星は夢を抱いて巡る
第1章 戦争をもたらす者
今の連合軍であれば、部隊長に任命できるような才覚を持った者には事欠かない。しかし、より大きな『集団』を信頼や天賦の才によってまとめられるほどの者となると限られてくる。そういった人物がいてくれるからこそ、混成部隊の士気は保たれる。また逆に言えば、ひとたび彼らに何かがあれば数十、時には数百もの人員に影響が及ぼされてしまう。
この日も王のための執務室を借り受け、連合軍内部からの報告に目を通していたマルスだったが、ともすればその目は文章の上を滑り、内心の憂い事へと向けられがちになっていた。机の上には先日アリティアから届いた手紙も載せられていた。アリティアを発ったその日から欠かさずに続けているシーダとの文通、きっとそこにはあの慣れ親しんだ筆跡で、彼女から近況を伝える内容が書かれているのだろう。だが、今は到底それを開く気分にはなれなかった。
アイクが音信不通になってからまもなく十日が経とうとしていた。カムイも、ベレスを連れたまま戻らない。城内の散策で目にする連合軍の表情も、ここ数日のうちに確実に暗いものになっていた。
団長の捜索に専念させるために、グレイル傭兵団は今後出兵する部隊には組み込まないようにした。彼らは野営を繰り返しながら王都周辺を点々としているが、今のところ実りのある報告は届いていない。カムイ、ベレスは城を不在にして三日だが、その不在には行方不明の人員を探しに出たという事情がある。カムイと縁のある白夜王国や暗夜王国の者たちは彼を案じて鍛錬も身につかない様子であったし、訓練所にいる新兵たちも、慕い憧れる教官の姿が見えず不安げな表情でひそひそと立ち話をしていた。訓練用の武器も下ろしてしまい、誰も取り組みをしていない。
古くからの知り合いでなくとも、戦場で肩を並べればもはや友も同然だろう。城内には気もそぞろに歩いていく者、深刻な顔をして小声で話している者があふれていた。マルスが城内を見回っていると、すれ違う誰もかれもがその横顔で心配そうに眉をひそめているのが分かるほどだった。
気がかりなのは、姿を消した者ばかりではない。城に帰っている者にも不安な動向があった。
先日メデュラの戦いを制して戻ってきたロイ。日数からすれば休養も取り終えてそろそろ次の戦いに備え始める頃合いだが、どういうわけか王都の書物庫に入り浸ったままほとんど出てこないという。時には寝食を惜しむ日さえあるといい、リキアの盟友、とりわけ彼の幼馴染であるリリーナが何度も説得してようやく食事に出てくる有様だという。
彼の様子を見に行ったイルーシアの兵士によれば、彼はこの国の記録を紐解いては、手元の紙に何かを書き付け、と思えば難しげな顔をして紙面をにらみ、考え込んでいるという。彼が見ているのは何の変哲もない、過去から今に至るまでの納税記録や、国内の出来事をつらつらと書き留めた記録、そしてここ最近の戦績と被害を記した書物。兵士も、それほど悩む理由があるのだろうか、と訝しげな様子だった。
「清書をされているようでした。それはもう、とにかく必死のご様子で……。最近の書物ならほとんど痛んでいないですし、自国のことですからわざわざやっていただかなくても、とお伝えしたのですが」
マルスの元に報告に来た兵士は、戸惑いを隠せない顔をしていた。
「清書ということは、本の内容をそっくり書き写していたということ?」
「……はい。……あ、いえ、見た時にそうだろうと、私が思っただけかもしれません」
歯切れの悪い返答をした後、兵士は跪いたところから頭を深々と下げる。
「申し訳ありません。あまりあけすけに覗き込むのも失礼かと思って、実は詳細は把握していないのです。少なくとも、私が清書は私どもの国にお任せをとお伝えしたのなら、そういったことが書かれていたのだと思うのですが……」
きまり悪そうに俯く兵士。彼をねぎらうように、マルスは話題を切り替えてこう確認した。
「わかった。ロイが何を知りたいのかはともかく、彼にはリキアの人たちがついているんだよね?」
「……え、ええ」
自信のある内容になったためか、幾分兵士の表情が和らいだ。
「ロイ様はなかなかお出にならないのですが、それでも入れ代わり立ち代わり、どなたかが必ずお付きになられているようです。この間は書物庫にお食事用のテーブルと、それからベッドが持ち込まれたところで――」
おそらくリキア側からの要望に、イルーシア側が折れた形だろう。
それにしても、ロイは何を気がかりにしているのだろうか。王城で話しているときの穏やかな彼からは想像もつかない、まるで何かに取り憑かれたかのような振る舞いだった。だが彼には、自分以上に付き合いの長い故郷の仲間がいる。この場は彼らに任せておき、ロイにはひとまず満足するまで調べ事に専念してもらうことにしよう。
そのうえで連合軍の軍務に支障が出てくるような兆しがあれば、その時は自分が彼の元に向かおう。
控えめな咳払いに、マルスは背筋を正す。
「……お疲れですかな?」
イルーシア王国の宰相は、白髪交じりの眉の下から連合王国の盟主に気遣うような眼差しを向けた。
彼は手元に羊皮紙の巻紙を持っており、元老院でまとめられた報告を読み上げているところであった。
「ああ、大丈夫だよ。少し考え事をしていただけだ」
無理もないことでしょう、というように宰相は同情を見せて頷いてみせる。
