星は夢を抱いて巡る
第1章 戦争をもたらす者
深夜の城内。
あてがわれた寝室、明かりを消した室内でマルスは軽装の鎧を身に着けたまま、外の物音に耳を澄ましていた。
窓から差し込むぼんやりとした月明かりだけが唯一の光だったが、すでに暗さに目も慣れており、彼の目には室内の調度品が見分けられるほどになっていた。
装飾こそ質素だが、座り心地の良い椅子。羽毛の布団が敷かれた天蓋付きベッド。重厚な作りの書斎机。どれもイルーシアの重臣達が用意してくれたものであり、彼はその一つ一つに名残惜しそうな、それでいて詫びるようなまなざしを向けていた。
彼はこの城を出るつもりでいた。
窓は開け放たれているが、そこからは脱走できない。城壁にも城内敷地にも巡回の兵がおり、これほど静かな夜更けには、窓から抜け出そうものなら物音ですぐさま気づかれてしまうだろう。それに第一、窓からの脱走は以前に一度試みて失敗してしまっている。
あれから年月も――ロイの計算が正しければ数百年分の時間が経ってしまっているが、巡回兵はその時のことを今も忘れていないのだろう。窓の外に見える庭には、今夜も見回りの明かりが行き来していた。
したがって脱出の手口は城内を抜けていくものになる。ルフレとロイ、そしてピットは、手分けして城内の兵士の気をそらす係だ。マルスが進む道に合わせて三人が巡回兵の注意を引き、城外に出られるまでそれを続ける。
マルスが自分の決心を伝え、協力を頼んだとき、ルフレ達の反応は実に素早いものだった。おそらく、こうなることを予想していたのだろう。ルフレとピットは以前から夜の城内をそれとなく見回っていたと言い、巡回の人数から時刻、経路まで書き込まれた王城の見取り図を取り出して見せた。
今日は新月。この最適の時機が来るまで何日も待つことになった。
毎日のように執務室に集まり、ロイやルフレと打ち合わせを重ねた。
マルスは今日この日が来るのを待ち望んでいたが、同時に恐れてもいた。
これで何度目か、もう数えることもやめてしまったが、それでも彼は耳を澄ます。まだ合図のノックは聞こえない。
胸では鼓動が高鳴っており、それをノックの音と勘違いしてしまいそうなほどだった。
彼はなんとか心を落ち着けようと、手にした手紙をもう一度、読み返す。
その文面は、かつて見た時とは異なるものだった。
『真実は 王都の教会 戦没者墓地に
ただ一人で向かえ いかなる人も連れていってはならない』
――本当に信じてよいのだろうか。
ふと、そんな疑いが心をよぎる。
もしもこれが新生帝国軍の罠であり、ロイの見たイルーシアの記録も、悉くが斥候によって用意された偽物だったとしたら。
そこまで考えて、彼は首を横に振った。ずっとイルーシアの重臣たちに過保護にされていたせいだろうか、自分が過剰なまでに保身的に考えていることに気づいたのだ。
――僕が思い出せないのが、何よりの証拠だ。
この戦いがいったいいつから続いているのか。そして、この国の外に出なくなってから何年経つのか。
それでも、勇気を得ようというように、無意識に彼はその手をファルシオンの柄へと添えていた。
と、そこで小さなノックが響いた。二度、一度、三度、一度。あらかじめ決めておいた合図の通りに。
完全には閉めずにおいた扉を、音が鳴らないよう細心の注意を払いつつそっと押すと、戸口では衛兵の代わりにルフレが立っていた。廊下の方に顔を向けつつ、こちらに向けて目配せをしてみせる。
「今のところは順調です。取り決め通りの順路で、裏口まで向かわれてください」
声をひそめて伝える。廊下のかなたでは、ロイの声と衛兵が走っていく足音が聞こえていたが、それもだんだんと遠ざかっていく。
黙って頷き、マルスは部屋の外へと出た。
絨毯の上だけを歩いて足音を殺し、剣が鳴らないように片手で抑え、はやる心を抑えて先へ先へと進んでいく。
順路は間取り図の中で決めただけだったが、自分の足取りには迷いがない。
それに気づいたとき、もはやこの城も、自分が生まれ育ったアリティアの王城と同じくらいに熟知していることに思い至った。
唇をそっと噛み、込み上げかけた感情を、動揺を押し殺す。
――僕はどれほどの間、この城に閉じ込められていたのだろう。何度、この道を行き来したのだろう。
真夜中の城内はしんと静まり返り、時折どこか遠くで巡回兵が歩いていく他は、ほとんど人の気配もなかった。
ようやく城の外縁部に近づき、廊下の片側が外に開けて演習場が見えてきた。
だが、ここまで出てしまうと廊下には絨毯も敷かれておらず、そこにあるのはむき出しの石畳だ。はやる心を抑え、マルスはより一層慎重に足を運んでいく。
イルーシアの人たちは確かに、連合国王の身に危険が及ぶことを恐れている。
けれども、四六時中王城全体に厳戒態勢を敷けるほどの人員も余裕もないのが実際だ。
だから一旦自室を出てしまえば、あとは警備の厳しい場所を避け、巡回の間に行動すれば城の外にも出られるはず。
そう言い聞かせながら歩いていた矢先、彼はわずかに目を丸くして立ち止まる。
「マルス様……?」
廊下の先、月明かりに照らされて現れたのは、イーリスのルキナだった。
鎧の上から外套を羽織り、片手で抑えている。
