気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第3章 有翼の使者

 

 

 

森のどこか遠くから、鳥や獣の鳴き交わす声が聞こえてくる。

個々の奏者は一定のフレーズと変奏を繰り返しはするものの、それが織り成すのはほとんどリズムというもののない、騒々しくもエネルギーに満ちた原始的な音楽。だが今は、そこにただ一つ、拍子を刻むように規則正しい水音が紛れ込んでいた。

森の生き物は水をかき分けるその音に異変を感じたのか、水音が大きくなるたびに威嚇するような鋭い声をあげ、あるいは慌ただしく草むらを揺らしていた。だが水面を騒がせている当の本人はというと、それらに耳を貸すことも足を止める素振りもなく、黙々と歩き続けていた。

 

そこは、澄んだ水を湛えた池。広さだけはあるが水深は浅く、有翼の少年が中ほどまで進んだ今でも、その膝の下あたりまでが浸かるのみで済んでいる。

少年の足が前に進むたびに、水底からは泥の煙がゆるゆると立ち昇っては沈んでいく。

彼は少々歩きにくそうに口を引き結んでいたが、あまり速度を落とすことなく進んでいった。

 

やがて、彼の目的とする場所に着いたらしい。白衣の少年は水面に目を凝らし、おもむろに片手を水の中に差し入れた。

何かから外そうとするかのように腕を動かしていたが、やがて彼は目当てのものを手にし、それを水面から引き揚げていた。

それは、彼の片手で支えられるほどの大きさの、玩具のようなロケット。丸みを帯びた船体は赤と白で塗り分けられているようだったが、長らく水に浸かっていたせいだろうか、その塗装はところどころが剥げてしまっていた。

 

 

小さなロケットを両手で捧げ持ち、天使が池から上がってきた。

水を吸って重くなってしまった靴を交互に運びながら、陸地を進んでいく。しかしじきに、不思議なことに靴も服の裾も、みるみるうちにひとりでに乾いていってしまった。

当の本人はそれを全く意に介さず、向こう側に声を掛ける。

「キャプテン、君の探してる船ってこれで合ってる?」

彼はロケットの船尾部を下にして地面に置いた。そのまま跪いた彼の前に、茂みの中から小さな生き物たちがわらわらと出てくる。

赤、青、黄色、色とりどりの小人たち。彼らは頭のてっぺんに、アンテナのように細長く伸びた茎、そしてその先には葉っぱやつぼみ、花をつけていた。先頭にいる者だけは別で、赤色に光る球体がアンテナの先についている。その球体が揺れたかと思うと、先頭に立つ小人はヘルメットを仰向かせ、天使を見上げた。

片耳に手を添えて頭を近づけた天使に、小人の声が聞こえてくる。

それは穏やかな声音でありながらも、興奮と喜びを隠しきれない様子だった。

「ええ、間違いありません。私の船、ドルフィン号です!」

「よかった。これでここを出られそう?」

光るアンテナの小人はロケットの中に乗り込んでいき、ほどなくして顔をのぞかせた。

「大丈夫そうです。故障個所も無し。パーツに不足はありませんし、燃料も十分残っています」

それから彼はこう続けた。

「それにしても、やってきたあなたが巨人で良かった。私達だけではこの船を引き上げられなくて。ドルフィン号の上に積もった瓦礫があまりにも重く、青ピクミンだけでは持ち上げられなかったのです」

「僕の仕事は、君たちがエリアを出るまで見届けること。いつもは見守るだけって決めてるんだけど、今回ばかりは君たちだけじゃどうしようもなさそうだったからね」

小人は天使の言葉に笑みを見せた。

「だからこそ、エインシャントさんはあなたを配り手に選んだのでしょうね」

これに、天使はふと表情を改める。

「それって――」

だが、問おうとした先ですでに小人は船の中に戻ってしまっていた。

残された天使。彼の身体の大きさならば、少し声を張ればロケットの中にも声を届かせられそうではあった。しかし彼はそれをしなかった。

顔はロケットの方に向けられていたものの、彼の瞳はどこにも据えられておらず、ただ自己の内面を物憂げに見つめているようであった。

 

短いホイッスルが響き渡る。

頭の葉っぱやつぼみを揺らし、一糸乱れぬ動きで色とりどりの小人達――ピクミンは作業に取り掛かっていく。

使者から渡された手紙を十数匹がかりで折り曲げ、上から集団で飛び乗り、全身でのしかかって小さくたたんでいく。三回ほど折りたたんだところで別のホイッスルが鳴り、ピクミンたちは今度は手紙を持ち上げて、ドルフィン号の開かれたキャノピーの中に運び入れた。おしくらまんじゅうのように体当たりで押し込んでいると、手ぶらだった数匹が後からやってきて、キャノピーをバタンと閉める。

「それではピットさん、お世話になりました。またどこかでお会いしましょう!」

キャプテン・オリマーはそう言って手を振り、タラップを上がっていった。

ドルフィン号はほどなくしてエンジンに点火し、しばらく小刻みに震えていたが、やがて船尾部から煙と炎を吹き出して飛び立つ。玩具のような見た目ながらちゃんとロケット然として垂直に上昇し、見守るうちに船はピットの目線の高さを越えて、さらにその上へと突き進んでいった。

 

宇宙船が青い空に吸い込まれていくまでを見送っていたピット。足元で手を振っていたピクミン達が三々五々解散していく中、肩口の宝飾に手を触れる。

「エインシャントさん。このエリアのキーパーソンは全て、エリアを出ていきました。……と言っても、二人だけでしたけど」

手短な報告で済ませた向こうから、返答が帰ってきた。

『お疲れ様です。今回は早かったですね。あなたもだいぶ、この仕事に慣れてきたのでは?』

のどかな声に対し、ピットは眉間にしわを寄せた。

「……勘違いしないでください。僕はあくまで、パルテナ様の命に従っているだけです」

『ええ。あくまで私は依頼主、ですね』

エインシャントの声は朗らかに笑うばかり。怯むことはおろか、機嫌を損ねた気配すらない。ピットは通信機に拾われない程度に控えて、小さくため息をつく。

「ここでの任務は終わったので、パルテナ様に取り次いでください」

『もちろんですとも』

宝飾の向こう側で誰かを呼ぶ声がした。

天使は頭上を見上げる。雲の切れ間、空の彼方から清らかな光が差し込み、使者の全身を包み込んだ。彼はその眩しさに、目を細める。

帰還までのごくわずかな一瞬の間、ピットが思い返していたのは事の始まり、彼が今のように手紙を配り続けることとなるきっかけの日だった。

 

 

 

「はい、次!」

ピットは羽ペンを持つ手を上げ、促した。

彼が座る机の前に立っていたイカロスがまた一名去り、次に並んでいた一名が彼の前に立つ。

「地上界、デルフォイ。本日も至って平和そのものです」

机の上に広げた巻紙に、ピットはそれをさらさらと書きつけていく。

「ありがと。明日も見回りよろしくね」

「はっ」

いかつい上半身で礼をし、彼は机の前を離れていく。

続いて、同じような兜と装束に身を包んだイカロスが進み出る。

「エリュトライ、異常はありませんでした」

ピットは彼にも労いの言葉をかけ、異常なしの文言を巻紙に書き留めた。

地上界のパトロールから戻ったイカロス達の定例報告。毎日朝と夕に繰り返されるいつもの光景だ。

今日もとりたてて地上に異変はなく、人間たちは平和に暮らしている。なべて世はことも無し。

ずらりと並び、ピットがいる部屋を出てもなお続いているイカロスの列を少しずつ進めながら、ピットは心の中でこうひとりごちる。

――不作に苦しんでいるとこも、水不足に悩んでいるとこもないみたいだ。

そこで一旦羽ペンを置き、背伸びを挟む。

――これもつつがなく、地上にパルテナ様の威光が行き渡っている証拠だね。

彼が見つめる先では窓の外、光の女神を象った大石像が夕陽に照らされ、厳かに輝いていた。

 

