気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第1章 戦争をもたらす者

かつては、緑豊かな美しい森だったのだろう。

 

今、そこに広がるのは灰白色の霧の中、墓標のようにつき立つ丸裸の木々ばかり。

あるものは黒く炭化してひび割れ、あるものは煤にまみれて白くなり、時には根こそぎ倒されて、ぬかるみの中に半ば埋もれているものもあった。

幹には辛うじて太い枝が残っているだけで、あとの枝はすべて地に落ち、鳥や鼠の巣のように乱雑で無秩序な堆積をなしている。

 

大地もまた、深く傷ついていた。

動物たちの安らぐべき草地は踏みしだかれ、暗く濡れそぼり、もはや褐色の泥濘と一緒くたになってしまっている。

清らかな川はどこにも見当たらず、泥の島々を隔てるのは表層まで土気色に濁り切った沼地。その水面に流れはなく、凍り付いたように静かだった。

 

幾度となく山火事と洪水とに襲われてきたのだろうか。

事情を知らぬ者がこの有様を見たのなら、そう思うのも不思議ではない。

 

鳥の声も虫の音も聞こえない、生きとし生けるものすべての命が消え失せたかのような森。

ゆっくりと濃淡を移ろわせる霧の中、木々は途方に暮れたように立ち尽くしていた。

 

不意に、低く垂れこめた霧の上から、青く美しい光が差し込んだ。

空の彼方から降りてきて、霧の中を静かに抜けてくるのは白い衣を纏った若き天使。

彼はゆっくりと高度を下げながら、森というにはあまりにも悲惨な大地を見下ろし、驚きと懸念もあらわに眉根を寄せていた。

やがて翼を広げて軟着陸すると、まずは腰に提げた双剣を手に取る。それから、ぬかるみの中でも比較的乾いている場所を選んで歩き始めた。

 

あたりは、天使がやってくる前となんら変わりなく、耳が痛くなるほどに静まり返っていた。

霧の中、彼の歩くたびに小さく、泥の跳ねる音がこだまする。彼の履いているのはつま先の出ている古風な靴。今度は歩きにくさから少し顔をしかめ、時々足元を気にするような素振りを見せていた。

彼は歩きながら、誰かと話しているようであった。周りには誰も見当たらないが、霧に包まれた森の中、彼の口元は確かに誰かに語り掛けるような調子で動いていた。

 

木の幹に掌を当て、手についた煤を指の間で擦る。炭化した樹皮を割るようにして剥いで、火がどこまで回ったのかを確かめる。

そうしながらも、彼はあたりを注意深く見まわしていた。誰かを探しているようでもあったが、その視線がふと、何かを認めて一点に定まった。

途端に険しい表情になり、ぬかるみの中を駆けていく。泥濘にうち捨てられた剣や弓、沼地に沈んだ馬車、それらにわき目も振らずに走っていき、やがて彼は開けた地に出る。

 

いたるところに兵士たちが横たわっていた。

ある者は天を仰ぎ、ぽかりと口を開けていた。ある者は泥の中に突っ伏し、そしてある者は、鎧の背だけが沼の水面に浮かんでいた。

誰もかれもが、子供に気まぐれに投げ捨てられた人形のように四肢を投げだし、乱雑に転がったままぴくりとも動かなかった。

 

「どうして……」

金縛りから解けて、天使の口から最初に出たのはその一言だった。

首を強く横に振り、幾分気持ちを落ち着けてから、彼は続けた。

「……地上界でこんなひどい戦争があったなんて。この規模、昨日や今日始まったばかりの戦いじゃない」

行き場のない憤りにしばし口をつぐんでいたが、やがてうかがうような調子で顔を仰向かせ、こう尋ねる。

「……やっぱり、介入しちゃいけないんですよね?」

虚空から返ってきた答えは、彼の耳にだけ届いているようだった。予想通りの答えが返ってきたのだろう、彼は心の中で何事か抱いているような顔でありつつも、一つ踏ん切りをつけるように頷く。

周囲を見渡して危険のないことを確認してから、彼は思い切って彼らの元へと駆け寄っていった。

 

兵士たちはすでに息絶えて長いようだった。

それでも天使はわずかな期待に賭けるようにして一人の兵士の肩を叩き、背を起こして仰向かせたが、やがて悔し気に口を引き結んで首を振る。

亡骸を再び横たえさせ、別の兵に顔を向け――そこで彼は、ふと訝しげに眉をひそめた。

急に慌てたように、そばにいる兵士とあたりの兵士とを見比べ、うつぶせになっている者も起こそうと立ち上がりかけたところで、彼ははたと動きを止めた。

自分のものではない音が聞こえたのだ。

誰何する声がして、天使はその目を丸くして振り向く。

 

 

 

 

閉ざされた箱にも似た、少人数掛けの馬車。

窓というにはあまりにも細長く、みすぼらしい隙間が左右にあるのみ。

そんな息苦しくなるような箱に押し込められた青い髪の王族は、揺れる車内においても凛と背筋を伸ばしていたが、その顔はのぞき窓に向けられていた。

細長く切り取られた外の光景に気遣わしげな眼差しを向け、彼はじっと考え込んでいるようだった。

 

やがて馬の歩調が緩やかになり、ノックの聞こえた後に扉が外に向かって開かれる。

まず目に入るのは、十数人にもなる重装備の騎士たち。いずれもアリティアで好んで用いられる青色の鎧ではなく、象牙色の鎧に身を包んでいる。

しかし、そんな彼らの前に割って入るようにして馴染みの顔が、青い武装の兵士たちが戻ってきた。

「マルス様、リンビックの森に到着いたしました。間もなく部隊長が参ります」

自国のソシアルナイトの言葉に頷いてから、マルスは人垣の向こうに目をやった。戦の結果を、そして皆の様子を知ろうとしたのだが、しかしその望みは並み居る象牙色の鎧に阻まれてしまっていた。

 

ここからかろうじて見えるのは、冬の到来も待たずして葉を失い、やせ細った影のようになってしまった木立と、それらを白く曖昧に煙らせる霧ばかり。

それでも諦めずに目を凝らしているうちに、少し向こうで象牙の壁に動きがあって、やがて部隊長がやってくる。

同じく象牙色の鎧を着こんだジェネラル。年のころで言えばマルスの親くらいもあるだろう。そんな彼が、泥に鎧が汚れるのもいとわず、マルスの前に膝をつき、敬意を示して深々と頭を下げる。

それから、顔を上げた。その表情には隠し切れない疲れがあり、報告を聞く前から大体のことは予想がつくほどだった。

「申し上げます。リンビックの砦……奪還は為りませんでした。砦を目前にして森で接敵し、辛うじて撃退。わが部隊に戦死者は無し。しかし、多くの兵が重軽傷を負ったため、追撃はせずに留まることに……」

そこで部隊長は、悔し気に首を横に振る。

「斥候に予め調べさせたのですが、敵の総数はそれ以上に膨れ上がっていました。またしても、です……! 軍師どのの冷静な判断がなければ、どれほどの兵が失われていたことか……。ひとえに、私の見立ての甘さゆえです。敵の増援も予想して部隊を編成したつもりでしたが、はるかに不足でした。もし、勢いのまま攻め込むことができたのなら、かの地を取り戻すこともできたでしょうに……」

言葉の先は自らへの憤りに震え、食いしばった歯の向こう側に消えてしまった。

小刻みに肩を震わせる彼に、マルスは労うように言葉をかける。

「君はできる限りのことをやった。皆が生きて帰ってこられたのなら、それに越したことはない。また態勢を整えてここに来れば良い。連合軍は君たちを見捨てたりしない。これからも、イルーシアの民と共に戦い続ける。すべての地が君たちの元に戻るまで」

「かたじけない……次の戦いでは必ずや……!」

部隊長は、鎧を着込んだ恰好にできうる限りの深い礼をする。

 

 

部隊がとどまっているあたりには、間に合わせではあるが、歩きやすいように分厚い木の板が渡されていた。

重傷者の運び込まれた天幕を見回り、出てきたマルスを迎えたのは、部隊の中でも比較的怪我の浅い者たち。

色とりどりの鎧にローブ、背に翼を備えたものや獣の尾をもつもの、肌に紋様のあるものもいた。人数は少ないが、耳のとがったものもいる。

誰一人として同じ格好をした兵士はいなかったが、誰もが皆、最高司令官の到着を歓迎し、笑顔を見せていた。口々にマルスの名を呼び、安堵の表情を見せて敬礼をし、あるいは親しげに大きく手を振ってみせる。

彼らとの間は相変わらず、象牙色の護衛たちによって隔てられていた。彼らが油断なく周囲に目を光らせる隙間から、マルスはできる限り仲間たちに顔を見せようとし、手を振り返していた。

と、少し向こうで木の板を鳴らして蹄の音が近づいてきたかと思うと、前方の護衛達がにわかに騒がしくなった。

「通してくれ! アリティアのアベルだ!」

聞きなれた声にマルスや近くのアリティア兵も気が付き、周囲の護衛に危険が無いことを知らせる。

顔にこそ出さなかったが、マルスは何度も繰り返されるこのやり取りに内心では半ば呆れつつ、半ば同情もしていた。イルーシアの人々が覚えきれないほどに、連合軍の人員は膨れ上がっている、ということなのだろう。

護衛の壁が分かれて、緑の鎧の騎馬兵が姿を見せる。よほど急用なのか、彼は馬上から失礼します、と申し開きをしてこう尋ねてきた。

「マルス様、そちらに軍師どのはおられましたか?」

「いいや。まだ会っていないよ」

「そうですか……部隊全員に集まるように伝えたはずですが、そうすると軍師どのは……」

これを聞き、マルスの顔がさっと険しくなる。

「最後に彼を見た場所は分かるか? 僕が探しに――」

しかし、それを聞いた象牙色の護衛達にどよめきが走った。慌てた様子で互いに顔を見合わせ、かといって行動に出すこともできずにその場で身じろぎする。

そんな彼らの様子を見て取ったマルスは、表情を改めてアベルに伝えた。

「……悪いけれど、彼を探してきてくれないか」

「承知いたしました」

きっぱりと首肯し、アベルは手綱で馬の首を巡らせると、木の板の上を駆けていった。

 