彼女もまた、驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
「どうされたのですか、こんな夜遅くに……。それに、護衛の方は……?」
何ともない風を装うため、マルスはこれに対してきまり悪そうな笑いを返す。
「――ああ、なんだか寝付けなくてね……衛兵の皆には悪いけど、こっそり抜け出してきたんだ。たまには一人でいたいこともある。日中はどこに行くにも誰かがついてきて、気持ちはありがたいけど、ちょっと気が休まらなくてね……。君は? また熱心に剣の鍛錬をしていたのかな」
これを聞くルキナの表情は驚きから、やがて同情へと移り変わっていた。
「ええ。でも、マルス様、どうか散策は城の中だけに留めてくださいね。王都の外に出るのは危険です。アイクもベレスも、そしてカムイもまだ戻っていないのです。あなたにもしものことがあったら……」
「心配してくれてありがとう。でも外へは出ないから、安心して」
じっと見つめてくる彼女の真剣なまなざしに良心を痛めながら、うそをつく。
ルキナはやがて目を伏せ、そこでこちらの手にしているものに気づいた。
「――その手紙は」
はっと驚いたように息をのむ。その反応は、手紙を知っている者でなければありえなかった。
「君も、受け取ったんだね」
この言葉に彼女は、弾かれるように顔をあげた。
涙をこらえるように眉間にしわを寄せていたが、しばらくして瞼を閉じ、細く震えるような息を吐きだす。
何か重いものでも払いのけるようにのろのろと首を振り、ようやくのことで再びこちらに向き直る。
「……マルス様、私は――!」
切迫した表情を浮かべ、何かを言いかけた矢先、マルスの背後で騒ぎが起こった。
「陛下、陛下!」
「どちらにおられますか!?」
「どうかお返事を! どうか!」
イルーシアの人々の声。まだ距離があるが、おおむねそのようなことを口々に言っていた。
「そんな、もう見つかってしまったのか……?」
思わず口にし、声の聞こえてくる方角から後ずさる。
居室を見ていたルフレが、違和感を感じた他の巡回兵に押し切られてしまったのか、それともロイ、あるいはピットのどちらかが誘導し損ねてしまったのだろうか。
三人のことが心配だったが、ここで立ち止まってしまえば彼らの努力を無駄にしてしまう。ともかく、急いで裏口へ向かうしかない。そうしなければ、今日より後にはもう二度と脱出する機会は得られないだろう。
そう考えていたところで、彼ははっと顔を上げた。
火急を示す鐘の音までもが鳴り響き始めたのだ。
「マルス様!」
ルキナが名前を呼び、振り返らせる。
彼女は寒さ除けに羽織っていた外套を取りながら駆け寄り、こちらに渡す。それからその長髪をたくし上げると、手慣れた仕草で結い、短くまとめる。
伏せていた顔が上げられたとき、一瞬、マルスは鏡でも見ているような錯覚に陥った。
また同時に、かつてアリティアを逃げ延びる際に自分の身代わりになった、姉の姿をも思い出した。
髪を結いあげたその顔、左の目にイーリス王家の"印"がある以外は、ほとんど自分とそっくりだったのだ。
「君は……?」
それに対し、彼女はまだ先ほどの哀しみを陰らせながらも、微笑んだ。
「ずっとお慕いしておりました。あなたがまさにその人だと、もっと早くに気づいていれば……。いえ、そうでなくたって、本物のあなたに出会えて、共に戦えて……私は幸せ者です。本当は会えるはずも無かったのに……」
それから表情を改め、彼女は自信に満ちてこう言う。
「ここは私にお任せください」
聞きたいことは山ほどあったが、今はその場合ではないのも事実だった。
「……分かった。ありがとう」
短い言葉にできる限りの感謝をこめ、うなずくと外套を目深に被り、走りだす。
その背を追いかけるように、彼女の声が聞こえた。
「どんな"真実"を見たとしても、忘れないでください。私たちは皆、あなたの味方だということを!」
王城の裏口。使用人たちが行き来するような狭い扉がゆっくりと開き、黒い外套に身を隠した人影が顔をのぞかせる。
あたりに誰もいないことを確認してから、彼はすぐさま走り出ていった。
その後ろ姿はやがて、王都に満ちる濃霧の中に溶け込むように消えていく。
王都の外れにある、質素な教会。
イルーシアの戦役で命を落とした者達は、その敷地に弔われていた。
教会の細くとがった屋根と、敷地を囲う鉄の柵が霧の中からぼんやりと浮かび上がっている。その様を視界に収めながら、マルスは一歩一歩歩みを進めていく。
夜霧は低く立ち込めて、足元もおぼろげになっていく。あたりは静かだった。夜更けとはいえ、人が住まう王都においてここまで人気がないのは不気味なほどだった。
やがて、敷地と王都とを区切る門が彼の前に姿を現す。
門は開け放たれていた。その先に見えるはずの墓地は、濃霧に覆われて輪郭も定かではなかったが、マルスは意を決して教会の敷地へと足を踏み入れる。
何か漠然とした違和感があった。
振り返った彼は、出口がなくなっていることに気がついた。
前も後ろも、規則正しく並んだ墓石の隊列が見えるばかり。彼のちょうど横には、まるで隊長のようにひときわ大きな墓標があった。立派な大理石の一枚岩であり、特に勇敢な戦士をたたえ、偲ぶために、その名前を刻んでいる石だ。