今日の分を書き留めた巻物を小脇に抱え、ピットは外廊下を歩いていた。

辺りはすっかり日も暮れて暗くなり、道の両脇に設置されている松明に、明かりがひとりでに灯されていく。

天使は倉庫の前にたどり着き、片手でその扉を押し開けた。その先、わずかな外の明かりに照らされて浮き上がったのは、数えきれないほどの巻物を収めた書棚。左右の壁面にぴたりとつけて設置された書棚は、どちらも見える範囲では下の段が埋まってしまっている。いずれ上の段も、あとわずかで隙間は無くなってしまうだろう。

圧巻の光景を見上げ、ピットはさすがにくたびれたようなため息をつく。

「奥の方、まだ空いてたかな……」

そんな独り言を言いながら、真っ暗な書庫の中へと踏み入っていった。

 

 

光の女神パルテナに追放された闇の女神、メデューサによる反乱。そして冥府の神ハデスによって三界にもたらされた擾乱。

主なる女神にはじまり、さまざまな神の加護を受けたピットが数々の苦難を乗り越え、二つの事変を鎮めた。その日々も今となっては遠い昔のこととなり、エンジェランドには平和が戻って久しい。冥府軍はあれ以来鳴りをひそめ、必要以上に戦争を煽ったり、生き物を殺そうとはしなくなった。人間を目の敵にする自然王ナチュレの軍勢は相変わらず小競り合いを仕掛けてくるものの、神々の間で協定でもあったのだろうか、以前のような強硬手段は取らなくなっていた。

そういう事由で、パルテナ親衛隊において図抜けた実力を有し、真打ちとの呼び声も高い隊長ピットも、もう長らく地上界に降臨したこともないのだった。

 

平和であるが退屈な日々。

喜ぶべきことであるのかもしれない。でも内心では、あの時のように飛翔の奇跡で大空を飛び、人間を脅かすものを神器で浄化する、胸躍る冒険に繰り出したいという気持ちがくすぶり続けていた。

そしてそのか細い炎は当の本人にも分からないうちに、日増しに少しずつ、だが着実に大きくなっていた。

 

 

イカロスたちと共に、天界の畑から収穫した野菜を籠に載せ、歩いていくピット。彼の向かう先には女神像を戴く建造物、パルテナの住まう神殿があった。

ふと、ピットが足を止め、つられてイカロスたちもその場に立ち止まった。

「……いかがされましたか? 隊長」

その声はピットの耳に届いていなかった。彼はあまりにも有り得ないものを目にし、それに全神経を集中させていたのだ。

女神の治める地、石畳の道を、我が物顔で進んでいくずんぐりとした後ろ姿。全身を深緑色の衣に包んだ、怪しげな人物。

彼は滑るように歩いていた。まるで蛇が這うように、ほとんど頭を揺らすこともなく、とがった帽子の飾りを滑らかになびかせて。

――侵入者……でも一体、どうやって?!

彼が動揺したのも道理だった。エンジェランドの天界は空に浮かぶ島々であり、女神の奇跡が及ぶ限りにおいて、招かれざる者の侵入を拒むようにできている。したがって女神とピットのほかは、イカロスくらいしか見かけることはないはずなのだ。

そのイカロスの一人が、怪訝そうな声でこう言った。

「あの方が、どうかされたのですか?」

言った相手を振り向くピット。

「どうって……」

あっけにとられた顔を、強く横に振る。表情を切り替え、

「どうみても不審者だ。捕まえるよ!」

そう言って籠を傍にあった台座に置き、隊員に呼び掛けるが、イカロスたちは顔を見合わせるばかり。

「……パルテナ様のお招きした客人ではないでしょうか」

「そんなはずない。僕は今日、誰かが来るなんて聞いてないよ」

「お忍びかもしれません」

「……もう。君たち呑気すぎ!」

とうとう痺れを切らし、ピットはたった一人で駆けだしていった。

 

肌身離さず持っている神弓。もう長いこと、射撃訓練をする以外に手にしたことはなかったそれを、彼はようやく本来の目的で構えようとしていた。走りながらも、下に構えた弓弦を引き絞り、いつでも光の矢を放てるように備えていた時だった。

見据える先、緑衣の人物が何の前触れもなくふらりと振り向いた。

目深に被ったとんがり帽子の下から、黄色に輝く瞳が天使の顔を見上げる。

「おや! こちらにおいででしたか、ピットさん」

ローブの中から穏やかな壮年の声が響き、天使は面食らって目を瞬かせる。

「えっ?! ……なんで、僕の名前を……?」

思わず集中が解け、光の矢は放たれることなく霧散する。

あからさまな隙を見せてしまったが、緑衣は反撃する素振りさえ見せずに深々と一礼をした。

「ご心配なく。私は怪しいものではありません」

「……そういうの自分で言っちゃう人ほど怪しいんですけど」

警戒から腰を落とし、思わず敬語まで使うピット。それを見届け、相手の黄色い双眸が細められる。

微笑んだのだろうか。そのまなざしの意味を見定められないうちに、相手の目は元の正円に戻り、柔和にして慇懃な口調でこう言った。

「さておき、私はあなたのところの女神様に用事があってやってきました。ご案内いただけないでしょうか」

光の女神を引き合いに出されたピットの表情に一層の警戒が走る。近接戦に備えて神弓の柄を掴む手に力を込め、彼は短く問いかけた。

「断ったらどうするんですか?」

相手は見たところ丸腰だった。空中に浮かぶ両手は白い手袋をはめているが、特にそのほかに何かを隠し持っている様子もない。あまつさえ、彼はそれを自ら明示するかのように、空の手のひらをこちらに向けていた。

だがたとえ彼が空手だとして、首元から足先までをすっぽりと覆うローブ、あるいは頭にかぶったとんがり帽子の中に切り札を隠している可能性もある。いずれにせよ、それを抜きにしても侮って良い相手とは思えなかった。

神とも魔物ともわからない相手だが、単身で天界に乗り込む、それをやってのけるだけの実力と自負があるに違いないのだから。

天使が臨戦態勢に移る中、緑衣は全く気にすることなく両の手を緩く握り合わせ、のんびりと答える。

「どうもしませんよ。ただ他の人を当たりに行くだけです」

ピットは口を引き結ぶ。石畳の上、じり、と音を立てて足を滑らせる。

次の行動を考えあぐね、時間を稼ごうとしていたのだ。空いている方の手は惑い、まだ神弓の柄へは掛けられていなかった。

沈黙のうちに、一方的な緊張が高まっていく。

 