それから、気を取り直して報告を続きから読み始めた。
「――えー、ですからして。間もなくこのイルーシアも、高山地帯は降雪に見舞われるでしょう。これに備え、食糧庫の備蓄を集計して冬の備えに十分な量を残そうとしております。連合軍への配分も、それに伴って平時より少しずつ減っていきますが、誓約以下の量にはならぬよう、取り立てをしっかりと行ってまいります」
「誓約は無理に守らなくて良いよ。村の人たちが飢えないことが一番だ。あれが結ばれたのは、まだアカネイア連合王国しか来ていなかった頃だろう。今の人数では、あまりにもイルーシア王国に対する負担が大きい」
「有難いお申し出です。しかし……陛下に何度もお答えするのも心苦しいですが、私どもには連合軍の皆様に、この国のために戦っていただいている、という負い目があるのです。せめて、こればかりは受け取ってくださいませんか。陛下のお気持ちも察するに余りありますが、連合軍のためと言えば今でも、王都領内の農民は喜んで作物を差し出すのです」
この言葉にマルスは譲歩しつつも、その表情には少し陰りがあった。
王都周辺なら、新生帝国軍が追い返されてしばらく経っている。戦況が膠着した他の領地とは異なり、田畑もそれほど荒らされてはいない。だが以前に外遊で訪れたときに見た農村の様子は、とてもではないが明るい空気に包まれているとは言い難かった。住民たちの顔にあるのは王都の市民と同じく、『いつ、あの山を越えて新生帝国が襲ってくるのだろうか』という漠然とした不安だった。彼らが税として納める食糧には、どうかこの身を、この村を守ってくれという懇願が込められているのだろう。
彼らの心から恐怖が消え去り、安心して畑を耕せるようになるまで、自分たちはあとどれだけ戦えば良いのだろうか。
その時だった。
執務室の扉が乱暴に開け放たれ、男が一人駆け込んできた。
扉が勢いのまま壁にあたり、もう一度大きな音を響かせる中、クロムはそれ以上踏み込もうとはせず、戸口に立っていた。
マルスの隣では宰相が、すっかり魂消てしまった様子で身をすくみあがらせていた。また戸口の向こうでも衛兵が二人、慌てた様子で鎧を鳴らして室内に入るべきかどうかと足踏みをしていた。王族ともなれば無暗に止めることもできず、突入を許してしまったのだろう。
クロムはいつになく思いつめた表情で、まっすぐにマルスを見ていた。やがて何事かを言いかけたが、そこでようやくこの国の宰相がいることに気が付き、こう言った。
「――悪いが、席を外してくれないか」
「陛下、いったい何事ですか……?」
「連合王国の運命が掛かっているんだ」
クロムは、きっぱりとそう告げた。
彼の背後では二人の衛兵が、宰相の判断を仰ごうとしていた。
果たして、宰相はさほど迷うこともなく頷くと、衛兵に目で指図をし、自分自身も執務室から出ていった。彼は戦略会議にも出席しており、クロムが謀略を働かせるような人物ではないことをよく知っているのだった。
分厚い扉が閉まるか閉まらないかのうちに、クロムはマルスに向き直ると、出し抜けに跪いてこうべを垂れた。
王族からこんな態度を取られるのは、それこそ連合国の盟主として任命された時以来だった。それを異国の、今でこそいっときの連盟を作ってはいるものの、対等な関係の国の王にされるほどの理由はない。
驚きで言葉を失っていたマルス。
「クロム、どうしたの――」
ほぼ被せるように、堰を切るように彼の口から言葉があふれだした。
「今まで気づかなかったことを許してほしい。霧を抜けた先の城であなたに出会った時、どこかで会ったことがあると、ふとそう感じたんだ。それも俺ばかりではなく、その場にいたイーリスの全員が同じ印象を受けていた。あの時はそれが、あなたの持つ徳から来るものだと思ってしまったが……。今思えば、それも当たり前のことだった。いや、どちらも正解だったと言った方が良いのか。なぜ俺たちは、あんな大事なことを思い出せなかったんだ。あなたの名前を聞いた時に、祖国に伝えられてきた伝説、それを思い出してさえいれば……!」
いつにない、ただならぬ様子。クロムが自分に対し『あなた』と呼びかけてくることからしても、あまりにも鮮烈な違和感があった。
彼の言葉が途切れたところで、マルスは戸惑いながらもこう伝える。
「いったいどうしたんだ。僕にそんな気遣いはいらないよ」
しかし、彼は頑として首を横に振った。
「あなたが分からなくとも、こうしなければ俺たちの気が済まない。これは俺たちが代々受け継いできた誇りに関わることだ」
そう言ってから、クロムは鞘に収まったままで剣の留め具を外し、柄を向けて差し出す。
それはいつか彼が言っていた、彼の王国に伝わる『国宝』とも言える剣。
「この剣の刀身を、あなたの剣と比べてくれないか」
彼のこの剣幕では、何を言っても聞きそうにないだろう。マルスはそう判断し、彼の希望を叶えることにした。
黙って頷くとクロムの差し出している剣を受け取る。それから数歩下がり、鞘から静かに抜き放つと、執務室の机を使って横たえる形で置く。そして自分の剣も同様にして、その横に。
自らのファルシオンを置くとき、彼の手はわずかに、動揺で震えた。
柄や刀身の根本、刀身を保護する飾りの意匠は違えども、異国に由来するはずの二つの剣、その刀身はまったく同質の素材で作られていることを反映し、双子のようにそっくりな輝きを放っていたのだ。