逡巡ののち、用心深く足を運び、墓標の前に跪いて名前を確かめようとした。
だがその墓標には、ほとんど名前が刻まれていなかった。あれほど墓石が並んでいたにも関わらず、そこにあった名前は十にも満たず、殆どがベルミスの戦いで命を落としたイルーシアの武人の名前ばかりだった。
それから立ち上がり、あたりをもう一度見渡したマルスは、ふと怪訝そうに眉をひそめる。
戦死者の名を並べた墓標は、その地が複数の戦争を経ていない限り、普通は戦没者墓地に一つだけのはずだ。それが彼のいる側を向くようにして、右にも左にも、一定の距離をおいて置かれているのだ。
見渡す限りの敷地にずらりと整列し、霧の中に消えていくまで続いていた墓石の行列は、今彼の足元にある墓標に属するものではなかったらしい。
他の墓標はいったい、何のために置かれているのだろう。
訝しげな顔をしつつも、マルスはそちらへと足を運んでいった。
次の墓標も同じく、つややかな大理石でできていた。そこに刻まれていた名前の列は、先ほどの墓標よりも明らかに多い。
文字が霧の中から浮かび上がったとき、彼は思わずたじろぎ、それからやにわに駆けだした。
ほとんど地面に膝をぶつけるようにしてようにして座り込むと、彼は墓標に刻まれた名前の一つ一つを震える指で辿っていく。
『カイン』
『マリク』
『ゴードン』
いずれも出身の国と共に書かれており、彼のよく知る騎士であったり、親しい友人であることに疑いはなかった。
アリティアの者ばかりではなく、マケドニア白騎士団の姉妹の名、オルレアンの騎士の名、タリスの傭兵たち、アカネイア大陸で見覚えのある名前が連なっていた。
そればかりではない。彼らの名前の周りにはイルーシアのものに紛れて、アカネイアの外から来た者たちの名もあった。
そこには、戦略会議でいつも顔を合わせていた者も、戦場での八面六臂の活躍が噂になっている者も、城内の見回りの時に声を掛けられ、会話が弾んだ者もいた。
誰もかれもが、この墓標ではすでに亡き者としてこの場に時を留められ、冷たい石にその名前を刻みつけられていた。
墓標の上に手を滑らせ、目に見知った名前が映るたびにそちらへ視線をやり、しばらくの間それを繰り返していたが、やがてその手が力無く下げられる。
「どういうことなんだ……」
悄然として、彼は呟いた。
その視界の端を、誰かの足が横切る。
はっと我に返って見上げた先、そこには彼自身が立っていた。
もう一人の自分は、いつも着込んでいる明るい青色の服装ではなく、喪服に身を包んでいた。
墓標の前に両ひざをつくこちらには目もくれず、青い瞳を悲しみに曇らせてこちらの頭の向こうを、石の肌に刻まれた名前を見つめていた。
自分の後ろには他の連合軍の人々も集まっていた。
見知った顔も、知らない顔もあった。
誰もが友を、兄弟を、親や子供を喪い、ある者は泣くまいと震える唇を引き結び、ある者は放心したように墓石の列をぼんやりと眺め、ある者は昔の記憶に思いをはせるように瞑目し、首を垂れていた。
この光景にただただ圧倒されていたマルスだったが、彼らが一人もこちらの存在に気づいていないことを見て取ったとき、その胸に言い知れぬ戦慄が沸き上がる。
立ち上がり、もう一人の自分の横を通り過ぎて彼らに呼びかけようとする。
「みんな――!」
しかし、差し伸べたその手は仲間の肩を突き抜けた。まるで霧や靄を触っているように、何の手ごたえも感じられなかった。
驚いて腕を引き、それからもう片方の手で自分の手に触れる。それは間違いなく、確かな温もりをもってそこに存在していた。
呆然としてやがて顔を上げた彼の横を、そして真正面を突き抜け、仲間たちが歩み去っていく。濃霧の向こう、どことも知れない戦没者墓地の出口へと。
彼は再び、霧に包まれた墓地の中に一人、取り残された。
彼の顔にあった動揺は、少しずつ潮が引くように収まっていく。
厳粛な面持ちで首を巡らせ、次の墓標へと目を向けて、自らの足で歩き始めた。
整然と並べられた石、墓標の横隊。進めども進めども果てが見つからず、霧の中から延々と現れ続けた。
視界に親しい者の名や、イルーシアで新しく得た友の名を見つけるたびに彼の視線はそちらへと吸い寄せられた。
彼は眉を曇らせ、その名を見つめながら墓標の前を通り過ぎていった。
刻まれた名前の量は増減を不規則に繰り返し、また訪れる人々の身なりや人数も墓標ごとに異なっていた。
戦況の思わしくないだろうぼろぼろの格好をした兵がぽつりぽつりと現れることもあれば、時には新品同然の鎧を着込んだ兵が大勢やってくることもあった。彼らの顔と、彼らの見る墓標を見比べながらマルスは歩いていく。
墓参する兵の中には、時に、今はもう亡き人物が混ざっていることもあった。イルーシア貴族の一団が集まっている中にベルミスで斃されたはずの侯爵、まさにその人の顔を見かけ、思わず振り返ってしまう。
マルスは先へと進みつつも混乱を引きずるように後ろを振り返り、その横顔が霧の中に見えなくなるまで見つめていた。
――これは未来の光景なのか? それとも過去なのか……?