 

 

仮設の野営地に蹄の音を響かせ、緑の騎馬兵が駆けていく。

拠点を遠ざかるにつれて、鎧を着込んでいてもなお肌にしみこんでいくような、冷たい湿気と静けさが押し寄せてくる。

やがて間に合わせの舗装がなされた地域を過ぎてしまい、騎馬兵は馬をその場に待たせてから徒歩で湿地帯に踏み入っていく。

彼の足取りは自信に満ちており、果たして、彼の一心に見つめる先には今回の部隊を知略で支えた軍師の後ろ姿があった。

 

金色の刺繍が施された黒紫色の軍服、白銀色の頭髪。

「ルフレ様!」

アベルの声に、はっと背筋が伸びる。彼は手にしていた何かを懐にしまうと、改めてアベルの方に顔を向けた。

軍師に目立った怪我のないことを見て取りつつも、アベルはこう問いかける。

「ご無事ですか?」

「……ああ、なんともないよ」

どこか上の空といった様子で、彼は答えた。

「何か、気になることがあったのですか」

その問いかけに、ルフレは曖昧な返事をして、ふと遠くを見やった。

アベルも同じ方角を見たが、そこには霧と、炭化した木立があるばかりだった。

ややあって、ルフレはほとんど独り言のような口調でつぶやいた。

「連合軍では見かけない姿だった……でも、新生帝国軍とも違う。

あの顔……僕は、あの顔をどこで見たんだ……?」

 

 

 

 

イルーシア王国。

アカネイア大陸南部、ドルーア地方に位置する比較的歴史の浅い国である。

陸続きでその南には、かつて暗黒竜メディウスの統べる"第一次"ドルーア帝国が存在していた。

だが、時はアカネイア歴525年。アリティア建国の祖である青年アンリによってすでにメディウスは倒され、アカネイア大陸を席巻していた帝国のマムクート――竜族たちもまた同じ運命をたどっていた。

イルーシアが建国されたのは、アカネイアの地が人間の手に戻ってから30年近くが経とうとしている頃だった。かつての宗主国の生き残りアルテミス王女が復興させたアカネイア王国で、王位継承争いが起こった。敗れた王族の一人がすんでのところで幽閉を免れ、わずかな血族と騎士、従うことを選んだ民とともに安住の地を求めて旅をし、見つけ出したのが高い山脈に細々と横たわるイルーシアの地、そして現在の王都ストライアとなる死火山の頂だった。

イルーシアは山間の小国である。高山地帯と湿地帯が国土の大半を占め、とりわけ王都周辺は複雑に入り組んだ急峻な山々が連なるために、ペガサスや飛竜をもってしても攻略は容易ではなく、攻め込みにくさだけは随一だった。しかし、その険しい地理のせいか、これまでの歴史で人の手が入ったことの無い地でもあり、決して暮らしやすい土地ではなかった。特に、ドルーアを指呼の間に臨みながら、遥かな昔から今に至るまで竜族が立ち入った形跡もなく、先の暗黒戦争でも帝国に見向きもされなかったことから、俗に『人間からもマムクートからも顧みられなかった地』とも呼ばれるほどだ。

それでもイルーシアの民は工夫によって山岳地帯を開墾し、牧畜と農業によって細々と暮らしていた。初代国王の血筋も、75年もの歳月をかけて地道に血族と領土を広げ、各地に城塞を構えて臣下に統治を委ね、民に庇護を与えていった。

そんな慎ましやかな国に、ここに来て不運が襲い掛かった。

 

マルスを盟主とするアカネイア連合王国が成立し、各同盟国でも復興が順調に進められていた頃、突如として"新生ドルーア帝国"を名乗る勢力が暗黒竜の名の下に結集し、アリティアめがけて侵攻を開始した。

かつてアカネイア南部で帝国を興し、人間の国々を圧倒的な力で征服し、人々から『暗黒竜』と呼ばれ恐れられたメディウスは、長命なことで知られる竜族の中でもひときわ強靭な生命力を有する地竜族の王だった。

ファルシオンを携えたアンリによってひとたびは討たれたものの、彼はその後実に二度にわたってよみがえっている。一度目の復活には100年の歳月が掛かったが、二度目は闇の司祭ガーネフの手によってわずか数年で蘇生し、あまつさえ暗黒竜としての真の力を解放するに至っている。

だが、アンリの血を引くマルスがこれを二度までも退けた。ガーネフ亡き今、もはやメディウスを生き返らせる術は何処にも存在しないはずだった。

 

死の間際、メディウスはこう言い残してもいた。人に負の心がある限り、地竜族は何度でも甦ると。

 

新生帝国が本当にメディウスを生き返らせたのか、それとも意図的な宣伝戦略として騙っているだけなのかは分からない。

しかしメディウスの名は、暗黒戦争とそれに続く英雄戦争、二度に渡る大戦の悪夢から醒めやらぬ人々を恐怖に陥れるのには十分だった。

そしてまた、新生帝国軍が寄せ集めの兵士とは程遠く、執念深く戦い続ける様も、何か確固たる旗印を戴いていることを示唆していた。

復讐に飢えた新生ドルーア帝国。最初の獲物とされたのは、帝国の針路の先にあった北部の隣国、イルーシア王国であった。

 

 

イルーシアから火急の知らせが届いたとき、マルスは同盟国を救うべく、すぐさま連合国の軍を率いて海峡を渡り、イルーシアに向かった。

王都ストライアに辿り着いたとき、イルーシアの国民は涙を流して喜んだ。待ち望んでいた救いが来ただけにしては、彼らの顔にはあまりにも悲痛な哀しみと、妙に切実な願いが込められていた。王城に迎えられたマルスはじきに、彼らの顔にあった感情の理由を知ることとなる。

 

マルスが通されたのは応接の間ではなく、王族の居室だった。そこで待っていたのは、寝台に横たえられ、息も絶え絶えとなった老王の姿。

側近が声を抑えて伝えたことには、今から遡ること数日前、巧妙になりすましていた新生帝国の者に城内で騙し討たれ、深い傷を負わされたのだという。

彼は明確に言葉にしなかったが、その表情は老王がもう長くないことを言外に伝えていた。

 

ただでさえしわの多い老王の顔は、すでに血の気を失い、古びた羊皮紙のように力なくしぼんでいた。

側近が枕元に跪き、マルス達の到着を告げると、閉じられていた目がゆっくりと開く。瞼を震えさせながら、ようやくのことで瞳を連合王国の長へと向ける。

「……おぉ、マルス殿……。よくぞ参られた……。ほ、ほ……アカネイアの英雄、スターロードを前にして、寝たままとは情けないのう……」

そう言って、老王は眉をしかめながらやっと、微笑んでみせた。心配をかけさせまいとしたのだろう。しかし誰の目から見ても、老王が最後の力を振り絞り、連合王国軍の到着まで何とか気力で命を繋いできたのは明らかだった。

部屋の隅では気持ちを安らがせるような香が焚かれ、室内は暖炉によって暖かく保たれていた。寝台の周りには、象牙色の装束に身を包んだ重臣たちが集まり、誰もが沈痛な面持ちで首を垂れていた。

そんな中、瀕死の王にできるだけ負担をかけないよう、マルスは目線が合う位置まで傍に寄って片膝をつく。そんな彼の姿をぼんやりと眺め、老王はこう切り出す。

「マルス殿……どうか一つだけ、頼まれごとを聞いてはくれぬか……?」

意識を保たせようとする彼の努力とは裏腹に、次第に、その息が浅くなっていく。

「わしは……子を授からぬまま妻に、先立たれ……世継ぎがおらぬ。初代国王、直系の子孫は……もはや、わしで最後……」

残りわずかとなった命の雫が少しずつ、こぼれ、滴り、失われていく。

「どうか……どうか、わしに代わってこの国を、守ってくだされ……。奪われた、地を、再び民の手に……。この国の未来を……アカネイア連合王国に…………」

その言葉を最後に、王の瞳から光が、静かに失われていった。

 

 

王国の心臓部で、あろうことか王を討ち取られてしまったイルーシア。

重臣から末端の兵士に至るまで、ことごとくが深い悔恨に苛まれていた。

そのせいだろうか、王の死とほぼ入れ替わるようにやってきた連合王国の盟主に対し、彼らはじきに過保護と言えるほどの警護をつけるようになっていった。

最初は前線への出陣に、重臣たちからあからさまな渋面を向けられたり、翻意を懇願される程度だった。

直近の戦争で臣下がそれぞれに成長を遂げたのもあり、またイルーシア人たちの心境も察するに余りあるものがあり、マルスは譲歩を続けていた。

しかし提案を受け入れているうちに、気づけば、ほとんど王城の一角に幽閉同然の状態で押し込められるようになってしまった。

 

アリティアの臣下と話すのでさえ、まずは扉の外に立つイルーシアの警護兵に話をつけ、呼んできてもらわねばならない。

戦略会議も彼の部屋で開かれる有様で、気分転換に城内を散策することさえ許されない。正確にはこちらが折れるまで延々と、考え直すよう説得されてしまう。

さすがに辟易した彼はある日、『今日こそは』と人目を忍び、あてがわれた部屋の窓から脱出を図る。市民の話を聞き世情を把握するため、お忍びで城下町を見に行くつもりだった。

屋根を伝い、降りられる場所を見つけて庭に下り立つも、しかしそこでたちまちイルーシアの兵士に見つかってしまう。

彼らのうろたえぶりを、青ざめた顔を見て、マルスはすぐに脱出を試みたことを後悔した。

『いくらあなた様がアカネイアの英雄でも、不死身の超人ではないのです!

