気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第4章 歓びをもらたす者 ②

 

 

 

空いているスタジアムを上空から探していた二人は、やがて大都市の一角に条件に適う場所を見つけ、リザードンに降下してもらう。

そのスタジアムには、観客はおろかスタッフさえもいなかった。がらんと広いばかりの舞台を空っぽの観客席が何重にも取り囲んでいる様は、どこか廃墟のようなうら寂しさを漂わせていた。リザードンはゆったりと大きな螺旋を描いて、その舞台の上に降りていく。

 

上空での気掛かりな会話の後、ずっと一人考え事をしている様子だったレッドだが、竜の背を降りた時の横顔にはもう困惑の欠片も残っておらず、いつも通りの表情に戻っていた。

「……ここ、使われてるのかな」

静寂を破り、レッドがあたりを見渡してそう言う。その隣でリザードンから降りたピットは、靴で舞台を擦り、こう答える。

「少なくとも掃除はされてるみたいだね。土ぼこりも残ってないよ」

見渡した舞台は前後に中途半端なラインが引かれているだけで、スポーツのコートにありがちな四角や丸はどこにも見当たらなかった。もしかするとスポーツのためのスタジアムではなく、歌や踊りを披露するような場所なのかもしれない。

彼らが立つ紺色の舞台は銀色の頑丈そうな縁取りに囲まれ、スタジアムの中央に浮かんでいるようだった。観客席は豪華にも二階建てであり、彼らのいる舞台からかなり距離を空けて外周をぐるりと取り囲んでいる。楕円形のスタジアムの長径に面して、ガラス窓で囲われた放送席らしきスペースまで用意されていた。

さらには、観客席の最上階から伸びあがるようにして透明なネットも張り巡らされていたが、あんな遠くまで何かが飛ぶような競技と言えば、野球くらいしか思い当たらない。ましてや歌やダンスであんな囲いが必要になるとも思えなかった。

用途は不明なものの、スタジアムの内装はだいたい把握したところで、ピットは不服そうに腕を組み、首を傾げた。

「ここじゃ観客席から丸見えだ。隠れようにも隠れる場所が無いし、キーパーソンに会う前に警備員に見つかるのがオチだろうなぁ……」

「それにこのコート、どこにも繋がってないみたいだけど、試合するときはどうやってここに来るんだろう?」

「使う時だけ橋が渡されるのかも。それか、僕らみたいに空から降りて来るのかもね」

その様子を想像したのか、レッドはそれを聞いて思わずふっと笑った。

「ずいぶん大掛かりだね」

 

カーレースにバスケットボール、サッカー。自分たちが目撃できた試合はその三つだけだが、思い返してみると、その中でたった一度しか顔を見ていない人も多かった。封筒に名前が浮かび上がらなかった人々も含め、このエリアで『スター』と呼ばれる人たちは二十を軽く超え、おそらくは三、四十人くらいはいるだろう。

あとはこの街にどれほどのスタジアムが存在するかにもよるが、案内所で聞いたように“手が空き次第”ほかのスタジアムに向かわされているのなら、ここで待っていればいずれは選手が到着し、試合も始まるはずだ。

とはいえ遮るものの無いステージ中央にいては、選手より先に到着して試合の準備をするスタッフにたちどころに見つかってしまうだろう。

せっかくスタジアムへの一番乗りが叶ったのに、キーパーソンに一目会うこともできずに追い出されるわけにはいかない。そこで二人は、ステージの中央に陣取るのは止め、再びリザードンに乗せてもらって観客席の最前列へと移動したのだった。

 

 

手すりに腕をもたせ掛け、ピットは頭上にぽかりと開けた楕円形の青空を眺めていた。

のどかな綿雲が一つ、また一つとスタジアムの上を横切り、見えない風に吹かれて通り過ぎていく。だが天使の青い瞳はそのどれにも向けられておらず、青空のどこか空虚な一点を見るともなしに見つめていた。

彼が思い返していたのは、ここに来る途中にレッドが見せた沈黙。

風に髪をなびかせ、振り返らない背中は、シロガネ山で初めて彼と出会ったあの瞬間を思い起こさせた。

 

 

 

一面の銀世界。眩いばかりに真っ白な空と、白銀の新雪降り積もる山肌の間、辺りでは絶えず粉雪が舞い踊り、肌を刺すような凍てつく風が吹き荒れていた。舞い上がった雪の一粒一粒が風に吹かれて群れとなり、大きなうねりとなって周囲の山肌を駆け抜けていく中、その赤い帽子の少年はたった一人で、こちらに背を向けて立っていた。

その時の自分は、ある違和感を覚えて思わず、立ち止まってしまった。

 

目の前にいる少年が、あまりにも平常だったのだ。

道中、聞き込みで得られた情報が正しいのなら、彼はずっとこの山で修業をしているという。だがこの辺りは控えめに言っても田舎、もっとはっきりと言うなら辺境の地だ。麓に建っていた施設を除けば、途中にベースキャンプや山小屋らしきものは見当たらなかった。だというのに、目の前にいる少年にはやつれた様子も見当たらず、どころかこの猛吹雪の中、防寒具を着ることも無く、まるで夏の高原に立っているかのように涼しげな様子で、真冬の山頂に一人佇んでいたのだ。

生きている人間なのだろうか。そんな思いをぐっと飲み込み、ピットは思い切って少年の背中に声をかけた。

 

振り返った少年の目には、確かに生気があった。

しかし、次いで手紙を渡そうと語り掛けた天使の声には気づかず、彼はすぐさまモンスターボールを手に取ると、無言のうちに勝負を仕掛けてきたのだった。

 

そのエリアに初めて降り立った時、ピットがキーパーソンを探す中で出会ったちびっ子トレーナーの一人はこう教えてくれた。トレーナー同士、目が合ったら勝負の合図なんだ、と。

レッド達が元々暮らしていた本来の世界でも、それがルール、あるいはマナーのようなものだったのかもしれない。

だがあの時、シロガネ山の山頂で目にしたレッドの行動は、どこか融通が利いておらず、杓子定規で機械的なものとして映ったのだった。

 

 

 

「来ないねぇ……」

背後で当のレッドの声が聞こえ、ピットは考え事から引き戻される。

振り返った向こう、少年は観客席の最前列に座り、先ほどまでの天使と同じように顔を仰向かせて空をぼんやりと眺めている。その隣の席にはピカチュウが座り、これもまたじっと空を見上げていた。

