星は夢を抱いて巡る
第1章 戦争をもたらす者
昨夜の白い翼の少年は、結局捕まらずじまいだったそうだ。
マルスはその知らせを聞いたとき、それを報告しているイルーシア兵が悔しさと不甲斐なさで顔をうつむかせているのをよそに、自分が心の中でほっと胸をなでおろしていることに気が付いた。手紙の内容は別として、それを運んできたあの使者には新生帝国の兵に見られるような剣呑さがまったく感じられない。跳ね橋に立っていた彼の顔を見た時にも、悪い人物ではなさそうだという直感があったくらいだ。
イルーシアの兵には心のすさんでしまった者もおり、先日のように不満のはけ口として自国の負傷兵さえも乱暴に扱う兵士もいる。そんな者たちに"新生帝国の間者"が捕まってしまったら、上官が捕虜の扱いについて何を言いつけようとも、それが守られる保証はないだろう。
問題は、あの手紙だ。
『戦争は終わる。あなたが望めば』
それを大事な報せとして使者に伝えるように依頼した者は、いったい何を考えていたのだろうか。
文章だけをそのまま読めば、一方的に降伏を強いるものに思える。すなわち『お前たちが降伏すれば戦争は終わる。諦めないつもりなら、こちらも戦い続けるまでだ』というものだ。イルーシアの重臣たちが色めき立ったのも無理もない。
だがしかし、それにしては引っかかる点がある。呼びかけが「あなた」と妙に柔らかく、また文章も端的ながらどこか詩のようでもあり、敵意を感じられないのだ。
では、第三者の書いた手紙だとすればどうだろうか?
戦争とは往々にして、最終的に勝った側が無条件に『正しい』と承認されてしまうものであるが、少なくとも自分たち連合軍は平和を取り戻すために戦っているし、誰もが正義を為すために、あるいはそばに居る誰かを守るために日々自分の命を懸けている。戦役の発端は新生ドルーア帝国によるイルーシア王国への侵略であり、少なくとも人間の目からすればイルーシアの方が被害者であり、誰が見ても助けるべき存在として考えるはずだ。
一方、もしもこれを竜族達の目から見ると、どう映るのだろうか。
人間よりも先にこの大陸を統べていたが、はるかな昔に種族の"衰え"に見舞われた竜族。理性を失い、見境なく暴れる者が増えていく中、竜族を統べる神竜ナーガは彼らを封じ、万が一の時に備えた対抗手段を造ると共に、次の世を人間の手に譲り渡した。しかし、竜族に比べるとはるかに寿命の短い人間は事の成り行きを正しく言い伝えていくことができなくなり、彼らに味方してくれた竜族がいたことも忘れてしまった。そうして、力を封印して穏やかに暮らしていた竜族をも侮り、迫害し始めた。
それが、かつてナーガに与し人間を守ったメディウスをして深く失望させてしまったのだ。
彼らからすればアカネイアを征服することは、かつて自分たちが若かりし頃に治めていた土地を取り返すことに他ならない。
人間の論理からゆけば、それを是とすることはできないのだが、彼らは彼らで正当な理由があるということにも目を向けなくてはならない。そうでなくては真の平和は、人間と竜族の和解は成り立たないだろう。
あの手紙の送り主は帝国に属していない竜族といったような、メディウスらの思想に同調する存在なのだろうか。
はっきりとそう断定できるのならば、こちらが取るべき手は決まっている。彼ないし彼女の忠言を受け止めつつも、イルーシアを守るために戦い続ける。ただそれだけだ。今の連合軍には、先の大戦を経てマルスを信頼し、加わってくれた竜族や、霧の向こうからやってきた竜族の親戚とも言うべき人々が何十人と所属している。彼らが人間と手を取り合い、平和という一つの目的のために戦う様を送り主に見せる。そうすれば、説得はできなくとも、そういう道が確かにあるということを示せるだろう。
だが、そう決断しようとするマルスの心には拭いされない不安が残り、澱のように沈殿していた。
『あなたが望めば』。手紙にはそうあったが、自分はもとより戦争の終わりを望んでいる。終わらせたいと願い、仲間と共に尽力している。
それなのに、終結を示す兆しがいつまで経っても見えてこないのだ。
「大丈夫か? さっきからなんだか上の空だが」
その声に、はっと我に返る。
途端に周囲の音が意識の元に戻ってきた。歓声、どよめき。視界に映る誰もが、中央の修練場で戦う二人に注目し、一挙一動を固唾をのんで見守り、鮮やかな一撃や巧妙な防御が決まるたびに拍手喝采していた。
その修練場を望むテラスの柵の上に組んだ腕をもたせ掛けた恰好で、隣に立つクロムが怪訝そうにこちらを見ていた。彼が話しかけてくるのに生返事を返してしまっていたらしい。申し訳なさと照れ隠しとで苦笑しつつ、マルスはこう答えた。
「……あぁ。ちょっと、考え事をしていてね」
だが、彼にはしっかり見抜かれてしまっていた。
「考え事っていうより、悩みごとって顔だったぞ」
そう言ってから、クロムはこちらを真っ直ぐに見据えてこう続けた。
「当ててみせようか。お前が悩んでいるのは、この戦争のことだろう」
図星ではあったが、マルスは立場上素直に頷くことができず目を伏せてしまう。自分は仮にも、この連合軍を率いる立場にあるのだ。将たる者が、眼前の戦いに対して悩みを持つなどあってはならないことだった。
そうは思いつつも、気心の知れた相手にさえ、そんな態度を取らざるを得ない自分に腹が立っていた。