陛下にもしものことがあったら、この国だけではない、連合王国そのものが終わってしまう!』

若い兵の一人が顔を引きつらせ、声を上ずらせてそう言ったかと思えば、それを慌てて叱りつけつつも過去の惨事を思い出し、うろたえた様子を隠せない兵士もいた。

彼らの目にあるのは暗く濁り切った不安と恐れの感情。そしてその顔にあるのは、親とはぐれ、怯えた子供のような表情。

かつてイルーシアの王を守るために誓いを立てたであろう彼らの前で、いとも簡単に暗殺者は王の命を奪っていったのだ。

彼らの抱える傷をあまりにも軽く見積ってしまっていたことを痛感し、マルスは『自分も身勝手なことをしてしまった』と謝ったのだった。

 

 

そういった事情から、以降マルスはほぼ王都にとどまって連合軍へと指示を下すことになる。

 

まずは新生帝国軍に奪われたイルーシアの地を奪還し、それから敵軍の本拠地に進軍する。それに掛かる時間は長くとも半年以内と見積られていた。

新生帝国は戦いの狼煙を上げたばかりであり、小国イルーシアが占領されたのも王都から程遠い国境沿いの砦や城塞のみ。したがって、二度の大戦を生き抜いてきた精鋭部隊で電光石火の攻撃を仕掛ければ、瞬く間に領地を取り返せるはずだった。

しかし、大戦を経て学んだのはこちらばかりではなかったらしい。

新生帝国軍は、ひとたび敗走すると周辺の山野に身をひそめ、こちらが他の地域に進軍する時機を狙って再び砦を奪い返してしまう。またどこから人員を募っているものだろうか、こちらが退けるたびに相手の規模は徐々に膨れ上がっていく。それを繰り返されるうちに、あろうことかじりじりと支配地域を広げられつつあった。

一方で連合王国側にも次々と援軍が加わっていった。最初こそ、長引くドルーアとの戦いを聞きつけたかつての戦友や、一線を退いていた臣下がやってきた。だがいつのころからだろうか、最近ではそのほとんどが、マルスも名前を知らない国や大陸からやってきた者ばかりになっていた。

 

『アカネイアの地に平和を』という一つの目的のもとに団結した連合軍の士気は、一進一退を繰り返すばかりの陣地においても揺らぐことはなかった。

しかし一方で、これほどの大所帯となった連合軍が駐留するイルーシアの民は長引く戦いに倦み疲れ、次第に軍から距離を置き、視界に入れまいとするようになっていった。

それを前線に出た臣下から知らされていたマルスは、イルーシアの重臣たちに幾度も掛け合ってなんとか外遊の機会を設け、さらにそこから無理を言って、戦いの終結した部隊への慰労に出向くようにしていた。連合軍の士気を保つと同時に、周囲に暮らす領民に対し、同盟国のどこであっても盟主は等しく気に掛けていることを伝えようとしたのだ。

今のところは、交渉に苦労した割に目覚ましい効果は得られていない。だが、それも無理もないことだった。

外遊で目にするのは、度重なる争いによって荒廃した大地、もはや実りの期待できない畑を前にして、鍬に顎を持たせかけ俯く農民たち、まばらに生える草をたどってとぼとぼと歩いていく羊たち、そして、扉も窓も固く閉じられた村の家並み。それでも彼は頭領たる者として、強いて自分の信念を貫き、希望を持とうと努めていた。

 

 

 

王都、ストライア。

火山活動によって太古の昔に形成された円形の窪地に位置し、ほぼ四方を覆う切り立った崖が、都市を覆う天然の城壁となっている。

王城は中央の小高い丘に構えられ、天気さえ良ければ街を一望することもできるはずだが、今見えるのは、濃霧の海原から辛うじて顔を出す屋根ばかり。秋も暮れに近いこの時期は低地で南部からの湿気と北部からの冷気がぶつかり合い、霧が発生していた。王都は山岳地帯に位置しているのだが、不運なまでの風向きのせいで低地から運ばれた霧が外輪山を乗り越えて王都に注ぎ込み、市街地には重苦しい湿気を含んだ霧が立ち込めていた。

 

 

乳白色の霧は至る所の路地に入り込み、昼間だというのにあたりを一層薄暗くしていた。

ひとけはなく、露天商も早々と店じまいをしてどこかに姿を消し、路地に残るのは軒先に背を預け、顔を俯かせた物乞いばかり。

たまにみすぼらしい楽器を抱えた者もおり、聞くものもいないのに弦を弾き、誰に聞かせるでもなく歌を歌っていた。あるいは、歌わずにはいられなかったのかもしれない。傍にいる物乞いも、背を丸めているだけのように見えて、その実うつむいたまま、彼の歌にじっと耳を澄ましているのだった。

 

薄曇りの空の下、石畳の上を歩いていくのは痩せこけた犬がただ一匹。

2、3階建ての建物はいずれもみな窓を固く閉じ、王都を包む霧の中に溶け込んでしまおうとしているかのよう。

いつもはもう少し人出もあり、露店も開かれているのだが、この日ばかりはあまり住民が外に出たがらない理由があった。

 

 

王都の城館が建つ丘のふもと、城壁都市の中でもひときわ大きな広場。

白いレンガの敷き詰められたこの広場では、イルーシアの歴史において様々な式典や祭礼が開かれてきた。建国の祝祭、春の訪れを感謝する祭、一年の豊穣を分かち合う集まり、そして年の終わりを締めくくる厳かな祭典。

しかし、新生帝国軍による侵攻を受けた日を境に、王都の住民は季節の節目を祝うだけの心のゆとりを失くしてしまったようだった。近頃では、広場はもっぱら、ただ一つの目的のためだけに使われるようになった。

戦争の式典。すなわち、連合軍の出征式、そして凱旋式である。

 

その日も、王都の広場には出陣を控えた兵が集まり、整然と並んでいた。

集団の一歩前にはこの部隊の長がいた。翡翠色の髪の下、真剣な顔つきで背筋を伸ばし、最高司令官の言葉にじっと耳を傾けていた。

部隊長が背に携える槍の威容も、武具やマントに施された刺繍も、彼が並みならぬ地位にあることを示していた。

 

今や、『連合軍』はその由来となった連合王国だけでなく、アカネイアと新たに同盟を結んだ国や集団も加えて一大勢力となっていた。

肌の色も、髪や目の色も違い、そればかりか人間とは異なる種族の者たちも混ざりあっている。それほど多様な集団でありながらも、彼らはこの地に平和をもたらすべく、団結して戦ってきた。それは、この地でかつて人間とマムクートとの間に熾烈な戦いが繰り返されたことを思えば、かけがえのない、奇跡的な絆であった。

本日出発する部隊に編成された兵士たちの目にも、自らの命の全幅を互いに預けあうような、ゆるぎない信頼の炎が灯っていた。

 

連合王国の盟主だったところから、そのまま連合軍の最高司令官を任されることになったマルスだったが、今日の日まで対立らしい対立が起こらなかったのは自分が誇るべき成果ではない、と考えていた。

霧を抜けてイルーシアの地を訪れた異邦の人々。その集団にはいつも、統率する長であったり、精神的支柱となる人物が伴っていた。混成部隊の士気を保っているのはひとえに、『自分が忠誠を誓った人もまた、この地で共に戦っている』という、純粋な信頼なのだ。自ら前線に出て、この国のために果敢に戦う彼らの存在は、仕えるべき国王を喪ったイルーシアの騎士たちにとっても励みになっているようだった。

この日もマルスは、ひとしきり彼なりの言葉で鼓舞激励の演説を終えると、部隊に歩み寄り、今回の部隊長を引き受けてくれたルネス王エフラムに、そして彼の傍に控える双子の妹、エイリークに改めて感謝の念を伝えていた。

 

部隊は大路を降りていき、高曇りの空の下に足音を響かせながら城門をくぐっていく。

マルスは、彼らの姿が霧の中に煙り、すっかり見えなくなるまで見送っていた。

それからようやく、ほっと緊張が解けたように一息をつく。次期国王たる者として、アリティアで生まれ育った頃から王とはかくあるべきという心得を細事に至るまで教わり、また実践してきた。だが、アカネイアの内海に浮かぶ小国の王子に、これほどまでに規模の大きな諸国連合の長を任される未来が待っているとは、いったい誰が予想し得ただろうか。

 

マルスはそのまま、ちらと広場の周辺に目をやった。

今日も、見物に来る住民はいなかった。部隊が出立した今、がらんと広いばかりの広場にいるのは自分とアリティアの兵士が数名、そして、これだけの人数を守るにしてはやけに数の多い、物々しい鎧を着込んだイルーシアのアーマーナイト達。

 

かつては城下の民も、連合王国軍が出征式を執り行うと耳にするや否や、広場の辺縁を埋め尽くさんばかりにして集まり、国旗やハンカチを振って熱狂的に見送っていたものだ。しかし、それが度重なるうちに少しずつ熱は冷め、今では誰一人として見に来る者も、足を止めて眺める者もいない。

それを改めて思い返し、マルスは我知らず眉を曇らせていた。

イルーシアの騎士たちはともかくとして、その他の国民にとって自分たちは所詮よそ者なのかもしれない。さほど地力もない国に、これほど長引く戦争はただの負担にしかならないのも確かだった。

近頃では、王都に住まう民は意図的に連合軍との接触を避けようとしていた。その様はまるで、戦いが終わらない状況の説明を新生軍から、徐々にこちらへと向けているかのようにも思える。

この国の民がよほど忠義に篤い人々でもない限り、本来の王を失った今、命を危険にさらしてまでイルーシア王国という肩書に固執する理由はない。第一、自分たちの糧を削ってまで、いつまでもよそ者に食料や生活必需品を分け与えられるほどこの土地は豊かではないのだ。

そして今は、そこに『恒常的な争乱』という苛烈な負担が重くのしかかっている。

先日リンビックの方面まで外遊した際も、自然と民とに等しく戦争の傷跡が残っている様を見せつけられた。

かつてあの地は美しい湖沼が広がり、魚や水鳥でにぎわう豊かな湿原だった。だが今は、見る影もない。

新生ドルーア帝国は、イルーシアに占領すべき土地としての価値を見出していないのだろうか。彼らは、城塞さえ奪えるのなら森に火をつけ、何の罪もない村を襲撃して穀物を奪い、田畑を踏み荒らしながら進軍し、家畜を片っ端から殺して糧にし――そういった所業を平然とやってのけるという。

