ゲシュタルト崩壊ですね。でもあれは、部分はちゃんと認識されているのに、全体としてのまとまりが捉えられなくなる現象だったはず。私の見間違いでなければ、ピット、あなたはさっき“へのへのもへじ”みたいなのを書いていたようですが……』

「あれは忘れてください、ほんの出来心なんです……!」

慌てて釈明し、ピットはこう続けた。

「でも、やっぱりおかしいですよ。あの人たち、明らかに僕の名前じゃないのを渡されたり、写真撮影で変顔してても何も言わないんですよ? おかげでこっちは張り合いがなくって……」

『真の有名人は、何をしても許されるのです。あなたも見たことがあるでしょう? ある特定の人間たちは、たとえ意味のない落書きを渡しても、舌を出しておどけた表情をしていても、それがもっともらしい理由づけをされて珍重され、法外な値打ちを付けられて後世まで残り続けるのですよ』

「僕もそうなるかもしれないってことですか? 勘弁してほしいなぁ」

天を仰ぎ、渋い顔をしていた天使は、そこでふと気づいて顎に手を当てて考え込む。

「……それにしては何て言うか、さっきの人間たち、最後の最後で僕自身には関心がないみたいな雰囲気だったような。ほんとにここの人たち、僕が目当てだったんでしょうか? これじゃあまるで――」

言いかけた矢先、またしても通りの向こうから黄色い歓声が聞こえてきて、思わず反射的に身構えるピット。しかし今回は彼がターゲットではなかったようだ。一拍遅れてそれに気づいた彼は、車道を挟んで向こう側へと目を凝らす。

押し合いへし合い、中央にいる誰かに熱い視線と歓声を向けるタマゴ頭の住民たち。そんな人垣の真ん中には、頭一つ分だけ背の高い人影があった。

赤い帽子を被った、焦げ茶色の髪の少年。四方八方から掛けられる声に戸惑い、慌ただしくあちこちを見渡している。

それが誰であるかを見定めるや否や、

「――レッドくん!」

ピットは急いで踏み切った。

アスファルトの舗装に足音を響かせて、車の行きかう車道に真っ直ぐにつっこんでいく。これを見た自動車やバスが慌てて急ブレーキをかけ、けたたましくクラクションを鳴らしたが、天使は怯むこともなく、停車した車列の隙間を突き進む。

やがて向こう側の歩道に差し掛かり、走ってくる天使に気づいた住民たちが目を輝かせてわっと盛り上がった。彼らがこちらへ駆け寄ってこようとする中、ピットは彼らに見向きもせずに傍を走り抜けていった。

彼がそのまま人垣に割って入ろうとしたところ、住民たちはこちらが声をかけるまでもなくにこにこと笑って道を開け、天使は勢いあまってつんのめってしまった。踏ん張り、危ういところで転倒を免れた彼は、体勢を立て直して顔を上げる。

その先、帽子の少年は状況が全く飲み込めない様子でこちらを見つめ、ただただ目を瞬いていた。彼の足元には黄色いねずみのような生き物もおり、少年の脛にしがみついたまま、こちらもきょとんとした顔で天使を見上げている。

周囲では熱烈歓迎の市民たちが再び手厚い包囲網を作ろうとしていたが、ピットは構わず少年の腕をつかむと、ほとんど強引に彼らを押しのけて向こう側へと脱出する。黄色の小さな生き物も二人を追いかけて、四足歩行でついていった。

 

勢いのまましばらく通りを走っていた彼らは、周りが静かになってきたところでようやく立ち止まる。

傍らの建物に歩み寄り、壁面に背を預けて息を整えていたピットに、帽子の少年が声をかける。

「ありがとう、助けてくれて」

彼は帽子のつばに手をやり、少し照れたように歯を見せて笑っていた。そんな彼の肩から、背中をよじ登って黄色のねずみが顔を見せる。

「ピィカチュ!」

丸い目を輝かせ、ツノのような耳を嬉しそうにピンと立てているところを見ると、彼も天使にお礼を言っているようだった。天使は彼らに笑顔を返し、こう言った。

「どういたしまして。それにしても、来て早々こんな大歓迎を受けるなんてね」

「本当、不思議だよ。僕のこと、誰かと見間違えたのかな……」

怪訝そうな顔で、レッドは自分たちがいた方角を見やっていた。どうやら彼も、このエリアには見覚えが無いらしい。

と、何気なく後ろを向いていたピカチュウが声を上げた。ピット達がそちらに顔を向けると、折しも別のタマゴ頭の一団が歩いてくるところだった。慌てて隠れるところを探そうとしかけて、少し遅れて今までと彼らの様子が違うことに気が付く。

こちらが見えているはずの距離なのに、一向にこちらに注目を向ける様子もなく、つるっとした質感の笑顔を貼り付けて歩いてくる。警戒する二人と一匹をよそに、彼らは何事もなく通り抜けていき、そのまま歩み去っていった。

警戒の姿勢のまま、揃って似たような表情をして彼らの背を見つめていた二人だったが、先にピットが何かに気が付き、空を見上げる。

「パルテナ様、もしかして……?」

『ええ。名付けて“お忍びの奇跡”です。二人とも、このままではキーパーソン探しもままならないでしょうからね』

微笑むような気配と共に響いた女神の声は、隣のレッドには届いていないようだ。天使が声をかけた青い空に顔を仰向かせ、小手をかざして目を凝らしている。彼の肩でもピカチュウがきょろきょろと辺りに顔を向けていた。そんな彼らの様子には気づかないまま、ピットは空に顔を向けてこう続ける。

