星は夢を抱いて巡る
第7章 神秘主義者 ①
閉じた瞼の向こう、眩しい光はやがてゆっくりと薄らいでいき、再び目を開けた時にはもう、くちばし岬の光景はどこにも見えなくなっていた。
照明の落とされた空間に目が慣れず、ピットは無意識のうちに暗がりに目を凝らして辺りを眺めていた。
視界にぼんやりと広がるモノクロの明暗が少しずつ輪郭を帯びていき、見えてきたのは白い石造りの廊下。床は塵一つなく磨き抜かれ、左右の壁には等間隔で大きな扉が並んでいる。ピットにとってはすっかり見慣れてしまった光景だ。それを確かめると彼は廊下の一方へ、明るい光の差し込む方角へと歩き始めた。
そこは光の女神の神殿、転移の門が並ぶ白亜の廊下。無事に天界に帰ってこられた天使だったが、謁見の間へと向かう彼は腕を組んで難しい表情をし、何か考え事をしている様子であった。
そんな彼を出迎える者があった。
純白の光が降り注ぐ謁見の間において、なお明るく光り輝く、神々しいまでの後光を戴いた緑髪の女神。
「おかえりなさい、ピット。無事に依頼を達成できたようですね」
謁見の間、幅の広い階段の中ほどに立ち、女神パルテナは後ろ手に手を組んでいた。
いつもの場所に立つ女神はいつもと変わらぬ微笑を浮かべているように見えたが、普段から傍で様子を見ているピットには、その笑みがいつもとはどこか違っているように感じられた。そこはかとなく輝いて見えるのは、彼女の背後にある翼を象った光輝のせいだけではないだろう。
主の前まで歩いていきながらも不思議そうにその様子を伺い、ピットはこう尋ねてみる。
「パルテナ様、何かいいことでもあったんですか?」
「ええ。あなたがこうして無事に帰ってきたことです。エインシャントさんは、あのエリアに最高レベルの危険を予測していましたからね」
と言ってから、女神はこう続ける。
「まあ、とは言うものの、私はあなたならばやりとげられると信じていましたよ」
まるで我が事のように自慢げに、そう言った。
女神の手放しの賞賛に、ピットはかえって照れくさそうに首の後ろをかく。
「いやぁ、それほどでも」
そう言って笑いつつも、どこか内心では、ここまで大きな期待をされるような依頼だっただろうか、という疑問が顔を覗かせていた。
確かに、あのエリアを支配していた『ルール』を解明するまでは散々あちこちを探し回ることになり、ようやくキーパーソンの名前が分かったと思ったら、その先が本当の苦労の始まりだった。
とはいえ『最高レベルの危険』と聞いて予測するのは普通、命の危険とか、探索さえもままならないくらいの難所とか、そういったものではないだろうか。
――仮に、ネス君に誤解されたまま僕らが捕まえられちゃったとしても、それは夢の中の出来事だろうし、エリアから出入りできるバッジさえあれば何とかなったんじゃないのかなぁ……?
内心の訝しさがいつしか顔に出ていたピット。女神の次の言葉が意識に届いて、慌てて注意を戻す。
「さて、帰ってきて早速ですが――」
頭上からそんな声が掛けられたかと思うと、見る前で、女神は階段をしずしずと降りてきた。やはり手は後ろに回されたままだ。何を持っているのだろうと思っていたピットの目の前に、パルテナはその手に持ったものを差し出した。
赤い封蝋の施された、白い封筒。
見飽きるぐらいに見てきた物体を前に虚を突かれたような顔をしていたピットだったが、やがてその意味に気づくとがくりと脱力し、ため息交じりにこう言った。
「……えぇ? もう次の依頼が来てるんですか……? 少しでもいいので休ませてほしいんですけど……」
そうぼやきながらも受け取り、肩掛けカバンに仕舞おうとする。
と、頭上から女神の声がかけられた。
「あら、ピット。その手紙、ちゃんと見ましたか?」
「え……?」
きょとんと女神の顔を見上げていたピットだったが、ややあって我に返り、手にした封筒に目を向ける。
純白の紙面に真紅の封蝋。刻まれた印章は円と、その中心から少し左下にずれたところを切る十字。単純で抽象的な、どこにでもありそうな例のマークだ。
そう思いながら何気なく裏返したピットは、ふと眉根を寄せる。そこには、すでに宛名が浮かんでいたのだ。
そしてその名前は――
「こ、これって……僕宛て、ですか?」
パルテナはにっこりと笑って頷く。
「ええ。エインシャントさんがあなた宛てにと、私に託していったのです」
その名前を聞き、ピットはそこで初めて気がついて辺りをきょろきょろと見渡す。
「そういえばあの人、今日はいないんですね」
彼らの依頼主である緑衣の男。ここのところ、ピットが任務を終えて謁見の間に行くと、ほぼ必ずといって良いほど彼の姿を見たものだ。まるで見計らったようなタイミングで現れる彼に不審の目を向けていたのも最初のうち、最近では敢えて彼の存在を無視するようにしていたのだが、いなくなったらいなくなったで妙な感じがした。それは寂しさとは確実に違う感情であったが、とはいえ気掛かりとも少し違うようで、何であるのかうまく言い表すこともできない。
何かの予兆を示しているような空白から一旦目をそらし、彼は自分の名前が書かれた封筒を見つめる。
「じゃあこれは、僕への伝言ってことでしょうか……」
そう言って彼は女神を見上げる。開けても良いのだろうかと戸惑い、許可を取るような視線に、女神は可笑しそうに微笑みつつも肯定するように頷いた。
これまで一度も自分で開けることのなかった、円に十字の封蝋。
それを見つめていたピットは、ためらいと戸惑いとで眉間にしわを寄せていた。
――なんでみんなに渡す手紙と同じものを使ってるんだろうな……。
今まで散々開けるなと言われていた封筒と見た目がそっくりなものを開けるのには、結構な抵抗感があった。
右手は封蝋の上にかざされたところで止まってしまい、指は中途半端な姿勢で固まっている。心の中で逡巡を続けていたピットはそこで、少し苛立った様子でかぶりを振る。なんだかんだ言っても、自分がこういった決まりごとに弱いことに気づいたのだ。彼は自分で自分に腹を立てながらも、決心した勢いに任せて封蝋を剥がし、中の手紙を取り出した。
三つ折りの紙を開くと、思いのほか余白の多い紙の真ん中にこう書いてあるのが目に入った。
『おめでとう! これで全てのキーパーソンに手紙が配られました。ぜひ、ご感想をどうぞ』
拍子抜けするほど軽い文体の文章に、ピットはぽかんと呆気にとられた顔で目を瞬く。
「パルテナ様……これは……? 依頼はこれで終わりってことですか?」
彼は手紙の紙面を女神に見せ、落胆の表情もあらわに聞く。だがパルテナは依然として笑顔のまま、こう返した。
「“ご感想”は?」
「……?」
もはや言葉も見失ってしまい、ただ目をぱちくりさせるばかりの天使。
そんな彼の様子が可笑しかったのか、女神は片手を口元に寄せてくすくすと笑う。
「あなたもあれほど数えきれないエリアを巡り、人々の間を柔軟に渡り歩いてきたのに、案外一本気なところがあるのですね」
それから続けて、彼女は解説するような口調に切り替えるとこう言った。
「良いですか? 手紙というものは、基本的には宛名に書かれた人のために、その人に何らかのメッセージを伝えるためにあるもの。例えばこれまであなたから手紙を渡された人々は、文面を読んで、それぞれに何かに気づいたはずです。その一方で手紙の文章は例え読み上げられたとしても、あなたや他の人々には何の変哲もない文章としてしか聞こえなかったことでしょう。つまりエインシャントさんからの手紙は、宛名にある人物のために、その人だけに届くものとして書かれているのです」