ファルシオンは並大抵の剣ではない。その刀身は鉄などではなく、神竜ナーガの牙からできている。金属で作られた通常の剣とは違い、どれほど使い込んでも刃こぼれ一つ起こさない。
言葉を失い、二つの剣を見比べているマルスの耳に、クロムの言葉が聞こえてくる。
「"ファルシオン"。あなたの言った名前を聞いたときは、なぜだか『奇遇だ』としか思わなかった。……あるいは、そうとしか思えなかったのかもしれない。ともかく、イーリスに伝わるその剣も"ファルシオン"と呼ばれているんだ」
輝きから目をそらすことができないまま、マルスは半ば呆然としてこう返した。
「……この剣は、アリティアの初代国王アンリが神から授かったと言われている」
「だいたいいつ頃か、伝わっているのか?」
「ほぼ100年前だ」
それを聞いたクロムは、わずかに顔をうつむかせた。
「……そうか」
厳粛な面持ちで、何を言うべきか考え込むような間をおいてこう切り出す。
「俺たちの王国では、正確にいつというのが伝わっていない。歴史に残っているところまでさかのぼるなら、少なくとも2000年くらい前には存在している。世界に一つしかないと、そうも言われていた」
「……待って。もし、この"二振り"が世界に一つ、つまり同じ剣だというのなら……」
あまりにも突拍子もないことを言おうとしているのに気が付き、そこで言葉が途切れてしまう。でも、それ以外に考えようがないのだ。
「――あなたは僕よりも、ずっと先の時代の人なのか?」
「ああ。きっと、そのはずだ。俺たちの国には、ファルシオンが古の英雄王とともにあり、そして初代聖王が邪竜を退けるときにも活躍したという伝説が残っている」
邪竜を退けた剣。アリティアに伝えられたアンリの伝説と、あるいは自分たちの戦い抜いたつい最近の戦と、あまりにも酷似した伝説。そこにとどめを刺すように、クロムはまっすぐな目をして告げる。
「英雄王は、名を"マルス"と伝えられている。ファルシオンはイーリス王家の血筋にしか扱えない、特別な剣だ。それを扱えているあなたこそ、俺たちの先祖であり、イーリス聖王国に言い伝えられてきた英雄王だったんだ」
マルスは言葉を失い、そしてややこわばったように笑う。
「そんな……偶然だ。名前が同じだからって、ただそれだけで……。それに、あり得ないよ、時間を超えるだなんて。カダインの学院でも成功した試しがないんだから」
「ルキナは未来からやってきた。他の子供たちと一緒に。あいつらの超えた時間に比べたら、確かにとんでもない長さかもしれない。だが、俺は現にこうしてここにいるんだ」
マルスは、アリティア王家の末裔だと主張する彼の熱心な視線に、自分でもよくわからない引け目を感じてしまい、視線を剣の方へと向ける。
意匠が異なるから、こうして並べでもしないと刀身の特徴には気づけなかった。
だが、やはり改めてこうしてみると、二振りは血を分けた双子とも言えそうなくらい同じ色合い、同じ輝きを持っているのだった。
一つ深呼吸をし、決心をつけて、クロムと向き直る。
「……分かった。ともかく、それであなたが落ち着くのなら僕を英雄王だと、そう思ってくれ。あなたたちがどんな武勇伝を伝えられているのかは分からない。けれど、今ここにいる僕は、つい数年前に王位を継いだばかりの未熟者だ。皆の模範となるような盟主になるために、まだまだ学ばなければならないこともたくさんある」
そこでこちらも跪き、目線を同じ高さに合わせた。
「だから……クロム。どうか普段通りに接してくれないか」
「……許してくれるのか」
驚いたように言うので、思わず笑ってしまった。今度の笑いは自然なものだった。
「許すもなにも、僕がいつあなたの非礼を咎めたって? それに、あなたが僕のことを『あなた』と呼ぶのは、やっぱり似合ってないよ」
いつも話しているときのような口調に、クロムもようやく緊張が解けてきたようだった。
「それもそうだったな……。あなたが……いや、お前が無礼だと思ってないのなら、許してくれというのも変な話だ。それでも……改めて思うが、お前はやはり、英雄王と呼ばれるのにふさわしい人物だ」
『お前』と言うのを若干呼びにくそうにしつつも、クロムはそう言ってようやく立ち上がってくれた。
いつまでも机の上に置いたままなのもと思い、マルスはそこで自分の剣を鞘に納め、クロムの持っていたファルシオンも同様に仕舞うと、持ち手を向ける形で彼に返した。クロムは、まだどことなくぎこちなく、まるで王に任命された騎士のように緊張した面持ちで、これを両の手で慎重に受け取る。
留め金をとめたところで、彼ははたと何かに気づいたような顔をした。
「そうだ。もう一つ伝えることがあったんだ。――俺たちが今戦っている、この戦のことだ」
執務室の中央に椅子を二脚置き、二人の王は向かい合わせに座っていた。
「俺は今朝、ピットと名乗る遣いから手紙を受け取った。それを読んで初めて、俺たちが気づけなくなっていた事実があることに気づかされたんだ」
『気づけなくなっていた』。耳慣れない表現に心の中で少し気になるものを感じつつも、マルスは先を促すために言葉を渡す。
「あなたたちの国に伝わる歴史のことか……。それで僕のところに駆け込んできたんだね」
「ああ、それもあるが……それだけなら、正式に機会を設けてお前にきちんと話すつもりだった」