その時だった。

「ピット。これは何事ですか?」

「パルテナ様……!」

振り仰いだ先、そこに女神が顕現していた。

緑色の長い髪を揺らし、背には輝く翼を戴いて、淡い光に包まれた女神は石段を下りてくる。

天使は女神の進む道の一歩後ろまで進み出て、危険から守ろうとするように、空いた手を大きく横に振る。

「侵入者です! パルテナ様はどうか――」

お戻りください、と言おうとした先、女神は緑衣の方を見てはたと立ち止まる。

「あら……? そちらの方、どこかでお会いしたかしら。私、どうも最近忘れっぽくて困るのですよね」

そう言って悩ましげな顔で頬に手を添えるので、ピットはこう返す。

「またそんな……大丈夫ですよ、神様がぼけるわけないでしょう」

「でも私たち、天界一の漫才師って呼ばれていたではありませんか」

「え……それ、誰が言ってたんです? っていうか、そっちのボケじゃないですよ!」

そんなやり取りをしていた横から、緑衣の人物が進み出る。

女神に向けて一礼をし、それからこう語り掛けた。

「私のことは『エインシャント』とお呼びください。あなたに是非お伝えしたいことがあり、はるばるエンジェランドまで参りました」

「……ちょっと、勝手に話を進めないで――」

慌てて制止しようとしたピット。だが女神の厳かな声が、被せるように響き渡った。

「いいでしょう」

それから笑みを見せ、こう続ける。

「なんだか面白そうですもの。ここのところあくびが出るほど退屈でしたから、話だけでも聞いてあげましょう」

石造りの台座に置かれたままになっていた野菜の籠、天使が持ってきた収穫物を持ち上げると、女神は親衛隊の隊長にほほ笑みを向ける。

「ピット。お客さまを私の神殿までお連れしなさい」

そう言うと、彼女は清らかな衣服を翻す。後光を戴く女神の姿は、穏やかな光の中に溶け込むように消えていった。

 

 

正午の日差しが辺りを暖かく照らす中、石畳の道を不満もあらわな顔で歩いていくピット。

彼がそんな表情になってしまうのも無理もなかった。立ち止まって後ろを振り返り、もうこれで何度目かになる呼びかけをする。

「ほら、勝手に寄り道しないでください」

半ばうんざりした様子で声をかけた向こう、エインシャントは少し遠くで立ち止まっており、道端に建つ石造りの小屋をしげしげと眺めていた。天使の声に気づいて振り向くも、歩き出す素振りもなくこう返す。

「……ああ、これは失礼しました。何やら面白いものを見つけてしまったもので」

「入らない方が良いですよ。なんかの仕掛けが発動するかもしれません」

「おや、そんなに物騒なものなんですか?」

呑気な返答が帰ってきて、ピットはますます渋い顔をする。

「知りません。でも、この辺りはパルテナ様が暇を持て余して造ったものとかがそのまま放っておかれてるので」

「それはそれは。ますます興味深いですね」

これまでなら、このあたりでようやくエインシャントが歩き出してくれる頃合いなのだが、今回はやけにご執心のようだった。

ピットは待ちくたびれてしまい、自分の方から迎えに行くことにした。

「……そんな古ぼけた石室のどこが面白いんですか?」

歩いていきながら問いかけるも、エインシャントからの答えはなかった。どころか彼は、ピットの方を見上げることもなく、ただじっと小屋の中を見つめている。中にあるものに気を取られている様子だった。

たどり着いたピットも、一応そちらを見てみた。しかし石室の入り口の向こう側、薄暗がりの中から見えてきたのは、何の変哲もない石細工の台。どっしりと大きいが、かなり古くに作られたようで、全体がすっかり苔むしてしまっている。目が慣れてくると、上部が皿のように浅くくぼんでいるのが分かってきた。

もしかしたら自分と同じくらいか、より古い存在かもしれない。そんなことを考えながら眉間にしわを寄せていたピットの背に、エインシャントがふとこう問いかけた。

「ピットさん。あれは何ですか?」

「えっ……?」

振り返り、それから彼は眉をしかめる。

「……だから、知りませんって。きっとパルテナ様、小鳥の水飲み場でも作ろうと思ったんでしょう。今は水も残ってないみたいですけど」

「こんな入り口が一つしかないような小屋に、水飲み場ですか?」

「僕に聞かないでください。推理が下手なのは認めますから。水飲み場じゃないなら手水鉢かなんかじゃないですか? この島ってある意味、神社みたいなものですし。……それよりも、こんなところで道草してる場合じゃないんですよ。神殿に行きたいって言ったの、あなたじゃないですか。ついてくる気がないなら置いていきますよ」

ピットは踵を返してさっさと歩き始める。しかし緑衣の人物はさほど慌てた様子もなく、朗らかな笑い声をあげる。

「それは弱りましたね」

そう言いつつも、今度はようやく天使の後についていった。

 

 

それから程なくして、有翼の隊長の姿は神殿前の広場にあった。彼は女神の住まう純白の神殿を前に、深刻な表情で腕組みをし、行ったり来たりを繰り返していた。

 

時折神殿の方を、頂上に飾られた女神の像を心配そうな顔で見上げるも、そちらに向かいかけた足は戸惑い、また元の往復へと戻っていく。

神殿の出入り口にはイカロスが二名、隊長がうろうろしているのをよそに、自分の与えられた任務を守って立ち続けていた。ピットは、今度は彼らに視線を向ける。またしても何かを案ずるような顔をしていたが、先ほどの心情とは少し訳が違っていた。

――ほんとにイカロスたちだけで大丈夫なのかなぁ……

彼はうなだれ、ため息をついた。

 

神殿で改めて出迎えた女神に対し、エインシャントは恐れ多くもこう頼み込んだ。『内密の話であり、二人だけで話したい』と。

止めに入ろうとしたピットだったが、光の女神はこちらを片手で制し、このあまりにも怪しげな要求をあっさりと受け入れてしまった。それでも親衛隊隊長である以上引き下がるわけにはいかず、ピットがその場に踏みとどまっているのを見たエインシャントは、奥の方で出入口を警護しているイカロス達を指してこう言った。

『彼らなら、いてもらって構いませんよ』

その言葉はピットの耳に、余所者でありながらまるで指図するように聞こえた。これが女神のいないところなら食って掛かっていただろう。しかし、今は女神の面前。かの女神から客人として認められた相手に無礼を働くのは、女神の顔に泥を塗るようなものだ。

下げた拳をきつく握り、静かに震わせるピット。彼の葛藤を読み取ったかのように、パルテナはこう言い添えたのだった。

『心配することはありませんよ、ピット。私も少々心得はありますから』

 

 

密談の場から締め出されてしまった天使は数刻の後、神殿の裏手に回っていた。

彼は神殿の柱を前に目をつぶり、自分に言い聞かせるようにぶつぶつとこんなことを呟いていた。

「これは命令無視じゃない。パルテナ様の安全を確認するため、そしてもしもの時にお助けするため。そもそも人払いを要求してきたのはエインシャントの方なんだから、僕が従う理由はない。親衛隊の隊長たる者、いつどんな時でもパルテナ様の護衛を第一に考えなくちゃ……」

一つ深呼吸をし、目を開く。彼が見上げる先には神殿の柱が、そして屋根があった。

「……よし」

そうして彼は石造りの柱に手をかけ、よじ登り始めた。

 

石の柱のわずかなくぼみやひび割れに手をかけ足をかけ、黙々と登り続けることしばし、彼はようやく神殿の天井裏に辿り着いていた。

まだ息が整わず、それでも呼吸を抑え気味にしなければならず、彼は疲れた手足を折り曲げて窮屈な姿勢のまま浅く息をついていた。そうしながらも、彼は真剣な面持ちで、眼下の隙間から漏れ出る明かりの向こう側に目を凝らしていた。