連合軍と新生帝国との間に張り巡らされた戦線を俯瞰すると、膠着状態と評される状態が延々と続いている。しかし今のところは、しびれを切らして寝返る砦や、ドルーアに庇護を求める農村、連合軍の妨害をする市民は出てきていない。

そこには多分に、『帝国に征服されるよりはまし』という消極的な理由があるだろう。そうだとしても、目を背けられるくらいで済んでいるのをありがたいと思うべきなのかもしれない。

 

 

人通りのない大路を眺めつつ、そう考えていた時だった。

静けさに満ちた広場の向こうで、にわかに怒気をはらんだ声が上がった。

 

イルーシアの衛兵よりも、マルスの判断の方が早かった。

「――フレイ、ノルン、一緒に来てくれ」

傍らの自国の兵二人に声をかけると同時に走りだす。

「はっ」「はいっ!」

壮年の騎士と年若い弓兵がそう応えて駆けだしたその後ろで、ようやく、慌てたように鎧をがちゃがちゃ言わせてイルーシア兵も動き出した。

「お、お待ちください、陛下!」

「危険です! お戻りください!」

そうは言うものの、それはほとんど意味をなさない忠告だった。

先ほどから聞こえているやり取り、人数はそう多くはない。二、三人程度が何者かを罵っているような気配だ。また声の調子から言って、不審な者を咎めるというよりは、やり場のない不満を哀れな犠牲者にぶつけているような荒々しさがある。したがって向こうにいるのは、イルーシアの衛兵たちが常々警戒しているような敵軍の回し者ではない。

 

 

家臣を伴って角を曲がった先、数人の人影が目に入ってきた。

軒先に、象牙色の武具を身に着けた軍人が二人。軽装であり、王都を巡回する警備兵の印を身に着けていた。

そして片方の兵士の手には、小ぶりな弦楽器の柄が握られていた。

彼らが肩を怒らせてにらみつける先、地面にはみすぼらしい格好の若者が倒れている。よれよれの帽子に上着。ズボンからのぞく足は片方が棒のように細く、よく見ればそれは、木製の義足であった。

義足の若者は片腕を楽器の方に差し伸べ、返してくれと頼み込んでいる。兵士は聞き入れようともせず、それどころか今にも地面に叩きつけ、割ってしまいそうな気配も感じられた。

「何があったんだ」

イルーシアの武具を着た背中が、訝しさもあらわに振り返る。

彼らの顔には未だに盲目的な怒りが残っていたが、声をかけてきたのが最高司令官であることに気が付くと泡を食って後ずさり、敬礼をした。

いつまで経っても、どちらからも言葉が出てこないので、マルスは少し声を落ち着けてもう一度尋ねる。

「何があったんだい。さっきの言い争いは、君たちだったのか? そして、この人は?」

「……は、はっ! 我が国の、面汚しでありますっ……!」

上ずった声で兵士が答えた。

あまりにも強い言葉。マルスは何かを言いかけてやめ、改めてこう促した。

「まず、その人に楽器を返してやってくれ。その楽器は彼の物なんだろう」

連合王国の盟主が見ている前では乱暴なふるまいなどできるはずもなく、兵士は楽器の柄を持ったまま、胴の部分をぶっきらぼうに義足の男に差し出した。男はいざり寄って身を起こし、慎重に楽器を受け取る。

その時、帽子の陰から現れた彼の顔立ちにはどこかで見覚えがあった。

「君は……ベルミスの砦の」

その地名を聞き、義足の若者は目を丸くして顔を上げた。彼の顔には、恐れと喜びの入り混じった複雑な表情があった。

「お、恐れながら、陛下……もしやあの戦いのことを」

「……覚えているとも。そして君は、あの戦いで唯一生き残った兵士だね」

そう返した王の顔には、沈痛な陰りがあった。

 

それは、今のように熟練の戦士が十分にいなかった頃。

短期決戦を目的とし、数少ない先鋭部隊は激戦地に集中させ、少しの休息を挟みつつ矢継ぎ早に転戦し、敵の補給路を次々に断たせていった。そうしてイルーシアの勢力内に孤立し、弱ってきた敵軍との戦闘は、イルーシアの兵士たちに任せていた。

この時、敵軍に奪われていた城塞の数は片手で数えるほどしかない。したがって短期決戦は理にかなっており、効率的で確実な戦略であった。

だが、ベルミスの砦を奪還しに向かったイルーシアの兵が見たのは、それまでのように兵糧攻めで息も絶え絶えとなった敗残兵ではなく、ドルーアの旗を堂々と掲げて待ち受ける、こちらの部隊の10倍にもなろうかという数の新生帝国軍だった。

 

残された亡骸の様子から見て、イルーシアの兵たちはほとんどが恐慌をきたし、まともに交戦することもできずに次々と討ち取られていったと考えられている。

ただ一人生き残った、田舎出身の新兵。戦い慣れない彼は味方の大混乱にまごついているうち、敵の剣士から脛の骨に届くほどの深手を負い、その痛みで失神してしまった。他の兵士の遺体に紛れて地面に倒れ伏した彼を、ドルーア兵はすでに息がないものと思ったようだ。

夜になってようやく目を覚まし、彼は冷たくなった仲間の亡骸が横たわる中、血にまみれた足を引きずって砦の前から逃げようとした。しかし、負傷した身では近場の森に逃げ込むのがやっとだった。その後、異変を知った連合軍が砦を奪還しに来るまで、彼は沢の水で渇きをいやし、森の木の実や野草で食いつないでいたという。

服を割いて足を縛り、止血することまではできた。森には傷に効く葉や実もあったかもしれない。だが彼には薬草に関する十分な知識がなく、それ以上の処置はできなかった。やがて脛の傷から病毒が入って高熱を出してしまい、助けが来る頃にはもはや、足を切断せねばならなくなっていた。

 

孤立していたはずの砦に待ち受けていた、常識はずれの大部隊。遠く離れた場所に人を送り込む術としては"ワープ"の魔法があるが、それにしても普通なら一度に一人を送るのが精一杯だ。それ以上の規模で人を移動させられる魔法ともなると、大司祭ほどの熟練者でなければあり得ない。しかし、新生帝国は現にそれをやってのけた。

あれから歳月が流れたが、いまだに、新生帝国軍がどのようにして増援を送り込んでいるのかは明らかになっていない。彼らにしか分からない地下の抜け道を通っているのか、それとも周囲の山林に身をひそめているのか。

ここ最近は偵察行動を得意とする選りすぐりの先鋭を集め、王都周辺から敵陣のすぐ手前まで、国内中をくまなく調べさせている。しかし、なかなか色良い報告は上がってこない。このため、新生帝国は何かしらの転送魔法で直接、物資や軍隊を送っているのだろうというのが有力な説になっている。

いずれにしても、例え他の部隊から孤立しているように見えたとしても、増援や補給の可能性を除外してはならない。拠点を取り返し、戦が完全に終結するまでは。

連合軍がそれを学ぶには、『ベルミスの戦い』はあまりにも手痛い敗戦となった。

 

「君。国からの手当は……?」

マルスは若者に尋ねたが、それに答えたのは二人の兵士だった。

「陛下。この臆病者は一人も倒さなかったのです。ただの一人も! そんな奴に手当など、渡すはずがないでしょう!」

「それどころではありません、こいつは毎日のように、戦いを批判する歌を歌っていたのであります。我々がいくら警告しても、また次の日になると王都にやってきて同じことを繰り返すのであります! 『英雄がこぞって煌びやかな武器を掲げたとして、屈強な戦士がいくら徒党を組んだとして、戦いは一向に終わる気配がない、いったいいつになれば平和が戻るのか』と!」

うんざりするほど聞かされた、という様子だった。実際、これほど批判していながら、歌の細かいところまでを覚えているようだった。

これに対し義足の若者は何も言わず、ただ口を震わせて楽器を抱き、地面の一点を見つめていた。

彼の代わりに、マルスは二人の兵士を真正面からじっと見返し、こう聞いた。

「……それだけかい?」

その静かな気迫に、兵士たちは気おされたように黙り込んだ。

彼らの目を見つめたまま、王は静かな口調で続ける。

「ベルミスの戦いは凄惨を極めた。ほとんどの亡骸が、うなじや背に傷を受けていた。つまり、逃げ出そうとしている時に切り伏せられたということだ。彼のような新米の兵ばかりじゃない。老いも若きも、立派な鎧を身に着けた騎士たちも、そして部隊長も。皆同じだったんだ。年齢も練度も関係ない。誰もがそうなってしまうような戦いだったんだよ」

『君たちはあの部隊の全員を、臆病者と呼ぶのか?』

言外に伝えられた問いかけを察し、兵士たちはきまり悪そうに顔を見合わせた。

「それに歌にしても、事実は事実だ。本当のことを言っている人を、個人的な感情から気に食わないというただそれだけで罰するのなら、いずれ国民の誰もが君たちを恐れて何も言わなくなるか、君たちに守られることを拒否し、従うことを拒絶するようになるだろう」

その言葉に、彼らは初めて周囲の様子に気が付く。

マルスに追いついていたイルーシアの衛兵たちが王の傍らに立ち、兜の下から咎めるような目つきを向けていた。

そしていつの間にか、周りの建物の窓も薄く開いていた。通りに面した窓の全てから、市民の物言わぬ瞳が、じっと兵士たちの顔に注がれているのだった。

二人の兵士は市民を見上げ、つい反射的に、こぶしを振り上げて叱りつけようとし、上官と王の前であることに気づいてそれを止めた。

行き場を失った握りこぶしを下げ、

「……おい、命拾いしたな!」

負け惜しみのようにして義足の若者にこう言い捨てると、そそくさと走り去っていった。

 