「助かります! ……でも、欲を言うならもうちょっと早めにお願いしたかったなぁ、なんて……」

『あら、そうだったのですね。あなたが“ちやほやされるのも悪くない”って言うものですから、てっきり楽しんでいるのかと』

「確かにそんな感じのこと言いましたけど……でもあの人間たち、やっぱり僕らのこと知らないで集まってるみたいでしたし――」

そこでようやく、ピットは傍らの少年が訝しげな顔で空を見上げていることに気が付いて、はたと我に返る。

そんな彼の様子が可笑しかったのか、女神はくすくすと笑う。

『無事に今回のパートナーとも合流できたようですし、私はこれにて失礼しますね』

「――あっ、パルテナ様!」

『そうそう、その“むしよけスプレー”は今回のエリアにいる間はずっと続きますから、思う存分歩き回って探索してくださいね』

「……むしよけスプレー?」

女神の気配が遠ざかり、残された天使は怪訝そうな顔をしていた。そんな彼に隣の少年から声が掛かる。

「ねえ、もしかして君のところの『光の女神さま』が何かしてくれたの?」

「うん。なんだか“お忍びの奇跡”って言うものらしいんだけど……」

答えた天使は、相手が目を丸くしていることに気づいた。よく見ると、その視線の先はこちらの顔ではなく、その後ろに向けられている。

「何かあった――?」

そう言いながら自分も後ろを振り返った天使は、そこに映し出されていたものを見てぽかんと口を開ける。

ビルディングの一階部分に張り巡らされた大きな窓ガラス。そこには、このエリアの住民と同じく頭でっかちの棒人間となったピットとレッドが映っていた。服装や髪形も、それに見合うように程よく簡略化されており、二人とも点目になって驚きの表情を示している。レッドの肩に乗っているピカチュウもデフォルメされて、つるっとしたぬいぐるみのような姿になっていた。

慌てて自分の身体を見おろすも、そこにあるのは普段と何も変わらない胴と手足。指も五本揃っている。どうやら、『見た目』だけを変化させる奇跡のようだ。それに気が付き、幾分心が落ち着いたピットは再びガラス窓に向き直る。手を振ったり、ポーズを決めてみたりして、自分の似姿がちゃんとそれについてくるのを試している彼の隣、レッドの方は興味深そうにガラスに映った自分の姿を見つめていた。

角度を変えて眺め、じっくりと観察し終えた彼は天使に笑顔を見せてこう言った。

「なるほど、これなら目立たないね!」

 

 

エリアの住民に溶け込んだ二人と一匹は、ピットの発案でとりあえず人通りの多いところを目指すことにした。

これまでに複数のエリアを巡った経験から、ピットはある法則に気づいていた。エインシャントに選ばれた人物、すなわちキーパーソンと呼ばれる人々は、そのエリアにおいて知名度の高い人であることが多い。したがって、やたらと住民の多い今回のエリアの場合は、辺りの人々に尋ねまわり、有名な人の名前を挙げさせれば、それほどかからずに封筒の名前を埋めることもできるだろうと踏んでいた。

 

「有名人? そうだなぁ、この街には“スター”がたくさん来てるけど」

ギョロ目のタマゴ頭は、そう言って首を傾げさせた。

「誰でも良いから名前を教えてよ、そのスターって人の名前」

「ああ、顔は分かるんだけど名前はなぁ……。悪いね、僕は観光でこの街に来たばかりなんだ。他の人に聞いてごらんよ」

そう言うと、彼は詫びるように手を振ってピットの前を立ち去ってしまう。

「あ、ちょっと……!」

呼び止めようとするも、相手は振り返る素振りもなく、すたすたと遠ざかっていく。

ため息と共にがくりと肩を落とし、それからピットは後ろを振り返った。

「そっちはどう?」

「ダメだ。みんな観光客で、あんまりここのことには詳しくないみたい」

「こんなにいて全員観光客だなんて……」

途方に暮れたように辺りを見渡す天使。通りの真ん中で立ち止まっている二人の周り、個性的な姿をしたタマゴ頭の人々が次から次へと通り過ぎ、現れては去っていく。

おかしなことに、彼らはキーパーソンはおろか、この大都市についてもほとんど何も知らなかった。ただ単に『この街』と呼ぶだけで、固有の名前を挙げられる人は一人もいない。その様子は、まるで街はこの世界に一つだと思っているかのようだった。

実際、辺りの街灯には小さな旗が掛けられているのだが、そこにあるべき街の名前やロゴマークなどは無く、ただ単に無地の布がそこにあるばかり。色にも統一感が無く、赤や青、紫、緑の旗がランダムにぶら下がっている。

どうにも言い表すことのできない違和感に眉をしかめていた天使の耳に、レッドのこんな声が聞こえてきた。

「なんだか『試合』を見に来たって言ってたよ」

「試合? それって……?」

「分からない。僕が聞いた人は、ただ『試合』って言ってたな……」

「観光、試合、それにスター……」

考え込んでいたピットの目に、ふと閃くものがあった。

「そうだ、もしかしたらその試合にスターが出てるのかも――」

そこで折しも通りがかった人を呼び止め、ピットはこう尋ねてみる。

「ねえ。僕たち試合を見に行きたいんだけど、どこに行ったら見られるの?」

「どの試合のこと?」

とげとげ頭の観光客にさわやかな笑顔で尋ね返され、『それを知りたいんだけど』という言葉はぐっとこらえてピットはこう答える。

「一番近いのならなんでもいいよ」

「そうだなぁ、一番近いのはサーキットかな。場所はあそこの案内板を見れば分かると思うよ」

彼が丸い手で示した先、そこには通りに面して大きな看板が立てられていた。

 