眼下に垣間見える広大な石造りの空間は、荘厳なまでの光に満ちていた。その明るさは、壁沿いに掲げられた松明だけでは説明がつかず、室内に満ちる空気、あるいは床や壁、天井を造る石材自体が淡く輝いているのかもしれない。

「――いただけ――したか? ぜひとも――」

小高い天井に、緑衣の声がこだまする。

固唾をのんで見守る先、やがて女神の小さな姿はエインシャントのいるであろう方角に顔を向け、こう答える。

「確かに――でしょう。それでも――ことには――」

彼女の返答もまた、幾重にも重なった反響が被さっていて、はっきりと聞き取ることができない。

天井裏に身を隠し、謁見の間を見おろす天使は懸命に耳を澄まして二人の会話を聞き取ろうとしていた。その目が、わずかに見開かれる。

「かしこ――。では――、――ましょう」

緑衣の言葉と共に、眼下の人影が出口へ向けて歩き始めたのだ。

女神は謁見の間の出入り口を守っていたイカロスに声をかけ、イカロスは敬礼をすると外に走り出ていった。誰かを呼びに行った様子だ、と気づくや否や、ピットは慌てて腰を浮かせた。狭苦しい天井裏に頭をぶつけないようにしつつ、来た道を駆け戻っていく。

歯を食いしばり、懸命に腕を振って走っていく先、表の広場に差し込む月光が近づいてくる。

白く輝く、左右に引き伸ばされた三角形の出口。ピットは勢いのままにそこをくぐり抜け、向こう側へと飛び出していった。

足元、見えてきた広場の地面は覚悟していたよりも、もう少し下に広がっていた。

「……あ、しまっ――」

顔を引きつらせ、彼は思わずそう口にする。

その先は叫び声に移り変わり、白衣の天使は手足をばたつかせながら落下していった。墜落するぎりぎりのところで何とか姿勢を立て直し、片膝片足、そして右のこぶしで衝撃を受け止める。

が、やがて上げられた顔は痛みでしかめられていた。

「――ったぁ……」

「それはいわゆる"スーパーヒーロー着地"ですか?」

背後で女神の声がして、天使は振り返る。

「あ……これは、その~」

手足の先からじんじん響いてくる痛みと気まずさとで、彼は眉をしかめていた。

一方、神殿から姿を現し、石の階段をしずしずと降りて来る光の女神パルテナ。いつもの微笑みを浮かべて、彼女はこう言った。

「いじってあげたいところですが、その時間はありませんね。ピット、私はこちらの方とちょっと出かけてきます。お留守番よろしく頼みますね」

思わぬ言葉に、ピットは手足の痛みも忘れてぽかんと口を開けた。

たっぷり数秒の沈黙を挟んでから、彼は呆然とした口調で尋ねる。

「え、出かける……? パルテナ様が?」

「何ですか、お客様の前で他神を引きこもりみたいに言うのはよしなさい」

「そういう意味で言ったんじゃないんです。何もパルテナ様が行かなくたって、僕が代わりに……それがだめならせめて、僕に護衛をさせてくれませんか」

懇願するように言った天使は、わずかに目を見開いた。

石段の途中に佇む女神。彼女の微笑がふっと消え、いつになく真剣な表情を見せたのだ。

「ピット……これは私ひとりで、自分の目で見て確かめなくてはならないことなのです。あれが本当のことなのかどうか」

気圧されたように黙りこくってしまったピットの前で、女神は再び穏やかな笑顔に戻る。

「それでは、いってきますね」

 

 

 

「隊長、隊長……?」

目の前でぼやけた影が動いていた。

遅れて徐々に焦点が合い、それがイカロスの手であることに気が付く。かなり近くで振られていた手のひらに驚いてのけぞり、バランスを崩して椅子ごと後ろに倒れそうになるピット。すんでのところで踏みとどまると、反動で戻ってきてがたりと机に手をつく。

「――隊長。これでもう十四回目ですよ」

手を振っていたイカロスが、さすがに呆れた声音で言った。パトロールの定例報告に来た隊員たちが部屋の外までずらりと並び、順番はまだかと背伸びをしてこちらの様子を見ていた。

机の前に立っているイカロスが見かねた様子で進み出る。

「隊長。今日のところはお休みください。我々の方で報告書に書き込んでおきますので」

目を瞬かせ、ようやくのことで頭を働かせて天使はこう返す。

「……いや、でも、これが無かったら僕の仕事が……」

「今の隊長の仕事は、パルテナ様がお戻りになるまでエンジェランドを守ることですよ」

兜の下で良い笑顔を見せ、イカロスの一人はそう言った。

 

「気を遣わせちゃったなぁ……」

夕刻の橙色に染まった天界の屋外をとぼとぼと歩き、ピットは首の後ろをかいてため息をついていた。

光の女神がエインシャントに連れられて天界を出発してから、もうじき丸一日が経とうとしている。天使は昨晩、ほとんど一睡もできずに女神の帰還を待っていた。女神はここを出て行くときに、どのくらい掛かりそうかは明らかにしていなかった。おそらく彼女にも分からなかったのだろう。そしてそこから分かることは一つ。行く先は、あの怪しげな緑衣の人物に任せっきりということだ。

昨晩、神殿前の広場でまんじりともせずに番をしていた時、はたと思い至ったその結論を改めて思い出し、天使はそこで足を止める。

「……あぁもう、なんでついてかなかったんだよ!」

苛立ちから、両手で頭をかきむしって空を仰ぐ。夕暮れに染まる空、薄紫色の薄い雲がたなびいていた。

雲の流れていく先をぼんやりと眺めていたピットは、やがて力なく頭をうなだれさせる。

あの時ついていこうとしても、できなかっただろう。それは彼にも分かっていた。神殿を後にして歩いていく女神の姿は、あるところで緑衣の後ろ姿と共に忽然とかき消えてしまったのだ。まるで窓の曇りを布で拭い去るが如く一瞬のうちに、何の前触れもなく。

また、女神が姿を消してからは一度も、ピットの耳にその声が聞こえてくることはなかった。どんなに遠く離れていても、女神は念話のような形でピットに話しかけることができるはずなのに。

 

神ほどの存在を騙し討てるほどの者ともなると、同程度の神力を持つ神々か、常識の埒外にある魔物しかあり得ない。知識としてそう分かってはいても、天使は己の内に湧き上がってくる不安から目を背けることができなかった。

何にせよ、あの緑衣が得体の知れない存在であるのが悪い。招かれないうちから天界に侵入し、かといって何をするでもなくのほほんと物見遊山をしていたあれも、今から思えばある種の示威行動だったのだろうか。

ピットは途方に暮れた表情で腕を組み、再び気もそぞろに歩き始めた。

「どうしよう。どうすれば良いんだろう……誰かに尋ねてみようかな、『うちの女神様、見かけませんでしたか』って……。でも、誰に聞けば良い? 海に行ったのならポセイドンが知ってそうだけど、陸だったら……やっぱりナチュレに聞くのが早いか? 森でも山でも、どんなところにも大抵動物はいるし。でもナチュレに頭下げるのはやだなぁ……」