しかし彼のそんな感情を吹き飛ばすように、クロムは快活な声でこう続けた。
「おいおい、そんな暗い顔をするなよ。こんな調子で戦線が留まったままなら、誰だって悩むに決まっている。悩むことが悪いと言っているんじゃない。ただ、悩みに悩んでも明かりが見えないのなら、誰かの助けを求めるべきだ。お前はこの頃、重荷を一人でため込んでいるように見えるぞ」
イーリスと呼ばれる異国から来た王。年齢はマルスより少し上だがほぼ同年代で、髪の色もよく似ている。しかし、それだけでは説明のつかない何かが二人の間に親近感を感じさせていた。もし自分に兄がいたのなら、こんな感じだったのだろうか。クロムと話していると時折、マルスは心の内でそう考えることもあった。またクロムの方もまるで親戚のように思っているのだろう、異国の王族というよりも、ほとんど兄弟に接するようにして話しかけてくれるのだった。
今の彼も、国の垣根や戦の慣習などすっかり取り払ってしまい、自分に悩みを相談するように促している。
「――すまない。そう見えていたのなら……」
「俺に謝る必要はない。お前は四六時中イルーシアの衛兵に付き添われているからな」
きっぱりと言ってから彼は身を起こした。周りを見やり、こう続ける。
「だがちょうどいいことに、今ならイルーシアの兵士も遠くに離れている。彼らの耳に届かせたくないほどの悩みなら、今のうちに話してしまうと良い」
人払いさせたのはクロムだった。
彼の性格からして、模擬戦の観戦は大勢の観客でにぎわう前の方が良かっただろうに、奥の方で衛兵に周囲を固められているマルスを見つけるや否やテラスに上がり込むと、衛兵に直談判して離れさせたのだ。最初は、マルスの視界の邪魔になっていると抗議したのだが、衛兵らは困ったように顔を見合わせてから、これが自分たちの仕事ですからと丁重に返答した。しかしクロムは一歩も引き下がらずにこう返したのだった。
『周りを見ろ。ここには熟練の戦士たちがたくさんいるじゃないか。これでも護衛は不十分だって言うのか?』
王族にここまで言われては意見することもできず、衛兵たちはテラスの端まで下がっていったのだった。
逞しい腕を組み、こちらの言葉を待つクロムに、マルスは自分の中で考えを慎重に整理してからこう切り出す。
「……クロム。悩みというのは、どうすれば戦争を終わらせることができるか、ということなんだ。僕はあまりにも時間をかけすぎてしまった。このまま続けば、たとえイルーシアを取り戻せたとしても、民に返されるのは荒廃しきった大地と、ずたずたに断ちきられた河川、再建を諦めたくなるほどに崩壊した街並みばかりになってしまう。そしてそれは国民も分かっているだろう。イルーシアの民はいつ帝国に白旗を上げても、あるいは他の国に逃げ出してもおかしくない状況にある」
「戦争が長引いているのはお前のせいじゃないだろう。新生帝国が使う妙な術のせいだ。いくら追い払っても懲りず、それどころか大勢仲間を増やして奪い返しに来る」
「まさにそこなんだ。僕が気にかかっているのは。……僕はこの間、この国の元兵士からこんな話を聞いた。『死んだはずの敵兵が平気な顔をして歩き回っていた』と」
「……まさか」
そう言った彼の顔に浮かんだのは訝しさではなく、既知の物事を思わぬところで耳にしたような驚きだった。
「クロム、何か知っているのかい」
「ああ……俺たちは、まさにそういう奴らと戦っていたんだ。命の尽きた亡骸から作られ、ただ戦うための駒にされたような存在だ。生き物とみれば何だって攻撃する奴もいれば、集団戦を行うくらいの頭がある奴もいる。だがどんなに賢くとも、顔つきからはまるで生気を感じられない。だから、"屍兵"というように俺たちは呼んでいた」
そこまでを一通り並べて聞かせたところで、ふとクロムは眉間にしわを寄せ、首をかしげる。
「……しかし、そいつらが戦場に出ていたのならイーリスの誰かが気づきそうなもんだが……。
その元兵士ってやつは、敵兵の特徴について何か言っていなかったか? 例えば目が赤く光っていたとか」
これを受け、マルスは顎に手を当てて考え込み、記憶をたどる。
「いや……特別、そういうことは言っていなかった。そこまで見る余裕がなかっただけかもしれない。でも、だとしても新兵よりはるかに実戦慣れしているあなたたちが今までに見たことがないのなら、彼が見たのは屍兵ではなかったのかな……」
「おそらくな。だが、それに似た存在かもしれん」
クロムはそうして、まっすぐに前を見つめる。彼の視線の先には模擬戦が行われている舞台、そしてそれを取り囲んでにぎわう仲間たちの姿があった。一方、離れた場所にいる二人の周囲にはいつしか、しんと張り詰めた空気が漂い始めていた。
依然として眉をしかめつつ、クロムは再び口を開いた。
「なるほど。もしそうだとしたら色々と説明もつく。あいつらはイルーシアの砦に引きこもっている間に、前の戦いで倒された兵士を片っ端から蘇らせているんだろう。だからこそ、何度敗走しても次の戦いでは何ともない顔で大部隊を連れてこれるし、いくら補給路を断って増援を防いでも、手元で増やせるからまるっきり問題にならない。しかもだ。屍兵ならまだ、とどめを刺せば消えてなくなる。だが新生帝国の兵士にはそういう様子がない。亡骸がこの世に残り続けるなら、また次の『材料』にされていてもおかしくないだろう。永遠に甦り続ける兵士か……だとしたら、少々厄介だな」