またある時、彼は思わずその墓標の前に立ち止まる。
そこに刻まれていたのは、大理石の片面を埋め尽くしてしまうほどの夥しい数の名。失われた数多の人命、彼らが生まれたときに与えられ、亡くなるまでに幾度となく呼ばれてきた名前。
それに対し、訪れてきた兵士はたった一人だった。
くたびれた格好の若い王族。
背に掛かるマントはその縁がほつれ、至る所に焦げ目がつき、穴が開いていた。青い服には返り血なのか、それとも彼自身の血なのか、黒く固まった染みが取り去られぬまま残っている。
身に着けた鎧の表面には剣や矢を受け止めた跡が凹んで残り、彼の青い髪を留めるティアラは煙によってすっかり黒くくすんでしまっていた。
やつれはてた顔をうつむかせ、彼は――もう一人の自分は、ずいぶん長い間黙祷をささげていた。
墓標に刻まれた名前の一つ一つに祈りを捧げているのだろうか。あるいは、最後の別れを告げているのだろうか。
やがてもう一人の自分はふと儚い笑顔を見せ、一人孤独に歩み去っていった。
マルスはそんな自分自身の姿から、目を離すことができなかった。
あの顔立ちからして、あの『自分』はもう暫く碌な食事を取れていないはずだった。
それでも彼は一歩たりとも足をふらつかせることなく、ゆっくりと、そしてしっかりとした足取りで歩いていく。だがその背では、ぼろ布のようなマントが風にはためき、亡霊のように揺らめいていた。
見つめる彼方、霧に煙っていく彼の前に、よりおぼろな複数の影が立ちはだかる。
『自分』がそれを見据えて抜剣したところで、ついに耐え切れなくなってマルスは目を背け、うつむき加減にその場を立ち去る。
次に顔を上げたとき、まず目についたのは墓標ではなく、霧の中を横切って歩いていく一団だった。
彼らは八人がかりで長い箱を、棺を抱えていた。大層身分の高い者が亡くなったのだろうか、棺には精密な装飾が施された布が掛けられ、棺の後ろには葬列の人影が長々と連なっている。
皆が向かう方向はマルスから見て左手、すなわち教会の出口があるはずの方角であり、おそらくは棺の人物が本来属するべき国へと移送するところなのだろう。
葬列に近づいていくにつれて彼らの面立ちが分かるようになっていったが、それに伴ってマルスの足取りは徐々に滞っていき、ついに立ち止まってしまう。
「シーダ……」
棺のすぐ後ろに付き従っていたのは、彼の婚約者だった。青ざめた顔をうつむかせ、目の前に落ちかかる青い髪を払おうともせず、ただその唇を悲しみに震わせていた。目は大きく見開かれていたが、それは地面さえも見えていないようで、彼女の足取りはまるで操り人形のそれのように力が入っておらず、ふらつき、今にも躓きそうになっている。
マルスは、あと少しのところで彼女の元に駆け寄るところだった。手を差し伸べたとして、また突き抜けてしまうであろうことも忘れて。
これほど悲嘆にくれる彼女の表情を見たことはなく、できるものなら彼女の肩を抱き、声をかけて慰めてやりたい、そう願うほどだった。
彼の代わりに、彼女の肩にはマルスの姉、エリスの手が置かれていた。姉の顔もまた深い悲しみを抱いていたが、シーダのことを案じ、その悲痛を少しでも肩代わりしてやりたいというように、タリスの姫の顔をじっと見つめていた。
彼女たちの後ろには親友のマリクが付いていた。彼もまた二人の手前、自分の感情を押し殺していたが、その眉間には深いしわが刻まれている。
その後からは続々と、アリティア騎士団やタリス傭兵団の顔ぶれが続いていた。幾人か姿の見えない者もいたが、おそらくは棺の人物と同じように戦で命を落としたのだろう。
――シーダがあんなに悲しむなんて……まさか、お父上が亡くなられたのか……?
タリスのモスティン王は、今の連合軍には未だ参戦していない。だが、今後加わるとも思えなかった。
彼は、すでに英雄戦争の頃には一線を退くような年齢であった。もし仮に、戦ではなく天寿を全うしたのだとしても、それが遠く離れたイルーシアで葬儀が行われるはずがない。
親しい人々の葬列が通り過ぎ、霧の海の中、墓地から遠ざかる方角へと吸い込まれるように消えていっても、マルスはしばらくその場に佇み、彼らの後ろ姿が見えなくなっていったあたりを茫として眺めていた。
ふと、足元に墓標があることに気が付く。先ほどの棺に収められていた人物がイルーシアでの戦いに倒れたのであれば、その名が大理石に刻まれているはずだ。
跪き、真っ先に目に入った名前。
文字が単語として脳裏で焦点を結び、彼は愕然として色を失った。
それは、彼自身の名前だった。
しばらく声もなく、マルスは自分の名前が大理石に黒々と刻まれている様を見つめていた。
何かの間違いではないかというように唖然とした表情をしていたが、それは突如として雷光が閃くように理解へと切り替わる。
彼は、力なく顔をうつむかせた。
それからやがて、顔を巡らせて背後を、すでに立ち去ってしまった葬列の方角を再び見つめていた。
初めは、直前の墓標で見た、王都まで追い詰められた自分の末路を見たのだと思った。
だが、そうではない。今対峙している墓標には、あの時ほど厖大な数の名前は書かれていない。むしろ最初の一列も埋まっておらず、戦が未だ始まって間もないことを思わせる様子だった。
そしてそこにあった数少ない名前を一通り眺めたとき、彼はようやく思い出していた。
「……そうだ。覚えている、僕は……」
呟く先からその声は霧の中に吸い込まれていったが、ただ一人取り残された彼の目にはもはや戸惑いはなく、霧のかなたを、教会の門があるはずの方角をまっすぐに見据えていた。
霧の先に彼が幻視していたのは、ここにいる自分が"参加しなかった"戦い。
