星は夢を抱いて巡る
第4章 歓びをもらたす者 ⑤
一日を締めくくる賑やかなパレード。
個性豊かなフロート車が通り過ぎるたび、色とりどりのライトが周囲のビルディングに反射し、歩道に押し寄せた観客の笑顔を明るく照らし上げていく。
彼らに向けて舞台の上から手を振っていたマリオは、ふと何かに気づいたように顔を上げ、傍らの姫を見上げた。
彼女、ピーチもまた、観客に向けて微笑みかけ、上品に手を振っている。しかしその笑顔には微かだが、親しい者には明らかにそれと分かる陰りがあった。
逡巡の末、マリオは思い切って声を掛ける。
「ピーチ……大丈夫かい?」
その声に彼女は、幾分驚いたような表情をしてこちらを振り返った。
「え……? えぇ……何でもないわ」
そう言って彼女は笑顔を返したが、それは無理に取り繕ったような笑みであり、かえって痛々しささえ感じた。
「どこか具合が悪いのかい? だったら車を止めさせよう」
すぐに行動に出ようとしたマリオを、姫が呼び止める。
「違うの。……私はどこも悪くないわ。ただ……」
二人しかいない舞台の上に、沈黙が訪れる。
姫の言葉を待ち、その場で立ち止まるマリオ。しかしピーチは狭い舞台の一点をぼんやりと見つめ、思い悩んだ様子のまま動かずにいる。
パレードの音楽さえも遠く微かに思える中、やがて姫は再びマリオに顔を向け、青色の瞳でじっと見つめた。
「ねぇ、マリオ……」
切実な表情とともに呟かれた言葉。しかし、姫の瞳にあった決心はふと怖気づいたように立ち消えてしまい、彼女はその目を伏せてのろのろと首を横に振る。
代わりに彼女はこう問いかけた。
「……私達、いつまでここにいるのかしら」
マリオは彼女を気遣うように少しの間を置いて、それから答える。
「そうだね。僕もまた前みたいに、君のお城にみんなで集まって、一緒にパーティーを楽しみたいよ。でも、この様子を見たらね」
そう言って彼は沿道の方へ、歩道を埋め尽くす観客たちへと笑顔を向ける。
上がった歓声に手を振り返し、彼はこう続けた。
「この街には、たくさんの人がやってきてる。それはみんな、僕らの活躍を見るためなんだ。ここに来てくれたみんなに楽しんでいってもらいたいから、僕はもうしばらくここに残ろうと思ってるよ。でも、君まで無理して付き合わなくても良いんだ。キノじいやみんなにお城を任せてると言ったって、やっぱり心配だろうからね」
屈託のない笑みと共にそう言ったマリオだったが、見上げる先、姫の返した反応に気づいておやと眉を上げる。
「そう……」
彼女は力なく返し、視線をこちらから外してしまう。まるで何か、大事なものを諦めてしまったかのように。
萎れた一輪の花のような痛ましげな姿に、マリオは戸惑っていたが、やがて思い切って再び声を掛けようとした。
その時だった。観客がどよめき、マリオは思わず辺りを見回す。
見定められないうちに背後で驚きの声が上がり、急いで振り返る。
それは彼らの頭上、上空にあった。夜空を背景に、何か白っぽいものが浮かんでいる。初めは、観光客が手放してしまった風船が飛ばされて来たように見えた。だが、その物体は明確な意思をもって上空から、ピーチの元に降りてこようとしていた。
その不定形の物体には目も口も見当たらず、頭らしき部分では、白い表面を隔てて様々な色の光がくるりくるりと巡っている。
風に吹かれ、そいつはしばらく輪郭を蠢かせていたが、ある程度降りてきたところで不意に、腕のような突起を伸ばし始めた。そのまま、立ち尽くしている姫に向けて差し伸べようとする。
そこではたと我に返り、マリオは姫の背に向かって声を張り上げる。
「ピーチ、危ない!」
舞台の床を鳴らして彼女の元に駆け寄ると、その前に進み出て、彼女を守るように腕を横に広げた。
七色のお化けはこれを見て、それ以上は近寄ろうとせず、少し後退して様子をうかがうかのような素振りを見せた。
マリオが一歩も引かずにこれを睨みつけていると、お化けはようやく諦めたのか、ものも言わずにすいっと浮かび上がる。そのまま風に吹かれたように飛ばされていき、ビルディングの隙間に吸い込まれるようにして消えてしまった。
仮の宿として借り受けた名も無き城。バルコニーに立ち、姫は一人物憂げに夜空を見上げていた。
いつの頃からなのかはもはや分からない。だが、それは一日のルーティーンと言って良いほどの習慣になっていた。
日中の様々なイベントごとが終わり、自分の部屋に一人で戻ってくると必ずと言っていいほど、彼女の心は『孤独』とも言い切れない、感情にもなり切らない何かに絡めとられてしまう。その目に見えない葛藤から逃れようと、彼女は毎晩、バルコニーに出て星空を眺めていたのだ。
今日も同じ空を見上げる姫。しかしその目には、かつてのような戸惑いは無くなりつつあった。
――予感があったのかもしれないわ……今から思えば。
そう心の内で呟き、彼女はそっと目を伏せる。
「……でも、今は見えすぎてしまうくらい。全部が本当だなんてあり得ない……けれど、それなら私は、何を信じれば良いの……?」
独りごちる彼女は、その胸元に添えた片手を握りしめ、悲しみの色も露わに眉根を寄せていた。
辺りの尖塔をわずかに震わせて夜風が吹く。
彼女の金色の髪も風に揺られ、そこで彼女は何も言わずにただそっと腕をさすると、室内へと戻っていった。
俯き加減に歩いていた彼女はふと、横を見る。机の上には、封の切られた手紙が一通。紅色の封蝋の辺りを見つめ、物憂げな表情をしていたピーチだったが、やがて首を力なく横に振り、寝台に向かおうとした。
その足が、はたと止まる。彼女が見る先には姿見があった。
暗がりに沈んだ彼女の背後、そこに映し出されていたのは七色にぼんやりと輝く不定形の影。
息をのみ、振り返ったピーチの見つめる先、亡霊は白い表面を波立たせながら部屋に進入し、ゆっくりと近づいてくる。
おずおずと後ずさりながらも、姫は幽霊に向かって問いかけた。
「あなた……誰? 何がしたいの?」
しかし相手はそれに答える素振りも見せず、ゆらゆらと漂いながら徐々に距離を詰めていく。
キノピオ達を呼ぶべきか、姫がためらいを見せたその矢先――幽霊は素早く腕を伸ばし、姫の手首をつかんだ。
驚きで悲鳴を上げるピーチ。
その後ろで、出し抜けに扉が開け放たれた。
「そこまでだ! 不届き者め、今すぐ姫から離れるのだ!」
低く響き渡る声。それは、カメ族の大魔王が放った一声だった。