立て看板を前にして少年二人が立ち止まっている後ろを、様々な姿をした頭でっかちの観光客達が通り過ぎていく。

街の案内板であるにも関わらず、やはり看板のどこを探しても街の名前は書かれていなかった。

「この街、本当に名前が無いんだね……」

レッドも聞き込みの中で気づいていたらしく、訝しげな表情で看板を見上げていた。

「通りや地区の名前はあるのにね。みんな不便じゃないのかな。よそから観光で来たって言うなら他の街もあって良いはずなんだけど」

そう言いながら、ピットは案内板に指を滑らせる。やがてその指先が、現在地を示す下向きの三角形を探し当てた。

「……えぇと、現在地はここだから……あ、確かに『サーキット』が一番近いね。方角は――」

看板から離れた指がゆっくりと空間を横切り、一つの通りを指さす。

「あっちだ」

 

 

街の中を歩くこと十分ほど、ビル街が急に途切れたかと思うと、広大な緑地が行く手に姿を現した。

緑の芝生を突っ切るようにして、整然とタイル張りされた道が伸びた向こう側、彼方に左右に伸び広がった壁が見えてくる。おそらくスタジアムの外壁で、その向こう側にサーキット場があるようだ。街の中心部に近いというのに、贅沢にも区画をいくつも使い、周囲のビルディングとは十分に距離が開くようにしている。おそらくレースの騒音を和らげるためだろう。

思いのほか大きな規模で待ち受けていたサーキットにあっけにとられ、足を止めていた二人。

広い敷地をただただ眺めていた彼らは、スタジアムに続く幅の広い道に面して巨大な看板が立ち並んでいることに気が付く。そこに貼られたポスターには、ゴーカート風のレースカーに乗った様々な人物が載っていた。

どちらからともなくあっと声を上げ、急いで駆け寄っていく。

そこに堂々と写し出されていたのは、赤いキャスケット帽をかぶった男性。レースの最中に撮られたものだろうか、オーバーオール姿でレースカーに乗り込んだ彼は、コーナーを曲がる途中でこちらに向けて青い瞳で茶目っ気たっぷりにウインクをし、口ひげを上げてにっこりと笑っている。

「これって……」

勢い込んで肩掛けカバンの蓋を開け、封筒の束を取り出す。ピットの見込み通り、一つの封筒に名前が浮かび上がっていた。さらに、封筒を掲げながらあたりの看板を見渡していくと、他にもいくつかの名前が紙の内側から滲みだすようにして記されていく。

それを共に見ていたレッドが、声を弾ませてこう言った。

「やっぱりスターって、キーパーソンのことだったんだね! あのスタジアムに行けば会えるかな」

「これだけ封筒があるんだし、いくら運が悪くても一人くらいは会えるさ! 行ってみよう!」

そう言って駆けだしたピットを追い、レッドもピカチュウを肩に掴まらせて走っていった。

 

初めのうちは遠くで蜂が唸っているくらいにしか聞こえてこなかったエンジン音。近づいていくにつれてそれは着実に大きくなっていき、スタジアムが見上げるほどの高さになる頃には、轟轟と辺りの空気を震わせるまでになっていた。

「凄い迫力だね……」

そう言ったレッドの肩では、大きな音が不快なのか、ピカチュウが何とも言えない表情をしてしがみついていた。彼の様子に気が付き、レッドは赤と白のボールを取り出すとピカチュウに見せてやった。しかし彼はそれに対して首を横に振る。

「ついていくって?」

「そうみたい。きっとピカチュウも君の手助けをしたいんだ」

『トレーナー』である彼が言うのなら間違いはないだろう。肩に掴まるピカチュウは、心なしか決意の表情で真っすぐに前を見つめているのだった。

その様子に目をむけるピットは、ふと、彼に手紙を渡したときのことを思い出した。

 

 

彼も、ピカチュウもまた、“キーパーソン”のひとりだった。

 

かつて、白銀の雪降りしきる山頂で互いの『ポケモン』を戦わせたのち、辛勝したピットは複数枚の手紙をレッドに手渡した。なぜなら、彼が手持ちとするポケモンにもキーパーソンとして、エインシャントからの手紙が割り当てられていたからだ。

人間の言葉を喋る様子のないポケモン達だったが、彼らはレッドが開いて見せた手紙を読み、確かにそこに書かれた『何か』を理解していた。その証拠に彼らは、これまでのキーパーソンがそうであったように驚き、戸惑い、呆然として互いに顔を見合わせていたのだ。

その反応は、ピットが雪山にたどり着くまでに探し出し、“仲間”にしたポケモンとも同じ。ピットに協力してくれたポケモンの側には人の言葉を使える者もいた。彼らとのやり取りで、ポケモンは人間と同じような感情を持ち、そして時には人間並みの知性を持つ者もいるのだと知った。

 

だからこそピカチュウの今の決意は十分に予想できるものであったが、それと同時に、ますます『手紙を配ること』への懸念を深めさせるものでもあった。

たとえ人間並みに賢いものがいるとしても、人間のように知識を貪欲に追い求めることもなく、文化らしい文化を持たず、自然と共に生きる彼らであれば、未来や過去に対する人間ほどの執念を持つことは無いように思える。たとえ自分のいた場所が偽物だったとしても、自分が偽の記憶を与えられていたのだとしても、不自由なく暮らせるのなら頓着しないのではないか、と。

それがこうして自分と共に並び立ち、是が非でも全てのキーパーソンに手紙を渡さなくてはならないと言わんばかりの表情を見せている。

彼らをしてそこまで駆り立てさせるほどの真実とは、一体何なのだろうか。

 

 

 