それは、イルーシアに来て間もないころだった。リンビックからの応援要請に応えるべく、イルーシア兵と連合王国軍を引き連れて峠を越えようとしていた時、突如として背後から敵襲を受けたのだ。
その一帯はすでに連合王国軍が取り戻して日も長く、新生帝国軍が潜伏しているという情報は噂にも上っていなかった。だが彼らはどうにかして生活の痕跡を徹底的に消し、待ち受けていたのだ。
しかし如何にすれば可能になったのだろうか。四方を敵に囲まれて、補給を受けられる手立てもない険しい山岳地帯でひと月あまりの間、大隊規模の兵士全員を食いつながせ、あまつさえ相手の将を落とさんとするほどの兵力を保つなど。
さらには示し合わせたかのようにリンビック方面を侵略していたはずの敵軍も前方に現れ、退路は完膚なきまでに絶たれてしまった。
全く予想だにしていない場所で奇襲を受け、連合王国軍は瞬く間に混戦に飲み込まれていった。
大部隊は見るも無残に分断され、細かく引きちぎられた。一人の兵士に対し何人もの帝国兵が躍りかかり、一方的になぶり殺されていった。驚愕の声、つんざくような悲鳴、命乞いをする哀れな声、無念に唸る低い声、峠には親しい者の聞きなれた声がこだまし、曇天に力なく立ち上っては消えていく。
何とか手近な者だけでも檄を飛ばし、正気に戻そうとした。だが、相手はすでに戦況を制し、勝利の冠は帝国の手に落ちようとしていた。
ふと耳元に嫌な音を感じて盾を構え直し、振り返りかけたその時、首筋に鋭い痛みが走り――
自分が矢を受けた瞬間を鮮烈に思い起こしてしまい、彼は思わず首に手を当てたままきつく目をつぶる。
呼吸が浅く、速くなっていた。しばらく、その場を動くことができなかった。
息を吸うたびに、墓地に満ちる冷たく湿った空気が喉を通り抜けていく。
そうしている間に幾分落ち着いてきて、そこでようやく彼はその手を放す。見つめた手のひらには当然何も付いてはいなかったが、彼はそれを疑うような目をして、しばらく何も言わずに見つめていた。
やがて少しずつ、再び現実が戻ってきて、動悸は治まっていった。
その手を握りしめ、マルスは再び顔を上げる。
――閉じた時間の輪は……一つじゃなかったんだ。
今まで見てきた墓標の幻は、今いる輪の未来や過去などではなく、それぞれが別の輪に属する最後の場面だった。
つまり、待ち受ける最後が勝利にせよ敗北にせよ、イルーシア戦役が終わるたびに自分たちは他の輪へと移され、また最初からやり直していたのだ。何度も、何度も。
だが、それが分かったからと言って、輪を抜け出す手立てが見つかったわけではない。
無限に続くように思える戦没者墓地から出るための方法も、一向に分からないままだ。
ともあれ、ここに立ち止まるよりは歩き続けた方がいくらか頭も働きそうだ。
そう考えて首をのろのろと横に振り、立ち上がって次へと進もうとした時だった。
アリティアの葬列が消えていった方角から、別の一団がやってきていた。
象牙色の装束。その特徴から言ってイルーシアの人々に違いない。
後ろの方に付き従っているのは王城で幾度も見てきた重鎮たちの壮年から老年の顔ぶれだったが、その先頭にいる者だけはフードを目深にかぶり、年齢はおろか、男とも女ともわからない。
ほとんど口元しか見えなかったが、マルスは言い知れぬ思いに眉をひそめ、目をすがめていた。
何か心の奥を引っかかれるような、奇妙な感覚を覚えていたのだ。
彼、あるいは彼女はそのまま歩いてきて、マルスの傍らを通り過ぎていく。
これほど近くを過ぎたのに、依然としてローブの人物の人相は分からないままだった。よく見ようとすればするほどその輪郭はぼやけ、辿ろうとした記憶は焦点を結ばないままに霧散してしまう。
ローブの人はマルスの視線に気づくこともなく、墓標の前に跪くと首を深く垂れた。肩は細かく震えており、重臣の一人がそれを慰めるようにそっと手を置く。
少なくとも、非常に親しい人のはずだった。
ある時は戦場で共に戦い、その采配を信じて前進し、そしてまたある時は王城で語らい、打ち明けられた悩みに答えたこともあった。
アカネイアの外から来た者たちと一緒に、他愛もない話をして笑い合い、共に温かい食事を囲んで語り合った。
それなのに、名前が出てこない。どんな顔をしていて、どんな色の目と髪を持っていたのかも分からない。
好きな花は、好きな食べ物は何だと言っていただろうか。趣味は何だったのか。戦場では何を武器として戦っていたのだろうか。
わき目も振らずに突撃するような人だっただろうか。それとも慎重に慎重を重ね、確実に勝てる相手としか当たらない人だっただろうか。
その者を突き止めるために必要なはずの事柄を、何一つとして思い出せない。
まるで、分厚いすりガラス越しに物を見ようとしているかのようだった。
結局ローブの人物は、彼がその名を思い出すよりもはるかに先に、その場を離れてしまった。
霧に消えていった背中を、マルスはしばらく見つめていた。
いつまで経っても自分の脳裏からはローブの人物を言い表すにふさわしい言葉が出てこず、戸惑いを抱えつつも再び歩き出す。
象牙色のローブ姿はその後も、次の墓標に辿り着くたびに何度も現れ、口元だけながら様々な表情を見せていた。
墓参にやってきた集団の中から、人目もはばからずに墓標に駆け寄り、縋り付くように泣き崩れた。
その光景とは裏腹に墓地はしんと静まり返り、啜り泣いているはずの声も聞こえてこない。しかし、フードの陰に見える口は確かにこう繰り返していた。『ごめんなさい、ごめんなさい』と。
藤色の花束を手に持ち、そっと墓標に手向けると、黙って手を合わせる場面もあった。