そこでピットはそこでふと、足の疲れを自覚し、自分がしばらく立ちっぱなしだったことに気づく。どれほどの間、考え事にふけっていたのだろうと思いながら、彼はレッドの隣の席に向かい、座面を引き倒してそこに座った。

「ほかに移る?」

声をかけると、彼は青空を見つめて眉間にしわを寄せた。

「……うーん、でももし、ここを離れた途端に試合が始まったらって思うとなぁ」

「分かるよ。ここを逃したらしばらくチャンスは無いんじゃないかって気がするし。……そうだ、君、時計とか持ってる?」

ピットが尋ねると、レッドは手首につけていた腕輪のような機械をいじり、画面をこちらに見せた。緑色を背景に、現在の時刻が表示されている。ふと、画面の右下に影ができているのに気づいてよく見ると、そこにはピカチュウらしきシルエットが描かれているのであった。

ここに来た時の時刻は把握していないものの、大体を見積ってからピットはこう言った。

「――じゃあ、あと十分待ってみよう。それでも誰も来ないみたいだったらここを出ようか」

「分かった」

レッドはこちらに笑顔を見せて頷いた。

 

陽の光がこちらに差し込み、辺りには昼下がり特有の、間延びしたような暖かさが漂っていた。

観客席の背もたれに頭を預け、二人は揃って空を見上げていた。レッドの傍らにいるピカチュウはというと、いつの間にか、座席の上で丸くなってすやすやと眠っている。

のどかにうつろう空模様を眺めたまま、ふとピットはこう切り出した。

「ねえ、レッドくん。あれから何してたの?」

「あれから……君と会ってからってこと? そうだな……」

彼はそう言って、空を見上げたまま腕組みをする。

「まずは山を下りて、僕の家に帰ったよ。お母さんはいつも通りで、僕の部屋も何も変わってなかった。その日はほんとに色々あったし、どっと疲れて家で寝ちゃったけど、次の日からはいつもみたいに、あちこち巡って勝負したり、ポケモンを探したり、時々家に帰ったりしてたな。たまにエインシャントさんからお仕事頼まれることもあったけど」

そこまでを言ったところで、レッドは隣のピットがいつの間にか、翼越しにこちらを見ていることに気が付く。天使は、ちょっと驚いたように目を丸くしていた。

「どうしたの?」

「……いや、てっきりみんなに、エリアからの出方を伝えてるんじゃないかと思ってたんだ。今頃ほかのみんなにも本当のことを伝えて、どうにかしてそこを出ようとしてるんじゃないかと――」

「もしかして、他の人はみんなそうしてるの?」

少し慌てた様子で肘置きに手をかけ、こちらに向き直ったレッドに、ピットは打ち消すように手のひらを振って見せる。

「あ、いや、僕は分からないんだ。何しろ、手紙を受け取った後のこと聞いたの、実は君が初めてでさ……」

「そっか。それならいいんだけど……」

のろのろと背もたれに身を預け、沈み込むようにして座りなおすと、レッドは再び空に目をむける。

彼は、自分の内面に沈むような眼差しをしてしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……僕にはできないよ。きっと誰も、信じてくれないと思う」

彼に掛けるべき言葉を探したが、ピットはこれだけを言うので精一杯だった。

「どうして、そう思うの?」

少年はそれに対し、そっと帽子のつばを下ろして視線をふさぐ。しかし、それは拒絶ではなかった。引き結ばれていく口は、彼が頭の中でまとまらない考えを追いかけ、何とかして整理しようとしていることがうかがえた。

やがて彼は、ゆっくりと帽子を元に戻し、再び口を開いた。

「――ピットくん」

相変わらず空を見つめていたが、その視線は意図的に天使の方を避けたものであり、どこか後ろめたそうな気配を漂わせていた。

「手紙をもらってすぐの時は、そう思ってたんだ。僕らはここを出なきゃいけない、本当の場所に帰らなきゃいけないって。……でも、だんだん分からなくなったんだ。カントーの色んな街を回って、色んな人に会ってみた。最初はエリアのことについて話そうと思ってたんだけど、ぎりぎりのところで言い出せなくて。その代わり、さりげなくみんなの様子を探ることにしたんだ。オーキド博士やジムリーダーの人たちに話を聞いたり、それにリーグにも行ってみた。でも、誰も何も変だって思ってなかった。僕と同じことを考えてる人は……エリアのことに気づいてる人は誰もいなかった」

自分の身の回りに潜んでいた異変に気づかされ、それを説明できる事実を教えられても、山を下りて出会った人々がことごとく、何も問題が無いというようにふるまっているのを目の当たりにし、だんだんと自信が無くなったのだろう。それに思い至り、ピットはこう提案してみた。

「その人たちに、手紙は見せてみたの? 見せるんじゃなくても、読んで聞かせたりは?」

しかし、これにレッドは眉をしかめて首を横に振る。

「僕の手紙を見せてもしょうがないよ。あれは僕のために書かれたものだったから。それに……」

ためらうような間があり、ややあって、彼は幾分声を落としてこう続けた。

「――今思うと、どうしてもつじつまが合わないんだ。手紙のことと、僕の記憶と、どっちが本当なのか……手紙に書いてあったことは確かに正しいって、僕の心はそう言ってる。今までにエインシャントさんにお願いされて一緒に仕事した人たちにも、それに今日出会った人たちにも、僕は見覚えがある。でも、僕が今まで一度もカントーを出たことがないのも確かなんだ。それに……みんなのほうも、カントーには来てたはずがなくって……」

戸惑ったように口ごもり、その先は立ち消えてしまう。

「つまり……じゃあ、手紙には君の記憶にないことも書かれてあったの?」

そう尋ねると、レッドはこちらを向いて頷いた。その表情はいつしか、切実なものになっている。自分の内にある思いを、これまで誰にも打ち明けることができずに、ずっと一人で抱えてきたものを肯定してほしい、というように。

いつもよりも熱の入った口調になり、それでいてもどかしさを抱えながらも、彼は懸命に言葉を紡ぎ始めた。

「僕はあの人たちを知ってる。そして、向こうもきっと僕のことを……。あの人たちは僕にとって、忘れちゃいけないような大事な人たちだったんだ。詳しくは思い出せないけど……でも、そうじゃなきゃおかしいよ! 僕はあの人たちを知ってるし、きっと話したこともある。それにたぶん、仲もよかったんだ。僕らはもしかしたら、昔、よく顔を合わせるくらい近くに住んでたか、遠くに住んでたとしても、例えば一年に何度も会うくらいの何かがあったんだ。それが何のためだったのかは思い出せない……それでも……!」