クッパを筆頭に、彼の周りには彼の一味が勢ぞろいしていた。幹部であるコクッパ達に、軍団の構成員達。そしてクッパの足元には、すでにやる気満々の様子で身構えているジュニアの姿もあった。
だが、クッパは彼らに向けて逞しい腕の片一方を横に広げ、前に出ないように制する。
「ここはワガハイに任せておけ」
背負った甲羅を揺らし、クッパは重々しく最初の一歩を踏み出した。
敷居をまたぎ、ゆっくりと、威圧するように歩を進めていく。亡霊はいまだに姫の手首をつかんでいたが、クッパがある程度近づいたところで怖気づいたのか、その手を離してしまった。
顔の見えない姿がおぼろげに彼を見上げた矢先、唸る声が室内を震わせ、五指を広げた大きな手が振り下ろされる。
しかし間一髪のところで幽霊は身をひるがえし、大魔王の鋭い爪を躱すと、その流れのままにバルコニーへと退却し、風に吹かれて姿を消してしまった。
太い腕を組み、クッパは鼻を鳴らす。
「ふん、造作もない。あの程度で姫をかどわかそうなど百年早いわ」
彼の背後に守られる形となっていたピーチ姫は、ややあって状況が飲み込めてくると、クッパの棘だらけの背に向けてこう声を掛けた。
「ありがとう、助けてくれたのね。でも……どうしてこのことが分かったの?」
彼女の方に向き直りながら、クッパはこう答えた。
「む? それはだな、翼の生えた小童から報せを受け取ったのだ。姫を狙う者がいるとな」
「翼の生えた……? もしかしてそれって――」
そこで急に、室内に強風が吹き荒れ、ピーチは言葉を途切れさせる。
腕を庇に様子を伺うと、バルコニーの外、星空が何か巨大なものに遮られて暗く蔭っていた。室内にはプロペラのばたつく音がいくつにも重なって反響し、床に差し込んでいた月光は、回転する羽に遮られて規則正しく明滅を繰り返していた。
「ともかくだ」
低く響いた声に、姫は我に返ってクッパを振り仰ぐ。
腕組みをしたまま向き直ると、彼はこう続けた。
「姫よ、こんな警護の薄い城に居ては危険だぞ。さっきのゆらゆらがいつ襲ってくるか分からん。だが案ずるな、このワガハイが守ってやるからな」
それから少しして、コクッパ達に手を貸されながら飛行船のタラップを登っていく姫の姿があった。
先に船に乗っていたクッパが彼女に手を差し伸べ、姫はいまだに戸惑いながらも、彼の大きな手のひらに自分の手を重ねる。
やがて軍団全員が乗り込み、クッパ軍団の飛行船は帆で風を捉えてゆっくりと方向を変え、満点の星空と、燦然と輝く摩天楼のあわいに向けて出港していった。
船尾に立っていた姫はジュニアやコクッパ達に取り囲まれて歓迎を受けていたが、ふとその合間に、後ろを振り向いた。
自分が黙って後にすることになってしまった城を、そこにいるであろうキノピオ達を案ずるような視線が、何かを見つけてはっと驚いたように見開かれる。
彼女が見つめる先、自室のバルコニーに人影があった。
少しずつ小さくなっていくシルエットは、丈の長い水色のドレスを着込んだ女性のもの。彼女は白い布を手に取り、その中から続々と姿を現す色とりどりの『星の子』達を労い、微笑みかけているようだった。
やがて彼女の、ロゼッタの淡い金色の髪が揺らぎ、夜空に仰向けられた顔がこちらを――遠ざかっていく船を見つめる。
まるで、姫の出発を見送るように。ロゼッタの眼差しは、そしてその笑みは紛れもなく、ピーチ姫に向けられたものだった。
翌朝、街の大路を駆けていく二人の男の姿があった。
紺色のオーバーオールを着込み、赤と緑の色違いの帽子を被った双子の兄弟。大ぶりな靴でコンクリートを踏み鳴らし、まっすぐに前を見つめて走っていく。
観光客らは、大路に響く軽やかな足音に気づいてパンフレットから顔を上げ、それが誰であるのかを知るとぱっと表情を明るくする。
道ゆく誰もが彼らに向けて応援するように大きく手を振り、歓声を上げていた。兄弟もこれに応えて帽子のつばを上げ、笑顔で手を振り返す。
横断歩道に差し掛かるたびに、近くにいた警備員が彼らに気づいて慌てて誘導棒を手に取り、彼らのために車道に出て交通を遮っていた。双子は横断歩道に差し掛かるたび、警備員や止まってくれた車のドライバーに陽気な声で礼を言っていた。
遡ること十数分前。
第一試合を前に、控室で他の出場者とともに支度をしていたマリオとルイージの元に、ひどく慌てた様子のキノピオがやってきた。
『ピーチ姫がどこにもいないんです! お城からいなくなっちゃったんです……!』
おろおろと頭を抱えている彼から聞き出せたのは、昨晩までは間違いなく城内に居て、皆で夕食を取った後に自室のある階に戻っていったこと。そして姫の行方不明に気が付いたのは、今朝、彼女の部屋まで朝食を運びに行った時だったという。
キノピオ達は皆で手分けして城中を探したが、姫はどこにも見当たらなかった。争ったような痕跡も、犯行状も見つからず、誰が姫を攫ったのか杳として知れなかった。
唯一見つかった異変は、寝室からバルコニーに続く扉が開いたままになっていたこと。扉が開いていては夜風が入って眠れないだろうというので、マリオ達は姫が夜の間に連れ去られたのではないかと推測していた。
ともかく皆に声をかけて手分けして探そうかと、その場にいた仲間たちと一緒に話し合っていたところ、控室のスクリーンが急に切り替わり、緊張した面持ちのアナウンサーが映し出され、臨時ニュースを読み上げ始めた。
それは、『クッパ軍団がスタジアムを占拠した』というもの。画面は続いて中継映像に切り替わり、スタジアムの遠景を映し出した。どうやらヘリコプターから撮られたものらしく、ステージの中央に誰かが集まっていることしか分からない。
しかしマリオは、その豆粒のような人影の中から素早く見分け、差し迫った声で言った。
「あそこにいる!」
彼が一心に見つめる先。そこには桃色のドレスを着込み、金色の髪を俯かせる人影があった。そして、顔を上げようとしない彼女に向かい合う、巨大なカメ族の姿も。
道行く人々が彼らのために自然と道を開け、まるでパレードの時のように左右に分かれて二人を迎える中、走っていく兄弟の顔にはまだ余裕があった。
走りながらも今朝がたのやり取りを思い出し、マリオは呆れたように笑うとこう切り出した。
「しかしクッパも行儀が悪いよなぁ、なにもこんな時に我らがプリンセスを狙わなくたっていいじゃないか」
「ほんとだね」
こちらもそっくりな顔で笑いかけ、ルイージは大路の左右に分かれた観客たちを見やってこう続ける。