レースはいよいよ佳境に近づき、スタジアムに満ちる歓声は割れんばかりに大きくなっていた。

一番初めにゴールするのは誰なのか、それを知ろうと観客のほとんどは席から腰を浮かせ、コースの向こう側に目を凝らしたり、コースを挟んで向かい側に掲げられた超大型スクリーンを眺めたりしている。落ち着きなく右往左往する彼らの頭の後ろ、ピット達の姿は最後列の立見席にあった。今回分の座席はすでに完売となっており、入場券を買うことしかできなかったのだ。

それでもなお彼らの周囲には、同じ状況で立ち見をしている観光客が大勢いた。この『試合』というものはよほど人気があるらしく、彼らもまた片手を振り上げ、コースに届けとばかりに声を張り上げている。

ピット達も手すりに腕を預け、コースに真剣な眼差しを向けていたが、彼らは周りの観光客とは少し事情が違っていた。

 

にわかに歓声が盛り上がり、コースの彼方からエンジン音が聞こえてきたかと思うと、先頭車両が姿を現す。そしてそれに追いすがるように、後続が次々と現れる。ある者は車体をぶつけようとアクセルを踏み、ある者は衝突を躱すように大きくハンドルを切る。入り乱れるカートの間をかいくぐり、順位を上げようとする者もいれば、それに気づくや否や、妨害するように蛇行運転を始める者もいた。

彼らの顔立ちを見極めようと身を乗り出していたピットは、次の瞬間、目を疑うような光景を目の当たりにする。

小柄な亀の姿をしたレーサーが片手でハンドルを掴んで腰を浮かせたかと思うと、空いた方の手で、小さなレースカーのどこに載せていたのかと思いたくなるほど大きな亀の甲羅を取り出し、別のレーサー目掛けて投げつけたのだ。狙われた相手はすかさずハンドルを切り、避けられた甲羅はその向こうを走っていた不運なレーサーの車体にぶつかった。くるくるとスピンし、減速してしまったその車の横を、後続のレーサーたちが次々に追い抜いていく。そのうちの一人がまた別の道具を取り出したかと思うと、途端にカートが急加速し、前方にいたレーサーを次々に撥ね退けて先頭に躍り出る。

一着はこれで決まりか、誰もがそう思った時だった。

コースの後方から唸りを立て、翼のついた青い甲羅が飛来する。甲羅は空中でくるりと一回転し、折しも一位になりかけていたカート目掛けて突っ込んでいった。途端に青い爆風が巻き起こり、緑の帽子のレーサーを乗せたカートはまるで嵐に巻き込まれた葉っぱのように高く舞い上がった。

半球状の爆風を避けて後続車が次々と追い抜いていく中、哀れな犠牲者はカートにしがみついたまま、地面にどさりと着地する。

しかし彼はめげることなく、車体を進行方向に向け直してすぐさまレースを再開すると、相変わらず投げ道具とカートとが入り乱れている先頭集団に食い込んでいった。

ここまでの流れを、ただただ口をぽかんと開けて見ていた天使。ややあって、唖然とした様子でこう呟く。

「めちゃくちゃだ……」

隣のレッドも同感のようで、コースに目を向けたままこう返した。

「なんでもありなんだね……」

あっけにとられた二人の周囲では観客が大いに沸き上がり、コース上でもレースカーの集団がいよいよゴールラインへと迫っていく。レーサーの横顔が見える距離まで来たとき、天使ははっと我に返って任務を思い出し、封筒の束を手に取った。

トランプの手札を持つように両手で扇のように広げて持ち、スクリーンへと目をむける。そこに映し出されているのは、猛然と土煙を立てながら迫ってくるレースカー。ゴールの向こう側で待ち構えるカメラマン、雲に乗った黄色の亀によって捉えられたレースのクライマックスだ。

ピット達の周囲、波濤のように興奮が押し寄せ、どっと盛り上がる声援。そのたびにカートが白黒のラインを突っ切り、順位が確定していく。

立見席の二人もコースに熱心な視線を向けていたが、彼らが集中している事柄は周囲の観客とは違っていた。天使が見比べているのは、手元の封筒とコース上のレーサーたち。

「一人、二人……」

封筒に名前が浮かび上がるたびに天使はその数を数えていく。

ゴールのラインを一台、また一台とカートが通り過ぎるごとに、彼の持つ白地の封筒に新たな名前が浮かび上がる。時たま、すでに外の看板で見た人や、封筒が反応しない人が通ることもあったが、これまでに数多くのエリアを巡ってきた彼でもこれほど一挙に名前が埋まっていく様子を見るのは初めてであり、いつしか、声に出して数えるのも忘れてコースと封筒とを見比べるばかりになっていた。

最後のレーサーが悔しげな顔でゴールを通り過ぎた頃、レッドは帽子のつばを片手で軽く持ち上げ、封筒の束を覗き込んでこう言った。

「――すごいや、残りも全部埋まっちゃったね」

彼の言葉でようやく実感が追いついたピットは、封筒をきっちり揃えて肩掛けカバンに戻すと、レッドに笑顔を返す。

「よし。この勢いでみんなに配っちゃおうか!」

 

立見席から屋内に戻り、サーキットの方角に伸びていそうな通路を探し、走っていた二人。

しかし、少しも進まないうちに、彼らの目の前に制服を着たタマゴ頭が立ちふさがった。

彼らは揃って同じような笑顔を張り付けたまま、にこやかにこう言った。

「観客の方はこの先、立ち入り禁止です」

「そこを何とか。さっきのレーサー達に手紙を渡すだけなんだ」

手を合わせて頼み込む天使に、警備員達は困惑の表情を返す。

「そう言われましても……」

レッドも一歩進み出て、真剣な眼差しを向ける。

「あの人たちの知り合いなんです、僕たち」

しかし、警備員は困ったように頭の後ろをかき、互いに顔を見合わせてからこう言った。

「……失礼ですが、お客様、何かそれを示すものはお持ちですか?」

ピットはすぐさま鞄から封筒を取り出して見せるも、警備員達の反応は薄かった。

「ファンレターなら直接渡さなくても、郵便で送れば良いと思いますよ」

壁のように立ちはだかる警備員を前に、ピットはじれったそうに歯噛みする。

「どうあっても通さないつもりだ。これじゃ埒が明かないよ……」

「せめて会わせてくれれば良いんだけどな」

「期待できそうにないね。……行こう、レッドくん」

きっぱりと踵を返し、天使は少年を引き連れてその場を立ち去っていった。

 