取り返しのつかないほどに無残に焼けてしまった、記憶という名の家。目の前にいる少年はまるで、その燃え残りの中をさまよいながら、そこにあるべき家具を探しているかのようだった。手に炭がつくのも厭わずに黒ずんだ残骸を手に取り、焼けぼっくいをかき分け、もはや意味をなさない空白を一生懸命に見つめている。かつてそこにあったものを、呼び覚まそうというように。

居たたまれない気持ちで少年の言葉を聞いていた矢先だった。

これまでより一層真剣な眼差しを向け、レッドが真っすぐに問いかけた。

「君もそう思うよね。みんなと会うのは、これが初めてじゃないって」

 

その言葉が耳に飛び込んできた時、天使の思考はぱたりと止まってしまった。

 

『どこかで会った?』『君は……?』『知った顔だな』『あなた……誰、なの?』

老若男女、様々な声が一気に蘇る。訝しげでありつつも、思い起こそうと苦労している顔の幻影が、目の前によぎっては消えていく。

それはすべて、ほかならぬ自分に向けられた眼差しだった。

 

気が付くと、再び彼の周りにはがらんどうのスタジアムが戻っていた。

答えを待つ少年に向けて、天使は戸惑いの表情を向ける。

「僕は違うよ。僕はいつも、封筒に名前が浮かんだらキーパーソンだって判断して……」

「そう? ……でも、僕の記憶違いじゃなかったら、サーキットの入り口で君、看板を見て『あっ』て言ってたよね」

反射的に否定しかけて、そこで彼の顔に何かがよぎる。

「……そう、かも…………そうだ。確かに、僕は……」

そのまま言葉が途切れてしまい、唖然とした顔で見つめる先、レッドは勇気づけるように大きく頷いた。

「ピットくん。僕らは、やっぱり会ったことがあるんだよ。手紙を受け取るよりも前に」

 

 

それから少しして、観客席を後にし、だだっ広く薄暗い廊下を歩いてスタジアムの出口へと向かう影があった。

あたりには緑の非常灯しかついておらず、相変わらず彼らの他に人はいない。幅の広い廊下には、興奮気味に身振りを交えながら話す天使の声がこだましていた。

「そうだよ! なんで気づかなかったんだろう。……ああ、そうだ。君たちに見覚えがあるのは、きっと前に、地上界のパトロールをしてた時に見かけたんだろうって思ってたんだ。でも、見かけたくらいじゃあんなすぐには思い出せないはず。何度も会ったはずだし、きっと話したこともある。そうでなくちゃ、たくさん人間がいる中から君たちを見つけ出すなんて無理だよ」

気合を入れるように、彼は両のこぶしを胸元の高さに上げてぐっと握りしめ、勢い込んで頷く。

「それに、それなら全部説明できる。僕を見たキーパーソンがみんな、なんだか見覚えがあるみたいな反応をしてたのも、どんな人でも、初対面のはずの僕から手紙を受け取ってくれたのも。それに、君が僕の翼のことについて覚えてたのも分かる。君が知ってたのは僕で間違いないんだ。……あれ? それじゃあ、もしかしてあの勝負も……」

今度は腕組みをして天井を仰ぎ、目をつぶって記憶を振り返る。

やがて彼はその目をゆっくりと開き、静かな驚きとともに呟いた。

「……そうか。確かめられたのは彼だけじゃなく、『僕も』だったんだ……」

「前に、なにかあったの?」

「うん。手紙を渡したら、そこに書かれたことを確かめたいって言われて勝負することになったんだ」

「勝負って、ポケモンバトルじゃないんだよね。もしかして……」

「そう。自分の武器でって感じかな」

この答えに、相手は驚きの中にも若干の敬遠が混じった相槌を返した。生活の中にポケモンの存在が根付き、彼らのことを良く知り、うまく戦わせられる人こそがもてはやされるような、そんな世界ではあまり考えられないことなのだろう。

「ともかく、あの時は理由もよく分からないで戦ったんだけど、今思えばお互いに、相手の戦い方みたいなのをぼんやりと覚えてた。あのひとはたぶん、勝負の中でそれを確かめられたから、信じるって言ったんだ」

「そうしたら……その人と君とは、昔どこかで戦ったことがあるってこと?」

「多分ね。でも、たぶん力試しみたいなもので、本気の喧嘩とかじゃなかったと思うよ」

天使は笑顔と共にそう言ったところで、相手の少年が不思議そうな顔でこちらを見つめていることに気づいた。

彼はやがて、思い切ってこう尋ねかけてきた。

「……ピットくんは、ショックじゃないの?」

「ショックって?」

「だって、その……君も思い出せないんだよね。僕らがいつ、どこで会ったのか、一緒に何をしてたのかっていう、一番肝心なとこを。あんなに頼もしい人たち、会ってたなら忘れてるはずがない。けれど、僕は全然、なんにも覚えてないんだ。僕はそれがずっと引っかかってて」

「ああ、まぁ……」

と、首の後ろに手をやり、ピットは苦笑した。

「僕の場合、なんていうか……そう、仕事柄、気が遠くなるくらい沢山の人間と会うからさ、どうしても覚えきれないんだ。だから忘れててもそんなにショックじゃなくて。……あ、もちろん、キーパーソンのみんなには申し訳ないなって思ってるよ」

それほど多くの人間と会うのは、実際には彼が見た目よりも遥かに長生きしているからではあるのだが、それをレッドくらいの年の子に率直に言えば畏れられ、遠ざけられてしまうことも、その長い年月を経て知っている。だから彼は、嘘ではないが全てを明らかにしない程度に留めて伝えたのだった。

 

自分の忘れ具合からすればおそらく、彼らと出会った日々は天使である彼をもってしても『かなり昔』であるだろう。それにもかかわらず彼らが未だに存命なのは不思議なのだが、これについては以前巡ったエリアで耳にした推測、『閉じた時間の輪』に彼らが閉じ込められているとすれば説明もつく。自分が正常な時の流れにいた一方で、彼らの時間はずっと凍り付いたままでいたのだろう。