「僕らの試合を見に来てくれてる人たちがこんなにいるのに、肝心の姫がいないんじゃどうしようもない。これじゃあ、今日の予定は全部取り消しだろうな」
二人とも何だかんだ言って大魔王クッパとは長い付き合いであり、彼が“本気で”姫を連れ去ったのか否かくらいは分かるようになっていた。
大体の場合はマリオが見ている前で攫うのが定番であり、その場にいなかった場合も、キノピオなどから話を聞いたマリオが駆けつけるまで留まっていることが多い。もしかしたらわざわざ見せつけるために、追いつくまで待っているのではないかと疑いたくなってしまうほどである。
それが今回はさっさと姫を連れ去ってしまい、置き手紙や何かで自分がやったと喧伝することもなかった。もしあの場でニュースを見ていなければ、犯人が誰なのかも突き止めることはできなかっただろう。
クッパから何度も姫を奪還し、いつの間にか大魔王の好敵手として目されるようになったマリオは、今回の彼の行動には何か訳があるような気もしていた。だが、それにもまして中継映像で垣間見えた姫の姿が、顔を俯かせた彼女の様子が気がかりで仕方なかった。
不意に辺りが静かになり、二人はきょとんと目を瞬いて周りを見渡す。
いつの間にかスタジアムの敷地内に入ったらしい。目の前には真っ直ぐにスタジアムまで続く道があり、道の外には緑豊かな芝生が広がっていた。
彼らのほかに人はおらず、ただ広いばかりの草原が道の左右に横たわっている。真正面のスタジアムにも人けは無く、開け放たれた扉の向こう側は暗く沈んで見通すこともできない。もしかすると軍団に占拠されたことで試合が中止になってしまったのかもしれないが、それにしてもここまで人がいないのは不思議を通り越して不気味でさえあった。
双子の兄弟は周囲のあまりの静けさに遠慮したのか、ちょっと歩調を遅らせて走っていた。
ルイージの方は真っ暗なスタジアムを見つめ、お化けが出ないと良いけど、と言いたげな顔で心配そうに眉を曇らせている。
一方、共に肩を並べて走るマリオは訝しそうな眼差しを同じく前方に向け、やがてこうつぶやく。
「こんなスタジアムあったっけ……?」
それぞれに建物に気を取られていた兄弟は、足元に描かれていた模様には全く気が付くことなく、その上を踏み越えていった。
スタジアムの中へと姿を消した二人の後ろ、赤いタイルによって描かれた円に十字。そのマークは何を語ることも無く、日の光に照らされ、静かに輝いていた。
がらんどうのスタジアム内に二人分の足音が響き渡る。
赤と緑の人影が階段状になった観客席を駆け下りて、最後のフェンスを一足飛びに跳び越えると、中央に浮かぶ舞台に難なく着地した。
身構えた彼らが見据える先、棘のついた甲羅は思っていたよりも小さいものだった。
「来たな! マリオにルイージ!」
自信ありげに腕を組み、振り返ったのはクッパではなく、彼の自慢の息子クッパJr.だった。ドレス姿の女性は彼の背後に匿われているものの、ジュニアの傍らにいる部下は植木鉢に植わったパックンフラワーが一体のみ。
これを見てマリオは、ちょっと拍子抜けしたように眉を上げた。
「なんだ、君だったのかい? ピーチ姫がいくら優しくてキュートでも、独り占めは良くないよ」
茶目っ気たっぷりにそんなことを言うも、クッパJr.は不敵に笑い、マリオ達に勢いよく指を突き付けた。
「強がってられるのも今のうちだぞ。“とんでひにいるなつのむし”とは、おまえたちのことだ!」
言い切るなり彼は背負っていた筆を掴み、小さな体にできる限り身をひねって振りかぶると、隣のパックンフラワーめがけて思いっきり、虹色のインクを浴びせかけた。
パックンフラワーの全身をインクが覆う。七色のインクは、まるでそれ自体に命があるかのようにゆらゆらと蠢いていたが、出し抜けにその輪郭が大きく膨れ上がった。
どこまでも高くなっていく頂を追い、顔を仰向かせていく兄弟。日差しが遮られ、二人の立つステージも暗く蔭っていく。
その場を動くことができない二人を置いて、クッパJr.はいつの間にか一人乗りの小型飛行船に乗り込んでいた。
「ハハハ! おまえたち、まんまと引っかかったな。そのままボスパックンに踏みつぶされちゃえ!」
そのまま、彼は高笑いしながら飛び去ってしまう。
ステージの中央ほとんどを埋めるほどに膨れ上がったインクの塊。徐々に色が薄れ、やがて現れたのは見上げるほどの巨体となったパックンフラワー、“ボスパックン”。植木鉢は成長に追いつかなかったのか見当たらなくなり、ぼってりしたお腹に水玉模様のパンツを履いている。ボスパックンは、巨大な葉っぱのような手に二つの檻を持っていた。片方は空っぽだが、もう片方には桃色のドレスを着た人が閉じ込められている。それに気が付き、マリオは表情を引き締めると一歩、前に踏み出す。
そんな彼の仕草に気づいたのか、ボスパックンは花びらで襟巻のように取り巻かれた巨大な顔を、ステージの上に立つ双子の兄弟へともたげた。
厚ぼったい唇が嗤うようにゆっくりと開き、ギザギザの歯があらわになる。
甲高い奇声が、スタジアム内をびりびりと震わせる。思わず兄弟が耳を抑える中、ボスパックンは空の檻をぶん回し、マリオ達めがけて振り下ろした。
二手に分かれてこれを避け、受け身を取ったマリオ達。片膝立ちとなったマリオはボスパックンから目を離さないまま、声を張り上げて弟に伝える。
「こいつのやっつけ方は分かってる! ルイージ、あいつが口を大きく開けたら離れて、僕に任せてくれ!」
そう言って彼は、隠し持っていたポンプを背負う。
「分かった!」
頷くと、ルイージは先陣を切り、ボスパックン目掛けて走っていった。
ボスパックンは巨大な頭部をもたげ、近づいてくるルイージを観察していたが、やがてうっとうしそうに唸ると葉っぱのような腕を振り上げた。
がしゃん、と大きな音を立てて空の檻がステージに打ち付けられ、火花を散らせながら重量を感じさせないほどのスピードで薙ぎ払われる。その身に当たるかという一瞬のうち、ルイージはこれを見切って勢いよく跳躍し、檻を跳び越えた。
だが彼はそのまま攻撃に移るわけでもなく、ボスパックンの足元を駆け抜けてその後ろに、高く掲げられたもう一方の檻へと走っていこうとする。それに気づいたボスパックンは苛立たしげにぎりぎりと歯ぎしりをし、深く身を沈めると大きくジャンプした。
巻き起こった突風に思わず帽子を押さえてしゃがみ込み、ルイージはその姿勢で頭上を見上げる。