そこで一呼吸おき、彼女はこう言った。
「さて。ここに住むあなたにも、あなたの名前が書かれた手紙が渡されました。すなわち、その文章はあなたのために書かれたもの。エインシャントさんが報せたいことは全て文章の中にあります。もう一度文章をよく読んでごらんなさい」
促されるままに手紙へと目を落とし、怪訝そうな顔で文章を辿っていたピットの表情に、はたと驚きの色が浮かぶ。
「“これ”で全てのキーパーソンに配られた……ということは、そんな、まさか……」
狼狽も露わに女神を見上げ、まるで助けを求めるような顔をして彼は問いかける。
「僕もキーパーソンの一人で……。それじゃあ、もしかして、ここも『エリア』だってことですか?!」
「正解! よくできましたね」
満面の笑顔でそう答えたパルテナに、ピットはほとんど食い気味につっこんだ。
「……い、いやいや、『よくできました』じゃないですよね?! それって僕らが閉じ込められてるってことですよ! エンジェランドがあるべき姿じゃなくなってるってことじゃないですか! なのにパルテナ様、なんでそんなに呑気なんですか?」
今にも足元の階段を登ってしまいそうな勢いのピットに対し、女神はあくまで落ち着いた調子でなだめる。
「ほらほら、あわてない、あわてない。焦っても事態は変わらないのですから」
そんな主神の様子を見ているうちに、ピットの心の中でせめぎ合っていた混乱と焦燥は少しずつ勢いを弱め、下火になっていく。
未だ腑に落ちない顔をしながらも、彼はほとんど呟くような声でこう返す。
「それは、そうかもしれませんけど……」
少しして、光の女神と親衛隊隊長の姿は神殿の外にあった。
午前の日差しが辺りを柔らかく照らす中、パルテナは片手に杖を携え、ゆったりと散歩するような足取りで石畳の道を歩いていた。その一方、後ろに付き従うピットは依然として疑いの面持ちで、周囲を見回していた。
女神と隊長に気づいたイカロス達が振り返り、にこやかに敬礼を返す。丹精込めて手入れされた庭園、生垣の葉が風にそよいでいる。広場の中央に設けられた噴水、水しぶきが日の光を受け、小さな宝石のように輝きながら落ちていく。
目に映るのは、いつもと変わらぬエンジェランドの光景。あるべきでないと思えるところはどこにも見当たらない。
だんだんと手紙に対する自分の解釈を疑い始めたピット。その目が、ふとある一点に向けられる。
その先にあったのは、石造のあずまや。いつの頃に造られたのかも分からないほどに古びた、灰色の岩肌。いつかどこかで見たような、と思っていたピットは、そこで唐突に理由に思い当たり、渋い顔をする。それはかつて、エインシャントが初めてここを訪れた時に寄り道させられた場所の一つだった。
彼は自分から『女神に用事がある』と言っておきながら、まるで初めて都会にやってきた田舎者のように、ピットにとってはどうでもいいような物事一つ一つに気を取られ、案内を仰せつかったピットはそのたびに時間を取らされたものだった。
――やっぱり、あの人は良く分からないな……。
エインシャントのことを考えていた彼の脳裏に、そこでナチュレの顔が浮かんだ。
『やはりそなたらはエインシャントの与太話にまんまと乗せられておるのじゃ』
得意げに腕を組み、丈の高い椅子の上からこちらを見下ろす姿。
『自分のいる場所が偽物だと思わせることで、今後、亜空軍に攻められたとて本腰を入れて守ろうとは思えなくなる。そなたが手紙を配ることは、やがて無抵抗で本当の世界を明け渡させるための下拵えになってしまったのやもしれんぞ』
彼女の説を鵜呑みにしたわけではないが、とはいえ理由もなく軽視して良い意見とは思えない。
――そうだ。せめて僕だけでも用心しなきゃ。
心の中でそう決心した向こう側、パルテナの声が聞こえてきた。
「あなたもいきなりのことで信じられないでしょう」
我に返り、見上げたピットを振り返って女神はこう続ける。
「ですが、私もあなたに上手く説明できるようにしっかり準備していたのですよ」
それから彼女は行く手に向き直り、その先をまっすぐに見据える。
「私は……いつの日か必ず、この時が来ると信じていましたから」
心持ち背筋を伸ばしてそう言った女神の声は、どこか誇らしげでもあった。顔を見なくとも、嬉しそうな笑みを浮かべているのがはっきりとわかるほどに。
ピットは驚きに少し目を丸くして主の後ろ姿を見上げていた。
女神がこれほどはっきりとした感情を打ち明けるのは滅多にないことだった。思い出せる限りでもこれまでに二度――闇の女神メデューサからエンジェランドを取り返した時と、三界を引っ掻き回したハデスを退けた時くらい。つまり、彼女はエインシャントから受けた任務の重要性と難易度を、ピットが思う以上に高く、非常に高く見積もっていたということになる。
――……でも、さすがにメデューサやハデスの時と同じくらいってことはないよね。これはきっと、一つ一つはそこまで難しくなくても数が膨大だったから、それをひとつ残らず成功させるっていうのがポイント高かったのかも……?
そんなことを頭の中で考えていたピットは、見る前でパルテナが振り返ったのを見て、慌てて考え事を切り上げる。
彼の様子はさほど気に留めず、女神はこう切り出した。
「ピット。実は、あなたにずっと隠していたことがあります。この私も――」
空いている方の手をピットの目の前にあげて見せ、くるりと手首を捻ったかと思うと、もう次の瞬間にはその指で白い封筒をつまんでいる。手品のような芸当をいとも簡単にやってみせ、彼女は続けてこう言った。
「――既にエインシャントさんから手紙を受け取っていたのです」
白い封筒に紅色の封蝋。その特徴に、ピットは目を丸くする。
「えっ……い、いつの間に?」
「あの方が最初にここを訪れた時ですよ」
「そんなに前から……!」
と驚きの声を上げてから、ややあって彼はおずおずとこう尋ねる。
「じゃ、じゃあパルテナ様も、キーパーソンだったんですか……?」
女神は微笑んで頷いた。
「ええ。そういうことになりますね。私はいわば、配り手であるあなたと一番長く接するキーパーソンだったのです。なかなかスリルがありましたよ、あなたに気づかれないように振る舞うのは。ちなみに言語学的に正しく言うなら“キーゴッデス”でしょうけど、ちょっと語感が悪いですから、私のこともキーパーソンと呼んでもらって結構ですよ」
それを聞くピットはただただあっけに取られ、目をぱちくりさせていた。
“神たるもの、人界とは一線を画した存在である”。それが彼にとっての常識であり、彼が生きてきた世界のルールだった。
ほとんどの神々は下界に降りることを好まず、代わりに眷属を遣わしたり、あるいは間接的に力を及ぼすことで自分の威を示してきた。そんな神々の一柱である光の女神が地上界の人間たちと同じカテゴリーに入れられているという言葉は、彼にとっての常識とは相容れず、なかなか受け入れ難いものだった。
そこまでを考えていたところで、ピットはふとあることを思い出して女神に声を掛ける。
「……そういえば、パルテナ様」
「どうしましたか?」
「僕はずっと気になってて、でも今までちゃんとした答えを貰ってない疑問があるんです。そもそも“キーパーソン”って、何なんですか?」
「読んで字のごとく、“鍵となる人物”です」
「いや、それじゃあただ訳しただけじゃないですか……」