兵士たちが去っていった方角を見つめるマルス。その顔にあったのは憤りではなく、憂いだった。

負傷兵には渡すべき手当もなく、物乞いのまねごとをするか、少しでも心得のあることで日銭を稼ぐしか生きていく道がない。

兵士たちの間にはああいったやり場のない怒りがふつふつと煮えたぎり、些細なことで爆発してしまう。

イルーシアにはもはや、それを防ぐだけの金銭的余裕も、精神的余裕も残されていなかったのだ。

それを思いつつ、マルスは義足の男の傍らに跪き、携えていた袋から貨幣を1枚引き出して彼の手に載せる。

「君。これは歌へのお礼だ」

それから、後ろの衛兵たちには聞こえないように声をひそめ、こう続ける。

「君は戦で足を失った。けれども、正当な手当てを受けていないだろう。あとで部下に残りを届けさせる。それほど多くはないが、アカネイアからの手当てだと思ってくれ」

「あ、あ……」

予想だにしていないことに、若者は陸に上げられた魚のように口をぱくぱくさせるばかり。

王はさっと立ち上がり、控えていたフレイとノルンに、こういった兵士が他にもいないか、王都にいる皆で手分けして調べるようにと小声で耳打ちする。紺髪の騎士と赤い髪の弓兵はそれに応えて頷く。

そうしてその場を立ち去ろうとしたところ、

「陛下……」

その声にふと振り返ると、義足の男が顔を上げていた。

先ほどまでびくびくしていた彼が、打って変わって真剣な表情をしている。そのことに気づき、マルスは頷いてその先を促した。

彼は見えない何かを恐れるように口を震わせながらも、こう切り出す。

「おれは……いえ、私は見たのです。あの戦場で……その……」

その視線がふと自信を失い、足元をさまよう。

「――前の戦いで、上官殿が確かに倒された兵士たちが……同じ顔をした兵士が、何事もなかったようにあの地に……ベルミスの砦にいたのです」

「それは、確かかい?」

マルスが注意深く尋ねると、それを不信と受け取ったらしい。若者は途端に顔を上げた。

「本当です! 忘れられるはずもありません……!」

そうしてほとんど必死に、すがるようにしていざり寄る。

「敵とはいえ、人が死ぬのを……殺されるのを見たのはあれが初めてだったのです。それを、どうして忘れることができましょうか! もしも私に絵が描けたのなら、ここで描いてみせることだってできるはずです……!」

マルスの足元にしがみつこうとするので、イルーシアの衛兵達が慌てて出てきて彼を引き離す。両腕を持ち上げられ、その身を引きずられながらも、彼は声を張り上げてこう続けていた。

「陛下、敵は普通の人間じゃありません! マムクートでもない……そんな違いだって気にならないほどの化け物です! 奴らは、不死身なのです……!」

 

 

 

義足の若者が必死の形相で伝えた言葉。それは翌日になってもマルスの耳に残り続けていた。

 

戦略会議などのある日を除いて、彼はほぼ毎日のように王城内を巡り、英気を養っている連合軍の様子を見て回ることを日課としている。この日もアリティアの家臣を伴い、イルーシアの護衛に取り巻かれて城内を巡回していた。

何ともない風を装ったつもりだったのだが、自分の幼いころからを知る老軍師ジェイガンには内心の曇りを見抜かれていたらしい。

長い廊下に差し掛かり、周りに人がいなくなった頃合いで、彼の方から声を掛けられた。

「マルス様。何か気がかりなことでも見つけられましたかな」

すでに一線を退いて年月も経っているが、白髪頭の下から覗く瞳は依然として、騎士団長だった頃と変わらぬ鋭さを保っている。

「ああ、それが……」

と言いかけたところで、ジェイガンはすでに話の方向を大方察し、傍らのイルーシア兵たちに場を離れるように目で指図する。

イルーシアの護衛達も、さすがに相手がアリティアの重臣となれば異論を唱えることはない。それでもこの日は珍しく、ためらうような間があった。どうしたのだろうと気にかけたマルスが声を掛けようとした矢先、護衛達はやがて黙って二手に分かれ、廊下の前後につく。

 

彼らが十分に離れて持ち場についたところで、マルスは再び口を開いた。

「――昨日、城下の街で気になることを聞いてしまってね……。ベルミスの戦いを生き残った、あの若者。ジェイガンは覚えているかい」

「覚えておりますとも。その者の近況も、昨夜フレイから聞いたところです。なんとも、痛ましいことですな……」

ため息とともに彼は目を伏せ、首を横に振った。

イルーシアから正式な統治権を渡されていない以上、現地の領民に対して連合王国ができることは限られている。税の使い道は現在、この国の元老院が決めた方針により、その殆どが軍事に当てられている。そのため連合王国はせめて駐留している間はと、なるべくイルーシアから食品やら衣類やらを買うようにはしているが、そもそもこれほど小さな国では、駐留部隊が買い取れる物品といってもほんのお情け程度の量なのだった。

ジェイガンに頷いて同意を示し、それからマルスはこう切り出す。

「彼はね……あの戦いであり得ないものを見たと言うんだ。前の戦いで倒れたはずの兵士が、全くの無傷でベルミスにいたのだ、と」

これを聞き、老軍師はしばらく黙ってマルスを見ていた。

心の内では様々なことを考えているようであったが、やがて、こう問いかける。

「あなた様は、それを信じられますか?」

「……迷っている。戦場においては、人は時にありもしない幻を見て恐慌をきたし、無害な音に怯え、戦意を喪失してしまう。

とりわけあの若者は新兵だ。怪我もしていたし、失血で朦朧とする中で幻覚を見たのかもしれない。

それに第一、彼よりはずっと意識のはっきりしている連合軍の皆は、今までそういったものを目にしていないんだ」

「それでも彼の見たものを、ひと時の気の迷いと片づけるのは可哀そうではないか……と」

「あれだけ真剣な眼差しを向けられたらね……。それに、もしも仮に新生帝国軍がそういう手立てを持っているのなら、イルーシアの各地で繰り返し起きている、勢力の異常な膨れ上がりにも説明がつく。死者を甦らせるオームの杖、新生帝国はついにその仕組みを解き明かしたのかもしれない」

マルスがそう仮説を立てたのに対し、ジェイガンは慎重だった。

「それも然り。ですが、ガーネフ亡き今、左様な手立てを知る者は果たして現れますかな」

王は、自分が決めかねていることを沈黙によって示す。それを見て取ってから、ジェイガンはこう切り出した。

「マルス様。ここには幸いにして、アカネイアの外の者たちが集まっております。彼らの住まう国でそういった術があるのか否か。尋ねてみるのも一つの手かもしれませんぞ」

「なるほど。そしてあなたが言いたいのは、霧の外から勢力を迎え入れているのは、僕らの方だけじゃないかもしれない……そういうことだね」

「その可能性も、考えねばなりますまい」

「……分かった。だとすれば、あまり話を広げない方が良いな。僕の方で、ごく限られた人に尋ねてみるよ。まだ仮定の話だと言っても、『新生帝国には蘇生の術があり、異国の勢力を受け入れている』なんて到底冷静に聞ける話じゃない。あまり事を大きくすると、瞬く間に尾ひれがついて広まり、イルーシアは一瞬で瓦解してしまうだろう」

これに対して同意するように、ジェイガンは黙って首肯を返した。

新生帝国のこれまでの異様なしぶとさを改めて思い返しながら、マルスは廊下の外側を、窓の外を見やる。

「皆からの報告では、新生帝国軍の戦いぶりからはほとんど作戦らしいものが感じられないという。ただ数の力に任せ、圧倒するばかりだと。……少なくともドルーアに加わった異邦の民には軍師と言える人はいないんだろうな」

「今はそうでしょう。しかし今後はどうなるか分かりませんぞ」

これを聞き、マルスは少し困ったような笑みを返した。

「おどかさないでくれ。ただでさえ僕は、この戦いを終わらせられずにいるんだから。それも、これだけの勇士に恵まれているというのに……」

そう言ってから彼はふと眉を曇らせ、再び窓の向こうに目を向けた。

行きかう連合軍の人々を眺めながら、彼は心の中で仲間たちの出身地の名を思い浮かべていった。

リキア、クリミア、イーリス、フォドラ――

いずれもアカネイアでは聞いたことがなく、その外にある大陸の何処かにある地や島の名前なのだろう。そして彼らはその腕前と人柄からして、きっと故郷では勇猛果敢な戦士、誠実な貴族、そして皆の模範となる王族として褒め称えられているはずだ。

ある日、イルーシアを取り巻く霧を越えてやってきた彼らは、連合軍とこの国の境遇を聞いて迷わず、共に戦うことを選んでくれた。

次の戦いに向けて休養を取る者、連合軍で得た異国の友と談笑する者、黙々と鍛錬を積む者。マルスは同じ城内にいながら、分厚い城壁とガラスの窓によって彼らから隔てられている。

それを改めて意識したとき、彼は気づけばこうつぶやいていた。

「僕は、皆と一緒に戦うために来たはずだ。それなのに……」

その途端、普段は抑圧されていた思いが一挙にこみ上げた。

彼は真剣な表情となり、ジェイガンに訴える。

「なぜ僕は、ここまで過剰な保護を受けなくてはならないんだ。領主とは民を守るために戦うものだ。父上はいつも戦いで最前線に立ち、ファルシオンを掲げて最期まで戦いつづけた。そして今も、ここに集まった皆は誰もが命を懸けて戦っている。それに引きかえ、僕ときたら安全な王都から一歩も出ずに指示を出すだけだ。僕ができるのは、連合国の王という肩書きを見せびらかしたり、領民が納めてくれた税をばら撒くことだけなのか……?」

これに対し、老軍師はすぐには答えなかった。

再び口を引き結び、若き王の目をじっと見据えていた。

「……マルス様。果たして、後衛の兵は前衛の兵よりも劣るのでしょうか?」

この言葉に、そして眼差しに、マルスはかつて彼から戦術を教わっていた頃を思い出した。

幾分自制を取り戻し、こう答える。

「……いいや。後衛は奇襲を警戒したり、撤退の際に足止めをする重要な役割がある。どのような位置取りの兵であっても、どんな兵種でも、戦術を展開するためには欠かすことができない」