「うそ……跳ぶの?」
「“飛べる”ぞ! なにせ腕の一振りで竜巻も起こすんだから」
「なんだって?!」
聞き返したのは聞こえなかったからか、それとも驚いたからか。しかしルイージは兄の答えを待つこともできず、次の瞬間、慌てて地面を蹴り、飛び込むようにして受け身を取る羽目になった。
スライディングした自分の身体が、遅れて墜落した巨体の衝撃を受けて文字通り、地面から浮き上がる。
「ひぇぇ……」
どさりと全身で着地した彼は、そう思わず声に出しながらも急いで立ち上がろうとする。
ボスパックンは口を開けてくれたのかどうか、振り返って確認する余裕もなく、ともかくいったん距離を取らなければと思っていた矢先だった。
金属が打ち付けられる音が聞こえたかと思うと、がりがりと擦れる音が自分目掛けて迫ってくる。
「ルイージ!」
兄の声にはっと我に返り、とっさに前に倒れこむ。その頭上を風圧が駆け抜け、遅れて水しぶきが背中に掛かった。
横目を開けて見上げると、まさに、檻が唸りを挙げて頭の上を通過するところだった。少し遅れて、マリオがポンプで檻に水を浴びせ、葉っぱを支点に押し上げて助けてくれたことを理解する。
ルイージに気を取られていたボスパックンは、今度は後ろの方にいたマリオが、姫を閉じ込めた檻を狙っていることに気が付く。耳障りな叫び声を上げると、そいつは返す手で空の檻を振り回し、マリオを牽制した。
一旦断念して引き下がったマリオ。彼は怪訝な顔でボスパックンを見上げていた。
「変だな……そろそろドロをはき出す頃合いだと思うんだけど……」
一度合流しようと、近くまで戻ってきていたルイージはこれを耳にし、こう確かめる。
「それが大きく口を開けるタイミングってことだね?」
「うん、そうなんだ。そうしたら水をたらふく飲ませて、ひっくり返すつもりだったんだけどな……」
そこでボスパックンの叫び声が再びスタジアムに響き渡り、ルイージは相手の注意を引き付けるために走っていった。
途中で彼が懐からオレンジ色の花を取り出したかと思うと、その服装が一瞬にして色を変える。白っぽい服装となった彼は相手の葉っぱ目掛けて手のひらを向け、炎の弾を打ち出し、ボスパックンのぶん回しを牽制した。
少し離れたところに片膝立ちのまま留まり、次の一手を考えるマリオ。すると彼の背後でポンプのノズルが動き、彼の方を向くと、機械的な音声でこう言った。
「マリオさん。あのボスパックンは、昔あなたが戦ったものとは一味違うようデス」
「水を飲ませる手は使えないってことかい?」
「ハイ、おそらく……。せっかく呼び出していただいたのに、お役に立てず、申し訳ありマセン」
そう言ってノズルを項垂れさせたポンプに、マリオは元気づけるように笑いかけた。
「そんなことないさ。さっきだって僕らでルイージを助けただろう? それに水を飲ませることができなくたって――」
彼はそれから前を向き、ボスパックンを相手取って戦っているルイージに向かって大声で呼びかけた。
「そのまま注意を引き付けててくれ。ジャンプはさせないでくれよ!」
無茶ぶりをされたルイージはすっとんきょうな声を上げる。
「えぇっ? そんな、どうやって……」
と言いながらも試行錯誤するうちに、檻を持つ手の辺りでうろつくことでわざと払わせ、ジャンプを阻止できることに気づく。
「意外と何とかなるもんだ――」
言いかけたところで、なかなか当てられず腹を立てたのか、ボスパックンが深く身を沈めた。ルイージはそれに気づくなり、すかさず緑のファイアボールを放つ。直進する火の玉はボスパックンの足に当たり、相手は怯んだような悲鳴を上げてたたらを踏む。
その時。よろめいた巨大花の後ろで、出し抜けに水の柱が出現した。
ロケットノズルに切り替えたマリオが、ポンプの力を借りて天高く飛び上がっていったのだ。
そのまま彼は片足を突き出し、ボスパックンの巨大な頭に狙いをつける。背中でもポンプがくるりとノズルの向きを変えた。
噴射する前に、ポンプは確認するようにこう言った。
「……本当に大丈夫デスか?」
空中で再び持ち手を構え、チャージしていたマリオは明るく答える。
「平気平気! このくらいなんともないさ!」
「では、行きマスよ――」
次の瞬間、ノズルから厖大な量の水が轟と音を立てて放たれ、マリオはまるで彗星のような勢いで落ちていく。
しっかりと突き出された片足は、ボスパックンの頭部に深々とめり込む。
ぼよんと膨らんだ反動を受けてマリオは弾き出されたが、ボスパックンの方は足元をふらつかせてすっかり千鳥足になっていた。
口を半開きにし、ついに天を仰いでどうと倒れこむ。投げ出された檻がステージの上に不時着し、マリオとルイージは急いで檻の中の姫を助けに走っていった。
落下の衝撃で扉が開き、檻の傍らにドレス姿の人影が倒れこんでいた。
駆け寄った二人の前で振り返ったその顔は、ピーチ姫のものではなかった。
「ちょっと! レディーは大切に扱いなよっ!」
つんとむくれたその顔は、クッパ七人衆の紅一点ウェンディ。被っていたカツラがずれて、ピンク色の大きなリボンを着けた頭が露わになっていた。
腹を立てていた様子の彼女だったが、双子の兄弟が揃ってぽかんと口を開けているのに気が付くと、今度は得意げに「フフン!」と笑ってポーズをとり、ウインクした。
「あら? もしかしてアタシのこと、プリンセスと見間違えちゃったの?」
遅れて我に返ったマリオ。
「――それじゃあピーチ姫は、一体どこに……」
ウェンディに向けてこう問いかけるも、その言葉は途中で立ち消えてしまった。
見開かれた目の先、急に灰色の濃霧が現れて全てを飲み込もうとしていた。不敵に笑うウェンディの顔も、のびてしまっているボスパックンも、そして見知らぬ無人のスタジアムも。
「ルイージ!」
慌てて横を見たが、そこにもすでに濃霧は立ち込めており、弟の姿はもうどこにも見当たらなくなっていた。
それでも諦めきれずにマリオは、彼がいたはずの場所に向かって飛び込んでいく。
目を凝らし、濃霧をかき分けるようにしてしばらく無我夢中で走っていた。
すでにあのスタジアムの舞台の端は越えていておかしくないほどに走ったはずだが、いくら進んでも足元の地面に終わりは見えず、霧も一向に薄れる気配がなかった。
ただ靴の感触で、いつの間にか自分がステージのコートではなく、小石の混じる地面を走っていることだけが分かっていた。
――魔法か何かで場所を移されたのか……?