先ほどのやり取りを思い出したのか、クロムは少し気まずそうな顔をする。
「急いで来たのにはもう一つ理由があるんだ。俺たちは、お前から見てはるかに先の時代から来ていたが、今まではそれを知らずに戦っていた。それは俺たちからすると、すでに決まってしまった出来事をかき回すことになりかねない。……だが正直、ルキナのこともあったし、これも何かの縁だと考えて戦い続けるつもりだった」
膝に両手をつき、クロムは真正面からこちらを見据えて言葉を継ぐ。
「……手紙のことについて、俺はルフレに相談した。あいつはその時、こう言ったんだ。『イルーシアという国を舞台にした新生ドルーア帝国との戦役など、どの国の歴史書に記されていない』と」
何も言えず、ただ目を瞬いているマルスに向けて、クロムはこう続けた。
「ルフレはかなりの読書家だ。本の虫と言っても良いくらいにな。兵法だけじゃなく、古今東西の歴史書まで網羅している。あいつが見たことがないというのなら、それを信じてくれて良い」
「……でも、僕らとあなたたちの時代は千年以上離れているはずだ。記されていない史実があったとしても矛盾しないんじゃないか……?」
「それもそうかもしれない。だが、手紙のおかげで思い出した歴史上の人物はお前だけじゃない。英雄王に仕えた伝説の騎士、俺たちの時代でも『猛牛』『黒豹』と伝えられる騎士がこの連合軍に確かにいたんだ」
「カインとアベルのことか……」
マルスの挙げた名前に、クロムは頷いて同意を示す。
「つまり、英雄王の身の回りのことについても俺たちの時代まで語り継がれ、ちゃんと残っていたんだ。だから千年前のことだとしても、英雄王が参戦した戦いなら少なくともイーリスの歴史書には必ず残るはずだ。何しろ、あれほど腕の立つ勇士が集まり、お前の元で団結して戦っている。これほど名誉なことはないだろう」
「それが、あなたたちの歴史書にも記されていないんだね」
「ああ。ルフレが持ち歩いている分厚いやつを一冊読んだが、ひとかけらもそんなことは書かれていなかった」
表情を一層険しくさせて、クロムは次の言葉を継ぐ。
「つまり、ここから分かるのはただ一つ。俺たちが戦わされているのは――」
そこまで言いかけたところで、執務室の扉が勢いよく開け放たれる。
入ってきた有翼の兵士は衛兵に両脇を固められながらもその場に跪き、頭を下げてこう告げた。
「第13部隊から増援の要請に参りました。われらの部隊がサラマスの森で奇襲を受け、交戦中。至急、援軍を!」
これを聞き、クロムは血相を変えた。
「第13部隊だと……?!」
救援を求める砦に向かっていった部隊、つまり、彼の娘が配属された部隊のことだ。彼は逡巡の後、こちらに向き直るとこう言った。
「――すまない。続きはルフレから聞いてくれ。俺はサラマスに向かわなくては」
これまでにもクロムは部隊を率いた経験がある。マルスは迷わずにこう答えた。
「分かった。城内や野営地の、手の空いている者にも声をかけてくれ。あなたたちの無事を祈るよ」
これに対し失礼を詫びるように頷くと、クロムは有翼の軽装兵とともに足早に部屋を出ていった。
薄暗くなってきた城外、松明が焚かれ始めた中に整列していく兵士たち。
やがて臨時の隊長となったクロムが馬上から彼らに号令をかけ、第13部隊の鳥翼族はその背に備わる立派な翼を広げ、すぐさま飛び立った。
それを追い、騎兵は馬で、歩兵は駆け足で城門を抜ける。騒々しい足音はしばらく霧の中にこだましていたが、やがてゆっくりと溶け込むように消えていった。
一方、それを城内の物陰から見つめる二人がいた。黒紫色のローブを着込んだ銀髪の人物と、目深に兜をかぶり、鎧を着込んだ人物。その背中には白い翼があった。
「……君がもう一人手配してたってことはないんだよね」
ピットが問いかけると、ルフレは黙って首を横に振った。二人は城門の方角をじっと見つめていた。
「あれは本物の伝令だ。第13部隊は本当に敵襲を受けたんだ」
「そんなタイミングの良いことってある……?」
それに対してルフレは答えず、ただより一層眉間にしわを寄せて城門の先の霧をにらむばかり。
ピットも同じ方角を見やり、ぽつりとつぶやく。
「ルキナ、大丈夫かな」
「それについては心配いらないよ」
今度はすぐ答えがあった。
「増援を求めたのは劣勢になったからじゃなく、その先の砦を取り返すのに十分な戦力を補っておきたいからじゃないかな。サラマスは、どんなに急いでも半日はかかる。クロムは……あれは夜通し進軍するつもりだろうけど、それでも着く頃には朝になっているね。だから、増援が必要なほどの敵襲だったのなら、応援を求めるよりは撤退した方が良い。第13部隊の隊長には、奇襲を切り抜けるだけの自信はある。だけど、消耗が予想されるから援軍を要請した。つまり、敵襲を退けたうえでさらに進軍し、本来の目的も達成しようと決意しているんだ」
彼はそこでふと彼方を向き、こう呟く。
「それに僕らはもう、そう簡単にはやられない」
それはあまりにも小さな声だったために、城内の廊下を行きかう人のざわめきにかき消されてしまった。
ピットの方もまた、数日前の夜に相対したルキナとのやり取りを思い返していたせいか、ルフレの様子には気が付かなかったようだった。
「……そっか。それなら、まあ、いいんだけど」
