気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第7章 神秘主義者 ②

 

 

 

唐突に、ピットは目を覚ます。

視界に広がるのは純白の空。

頭の後ろと背中に硬く平たい感触を覚え、そこで彼は自分が地面の上に寝転がっていることに気づいた。

眠気は全く無く、目を開けた時点で体の隅々まではっきりと意識が行き渡ったのが分かっていた。だが、仮に自分が眠っていたのではなく気を失っていたのだとしても、目を覚ましたばかりの頃はもっと朦朧としているはずではないだろうか。

身を起こし、彼は自分の右手を目の前に持ってきて、自分の感覚を試すように握り、もう一度開く。怪訝そうな顔をして自分の手のひらを見つめていた彼は、続いてその表情のまま、辺りに目を向ける。

 

辺りは、新雪のように混じり気のない白に塗り込められていた。自分が座る床も、見上げた空も何もかもが、どこまでも明るい白さに統一されている。

それだけ明るいにも関わらず、空には太陽らしきものは見当たらなかった。まるで空そのものや、あるいは床までもが自ずから発光しているかのようだ。腕を庇代わりにして純白の空を見上げていたピットは、そこで腕が疲れてしまったために諦めて周囲に目を向ける。

空と大地のあわいは溶け合い、ここがどのくらい広いのか、どこまで続いているのかも分からない。それでも少しずつ目が慣れてくると、一様な白に見えた床にも直線的な模様が入っていることに気が付いた。直角で構成された白いパーツが、まるでジグソーパズルのように組み合わせられているのだ。ふと、ピースが組み合わせられた境界が動いているように見えて目を凝らすと、うっすらと虹色を帯びた光がパーツの隙間を移ろうのが見えてきた。

辺りを縁取る虹色の幾何学模様を目で追っていたピットは、そこでようやく、辺りがあまりにも静かだということに気が付く。

その顔にさっと緊張が走り、彼は急いで立ち上がると辺りを見回して大声で呼びかけた。

「パルテナ様! どこにいるんですか?!」

不思議なことに、その声はほとんどこだまを為さないままに吸い込まれ、消えていく。目には広大な空間として映るにも関わらず、白色の世界はまるで積もりたての雪のように彼の呼び声を吸収し、減衰させてしまう。

焦りを募らせ、言葉にならない声がもれるが、それも辛うじてくぐもった音として自分の耳に届くばかり。目に映る空間の広大さと耳で感じるそれが一致せず、耳に綿が詰まってしまったような錯覚を覚えて、ピットは半ば反射的に頭を横に振った。

その動作で肩の鞄が揺さぶられ、彼はその中に入れたものの存在を思い出す。躊躇していたのもつかの間、彼は踏ん切りをつけてエインシャントのバッジを取り出した。

「パルテナ様、聞こえますか? 聞こえたら、どうか返事をしてください!」

バッジに向けて呼びかけたが、一向に応えは返ってこない。

エインシャントが作った特別製のバッジ。ピットとしては不本意ながらも、これまでの冒険を切り抜けるうえで欠かすことのできなかった不可思議なアイテムは、こんな時に限ってただの宝飾然として知らん顔をし、うんともすんとも言わないのだった。

表情に憤りをあらわにし、バッジを鞄にほとんど突っ込むようにして戻す。

「こうなったら、何としてでも……」

行く当ては無い。良い手立てがあるわけでもない。だがそう宣言することで、彼は自分自身に迷うことを許さず、その足をとにかく前へ進ませようとしたのだった。

内心に渦巻く不安から目を背け、ただひたすらに前を見据えようとした彼の視界、その端で何かはためくものがあった。

急いでそちらに顔を向けた先、遠い彼方の壁の隙間に今まさに消えていこうとするのは、深緑色の布。それが誰の衣服であるのかに気づくや否や、ピットは全速力でそれを追いかけ、走り始めた。

 