淀みなく述べた彼に、ジェイガンは頷きかけた。

「その通りです。今や、あなた様はアカネイアの盟主。あの戦争で勝利を収めた時、マルス様の命はアリティアだけでなく、大陸全土の民草のものになったのです。すなわちあなた様は此度の戦争においては同盟国の王都を守り、また連合軍の団結をも守る精神的な支柱。いわば最後の砦としての大役を担っておられるのですぞ。その役目は、他の誰にも代わりのきかぬもの。戦場で命の駆け引きをすることばかりが戦争の全てではないのです」

背筋を凛と伸ばし、厳めしい顔でそう言ってから、彼はふと口の片端を上げてみせた。

「それに、あなた様だけではありません。これほどの勇士が集いながら肩を並べて戦うこともできず、やきもきしているのは私も同じなのです。……しかし、こんな老いぼれと同じと言われても困るでしょうな」

マルスもつられて笑いながら、こう返す。

「そんなことを言わないでくれ。あなたは確かに前線からは退いたかもしれない。けれど、こうして軍師として活躍しているじゃないか。僕らには、あなたから学ぶべきことがまだまだたくさんあるよ」

これを聞いて、ジェイガンはからからと笑った。

「あまり私を頼られると、後続が育ちませんぞ」

 

 

話が終わった気配を察し、イルーシアの護衛兵が居ずまいを正す。

歩き始めたアリティアの王と重臣の元に、お付きのイルーシア貴族と共にはせ参じ、再び四方を万全の守りで固めた。

マルスはそんな彼らの顔を見やり、やはりそこに平時より張り詰めた雰囲気があるのを見て取る。

「緊張しているようだけど、何かあったのかい?」

声をかけると、護衛はその兜の下で虚を突かれたように目を丸くした。警備にあたる彼らの代わりに、お付きの貴族が進み出るとこう返答した。

「陛下。実は……今朝がた巡回兵から、ストライアの市街地に怪しい人物がうろついているとの報告があったのです。今時どこの国でも見ないような古めかしい格好で、年のころは十三かそこらの少年だそうです。王城の門番と押し問答をしているところを見つかり、つまみ出されたとのことですが、またいつ戻ってくるか分かりません」

「その子はどういう用事があって来たんだろう。何か知っていることは?」

「聞くところによれば、城内の者に用事があると主張していたものの、具体的に『誰に』とも名前を言えなかったとか」

そう言って彼は眉間にしわを寄せ、首を横に振る。

「我々もできる限り陛下をお守りしますが、どうか城内でもお一人にならないよう、お気を付けください」

たった一人の少年に対し、あまりにも大げさな警戒のしようだった。

「分かった。でも、城内は君たちが守ってくれているから安全だよ。その少年が見かけられたのは市街地、つまり城の外だよね」

「左様でございます。しかし、その人物は背に白い翼が生えていたとのことです。おそらく、テリウスの方々が言うところの"ラグズ"でしょう。ならば、その翼をもってして外壁を飛び越えるやもしれません。実際、彼は以前にこの城郭都市の正門から侵入しようとして追い返されたのですが、それがいつの間にか都市に入り込んでいたのです」

ここまでを聞いたところで、マルスはジェイガンを含む家臣たちと顔を見合わせた。

新生帝国の斥候なら、イルーシア兵の恰好をして紛れ込むはずだ。かつて王を暗殺した時にそうしたように。それが今になって、わざわざ目立つ服装で入り込み、王城の門から堂々と入ろうとするとは考えにくい。もしかすると帝国とは関係のない者なのではないか。

言葉には出さなかったが、マルス達の間で交わされた視線にはおおむねそういった意味合いが含まれていた。

 

やがて一行は、王城の中庭に設けられた修練場に到着する。

王城は小高い丘にあるため、市街地を覆っている霧はめったに入り込まない。ただこの日も空模様は快晴とは程遠く、空は白く高曇りしていた。

それでも頭上をずっと覆っていた石壁の天井がなくなり、マルスは少しほっとした様子で空を見上げる。

 

視線を地上に戻す。色とりどりの鎧を着込んだ連合軍の仲間たちが互いに模擬戦を行ったり、木製の的を相手に訓練を続けている。

活気に満ちた大勢の人の声で中庭はにぎわっており、時折楽しげな笑い声が空にはじけていた。

「マルス様!」

名前を呼ばれてそちらを見ると、金髪の男がやってくるところだった。眉尻と頬に傷があり、逞しい体に青い鎧を着込んだ姿で近づいてくるのを見て、イルーシアの衛兵達の間に反射的な緊張が走る。しかし傍のお付きが彼らに短く声をかけ、警戒を解かせた。

そんなやり取りを気にも留めず、彼、オグマは衛兵の間を通り抜けてマルス達の前に辿り着く。

「ご無沙汰しておりました。陛下が時々こちらにお越しになるとは聞いていたのですが、運悪く、毎度のように私の遠征が被ってしまいまして」

律儀に挨拶しに来た彼に、マルスは笑顔を見せて頷きかけた。

「会えてよかったよ。君はあちこちの戦いに出ているからね。それに、またじきにここを発つと聞いているよ。連合軍のために尽力してくれて、本当に助かっている。でも、少し働きすぎじゃないか? 聞いたよ、君はここで剣を教えているんだって。王都にいるときくらい休んでも良いんじゃないかな」

「御心配には及びません。むしろ、休む時間が惜しいくらいです。ここにいると、アカネイアは勿論、この大陸の外の戦い方も学ぶことができるので。特にあの方――」

オグマが後ろを振り返った先、そこには暗い青緑色の髪を持つ女性教官がいた。黒を基調とした軽装鎧に同じ色のローブを羽織り、凛とした表情でイルーシアの新兵たちの間を歩いている。そうして時々足を止めては、一人一人丁寧に指導を行っていた。

「フォドラのベレス殿。あの方の腕前には目を見張るものがあります。得意とするのは剣だそうですが、槍や斧、魔法の扱いにも造詣が深いのです。敵として接したときの身の振り方ならば、私もなんとか教えられるのですが。あれほど多才な方が教えて下さるのであれば新兵も心強いでしょう」

生き生きとしてそう語る。

オグマは、もともとはアカネイア東部の島国タリスに仕える兵である。傭兵ではあるもののタリスの王とその娘シーダに固く忠誠を誓っており、その王の命を受けてアリティアに加勢してくれた過去がある。今回も、この戦役に参加することができなかったシーダからの願いに快く応じて、連合軍にはせ参じてくれたのだ。

彼のことは、かつてアリティアが陥落し、マルスが騎士団に守られてタリスに逃げ延びた頃から知っている。その彼がこれまでに見たことがないほど目を輝かせていた。たぐいまれな才能を持つ勇士たちに囲まれたこの環境が、彼の士気をより一層高めているのだろう。

「陛下。次の戦いでは必ずや、良い戦果を持ち帰ってみせましょう」

意気込んでそう言ったオグマに頼もしさを感じつつ、マルスはこう返した。

「君たちの無事を祈っているよ」

心の中では皆と共に前線に立てないことへのうしろめたさを感じていたが、彼は努めてそれを表情に出さないようにしていた。

 

 

数刻ののち、王城内をめぐり終えたマルスは城のバルコニーにいた。

隣には、次に出陣する部隊を率いることになった隊長、フェレ侯爵の子息が招かれていた。燃えるような赤い髪に、青い瞳の青年。故郷の大陸では一国の将を任されているという噂であり、この戦役でも何度も堅実な勝利を重ねているとはいえ、齢は十五とまだ若い。

マルスは出陣を控える部隊長には必ず、王都を発つまでに顔を見せることにしている。この日も、年若い部隊長の様子を把握するために会合の場を設けたのだった。

幸い、心配するほどのことはなかった。彼、ロイは戦略会議に出ているときと変わりない落ち着きを見せ、こちらの言葉に穏やかな笑顔を返し、そつなく答えていた。

 

夕方になって間もないというのに、早くも日が陰り始めていた。ほぼ四方を高い崖に覆われているために、王都には正午をまたいで前後のわずかな時間しか日が差し込まないのだ。

霧に半ば沈み、暗く陰っていく眼下の街並みは相変わらず寂れており、これが王都だとはにわかに信じがたいほどだった。どの家も手入れが十分に行き届いておらず、屋根瓦はところどころ歯が抜けたように剥がれ落ち、壁のしっくいもあざのように斑になって剥げ落ちている。あたりがだんだん暗くなっていく中、市民は家路を急ぎ、人けのない道を足早に通り抜けようとしている。

中央の大路には、まだ露店のテントがぽつりぽつりと並んでいる。しかし買い物をしているのは平服を着た王都の住民よりも、軽装を着込んだ連合軍の姿が多く見受けられた。

 

その様を見ていたマルスの心に、ふとこんな考えが浮かぶ。

――こんなに寂れた街だったか…? 昔はもっと人が来ていたはずだ。

 

具体的にいつの記憶とも思い出せない中、彼はどうしても気になってお付きのイルーシア貴族にこう尋ねかけた。

「君。ストライアはもう少し栄えた街だと思っていたのだけど、いつの間にこんなに……静かになってしまったのだろう」

返ってきたのは怪訝な表情だった。

「こんな山奥の小国に訪れる物好きはおりませんよ。しかし、陛下にとっては物足りないと思われるのも当然でしょう。私どもにとってはこれが普通の景色ですが」

彼の返答からすると、ストライアは昔からこういった有様だったらしい。それでもどうにも納得がいかずに、マルスは再び眼下の街へと目を向ける。自分でも説明のつかない違和感を覚え、その理由がわからないことにも釈然としない気持ちを抱いていると、横からロイにこう声を掛けられた。