「あら! 言葉を侮ってはいけませんよ。私達や地上界の一部の人間たちがキーパーソンと名付けられるからには、その言葉の意味と共通する性質が備わっていたに違いないのですから。……まあ、時にはコードネームのように一見しただけでは由来の分からない名づけも存在しますが、それならイニシャルとか動物名とか、もっとシンプルな呼び名にするはずですよね」
女神の言葉にようやく得心がいったピットは、
「うーん、確かにそうでしたね。鍵となる人物ですか……。鍵、鍵……」
ぶつぶつと呟きながら歩いていく。だが、いくら考えても答えにたどり着けず、諦めてかぶりを振ると女神にこう尋ねかける。
「……そうしたら、エンジェランドがおかしなことになってなかったのは、パルテナ様にもう手紙が渡されていたからだったんですか?」
「そうとも言い難いですね。私達のいるエリアは、幸いにも、数多あるエリアの中では比較的平和が保たれている方だったのです。『特に事件らしい事件もなく、平凡な日常が続くばかり』というパターン。あなたも、これまでの任務で見たことがありますよね?」
「ええ、まあ……」
「我々のエリアがそうなって、他の幾つかのエリアがそうならなかった理由は不明ですが、それでもここがエリアであることには変わりありません。あからさまな異常は見当たらなくとも、今のあなたであれば、ここのどこかに不自然なところがあることには気づけるはずですよ」
ピットは驚いた様子で目を丸くする。
「えっ?! ……あ、いや、でも……僕もそう思ってさっきから辺りを見てたんですけど、さっぱり分からなくて……」
「無理もないかもしれませんね。一度『問題ない』と判断してしまった物事は、たいていそれっきりになって忘れてしまうことも多いですから。かつてのあなたはおそらく、不自然な現象や物事を見かけても、無意識のうちに真実を避けて一見筋が通るような理由をとったり、それも見つからなければ、いつの間にか意識から外してしまったりしていたはずですよ」
「だとしたらなおさら自信が無いです……。何かきっかけでもあれば良いんですけど」
そう言いつつ、ピットは困ったような顔をして辺りを眺める。
依然として妙なところは見当たらず、彼は今度は自分の記憶を掘り起こしにかかる。ひとたび忘れてしまったものを思い出すのは至難の業なのではないだろうかと思いつつも呻吟することしばし、彼ははたと目を見開いた。
「――そうだ、三種の神器!」
比較的最近の出来事だったために、その記憶は未だ浅いところに残っていた。
ピットはそのあらましを、失われたはずの新旧二つの三種の神器が、何事も無かったかのように武器庫に安置されているのを見たということを伝えた。
しかし、それを聞いたパルテナは意外そうな顔でこう返した。
「忘れたのですか? あなたはあの後、三種の神器を装備して闘う機会がたくさんあったのですよ」
「……あの後って、ハデスに壊された後ってことですよね。じゃあやっぱり、神器はディントスに直してもらったんですか?」
「ええ。そしてそのついでに真・三種の神器も」
軽い調子で言われた言葉に、ピットは唖然としてしまった。あの乗り込み型の巨大神器は、ハデスとの直接対決にあたって神器の神ディントスが手掛けた特別製であり、神とも渡り合えるほどの性能を誇る規格外の存在だ。授けられた際にも、取り扱いにはくれぐれも気をつけるようにと言い渡されたものだ。
ようやくのことで気を取り直し、用心深くこう返す。
「ついでって規模じゃなくないですか……? ちなみに、今回は何を要求されたんですか? 最初にあの神器を貰いに行った時はやたらと長い試練を与えられた記憶があるんですけど……」
「あの神は職人気質ですからね。ハデスとの戦いで真・三種の神器がいかに活躍したかを褒め称えてから、『あれほど素晴らしい神器がこの世から永久に失われてしまうのは勿体ない』と付け加えたら、まんざらでもない顔をして一瞬で直してくれましたよ」
得意げな笑みを見せて答えた女神に対し、ピットはため息交じりに項垂れた。
「そんなぁ、僕の努力は一体……」
「あらピット。それはそれとして自分を誇って良いのですよ。真・三種の神器が私達の下にあるのも、元はと言えばあなたの頑張りのお陰ですから」
「そう言っていただけると嬉しいです……」
まだちょっと萎れた様子でそう言いつつも、ピットは続けてこう尋ねる。
「――でも、三種の神器の出番があの後もあったなんて初耳です。それってつまり、僕は忘れてしまっているけれど、あの後も三種の神器を使わなきゃならないほどの凄まじい戦いがあったってことなんですか……?」
「ええ、それはもう。各エリアをまたにかけるような闘いがあったのですよ」
「そうだったんですか……」
彼は幾分声を落とし、天界の外、雲海の下に広がっているであろう地上界の方角を見つめていた。
戦いと聞いた彼の心に浮かんだのは、数多の人間たちを巻き込む戦争。かつて願いのタネを巡って巻き起こった人間たちの争いや、ここから遠く離れたエリア、イルーシアと呼ばれる地での終わりなき戦乱。
憂うような眼差しを浮島の端に向ける従者。一方、女神は何も言わずに、微笑みさえ浮かべて彼を見守っているのだった。
ピットは結局それに気が付くことなく、自ら首を横に振って一旦自分の気持ちに整理をつけてしまう。それから女神の方を見上げ、続いてこう切り出した。
「……あともう一つ、不自然なことを思い出しました。僕の部屋なんですけど、この間探しものをしようと思って久しぶりに開けたら、もうとにかく埃だらけで凄いことになってて」
しかしそれを聞いたパルテナは、完璧な笑顔でぴたりと指摘した。
「それはただ単に、あなたが掃除をサボっていたからですね」
「ぐうの音も出ない!」
いささかオーバーにのけぞってから、ピットは釈明するような調子でこう返す。
「でもいくらサボってたとはいえ、あんな豪雪地帯も顔負けの勢いで積もるなんて……。僕も地上界で色んな廃墟を見たことありますけど、あんなに埃が積もった場所、今まで見たことありませんよ」
「直接あなたの部屋を見たわけではないのでなんとも言えませんが、地上界なら埃が分厚く堆積する前に、建屋の方が経年劣化で朽ち果ててしまうでしょう。でもここは天界ですから。建物の方もそんなにやわではありませんよ」
女神の冷静な解釈に、ピットは、
「なるほど、そういうことだったら……」
と納得しかけるも、ふとその眉間に訝しげなしわが寄る。
「あれ? でも、待ってください……それじゃあ僕は、地上界で建物が朽ちて倒壊するくらいの年月、自分の部屋を放置してたってことですか?」
「そういうことになりますね」
「えぇ、そんなぁ……僕ってそんな物ぐさに見えます?」
そう言ったピットに対し、パルテナは全てを受け止めるような慈愛の笑みでこう答える。
「誰しも苦手なことの一つや二つ、あるものです。とはいえ、親衛隊の隊長たるもの、今後はイカロス達の模範となるような行動を心掛けた方が良いでしょうね」
「はぁい……」
ピットはそう返事をしたが、やはりまだどこか腑に落ちない顔をしていた。
女神のあとをついて歩きながらも、内心でこう考える。
――じゃあ、僕は今の任務が始まるよりも、もっとずっと前から部屋をほったらかしにしてたってこと? でも、昔は今みたいに四六時中忙しいわけじゃなかったし、自分の部屋に帰らない理由は見当たらないよなぁ……。これってもしかしたら、パルテナ様の言ってた昔の『戦い』とか、僕の記憶が抜けてる期間と関係してるのかな?