 

天使がそんなことを考えている一方、レッドは呆気にとられた様子で目を瞬いていた。

ようやくのことで、こんな言葉を返す。

「ピットくんって、本当に忙しいんだね……」

「ま、まあね! ……あ、それよりもさ、君のことだよ」

やや強引に話を変えるピット。

「君が思い出せないのは、僕とはまた別の事情じゃないかな。記憶と直感、頭で考えたことと心で感じたことが合わなかったとき、どっちを取るかは人それぞれだけどさ、僕だったら直感を信じるよ。だから、君が僕や他のキーパーソンを見た瞬間に“この人を知ってる”って思ったのは、僕はかなり大きな証拠になると思う。君は、自分を信じて良いんだ」

そう言って見つめた先、赤い帽子の少年の瞳からは少しずつ迷いが消えつつあった。

彼に残る葛藤を振り払うように、ピットは真剣な面持ちでこう伝える。

「たぶん、君がみんなや僕と出会ったいきさつを思い出せないのは、君たちをエリアに閉じ込めた何者かの仕業なんだよ。キーパーソンがお互い会ったり、僕に会ったことがあるっていう事実は、きっと、その誰かにとって都合の悪い過去なんだ」

 

そこまでを話したところで廊下が不意に途切れ、二人の目の前に広大な空間が広がった。そこは、スタジアムのエントランス。

 

やはり人影はなかった。エントランスは隅々までしんと静まり返り、すべてが薄暗がりの中に沈んでしまっていた。受付には誰も立っていない。ベンチは空白の座席を並べ、壁面の大型モニターは電源もついておらず、真っ黒に塗りつぶされたようになっている。

観客席を後にする時こそ、もう少し粘ったら試合が始まるのではないかと後ろ髪引かれていた二人だったが、ここまで来ても観客はおろかスタッフさえいないことを知り、出口に向かうその歩調にはほとんど迷いがなかった。

「このスタジアム、ほんとに使われてなかったのか。ついてないなぁ……」

ため息交じりにぼやいたピット。と、そこで彼と横並びになって歩いていた少年が外の何かに気が付き、次第に早足になって出口へと向かっていった。開け放たれた扉をくぐるころにはほとんど駆け足になり、ピットはそこではたと我に返り、彼の後を追って走り始める。

「……ねえ、ちょっと! どうしたの?」

薄暗さに慣れていたために、外の明るさにさらされた目に痛みを覚えた。思わず腕を目の上に上げ、レッドの姿を探す。

彼は真正面の、少し離れたところに立っていた。ピカチュウも彼の肩から降り、ふたり揃って地面の何かを見つめている。

「何かあったの?」

声をかけると、彼は弾かれたように振り返った。

「――あっ、ピットくん! これ、このマークって……」

ひどく切羽詰まった表情を向けられ、天使はしばし面食らったように目を瞬く。

それから彼の言った言葉の意味がようやく頭に届き、遅れて彼らの足元にあるものを見た。

ランダムストーンの敷石が敷き詰められた、スタジアム前の広場。白っぽい石を背景に、赤味がかった石を使ってその中央に大きく描き出されているのは非常にシンプルな図案。それは、何の変哲もない幾何学模様としか見えなかった。

「これがどうかしたの……?」

ピットは困惑の表情でレッドを見る。

「えっ? ……ほら、君の配ってる手紙さ。貼ってある分厚いシールみたいなのに、そのマークが刻まれてるよね」

彼からそう指摘され、肩掛けカバンをごそごそと漁り、束からより分けて一枚を取り出して、ピットはちょっと目を丸くした。

「あ、ほんとだ。よく覚えてるね」

「だって、このマークを見てると……。思い出せる気がするんだよ、みんなといつ、どこで出会ったのか。でも、なんでここにあるんだろう……」

そう言って、少年は再び足元に、目の前に横たわる円形のマークに視線を落とした。帽子のつばが庇となり、彼の顔に暗い影を落としていた。

そんな彼の横顔を気遣うように見ていたピットは、自分も同じ方角へと目をやる。

――ハートとか星とか、そういうどこにでもありそうなマークにしか見えないんだけどな……

左端と下端に近いところを、それぞれ一直線に切られた円。何を模しているのかも分からないが、この世界の全く違う場所で、生まれも育ちも違う人が同時に思いつくこともあり得そうな図案。

それのどこが彼らを惹きつけ、捕えて離さないのか。

 

このマークが彼の言うように、失われたキーパーソン同士の記憶と本当に関与しているのだとしたら。

 

不意にその仮説が浮かんだ時、一瞬遅れて、天使の表情に一抹の寂しさがよぎる。

――やっぱり僕と彼らは、違うんだ。

自分と彼らの間にある分厚い障壁。『彼らは自分と会ったことがあるのだ』と知ったときに幾らか取り払われたと思ったそれが、今再び立ちはだかり、自他の間を決定的に遠ざけてしまっていた。

本来、自分はその壁を当たり前のものと思い、気に病むこともないはずだった。元はと言えば、自分は天界の天使で、彼らは地上界の人間なのだから。生きている時間の長さも違い、従って物事を見る眼差しも決して同じにはならない。

しかし今回に限っては、割り切ることのできない自分がいた。

手紙を配るために彼らの世界に降り立ち、今もこうして共に歩んでいる。積み重ねられた時間は天使である彼からしてみれば一瞬の出来事に過ぎないはずなのに、いつの間にか心の中に、彼ら――キーパーソンへの思い入れが生まれていたのかもしれない。

 

 

全くの無人だった“円に十字”のスタジアム。そこを出た彼らは街なかまで戻り、辺りを歩いている観光客に『あのスタジアムは何なのか』と問いかけた。

しかし返ってくる答えは判然としなかった。

『さあ……なんだったかな』

『……あら、あんなとこにスタジアムがあったのね』

『ああ、あれ? 何だろうね。しばらく使われてないんじゃないかな』

『私は行ったことないから……』

『案内板に書いてないかい?』

その言葉に従って、これもまたちょうどいいところに立てられていた案内板を調べてみるも、当該の建築物には名前はおろか、『スタジアム』であるとの表記も無かった。スタジアムのあるべき位置には、ただ名無しの空間が広がっていたのだ。もしかするとあれは、すでに用なしとなって取り壊しを待つばかりの建物だったのかもしれない。