「少々どころじゃない。かなり厄介だよ。……あなたの場合はどうやって切り抜けたの?」
マルスのその問いかけに、クロムはあっさりとこう答えた。
「そりゃもちろん、元を断ったのさ。まあ、俺だけじゃ絶対にできないことだったがな」
当然と言えば当然の答えではあったが、あまりにも単純明快かつ荒唐無稽な答えにマルスはあっけにとられてしまい、何も言えずにクロムの顔を見上げるばかりだった。
そうして二人の会話にわずかな途切れが生じた時だった。テラスの向こうでわっとどよめく声が上がった。見れば、また一つ模擬戦の決着がつき、勝者が敗者を助け起こしているのだった。負けた方はさすがに少し悔しさもあるようだったが、二人の顔にはまぎれもない笑みがある。
彼らが舞台を降り、次の対戦者が石段を上がってきた。彼らのうち片方が誰であるかを見て取り、クロムの表情が明るいものに変わる。何かを誇り、あるいは何かを期待し、そして暖かく見守る顔。それはまぎれもなく、親がわが子に向ける表情だった。
舞台に上がったのは青く美しい長髪をもつ女性剣士。対戦相手に対して一礼し、それから手にしていた模擬戦用の鉄剣を、まるで真剣であるかのような気迫を込めてすらりと構える。
年のころで言えば自分たちとそう変わらないが、なぜか彼女はクロムの『娘』と呼ばれている。イーリスから来た人々はそれをごく自然なこととして受け止めているようだったが、アカネイアや他の大陸の人々は、何か複雑な事情があるのだろうかと思いつつも聞き出せずにいる。
ふとそのことを思い出したマルスは、すっかり娘の勇姿を見守ることに集中してしまった様子のクロムにこう尋ねた。
「クロム。あなたに聞きたいことがあったんだ。……もし失礼なことだったら許してくれ。彼女、ルキナはあなたの娘だそうだけど、それは例えとかではなく、本当のことなのかい?」
これを聞いたクロムは特に嫌な顔をすることもなく、マルスの方を振り向く。
「ん? ああ、そういえば説明していなかったな。向こうで戦っている方のルキナは、俺たちよりも後の時代から来たんだ」
「向こう……? え、後の時代って……?」
予想だにしていなかった答えに、単語を繰り返すことしかできないマルス。
「俺たちの時代に元からいる方のルキナは、まだ赤ん坊だ。こんなに小さい」
そう言ってクロムは、どこか自慢するように笑みを見せつつ、赤子を抱きかかえるような身振りをしてみせた。
「で、向こうのルキナは――さっき俺が言った屍兵の話が関係している」
言葉を整理するためか、彼はそこで一旦間を置いた。テラスの欄干に片腕を乗せ、その彼方に顔を向ける。
「屍兵は、ある日突然、俺たちの周りに現れて人や動物を襲い始めた。あいつらはまさに文字通り、際限なく湧いてきた。本当なら、俺たちは屍兵の軍団に勝つことはできなかった。人間同士のいがみ合いから、やがて大陸全土を巻き込む戦争が起こり、どの国もボロボロになるまで戦い、屍兵に対処できるような力はどこにも残らないはずだった」
その言葉が、避けがたい重みをもって響く。
固唾をのんで話に聞き入るマルスの横で、クロムは腕組みをし、彼方に厳しい目を向けていた。
「そのせいで、俺たちの時代から十数年が経つ頃には屍兵に人間が追いやられ、滅ぼされかけていた。腕の立つ者たちの周りにわずかな生き残りが集まって暮らすだけで、国どころか街と呼べるものも残っていなかった。……すでに俺を含めて、イーリスの主だった人々は皆、亡くなっていた。あのルキナは、俺の娘は、それでも諦めずに仲間を率いて戦っていた。そしていよいよどうにもならなくなった時、滅んでいく世界を憐れんだ神竜がルキナ達を過去に逃れさせた。運命を変えるためにな。絶望の元凶は……」
そこで何かを思い出したのか、クロムがふと顔をしかめる。その感情は、ここにはいない誰かに向けられているようだった。
「……あいつがずいぶんと無茶をしたが、そのおかげで、俺たちの代で終わらせることができた。あのルキナがたどるはずだった破滅の未来は防がれた。ルキナは全てが片付いたら俺たちの元から去るつもりだったらしいが……そんなこと、させられないだろ? あいつだって、俺の娘には違いないんだからな。そういうわけで、未来から来たルキナも俺たちの仲間として共に暮らしているんだ」
予想以上に重厚な経緯をようやくのことで飲み込み、マルスに最初にできたことは、ため息とともにこうつぶやくことだけだった。
「知らなかった……そうだったのか、ルキナがそんな過去を抱えていたなんて……」
「あいつからは絶対に言わないだろうな。ルキナもどっちかというと、お前みたいに一人でため込む性格なのかもしれん。まったく、誰に似たんだか……」
と、そこで不意にクロムは言葉を途切れさせ、修練場の方に意識を向ける。
舞台の上では実力の読みあいの段階を過ぎたのか、先ほどから空気を斬る鋭い音と、金属がぶつかり合う乾いた音が矢継ぎ早に繰り返されていた。
風を唸らせて振り下ろされる刀身。互いに鍔で受け止め、跳ね返していなす。しかし、剣が剣に弾かれるたびにルキナの方が少しずつ後退していた。対戦相手が男であるためか、どうしても力負けしてしまう部分があるらしい。
舞台の端まであと数歩というところまで後退させられた時だった。