数分後、制服姿のタマゴ頭たちがのんびりと行きかう廊下を、足音を殺して駆けていく影があった。

遠く彼方、彼らが見据えるのは四角く開いた出口。その向こう側にはサーキット場の芝生がおぼろげに見えている。向こう側では今も表彰式が執り行われており、観客の声援が淡くこだましながら聞こえてくる。

だがそこにたどり着くには、がらんと開けた整備場を横切らなければならない。折しもレースが終わったばかりで、運び込まれたレースカーを移動させる人、それを誘導する人、そして修理の出番を待つ人で整備場はにぎわっていた。

「近づけそうにないな……」

「僕らに任せて」

そう言うと、レッドは背後を振り向き、いくつかのモンスターボールを取り出して地面に放る。ボールから解放され、三匹のポケモンが姿を現した。水色の子亀に、つぼみを背に載せた緑色の両生類、そして橙色のドラゴン。

「ゼニガメ、フシギソウ、リザードン。みんなで向こうから回って、あの人たちの注意を引いて」

小声で伝えられたレッドの指示に控えめな鳴き声で返答し、三匹は張り切って廊下の奥の方へと駆けていった。

ほどなくして、にわかにどさどさと整備場の奥が騒がしくなり、ピット達の前を横切ってタイヤが転がっていった。整備場にいる人々は揃って向こうに顔を向け、ざわめいている。

「おい、あれはなんだ」

「動物だ。どこから入り込んだんだ?」

「こらお前たち! いたずらしないでくれよ!」

奥の方から聞こえて来る同僚の声が苦戦の様相であるのに気が付くと、ピット達の近くにいた整備員たちもそちらの方へと駆けていった。

近くに誰もいなくなった頃を見計らい、天使と少年は顔を見合わせて頷くと、サーキット場に続く出口へと走っていく。

彼らの背後ではまだ、こんな声が聞こえていた。

「おとなしくしててくれよ……」

「そこに入っちゃだめだって、危ないよ!」

「ああ、それだけは……お願いだから降りてくれ!」

「ほらほら、戻ってこい。おいしいパンをやるから」

「亀ってパン食べるのか?」

ピットが肩越しに振り返った向こう側では、タマゴ頭達がてんやわんやの大騒ぎになっていた。

甲羅に身をひっこめた子亀が水を吹き出しながら床を滑り、整備員たちの足の間を潜り抜けているかと思えば、その頭上では鉄骨をツタで器用につかみ、緑のポケモンが整備員の追跡を躱しながらあちこちを渡り歩いていた。橙色のドラゴンはというと、我が物顔でレースカートの上に乗り、翼を広げて辺りの整備員を威嚇している。

レッドもその様子を見ていて、片手で帽子の上から頭を押さえ、気まずそうな顔をしていた。

「ちょっとやりすぎちゃったかなぁ……」

「物を壊したりはしてないし、良いんじゃない? それよりもキーパーソンだ」

ピットは足を止める様子もなく言い切って、屋外への出口に向き直る。

しかし、サーキット場に走り出た二人を迎えたのは、すでに誰もいなくなり、がらんと広いばかりのコースだった。表彰台は片付けられ、見上げた先の観客席にもすでに人は無く、清掃員が座席の間を巡って掃除をしている。

「そんな、さっきまで表彰式やってたはずなのに……」

どこか遠くで小鳥の鳴く声が聞こえる中、静けさに満ちたサーキットを前に、戸惑いの表情で立ち尽くす天使。

彼の横にいたレッドがふと後ろの物音に気が付き、振り返った時だった。

「こらーっ、君たち! そこは立ち入り禁止だ、戻りなさい!」

警備員の制服を着た人々が駆けてくる。シンプルな眉を吊り上げ、口をへの字に曲げているところを見ると、さすがに彼らもお怒りの様子だった。

「まずい、見つかっちゃった……!」

ピットの方は逃げ道を探し、慌てて左右を見渡す。

だが、その隣からレッドが整備場の方角に向け、声を張り上げた。

「リザードン!」

彼の声に応えるように、竜の吠える声が一つ、響き渡った。

警備員の隊列を飛び越えて、青緑色の皮膜を広げたドラゴンが戻ってきた。その背中にはゼニガメとフシギソウを乗せている。頭の真上で竜が巻き起こした突風に驚き、警備員達が思わず地面に臥せる中、リザードンは悠々と翼をはためかせてピット達の元に着陸する。

レッドはてきぱきとゼニガメ、フシギソウをボールに戻し、リザードンの背にまたがった。

「ピットくん、乗って!」

そう言いながら彼は少しでも前に詰め、乗ることのできるスペースを開ける。言われるがままに天使がそこにまたがると、レッドはリザードンに号令をかけた。

「“そらをとぶ”!」

橙色の竜は勇ましい吠え声で応えると、翼を大きくはばたかせて一気に飛び上がった。ピット達を追いかけていた警備員も、整備場から出てきたスタッフの呆気にとられた顔も見る見るうちに遠ざかり、サーキット場に散らばる点としてしか見えなくなっていく。

 