おそらくイルーシアの風習だろうか。その祈りの仕草はアリティアでは見かけない、異国の趣を感じさせるものだった。
また別の時には、ほとんど名前の刻まれていない墓標を前に、居並ぶ兵士たちの先頭に立って、何かを報告するような調子で口を動かしていた。
その声はやはり聞こえてこないままだったが、おそらくは戦勝の報告をしているのだろう。実際、彼の後ろにいる連合軍の顔には、この世を去った仲間を偲ぶ思いと共に、まぎれもない安堵の表情があった。
そしてその集団の中には、ほかならぬマルスの顔もあった。前に出てくる様子もなく、ローブの背中を見守っている。
どうやら、この"自分"は連合を率いる立場ではないらしい。
この輪ではむしろ、集団を後ろに従えて語っているところといい、あのローブの人物が長を務めているように見える。
その光景を見ていたマルスだったが、
「イルーシア戦役……本当の最高司令官は、あの人だったのか」
思いつくままに、言葉が口をついて出る。
まるで雲間から日の光が差し込むように、一つの記憶がよみがえった。
本来、イルーシアの老いた王には世継ぎがいたのだ。
王が城内で討たれた後は、正当な王位継承者が国を受け継ぐ。
それから、援軍に駆けつけたアカネイア連合王国軍と同盟を組み、新生帝国軍への抵抗を始めるはずだったのだ。
イルーシアを奪還すればその先のドルーアへ進軍することもあった。矛先を変えたドルーアを追ってアカネイアへ、あるいはもっと遠くの大陸へ旅立つこともあった。時には第三の勢力が出現し、それまで戦っていた相手と共闘することさえあった。
「でも、世継ぎが"いなくなった"から……次にたどり着いた僕が最高司令官を任されることになった」
彼は今や、自分が最高司令官になって以降の記憶を、輪の中に閉じ込められたまま忘れていた場面の詳細を思い出しつつあった。
一つの例外もなく、どれもがこのイルーシアに限定されていた。敗北で終わるにせよ、勝利で終わるにせよ、イルーシアから出られたことは一度もなかった。
全滅すれば当然巻き戻される。それに加えて、この国から帝国の軍勢を一人残らず追い出せたとしても、そこで記憶は途切れていた。ドルーアに攻め入ることのできた記憶は一つもなかったのだ。どういうわけか、閉じた輪はイルーシアの世継ぎ、本来の司令官がいたころよりもはるかに小さく、単純なものになっていた。
「そうか……だから……」
勝利か敗北、それだけが輪を終わらせる条件。今回の繰り返しは、勝ちきることも敗退することもなく一進一退を繰り返した挙句、数百年もの時が流れていた。
言葉が途切れ、沈黙があたりを支配したその時、ついに真実が襲い掛かる。
無数の閉じた輪。そこに何度も何度も刻まれてきた、数えきれないほどの仲間の名前。戦火の中に繰り返し喪われた、無辜の人命。
勝利も敗北もまるで意味がなかったのだ。イルーシアを取り戻そうとしてきた努力は、結末に至るたびに坂の下へと蹴落とされていた。そして自分はそれをすっかり忘れてしまい、ただひたすら愚直に押し上げ続けていたのだ。
その背後に、無数の屍を残しながら。
凍てつくような冷気が背筋を駆けのぼり、胸が締め付けられる。
「……僕は何度、皆を喪ったんだ。なぜ、気づけなかったんだ……!」
喉の苦しさを覚えながらも声を振り絞り、震える手で外套をきつくつかむ。
黒い外套の布。その布地が目に映ったとき、彼の耳元によみがえった声があった。
『忘れないでください。私たちは皆、あなたの味方だということを!』
王城から脱出する手助けをしてくれたルキナ、アリティアの末裔の王女。
おとりは私がと、凛と背筋を伸ばしてこちらを真正面から見つめた彼女の眼差しが、彼に少しばかりの、それでいて心強い励ましを与えた。
彼女の声に続いて、クロム、ルフレが言っていた言葉も思い出した。
気づけなかった、気づけないようにされていたのだ、と。
――……そうだ。皆、これを乗り越えてきたんだ。
うろたえている場合じゃない。僕も、前に進まなければ……!
気づくことができた今、考えるべきは『どうすれば抜け出せるのか』ということだ。
決意と共に顔を上げると、少し離れた場所に人影が映った。
いつの間にか、あたりの霧は少し薄れ始めていた。
今や平地に立ち並ぶ墓石と墓標ばかりではなく、少し遠くの石段も見えるようになっていた。
白衣を身にまとう有翼の少年はその石の階段に腰かけ、両ひざにまっすぐに手をつき、何も言わずにこちらを見ていた。
彼は、今までに目にしたような幻とは違う。
その証拠に、少年の目ははっきりとこちらを認め、一つの意思を持って見つめていた。
彼が初めに名乗っていた事柄を思い出し、マルスは少し声を張り上げるようにして問いを投げかける。
「君は、女神から遣わされたと言っていたね。この手紙も……皆に渡されたのも、その女神が書いたものなのか? 女神が、僕らの目を覚まさせるために……」
淡い霧の向こうから、使者の答えが返ってきた。
「パルテナ様は、確かに君たちを助けようとしてる。でもその手紙を書いたのはエインシャントって人だよ」
「エインシャント……。その人はどういう人なんだ。僕らのことを、僕らが陥っている状況を、どうやって知ったんだ……?」
「ごめん、それは僕にもわからない。正直、僕が知りたいくらいなんだ」
「少なくとも、君はイルーシアの外から来た。エインシャントの手紙を僕らに渡すために。そうだろう? それなら……もしも知っているのなら教えてくれ。僕らはどうしたら……どうすれば、この輪から抜け出せるんだ。僕らは、本当の最高司令官を探しに行くべきなのか?」