訝しげに首をひねりつつも先日の出来事を思い出そうとしていた彼は、そこでもう一つ、不自然なエピソードがあったことを思い出した。
「あ、それと……ブラピのことでも気になるところがあって。この間、ナチュレに連れ去られた時に聞かされたんです。ブラピはずっと自然軍の基地にいたって。でも、僕はあの時、確かに転移の門をくぐったはずですよね? ブラピがいるエリアに行くために」
それを聞かされた女神は、含み笑いをした。
「ふふふ、まんまと私のトリックに引っかかりましたね」
続いて女神は得意げな顔で天使を振り返ると、こう明かした。
「あの時だけは、あなたは別のエリアには飛ばされていなかったのです。確かに門をくぐらせはしたものの、あれは私たちのいるエリアと地続きの場所だったのですよ」
「えっ……ええっ?! そうだったんですか?!」
目を丸くしていた彼の顔に、ややあってはたと納得の表情が浮かぶ。
「確かにそれなら辻褄が合います。けど……でも、そうしたら、あの時僕がナチュレやエレカとかに鉢合わせなかったのは?」
「運が良かったのでしょうね」
あっさりとそう言ったパルテナだったが、ピットは疑わしげな様子でこう尋ねる。
「本当にそれだけなんですか……? あの場所は自然軍が拠点としてる場所の一つでしたよね。いくらナチュレが放任主義でも、神には違いないんですから、領地に侵入されて気づきもしないなんて……。それよりはパルテナ様が奇跡で僕のことを見つかりにくくしてたり、そうじゃなかったらエインシャントさんがこのバッジ越しに何かをやったんだっていう方がまだしっくりきます」
「少なくとも私は、あの時は飛翔の奇跡しか与えませんでしたよ。仮にあなたの侵入がナチュレに露見してしまったら、そしてその手引きに私が関わっていると知れたら何かと面倒なことになりますからね。ですから、あなたの存在をごまかすために何かが行われたのだとすれば、それはエインシャントさんによるものでしょう」
これを聞いたピットは何も言わず、しかし煮え切らない表情で口を引き結んでいた。
女神の言葉が、言外に、エインシャントがナチュレの権能をある点で上回るほどの力を持っているというように聞こえたのだ。
『あの人は、何者なんですか』
問おうとした口は、そこでふと躊躇い、声を発せられないままに閉じられてしまう。
彼の心の中に、灰色の雲のように低く垂れこめたのは不安。どのような答えが返ってくるのか、そして自分は、その答えを受け止められるのか。
いつものようにはぐらかしてくれた方がまだ良いと思ってしまって、それを期待しておきながら聞くのはどうなのかと、自分を詰る。
内心で気持ちを揺らがせているピットの様子に気づいているのか、それとも気づいていないのか、女神は変わらず穏やかな声音で再び、従者に向けて話し始める。
「それにしても、あの時は危ういところでした。もしもあなたが手紙を配った際のブラピの居場所について詳しく問いただしていたら、エインシャントさんからの手紙を待たずしてナチュレからネタバレを受けていたかもしれないのですからね」
「いえ、そうなってたとしてもきっと大丈夫です。僕はどんなことがあってもパルテナ様の言葉を一番に信じてますから」
「まあ! それはなんとも殊勝な心掛けですね」
パルテナはそう言って片手を口元にあて、くすくすと笑う。それから、彼女は続けてこう言った。
「――でも本当に、あなたは私からの言いつけをしっかりと守っていましたね。あれだけ沢山のキーパーソンに手紙を配ったのに、一度も誘惑に負けなかったなんて」
「誘惑って、手紙の中身を読むことですか? それはもう、あれだけ厳重に言われてたら守らないわけにはいきませんよ。……まあ、全然気にならなかったって言ったら嘘になりますけど」
「“見てはいけない”と言われたものほど見たくなる、そういう心理は古典的なものですからね」
「鶴もしかり、箱もしかり、ですね。でも、今回の場合はどういう理由だったんですか?」
「そうですね……エインシャントさんからは、キーパーソンであるあなたが“相応しくない”タイミングで手紙を読むのを防ぐため、と聞いています。あの方の説明では、封筒の中に入っている手紙の文面は固定されたものではなく、その時その場所にふさわしいメッセージを示すようになっているそうで。そのための仕掛けが非常に複雑なために、目的外のキーパーソンが見た場合、思わぬ誤作動を起こす可能性があると言っていましたね」
初めて知る物事に、ピットは少し目を見開いて女神を見上げる。
「そうだったんですか? キーパーソン以外が見ると白紙になるっていうのは知ってたんですけど……。それじゃあ、相応しくないタイミングで僕が見てたら、どうなってたんですか?」
「さあ……エインシャントさんがあんまりにも深刻な声で言うものですから、私も特に深くは尋ねなかったのです。でも敢えて防止していたということは、おそらく『白紙』ではないのでしょうね」
女神は何食わぬ顔でそう答えたが、この方のことだから、そう言いながらも大方予想はついているのではないか――ピットは内心でそう考えていた。
身の回りについてはだいたい出尽くしてしまい、ピットは先ほどからずっと難しい顔をして腕を組み、天を仰いで考え込んでいた。
彼の方から何も出てこない様子であるのを見てとった女神は、少し話題を切り替えてこう尋ねる。
「私たちのエリアについては、ひとまずそんなところでしょうか? では、今度は他のエリアについてはどうでしょう」
これを聞き、ピットはすぐさまこう答えた。
「他のエリアですか? それはもう、不自然なところだらけで、どこから挙げたらいいか分からないくらいです」
そう言っていたところで、彼ははっと目を瞬く。そもそも、今日天界に帰ってきた時に自分が気がかりにしていたこと、女神に聞こうと思っていたことを思い出したのだ。
「……そうだ、そういえば!」
「あら、どうしたのですか?」
「エリアの正体ですよ。帰ってきたらパルテナ様に尋ねようと思ってたんでした。……今回の依頼で訪れたエリアで、僕はとんでもないことを知ってしまったかもしれません。でも、そうでもなければ今まで僕が見てきたことに説明が付かないんです」
「まあ、ずいぶんもったいをつけるのですね」
そう言いながらも従者の言葉を待つ姿勢になった女神に、ピットは意を決してこう言った。
「エリアは、もしかしたら“夢”なんじゃないでしょうか。それも何人もの人が共有している、特殊な夢です。僕は今までに色んなエリアを回りましたが、どのエリアも大なり小なりの事件や異変に見舞われていました。でも、僕がそのエリアのキーパーソン全員に手紙を配り終えると異変にも一応の決着がつくようになっている……それはつまりキーパーソンの人たちが、そこが夢だと気づいたから、自分たちを襲っている災難も自分の心が生み出した幻だと気づいたからなんじゃないかって」
数多の世界を巡り歩き、懐かしさを覚える人々と出会い、彼らと共に苦難を乗り越えた歳月から導き出された、彼なりの結論。
真剣そのものの表情で伝えた先、しかし女神はさほど驚いた様子もなく、真意の読みがたい微笑を見せる。
「なるほど、それは面白いアイディアです。その理屈で行けば、私達が今いる場所も夢の中ということになりますね。それでは果たしてこれが夢かどうか、試しにほっぺをつねってみてはどうでしょう?」
彼は怪訝そうな顔をしつつも、言われるがままに頬をつねる。
「……普通に痛いだけでした。それに考えてみたら、僕、今までの配達任務でこんなの比じゃないくらいの思いをしてましたし。でも……そもそも『つねって痛かったら現実だ』ってよく言いますけど、本当にそれを夢の中で確かめた人っているんでしょうか?」