そうぶつぶつと呟いていた時だった。

「あら、ピット。探し人ですか?」

合いの手を打つように絶妙なタイミングで、行く手から声が聞こえてきた。ピットは思わず弾かれたように顔を上げる。

その表情がじわじわと喜びに代わり、彼は光の中から現れた女神の元に駆けていった。

「――パルテナさまぁ!」

彼女の前に辿り着くとすぐに跪き、再び面を上げる。

女神パルテナは、隊長の出迎えに対し鷹揚に頷いて見せた。そんな彼女の、すべてを包み込むような微笑みを見上げていたピットの顔に、ふと疑問がよぎる。

彼女の笑顔。出発した時と変わらないようでいて、どこか趣が違っているように思えたのだ。

それを聞き出す前に、女神の方が口を開いた。

「ピット。あなたに良い知らせと悪い知らせがあります。どちらから聞きたいですか?」

「えっ……」

せわしなく目を瞬かせ、天使はしばし考え込んでからこう返答する。

「じゃあ……悪い知らせから」

「悪い知らせですね」

幾分真剣な顔になると、女神はこう切り出した。

「あの方が言っていたことはどうやら事実だったようです。今から私はあなたに新しい任務を授けます。ですが、私が何を見て何を思い、その決断に至ったのか、私からは一切説明することはできません。あなたはその任務に疑問を持たず、従わなくてはならないのですよ」

「それが悪い知らせなんですか」

ピットは正直、拍子抜けしていた。昔、地上界に降臨して浄化にあたっていた頃は、任務の詳細について説明も無く飛ばされることが日常茶飯事だったのだ。それでも「いつものことじゃないですか」という言葉はぐっと飲み込み、ピットは続いて尋ねる。

「じゃあ、良い知らせは……?」

女神は再び微笑みを見せ、明るい声でこう言った。

「今日からあなたは外の世界に出られます。今回は浄化したり撃退したりのドンパチはなし。ただ手紙を届けるだけで良いのです」

この言葉に、ピットは目を輝かせた。

「そっちは本当に良い知らせじゃないですか! あれからしばらく降りてないから、地上界もずいぶん変わってるだろうなぁ……」

顔を仰向かせて、自分を待ち受けているであろう冒険に思いをはせていた彼はふと気づいて女神の方に顔を向ける。

「……一応念のために聞きますけど、ほんとに手紙を届けるだけなんですよね?」

「あなたのすることはそれだけ、とは聞いています。手紙を渡す相手を見つけて、届けるだけ。でも、向こうに何が待ち受けているかは私にも分かりません。なにしろあなたが行く先は、これまであなたが旅したどこよりも遠い場所なのですから」

「どこよりも? でも、冥界とか海の底とか、はたまた星座の世界とか、これまでもずいぶん遠くまで行ってきた気がするんですけど……」

「――そうそう、大事なものを忘れていました」

女神はそう言って、その手に持っていた何かを手のひらに載せて差し出した。

それは、金色の留め金に挟まれた、赤く丸い宝石。

「パルテナ様。これは?」

「エインシャントさんお手製のバッジですよ。今回、外の世界に出るあなたのために造られた特別製です。肌身離さずつけて行くのですよ」

逡巡の後、天使はその“バッジ”を受け取る。少しデザインは違うものの、色も大きさも、肩に羽織るケープを留めているブローチとそっくりだった。まるでその代わりにつけてくれと言わんばかりだと思いながら、彼は元々のブローチを外し、特別製のバッジに付け替えた。

「似合ってますよ、ピット」

「エインシャント……さんって、ずいぶん用意周到なんですね」

まだ不信を拭い去れないが、彼は敬称をつけてそう返す。それは、女神に合わせた形だった。

そうしつつも、彼は訝しげに眉根を寄せていた。

――パルテナ様がさん付けする存在がこの世にいるなんて……ほんとに、一体何者なんだ……?

 

数分の後、女神と天使の姿は、神殿が建てられた浮島の端にあった。

彼らの眼下には幻想的な茜色に染め上げられた雲海が広がり、その隙間からは森の木々や人間の街並みが暗く、おぼろげに見えていた。

「ピット。しかとその目に焼き付けるのですよ」

女神パルテナは厳かにそう言って、片手に持った杖を、前方に差し伸べるように掲げる。

杖の宝玉が柔らかな光を放ったかと思うと、それに呼応して眼下に見晴るかす雲海が次々にちぎれ、溶け去っていった。

やがてその先に明らかになったものを目にし、ピットは思わず息をのむ。

「……これって」

その先を、続けることはできなかった。

唖然として彼が見おろす先、下界は全く様相を変えていた。

わだかまる漆黒を背景として描かれた、鮮明な色彩の水玉模様。

これまで自分やイカロスたちが見守り、時に降臨して人間たちを手助けしてきた土地はすっかり小さく縮まって、円盤状の領域に収まっていた。そればかりではない。ほぼ同じ大きさをした色とりどりの円盤、それが真っ黒な海の中にいくつも浮かび、地平線の果てまで続いているのだった。

思わず天界の岸辺まで歩み寄り、石畳に手をついて下界を眺めていたピットは、ようやくのことで言った。

「信じられない……地上界に、僕がまだ行ったことのない島々があったなんて。それも、こんなにたくさん……」

ほとんど思いつくままに呟いていたピットの頭上から、女神の声がこう宣言する。

「あれらが、今回あなたが向かうことになる“エリア”です」

パルテナの横顔を見上げて、ピットはきょとんと目を瞬いた。

「エリア? それに“あれら”って、あの島一つ一つがその“エリア”なんですか?」

「その通りです。そしてあのエリアの中に、あなたが手紙を配るべき人々がいるのですよ」

「あの中に……」

ピットは小手をかざし、島々に目を凝らす。まるでこのはるかな高みから、配るべき相手を見つけようとしているかのようだった。そんな天使の様子を見守っていた女神は、やがて彼の名を呼び、こちらを振り返らせる。

威厳を示し、凛と背筋を伸ばした女神の佇まいに気が付き、天使も居ずまいを正して女神に向き直る。真摯な面持ちで片膝立ちをし、女神の言葉を待つ眷属に向けて、パルテナは再び口を開いた。

「ピット。先ほども言ったように、あれらのエリアはエンジェランドから遥か遠くにある未踏の地です。そこで如何なる物事が起きているのか、予め確かめる術はありません。ですから、どのような困難や障害が待ち受けていようとも、あなたは未知という名の暗闇に立ち向かい、その身一つで飛び込んでいかなくてはならないのです。あなたがこれから往く道は、辛く長い旅となるでしょう」

厳粛に告げた女神はそこで間を置き、ふと微笑みを見せる。

「それでも……ピット。私は、あなたならばやり遂げられると信じています」

天使はこれに俄然奮い立ち、顔を輝かせてこう言った。

「僕に任せてください!」

勢い込んで再び、眼下の島々へ顔を向けると、

「それで、僕はこれから地上界に降りて、手紙を届けてくれば良いんですね?」

今にも飛び込んでいきそうな勢いで言う。そんな彼の様子を見て、女神は可笑しそうに笑った。

「まあまあ焦らないで。送るべき相手とエリアのことは向こうから教えてくれますから、それを待ちましょう。ああ、それから――」

女神はピットに向けて人差し指を立ててみせる。

「ピット、これだけは覚えておいてくださいね。あなたを待ち受けている旅は、これまでとは事情が違います。あなたが今つけているバッジはエリアに出入りするための、いわば通行手形のようなもの。それを無くしたらエンジェランドに帰って来られなくなりますから、絶対に無くさないこと。分かりましたね」