「……マルス様」

遠慮がちに声をひそめ、彼はこう続ける。

「僕も同感です。なぜかは分からないけれど、この国にはもっと賑わいがあったはずだと……」

この言葉に、マルスは思わず傍らを振り向き、彼の顔をじっと見ていた。

「君も……?」

詳しく話を聞こうとした矢先だった。

「陛下、陛下!」

「すぐにお戻りください!」

にわかに後ろが騒がしくなった。

振り返ると、慌てた様子のイルーシア兵が数名、護衛の兵に遮られる形で押し合いになっていた。マルスに代わってお付きの貴族がすぐさま彼らの元に向かう。

「どうした、何事だ」

「例の不審者です! 白い翼の"ラグズ"が城門を叩いております!」

「『城の中に入れてくれ』と喚いているのです!」

貴族がこれを聞いてさっと険しい表情をした一方、マルスは一人、内心で拍子抜けしていた。城に侵入されたわけでもないというのに、こんなに大騒ぎするのかと。それに、飛んで入ることもできるだろうに、君たちの言う『不審者』とやらはきちんと手順を踏んでいるじゃないか、と。

午前中にその『不審者』について聞かされた時から抱いていた印象から、彼はイルーシア貴族に掛け合ってみることにした。

「君たち、せめて顔を見て判断させてくれないか」

「陛下、しかしながら……」

案の定渋面を返す貴族だったが、マルスはこれを根気強く諭す。

「敵軍だと決まったわけじゃない。僕らは今までありとあらゆる国や勢力を受け入れてきた。

その白い翼の異邦人も、僕らに加勢しに来た人かもしれない。まずは話を聞いてみよう」

 

 

夕刻の冷たい空気の中、物々しい象牙色の鎧に伴われ、マルスは城壁の歩廊を巡って正門の上へと到着した。

胸壁にはすでに弓兵が二人ついており、弓を眼下の何者かにぴたりと据え、弦を引き絞っていた。

「あれです。陛下。まだ構えてはいませんが、あの者は武器を所持しています。なにとぞお気をつけください」

お付きの貴族の言葉に頷き返し、マルスは弓兵のいるあたりの胸壁に近づくと少し身を乗り出し、彼らの言う不審者の姿を見定めようとする。

王城と市街地とを隔てる堀、その上にかかる跳ね橋に、少年は立っていた。

門をいくら叩いても入れてもらえそうにないと思ったのだろうか、彼は跳ね橋の中ほどまで引き返していた。それでも諦めたくない様子で、彼は橋の上に仁王立ちし、背筋を伸ばして次の動きを静かに待ち受けているようだった。

 

マルスはふと、目をすがめる。

記憶のどこかに引っかかるような感触があった。

――あの顔、どこかで……。いや、あの服装はアカネイアでも連合軍でも見たことがない。

 家臣の誰かに似ているのか……?

 

一方、跳ね橋の上でも少年がこちらに気が付き、はっと顔を上げる。

胸壁から覗く顔を見つけるや否や表情を改め、肩掛けカバンから取り出した手紙を見てから大声を張り上げた。

「マルス! 僕は光の女神が遣い、ピットだ! 君に渡したいものがある!」

光の女神というのにも、また彼の名前にも聞き覚えはなかった。しかし、彼はこちらから名乗る前にマルスの名前を呼んでみせた。

もしかするとこちらが知らないだけで、どこかの国から遣わされた使者なのかもしれない。

それに思い至ったマルスは、さっと振り返り、イルーシア貴族にこう告げた。

「彼のことは信頼して良さそうだ。玉座の間に通してくれないか」

 

 

マルスは連合王国の盟主ではあるものの、イルーシアはあくまで同盟を結んだ独立国。また、王から統治権を渡されてはいないため、イルーシア国内においては貴賓以上の扱いは――すなわち国王としての扱いは受けていない。

王の遺言はイルーシアに平和をもたらすことであり、そこに王位の譲渡は明確には含まれていなかった。したがってマルス達連合軍は、あくまでイルーシアの地を奪還するまでの駐留軍であり、彼らが無事勝利を収めた暁には速やかに撤退して元老院に今後の行き先をゆだねることが期待されている。

マルスもその点は十分に承知しており、新たな勢力との謁見にも玉座の間を使いはするものの、肝心の玉座は後の正当なイルーシア王のために空けておき、決して自らはその座につかないようにしていた。

この時も玉座ではなく、そこから延びる赤い絨毯の上に置かれた重厚な椅子に座り、光の女神の遣いを名乗る少年と相対していた。

 

少年は最初、王を前にしても跪く素振りもなく立ち続けようとした。

マルスはそういう習慣もあるのだろうかと受け止めようとしていたが、元老院の重臣らが口うるさく注意し、ピットはしぶしぶといった様子で跪いた。立っていても構わないと言おうとしたが、それもかえってイルーシアの重臣達の手前、格好がつかないだろう。

気を取り直し、マルスは改めて自己紹介をする。

「僕がマルスだ。この戦役で連合軍の長を任されている。君は僕のことを知っているようだったけれど、君はどこの国から送られた使者なのかな」

「えーと、国はエンジェランドだけど、僕らに依頼したのは――」

平素な口調でしゃべり続けようとした彼に、マルスの両脇を固める重臣たちからすぐさま鋭い声が飛ぶ。

「おい、貴様! 目の前におわすはアカネイアの英雄、スターロードであるぞ! 立場をわきまえよ!」

これに対し少年は全くひるむことなく、それどころか「うるさいな」と言いたげに呆れた顔をするだけだった。大した度胸だが、これでは火に油を注いでしまうだろう。さすがにマルスも彼らの間に割って入ることにした。

「構わないよ。君、続けて」

気を改めて、再びピットは話し始めた。

「マルス。僕は君たちに大事な報せを持ってきたんだ。これを受け取って、中の手紙を読んでよ」

そう言って何の気なしに立ち上がる。と、案の定イルーシアの衛兵が反応した。一糸乱れぬ動きで彼を取り囲むと、その首元を指し示すように何本もの槍やら剣やらを構える。

これにはさすがにピットも驚いたように目を丸くしたが、ややあって少し引きつった笑いを見せる。

「……あ、あのさ、ただの手紙だから。そんなに怖がることないよ。ね?」

そう言って、厳重な警戒を向けられる中、ゆっくりと慎重に懐から白い封筒を引き出す。重臣たちは、その紙切れに、十分に時間をかけて吟味する目つきを向けていたが、ようやくそのうちの筆頭が衛兵たちに頷いてみせる。

途端に鎧を騒々しく鳴らし、衛兵たちは武器を引き戻すと使者から離れた。使者はほっとしたように長い溜息をつくと、こちらに向けて封筒を差し出した。彼が渡したいのはマルスだったようだが、マルスが立ち上がる前に重臣の一人がさっと歩み出て、それを半ば奪い取るようにして取り上げた。

「ちゃんとマルスに渡してよ!」

ピットから文句を言われているのをよそに、重臣は手紙の封を開けて紙を引き出してしまう。

険しい表情だったのが、怪訝そうに眉をしかめ、それから疑わしげな顔をして使者と手紙とを交互に見比べ始める。それからこちらに顔を向け、彼はこう言った。

「……白紙です」

エンジェランドの使者も驚きの声を上げたところを見ると、彼は手紙の内容を知らずに運んできたようだった。

「君、その手紙を見せてくれないか」

「しかし陛下――」

まごつく重臣の後ろでピットがこんなことを言ってよこす。

「別に危なくないって。それ、ただの手紙だって言ってるじゃないか」

「ええい、いい加減にせんか貴様……!」

先ほど怒声を上げた重臣が使者の言葉を遮った。先ほどより声量を抑えてはいたが、その額には青筋が浮かんでしまっている。

ようやく静まり返った玉座の間の中、手紙を持った重臣がマルスの前に跪き、手にした紙と封筒を王に差し出す。

――白紙じゃないな……

そう思いながら紙を手に取り、目を通した。

 

紙面に書かれている文字が意識の上で意味を結んだとき、マルスは言葉を失った。

『戦争は終わる。あなたが望めば』

手紙には、ただこれだけが書かれていた。

 

凍り付いたような静寂の中、マルスはようやくのことで自分を取り戻し、

「……あなたたちは、これをどう考える」

と、周囲を取り巻くイルーシアの重臣たちに手紙を見せた。しかし彼らは戸惑ったような顔をして口々にこう言う。

「何も書かれておりません」

「陛下の目には、何が映っていたのですか?」

「私どもに読んでくださいませんか」

これを聞き、今度はマルスが手紙と重臣たちとを見比べることになってしまった。自分の目には、確かに文字が映っている。だが、彼らには白紙として見えるのだ。

限られた人にのみ文章が見えるようにする、そう言った魔法も存在するのだろうか。

そう思いながらも、マルスは自分が見える文章を読んで聞かせた。

途端に、重臣たちの顔色が変わった。

「なんということだ……!」

「陛下、そやつは新生帝国の手先に違いありません!」

「エンジェランドというのも出鱈目に決まっております!」

マルスが彼らを落ち着ける言葉を探そうとしている中、重臣の中から一人が歩み出る。

「陛下、その手紙をそれがしにお渡しください」

何をするつもりかと問う間もなく、彼はマルスの手から手紙と封筒を受け取ると、やにわに振り返ってそれを使者の目の前に叩きつけた。

「かような侮辱など受け取れるものか! 我らは何度侵略を受けようと決して挫けはせん!」

それを合図としたかのように、衛兵が一斉に動き出した。手に手に武器を取り、使者を捕えようと迫る。

だが、使者の動きの方が素早かった。

突き出される槍を飛び越え、着地の合間に地面の手紙と封筒をさっと掬い取ると、振り払われる剣の間を見事なまでの身のこなしでかわし、すり抜けていき、つむじ風のようにあっという間に廊下へと姿を消してしまう。あれだけゆったりとしたチュニックを身に着けていたにも関わらず、誰一人として刃をかすらせることさえできなかったらしい。床には切り裂かれた布切れ一枚落ちていなかった。

それは明らかに熟練の戦士のものであり、たかだか十代の少年にできる動きとは思えなかった。

 