「さあ、どうでしょうね。夢で感じられる五感はほとんどが視覚、次に聴覚とは言われているものの、本当かどうかは誰にも分かりません。夢というものは個人差もありますし、そもそも起きたら忘れてしまう部分も大きいですから。あなたが痛みを感じたからといって、これが現実だと断言できるわけではないのですよ」
「えぇ? じゃあ、なんで僕にほっぺをつねってなんて提案したんですか……?」
そう返しつつも、ピットは何となく、女神にはぐらかされてしまったような気がしていた。
自分の仮説をはっきりと否定されたわけでもないが、肯定されたとも言い難い。
しかし、冷静に考えてみると、今ここで明らかにしなければならないほど差し迫った問いというわけではない。
――一番大事なのは、ここがどこかっていうよりも、ここからどう出るかってことだよね。
自分に言い聞かせるようにして、彼は心の中で独りごちた。
石畳の道を歩いていくうち、あるところで、ピットは行く手に現れたものに気づいてふと立ち止まる。
地味で無骨な石造りの倉庫。扉は女神が近づいたところでひとりでに開かれ、パルテナは足を止めず、その方角に向かおうとしている。
「あれ? ここは……」
「ええ。書物庫です」
女神はこちらを振り返り、首肯してみせる。
イカロス達が地上界のパトロールで見聞きした物事は、巻物の形で保管されている。古いものから処分しつつも、一定期間はこの書物庫の棚に蓄えられていく仕組みだ。今の任務を受ける前までは、書き留めと書物庫への移動はピットの仕事の一つだった。
しかし、この建物の意味や思い入れとしてはそんな程度でしかない。こんな地味な場所に何があるというのだろうか。
そんな心の中の疑問を読み取ったかのように、女神の声がこう言った。
「ヒントです」
パルテナは書物庫の入り口を前にして立ち止まり、改めてこちらに向き直る。
「ピット。あなたはおそらく、ここがエリアだということについて未だ半信半疑といったところでしょう。『身の回りで不自然なことは』と言われてもピンときてないようでしたから」
そうは言われたものの、不注意や意図的な見落としはしていないつもりだったピットは、慎重にこう尋ねる。
「……ここにそのヒントがあるってことですか?」
「ええ」
付いてくるように言うまでもなく、女神は杖の先に光を灯し、書物庫の暗がりへと歩を進めていく。
倉庫の暗闇にぼんやりと浮かび上がる後ろ姿を目だけで追いかけ、ピットはその場から前に進めずにいた。彼の足をためらわせていたのは、『ここがエリアだ』とする女神の言葉。彼女の指摘した通り、彼は未だにそれを受け止められずにいた。
彼はこれまでに行く先々のエリアで手紙を配り、中身を読んだキーパーソンが動揺する場面にも直面していたが、寄り添い、声をかけこそすれ、そこにはどこか最後まで『自分は当事者ではない』という一歩引いた心持ちが残り続けていた。それが急に自分に番が回ってくるなんて予想もしていなかったし、ましてやどんな心構えでいれば良いのかなど考えてみたこともなかった。
ぐずぐずしているうちに、パルテナは振り返らぬままどんどん倉庫の奥へと行ってしまう。遠ざかる彼女の背を見つめていたピットは、首を横に振り、自分もその後を追って走っていった。
しんと静まり返った暗闇に、古びた紙と埃のにおいが漂う。女神は光を灯した杖をランタンのように掲げて歩いていき、その後ろにピットが付き従う。彼らの足音は周囲の巻物に吸い込まれてしまい、ほとんど反響しないままに消えていく。
書物庫も、前に見た時から特に変わったところは無いようだ。巻物一本分が収まる高さの段が天井に近いところまで積み重ねられ、そのほとんどが記入済みの巻物で埋まっている。古くなったものから順に処分するか、余程重要なものは残す手はずになっているが、イカロスもピットもその選別と移動が面倒で、まだ棚に空きがあるのを言い訳にして放置している。
――まさかパルテナ様がこんな場所に来るなんて思ってもいなかったなぁ……『少しは掃除しなさい』とか言われないと良いけど。
内心でそんなことを考えつつ、埃を被った棚を眺めて渋い顔をしていたピット。ふと、その視界の端で明かりが動いたことに気づき、そちらに目を向ける。
見ると、パルテナが棚の横で立ち止まり、一本の巻物に手を伸ばしたところだった。するりと引き出された巻物はそのまま重力を無視してふわりと宙に浮かび、ひとりでにほどけて広がっていく。女神はそのまま、従者に目を向けて巻物の紙面を見るように促した。
戸惑い気味に歩いていき、彼女の横に並んだピット。紙面に向けられた彼の表情に、ほどなくして緊張が走る。
『観測結果報告 エリア1-A』
『エリア17-T-51 期間内にクラスB以上の事故事例なし』
『エリア38-U 定期点検のため休止中 代替エリアは以下の通り』
『エリア5-N ポイントR-25に軽度の強度低下を認める』
『エリア2-B-10 インシデント報告 ID2055092が予期しない要求により――』
見慣れない文体、見慣れない文章。だがその文字は確かに、自分の筆跡を示している。
両手からさっと血の気が引き、喉元まで焦りがこみ上げてくる。混乱が思考をふらつかせ、文字の意味さえも取れなくなって、いつしか目はいたずらに紙の上を滑っていく。
一方で女神は涼しげな顔をして、今度は別の巻物を手元に呼び寄せた。
「……そしてこれが、比較的最近のもののようですね」
広げられた紙面に書かれた文字は、今度は打って変わって短く、似たようなものばかりになっていた。
『エリア89-B 渡航不可』
『エリア3-C-208 渡航不可』
『エリア7-Y-10-K 渡航不可――』
とうとう首を強く横に振り、ピットは思わず巻物から逃げるようにして後ずさった。
「こ、これ……いったい何なんですか?! 僕、こんなこと書いた覚えありません!」
巻物を指さして訴えたピットに、女神は微笑みと共に頷いた。
「大丈夫、覚えていなくて当たり前です。あなたや代役のイカロスは、無意識のうちにこれを書き、それでいてその文章を正確に知覚できていなかったのですから」
「全然『大丈夫』じゃないですよね、それ……」
やっとのことでこわばった笑みを作り、そう女神につっこみを入れたピット。だが、その口調に全く余裕の色はなかった。
彼の心では無数の問いが渦巻き、言葉の形を為せないままに鬱滞していく。女神はそれを分かっていながらも微笑であしらい、杖の一振りで巻物を一通り元の位置に仕舞う。
それからピットに向き直ると、声を改めてこう言った。
「さて、これが一体何なのかということですが、それを説明するにはまず『ランド』のことを知ってもらう必要があります」
「……ランド? また新しい単語が出てきましたね」
用心深く、ピットはそう聞き返した。
書物庫を出た天使は表情を曇らせて俯き、地面を見つめて考え込んでいる様子だった。
自分がどこを歩いているのかも意識しないままに、女神のあとを半ば無意識のうちについていく。一方のパルテナは、そんな彼に無理に声を掛けようとはせず、彼がついてこられる程度に歩調を落として歩き続けていた。
辺りの視界が開けた気がして、ピットはふと顔を上げる。
気づけばそこは、神殿を支える浮島の外れ。二人が立つ広場の向こう、白い雲を隔てた下には地上界が広がっているはずだ。
女神がすでに広場の端へと歩いていったのに遅れて気が付き、ピットは駆け足で彼女の下に向かう。
「こちらへ」
促されるままにその隣に並んだ彼は、おのずと、地上界に目を向ける。
眼下、雲の切れ間から見渡す限りに広がるのは、暗黒の海と鮮明な球体の島々。すっかり見慣れた、それでいて変わり果てた地上界。膝に手をつき、浮かない表情でそれを眺めていたピット。そんな彼の頭上で、パルテナがこう切り出した。
「実は――」
女神の声にはっと姿勢を正したピットに、彼女は続ける。