ルキナがわずかに踏み込みを変え、気付けば相手の方が体勢を崩していた。剣を振るう際の重心の揺らぎ、そのごく一瞬の隙をついたのだ。相手の剣先をうまく自分の鍔まで滑らせ、重ねられた剣の交点にすかさずひねりを加えたのだろう。
剣を持つ腕に予想外の方向から力を受けた相手は、たちまちのうちによろめき、その無防備な胴めがけてルキナの剣が一気に薙ぎ払われ――
「勝負あり!」
その声を受けるや否や、彼女はすぐさま狙いをそらした。修練場に、人の胴ではなく石畳を打つ鈍い音が響く。音がいささかくぐもっているのは、勢いあまって石畳を割ってしまったからだろう。これを聞き、イルーシアの制服を着た従卒が二、三人、やはりやったかという半ばあきらめの顔で、手元の替えの石板を持って立ち上がる。
彼らが修練場の舞台を直しているのをよそに、観客は鮮やかな剣技を褒め称え、割れんばかりの喝采と歓声、口笛を対戦者に浴びせかける。
「よぉし、よくやった!」
クロムも満面の笑顔でそう言い、テラスの向こうにも負けないくらい大きな拍手を送る。マルスもその横で、素直に彼女の腕前に感心しつつ、拍手していた。
父の声を耳にしたのだろう、舞台の上でもルキナがぱっと顔を輝かせてテラスの方面を見る。と、そこで隣のマルスも拍手していることに気が付き、途端に頬を赤らめ、恐縮した様子で一礼した。先ほどまで凛々しい表情で剣を振るっていた姿とは打って変わって、そこにいるのは等身大の、二十にまだ届かない年頃の娘になっていた。
「なんだか、あいつはお前に憧れているようでな」
「そうみたいだね」
テラスの方で、二人はそんな会話を交わして笑っていた。
ルキナはイルーシアに来てからこの方、"連合軍の最高司令官"に対しほとんど崇拝ともとれるような感情を向けている。一度彼女自身に理由を聞いてみたことがあったのだが、返ってきた答えは思いのほか漠然としており、『昔話で聞かされた英雄とあなたとが、どこか似ているように思える』というものだった。信条か顔立ちか、何が似ているのかは分からない。だが似ているというだけでここまで尊敬されるのなら、彼女が聞かされた英雄というのはよほど素晴らしい人物だったのだろう。
クロムは一つ、満足げに大きく頷くとこう言った。
「これだけの強者がそろっていれば、いくら相手が山に逃げ込もうと、森に隠れようと、あるいは何度甦ろうとも関係ない。全員でいっぺんに畳みかければ良い。皆の力を合わせて、このイルーシアから叩きだしてみせるさ!」
王都ストライアを取り囲む外輪山は、長年の浸食によってところどころがナイフで切れ込みを入れたように細く削られ、ちょうど門のような塩梅で谷が形成されていた。さらに、そこから少しずつ流れ出た土砂により、王都の周辺にはなだらかな傾斜地が形成されている。
北東の傾斜地はひときわ長く、麓まで通じているため、王都とそのほかの街や村に続く街道として整備されている。連合軍の大多数はこの斜面に野営地を常設し、寝泊まりしていた。
王都と名の付くものの、ストライアには連合王国軍の全てを収めきれるほどの住居や土地の余裕はない。城内に居室をあてがわれているのは余程の要人、すなわち『王侯貴族』のうちの王族だけであり、彼らの人数があまりにも多いために貴族らは王城には収まり切らず王都の中に、そして平民出身の者たちは王都に隣接する野営地で暮らしている。このため王城に呼ばれた時や、王都の者に用事がある時、そして出征式の際にはわざわざ街道を登る必要があるのだが、不思議と不平不満は出てこなかった。
王都は窪地になっているため、一旦霧が流れ込むとそれ以上周囲には広がりにくく、王都の内に溜め込まれていく。そのおかげで北東の傾斜地は、王都のすぐそばにありながら霧とは無縁の景色を保っている。また、連合軍の駐留が長引いたためか野営地もその名から想像される以上に設備が充実しており、単に寝泊まりするための家屋だけではなく、市場や商店、食事処、公衆浴場など、ひとかどの町にも匹敵するほどの建物を備えている。さらには、どの建屋も間に合わせのテントなどではなく、一階建てながら浅い三角屋根を備えた石造りである。このため、霧煙る王都に住むよりは野営地で暮らした方が良いという声も多いのだ。
山岳地帯の朝。冬もすぐそこまで近づき、しんと冷たく湿った空気があたりに立ち込めている。木々はすっかり葉を落とし、痩せ細った鳥の足のような裸の枝を高曇りの空に向けて差し伸べている。地面に降り積もった葉も茶色く涸れ、みずみずしさを失って久しい。
朝靄の中、鍛錬に出かけていく者や、気ままに散策を楽しむ者などが三々五々、それぞれの道を歩いていく。
そんな中を、まっすぐに歩いていく人影があった。白いチュニックを着ているが上腕はほとんどむき出しで、さすがに少年は両腕を手でさすり、背を丸めて翼で自らを包み込もうともしていた。
一週間前に王城に乗り込んでいった使者の噂を、野営地の人々も耳にしてはいた。イルーシア側は血眼になって探しており、本来は降伏文書を送りつけただけだったはずが、いつの間にか『最高司令官の暗殺を企んでいる』というところまで話が膨らんでしまっている。だが、当の最高司令官は使者に対して静観の姿勢をとり、特段どうしてくれとも指示をしていない。このため、件の噂と特徴の合致する少年が通り過ぎても、誰も彼もが「おや」というように眉を上げて見るものの、それ以上は詮索しようとも、後をつけようともせずに素通りしていく。