運悪く外れを引いてしまった二人は、再びリザードンの力を借りて試合前のスタジアムを探そうとした。

途中で何度か、昼食を含めて休憩をはさみつつも、数時間費やして上空から探索を続けた。だが、どのスタジアムも一向に空く様子が無いのだった。試合が終わればスタッフが後片付けをし、後片付けが済めばすぐに観客が詰めかけ、席を埋めていく。

もしも手分けすることができたのなら、複数のスタジアムに張り込むこともできたかもしれない。だが実質一か所ずつ回ることしかできない現状では、人がまったくいないスタジアムは、あの名無しのスタジアムを除いて見つかりそうもなかった。

 

このまま粘っていても埒が明かない。

どちらからともなくその結論に至った彼らは、作戦を練るために地上に降りることにしたのだった。

特に目的地があるわけでもなかったが、二人は街の中を中心部に向けて歩いていた。立ち止まっているよりは歩いていた方がアイディアも思い浮かぶだろうというピットの発案である。

 

このエリアにいる数多くのキーパーソン。見えない壁や、何かと妨害してくるスタッフたちを乗り越え、いかにして出会うか。それが目下の課題であったが、肝心の解決策はいくら歩いても、いくら話し合っても見つからず、二人の話題は次第に別のものへと移り変わっていった。

ピットがキーパーソン達のことを忘れていたのはともかくとして、彼らがお互いだけではなく、ピットのことも忘れさせられていたのはなぜか。

それはおそらく、彼らをエリアに閉じ込めた何者かが、『それぞれのエリアには含まれていないもの』を記憶から消したからではないだろうか。

道すがら、レッドはそう語っていた。

「君はさ。さっき、僕らを閉じ込めた人が都合の悪い記憶を消したのかもって言ってたよね。それで思いついたんだ。せっかく僕らを閉じ込めても、その外にあるはずの何かを覚えてて、ふとした拍子にそれを探しに行ったらどうなると思う?」

彼に向けて、天使は相槌を打つ。

「確かに。君たちがお互い顔を見ただけですぐ思い出せるくらい頻繁に会ってたなら、いつもの調子で会いに行こうとするはず。そして見えない壁にぶつかっちゃったり、やたらと邪魔されたりして、早々に『何かおかしい』って気づいちゃっただろうね」

「……どういう理由で、っていうのはやっぱり思い出せないんだけど、僕ら、君が言う『キーパーソン』だけは、ものすごく離れたところに住んでるのに、一緒に集まることがあった。そしてたぶん、そこに君もいた。でも、例えば僕の場合なら、カントーにいる他のみんなは誰も、そういう集まりには参加したことがなかったんだ。きっと」

「なるほど。だから君は、エリアにいる他の人には……」

ピットが言葉にしなかったその先。

『伝えたところで、彼らにとっては意味のない情報であり、自分が閉じ込められていると思い至ることはできない』

言外の意図をくみ取り、レッドは頷いた。

「そういうことだったんだと思う。今から思うとね」

「じゃあ、やっぱりパルテナ様の言うとおりだったんだ……君たちキーパーソンに手紙を配るのが、一番早い解決法なんだって」

腕を組み、ピットは我知らず天を仰いでいた。

キーパーソン以外の人々は、本物の世界にいたときから、そもそもエリアと同じ範囲から出たことが無かったのだろう。だから、エリアとして与えられた大掛かりな舞台を本物の世界と勘違いして、疑いもせず暮らし続けている。

一方で『キーパーソン』として呼ばれる人々は、どういう事情かは未だに分からないものの、人並外れて遠いところまで出向くことがあった。だからエリアからすべての人間を救い出すには、まずは“外”の存在をおぼろげに知る彼らに声をかけ、本当のことを報せて結束させる必要がある。そうでなければ、圧倒的多数である他の人々を説得することなど不可能だろう。

そこまでを考えていたところで、ピットはふとあることに気が付いて立ち止まる。

――そういえば……元はと言えば、それを知らせに来たのはエインシャントさんだったよな……。あの人も、彼らを助けたいと思って行動してるのかな。……まあ、それにしたって“天使”使いが荒いと思うけど。

 

 

一か所に留まらず、歩き続けていたことが彼らに幸運をもたらした。

「あれ……? みんな、どこに向かってるんだろう」

ふと、ピットは目を瞬いた。

彼が見つめる先、いつの間にか観光客たちが揃って一つの方向に歩き始めていた。折しも彼らの後ろからやってきて横を通り過ぎようとした一人を、レッドが呼び止めてこう尋ねた。

「あの、何かあるんですか?」

「何って、パレードに決まってるじゃないか!」

タマゴに描いたような顔を輝かせ、相手はそう答えた。

「パレード……それってもしかして、スターの人たちも出るんですか?」

「もちろんだよ! スターはみんな勢ぞろいでパレードに出てくるんだ。君たちもカメラの用意をしておいた方が良いよ!」

お礼を言いかけたレッドだったが、途中でピットに腕を引っ張られ、観光客たちが向かうその先へと連れていかれてしまった。

 

すでに通りには分厚い人垣ができていた。

アリの這い出る隙もないとはこのことで、二人は周囲の観光客に押しつ押されつ、まるでおしくらまんじゅうのようになっていた。ピカチュウもはぐれてしまわないよう、レッドの肩にひしとしがみついていた。

二人は周りの大体の人よりも頭一つ分身長が高いことがせめてもの幸いだったが、これからパレードが通過するであろう道路からは、人垣何層分もの距離があった。

観光客の興奮したざわめきがあたりを満たす中、心もとないほどか細いパレードの音楽が流れている。

「遅かったか……」

「あ、ピットくん、あれ!」

レッドの言葉と同時に、辺りの人々も一斉にそちらの方角に顔を向けた。

通りの角を曲がり、姿を現したのは、煌びやかな電飾に飾り立てられたステージ。二階建てのバスほどもある舞台は、タイヤをゆっくりと動かしながらカーブを曲がり、観光客の待ち受ける通りへとやってきた。

舞台の上に、小さな人影が見えてくる。

「ほんとだ、キーパーソンだ――」

彼らの名前を呼ぼうとしたピットだったが、観光客らに先を越されてしまった。

一斉にあげられた歓声。それがあたりの建物に反響し、どっと空気が揺らぐような錯覚さえあった。

声を上げるだけでは飽き足らず、彼らは手に持った光る棒を高く掲げて振り始めた。

「ちょ、ちょっと、危ないって!」

同じ身長なら問題なかったのだろうが、彼らの上げた手はちょうどピット達の顔の高さにあり、二人は慌てて自分の顔を手で守るはめになった。おそらく彼らにはピット達も同じ身長に見えているはずで、それもあってこれほど無頓着に振り回しているのだろう。