たった一人、輪の外からやってきた使者。期待をかけてマルスは尋ねるが、天使はそれに対して少し当惑したような表情を返すだけだった。
「僕に聞かれてもな……。最初に言ったように、僕はあくまで"遣い"なんだ」
それでもマルスの真剣な想いに応えようという気持ちになったのだろう、彼はなんとか励みになる言葉を探し、こう続けた。
「でも、これまでに僕が会った"キーパーソン"は誰もがみんな、最終的には自分で答えを見つけ出した。君なら分かる。分かってるはずだ」
と、そこでピットはふとこちらの後ろに目をやる。
「……マルス、誰か君を探しに来たみたいだよ」
振り返ろうとした横で、ピットの姿は霧の中に隠れてしまった。
思わず使者の方を見たが、そこにあるのは無表情な霧の壁ばかり。石段さえも飲み込まれ、再びマルスは霧の中に取り残される。
しかし、それも長くは続かなかった。
ピットが見ていた方面が徐々に明るくなっていく。
その中から教会の門が姿を現し、一人の青年がそこをくぐってマルスの元に歩いてくる。
あたりは相変わらず霧がかかっていたが、それを透かしてうすぼんやりと光がさしてきていた。いつの間にか夜は明けていたのだ。
一週間以上も不在にしていた割に、彼はかなり元気そうな顔をしていた。足取りも、あの日会議からふらっと出ていったときと何ら変わりがない。
そのまま彼は、いつもの明るい声でこう言ってよこす。
「やっぱり、ここにいたんだね」
「カムイ……! 無事だったんだね」
「何事もなかった、と言った方がよさそうだよ」
「――そうだ、ベレスは? 君たちはアイクを見つけられたのかい?」
その問いかけに、カムイは一瞬きょとんとした顔をした。それからややあって、ちょっとばつが悪そうな笑いを見せる。
「ああ、そうだ。それを説明してなかったね」
カムイの後ろから蹄の音が聞こえてきて、間もなく馬に乗った人影が霧の中から浮かび上がってきた。
馬はその二頭だけで、他に動物の姿はない。どうやらカムイは騎乗せず、竜に変じて自分で走ってきたようだ。
「僕らは同じ目的で王都を抜け出したんだ。正確に言うと、僕とベレスがあとから合流したんだけどね。何せ、副長さんが『彼は徒歩で行った』なんて言うものだから。僕らで馬を二頭借りて、急いで追いかけたのさ。イルーシアを抜けてドルーアの神殿まで行くのに、徒歩だなんて何か月掛かるか分かったものじゃない」
「……じゃあ、君たちは」
そこまでを聞いて、マルスは彼らが姿を消していた理由を察する。
彼の言葉の先は、アイクが引き継いだ。
「新生帝国軍の本拠地に行っていた。……もぬけの殻だ。人の気配どころか、生活していた跡さえ無い」
そう言いながら、馬から降りる。両手剣を携えた屈強な人間、その両方を支えていた馬は、ほっとしたように鼻息を鳴らした。
ベレスの方も手綱を引きながら歩いてきて、いつもと変わらない冷静な面持ちでこう伝える。
「私たちはストライアの南を真っすぐに南下し、敵軍の本拠地へと向かいました。占領されている地域を抜けたにも関わらず、道中、敵襲を受けることは一度もありませんでした。それどころか、新生帝国軍の姿を見かけることさえも。手紙にあった通りです。敵は文字通り、何もないところから"湧き続けて"いたのでしょう」
「そんな……。ただの、一人も?」
にわかには信じがたい言葉に、呆気にとられて繰り返す。
ベレスは生真面目な顔で頷き、こう答えた。
「ええ。ただの一人も。これは私たちの立てた仮説ですが、おそらく新生帝国軍は、連合軍が派兵を決めた場所にのみ"出現"していたのです。……私たちが敵に会わなかったということは、私たちが王都を発った日の戦略会議でも、南に兵を派遣する話にはならなかったのですね」
「ああ。セネリオとルフレが反対して――」
そう言いかけて、マルスは思わず顔をしかめる。とはいえ、それは気づけなかった自分に対する反省の念によるものだった。
「そうか。やっぱり彼らは知っていたんだ」
「セネリオは言わなかったのか?」
アイクに尋ねられ、マルスは首を横に振る。
「僕も尋ねようとしたけど、機会が無くて。……それにどのみち、その時理由を聞いても僕は信じられなかったと思う」
そして、彼は三人の仲間に改めて向き直る。
真っすぐに彼らと向き合い、真剣な面持ちでこう打ち明けた。
「襲撃が止まなかったのは、僕のせいだ。僕が戦い続けようとしたから、この戦いが終わらなかったんだ」
これを聞いた三人の反応は様々だった。
アイクは何も言わず、ただ腕を組んでマルスを見返していた。引き結ばれた口は、少なくとも同意の意味ではなさそうだった。
ベレスの方も黙っていたが、どんな時も冷静沈着な彼女の顔が、この時ばかりは気遣うような表情を見せていた。
やがてカムイが、静かに首を横に振って言った。
「君のせいじゃない。今回も、僕らは勝つために戦っていた。それなのに、いくら退けても相手が復活し続けた。だからだ。だから、終わらなかったんだよ」
マルスに歩み寄り、肩に手を置く。
「それに、気づくべきだったのは君だけじゃない。『僕ら』だ。僕ら全員に、平等に、気づくためのきっかけは与えられていた。注意深く周りを見ていたのなら、そこら中に散らばる鍵に気づけたはずだ。これだけの人がいても、誰もそれに気づくことはなかった。君だけが自分を責めることはないよ」
彼の優しさがかえってつらくなってしまい、マルスは顔をうつむかせる。
その視界に手紙が映った。そこにあったのは、いつの間にか最初に示されていた文章に戻っていた。
『戦争は終わる。あなたが望めば』
それを見つめていたマルスの目に、やがて閃くものがあった。
「……でも、終わらせられるのは僕だけだ」
きっぱりと顔を上げる。