「はい!」

そのバッジを作った存在のことも忘れ、その時の彼はやる気たっぷりに大きく頷いたのだった。

 

 

 

あの時の自分にも、疑う心が全くなかったわけではない。でも、再び冒険できるという喜びがそれに勝っていた。

 

 

世界の本当の姿を初めて目にした場所で、一人、ピットは跪いていた。朝日が背中を照らす中、物憂げな顔で眼下の島々を眺めていた彼は、ふと、手にしたものに目を向ける。

それは、紅色の封蝋が施された純白の封筒。エインシャントから手渡された、今日の任務で配るべき手紙だ。

まだ宛名の浮かび上がっていないそれを見つめながら、彼はこれまでの日々を思い返していた。

 

自分に与えられた任務は非常に単純だ。特定の人物を見つけ出して手紙を届けるという、ただそれだけのことである。だが、それは一体どんな結果をもたらしているのか。そして、どんな意味を持っているのか。

単純に言って、これは良いことなのだろうか。

キーパーソンとして選ばれた人物に手紙を読ませたとき、返ってくる反応はほぼ共通している。衝撃と、落胆あるいは困惑、そして厳粛な決意。

次に出会う時には、彼らは皆、『真実を知らせてくれた』ことへの感謝を述べて、一人の例外もなく自分に協力してくれる。だがふとした瞬間、彼らは垣間見せる。思い詰めたような眼差しや、切実な表情、行き場のない焦燥、物憂げに内省する沈黙。彼らとの間には、いつまで行動を共にし、言葉を交わしても、どれほど肩を並べて同じ道を歩いたとしても、最後まで埋めることのできない隔たりが残っていた。

 

もちろん、ピットはこれまでに幾人ものキーパーソンと出会ってきた。手紙に書かれた物事も彼らの反応や言葉から推測しており、概要ではあるが、手紙の内容を知らないわけではない。それはおおむね、『あなたのいる場所は偽物だ』と知らせるもののはず。しかしそれだけにしては、あれほどまで思い悩むことの説明がつかない。

 

何度も、思い切って問おうとした。何が君たちを変えたのか、君たちはどんな『真実』を知ったのか、手紙に書いてあったことを一字一句教えてくれないかと。だが最後の最後で踏ん切りがつかず、表に出されなかった問いかけは天使の心の中に降り積もり、そのまま澱のように沈殿していた。

 

それでも、この間ようやく、糸口となる言葉をキーパーソンの一人から聞くことができた。

以前、ピットの配達を手伝ってくれた勇者はこう言っていた。『自分が閉じ込められたのはいつからなのか、どこからなのか』、それをずっと考えていると。また手紙を受け取った後、それまで忘れていた記憶を取り戻しつつあるのだが、どこまでが本当にあったことなのかが分からないとも言っていた。

その思いを吐露していた彼の様子は、そしてそれを見た時の自分の心象は今でもはっきりと思い出せる。それはあたかも、それまでずっと洞窟で暮らしていた動物が、いきなり燦々と日の照り付ける草原に連れ出されたかのようだった。

 

ようやく、彼らの気持ちが分かったような気がした。

どのエリアにも多かれ少なかれ、不自然なところがある。そこに誰かを閉じ込めたいのなら、エリアの『設定』にとって不都合な記憶も忘れさせなくては、いつかは記憶との矛盾に気づき、ボロが出てしまう筈だ。

彼らは、きっと未だに混乱しているのだろう。自分が知らなかった真実を、心の準備もできないままに告げられ、自分の中に見知らぬ記憶が山のように堆積していることに気付かされ、どこから手をつけるべきかと戸惑っている。

 

キーパーソンとして定められた人物に、エインシャントからの手紙を渡す。真実を告げることを悪いとは言い難いが、それでも、これは正しい方法なのだろうか。

その思いは任務をこなすごとにますます強くなっていった。

彼らを覆う暗闇を一気に取り払い、全てを白日の元に晒すのではなく、例えばランタンを持って出口へと誘うような、もっと穏便な方法ではいけないのだろうか。

少なくとも彼の主たる女神パルテナは、そうは考えていないらしい。どんな時であっても、彼女はエインシャントからの要請が届くたびにすぐさま天使へと伝えるのだ。彼がエンジェランドで休息中であろうと、はたまたエリアで任務中であろうと。また、任務から戻り、直前のエリアで見てきたことを引きずり、時には思い切って打ち明けることもある天使を、女神は傾聴し、なだめこそすれど、決して方針を変えることはしない。

女神がそこまで案じているのなら、と、これまでは甘んじて受け入れてきた。

だが、今の彼が任ぜられている職務はこれまでとは違い、地上界に数日、時には数週間から一月近くも滞在することもある。しかも、現地の協力者やエインシャントが派遣したパートナーがいる場合は彼らと話すことが多く、女神との会話も必然的に少なくなる。

かつて、冥府の神がもたらした混乱を解決するために走り回っていた時も、下界の人間と言葉を交わし、時には共に戦ったこともあった。だが、あの時の女神がほぼお構いなしに語りかけてきたのに対して、今は何かと『邪魔になるから』と言って控える、ずいぶん割り切った態度になっていた。

静寂がもたらしたのは、一抹の寂しさばかりではない。任務をこなしている間中ずっと天上の女神と会話を続け、地上や冥府にいながらもどこかで天界との繋がりを感じていたあの時とは、世界の見え方も全く違っていた。

自分が探し求め、直に接する人々。自分と同じ景色を見つめ、共に悩み、考えて困難を乗り越えていく人々。天使は次第に、すぐそばにいる彼らの側に、『エリア』に囚われた地上の人間たちに関心を寄せるようになっていた。

 

幾つのエリアを巡っても、何人のキーパーソンに出会っても目覚ましい解決策が見つかることはなかったが、任務をこなすうちに、彼の中では一つの考えが定まりつつあった。

影響をもたらしているのがエンジェランドの、そして光の女神が施す庇護の外にある世界とはいえ、自分が訪れ、関わっている以上は無関心でいるわけにはいかない。

 

このまま何も考えずに配り続けるのではなく、自分で考えて行動すべきなのではないか。

何か、本当に彼らのためになることを。

 

 

ピットの、空いた方の手が動いた。わずかなためらいを乗り越え、その手が封筒に辿り着き、指が赤い封蝋にゆっくりと触れる。

そっと爪を立て、剥がそうとしたその時。

 

「そうだ、開けてみたらどうだ?」

自分の声に限りなく近い何者かの声が、背後から聞こえてきた。

 