一度立ち止まって様子をうかがうべきかと考え始めた彼の目が、ふと足元に向けられる。
「わわっ?!」
慌ててたたらを踏んだ彼の一歩先、道はいきなり途切れて、眼下には深い亀裂が横たわっていた。
一、二歩後ずさり、マリオはようやく堪えていた息をついた。
「まったく……『足元注意』とか書いといてくれなきゃ」
そこで彼は、灰色の濃霧がすでに辺りから消えていることに気づく。
彼はいつの間にか、薄く霧のたなびく渓谷に迷い込んでいた。草木は一本も生えておらず、岩ばかりが転がる殺風景な谷。崖はあまりにも角度がきつく、登るのには一苦労しそうだった。空は曇りがちで、ぼんやりと頼りない薄明りが渓谷の砂地を照らしていた。
再び足元に、数歩先の奈落に目をやりつつマリオはこう呟く。
「……出口はどっちかって言われたら――」
見定めるように目をすがめたが、大地に深く穿たれた亀裂には先を見通せないほどの闇が湛えられているばかり。
「――やっぱり、こういう時は上の方だよね?」
そう言いながら背後を振り返った時だった。
「あっ! マリオさぁ~ん!」
渓谷の上の方から聞き慣れた声と共に、緑のヨッシーがひょこっと顔を出した。そのまま彼は途中の足場を一回挟んでこちらに飛び降りて来る。
「あぁ、マリオさんに会えてよかったです……! ボク、スタジアムで試合をしてたらいきなり霧に包まれて、気づいたら全然知らない森の中に……」
と、そう語っている途中で何かを思い出し、彼ははっと目を瞬いた。
「そ、そうだ! ボク、森で紫色のピーチさんと出会ったんですよ!」
誘拐事件を知らないはずの彼から出し抜けにピーチ姫の名前が出てきて、今度はマリオの方が驚きで目をぱちくりさせる。
「紫色? それってドレスが紫色だったってこと?」
ヨッシーはそれに対し、首を横に振った。
「全部です、全部。お肌も髪の色も、全部紫色のモクモクに包まれてて……しかも、ボクらに襲い掛かってきたんです」
「もしかして偽物かな……?」
「そうだと思います。止めようとしても聞こえなかったみたいなので。ボクと、あともう一人、緑色の――」
そこで彼は、自分の記憶を掘り起こそうとするかのようにぎゅっと目をつぶるも、ついに名前は出てこなかったらしい。
「――緑なんだけど、ルイージさんじゃない人と一緒にやっつけたんです。そうしたら、紫の粒々になって消えたんですが……」
「ルイージじゃない人? でもあと緑って言ったら誰だろう……」
眉根を寄せて考え込んでいたマリオは、そこでにわかに現状を思い出す。
「そうだ。ヨッシー、僕の方はピーチ姫を探してスタジアムに来たんだけど、霧に巻かれたと思ったら、いつの間にかここに迷い込んじゃってたんだ。ここから抜け出すのを手伝ってくれないかな?」
「もちろんです! さあ、ボクの背中に乗ってください!」
そう張り切って言い、ヨッシーは自らの背中を差し出した。しかし、マリオがその背に跨ろうとした時だった。
彼は足を止め、峡谷の崖の上を見上げる。
「……なんだ?」
彼は目を凝らしていた。それほど距離は空いていないはずなのに、それが何者なのかを見分けることができなかったのだ。
暗く沈んだ空間の歪み。不定形のそれらは、凝視してようやく“人型”であることが分かる程度だったが、それでもなぜか、その顔がこちらを向いていることだけは分かった。そしてそれは、決して友好的な眼差しではないことも。
マリオは無意識のうちに低く身構えていた。
自分の直感が、彼らは『敵』だと言っていた。
「あわわ……あれ、一体なんですか……?」
口元に手をやっておろおろと上を見上げているヨッシー。それに対し、臨戦態勢を取りつつもマリオには余裕があった。
「なんだろうなぁ。でも、これだけは確かだ。全部やっつけないと、僕たちはここを出られない」
その言葉に、ヨッシーは初めて周りの様子に気が付く。いつの間にか渓谷は上も下も、そして前も後ろも、暗い歪みを纏った存在に取り囲まれていた。
おぼろげな闇はおおむね同じ背丈の、人型を模したものが多かったが、時には空中をふわふわと漂ってくる不定形のものや、明らかに武器と分かるものを手にした影もあった。
姿形が見定められないだけに、相手が何を仕掛けてくるのかを前もって知ることは至難の業となっていたが、マリオもヨッシーも、影を退けるたびに少しずつ、彼らの特徴が分かるようになってきていた。
マリオは、こちらに向かってくる人型の闇を、目を細めて見極めようとする。
――あいつは……炎だな!