教会の外へと歩き始めた彼の見る先、王都の霧は少しずつ薄れ、朝の光の中に溶けていこうとしていた。
翌朝、王城に戻った最高司令官の一声によって臨時会議が招集された。
間もなく、構成員を最少に抑えた部隊がいくつも作られ、準備の整った者たちから順番に王都を発っていった。
派兵式は開かれなかった。出発する部隊が戦闘ではなく、調査を目的としていたためだ。
『敵は撤退した』と国内に伝えられるだけの証拠を集めておいてほしい。
臨時会議の場、円卓に手をついて身を乗り出し、マルスは仲間たちの顔を見渡してそう告げた。
カムイ、アイク、ベレス。彼ら三人が証人として王の言葉を保証した。
戦略会議に参加している部隊長達も怪訝そうな顔をしてはいたが、誰も異論を唱えなかった。不思議なことに、イルーシアの重臣たちも口を挟もうとしなかった。誰もが呆気にとられ、ものも言えない様子で、会議が彼らの頭越しに進んでいくのをただただ眺めるばかりになっていた。
最後の部隊が王都の門をくぐる頃、今度はイルーシアの装束を来た伝令が慌ただしく王都の中を駆け巡った。
間もなく、王城のふもとの広場に市民が集まってくる。白い広場が徐々に雑多な色で埋め尽くされていく。
ようやく顔を見せてくれた彼らに向けて、連合軍の最高司令官は演説を行った。
若き王の言葉に市民はただ黙って聞き入った。混乱を来すこともなく、暴動が起きることもなかった。
演説が終わり、来た時と同様に三々五々散らばっていく市民らの顔には、戸惑いだけが浮かんでいた。
それから暫くして、調査部隊よりもいくらか人数の多い一団が王城を後にする。
その集団の中には、アカネイア連合王国の盟主の姿もあった。
王城を出ると言った時、もはやイルーシアの重臣たちはマルスを止めようとはしなかった。お付きの貴族も衛兵も、もう彼の周りを固めようとせず、王城の門に立って見送るだけになっていた。
誰もかれもが、昨晩まで自分たちを駆り立てていた衝動ともいえる『離別の恐怖』を忘れていた。
さらには連合軍の兵士も、イルーシア国の兵士も民も、『戦争が終わった』という最高司令官の言葉を、戸惑いつつも受け入れていた。
まるで彼らが心のどこかで『この戦いが幻だ』と知っていたようでもあり、最高司令官が気づくと同時に魔法が解かれたようでもあった。
ずっとあたりを覆っていた霧は嘘のように消えていた。空はぼんやりと薄曇りだったが、それを透かしてわずかに日光が見えている。
日の光を見るのもいつぶりになるのだろうか。心の中でそう思いながらマルスは空を見上げていた。
「いずれ皆には、ドルーアにも誰もいないことが分かってしまうだろう。とはいえ、相手が急に姿を消した、なんて信じられないだろうな……」
彼の言葉に、近くにいたアイクがこう答える。
「見れば信じるしかないだろう。それでも理由を欲しがるやつには、仲間割れが起きて共倒れしたんだとか、そういうことを言っておけばいいんじゃないか?」
そんな会話をしながら、城下町の門をくぐっていく。
眼下にひらけた景色を目にして、その美しさに彼らははたと立ち止まる。
見渡す限りの峡谷地帯は、雲間から差し込む幾筋もの光の帯で柔らかく照らし上げられていた。
ふと、そんな空からひらひらと舞い降りてくるものがあった。それは、小さく輝く雪のひとひらだった。
思わずといった様子でルキナが歓声を上げ、集団から抜け出して手を掲げ、雪片を捕まえようとする。それを見て、負けじとカムイも走りだしていった。
「ようやく、時が動き出したんだ」
ロイが安心したようにひとりごちる。
その横ではクロムが難しい顔をして腕組みをしていた。
「同じことが積もり積もって五百年あまりか……。しかもそれを、何度も繰り返していたんだって? 想像もつかないな。第一、そんなに長い間戦ってたら飽きると思うんだが」
それにベレスが答えてこう言う。
「我々の判断力も鈍らされていたのでしょう。霧に包まれていたこの王都のように」
彼らを振り返って、マルスは頷きかける。
「本当に長い……永い戦いだった。でも、これでようやく終わったんだ。さあ皆、先に進もう!」
峡谷を降りていく一団を見おろし、王都を囲む胸壁の上に跪く影があった。
地面まではるかな高さがあるにも関わらず、彼は恐れる素振りもなく地上を眺め、青い瞳をマルス達の背中に向けていた。
「エインシャントさん。手紙はすべて配り終えました。このエリアにいたキーパーソン全員が、今エリアを後にしているところです」
その声に答えて、彼の肩口にある赤い宝飾が淡く光を放つ。
『お疲れさまでした。今回はかなりの長丁場となったようですね』
それを聞き、さすがに顔にうんざりとした様子が出てしまうピット。
「遅いなんて言わないでくださいよ。これでも努力したんですから」
ここではないどこかで、エインシャントと呼ばれた人物が朗らかに笑い声をあげる。
『ええ。よく存じておりますよ。この調子で次のエリアも首尾よく進めてくださいね』
「……なんて言って、ほんとに見てるのかな。僕が苦戦してるの見てたんなら誰か送ってくれたって良いじゃないか」
と、ぼやくピット。
『何か言いましたか?』
「いえ、なんでもないです。……あ、そういえば」
『どうしました?』
「キーパーソンの一人から聞かれたんです。あなたはどういう人なのか、どうしてこのことを知っていたのかって」
『後者についてはお答えできませんが』
「でしょうね」
――僕にも教えてくれないし……。
あからさまに不服そうな顔をして、心の中で付け加えるピット。
一方でエインシャントは、柔和な声でこう言った。
『前者については、そうですね、今後聞かれたらこう答えてください。"ゲートキーパー"と』