「何か腑に落ちないって顔してるね」
「結局僕らの出番はなかったけどさ、君たちの立ててた作戦が理解できないんだ」
周りを行きかうイルーシア兵に身元がばれないよう、彼は兜をルフレに寄せてこう続ける。
「僕が伝令のふりをして、クロムの話を遮ってマルスから引き離す。そしてクロムと一緒に城から出る。そういう予定だったけど、でも、あの部屋には他に人はいなかったんでしょ。それなら、あとは僕がマルスにもう一度手紙を渡すだけで済んだのに。そうでなくたって、あの話を邪魔することは無かったんじゃないかな? せっかく本当のことに気づかせようとしてくれてたのに、それを……」
「焦りは禁物だ」
自信に満ちた笑顔でルフレは言う。
「この連合軍に参加している人たちは、平和を望んでいるという点では一致していても、誰もが君の手紙を読んで同じ考えを抱くとは限らない。最適の時機が来るまでは、たとえ一時的に遠回りになろうとも、その時の流れに乗る必要もある。そうして慎重に味方を増やしていくんだ。一見道ができているように見えても、安易に飛び込まず、周りを着実に埋めていくべきだ」
「僕が最初にマルスに渡しちゃったのは悪手だったってこと? 確かに結果は散々だったけど……。君が言いたいのは、要するに急がば回れってことだよね」
「回りくどく見えるかもしれないけど、それが最良の手なんだよ」
そう言ってから、彼は再び城門の方角を見つめた。
「それに、僕らが出なくてもクロムが引き離されたのは、ある意味では良い兆しだ。僕らが進んできたのは、そしてこれから進もうとしている道は、間違った方向じゃない」
彼の目には、まるで戦略を立てているときのように真摯な輝きが灯っていた。一方、それを横から眺めるピットは呆れ半分驚き半分の様子だった。
「確かにここまでは君の言う通りの順番で配って、それでうまく行ってるけど……。今日の『これ』も、クロムとルキナの間で立ちまわるのも計画のうちってこと?」
「そういうこと。まあ……結局僕らが出るまでもなかったけど、嘘をつくようなことにならなかったのは良かったかもね。クロム、そういうの好きじゃないだろうから」
ルキナがルフレに協力を要請しに来た際にも、ピットは傍でそのやり取りを見ていた。
ルフレはルキナにもそう言って止めようとしていたが、彼女はそれに対してこう言ったのだ。
『そのくらいの嘘でもなければ、お父様の勢いを止めることはできません』
『責任は私が持ちます。理由も説明して、謝ります。ですから、どうか力を貸してください!』
その時の剣幕を思い返しながら、ピットはふとこう尋ねる。
「でも、なんでルキナは嘘をついてまで止めようとしてたんだろう?」
そう軽い調子で首を傾げたピット。
それを聞き、ルフレはすぐには答えずに門の方角を見つめる。その横顔はもはや真剣を通り越し、深刻な面持ちだった。まるでその責任が自分にあると言うかのように。
「――イーリスの人たちにとって"マルス"様の御名は重要な意味を持っている。とりわけルキナにとっては、絶望に満ちた世界にただ一つ残っていた希望で、自分が耐え抜くための拠り所になっていたんだ。そんな彼女があの知らせを読んだら……」
それ以上は言わず、彼は首を振ると再び笑顔を見せた。
「心配しないで。僕らは君の味方だ。この戦いを終わらせようと思ってるし、それが巡り巡って王のためにもなると信じてる。もうじきロイの準備も整うはずだ。君も最後の出番に向けて、心の準備をしておいてね」
その日、連合軍の長を務める王は円卓の間にとどまっていた。
普段ならば城内を見回っているところのはずが、彼は外へ出ようという様子もなく、円卓に手を置いて考え事にふけっているようだった。
マルスがぼんやりと眺める先には、イルーシアの地図が広がっている。ここのところ戦略会議が断続的に行われるせいで、片づけられないままになっているのだ。軍の駒も城塞の駒も、最後の会議で並べられたまま置き去りにされている。
クロムは、このイルーシアでの戦いはイーリスの歴史書に書かれていないと告げた。
『俺たちが戦わされているこの戦いは――』
その先は、何と言おうとしていたのだろう。
彼が未来から来たこと、そしてイーリス聖王国の祖がアリティアであることも信じる。
しかし、二つの歴史は千年、下手をすれば二千年は離れている。それほどまでに遠い未来なら、必ずしもすべての歴史が正しく残っているとは限らないのではないか。
実際に、それよりも少し短い期間が空いただけの事実――竜族の蜂起にまつわる本当の理由さえ、この大地では闇に葬られてしまっていたのだ。人間に対し心を開いた竜族が語ろうと決心しなければ、彼らが人間に怒りを向けた本当の理由は、竜族と共に歴史の陰に消え去ってしまっていたことだろう。
だとすると、『この戦いが後世に残されていない』というクロムの訴えと、自分たちを取り巻く現実の間で折り合いをつけるならばどうなるだろうか。
――この後、この戦いが連合王国にとって『語りたくない歴史』になりかねない何かが起こる、ということか。
イルーシアの大地を、北へと視線を向けていく。その先には地図に描かれなかった彼の祖国があるはずだ。
――英雄たちが次々と討ち死にし、新生帝国の手がイルーシアを越えてその先へ……
やはり……僕らは祖国アリティアまでも失い、アカネイアまで逃げ延びることになるのか……?