「この光景を“認識”できるのは、私達のエリアにおいてはあなたとブラピ、そして私しかいないのです」
「それって、キーパーソンの資格があるかどうかが関係してる……そういうことですか」
「正確には、手紙を読み、その意味するところを解ったかどうかですね」
パルテナの言葉に、ピットはややあってきょとんと目を瞬く。
「――えっ? でも僕、手紙を読んだのはさっきが初めてですけど……」
「ええ。ですからあなたは本来、今日の日までこの光景を見ることはできないはずだったのです。でも、私がちょっとした奇跡を授けたのですよ。あなたがここを旅立つ前に」
彼女の言葉に、ピットは初めて地上界の『真の姿』を目にした瞬間を思い出す。夕焼けに染まる空、茜色の雲。下界を覆う雲が女神の杖の一振りで散らされ、ピットがそれまで地上だと思っていたよりもはるかに広い領域が姿を現した、あの時のことを。
「なるほど、それで僕は……。でも、どうしてですか?」
「そうした方が説得力があると思いまして。今から向かうことになるエリアが、エンジェランドとは全く異なる場であること。暗い海の中に孤立した、未知の領域であること。それを分かってもらうには、言葉を並べるよりも実際に目で見せた方が早く、確実ですから」
「違いないですね」
頷いてから、ピットは再び広場の端から下界を覗き込み、両ひざに手を置いて身を乗り出すようにして、隅々まで眺める。
「……それにしても、そういうことだったんですか。ナチュレから『地上界はバラバラになんてなってない』って言われたんですけど、それは僕の目がおかしいんじゃなくて、ただ単にナチュレの目ではそれを見ることができないからだったんですね」
ひとしきり眺め終えた彼は、ふと気づいて女神の方を見上げる。
「あ、それでパルテナ様。ランドっていうのはいったい……?」
「今から見てもらおうと思っていたところです」
パルテナはにっこりと笑って杖を掲げる。彼女のその仕草に、天使は何か嫌な胸騒ぎを覚えた。
「ピット、準備はできましたね? それでは――」
その杖が淡い光を放つとともに、ピットの両の翼に青い輝きが宿る。
あっと思う間もなく、翼の辺りから全身が持ち上げられ、クレーンゲームのようにして虚空へと運ばれていき――
「ご覧ください!」
「ブラックホールは勘弁してーっ!」
ピットの悲鳴も届かぬまま、杖は無慈悲にも振り下ろされ、彼は吸い込まれるように真っ逆さまに下界へと落下していく。
見上げる彼の見る先、視界に不思議な変化が起こり始めた。
雲の上に浮かぶ神殿、遥かな高みに広がる蒼穹、杖を片手にこちらを見送る女神。その光景が魚眼レンズを通して見たように丸く歪み始めたかと思うと、急速に遠ざかり――暗闇にぽつんと浮かぶビー玉のような姿になってしまった。
いつかどこかで見たことのある光景。
はっと気づいて辺りを見回すと、彼を取り巻くのは暗黒の宇宙に浮かぶガラス玉の星々。いつしか亜空砲戦艦から放り出された時、目にした景色だ。
――あれ? そう言えば全然苦しくないな……
怪訝そうに自分の身の回りを見渡した彼は、その肌や服を覆う輝き、青く光る透明な膜があることに気が付く。
バリアみたいな加護だろうかと思っていると、背後、やや上から女神の声が聞こえてきた。
「いかがでしたか? ドキドキ発見、『ランド』ツアーは」
見上げると、パルテナが服の裾を優雅にはためかせながらこちらへと飛翔してくるところだった。彼女もまた、ピットと同様の青い輝きに包まれている。
ピットは浮かない顔でこう返した。
「悪くないですけど、あんまり気分は良くないです。やっぱり……天界もガラス玉の中に閉じ込められてたんですね」
神々の暮らす天上の世界でさえも、虚空に浮かぶガラス玉の一つに過ぎなかった。それを目の当たりにして、いよいよ彼は退路を絶たれ、逃れようのないところまで来つつあった。
「ええ。私も力及ばず、不甲斐ない限りです……。とはいえ、ここまで手際が鮮やかだと悔やむどころか、かえって驚嘆するばかりですね」
しおらしくふるまいながらも、どこか余裕のある女神の調子に幾分合わせるようにして、天使もこう返す。
「全くです。エンジェランドの神々にも、パルテナ様にさえも気づかせずにやってのけたんですから。しかしこれは、とんでもないものを盗まれてしまいましたね」
腕を組み、まるで犯人を捜そうというような目をして辺りににらみを利かせるピット。
「あら。周りの世界ごと人間を盗むだなんて、それこそポケットには大きすぎるんじゃありませんか?」
「どう考えたってそうなんですよね……。真実はいつも一つ、と言いたいところですが、僕には犯人の動機が全く分かりません。こんなに壮大なコレクションを作って、いったい何がしたいんでしょうか……」
宙をふわふわと浮遊しながら、その恰好で真剣に考え始めた天使。
それを見守っていた女神は、あるところでぱんと手を打ち、彼の推理を切り上げさせる。
「はい! 探偵ごっこはそこまでにして、話の続きをしますよ」
ピットの正面、向き合うパルテナは、穏やかでありつつも威厳を伴った声で厳かに告げた。
「『ランド』とはエリアもエリア外も内包した領域。今見えているもの全て、それがランドだと考えて良いでしょう」
この上なく簡潔な答えに頷いていたピットは、ややあって何かが引っかかった様子で眉間にしわを寄せ、こう尋ねかける。
「……パルテナ様、それじゃあランドの外には何があるんですか?」
「さあ?」
女神は笑顔でそう返し、ピットは思わず突っ込む。
「『さあ』って! ……まあ、僕も単なる好奇心で聞いたので、別に良いですけど……」
「あなたはおそらく、本物の世界がどこにあるのか気になっているのですね」
その問いかけにピットは頷き、続けてこう言った。
「普通に考えたらランドと地続きの『外』なのかなって思うんですけど、その反応からすると、そうじゃなさそうですよね。ということはやっぱり、エリアは彼らが……いや、僕らが見ている夢なのかな……。夢ならその外っていうのも存在しないわけだし……」
考え込む彼に、女神は否定も肯定もしなかった。
その先の判断は彼にゆだね、彼女は続けてこう明かす。
「今のランドを見て、その外を想像しようとするのはいささか的外れかもしれません。こうしてあなたをツアーに連れ出しておいてなんですが、実は今、私たちが見ているものはランド本来の姿ではないのです。今でこそエリアは孤立した球体として見えていますが、かつてはエリア同士を区画する不可知の隔壁を持ちながらも、全てが隙間なく隣り合っていたのです。そう、まるでちょうど一つの世界地図のように」
ピットはなるほどと頷きかけて、ふと気がつく。
「……あれ? ランドが一つながりの地図だったなら、地上界とランドってどう違うんですか?」
「我々の認識で言うなら、ランドとは地上界に加えて天界、冥府界、その他もろもろを含んだもの。そう思ってもらって結構です」
「なんか含みのある言い方だなぁ……」
「さて。そのころの我々は、エンジェランドの庇護下にある人間に恵みを与えるのみならず、エリアの枠組みを大きく超えた“役割”も請け負っていました。本来あなた達に課せられた仕事の延長線上。それが――」
「『あらゆるエリアのパトロール』だったんですね」
「その通りです。イカロス達は、そうと意識しないままではあったものの、ランド内をあまねく飛び回り、あらゆるエリアの物事が円滑に進んでいるのを確認していたのです」
顎に手を当てて何かをじっと考えていたピットは、女神が続きを話そうとするのを手のジェスチャーでとどめた。
「……ちょっと待ってください。僕が今まで見てきたエリアがおかしくなってたのって、まさか……今みたいにランド内が“亜空間”でズタズタにされたせいで渡れなくなって、イカロス達がチェックできなくなったからなんですか……?」