ぼんやりと、赤い色が見えたように思い、彼はすかさずポンプを背負う。果たして闇は、息を吸い込むようなしぐさをしたかと思うと、口らしき場所から炎が噴き出してくる。しかしその炎は、間髪おかずに発射された水流にかき消されてしまった。
彼の背後でもヨッシーが戦い続けていた。いつものように長い舌で捕まえ、一口で片づけてしまおうとしていたヨッシーだったが、当たった相手が怯むばかりで口に入ってくれないことに気づき、もう一つの得意技であるタマゴ投げで応戦していた。
『敵』は高台から次々と顔を出し、足場をたどって降りて来るのだが、ヨッシーは負けじと、片っ端からタマゴを投げつけて相手を押し返していく。
途中で彼はふと後ろを振り返り、
「マリオさん、ちょっとしゃがんでてくださいねっ!」
そう言って振りかぶり、屈んだマリオの頭越しにタマゴをいくつも連続して放り投げた。タマゴは、折しもマリオの頭上を狙って電撃を放とうとしていた影に全弾命中し、そいつはふらふらと漂いながら消えていった。
常に一定の数の敵に囲まれつつも、ほとんど最初の位置から動く必要もなく、安定した流れで応戦し続けている二人。マリオの方はやる気満々であったが、ヨッシーの方はだんだんと集中力が途切れてきたらしく、少しずつ表情が弱々しくなっていた。
「マリオさぁん……これ、ずぅっと終わらないなんてことないですよね?」
「もう少しの辛抱だ。ちょっとずつ敵が手ごわくなってるだろう? そろそろ大物がお出ましになるんじゃないかな」
「えぇっ、そんなおっかないこと言わないでください……!」
「大丈夫だって! それを乗り越えたらきっと――」
見上げた彼の顔が、ふと何かを認めてにやりと不敵に笑う。
「――ほーら、おいでなさった」
彼の見据える先、巨人のようなサイズの影が二体と、峡谷の真ん中に十字の影が一体、音もなく出現していた。
「ヨッシーは『砲台』をやっつけて! 僕はあの巨人を片付けるから」
そう言って彼がポケットから取り出したのは青い花。次の瞬間、彼の服装が色合いを変え、赤いオーバーオールに水色の帽子とシャツという組み合わせになっていた。
大きな拳が揺らめく影を纏い、マリオの頭上目掛けて振り下ろされる。しかし彼はこれを見切って横に躱し、すかさず片手を構えて氷の塊を撃ち放つ。氷の礫は相手の足らしき場所に当たり、巨人はドタドタとたたらを踏んだ。
巨人は大型の敵の例に違わず、一撃一撃の重さの代わりに全ての動作が鈍くなっていた。マリオは軽々と巨人の攻撃を避け、合間に氷の弾を食らわせていく。徐々に相手の足は凍り付いていき、ただでさえ鈍い巨人の動きがより一層遅くなっていく。
後ろで地響きがして振り返ると、もう一体の巨人もこちらにやってこようとしていた。ぼんやりと揺らめく巨大な足を勢いよく振りかぶり、こちらに向けて蹴りを食らわせようとする。だがマリオは焦らずに前に転がり込み、さらに頭上を空振りして勢いを失った巨人の足を両腕でがしりと捕らえると、気合の一声と共に巨人の身体を引っ張った。
バランスを崩し、ついに倒れこんだ巨人の身体。マリオは低く身構えると、全身に力を込めて、自分の身の丈の三倍もあろうかという影を振り回して放り投げた。
その斜線上にいたのは、足が氷漬けになった巨人。どうっと鈍い衝突音が鳴り響き、二体はもんどりうって峡谷の中央、底の見通せない亀裂の底に墜ちていった。
「よーし、後は……」
額を腕で拭い、ヨッシーの様子を見る。
彼も彼の方で、敵をうまく利用しているようだった。十字の砲台に舌をひっかけ、渾身の力で上を向かせている。砲台から放たれる爆発物は、ものの見事に足場の上にいる巨人へと降り注ぎ、次々と霧散させていた。
後続がもう現れない様子であるのを見て取り、ヨッシーが舌を離したタイミングでマリオは駆け寄り、真下からのパンチ一撃で砲台を吹き飛ばした。
着地したマリオの元に歩いてきつつ、ヨッシーは恐る恐る辺りを見回していた。直前までの怒涛の襲来が嘘のように、辺りは静かになっている。
「……ほんとに終わったみたい、ですね……」
「僕の言った通りだったろう?」
そう彼に笑顔を見せていたマリオだったが、そこでふと崖の上に目をやる。
――でも……そう言えばなんで分かったんだろうな? 勘とも何か違うような……。
それは、どこで襲来が止むか、という点だけではなかった。
戦いが過ぎ去り、心が落ち着いてきたところで、彼は直前までの乱戦を振り返り始めていた。
あれほどの連戦、しかも見慣れない土地でありながら、彼は自分がさほど敵の対処に苦労していなかったことに気づく。
何となく『どんな敵』が『どこから』来るのか知っており、だからこそほとんど先手を打つようにして『どうすれば良いのか』を考え、次の一手を組み立てることができた。
まるで何度も、同じことを経験したかのように。
「ねぇ、ヨッシーは――」
彼も同じ印象を持ったのだろうか、尋ねようと振り返った先、再びあの灰色の濃霧が周囲に立ち込めようとしていた。
「マリオさん! またあの霧ですっ! このままじゃボクたち、どこかに連れ去られちゃいますっ!」
慌てて辺りを見渡すヨッシー。徐々にその姿は霧の中に飲み込まれ、声も遠くくぐもっていく。
「待ってて、今行くよ!」
駆けだすも一歩及ばず、ついさっきまで彼がいたはずの場所に差し伸べられた手は虚空を掻いた。
勢いあまって数歩歩み、そこで彼は立ち止まる。ヨッシーの手を掴もうとした片手をそのままに、マリオは未知への警戒と、仲間や弟への心配が入り混じった顔であたりを、無辺の濃霧を見回していた。
――一体何が起きてるんだ? 僕らをあちこち連れまわして……全員が倒れるまで、あの影を差し向けるつもりなのか……?
今度の霧は、それほど長く留まらずに消え始めた。
次に現れたのは、暗紫色の空間。さきほどの『影』たちに負けず劣らず、輪郭を見通すことのできない不定形の地形が横たわり、その半透明の表面を透かした内部では、生き物めいた光が脈動している。
明かりとなるものもなく、目印となるものもない。だが、その空間がやたらと広いことだけは何となく分かった。
ぼんやりとほの暗い舞台を前にして、マリオの表情には一切の迷いはなく、決意だけがみなぎっていた。
彼には分かっていたのだ。おぼろげに、自分が進むべき方向はどちらなのかを。
「――きっとこっちだ!」
誰に言うでもなく宣言し、彼は迷うことなく闇の中へと駆け込んでいった。
闇が凝ったような足場を踏み越え、底なしの谷を跳び越え、一心に突き進んでいくマリオ。
やがて彼の見据える先に、ぼんやりとした影が見えてくる。それは先ほどの渓谷で対峙したような『敵』ではなく、近づくにつれてはっきりとした輪郭を備えていく。
しかし、それが誰であるのかが見定められるほどまでに近づいたとき、彼はふと足をためらわせ、ついには立ち止まってしまった。
戸惑ったように立ち尽くす彼に対し、ピーチ姫を背に守り、立つ大魔王はゆっくりと腕組みをほどくと、こう言った。
「どうした。マリオ」
それから十分に間を置いて、彼は二の句を継ぐ。
「――ここにいるのは本来、ワガハイではなかったはずだ……とでも言いたげな顔だな?」
この言葉に金縛りから解けたようになって、マリオははっと背筋を伸ばした。
「……そんな……いや、でも他に誰がいるって……」
まさしく、心に浮かんだ思いを言い当てられた形だった。
だが、それでは一体自分は『誰が』いると期待を――あるいは覚悟を、していたのだろうか。
それまで彼の全身に満ちていた自信は、ここに来て風前の灯火のように揺らぎ、消えかかっていた。
自らの足元をぼんやりと見つめ、ただ頭を片手で抑えるばかりのライバルを見かねたのか、クッパは低く唸るようにして声をかける。
「マリオよ、いい加減思い出さんか」
その声をきっかけにして、辺りの景色が揺らいだ。
暗紫色の闇は払われ、星の輝く夜空に移り変わる。彼らが立つ不定形の大地も、確固としたコンクリートに塗り替えられていった。