マルスがその予想に至ったのはあの日の後、イーリスの者に掛け合って彼らが持つ地図を見せてもらった時だった。
クロムの腹心である騎士、フレデリクが地図を広げてみせたとき、マルスは思わず言葉を失ってしまった。地図の東側に記されていた地形は、自分の記憶しているアカネイア大陸とほとんど瓜二つだったのだ。やはり彼らは自分の国と所縁のある人々だったのだ。
フレデリクはマルスの問いかけに応じて、イーリス聖王国のある位置を指し示した。だがそこはアリティアではなく、かつて"アカネイア王国"のあったあたりだった。
アリティアが存在している島は、彼らの頃には別の国の領土になっていたそうだ。
『ペレジア、我が国とも因縁の深い国です。我々の時代では邪竜を信奉する教団によって支配されていましたが……』
そこで彼は我が事のように悔しげに顔をしかめ、首を横に振った。
『まさか陛下の治められている国が、その領地に飲み込まれていたとは……』
不安材料はそれだけではなかった。
いまだにアイクも、そして彼を探しに行った二人も戻ってきていない。カムイとベレスは王都を出て一週間、アイクに至っては、野営地を発ってからもうじき二週間にもなる。
これを受けてついに先日、捜索部隊が編成され、彼らの向かったであろう方面へと出発していった。せめて自分もその部隊に参加して彼らを探しに行きたかったのだが、イルーシアの重臣が折れるはずもなく、そればかりか身内からも考え直すようにと忠言されるほどだった。
悔しいが、こうも立て続けに行方不明者が出ている中では無理もない。今の自分にできるのは、彼らの無事を信じて待つことだけだ。
この戦争は、いずれどこに行きつくのか。
イーリスの地図から読み取れたのは、今アリティアのある地は、未来のどこかで邪竜を信奉する国に支配されるということ。
これを現状と、すなわちメディウスを復活させたとする新生ドルーア帝国がアリティアを狙っている状況と類似点を見出そうとすれば、いくらでもできてしまう。
だが悲観するのは未だ早い。アリティアの滅亡が、そしてペレジアという国の興りが、このイルーシア戦役の時に"起こった"とは限らないのだ。
イルーシア戦役のことはそもそもイーリス聖王国の歴史に残っておらず、したがってアリティアの地を失った原因がこの戦役であると示すような史実も存在しない。
――それに……もし仮に『そうだった』のだとしても、僕は……僕らは、その運命を変えてみせる。
イルーシアの地図に広げられた赤と青の駒。赤い駒は依然として王都ストライアを取り囲んでいたが、マルスはそこから目をそらさず、挑みかかるような覚悟と共に強い視線を向けていた。
今から遠い未来、クロムの娘は崩壊した世界を変えるために時を超え、破滅の未来を――彼女にとっての『現在』を、未然に防ぐ。
そして今、マルスの元にはいずれ来たるべき時代を知る人々を含め、数多くの頼もしい勇士たちが集っている。
また、イルーシアを取り巻く近況は必ずしも悪いことばかりではない。
最北の地を治めるゲルストマン辺境伯の元には連合軍の天馬騎士と竜騎士を主力とする連隊が十分な猶予を持って辿り着き、騎士や民兵たちと共に防壁の建築や籠城戦の備えに務めているとの報せがもたらされた。
また、サラマスの第13部隊は増援が来る頃には奇襲を退けていた。薄暗くなってきたせいで敵の規模を見積りにくかったが、どうやらただの山賊の寄せ集めだったらしく、予想していたよりも部隊への被害は少なかったそうだ。
そのままクロム率いる増援部隊とともに砦へ進軍し、難なく新生帝国の占領軍を撃退すると、駐留部隊を残して昨夜王都へと帰還した。
一方サラマスを通り抜けていった千人規模の新生帝国軍は、サラマスの北の外れ、辺境伯領を望む山のふもとに停留していたという。山脈地帯を強引に進軍したためか、その人数は以前に報告された時よりも明らかに目減りしていた。本当だとすればあまりにも人命を軽視した振る舞いだ。
それほどまで急いでも連合軍に先を越されてしまい、先制攻撃の機会を失った新生帝国の軍勢は体勢の立て直しもかねて様子見を余儀なくされているというのが大方の見立てである。連合軍側も、これまでの教訓から帝国軍に食糧を略奪させまいと、近隣の村や町にはすでに部隊を送ってあるというから、いずれ諦めて撤退するかもしれない。
北を一気に抜ける思惑が外れたせいだろうか、新生ドルーア帝国の動きはここ最近かなり不規則なものになっていた。まるで連合軍をじらそう、あるいはおびき出そうというかのように、挑発行為や偵察行動に出る回数が増えてきたのだ。それが実際の進軍につながるか否か、見極める目的もかねてここ最近はほとんど連日のように戦略会議が開かれている。円卓の間の地図や駒が片づけられていないのもそのせいだった。
「――マルス様!」
名前を呼ばれて、我に返る。見上げた先、開け放たれた扉の向こうには黒紫色のローブを着込んだ青年が立っていた。
さりげなくイルーシアの衛兵が両脇についてくる中、彼は屈託のない笑顔とともに歩いてくる。
「こちらにおいででしたか」
そこでマルスは、彼と兵棋演習を行う約束を取り付けていたのを思い出す。
「ああ、もうそんな時間だったか! ごめん、僕の方が呼んだのに、君に探させてしまって」
これにルフレは笑顔を見せ、首を横に振った。
「お気になさらないでください。場所はこちらで……?」
「いや、いつもと同じく執務室にしよう。ここじゃ広すぎるし――」
そう言ってマルスはイルーシアの地図に、青い駒の数々に目を向ける。
「……皆に悪い気がしてしまうからね」
声を落としてそう言った彼を慮るように、ルフレは落ち着いた声でこう応える。
「兵棋演習は訓練の一環です。遊んでいるわけではないのですから、陛下が心を痛められることはありません」
「そう言ってもらえるとありがたいよ」
それから少しして、王城の執務室にて。
マルスの説得により、イルーシアの衛兵は執務室の外に移動していた。お付きのイルーシア貴族がこれを受け入れたのも、ルフレがイーリス聖王の片腕とも評されるほどの軍師だったからだろう。お付きの貴族は戦略会議にも同席しており、クロムがルフレに全幅の信頼を寄せているのもよく知っているようだった。