使者の足音だけが廊下を遠ざかっていく中、衛兵たちも思わず唖然として互いの顔を見比べていると、先に金縛りから解けた重臣が声を張り上げる。

「追え、追えっ!」

その叱咤に我に返り、ようやく象牙色の重装備がどたどたと慌ただしく玉座の間を走り出ていく。

これまでの使者の振る舞いに頭に来ていたのだろうか、重臣たちもそれぞれに武器を抜き、あるいは丸腰のまま、彼らの後を追いかけて出ていってしまった。

騒乱が嵐のように過ぎ去って、がらんどうの部屋に残された王は一人、眉を曇らせて考えにふけっていた。

 

 

 

王城の廊下をまっすぐに突っ切って、白衣の使者が駆けていく。

おりしも市街地や野営地に帰っていく一団のために跳ね橋が下げられ、集団を見透かした向こう、丘を下るなだらかな道が目の前に開けていた。しめたというように歯を見せて笑い、ピットは一層速力を上げて突っ込んでいった。

ただならぬ足音に、ようやく後ろを振り返る兵士たち。

「なんだ?」

「お、おい! お前、危ないだろ!」

「ちゃんと順番を守りなさいよ!」

象牙色の軽装や青色の鎧、黒いローブに茶色の翼。多種多様な種族がそれぞれに咎めるような表情を向ける中、使者は少しも懲りた様子もなく分け入っていき、強引に割り込み、くぐり抜けていく。

「ごめんよ! 急ぎの用事なんだ!」

そうして集団から抜け出すと、木製の跳ね橋を軽やかに鳴らしながら走り抜け、丘を一直線に下っていった。

一瞬遅れて、背後の城が騒がしくなる。大方、追いかけてきた衛兵たちが兵士の集団に遮られてしまい、通せだのなんだのと言い合いになっているのだろう。

 

薄暗い街並みが眼下からだんだんとせり上がり、近づいてくる中、彼の肩口の宝飾に赤い輝きが灯った。彼は走りながら視線を宙のどこかに向け、彼にしか見えない存在に向けてこう言った。

「え? 脱出するつもりだったなら、もう少し暗くなってからの方が良いんじゃないかって……。――そんなぁ。違いますよ、いくら僕が鳥みたいな翼持ってても、目まで鳥目じゃないですって」

笑っていた彼だったが、そこで市街地の大路にすでに巡回兵が待ち構えていることに気が付き、慌てて路地へと方向転換する。しかし、選んだ道がまずかった。

狭い路地に渡された洗濯物をまともに被ってしまい、つんのめりそうになりながらシーツを払いのけた矢先に、洗い物をしていた奥方の桶に足を突っ込んで盛大に水しぶきを上げる。そのたびに住民の驚く声や悲鳴、怒声が響き、かえって彼の居場所を知らせているようなものだった。

「ごめんね、みんな!」

ようやく路地を抜け、ずぶぬれになってしまった片足を振りながら、背後を振り返ってそう言うピット。

さすがにここまで一息に走ってきたために息が上がってしまい、少しペースを落として歩き始める。彼が見上げる先には、城郭都市を取り囲む外縁の防壁がそびえたっていた。

「ああ、僕が"飛べる天使"だったならなぁ……」

思わずといった様子で嘆息すると、すぐさま宝飾に光が灯った。向こう側の存在に何か小言のようなものを言われたのだろう。天使はちょっとばつが悪そうな顔をして、こう返す。

「分かってます、ここは遠すぎて届かないんですよね。送り込む時と帰還する時に備えて温存しなきゃならないし、こうして話をできていることさえ奇跡だって」

どこか呑気な調子で彼と何者かが話している背景では、物々しげな足音がざくざくとこだまし、錯綜していた。不審者が城から脱走したというので、本来は朝番や昼番が割り当たっている警備兵までもが捕り物に駆り出されているのだ。

そして、捜索に参加しているのはイルーシアの兵ばかりではなかった。

 

いよいよ日は陰り、あたりはカンテラでも無ければ見通せないほどに暗くなっていた。

人けのなくなってきた裏道を走っていた天使は、向こうの暗闇の中から何か大きな影が現れたのに気が付き、はたと立ち止まる。

ピットはすぐさま双剣を構える。目の前の人影は明らかに一人分だったが、天使は警戒もあらわに、険しい表情となっていた。

自衛の構えで身を低くし、彼が見つめる先。

 

家屋からもれ出る生活の明かりに照らされた中に、やがて相手がゆっくりと一歩を踏み出した。

ほの明るい光の中に浮かび上がったのは、紺色の短髪に細長いバンダナを締めた、筋骨たくましい青年。その背後には、彼の背丈ほどもあろうかという両手剣が鈍い金色の光を放ち、持ち主に負けずとも劣らない重厚な存在感を放っている。

 

使者が剣を構えているのを認め、彼は片方の手だけで両手剣の柄を握ると、おもむろに低く風を唸らせながら正面に構えた。

無言のうちに水色の瞳が相手の実力を測るように向けられ――そこで彼は怪訝そうに眉をしかめる。

ピットもそれと同時に何かに気づき、急いで双剣をしまうと、すぐさま一枚の手紙を鞄から引き出した。封筒の書面を確かめ、それから再び彼の顔を見上げて差し出す。

「君……アイクだよね? 僕は君と戦うつもりはない。君たちに大事な知らせを届けに来たんだ」

「……」

名前を呼んだことで、しかし、かえって相手の警戒を強めてしまったらしい。アイクと呼ばれた青年は剣を構えたまま、使者の顔をまっすぐに見据えて低く問う。

「……あんたは誰だ。なぜ俺の名を知っている」

「ねぇ、何か誤解してるみたいだけど……まず剣を下ろそうよ、ね?」

何とか武器を収めてもらおうと、ピットは努めて明るい声で話しかける。その様子に思うところがあったのか、アイクは依然として警戒しつつも、それ以上踏み込もうとするような気配はなくなっていた。そもそも武器を収めた相手に斬りかかるのも、彼の性分ではないのだろう。

アイクが手紙を受け取る選択肢を吟味し始めていた矢先、裏道がにわかに騒がしくなったかと思うと、

「いたぞ! あそこだ!」

思わず振り仰いだ先、巡回兵の集団が松明を掲げていた。薄暗さに慣れていたところから急にまぶしくなり、視界がくらんでしまったアイク。その横をピットが急いで潜り抜け、再び逃走し始める。

 

「ああ、もうちょっとだったのに……」

悔しさといら立ちを声にあらわにし、入り組んだ路地を駆けていくピット。建物はまるで迷路の壁のように立ち並び、どこまで走っても外に通じる門は見えてこない。先ほどまで見えていた城壁もすっかり見えなくなってしまった。

そんな彼を包み込むように、四方八方で警備兵が石畳を騒々しく踏み鳴らし、鎧の継ぎ目のぶつかり合う音が乱雑に鳴り響いていた。

走っていく先の分かれ道がぼうっと明るくなり、それを認めたピットは慌てて引き返す。途端に背後がどっと騒がしくなり、石畳を駆けあがって何人もの兵士が追いかけてくる。

「待てぇっ!」

「どこだ……?!」

「いたぞ、そこにいる!」

「追え、追うんだ!」

その声を聞きつけて、他の部隊も接近してきていた。

引きかえした先から別の松明の波が降りてくるのに気づき、使者はさすがに焦った表情でその場で足踏みをする。見かけた分岐路にとっさに入り込もうとするが、そこでもまた兵士と出くわしてしまい、泡を食って駆け戻った。

あたりはいよいよ暗くなり、住民もほとんどが異様な気配を察して窓や扉を閉めてしまった。明かりと言えるものは兵士の掲げる松明くらい。目に映る暗がりがただの物陰なのか、路地への入り口なのか。それさえも分からなくなっていく。

三方向からじりじりと兵士が迫る中、彼は急いで周囲を見まわす。その目が新しい道を見出すや否や、ほとんど何も考えずにそこに飛び込んでいった。

「……まずい!」

思わず声に出てしまう。彼が見上げた先には、無情にも建物の壁がそびえたっていた。

彼が逃げ込んだのは家並みを縫う路地ではなく、袋小路だったのだ。

「そこに入っていったぞ!」

「逃すな、捕えろ!」

逃走者を威圧するつもりか、あるいはいよいよ追い詰めることができたと奮い立っているのか、兵士たちはますます声を張り上げ、武装を鳴らして近づいてくる。

松明が集まり、天使の見つめる先で外の石畳がだんだんと明るく、昼間のように照らし出されていく。この袋小路に踏み入られるのも時間の問題だ。

それでもピットは諦めきれない様子で、顔を緊張に引きつらせながらも、じりじりと後退していく。

 

その背の翼が、間もなく壁につこうとしたときだった。

傍らにわだかまる闇の中から、何の前触れもなく人影が立ち上がった。

暗い色のローブに身を包み、フードをすっぽりと被った人物。ピットがその顔を見定められないうちに、相手は宙に光り輝く魔法陣を展開させると有無も言わさずにピットの腕をつかみ、魔法陣の中へと飛び込ませた。

 

 

夜も更け、すっかり暗くなった森。

宙に、淡い輝きと共に二つの魔法陣が描き出されたかと思うと、まず天使が、そしてローブの人物が忽然と姿を現した。

 

黒いローブ姿がフードを上げ、白銀色の頭髪と黄色い瞳があらわになる。

それを見て取ったピットは、はっと表情を明るくしてこう言った。

「君は、あのとき戦場で会った――」

青年は天使の言葉に控えめな笑顔を返して頷き、そして真剣な面持ちになるとこう告げる。

「あの後、僕は君から渡された手紙を読んだよ。君の報せが本当のことなら、とても恐ろしいことだ。とても真実とは思えない……いや、思いたくない」

そこで、彼、ルフレは迷いを断ち切ろうとするかのように首を横に振る。

再び顔をピットの方に向けたとき、その目には強い決意が秘められていた。

「――それでも、僕らの陥っている状況を説明できるのはそれしかないんだ」

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最終更新:2021-11-07

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