そもそも、すでに連合軍は十数もの勢力が集まる大部隊となっており、野営地で隣近所に住む者はともかくとして、構成員全ての顔を把握するのは並大抵のことではない。背に翼というのは普通の人間とは違う部分であり多少目立ちはするものの、鳥翼族という例があるから、怪しまれるほどの特徴にはならないのだ。
『変わった格好だが……他人の空似で咎めるのも失礼だろう』
『王都のお尋ね者が、そのお膝元でうろちょろしているはずがない』
天使とすれ違った者はおおむね、そう考えているようだった。
通りがかった人に何事か尋ねている天使。相手は彼方を指し示し、天使は礼を言ってそちらに歩いていく。
あたりには、木に何かを打ち付けるような音が規則的に響いていた。それが一歩ごとにだんだんと大きくなっていき、やがて彼は一人の青年が薪割りをしているところに辿り着く。
蒼い髪の青年はちょうど、一抱えもあるような大きな丸太を切り株の上に置きなおしたところだった。
斧を構え、頭上まで振り上げたかと思うと、苦も無く真っ二つにする。小気味よい音があたりに響き、地面に落ちた薪の片方を拾い上げながら、アイクは天使の方を振り向いた。
「……なんだ、あんたか」
そう何気ない調子で言うので、ピットは拍子抜けしたように目を瞬かせる。
「えっと……一応、僕はお尋ね者だよ? 君たちのリーダーの命を狙う不審者って言われてるんだけど」
「それはイルーシアでの話だろう」
拾い上げた薪を再び切り株の台に載せ、位置を微調整し、斧を振り下ろして叩き割る。それから彼はこう続けた。
「あんたは、そんな器用なことができるやつには見えない」
「……それはどうも」
天使は渋っ面を返す。だが、アイクはちょうど、割り終えた木材を向こうの薪の山に放り投げて加えたところであり、その顔を見ていなかった。
「俺に手紙を渡しに来たんだろう」
「ここでは渡せないよ。他の人がいるじゃないか」
マルスに渡したときの反省から、ピットはそう言う。
おりしも、薪を家屋へと運んでいくテリウスの人々が見慣れない来客に物珍しげな視線を向けていた。
「ここにいるのは俺の仲間だ。どんな知らせだろうと、無暗に広めることはしない」
アイクはきっぱりとそう言ったが、ピットも引き下がらず、黙って相手を見返していた。
「……そんなに信用できないのか?」
尋ね返した先、天使はこわばった表情をしていた。だが、それは決心の固さから来るものではなかったらしい。
「正直なとこ……それよりも、早く火のあるところに行きたいって言うか……」
そう言う彼の手足は、よく見ると寒さで小刻みに震えていた。背の翼も、羽根の先まですっかり縮こまってしまっているようだった。
アイクが率いるグレイル傭兵団。彼らが宿泊している家屋の一室にて。
暖炉が赤々と燃える傍で白衣の天使は椅子に座り、緩み切った表情で炎に手をかざしていた。もう一つの椅子に腰かけている傭兵団長は手紙の封を切り、白い紙面を取り出す。
その文章に目を通すや否や、彼の表情が変わる。
「――おい、これは本当なのか?!」
血相を変えて紙面をピットの方に向ける。しかし相手はそれに気づくや否や、ひどく慌てた様子で腕を上げ、目を隠した。
「僕は見ちゃいけないことになってるんだよ!」
かたくなに目を腕で覆い、掲げられた紙を見まいとする使者。
アイクはそんな彼の様子をしばらく黙って観察していたが、やがて再び紙面に目を落とし、その文章を読み返し始めた。遅れて天使が、腕の下から目をのぞかせて相手の様子をうかがう。
手紙を読み終えた彼は、さすがに少し放心した様子で壁の方を見やっていた。沈黙のうちに彼の中では様々な思考が渦巻いているようだった。ようやくのことで気持ちを切り替えると、ピットに顔を向けてこう告げる。
「……悪いが、俺は自分の目で確かめるまでは信じられない」
天使は落胆もあらわな顔でこう言った。
「君もそうなの……?」
「なんだ。も、というのは」
「君の前に、ここでもう一人の人間に渡したんだよ。ベレスっていう人。でも、あの人も僕には協力できないって言うんだ。自分はあくまで連合軍に教官として雇われた身。だから戦の進退について意見するつもりはないってさ」
「ああ。あいつならそう言うだろうな」
「せめてあの街に入るのを手伝ってくれれば良いのになぁ……」
「……なんだ。お前、その翼で飛べば良いだろう」
訝しげな顔でアイクが言うので、ピットは少しむっとした表情を返した。
「僕は飛べないの。君のところじゃ、翼がある人はみんな飛べるのかもしれないけどね!」
しかし、彼にとってこの問いは聞かれ慣れたもののようであった。すぐに気を取り直し、こう続ける。
「この間は荷馬車に忍び込んで入れたんだけど、あれからチェックが厳しくなっちゃってさ。もう同じ手は使えそうにないんだ。ルフレのおかげで、僕が配らなきゃいけない相手が誰なのかは分かった。でも、君たち二人に配っちゃったら他は全員、あの城の中なんだ。どうにかして渡したいんだけど……」
憂鬱そうな顔で窓の外を見る天使。その視線の先には死火山の頂、王都を守る立派な防壁がそびえたっていた。
「ルフレはお偉方のほとぼりが冷めるまで待ってって言うんだけど、僕も次の仕事が待ってるんだ。そんな悠長なこと言ってられないよ。でも、君もだめなら……ルフレにもう一度頼んでみるしかないかなぁ……」