ルフレを演習にかこつけて呼び出し、さらに人払いをしたのには理由があった。
クロムはあの後、サラマスの駐留部隊を率い、その指揮系統をサラマス侯爵にしっかり引き継がせるまで現地に残ることを決めた。今後サラマス方面で敵の動きが無かったとしても、戻ってくるのは数日後になるだろう。
しかし彼は王都を後にする前、こうも言い残していた。続きはルフレに聞いてくれ、と。
その言葉からすると、"エンジェランドの遣い"から受け取った手紙について二人は何らかの結論に至っており、それを共有しているはずだ。
あの時クロムは、連合王国の運命が掛かっているとまで言ってイルーシア人を遠ざけていた。
だからあの話の続きを聞くのならば、他に聞く者がいない場所の方が良いだろう。兵棋演習を口実にルフレを呼び出したのは、そう考えての行動だった。
兵棋の盤に、様々な兵種を模した駒を並べていきながらルフレは言った。
「こうして陛下と兵棋演習を行うのも久しぶりですね」
彼を手伝いながら、マルスはこう答える。
「ここのところ戦況が落ち着かないからね……。最近じゃ、僕らが顔を合わせられるのは戦略会議くらいのものだ。でも、君の都合がついてよかったよ。これまで色んな人と対戦する機会があったけど、君ほど勉強になる人は少ないから」
「恐れ入ります。陛下ほどの方となれば、あえて僕から学ぶことは無いですよ」
駒を並べ終えると、彼は席についた。先にどうぞ、というように片手で促す。
二人は取り決められたかのように口をつぐみ、目の前の盤に集中を向けていた。
かわるがわる、沈黙のうちに手が伸びては盤上の駒を一つずつ動かしていく。時に数字の刻まれた賽を振り、それに従ってどちらかの駒を取り去る。
なるべく犠牲を出さずに、なおかつ勝利を目指す。二人とも戦法は似ており、片方が攻め入ればもう片方は退いて後方部隊と合流し、おおむねそれを繰り返しているようだった。
情勢は拮抗し、いつしかルフレに問うことも忘れて、マルスはすっかり演習に集中していた。
ふと、ルフレが口を開いた。
「この模擬戦内の時間で、もうじき一年が経ちますね」
「……そうだね」
「このままだと冬になります。いずれどちらかの物資が尽きてしまいますよ」
「休戦協定でも結ぶかい?」
と、マルスは笑いかける。それに対しルフレも笑みを返した。
「僕ならそうするでしょうね。とりわけ、相手は人命を大事にする指揮官のようですし、交渉の余地はあると考えます」
この返答を聞いて、マルスはふと盤上に目を落とし、その眉間にしわを寄せる。
「この戦いならそれで良いかもしれない。……でも」
何かを言いかけ、その先が立ち消えてしまう。
ルフレは真剣な目でそれを受け取り、継いだ。
「統率が取れているわけでもなく、兵士をほとんど使い捨てにしてまで領地を広げようとする無謀な戦い方。それにもかかわらず、勢力が一向に衰えない軍ではどうか、と?」
盤から顔を上げ、マルスはルフレの様子をうかがう。
「……君なら、どうする?」
「そうですね……」
と間を置き、彼は目をつぶって言葉を整理した。それから、
「これまでに何度となく戦略会議が開かれました。僕も同席していますが、今までに一度も、和平の選択肢が出たことはありません。僕からも提案したことはありません。それだけははっきりと記憶しています」
きっぱりと言い切った。
「そうだったね。僕も、和平が可能だとは思ったことがなかった。相手は一度も使者を送ってきていない。戦場で相まみえる兵士も、こちらと言葉を交わそうとしないとも聞いている。前に王都に来た鳥翼族は帝国の使者だと言われているけど……僕は正直怪しんでいる。何しろ、身なりが帝国の者とは違っていた」
そう言いつつも、彼は手紙の文面を思い出していた。あなたが望めば戦争は終わる、と。
僕は、諦めるわけにはいかない。イーリスの地図に記されたアリティアの未来を知ってもなお。
心の中でそう強く念じたが、その先の言葉が出てくるまでには時間が必要だった。
「でも……それなら、僕らは戦い続けるしかないのだろうか。相手がこの地をあきらめるまで」
苦渋の末にこぼれた言葉を受け取りながらも、ルフレは声を落として現実を指し示す。
「……これまでの戦況からして、新生帝国軍が諦めることはないでしょう。優勢とも言えず、かといって劣勢とも言えない。そして少なくとも、陣地の奪い合いがずっと続いているのは彼らの領土ではなく、イルーシアなのですから」
「そうだ。僕らは時間をかけすぎている。帝国の進軍を止めることと引き換えに、この国にどれほどの苦難を負わせてきたことか……」
「陛下」
そこで、ルフレがわずかに身を乗り出す。
「覚えておられますか? 正確に、この戦争が始まってから……イルーシアに来てからどのくらいの時が流れたのか」
「それは――」
当然といった顔で答えようとした、彼の目に当惑がよぎった。
「……確か、知らせを受けたのが610年の夏の終わり頃……。秋にこの城へ到着して、すでに臥せっていたイルーシア王から国のことを、任されて……」
彼は顔を盤面に向け、無意識に片手で額を抑える。
「その後は、同盟国からの援軍を受け入れたけど……いくら砦を取り返し、防壁を築きなおしても、相手の抵抗は収まらなかった」
次第にその手には力が入り、ほとんど爪を立て、前髪をつかむようになっていく。
「……それどころか、追い込めば追い込むほど、まるで火に油を注いだように勢いづいて取り返されてしまうんだ。最初は国境の砦を取られただけだったのが、次第に北へ……王都の方面へ……でも、そうしているうちに君たちのように、アカネイアの外から来た人たちが加勢して、ようやく僕らは……」
「――陛下」
その言葉に、マルスは我に返った。
顔を上げると、軍師の瞳がこちらをまっすぐに見据えていた。
「思い出せなくて当然です。……僕にも分からなかったのです。クロム達とともにイルーシアに迷い込んでから、どれほどの月日が経ったのか。でも、それだけではないのです。僕らが"気づくべきだった"ことは」