はっと我に返り、それから慌てて手紙を肩掛けカバンにつっこむと、むきになって振り返る。その先には自分とうり二つの顔をした、黒ずくめの天使が立っていた。

「なんだよいつから見てたんだよブラピ!」

その声音は八割がたまでが、覗き見されていたことへの憤慨だったが、残り二割くらいには隠し切れない安堵が混ざっていた。

こちらも憤然として、ブラックピットは言い返す。

「だからその呼び方はやめろ! ……何度も言ってんのに全然聞かないな、お前ら」

呆れたようにため息をつき、彼はこう切り出した。

「おい。相変わらずあの女神の言いなりか? 少しは自分の頭で考えてみたらどうなんだ。そんなんだからいつまで経っても使いっ走りをやらされるんだぞ」

ピットは片膝立ちした姿勢のまま、そっぽを向き、腕を組んでだんまりを決め込む。

そんな彼に、ブラックピットは頭上から言葉を投げかけていく。

「お前のバカ真面目さにはほとほと呆れるな、大した報酬もないってのに。ろくに住所も宛名も書かれてない手紙を渡され、見知らぬ土地をあくせく駆け回り、明けても暮れても配達人の真似事ばかり。ようやく片付けて天界に戻ればもう次の仕事が待っていて、満足に休めやしない。聞いたぜ、お前、一週間ぶりのご帰還なんだろ。なのに、そのカバンに入ってるのはなんだ?」

そこで一拍置いて、ブラックピットはこう尋ねかけた。

「お前、『どうして僕だけが』って考えたことはないのか? 他の使者に会ったことはあるか? 助っ人じゃなく、お前みたいな手紙の配り手さ」

返答がかえってくることはなかったが、黒翼の少年は全く気にせず、むしろ肩をすくめて笑うだけだった。

「……ないだろ。図星だな」

振り返らない白衣の天使をよそに、彼はその後ろで悠々と歩き回りながら語り始める。

「どう考えても非効率だとは思わないか。お前が配る手紙には、受け取ったヤツらが張りぼての世界に気付くために必要な情報が書かれてあるんだろう? そんな重要な情報なら、そして本当に皆を助けたいと思ってるのなら、複数の配り手を立てて一気に送った方が良いはずだ。なのに、どうやらエインシャントはお前だけを指名したらしい。なぜだと思う?」

ピットは聞いていないふりをしていたが、黒い翼の写し身が語る言葉は着実に彼の耳に、彼の心に届いていた。

徐々にその表情に、迷いが現れ始める。そんな彼の退路を断つように、ブラックピットは言葉を並べていく。

「お前の本当の主人はどっちなんだ。エインシャントか? ……そうじゃないだろう。お前が守るべきはあの女神だ。だが女神が信じたからって、お前が理由もなしに信じることを強制されたわけじゃない。むしろ、疑ってかかるべきだ。あいつがうまく言いくるめられて、騙されてる可能性だってあるんだからな」

パルテナのことを持ち出され、ピットは虚を突かれたように顔を上げる。

彼の背後から追い打ちをかけるように、こんな言葉が聞こえてきた。

「騙されてるだけならまだ良い方だ。もしも女神が操られているんだとしたらどうする? 例えば、あいつがたった一度でも天界を離れ、どこか遠くへ、自分の力が通用しないような場所へと連れ去られたことがあるのなら……」

これを聞いた天使は、ふっと自信を失ったように顔を俯かせた。その反応を観察して、黒い翼の少年は口の片端で笑う。

「……心当たりがあるようだな」

ブラックピットは立ち止まり、背を向けたままの相手に向き直る。腕組みをしているものの、その表情は真剣そのものだった。

「忘れたとは言わせないぜ。パルテナが『混沌の遣い』に魂を奪い取られたあの日のことを。お前もよく分かっただろう。この世に実体をもって存在する限り、世界を縛る法則からは逃れられないと。あいつだって例外じゃない。完全無欠の存在など、この世にありはしないのさ」

俯いたままの天使から、もはや返答は帰ってこなかった。肩を落とし、その手を戸惑わせながらも、肩掛けカバンから再び一通の手紙を取り出す。

 

“手紙の文面を見てはならない”

女神から言いつけられているその言葉も、思い返してみればエインシャントからの言伝だった。

『見たらどうなるんですか? あ、まさか、中身は恋文とか……』

いつものように軽い調子でそう言ったピットに、パルテナは可笑しそうに笑う。

『さあ。事情は知りませんが……もし恋文なのだとしたら、エインシャントは並外れて恋多き方、ということになってしまいますね』

だが、その後すぐに表情を切り替えて、彼女はこう続けたのだった。

『ともあれ、見てはならないというのは事実です。いいですか、ピット。これは信用の問題なのです』

その声音は、いつものような冗談では済まされない、確かな重みを湛えていた。

 

エインシャントへの不信と、女神への崇敬の念。二つの感情がせめぎ合い、封蝋にかけられた指はそれ以上動こうとせず、ただ震えていた。

永遠に思えるほどの時間を経て、食いしばった歯の隙間から悔しげな唸り声をもらし、ピットはきっぱりと――手紙から指を離す。

それからやにわに背後を振り返ると、瓜二つの顔を見上げてこう言った。

「そんな扇動に乗る僕じゃないぞ! もうほっといてよ、僕は忙しいんだから」

ブラックピットは露程も怯まなかった。

ただ呆れたようにこちらを見おろし、ため息とともに言い捨てた。

「……つまんねえ。肝心なとこで意気地ないんだな」

への字になっていたその口の片端が、ふと笑う。

「ま、その方が幸せだろうな」

折しも立ち上がり、その場を立ち去ろうとしかけていたピットは、彼の言葉に足を止めた。

「……どういう意味さ」

まだつっけんどんでありながらも、怪訝そうな顔を向けた天使。

ブラックピットは意味ありげに笑って彼の顔を見返していたが、やがてこう切り出した。

「――お前、クマバチって虫、知ってるか?」

「急に何の話? ……たぶん知ってると思うけど。ずんぐりむっくりの黒い蜂でしょ。羽音はおっかないけど、意外とおとなしいって言われてる」

「ああ、そいつのことだ。クマバチはな、あんな図体のくせして、背中についてるのは随分と貧相な翅なんだ。お前みたいにな」

「なんだよ、羽の大きさなら君だって僕と同じじゃないか」

すかさず指摘したピットに対し、図星だったブラックピットは言い返す。

「そんなことどうだっていいだろ。――ともかく、その蜂のことだ」

気を取り直して腕を組み、彼は話題を元に戻した。

「あいつらは自由自在に空を飛び回るのに、背中についてるのは身体の大きさに見合わないちっぽけな翅。それを見た人間の中から、『クマバチはどうして飛べるのか』なんて疑問に憑りつかれ、計算だの実験だのに明け暮れるような暇人が出てきた。だがありったけの知識をかき集めても、どうしたって説明がつかなかった。どう考えても飛べるはずがない、だが、現にクマバチは飛んでいる。矛盾を目の当りにした人間はどんな結論を出したと思う?」

ピットはすっかり聞き入ってしまい、次の句を待つばかりになっていた。

そんな彼に対し、ブラックピットは十分に間を持たせてから、こう言った。

「あいつらは、自分が『飛べる』と信じてるから飛べるんだ」

徐々に訝しげな目つきになり、相手を見ていたピットは、ややあってその顔のままで感想を述べる。

「……さすがだね、ブラピ。相変わらず何を言いたいのかわからないよ」

「ぬかせ。お前が単純すぎるんだよ」

「じゃあ、単純な僕でもわかるように言って」

「まったくお前は……」

ため息を挟み、ブラックピットの赤い瞳が真正面から天使を見据える。

「クマバチに『あんたは飛べるはずがない』って教えたら、どうなると思う?」

そしてそのまま、こう締めくくった。

「……つまりな、知らない方が幸せってことも世の中には沢山あるのさ」

これを聞いたピットの表情が変わった。

眉間にしわを寄せながらも、不安そうな、それでいて心配そうな顔を向けて問う。

「それって……どういうこと?」

『知らない方が幸せだ』

目の前に立つ相手からそう言われる原因に、彼は心当たりがあった。ありすぎるほどに。

 