女神は、頷くでもなく小首を傾げて微笑む。
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。あの巻物に文字として記録されているのは単なる観測結果であり、それを受けてどうするかということまでは書かれていませんでしたよね? だからただ見回りをしていただけ、という可能性も十分にあり得るのです」
そうは言われたものの、部下が何の意味も無く飛び回っていたとは思いたくなかった。何とか役目を見つけようとして、彼はこう尋ねる。
「じゃあそれを、ここに来ることなく読み取れる何者かがいたってことでしょうか……」
「方法はいくらでもあるでしょうね。例えば、我々には姿の見えない状態、あるいは怪しまれない姿で来ていたのかもしれませんし」
「姿の見えない状態、怪しまれない姿……」
その特徴にはどこかで聞き覚えがあり、ピットは難しい顔をして自分の記憶を掘り返そうとする。
「――そうだ、『よそ』の人!」
「『よそ』の人?」
「はい。ネス君が言ってたんですが、あの子のエリアには僕らの他にも、どこかよそから訪れる人がいたそうなんです。周りの人たちに紛れる姿形に変装して、後から後からやってきては彼の冒険を見物して。それだけならまだしも、彼の暮らすエリアの時間を好き勝手に巻き戻し続けていたっていう話で……まったく、とんでもない話です!」
こぶしを握り締め、義憤に燃えるピット。
しかしそれを聞くパルテナは驚いた素振りもなく、元から知っていたという様子で一つ頷いてみせる。
「ええ。来訪者がいたのは何も、あのエリアに限った話ではないのですよ」
こともなげに告げられた言葉に、ピットは一拍遅れて反応する。
「……え?」
呆けたように呟いた。
驚きが過ぎ去って、代わりに頭をもたげたのは言いしれぬ恐れ。背後から冷たい気配を伴って、じわりじわりと這い寄ってくる。
だが、彼の内心の動揺が実際の言動に移されるよりも先に、パルテナはさりげなく退路を塞ぐように、再び語り始めた。
「気が付きませんでしたか? あなたが見て回ったエリア、そして私達のいたエリア、全てに共通する性質があるのです」
それから光の女神は杖を持たない方の腕をあげ、その手で辺り一面のガラスの宇宙を――ランドを示す。
「かつて、私がエインシャントさんに連れられてエリアを見て回った時、私はそこに一つの共通項を見出しました。ピット、あなたは実際にエリアをその足で歩み、その目で眺めましたね。先ほどの任務で、あなたは全てのキーパーソンがいるエリアを巡ったことになりますが、どうでしたか? 何かに気づきませんでしたか?」
問われたピットだったが、せいぜい思いついたのは『人が住んでいる』という辺り。だが、明らかにそれが答えではなさそうなのは分かっていた。
だから、彼は何も言わずに、内心で不甲斐なさを覚えながらも首を横に振る。
女神には想定の範囲内だったらしく、微笑みとともに頷く。
「あなたは手紙を配るので精一杯だったかもしれませんね。私は、全てのエリアを一望した時にこう思ったのです。どこをとっても見どころばかり、まるで古今東西の観光名所を集めたよう。和ませたり、愉しませたり、はたまた胸躍るような冒険ができたり、危険と隣り合わせのスリルを味わえたり……趣旨はさまざまですが、どのエリアも誰かを――人間をもてなすために造られたのではないかと、そう感じたのです」
涼しげな表情と共に告げられたのは、あまりにも受け入れがたい言葉。
「人間をもてなすために、造られた……?」
かすれた声でその語句を繰り返すことしかできないピット。女神は彼に向き直り、頷きかけた。
「あなたがこうして無事にすべての依頼をこなしたことで、疑念は確信に変わりました。もちろんあなた自身の努力もありますが、危険とランク付けされたごく一部のエリアにしても、あなたはいつも無事に帰ってこられましたよね。すなわち、あらゆるエリアには見えない保護網が張り巡らされ、訪れた人間たちが度を越した危険に晒されることを防いでいるのです。そう……まるで、一種のテーマパークのように」
パルテナの言った言葉は、辺りの虚空にゆっくりと吸い込まれ、薄く広がっていく。
広大な空間、巨大なガラス玉が浮かぶ中、漂い続けるピットはしばらく唖然としたまま、何も言えずに女神の顔を見つめていた。その表情に、少しずつ意思が戻ってくる。
確かに、今まで巡ったエリアの中にはそういう趣旨を持った場所もあった。マリオ達のいたエリアはその最たるものだろう。しかし、それでも彼にはまだ納得のいかないことがあった。
「そうかもしれませんけど……でも、さっきまで僕がいたエリアでは、人間たちが閉じ込められていたんですよ? テーマパークにしては、安全対策に致命的な不備があると思うんですが……」
「あら、そうだったのですね! なるほど、エインシャントさんが『最高レベルの危険』を予測するはずです。でもピット、その人たちについて何か違和感は感じませんでしたか?」
「え……? ……そういえば、なんか受け答えが中途半端というか、薄っぺらい感じはありました。でも確かあれは、ネス君があの人たちの記憶を隠してしまったからだったような……」
そこまで言ったところで、ピットはネスの言葉を思い出す。
『もう時を巻き戻す人はいない。今いる彼らも"空っぽの影"でしかない』
パルテナもこう言った。
「『エリアは夢だ』というあなたの仮説で言えば、こちらにいる彼らもまた実体は無いのです。わざわざ他人の夢に入り込んだり、あるいは他人同士の夢をつなげられるくらいの人たちなら、トカゲのしっぽを切るようにして夢の中の自分の分身を切り離すことくらい、お茶の子さいさいでしょう」
それを何気ない口調で言う女神に対し、ピットは割り切れない思いを抱き、それでいて何も言い返すことができず、内心の葛藤を表情に表してじっと黙りこくっていた。
パルテナの言ったことをまとめるのなら、こういうことになってしまう。
『よそ』から見物客が来ていたのは、ネスやマリオのいたエリアだけではない。今まで自分が歩んだエリア、そしてエンジェランドまでもがそうだった。
明らかに神ではない人々によって自分を含む天上の存在、殊に神々までもが欺かれ、数多の人間たちと共にエリアに閉じ込められていた。
しかもそれは、かつてナチュレが示唆した説のように世界を乗っ取ろうとか、邪魔者を閉じ込めてしまおうとかいうようなものではない。ただ単に娯楽のためなのだと。
今まで、地上の人間たちはそうと知らずに日常や冒険を一種のアトラクションとして鑑賞され、楽しまれていた。そして自分たちも、そうと知らずにランドのメンテナンスにずっと付き合わされていた。それも昨日、今日のことではない。
庇護し、見守り、恵みを与える対象に侮られ、蔑ろに扱われた。到底認められないし、認めてはならない状況。それをあまりにもあっさりと肯定する主神。
ピットの表情にはいつしか、内心に募らせたじれったさが露わになっていた。ついに、ほとんど抗議するような声音で、ピットは女神にこう訴えかける。
「でも……やっぱり僕は、人間にこんなことができるとは思えません。ここが夢の中なんじゃないかっていうのも撤回します。本当の世界を切り取るとか、夢を操るとか、あんなにたくさんの人間を連れてきて、遊園地に仕立て上げたハリボテに閉じ込めるとか。しかも地上界の人間同士ならまだしも、パルテナ様にも気づかせないでやってのけるなんて……そんなの、ありえませんよ。それよりは、何もかもたちの悪い嘘だって方が、地上界も天界も本当は何ともなってなくて、ただ僕の目がおかしくなってるだけなんだって方がしっくりきます」
だがパルテナは少しも動じず、落ち着き払った眼差しでこう応えた。