彼は冷静に、それでいつつ異論をさしはさめないほどの勢いで疑惑を示していく。
「まずは、このイルーシアを治められていた先王のことです。その御方がお世継ぎもなく、さらにご高齢であるにもかかわらず、指名さえされていなかったのは……少し、不自然ではないでしょうか。それにこの連合軍のこと。それぞれの守るべき国があるはずなのに、あれだけの勇士がこんな小国に停留し続けていられるのはなぜなのでしょう。そしてこの戦役。アカネイア大陸はあれほど広いのに、なぜこんなに狭い地域だけで熾烈な攻防が続いているのでしょうか?」
冷静な中に込められた、確かな熱量。
その声が執務室にくぐもったこだまを残す中、マルスは注意深く考えをまとめると、こう返す。
「……確かに、君の言うことには道理がある」
まっすぐに見つめて、言葉を継ぐ。
「でも、それが現実じゃないのか。例えば世継ぎのことだって、オルレアンはほとんど同じ理由で王位を僕に譲った。前の暗黒戦争でも、諸国の勇士たちが僕らの目的に賛同し、仲間に加わっていった。戦線が膠着すれば、その場にとどまることもあった。今の戦いも、イルーシアは新生帝国とアリティアの間にある唯一の国だから、帝国軍が進軍して真っ先に当たるのは何もおかしいことじゃない。そして戦火も、君たちが全力で戦ってくれているから、アカネイア中に波及することなくこの国だけに収められている。"それ"が事実なんだよ。僕らの目の前にあるのは。それを曲げてまで、君が伝えようとしているのはいったい――」
そこで、ノックの音が響いた。
返答を待たずに扉があき、入ってきたのはロイだった。
その顔を見て、マルスは少し驚いたように目を瞬いた。
彼はあれからずっと書物庫に引きこもっており、戦略会議への出席を請う再三の要請や、身内からの説得にも関わらず全く出てこなくなってしまったため、その顔を見たのは久しぶりだった。
疲れた顔をしていたが、驚いたのはそこではない。その目に灯る、あまりにも強い意志だった。
彼は、その胸に紙の束を抱えていた。その綴じられていない紙束があたかも宝物であるかのように、きつく抱きしめるようにして。
兵棋の駒は脇に避けられ、盤面の上には今やロイのまとめた手書きの資料が広げられていた。
紙に書きつけられていたのは数字と文字の整然とした行列だった。
とりわけ目を引いたのは、イルーシア国軍の戦没者の合計人数と、領地内の農村から納められる農作物、畜産物、王都や領地内で催された行事、およびそこから割り出された経過年数。
イルーシアで亡くなったとされる兵士の人数は、かつての大国アカネイアの人口をはるかに超えていた。
そして経過年数は――
「……何かの間違いじゃないか」
マルスは呆然として首を横に振り、紙面に目を向けたままほとんど呟くようにして言う。
「僕もそう思いました。でも、何度計算してもそうなるんです。少なくとも、こんな量の小麦や肉を、数年で生産できるほどこの国は広くありません。いえ、たとえどんな大国であっても不可能でしょう」
「でも、こんなの……人に与えられた時間を、明らかに超えてしまっている。こんなに長生きできるのは、竜族くらいのものだ」
「……あくまで推測です。何か根拠があるわけじゃありません」
そう前置きして、ロイは言った。
「僕らは、『閉じた時間の輪』のようなものの中に、閉じ込められているのではないでしょうか」
「閉じた……時間の輪」
「ええ。例えば一年が終えると次の年が来るのではなく、またその年の最初に戻されるような。あるいはもっと短く、月単位かもしれません。いずれにせよ、そうなればこのイルーシア兵の戦没者の異常な人数も、小国でこれほどの大所帯を数百年にもわたって支え続けられているのも説明がつきます。この国が寂れているのは連合軍の駐留のせいではなく、最初からずっとこうだったのです」
「でも、僕らには記憶がある。ここまで積み重ねてきた戦いや、取り戻せた地域、奪い返された地域のことも覚えている。そして、戦地で命を落とした人々の名前も。……それは一年や一か月を限りに巻き戻ったりしていない。それにイルーシアの人たちだって、亡くなったはずの兵士が生き返ったら騒ぎになるはずだ」
これを受け、ロイは同意するように頷きつつも、注意深い口調でこう返す。
「必ずしも、亡くなった人が生き返っているとは限りません。戦没者名簿には名前や出身地など、一人一人を識別できるような情報が載っていますが、僕の気づけた限りでは"同一人物"はいませんでした」
まっすぐに見つめる彼の顔には、疲労こそあれ、それに飲まれた表情ではなかった。
彼は確かに、その目で見たのだ。
ロイに続けて、ルフレが問いかける。
「この『繰り返し』。陛下は別のことで心当たりがあるのではないでしょうか?」
彼の言葉を受けて思考を巡らせていたマルスは、やがて一つの答えに行き当たる。
「……まさか、新生帝国の兵?」
ルフレはこれにゆっくりと頷いた。
「僕もクロムからベルミスでのことを聞きました。そして、僕らが戦場で幾度となく出くわした、勢力の異常なまでの盛り返しも……これで説明が付きます。新生帝国ではおそらく、イルーシアよりもはるかに短い周期で甦りが起こっているのでしょう」
「そんなことって……」
差し出されているのは、この現実を崩壊させかねない数々の証拠。
すべてに筋が通っているが、それが指し示す先にあるのは、あまりにも非現実的な結論だった。
これだけの人数を、そしてこれだけの国土を堂々巡りの中に閉じ込めるなんて。
そして失われた分と同じだけの人命を、彼らの人生の途中から、まるで最初から生きていたみたいにして虚空から生み出すなんて。
そんなこと、神でもなければできるはずがない。
混乱し、とりとめのない思考の中に落ちかけていた彼を、ロイの言葉が引き戻す。
「マルス様。もう一度、手紙を受け取っていただけませんか」
戸口はいつの間にか開け放たれ、一人の兵が立っていた。
衛兵かと思ったが、それにしてはあまりにも背が小さい。
彼はおもむろに兜を取る。その下から現れたのは使者の顔。
有翼の遣いは手紙を片手に携え、廊下にわだかまる闇を背に、凛と立っていた。