上空からはコースの全景が見えたが、やはりそのどこにも、もはやキーパーソンらしき人影は残っていなかった。

「一体どこ行っちゃったんだろう……」

ピットが呟くと、レッドの肩に掴まっているピカチュウも同意するように鳴いた。

「ピィカァ~……」

リザードンは二人と一匹を乗せ、しばらくサーキット場の上空を廻っていた。だが表の出入り口から観客が出て行く他には、スターらしき人物も、あるいは彼らを乗せて走っていくであろう専用車も見当たらない。そのうちに最後の観客が出て行き、辺りはすっかり静かになってしまった。

レッドはリザードンに向けて頷いてみせ、竜はそれに応えて街へと首を巡らせ、翼を打ち振るう。ゆっくりと地上が近づいていく中、行く手を見ていたレッドが不意に声を上げた。

「――ピットくん、あれ、見て!」

指さした方角にあったのは、ビルディングの一角に掲げられた大きなスクリーン。そこに映し出されていたのは、ついさっきまでサーキット場で白熱のレースを繰り広げていたキーパーソン達だった。いつの間にか服装まで着替え、今度はバスケットボールに興じている。

「あれ……今の映像かな」

肩越しに振り返ったレッドに対し、横に身を乗り出してスクリーンを見ていたピットは頷いてみせる。

「“ライブ”ってあるからね、生中継で間違いないよ」

「でもいつの間に……まるでテレポートでも使ったみたいだ」

 

 

再び、道行く観光客にバスケットボールが行われている場所を聞き出し、ピット達は急いで現地に向かう。

どうにか試合が終わる前にスタジアムに辿り着くことができたが、彼らは入場券を買うこともせず、天使の先導で人通りの少ない通路へとまっすぐに向かっていった。

 

先を行くピットに、レッドは問いかける。

「ねえ、どこに行くの?」

「待ち伏せするのさ。僕らの目的は試合を見ることじゃなく、キーパーソンに会うことだからね」

「でもこの扉って、さっき入って怒られたとこと同じ言葉が……」

心配そうにレッドが見上げた先、今しがた天使が開けた扉には“STAFF ONLY”の文字が書かれてあった。

「見つからなきゃ大丈夫だよ」

「見つかったらどうするの? このスタジアム、天井あるから、さっきみたいに飛んで脱出したりはできないよ」

「そのときはそのとき。全力で逃げよう!」

そんな台詞を勇ましい笑顔で言い切って、ピットは扉の向こう側へと飛び込んでいった。

「あ、ちょっと……!」

引き留めようとしたときにはもうすでに、彼の白い翼は薄暗い廊下の曲がり角を曲がって、その向こうに消えていた。

「どうしようかな……」

ため息交じりに言った彼の肩で、ピカチュウも心配そうな表情をしていた。

「ピィカ……」

「……まあ、行くしかないよね」

レッドは一応、左右を見て誰もこちらを見ていないことを確認してから、ちょっと身をかがめるようにして扉の向こうへ踏み入った。

 

ライトを照り返し、眩く輝くコート。ボールの弾む音がスタジアムの中に力強く響き、そこに時折、選手同士の掛け声や靴底のこすれる音が交ざっている。二人のいる場所からでは試合の様子を見ることはできないが、素早く左右に行きかい、近づいては遠ざかっていく音を聞いているだけでも、大体試合の動きは分かるように思えた。

ホイッスルがひときわ長く鳴り響き、歓声が沸き起こる。どうやら試合が終わったらしい。

スタッフの行きかう廊下から一個手前の分岐路、物置と思しきスペースに控えていた天使と少年は顔を見合わせ、揃って駆けだす。

試合を終えて控室に戻っていく選手、“キーパーソン”たちの姿が近づいてきたかと思うと――

そこで二人は何かにぶつかり、跳ね返されてしまった。

「いったぁ……」

「……ここ、何かあるよ?! ガラス窓かな――」

そう言ったレッドの横で、やにわにピットが立ち上がる。見えない壁に駆け寄り、思い切り拳で叩く。

「ねえ、君たち! 待ってよ! 君たちに報せたいことが――」

しかし、向こう側のキーパーソン達は振り返る素振りもなく、笑顔で語らいながら遠ざかっていった。それでも諦めきれず、声を張り上げてガラスの壁を叩いていた天使。その肩をレッドの手が、慌てた様子で叩く。

揃って振り向いた先、警備員がそこに立っていた。彼の方は、こんなところに一般人が来ているとは思っていなかったらしく、怪訝そうな表情をしていた。

「――君たち。ここで何をしているんだね」

 

覚悟していたよりも、警備員の対応はあっさりとしたものだった。二人は大したお説教を受けることもなく、「こういうことはしちゃだめだよ」と言われつつスタジアムのメインフロアまで送られ、そこで解放されてしまった。

警備員は終始、どこか戸惑った表情をしていた。まるで観客がスタッフ専用の場所に入り込む事態そのものが、全くの想定外だと言わんばかりだった。彼らの反応からすると、ここに来ている観光客はよほど常識人で、並外れてマナーを守る聖人揃いなのだろう。

ピットがその推測をレッドに語ると、彼は思わずといった様子で笑い、こう返してきた。

「確かに警備員さんの反応も不思議だったけど、君の手もだいぶ強引だったんじゃないかな」

「だって、ああでもしないとキーパーソンに会えないって思ったんだよ。あんな壁さえなければなぁ……君も何か良いアイディアない?」

「え? そうだな……」

レッドは顎に手を当ててしばし考え込み、こう言った。

「次の試合がさっきのレース場みたいに天井が無いスタジアムなら、試合やってるうちに空から入るのはどう?」

 

 

スタジアムを出てすぐに飛び立ち、リザードンに乗って街を巡っていると、それほど時間もかからずに試合中のスタジアムが見つかった。今度はサッカーの試合が開かれているらしい。