気づけば彼らは、大都会の一角、ビルディングの屋上に立っていた。
クッパの後ろの人数が増えている。ジュニアやクッパ七人衆、パックンフラワーが控えているだけでなく、よく見ると、少し離れたところにロゼッタやデイジー姫の姿もあった。
まさか、彼女たちまで攫ったのだろうか。マリオの表情にさっと警戒の色がよぎる。
「兄さん!」
聞き慣れた声に振り向くと、そこにはルイージがいた。安堵の表情で駆け寄ってきた弟に、マリオは幾分表情を明るくする。
「無事だったか! 今までどこにいたんだい?」
「それが……何か変な夢を見てたみたい。辺りはすっかりボロボロになっててさ、そこから皆を助けに行こうとしてたんだ。“赤い帽子の男の子”と、“ふとっちょの王様”と一緒に」
困ったように眉を下げ、彼は頭の後ろをかいてそう答えた。
「あっ、マリオさん」
声が聞こえて振り向くと、ヨッシーも傍にいた。
「もー、どこに行ってたんですか? ボク、霧の中に迷い込んでちょっぴり怖かったんですよ」
霧に呑まれていたのは自分たちだけではなかったらしい。怒りに満ちた抗議の声が上がり、三人は揃ってそちらを振り向く。黄色い帽子に紫のオーバーオールを着込んだ、恰幅の良い後ろ姿。
ワリオは夜空に向かって拳を振り上げ、こんなことを叫んでいた。
「こんな罠ありかよ! いかにも何か、でっかいお宝を隠してそうな扉だっただろ! それがこんなしょぼくれた屋上に放り出されるなんて、どうなってるんだ、おぉい!」
ダンジョンの責任者を呼べ、と威勢よく怒鳴っている彼のことはさておいて、仲間たちの無事を確認できたマリオは再びクッパの方に顔を向ける。
「……クッパ、思い出せって言われても分からないよ。僕らに見せたあのまぼろしは、一体どういうつもりだったんだ」
「ワガハイが見せたのではない、あれはオマエの……」
渋い表情をする大魔王。しかし、彼に対しマリオは、そして傍らのルイージとヨッシーは揃って一歩、前に踏み出す。
「話は後だ。まずはピーチを離してもらうよ!」
いつもの大魔王であれば、ここはなんだかんだと文句を言いながらも挑戦を受けて立つところだった。
しかしどうしたことか、今日はいつもと様子が違っていた。
深く響くようなため息をつき、クッパは再びゆっくりと腕を組んでしまい、そのまま動こうとする素振りも見せない。
緊迫した沈黙のうちに、ただ時間ばかりが過ぎ去っていく。
クッパの背後に守られたピーチは、いたたまれない様子で心痛に顔を曇らせ、対峙する二人を見つめていた。
「――もう、見てられないよ、二人とも!」
威勢のいい声が屋上に響き、クッパもマリオも思わずそちらに目をやる。
見れば、明るい黄色のドレスを着込んだサラサランドの姫君が、むっとした顔でヒールを鳴らし、つかつかと歩いてくるのだった。
「クッパもクッパだわ。なんで理由も話さないで黙ってるの?」
見上げるような巨体にもひるまず、彼女はクッパの顔を真っ向から見据えて腕を組んでいた。
彼女にきっかけを得て、ロゼッタも進み出る。クッパとマリオ達を取り持つように、その間にふわりと佇み、マリオ達にこう語りかけた。
「どうか落ち着いてください。彼にあなた方と戦うつもりはないのです」
「でもロゼッタ……じゃあなんで、クッパはピーチ姫を攫ったりしたんだい?」
「それは――」
答えは、ロゼッタでもクッパでもなく、さらにその背後から返ってきた。
桃色のドレスを着た姫君。彼女は俯かせていた顔を上げ、祈るように両手を組み合わせる。
ピーチは真っ直ぐにマリオを見つめてこう言った。
「あなたを夢から醒ますため。そのために、ここまで来てもらったの」
彼女の瞳は未だどこかに悲しみの色を抱えていた。だが、そらされることなくこちらを見る眼差しは、静かな決意に満ちてもいた。
姫はその目でマリオを見据え、決然として一歩、前に踏み出す。
「ここに辿り着くまでの間に、あなたも見たはず。私達には『思い出すべきこと』があるみたいよ。マリオ、まずはこの子達から手紙を受け取ってちょうだい」
彼女が差し伸べた手の先を目で追い、マリオ達は後ろを振り返る。
暗がりから現れたのは、二人の少年。二人とも服装はバラバラで、片方はゆったりとしたトーガを身にまとい、背には翼を備えていた。そしてもう一方は現代風の服装だったが、その肩に黄色の小動物を掴まらせていた。
初めて見る顔だったのだが、それでいて彼らの出で立ちにはどこか妙な既視感があった。
手紙を読み終えたマリオ。
しばらく浮かない顔をして、じっと考え込んでいるようだった。
ふと顔を上げると、他の仲間たちが彼の言葉を待っていた。彼らの顔にもまた、大なり小なりの迷いがあることに気づく。
マリオはそこで少し俯くと、自分の手紙をたたんで封筒に戻し、ゆっくりと封を閉じる。
深呼吸をしてから、彼は再び顔を上げた。
「……一つだけ、確かなことがある」
その顔には、いつもの屈託のない笑顔が戻っていた。
「僕らには行くべき場所、会うべき人がいるってことさ」
一瞬の間を置いて、ビルディングの屋上に再び時が流れ始める。
返ってきた反応は様々だったが、誰もがおおむねこれに賛同しているようだった。
「間違いないね。いつ出発する?」
帽子のつばをくいっと上げて尋ねた弟に、マリオは即答する。
「善は急げ! すぐに出発しよう!」
そんな彼の傍らで、ピーチははっと気づいてこう言った。
「ああ、でもちょっと待って。お城の荷物をまとめなくちゃ。それにキノピオ達も」
ヨッシーもすっかりいつもの調子に戻って、呑気な顔でこんなことを付け加える。
「ボク、お土産もたくさん買っていきたいです~」
そんな彼らからちょっと離れたところに立つクッパ。
「行こう行こう!」と騒ぐジュニアや七人衆、葉っぱで拍手を送るパックンフラワー達を背に、大魔王は鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「フン! 自分だけかっこつけおって」
しかしその横顔は、無用な衝突を避けられて明らかに安堵していた。
その近く、ワリオは見せ場を持っていかれたことに面白くない表情をしている。
「あーあ。ちょうどこの街にも飽き飽きしてた頃だったんだ。そうと分かったらさっさと行くぞ」
空あくびをしてみせ、踵を返してぶらぶらと非常口に向かっていく。
「離れるとなると、この街の夜景も名残惜しいものですね」
ロゼッタはそう言い、フェンスの向こうに広がる摩天楼を感慨深げに眺めていた。
「そう言えば、今日はもうパレードするには遅くなっちゃったわね」
デイジーの言葉を聞きつけて、マリオが振り向く。
「そうだ、パレード! 最後の締めくくりに、これ以上ぴったりなものはないよ。この街の人たちにもずっとお世話になってたことだし、みんなで最後にお礼をしていこう!」
この街の『おしまい』を告げる、最後のパレード。
フロート車の向かっていく方角はいつもの城ではなく、大通りを通って街の外に出て行く方を向いていた。
いつもより遅い時間に開催されたにも関わらず、通りには『観光客』らが溢れかえっていた。彼らのあげる歓声は街路を満たし、ビルディングの屋上を軽々と越え、夜空にまで届かんばかりに響いている。
彼らは知っているのだろうか。キーパーソン達がこの街を出て行くつもりだということを、そして自分たちに課せられた仕事が、ようやく終わろうとしていることを。
キーパーソンに向けられた拍手と歓声。時折、そこには指笛の音も混じっていた。
手放しの賞賛。そう称するにふさわしい音を聞きながら、天使はここに至るまでの長い道のりを改めて思い返していた。
安堵と程よい疲れに、どこかぼんやりと地上の人々を眺めていた天使の顔に、ふと怪訝そうな色が戻った。
――待てよ……? この街の全部がアトラクションで、『観光客』もそういう役目の仕事だったなら、お忍びの奇跡が掛かって同じ見た目になってる僕らに、この街の人間たちがあんなに丁寧に接するのは変じゃないか?