長々と続く様子の愚痴に、アイクは若干呆れた表情をして立ち上がる。
「なにを早とちりしているんだ」
その声にピットがふと振り向くと、彼は緋色のマントを身に着け、外出の身支度をしているのだった。
「あんたの手紙には到底ありえないことばかり書いてある。だが、嘘や悪ふざけと片づけられるものでもない。信じるかどうかは俺自身が確かめてから決めるが、お前の手助けくらいはしてやるつもりだ」
「街に入れてくれるの?」
天使はぱっと顔を輝かせる。だが、アイクは首を横に振った。
「まだやめておけ。第一、ルフレもそう言ってたんだろう? なら間違いはない。王都では今でも巡回兵があんたのことを探し回っている。人相書きまで貼りだされているんだ。……あまり似てないがな」
これを聞いてピットは苦々しい表情になる。
「あの追いかけっこはもうごめんだよ」
「だろう? だから、王城の外に出ているやつを当たれば良い。誰に配るつもりなのか教えてくれ」
そう言って差し出された片手と、その顔を見比べていたピットは、やがて合点がいったように手を打った。
「――あ、なるほど! お城にいる人達、ずっとあそこにいるわけじゃないんだね」
「何を呑気なことを言ってるんだ。あいつらも連合軍の一員だ。戦場じゃ俺たちと肩を並べて戦っている」
ピットは鞄から手紙の束を取り出し、逡巡する間がありつつもアイクに手渡した。
「絶対開けないでよ」
「そんなことするわけないだろ」
そう言い返しながらも、アイクは封筒の宛名に一枚一枚目を通していく。
と、その手が止まった。
彼は紙面の名前をじっと見ていたが、やがて封筒の束をピットに手渡し、こう言った。
「あんたは運が良いな。こいつならちょうど今、メデュラの方面に出ている。俺たちが着く頃には戦局も片が付いているだろう。すぐに向かうぞ」
たっぷり一拍の間をおいて、天使は呆気にとられた様子でこう返す。
「……えっ? もう、すぐ?!」
「早く配りたいと言ったのはあんただろう」
そう言いながらアイクはさっそく扉を開け、出ていってしまう。その後をとぼとぼとついていきながら、ピットはこうぼやいていた。
「それはそうなんだけど、もうちょっと温まっていきたかったなぁ……」
揺れる松明の炎。石造りの壁につかの間の影絵を作りながら、何人もの兵士が駆け抜けていく。彼らが通り過ぎるたびに、廊下に掲げられた松明は揺らめき、今にも消えそうになりながらも持ちこたえ、再び息を吹き返す。
鎧の継ぎ目を騒々しく鳴らし、石畳を蹴るようにして、彼らは前へ前へと進んでいく。
中でも身軽な恰好をした少年が曲がり角を曲がりかけて、そこで慌てて顔をひっこめた。一瞬遅れて、横の壁に矢が突き刺さる。
「――スナイパーだ!」
後ろに手を振り、止まるように伝えた。
緑の鎧を着込んだ弓兵が代わりに前に出て、曲がり角から相手を狙おうとする――が、彼もまたすんでのところで身を引いてしまう。ほぼ同時に、空気を鋭く切り裂いて矢が壁に当たった。
「だめだ……あいつ、こっちを待ち構えてる」
悔しげに唇をかみ、彼が曲がり角の方を見ていた時だった。
「任せろ!」
後ろから、金色の短髪をなびかせて青い鎧の男が走り出た。
すぐさま迎え撃つように矢が浴びせかけられるも、彼は紙一枚の差でそれを躱し、強引に突き進んでいく。やがて気合の一声と共に剣が鋭く振り払われ、矢はぱたりと止んだ。これを認め、赤い髪の部隊長が号令をかける。
「よし。みんな、援護に向かってくれ!」
剣を携え、弓を片手に、連合軍の部隊が加勢に向かう。
ちょうど向こうからも人影が走り出てきた。先ほどのスナイパーと比べると練度に劣る様子の弓兵が二人だけ。近くに配備されていたところから物音を聞きつけ、慌ててやってきたらしい。それでも二人掛かりで矢を射かけられてはかなわない、と青い鎧の男は引きかえし、本隊に合流した。
代わって重厚な鎧を着込んだ兵士と、彼女に守られて緑髪の弓兵、ローブを着込んだ司祭が対処に向かう。
「オグマさん、怪我はない?」
若き部隊長の問いかけに、青い鎧の男は快活に返答する。
「ご心配なく。まだまだ戦えます!」
と、そこで彼らの背後からにわかに不穏な音が近づいてきた。石畳を轟かせ、いくつもの足音が近づいてくる。
部隊の中から青いアーマーナイトがそちらに向き直ると、他の仲間にこう言った。
「ここは私に任せてください!」
部隊長はこれに真剣な顔をして頷き、弓を扱える二人を彼につけると、残りの仲間を率いて先へと進んでいった。
盾で敵の剣を撥ね退け、鋭く槍を突き出す。角から飛び出してきた敵兵を、弓矢で迎え撃つ。
次々と敵兵を退け、破竹の勢いで駆け抜けていく連合軍兵士たち。いよいよ廊下の幅が広くなり、駆け足で突き進む彼らの顔にも緊張が高まっていく。
そして彼らの目の前に要塞の心臓部、領主の間が姿を現す。
本来、領主が座すべき椅子には今、暗い灰色のローブをすっぽりと被った人影が腰かけている。顔の上半分は暗く蔭り、人相を見極めることもできなかったが、唯一見えている口が嗤うように歪み、何事かを口にする。
それに応えるように、連合軍のゆく手を左右からふさぐようにして、二つの影がゆらりと立ちはだかる。
全身を覆う灰色の鎧には銀の細工が施され、その手には三又の槍を携えていた。
二人のジェネラル。彼らは双子もかくやというほどに揃った動きで槍を構え、一歩たりとも将に近づけさせまいとする。