彼らが完全に観光客たちに翻弄されているうちにも、タイヤ付きの豪勢なステージに乗ったキーパーソン達は次々と角を曲がって現れ、ゆっくりと着実に通り過ぎていく。

「待って、待ってよみんな! ねえ!」

ピットは精一杯声を張り上げたが、多勢に無勢。熱烈な歓声の前になすすべもなく紛れ、飲み込まれていってしまう。

一方、レッドは諦めかけた様子で帽子のつばを抑え、通りの向こうを見つめるばかりとなっていた。

そんな彼の横、ピットは不意に何かを決心し、前へと進み出る。

「ちょっとごめん、通して!」

タマゴ頭たちを強引に押しのけ、通りに出ようとしたのだが、あっけなく人の波にもみくちゃにされて押し戻されてしまった。

勢いあまってしりもちをついたピット。彼の姿が人垣の中に紛れてしまいそうになり、レッドは慌てて人ごみをかき分けて彼の元に向かい、手を引いて助け起こす。

「大丈夫?」

「さすがに強行突破はムリだったか……」

ぶつけてしまった腰をさすりながらも悔しげな表情をして、なおも通りを見つめているピット。そんな彼の様子を見ていたレッドの顔に、ふと閃きがよぎった。

「そうだ、空からなら――」

そう言ってモンスターボールを取り出した矢先だった。

「どうされましたか、お客様」

不意に声が聞こえて、目の前やや下に注意を向けた二人は、驚きのあまり後ずさってしまった。

この人ごみの中、一体どこから湧いて出たのであろうか。そこにいたのは――正確には、彼らを取り囲んでいたのは、紺色の制服を着込んだスタッフ達。彼らはみな、笑顔だった。だがその笑みには、この場に不相応の行動を禁じるような、有無を言わせぬプレッシャーが滲んでいた。

 

その場は一旦、ボールをしまってとりなし、警備の人たちは笑顔のまま、来た時と同様に気配も残さず立ち去っていった。

彼らが去ってから十分に時間を置き、ピットはレッドと顔を合わせ、二人とも無言のうちに目配せをし、頷き合った。

 

 

パレードが向かうであろう経路は、通りの歩道を埋め尽くす人垣の分布を見ていれば簡単に分かった。

その終着点。まだ観光客がまばらな辺りに先回りしたピット達は、そこに待ち構えていたものを目にして思わず呆気にとられ、どちらからともなくその建造物を見上げていた。

 

それは、いくつもの尖塔を兼ね備えた優美な佇まいの城。

白塗りの壁は夕焼けの色に淡く染まり、背の高い屋根は濃紺の影に暗く沈み始めている。見上げるほどの高みにある尖塔の上では小さな旗が風にたなびき、暮れ始めた空の中、鳥のようにゆったりと羽ばたき続けていた。

城壁と堀によって守られた古風な城は、周囲にコンクリートとガラスで構成された四角い“塔”が建ち並ぶ中、まるで歴史の流れに取り残されたようでありながらも、それを全く意に介さない悠然たる趣きで大都市のただなかに存在していた。

 

城の威容に見とれていた二人は、ややあって地上に意識を戻す。

パレードの順路を示し、歩道沿いに立てられたポールはあるところで車道を突っ切り、城の跳ね橋まで続いていた。

おそらくあのパレードは、跳ね橋を通って城の中まで進んでいくのだろう。しかし一般人が立ち見できるのはどうやら城の手前までらしく、跳ね橋の上まではついてこられないようになっている。さらにはご丁寧にも、橋の手前には紺色の服を着込んだ人々がさりげなく巡回し、警備にあたっているのだった。

大体の状況を把握したピットは、ため息交じりにこう言った。

「仕事熱心だねぇ……あの人間たちが見てる前じゃ、下手なことできないな」

「お城に入って待ち伏せする?」

「そうしようか。どこか警備が手薄なところを探そう」

 

警備員はほとんど城の堀をぐるりと囲むくらいまで配置されており、二人はそれをたどっているうちに、結局城の裏手まで回ることになってしまった。

 

路地裏で橙色の竜の背にまたがり、二人と二匹で身をひそめてチャンスをうかがう。

辺りは徐々に暗くなりつつあり、警備員は懐中電灯を手に、歩いて周回するようになっていた。アスファルトを照らし出す光の円錐が遠ざかっていき、レッドの掛け声を合図に、リザードンはその背の翼を大きく打ち振るって飛び立った。

 

パレードを目立たせるためか、街灯の明かりも抑えられ、城の裏手は暗がりに溶け込んでいた。

その薄暗さに紛れて一気に堀を飛び越え、見つめる先でどんどん城壁が大きくなっていく。

しかし、その時だった。不意に何かに怯んだように竜が首を上げ、空中で制動を掛けて止まってしまった。背に乗っていた二人が慌てて彼の身体にしがみついたのに気づき、リザードンはすぐさま姿勢を元に戻した。

「どうしたの?」

トレーナーであるレッドの問いかけに、リザードンは目の前を訝しげに睨んだまま唸る。

嫌な予感がして、ピットはこう呟いていた。

「え、まさかここにも……?」

彼の言葉を背中で聞き、レッドは沈黙のうちに決意を固めると、帽子を被りなおす。

「……リザードン、“かえんほうしゃ”!」

橙色の竜はすぐさま深く息を吸い込み、その口から灼熱の炎を吐き出した。

炎は真っすぐに宙を駆け――途中で、不可視の壁にぶつかってしまった。生半可な壁なら熱で溶かしてしまえそうなものだが、いくらリザードンが炎を吹きかけようとも、その壁は破れる様子がなかった。