ブラックピットもまた、エリアに閉じ込められていた"キーパーソン"の一人だった。

自然軍の拠点に限りなく良く似た、それでいてはるかに狭い『エリア』に降り立ち、ピットはブラックピットを見つけ出すと手紙を渡した。

その時の彼の反応は、今でもありありと思い出せる。

愕然とした、自尊心を傷つけられたような表情。いつも強がってばかりの彼が、その時だけは途方に暮れ、手紙に書かれた文面に狼狽えていた。彼のそんな表情を見たことは一度も無く、さすがにいたたまれなくなってピットは手を差し伸べる。だが、相手は顔を背け、こちらを見ようともせずにこわばった口調でこう言い放った。

『……失せろ』

 

ブラックピットはあの手紙を読み、自分だけが置き去りにされていたことを知ってしまったのだろう。

彼が本物の世界から姿を消し、張りぼての舞台に閉じ込められたのに、幹部として収まっている自然軍の誰からも探されず、そして自分が存在するきっかけとなり、今も何かと因縁のある光の女神とその眷属も、誰一人として彼がいなくなったことに気が付かなかった。

 

あの時自分は、それでも前に踏み出すべきだったのだろうか。踵を返して彼を一人にするのではなく、歩み寄るべきだったのだろうか。

 

真正面からこちらを見据える赤い瞳が、鏡のように瓜二つでありながらも異なる人格を持った存在が――不意に、口の片端を吊り上げた。

「まぁ、そうだな。例えば……」

意地の悪い笑みを向けて、彼はこう言った。

「このおれがあんたみたいな、お人好しでお澄ましな取り巻きのコピーに過ぎないって知らされたこととかな」

これにピットはしばらく唖然として、彼の顔をただ見ることしかできなかった。

やがてその表情が、憤慨に変わる。

「なんだよ人をからかって! もう良いよ、君がまともに答えてくれるって期待した僕がバカだった!」

言い切った勢いのまま踵を返すと、そのまま、眼下に広がる下界を目掛けて踏み切った。

 

白い翼を広げ――そこで彼の表情がふいに凍り付いた。

まだ『飛翔の奇跡』を授かっていなかったことを思い出したのだ。

 

だが時すでに遅し。彼の身体はあっという間に重力に捕らえられ、なすすべもなく落下していった。

 

ブラックピットは腕組みをしたまま浮島の端まで歩いていき、落ちていく天使を上から眺める。下からはにぎやかな声が聞こえていた。

『あら、出発するならもうちょっと早く言ってくれないと困りますよ。まだエインシャントさんとのお茶会が済んでないのに……』

「そのことは謝ります! 謝りますから早く! このままじゃ僕、地面にたたきつけられちゃいますって!」

『ピット、一回くらい落ちても気にすることはありませんよ。苦労は若いうちにするものって言いますし』

「何か話が違ってきてません?!」

女神とのやり取りは徐々に遠く、小さくなっていき、やがて天使の翼に青い光が灯り、同時に彼の落ちていく先に扉のシルエットが現れる。

開かれた扉の向こうに天使の姿が消えるまでを見届け、ブラックピットは肩をすくめ、呆れたように一つ、鼻で笑った。

「まったく、お前は幸せな奴だよ。まだ自分の頭で真実を探し求められる"自由"があるんだからな」

 

 

浮島の端に立ち、向こう側を眺めているかに見えた黒翼の少年。

振り返らないままに、彼は不意にこう言った。

「――お茶会はもう済んだのか?」

「ええ。あの方も多忙なようで」

そう答えたのは、エンジェランドを統べる光の女神。いつの間にか顕現していた彼女は、そのままブラックピットの方へと歩いていく。

「あなたこそ、ずいぶん早かったですね。立ち直るまでにはもう少し時間が掛かると思っていましたが」

「あいつと一緒にするなよ。おれは誰の助けも借りるつもりはない。これまでも、これからもな」

そう言い切ってから、彼はふと気づいてこう付け足す。

「――翼のことは別だ」

「ええ、分かっていますよ。それはあなたが一度、自分の力で勝ち取ったけれど、手放さざるを得なくなったもの。そしてそれは――」

その先を言いかけた女神を、ブラックピットは慌てて遮った。

「言うな! ……思い出したくもない」

そむけられた彼の横顔は、どこか決まりが悪い表情をしていた。女神はそれを、まるで幼子を見守るようにほほえましい眼差しで見つめる。

それから女神は、ふと思い出したようにこう言った。

「クマバチの話。あれには続きがありますよね?」

ブラックピットは一瞬の間を置いて、女神を見上げる。

「……なんだ。聞いてたのかよ」

「盗み聞きするつもりはありませんでしたが、聞こえてきてしまったもので」

澄ました顔でそう言ってから、彼女はこう続けた。

「人間たちの中でも特別に暇を持て余している者は、不明なものを目の前にすると、それが難問であればあるほど熱心に解明しようとするものです。限られた寿命の大半を費やすことも厭わず取り組み、数え切れない失敗を積み重ね、その後に未解決の課題が残ったとしても、必ず誰かが受け継いでいく。そしてそれはクマバチの飛行についても同じ。長い年月と幾つもの世代をかけ、ついに人間たちは正しい答えに行きついた。そうですよね?」

ブラックピットは何も答えなかった。女神がすでに見通していることを知っていたのだ。

だから彼は、その先を促すように片眉を上げてみせた。

女神は微笑み、こう続ける。

「結局、大きさが問題だったのです。クマバチほどの小ささともなると、それを取り巻く環境は、鳥ほどの大きさで適用されるような法則で語ることはできません。人間がひれもついていない細い手足で海を泳げるように、虫たちもまた、その翅で空気を漕いで進んでいるに過ぎなかった。だからこそ虫たちは、あんなに小さな翼でも自由自在に空中を飛びまわることができる。人間たちは、自力でその真実にたどり着いたのです」

そこで可笑しそうに笑い、女神はこう続けた。

「ですから、先ほどのあなたの問いに答えるのなら……例え『飛べないはずだ』と言い聞かせたとしても、クマバチはお構いなしに飛ぶのでしょうね」

ブラックピットは、しばし腕を組んだまま、女神を見上げていた。

やがてふっと笑い、肩をすくめてこう返す。

「……つくづく、あんたはロマンってものが無いよな」

「あら。そこは聡明と言ってください」

当然といった様子で女神が返した言葉を、ブラックピットは一笑に付した。

「どうだか。『知らない方が幸せ』とは言うが、知らないことと、知ろうとしないことは全く違う。少し考えれば辿り着けるような事実から目を背けているうちは、聡明とは言えないな」

そう言ってから、彼はその赤い瞳で光の女神を見据える。

「自分が無知であると自覚しないことほど、罪深いものは無い。……知ってるか? 自分だけは騙されるはずがないって思ってるやつほど、馬鹿みたいに見えすいた罠に引っかかるんだよ」

しかしこれに対し、女神は少しも動揺を見せない。

口元に笑みを浮かべ、涼しげな顔でこう返した。

「ご心配なく。私は自分が何を知っていて、何をすべきなのか、それくらいはちゃんと分かっているつもりですよ」

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最終更新:2022-04-02

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