接近するにつれて選手たちの顔も見分けられるようになっていく。幾人かはカーレースやバスケットボールの試合でも見た顔であり、また幾人かは看板でしか顔を見たことのない人物だった。もしかすると今回配るべき相手が全員そろっているのかもしれない。

それに気づいたレッドは、ややあってこう言った。

「そっか、このスポーツなら参加人数も多いんだね」

眼下、まるでミニチュアのように小さな人影がちょこまかと走り回るのを眺め、ピットは勢い込んで頷く。

「よーし、これで今度こそ、一気に任務完了だ!」

応じるようにリザードンが一声吠え、身体を斜めに傾けてスタジアムへと降下していった。

しかし、あと少しで会場のスポットライトの高さを切るという辺りになって、急に降下の勢いが弱まってしまった。

「どうしたの?」

問いかけたレッドを振り返り、橙色の竜は戸惑ったような唸りを返した。

「ねぇ、これってもしかして……」

「うん。何かが邪魔してこれ以上降りれないみたい」

レッドの答えを聞いたピットは、思い切って身を横に乗り出す。

「わっ、ピットくん……危ないよ!」

「大丈夫、掴まってるから……うん、やっぱりそうだ。ここにも壁があるよ」

彼の手は見えない壁に押し付けられ、竜の羽ばたきに合わせてその表面を滑っていた。

「ガラスなの? でも、それにしては透明すぎるな……」

「それもそうだし、スタジアムにいる人間たちがこっちに気づいてないのも変だ」

ピットの言葉にはたと気が付き、レッドも彼の見る方角、観客席に目をやる。

確かに彼の言う通り、あと少しで観客席にも降り立てるくらいまで接近しているにも関わらず、誰一人としてスタジアムの上空を旋回している大きなポケモンには気づいていない様子だった。いくら試合に熱中していたとしても、コートに影を落とすほどの存在に気づかないはずはない。

折しも眼下を、サッカーボールを蹴って運びながらキーパーソンの一人が駆け抜けていこうとする。

それに気が付き、ピットは大きく身を乗り出して叫んだ。

「おーい! こっちだよ、こっちー!」

彼が一生懸命声を張り上げているのを見て、レッドも、そしてその肩に掴まるピカチュウも加わった。さらにはリザードンも、吠え声でそこに参戦する。だが選手も観客も、ただの一人も上空の騒ぎにちらとも目を向けることなく、緑のコートをあちらこちらへ転がされていくボールに夢中になったままだった。

さすがに叫び疲れてしまい、大きくため息をついて姿勢を元に戻す天使。

「音まで遮っちゃうなんて。なんかのバリアでもあるんだろうな……」

「でもさっき、サーキットでは出られたけど……?」

レッドの言葉に、一瞬目を瞬き、それからピットは俄然やる気を取り戻すと、

「それだ!」

帽子の少年に人差し指を向ける。

「きっと試合が終わった後なら自由に出入りできるんだよ。そうと分かったらさっそく街に降りよう!」

レッドはこれに戸惑いの表情を返し、こう聞く。

「降りてどうするの?」

「もちろん、次に試合が開かれる場所を聞くんだよ」

 

再び、街角での聞き込みを開始した二人。道行く観光客を引き留め、レッドはこう尋ねかけた。

「次の試合、どこで開かれるか知ってますか?」

しかし、返ってきたのはぽかんと呆気にとられた表情。

「質問を返すようで悪いけど、どうしてそんなことを聞くんだい?」

「え、どうしてって……」

思わぬ返しに困惑してしまったレッドに代わり、ピットが進み出る。

「僕たち、どうしてもキーパーソン――じゃなくて、スターの人たちに会いたいんだ。でもすごく忙しいみたいで、試合が始まる前じゃなきゃ会えなさそうなんだよ」

「なんだ。そういうことなら、君たちの好きなところに行けば良いよ。この街は、日中はずっとあちこちで試合が行われてるんだ。君たちもカーレースなりサッカーなり、見たい競技を見に行けば良い」

少しずれた回答に心の中でつっこみを返しつつ、ピットは辛抱強く粘る。

「スターならだれでも良いってわけじゃなくて……じゃあ、この人は次、どの試合に出るか分かる?」

そう言って一枚の封筒を取り出し、宛名をタマゴ頭の観光客に見せたが、相手は申し訳なさそうに首を横に振った。

「ごめんね、そこまでは分からないんだ。そんなに気になるなら、案内所に行ってみたらどうだい?」

 

観光客に教えられた近場の案内所に向かう途中、ふとレッドが呟いた。

「――やっぱり変だな……」

彼の言葉を拾い、ピットは振り返る。

「何が?」

「ここに来てる観光客の人たち。“スター”の試合をわざわざ見に来て、あんなに熱心になってるのに、一人一人について全然詳しくないんだ。さっきの人もそう」

「特定のスターを応援するような、熱心なファンがいないってことだね」

ピットの合いの手に頷き、レッドはこう続けた。

「もしかしたら『レース』とか『サッカー』とか、選手よりもスポーツ自体が好きな人たちなのかもしれない。でも、そういう人しか見当たらないっていうのは、なんだか変だよ」

「しかも、選手たちのことをスターって呼んでるのにね。スターって言えば有名人のことでしょ? 名前も出てこないなんてやっぱりおかしいよね」

そんな会話をしているうちに案内所の前にたどり着き、二人は怪訝そうな顔で考え込みつつも、案内所の扉を押し開けた。

 