微動だにしない境界に沿って四方八方に散らされていく火炎。それが見間違いでないことを確認し、レッドは相棒に技を止めるよう指示する。

悔しさと申し訳なさの混じった顔でこちらを振り返ったリザードンに、レッドは気にしなくていいというように頷いてみせた。

その後ろで、ピットがふとこう言った。

「光の戦車があったら何とかなったのかなぁ……」

「それって?」

振り返ったレッドに、彼は説明する。

「ものすごいスピードが出る戦車さ。あ、正確に言うと戦車を引っ張ってる馬の脚がものすごく速いのかな。ともかく、前にもこういうバリアに邪魔されたことがあったんだ。僕の力じゃいくら突撃しても破れなくって。でも、ものすごい勢いでぶつかれば破れるはずだって教えられて、その光の戦車を借りてきて体当たりを仕掛けたんだよ」

「それで、うまくいったの?」

レッドの問いかけに、ピットはどこか自慢げにこう返した。

「うまくいってなかったら、僕、ここにいないからね!」

「荒業だね……」

レッドはあっけにとられ、そう言うのが精いっぱいだった。肩に掴まるピカチュウも口をぽかんと開けており、いつの間にかリザードンもこちらを振り返っていた。苦い顔で目を細めたその表情はどことなく、『自分にもそれをやれと言わないよな?』と言っているようだった。

 

そうこうしているうちに城の向こうがにわかに明るくなり、彼らは思わずそちらの方角を見る。

パレードの音楽が近づいてきて、観客の歓声も徐々に大きくなっていく。

「もう到着したんだ!」

「どうしよう、まだお城に入れてないのに……」

まごついているうちに、後ろの方で別の声が聞こえてきた。

「なんだ、あれは?!」

「待て、誰か乗ってるぞ」

「お客様! こちらに降りてきてください!」

振り返ると、やはりそこにいたのは警備のスタッフたち。揃って堀の縁に立ち、こちらに懐中電灯の光を向けていた。

レッドはリザードンに指示し、警備員の待つ方角へ向かわせようとした。しかし、その肩をピットが叩き、止めさせる。

「逃げようよ。ここの人間が勝手に決めたルールなんだから、外から来た僕らが従わなくったっていいじゃないか」

「でもピットくん、僕らはあの人たちに手紙を配るまではこのエリアにいるんだよ。このままじゃお尋ね者になっちゃうかもしれない。そうなったら、手紙を配るどころじゃなくなっちゃうよ」

「……うーん」

呻吟し、ピットは渋々といった様子ながらも、自分から折れた。

「それも一理あるか」

 

パレードの賑わいが一層の盛り上がりを見せ、観光客の歓声と拍手が街中に響き渡る。

おそらくは一台、また一台と、舞台が城の中に消えていくのだろう。そしてそれに乗せられたキーパーソン達も。

華やかなスポットライトに照らされた表門に対し、二人が降り立った城の裏手は暗がりに沈んでいた。

地上で待ち受けていた警備員は、二人を取り囲もうともせず、緩やかな列を作ってその場に立っていた。

「お客様。あんなところで何をされていたのですか?」

第一声は、こんな暢気な問いかけだった。

「何って……」

かえって拍子抜けしてしまい、ピットは正直に答えてしまう。

「あの壁を越えて、さっきの人たちに会うつもりだったんだ。それだけだよ」

「さっきの……? 壁の向こうに、どなたかいるのですか?」

「……僕をからかってるんじゃないよね。さっきパレードしてた人たちのことだよ。跳ね橋を渡って、城に入ったんでしょ?」

一拍遅れて、警備員の一人が反応を返した。

「ああ、スターの方々のことですか」

それを聞き、他の警備員らも遅れて「なるほど」「そういうことか」と頷き合う。

ようやく話が進むかと思った矢先、先ほど応えた警備員がこう尋ねてきた。

「でも、それとあの壁を越えることが、どう関係があるのでしょうか」

思わず呆気に取られ、ピットは何かを言おうと口を開いた。だが彼はそこで諦め、言葉になれなかった思いをため息に乗せてはき出す。

彼らの隊長というわけでもないのだが、警備の任務を任されているにしては彼らが少々鈍いように思えて、曲がりなりにも天界では親衛隊を任されている身としてどうにもやるせなくなってしまったのだ。

そんな彼の様子を全く気に掛けることもなく、警備員達はにこやかにこう言った。

「何はともあれ、空を飛ぶことはお控えくださいね。イベントの妨げになってしまいますので」

 

 

それから少しして、二人は夕闇の街をそぞろ歩いていた。

警備員らは、城から立ち去るようにという無言の圧力こそ掛けてきたものの、それに従いさえすれば深追いするつもりはないようだった。要注意人物として名前を控えることも、写真を撮っておくこともせずに、彼らは歩み去る二人をただ見送るだけだった。

揃って狐につままれたような顔をしていた少年と天使。やがて、レッドが天使の方を向き、尋ねかける。

「君のところの女神さまが何かしてくれたの?」

難しい顔で肩をすくめ、ピットはこう答える。

「どうだろう……それならそうって伝えてくれそうな気もするんだけど」

コンクリートの峡谷から見上げた空は、いつの間にか深い藍色に暮れていた。街には煌々と明かりがともり、通りでは乗用車やバスが行きかっている。しかし、歩道を行き来する人は次第に少なくなりつつあった。

試合はすでに終わってしまったらしい。ビルディングの横腹に堂々と掲げられた巨大スクリーンにも、あるいは通りに沿ってびっしりと並べられた縦型スクリーンにも、今日のハイライトばかりが映っていた。

手で触れそうなほどの距離にありながら、決して届くことのない受取人たちの幻を恨めしげに見つめながら、ピットはスクリーンの横を通り過ぎていく。

 

まだ歩行者は残っていたものの、二人は聞き込みを早々に諦めて休息を取ることに決めていた。日中のうちに聞きたいことは聞いてしまったし、その大体において、期待するほどはっきりした答えは返ってこないと学習しつつあった。

しかし、二人はじきに、このエリアにおける難所はまだまだここからであったことを思い知らされる。

 

「あいにく満室でして……」

申し訳なさそうに眉を下げるフロント係を前に、二人の少年はしばし固まっていた。

ややあって、天使の方がフロントに両手をつき、係の人のほうへと身を乗り出す。

「……ウソでしょ? ここも満室なの? 一つも空いてないの?」

「申し訳ございません」

係の人は深々と頭を下げる。

言ったものかどうしようかと迷いながらも、ピットはこう打ち明ける。

「実はさぁ、断られたの、ここで二十軒目なんだよ」

それを聞き、受付係は目を丸くした。

誇張や方便などではなく、彼の言葉は真実だった。二人は『この街』の大通りを突っ切るようにして、城のあった中心部から端の方に掛けて大小様々な宿を当たっていったのだが、そのことごとくが空振りに終わってしまったのだ。