しかしこれを見ても連合軍の勢いが止まることはなかった。彼らはそれぞれに決意を固め、部隊長の号令に従って速やかに隊列を変える。
「リリーナ、頼んだよ!」
「ええ、任せて!」
部隊長の声に応じてうら若い女性が前に出る。
ジェネラル二人を前にすっと背筋を伸ばし、手にした魔道書を開く。呪文と共にその頁から幾筋もの炎が奔流のようにほとばしり、灰色の鎧へと襲い掛かった。
石造りの廊下が明々と照らし上げられ、ジェネラルが灼熱の炎に飲み込まれていく。熱さに怯み、思わず後ずさったその隙に、肉厚の剣を手にした二人の兵士が向かっていく。
アーマーキラー。その名に違わず、気合と共に振り下ろされた剣は鎧にひびを入れ、打ち砕いた。薄くなった守りを目掛けて幾本もの槍が突き出される。部隊長も後続を率いて加勢し、連合軍はついに灰色の壁を打ち破った。
その勢いのまま、騎士たちが手に手に武器を持って敵将に挑みかかろうとした時だった。
部隊長がはっと顔をこわばらせ、彼らの背に声をかけた。
「――戻って!」
すでにその時には、騎士たちの方でもそれに気が付き、立ち止まっていた。
見る先でローブの人物は、懐から赤い宝玉を取り出していた。
口角を吊り上げたかと思うと、その顔の輪郭が溶けるように歪み、にわかに膨れ上がった。つられて連合軍の兵士たちの顔も上向いていく。
紅色の竜。ずんぐりとした胴体には一対の翼がついているが、とても飛べるようには見えない。巨体が胸をゆっくりと膨らませて息をするたびに、あたりには乾いた熱気が立ち込めた。
「火竜……」
連合軍の誰かが呆然としてつぶやく。
天井に背をつっかえさせ、窮屈そうに身を折り曲げながらも、竜は連合軍の兵士たちを見下ろしていた。やがて威圧するように口が開き、鋭い牙があらわになる。
火竜の前にいる騎士たちは、凍り付いたように動かない。彼らの足を動かしたのは部隊長の一声だった。
「戻れ!」
凛と響いた声に、弾かれたように背筋を伸ばし、騎士たちは慌てて飛び退った。一寸遅れてその場所を炎のブレスが焦がしていく。
絨毯に引火し、燃え広がっていく中、ただ一人飛び込んできたのは赤い髪の青年だけ。それを見て取った竜はほくそ笑むように口元をゆがませた。
大きく息を吸い、吐息に乗せて紅蓮の炎を撃ち出す。しかし青年は素早い身のこなしで横に跳び、これを避けた。
竜が次のブレスを放とうと息を吸い込んでいる間に、彼はその足元にまでたどり着いていた。
気勢を上げて振り払った剣。そのたった一閃で、火竜はぎくりと身を引きつらせ、苦痛の叫び声を上げた。
「ロイ様に続け!」
連合軍の方で声が上がり、おうと応える声もかき消されるほどの勢いで兵士たちが駆けつけていった。その中にはしんがりを任せたアーマーナイトと弓兵たちの姿もあり、あの場を無事に切り抜けてこられたようだった。
四方八方から攻撃を受け、ついに竜は断末魔の叫びを長々と響かせて、どうと倒れ伏した。
その巨体が縮んでいき、再び灰色のローブ姿へと戻っていく。うつぶせに倒れ伏したローブの袖からは、しわだらけでやせ細った腕が覗いていた。
また一つの戦場を無事に生き抜き、連合軍の仲間たちの間には戦勝の喜びと共に安堵の空気が満ちていた。誰一人として欠けた顔はなく、砦を無事に奪還することができたのだ。
消え残った炎を、あちこちで鎧姿の兵士たちが足でもみ消していく。負傷したものはリリーナに回復の魔法を掛けてもらい、あるいは自分で傷薬を使って傷を癒していた。
仲間たちが談笑する中、しかし部隊長の顔は依然として険しいままだった。彼がひとり、仲間から離れて見つめる先、そこには竜に踏み壊された領主の椅子があった。座面も脚も傷だらけだったが、それは明らかに剣で斬りつけたような跡であり、今回ついた傷ではなかった。
つと顔を上げ、周りを見渡す。領主の間に掛かっている旗、敷き詰められた絨毯。いずれもちぎれ、破られ、焦げ付いたまま取り換える間もなくそのままになっていた。
彼の知る傷も、知らない傷もあった。
こちらの方面に派遣されたのも、これで何度目になるだろうか。
名前を呼ばれ、ロイは表情を改めると振り返る。
見れば、象牙色の重装備兵に付き添われてこの砦の主がやってきたところだった。
「おお、ロイ殿……連合軍はついに、この砦を取り戻してくださったか」
この侯爵は砦を追われ、ひと月もの間、わずかに生き残った臣下と共に連合軍の救援を待ち続けていた。
今からおよそ一ヶ月前に新生帝国はこの砦を奪い、その勢いのまま周辺地域にまで勢力を広げていた。連合軍がすぐさま部隊を入れ代わり立ち代わり派遣して彼らを追い返そうとしたのだが、敵軍もしぶとく抵抗を続け、この砦への道が切り開かれたのはようやくここ数日のことだった。
さすがにやつれた顔をしている侯爵に、ロイは頭を下げる。
「時間が掛かってしまい、申し訳ありません」
「いや、あなたが謝ることはない。まあ、今回の避難生活はこれまでで一、二を争う長さだったが……。一番苦労したのは私の臣下、そして領民だ。本来であれば、私たちだけで砦を守れるようになれば良い。だが……なにぶん、イルーシアは小さな国でな」
壁の方を見やって苦い顔をしてから、メデュラ侯爵はロイに向けてこう尋ねかけた。