「予定表……ですか?」

受付の女性は、そう言って首をかしげた。心なしかその笑顔も、困惑の気配を漂わせている。

そんな相手に向かって天使は心持ちゆっくりと、念を押すようにしてこう伝えた。

「そう。いつ、どこで、誰が出るのか。僕らはそれが知りたいんだ」

「申し訳ありませんが、そういったものは作られていないんです」

受付の返答に、今度はピットの方が固まってしまった。

「え……? 作られてない?」

「はい。それぞれの『試合』は、必ずしも予定通りに終わるとは限りません。早く終わることも、長引くこともあります。ですから、スターの皆さまにはそれぞれの試合が終わり次第、次の空いているスタジアムに向かうようにお願いしているのです」

「えっ、じゃあ、あの人たち、ずっと何かの試合に出てるってこと……?」

「ええ、そうですが……」

「休憩時間も無いの?」

「それが何か……?」

当然といった様子でこちらを見上げている受付を前に、ピットは思わずキーパーソンの身を思って深くため息をつく。

「24時間戦えますか~だなんて、時代の流れに逆行してるよ……」

「あの……お客様。どなたか特定のスターを見に行かれたいのですね」

受付の方から急に現実的な言葉が返ってきて、天使は目を瞬く。

「まあ、そうなんだけど」

「それでしたら、一つのスタジアムに留まってみてはいかがでしょうか。そうすれば、いずれその方が出る試合が見られるのではないかと」

「試合を見るというより、僕らは直接会いたいんだ。試合中は全然話しかけられそうにないし、試合が終わったらさっさといなくなっちゃうし」

天使の愚痴交じりの要望を聞き、受付の女性は微笑んだ。

「そういうことでしたら……街を散策されていれば、きっといずれ会えますよ。スターの方々も、試合の合間にはこの街を歩いているかもしれませんからね」

「え、でもさっき君、休憩時間も無いって……それとも移動中に捕まえろってこと?」

困惑気味に問いかけるも、相手はニコニコと笑ったまま、何も言わずにこちらを見上げる。まるで、相談内容は無事解決したと言わんばかりだった。

 

案内所から、気もそぞろな様子で天使と少年が出てきた。

観光客が行きかう通りを半ば投げやりに指し示し、ピットはこう言った。

「街の中を歩いてるわけない。絶対徒歩じゃないよ、あんな速さで他のスタジアムに移動できるなんて。瞬間移動でもなきゃできないって」

「もうこうなったら、僕らで空いてるスタジアムを見つけて、試合が始まる前に何とか入り込むしかないね」

ここまでの苦戦がだんだんと堪えてきたのか、レッドも腕組みをし、眉間にしわを寄せてそう言う。

 

スタジアムの正規の入口から入ろうとすれば、また先ほどのように不正解の道を選んでしまうか、警備員に阻まれてしまうことは目に見えていた。一方、上空から探すのなら、試合中かどうかも分かるし、チャンスがあればすぐに降り立てるだろう。

二人で話し合ってそういう結論に至ったのだが、レッドの後ろ、リザードンの背中に跨るピットはどこかばつが悪そうな照れ笑いをしてこう言った。

「なんかごめんね、君たちには何度も乗せてもらっちゃって……」

これに対し、レッドは首を横に振って笑顔を返した。

「気にしないで。君はずっとは飛べないんだから」

彼のこの返答に天使は自分の耳を疑い、眉根を寄せた。

「あれっ……ちょっと待って」

「何か忘れ物?」

「いや、そうじゃなくって」

リザードンが二人分の重さを支えて力強くはばたき、ゆるゆるとアスファルトの地面が遠ざかっていく中、天使はしばし自分の中で記憶を追いかけてからこう切り出した。

「――レッドくん、なんでそれ知ってるの?」

行く手を見ていたレッドは、その言葉に一瞬の間を置いて振り返る。

「なんでって……。確か、前に会ったときにそういう話をしたんじゃ……ないかな」

そう答えた彼の視線は、しかし、自信なさげに天使の顔から逸らされていた。

記憶を掘り起こそうというように眉間にしわを寄せている彼に向けて、ピットはこう話した。

「僕は自力じゃ飛べない。パルテナ様に『飛翔の奇跡』を授けてもらえば、ちょっとの間は飛んでいられるんだけどね。たぶん君が言ったのはそれだと思うんだけど、でも僕の記憶が正しければ、君にはその話はしていないはずだよ」

それからもう一度、目をつぶって自分の内面を見つめ、記憶を確かめてから天使はきっぱりと頷いた。

「――うん、間違いない。君がいた“シロガネ山”には徒歩で入ったし、手紙を渡した後には君の方が先にエリアを出たから、僕が天界に帰っていくところも見てない。僕が飛べるかどうかの話はしてなかったはずだ」

それを聞かされた少年の目がこちらを真っ直ぐに向いて見開かれ、その顔に、走馬灯のように様々な感情がよぎる。

衝動と焦燥、疑念、それから、放心。

「じゃあ、僕は――」

半ば呆然として呟き、彼はそのまま首を巡らせて行く手へと目を向ける。

向かい風に短い髪を騒がせ、心ここにあらずといった様子で黙ってしまった彼の背を見て、天使はややあってはたと我に返る。

「……あ、えぇと、ほら! きっと僕に似た誰かがいたんじゃないかな? 君がエリアに閉じ込められたときに忘れさせられたのかもしれないし、逆に、いもしない人の記憶を植え付けられたのかもしれないし、どっちか分からないけど……。他にもそういうキーパーソンはいるんだ。手紙を受け取ってから、自分が色々と忘れてたことに気づいて、それで混乱してるって人」

慌てて並べ立てた向こう側、レッドの背中が不意にこう言った。

「そうか、それで……」

ピットはその先を待ったが、レッドはそれを最後に、再び内省の中に沈んでしまった。

 

 

 

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最終更新:2022-05-28

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