言葉を失ったフロント係に、ピットはもう一押しする。

「僕ら、二時間近く歩きっぱなしでもうへとへとなんだ。夜ごはんも食べそびれちゃって、店も閉まっちゃったし、ここが最後の希望、君が頼みの綱なんだよ。……ねえ、本当に空いてる部屋はないの?」

しかし、相手は同情こそしているものの、それ以上妥協する様子もなく、丁重にこう答える。

「一ヶ月先でしたらお部屋は取れるのですが……」

それは暗に、『この街で当日いきなり泊まろうとするなんて無茶だ』と言っているようなものだった。

後ろでレッドが残念そうに顔を俯かせ、踵を返そうとしたが、天使はなおも食い下がった。

「毛布をくれれば、ロビーとかでも良いよ。お願い、どこかに泊まらせてくれない?」

これを聞いて、レッドは慌てて彼の肩を引いた。

「それは……ピットくん、さすがに……」

 

温かみのある光に満ちたホテルのロビーを後にし、すっかり暗くなってしまった外の通りに出て行きながら、二人はこんな話をしていた。

「……まあ、昼間あれだけ人が出てたのが全然いなくなるくらいだからね。僕らの入る余地は無いってわけか」

「ここって、よっぽど人気の観光スポットなんだね……」

感心しているというよりも、若干くたびれた様子でレッドはあたりを見渡した。

そんな彼に、天使はこう提案する。

「もう今日は野宿しようか? この街、治安はだいぶ良さそうだし」

「警備員さんの様子じゃ、街中で寝てても何も盗まれたりしなさそうだよね」

そう言ったレッドだったが、その腕に抱っこされているピカチュウはあたりの街灯を見上げて少し落ち着かない様子だった。

「ヂュウ……」

彼の言わんとするところを汲み取り、ピットは頷く。

「うん。流石に街なかだと明るすぎるよね。この明かり、夜になっても全然消えないみたいだし」

と、辺りのビルディングを見渡していたところで彼はふと気が付いた。

「――そうだ。レッドくんはいつもどうしてたの? 君、確か一人旅だよね」

「僕はポケモンセンターに泊まってた。トレーナーならみんな泊めてもらえるんだけど、こっちだと見当たらないからなぁ」

悩ましげに夜空を見上げていたレッドは、そこで何かを思い出して「あっ」と声を上げる。

「そういえば僕、キャンプグッズもらったんだった! 野宿でも良いんなら、僕がテントを用意するよ」

「本当? 助かるよ! ……でも、どこで泊まる? 通りのど真ん中にテント張ったら、さすがにあの警備員でも文句言ってきそうだけど」

そう言ったピットの言葉に、ピカチュウの耳が反応した。

「ピ、ピッカ!」

レッドの腕から身を乗り出して、ピットの肩掛けカバンに手を伸ばす。どうやら手紙を指し示しているようだ。

「え? キーパーソン? いや、これは違うな……」

「十字のマークのことを言いたいんじゃないかな。ということは……あぁ! きっと、あの『ハズレ』のスタジアムだ」

これを聞いたピットは、ぽんと手を打った。

「なるほど、そこなら確かに誰も使ってないね!」

 

レッド曰く、アウトドアのブームはカントーからは遠く離れた地方“ガラル”が発祥だが、今や全世界のトレーナーを老若男女問わず巻き込む一大ムーブメントとなっているそうだ。

宿泊施設とは一味違い、旅の途中、気の赴いた場所で足を止め、大自然の中で焚火を囲み、自分や他の人のポケモンと戯れる穏やかな時間が魅力なのだとか。

今日、二人がテントを用意した場所は刈り揃えられた芝生の上であり、傍らには打ち棄てられたスタジアムが夜闇に溶け込んで黒々と横たわり、あまり自然らしさはない立地ではあったのだが、それでも焚火の暖かな揺らめきは、歩き疲れた二人の心をじんわりとほぐしてくれた。

あたりにはカレールーの食欲をそそる匂いが漂っていた。焚き火には鍋と飯ごうが掛けられ、鍋の方はレッドがゆっくりとかき混ぜている。ピットの方はうちわを渡され、時折焚火をあおいでいた。

スタジアム内の水道が生きていたのは幸いだった。『この街』はそもそも、パレード後に観光客が出歩くことを想定していないのか、レストランもお店も、九時を過ぎたあたりであっさりと店じまいしてしまった。ビルディングの明かりは点いているものの、入口の自動扉は全く反応せず、中に入ることすらできなかった。パレードの終盤でひと悶着あったとはいえ、まさかこれほど早々に、そして一斉に店が閉まるとは二人とも予想していなかった。だから、ついさっきまでは宿を、そしてそこで出されるであろう食事だけを頼りにしていたのだ。

だが今なら、水さえ調達できる環境なら数日間は持つ。日中に買い出しをすればそれ以上もいけるだろうとレッドは言ったが、これにピットは思わず渋い顔をした。

「僕、そこまで長く滞在したくないよ」

彼の正直な答えを聞き、レッドは思わず笑った。

「それもそうだね」

焚火がだいぶ安定してきたので、ピットは一旦あぐらをかいたまま後ろに両手をつき、空を見上げる。

「このエリアは平和そのもの。何にも無いくらいだけど、そこが逆に困りどころなんだ」

彼が見つめる先、夜空が滑らかな絹布のように広がっている。星々はその布を飾る宝石のように散りばめられ、輝いている。

だが、そこには若干の違和感があった。

大気にも揺らぎが無いのだろうか、どの星もまたたくことなく一定の明るさで光り続けているのだ。その様をみているうちに、まるでこの空が、巨大なキャンバスに描かれた星空の絵をうんと引き伸ばして空一面に貼り付けただけの書き割りのように思えてきた。

すべて偽りの世界。箱庭に住む者を惑わせる、かりそめの景色。

天使はその空に向かって言葉を投げかけた。

「何も変えるものがないし、変わるものもない。変えようとすれば邪魔されて、いくらかき乱しても肝心のキーパーソンには届きそうもない。じゃあ、僕らにどうしろって言うのさ?」

半ばぼやくように、そして半ば、この場にいない依頼主に文句を言うように。

 

 

 

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最終更新:2022-06-04

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