眉間にしわを寄せ、天使は記憶を辿っていく。
スタジアムのスタッフや警備員は、観光客役としては不自然な行動を取り続けたこちらに対し、あくまで客として接し続けた。その態度は総じて、内輪に対するそれとはほど遠く、まさしく外から来た客人に対するものだった。
もちろん、試合やイベントへの乱入は徹底的に阻止しようとしていた。だが、いざ侵入を許してしまっても、彼らは決して「仕事」を取り上げたり、あるいは表から見えないところに閉じ込めようとはしなかった。それどころか……
『我々はあくまでこの街を、お客様同士の交流の場を整えるのが仕事ですから』
あの時の警官の言葉と、あまりにもにこやかな表情が思い浮かぶ。
彼の言葉が演技ではなく、文字通りの意味だったとしたら。
――じゃあ、『お客様』っていうのは、観光客役とは別だったんだ。僕らはちゃんと、街の外から来たお客さんだって思われてたんだ。
しかし、そう考えると辻褄の合わないところが出てくる。この街が、外から来た人をもれなく『スター』としてもてなす場所だったのなら、『お客様』と呼び掛けられた自分たちもその条件を満たす。バッジがあろうとなかろうと、お客として見えているのならスター扱いされる筈だ。それがそうではなかったということは――
――『スター』が特別扱いされるのは、ただ単に外から来たからじゃない。でも、そうすると……
『スター』と『お客様』。両者は共に、「この街」の外から来た人に対する名称だと考えられる。だが、両者の間にはまだ、互いを区別する相違点があるようだ。
――試合に出られるかどうか、かな? でも、『お客様』が出られる試合も「昔は」あったみたいだし……。
キーパーソンであることとはまた別だろう。この街では、キーパーソンではない人々もスターと呼ばれていた。また、ピットも同様に、姿が分かる状態ではスターと見なされた。
――まぁ、そのキーパーソンっていうのも定義が分からないんだけどな。どうやって決められてるのかも全然知らされてないし。
そう考えつつ、彼は我知らず渋い顔をしていた。それは、この任務の気に入らないところでもある。何につけても、自分が肝心なところで蚊帳の外に置かれているように感じるのだ。
これが女神から直接下された使命だったのなら、自分は迷うことなく、もっと自信を持って行動することができただろう。「長年の付き合い」というのも僭越かもしれないが、自分と女神の間には言葉にしなくても通じるものがある。
だが今回の任務は、外部の者からの依頼、いわば委託業務。
どこに向かうか、誰に配るか、誰が同行するか。すべてあの正体不明の依頼主、慇懃でありつつも掴みどころのない、厳重に素顔を隠した男に任せきりだ。
それでも辞めずに続けているのは、ひとえに『主なる女神が賛同したことだから』であった。
ゆっくりと遠ざかっていくフロート車の列を眺めていたピットは、ふと空の方に注意を向けた。
夜空に光が尾を引いて吸い込まれていき、すっと消えたかと思うと、光で象られた大輪の花が咲き誇る。花火は次から次へと打ちあがり、夜空を様々な色の光で彩り続けていた。
これまでの地道な調査では一度も見られることのなかった“イベント”に、天使は自分の目を疑いながらも、その美しさに思わず見とれてしまっていた。
ビルディングの屋上にも遅れて花火の音が届く中、ピットは名前を呼ばれてそちらを振り向いた。
フェンスを前に、肩を並べて地上を眺める赤い帽子の少年。
こちらを見る彼の真剣な面持ちが、花火の輝きに一瞬、明るく照らし出される。
「さっきの……見た?」
「……さっきの、って……? 花火のこと?」
戸惑い、言葉を繰り返す天使。
対し、レッドはもどかしげに眉間にしわを寄せる。
「ここでみんなを待ってるときだよ。君は何か見えなかった?」
ピットは正直に首を横に振り、レッドはそれを見て少し気落ちしたように視線を逸らす。
それでも何とか気を取り直し、彼は再び顔を上げた。
「――見えたんだ。あれは、間違いない。僕の思い出だった。金色の髪の子……僕はその子と一緒に旅をしてた。どこかの遺跡に入って、なんだかよくわからない大きな怪物とも戦った。それに……リザードンとも――」
そこで彼はふと顔をしかめ、額を片手で押さえる。
「……あれは確かに、僕の相棒だった。でも何で戦ってたんだろう……思い出せない……。リザードンはヒトカゲの頃から育てたはず、なのに……」
彼は力なく首を横に振り、ゆっくりとフェンスの方に顔を向ける。
その顔は未だに混乱を引きずっているようだった。だが同時に、何か答えを掴み掛けているような、そんな顔をしていた。
レッドはフェンスの向こうに切実な思いを込めた瞳を向け、やがてこうぽつりと呟く。
「あの時……あの暗闇の中で、何かがあったんだ。きっと、何か……僕らが偽物の世界に閉じ込められるような、何かが……」