「ところで、もしも聞き及んでいたら教えてほしい。私が治めている領地には、まだ新生帝国に占拠された砦がある。城もやつらに奪われたままだ。そこを取り戻してもらえるのは……いつ頃になりそうか、ご存じかな」
その表情には、懇願の気配が存分に含まれていた。彼が言外に言わんとしていることはこうだろう。
『周辺の城塞を取り返さない限り、またいつ奴らに襲われ、この砦を奪われるとも分からない』
彼の不安を汲み取ってから、ロイは侯爵に頷きかける。
「どうかご安心ください。この方面は王都から見て、新生帝国のある方角に位置しています。ですから、この地方を取り返すことは連合軍にとっても最優先の事項なのです。僕の後からも部隊が派遣されています。彼らがきっと、この先の地を解放するでしょう。それまで、この部隊の主力をここに残していきます。閣下はどうぞ、お体を休めてください」
期待していた回答を得られたのだろう、侯爵は顔をほころばせて頷いた。
「なんと心強いことか。王都におられる連合国王陛下にもぜひ伝えてほしい。メデュラの一同は陛下の計らいに深謝しております、と」
翌々日の昼頃、十分に休息をとったロイは仲間と共に砦の復旧作業に携わっていた。
砦がボロボロのままでは、いくら腕の立つ連合軍を残していっても新生帝国軍に太刀打ちできないだろう。そう考え、ロイを含む帰還する予定の分隊も、砦がおおむね直るまではこの地にとどまることにしたのだった。
あたりでは杭を打ち込む音が規則的に響き、重い石材を転がしていく荷車が行きかい、人の賑わいが満ちていた。象牙色の鎧を着込んだ兵士たちもいるが、連合軍の色とりどりの鎧にほとんど紛れ込んでしまうくらい、その人数は少なくなっていた。
侯爵が心許なく思うのも無理もない。ロイは心の中でそう思いながら、木材を小脇に抱えなおした。
「ロイ」
背後で聞きなれた声が響いた。
「あれ? アイク……?」
驚いて振り向く。その先には確かに、彼が名を呼んだ傭兵団長の姿があった。
「どうしてここに?」
ロイはきょとんと目を瞬いて言った。
本来、部隊長を任されるほどの人物ともなればほとんど暇はない。どこかの戦場で連合軍部隊を率いているか、そうでなければ王都や野営地でつかの間の休息をとるか、その二つしかない。アイクもまた部隊長に選ばれる人物であり、それがたった一人で、しかも戦乱の終結した砦にやってくるのは不思議としか言いようがないのだった。
「あんたに会わせたいやつがいる」
そう言ってアイクは後ろを振り向く。しかし、その人影は思っていたよりも遠くにあった。
かなり遅れて歩いてくるのは風変わりな白衣を着た少年。その背には純白の翼が備わっている。彼は何処とも知れない中空に目を向け、何かを喋っているようだった。
「もう次が決まったんですか?! 早いですよ。まだこっちは終わりそうにないのに……。遅いだなんてそんな、あの時よりはましじゃないですか。ほらあの同じ名前の人間が何人もいた……。パルテナ様もこっちに来たら分かりますよ。ここ、想像以上に手ごわいんですから」
見えない誰かに向かってぼやいている少年に、アイクは呆れた顔でこう言った。
「おい、また独り言か?」
その声に目を瞬き、それから少年はむくれて抗議する。
「だから違うってば! 独り言じゃないって言ってるじゃないか」
それからややあって、三人の姿は砦の陰、めったに人通りのない裏道にあった。
アイクが腕を組み、壁に寄りかかって路地に目を向けている一方、ロイは手渡された手紙を真剣な表情で読んでいた。
やがて彼は手紙をきれいにたたみなおし、封筒に収めてから天使に向き直る。
「……あなたのことを、信じます」
彼はそう言って、覚悟の念に口を引き結んでいた。
その決意に引っ張られたのか、何も言えない様子の天使に変わってアイクが短く尋ねる。
「あんたはどうする」
「僕は……王都に戻る。調べなきゃいけないことが見つかったから」
「そうか」
と、彼は身を起こしてこう続ける。
「じゃあ、こいつのことはあんたに任せても良いな? こいつは王都に入りたいそうだ」
これを聞き、ロイは天使に向けて頷きかけた。
「僕に任せてください。部隊の誰かから予備のローブを借りていきましょう。戦いから戻った部隊なら、イルーシアの人々も怪しんだりしないはずです」
そう言ってから、彼はふとアイクに問う。
「でも、それじゃああなたは……?」
「俺はこの先に用事がある」
「この先? ……まさか。たった一人で行くつもりなの? せめて護衛くらい……」
「いや、必要ない。あんたも手紙を読んだなら分かるだろう」
「それはそうかもしれない。けど……」
迷いを振り切るように首を横に振る。
「気をつけて」
「ああ」
短く頷き返し、彼は緋色のマントを翻して去っていった。
その後ろ姿が人ごみに紛れ、やがて見えなくなるまでを見送っていたロイ。その背に、天使が遠慮がちに声をかける。
「……あのー」
振り返った彼に、天使はこう尋ねた。
「君、さっき僕に敬語使ってたよね……?」
「……もしかして、嫌でしたか?」
「いや、そんなことはないけど。こっちの人で僕に敬語使ったの、君が初めてだったから」
そう言われて、ロイはふと訝しげに眉をひそめ、考え込んでしまう。
「そういえば、どうしてでしょう……。なぜかは分からないんですけど、あなたは普通の人とは違うんじゃないかと。それも、王族や諸侯とも違う何か……うまく説明できないのですが、そう感じたのかもしれません」