「私は、自分が何でもできると自惚れるほど無知ではありませんよ。私達は現に、ここにこうして閉じ込められていた。それが事実です」
断言された言葉に、それでもピットは諦めきれずに食い下がる。
「……でもパルテナ様、相手は人間なんですよね? 仮にどこかの悪趣味な神が入れ知恵したんだとしても、こんなにたくさんのエリア、手に余るに決まってます。人間のやることなんですから、絶対にどこかでボロが出ますって」
「ピット、あなたはこの私に仕える身でしょう? 光の女神の従者たるあなたが、人間の可能性を信じなくてどうするのです」
「可能性って言ったって……こんな成長、嫌ですよ。僕は、人間をこんな風に育てた覚えはありません」
そう言って不満と憤りにむくれるピット。
それを見ていた女神が、ふと笑った。まるで、幼子の仕草を見た時のような笑いで。
彼女の反応に、それまで自分が憤慨していたのも忘れてピットはきょとんと目を瞬き、相手の顔を見上げる。
パルテナはその表情に笑みを残したまま、幾分すました顔で彼に言った。
「ごらんなさい。辺りを、あるがままに」
そうして、杖で行き先を示すようにして、虚空の一点を指し示す。浮遊する二人の周りでガラス玉はゆっくりと公転し、彼女が指し示す先でも大小さまざまなガラス玉が横切り、過ぎ去っていく。
杖で指した方角を見つめる女神はひと時たりとも目をそらすことなく、作り物の宇宙を見つめていた。
透徹な瞳で、彼女はこう言った。
「ここが、今の私達がいる場所。私達が置かれた現実。……自分の価値観や常識に対して都合の悪い物事に直面した時、とりあえず目を通して考えよう、自分の知ることと照らし合わせて吟味しようとするのではなく、頑なに目を閉じ、耳を塞いで顔を背けたり、自分にとって口当たりの良い情報だけを選り好み、それだけが真実だと思い込むのは容易いこと。でもピット、あなたが今自分で言った言葉をよく考えてごらんなさい。あなたが自分の足で歩き、目に映ったものや耳にしたこと、それまで知り得たことまで否定しているのですよ。それでどうやって物事を比較し、正誤や善悪の判断を下せるのでしょう。あなたは今ここに解決すべき物事があることさえも、無かったことにするつもりですか?」
反論のしようもなかったが、とはいえピットは困惑の表情を浮かべてこう返す。
「確かに仰る通りですけど……でも今は、向き合ったって解決法が見つかるとは思えません。キーパーソンもみんな、誰一人、元の世界に帰れた人はいませんでしたし、僕も帰り方なんてさっぱり分かりません」
それから彼は、一縷の望みをかけて女神を見上げる。
「……パルテナ様はご存じなんですか? どうすればみんなを助けられるのか」
パルテナは天使に向けて微笑みかけ、きっぱりとこう答えた。
「いいえ。私の知識をもってしても、全く」
その言葉に、ピットは愕然と目を見開く。
ここまでのやり取り、女神の振る舞いを見ていて、薄々悪い予感はあった。
だが、この場でいよいよ、彼女の口から一発逆転の一手が語られ、他のエリアの皆と結束して立ち向かっていくことをどこかで期待してもいた。
途方に暮れる天使に向けて、女神ははぐらかすことなくこう告げる。
「私も、この空間が如何なる技術で作られたのか、また何によって維持されているのかは全く見当が付いていないのです。魔術なのか、科学なのか、それともそれらとは掛け離れた理の物事なのか……いずれにせよ、このランドを造り上げた存在が、私の知る地上界の人間たちとは隔絶したレベルに達していることは確実でしょう」
それを聞き届けた彼はやがて、意気消沈した様子で俯く。
「パルテナ様でもダメだったなら、どうすれば……」
そんな彼の耳に届いたのは、思いのほか明るい声。
「ですから、それをこれから聞きに行くのですよ」
「……それってどこに、誰にですか?」
見上げた彼に、パルテナはこう答えた。
「それはもちろん、エインシャントさんのところです」
パルテナの先導で再びエンジェランドの天界へと帰ってきたピットは、出発前には無かったはずのものが広場に浮かんでいるのに気が付いた。
女神が作る転移の門とは色も形も異なる、赤い扉。それは助っ人として来てくれたキーパーソンが帰るための、あるいはそのエリアのキーパーソンが出て行くための扉だ。後者の場合、扉がつながる先は……
白いオーラを纏い、ひとりでに浮遊する扉、その先までをも見据えようというかのように睨みつけてピットはこう言う。
「ついに、乗り込むんですね」
我知らず険しい表情になっていたピットに、パルテナはこう返した。
「あら。あなたはまさか、カチコミでもするつもりなのですか? 理由のない暴力はいけませんよ。我々は招かれた身なのですから、粗相のないようになさい」
だが、彼女の言葉はそこで終わりではなかった。「とはいえ」と挟み、彼女は続けてこう言う。
「私は以前に、エリアというのはあるべき姿ではない世界だと言いましたね?」
「はい、覚えています」
「しかしながら、キーパーソンはあなたから手紙を受け取るまで概ねそれに気づかずにいたはずです。それをわざわざ気づかせておきながら、何の対処法もありませんと突き放すのなら、最初から報せない方が良かったと思いますよね」
「……ええ」
ピットは今まで自分が出会ったキーパーソンの分の心情も考えてしまい、苦い顔で頷いた。
そんな彼に、パルテナは正面から向き合うとこう告げた。
「彼は誰よりも先にエリアのことに、そしてランドのことに気が付いていた人です。真実を知ったキーパーソンがどう思うかも分かっていたはず。彼がそのうえで他の皆にも気づかせる決心をしたからには、きっと何らかの解決法を、あるいは何かしらの手掛かりを得ていて然るべきとは思いませんか?」
「そう思いたいのは山々ですけど……」
エインシャントに対する不信と警戒の念をにじませるピットに対し、女神はにっこりと笑いかけた。
「もしも私の予想が外れたら、その時はカチコミしても良いですよ。私も手伝いますので」
扉を前に、ピットはケープを留めていた亜空軍のバッジを外す。これを作った本人に返しに行くためだ。
代わりにいつもの宝飾を肩に着けると、バッジの方は、前の任務の時から肩に掛けっぱなしになっていた鞄にしまう。
鞄の蓋を閉めてしまう前に、彼はバッジに目を向けた。亜空軍のマークを模したデザイン、それを見つめる彼の目には複雑な表情があった。
エインシャントには聞きたいことが山ほどある。地上の皆に、そして自分たちにこんなことを触れ回ったのは何故なのか。神々でさえ気づかなかったというのに、彼はどうやってそれを知り得たのか。果たして彼に打開策はあるのか。
そこまでを考えたところで、ピットは心の中でこう宣言する。
――『無い』とは、言わせないぞ。
彼はこれまでに巡ったエリアでの出来事を、そこで出会ったすべての人々の顔を思い出していた。強い懐かしさを感じるキーパーソン、個性豊かで、唯一無二の魅力を持つ彼らを。そして手紙を渡す相手ではなかったとしても、ピットの旅路と交差し、すれ違い、協力してくれた人間たちを。
彼らのためにも、自分は必ず、この先で何かを得て帰ってこなければならない。
決意を新たにしたピットに、女神が声を掛ける。
「心の準備はできましたか?」
「はい!」
彼が大きく頷いたのを見届けて、パルテナはドアノブを引き、扉を開放する。途端に眩い光があふれだし、ピットは思わず腕を目の前にあげて光を遮る。
「では、行きましょうか」
全く気負わずに、まるで散歩に出かけるかのような口調で女神が言うのが聞こえた。細めた視界の向こう、女神のシルエットが歩み始めたのが目に入る。
置いて行かれないように、ピットもその後を追いかけて扉の向こうへ、燦然と輝く白の向こう側へと踏み込んでいった。