純白の通路、彼方に見える緑衣の後を追いかける。

その名を呼ぶ余裕も無く、ピットは歯を食いしばってひた走る。床は塵一つ見当たらないほどに磨き抜かれており、彼は角を曲がるたびに足を滑らせそうになりながらも懸命に走り続ける。対する緑衣はこちらを一度も振り返ることなく、目印らしきものも何もないまっさらな通路を悠々と進んでいく。

足の速さで言えば、ピットの方が明らかに早い。だが奇妙なことに、ピットがあと少しで追いつけるというところになると、次の角を曲がったときにはエインシャントは忽然と姿を消し、まるで瞬間移動でもしたかのように何食わぬ様子で遠く彼方に姿を見せる。それを何度も繰り返されたころには、ピットは単純に走り疲れたのもあり、半ば馬鹿らしくなってきたのもあり、だんだんと歩調が鈍くなっていった。

息を切らせ、疲れ切った足を気力だけで前に運び、彼方に見えるエインシャントの後ろ姿を睨みつけるピット。

そこでようやく、向こうが何か平たい台座のような小型の乗り物に乗って浮かんでいることに気づき、苛立ち紛れにため息をつく。

――セグウェイか何か知らないけど、道理で疲れないはずだよ。でもずるくない?

そんな内心の声が聞こえるはずもないだろうが、偶然か、そこでエインシャントが初めてこちらを振り向いた。

ふと違和感を感じる。その源を探していた天使は、相手があのいつもの白手袋を携えていないことに気がついた。

エインシャントは焦った様子も、驚いた様子も無く、ピットがついてきていることを既に知っているようだった。しかし、彼は何も言わずに再び前を向き、しずしずと浮遊して遠ざかっていく。まるでついてこいと言っているかのような態度に、ピットは顔をしかめる。

「……何なの?」

それだけをぼやいて、ピットはその後についていった。

 

 

そうしてしばらく奇妙な追跡を続けていた矢先、出し抜けに、通路は広い部屋へとつながる。

やはり一面の純白で見えにくいが、辛うじて音の響き方で、頭上と足元に長い吹き抜けがあり、その真ん中を貫くようにして空中に通路が渡されていることが分かる。

その幅の広い通路の中ほどに、エインシャントの姿があった。彼はどういうわけか、迷うところも無いはずの開けた通路の上でうろうろと動き回っている。行ったり来たり、ぐるりと曲がって遠回りをしたり。

まるで目隠しされたかのように拙い動きをする様を訝しげに見ていたピットだったが、異質な物事への警戒よりも心の中の焦燥が勝り、ともかく彼に追いつこうと真っ直ぐに走っていった。

 

足が、床を踏みぬいたような感触があった。

 

身体ががくりと傾き、手の先、足の先からざぁっと血の気が引く。

咄嗟に前に出した手は何にも触れないまま空を切り、上げようとした声は喉の奥で絡まったまま、白の吹き抜けを真っ逆さまに落ちていき――

 

どさりと鈍い音を立て、ピットは純白の床に落とされた。

うつぶせのところからゆっくりと上げられた顔は、怪訝そうな表情を浮かべていた。落下の時間からすれば優に人の身長を超えるくらいの距離を落ちたはずだが、身体に感じた墜落の衝撃は、せいぜい膝丈未満の高さから落ちた時くらいにしか思えなかったのだ。

身を起こして立ち上がった彼は、そこではたと目を見開く。

驚愕も露わに見つめる先、先ほどと同じような広い通路の中ほどに、エインシャントが立っているのだった。彼は黙ってこちらをじっと見つめ、それから再び、あのぎこちない動きで通路をうろつき始めた。

 

さすがに二度目ともなれば慎重にならざるを得ない。

ピットはその場に立ち止まり、エインシャントの出方を伺うように彼の動きを目で追いかけていた。しばらく目をすがめていた彼の表情に、不意に閃くものがあった。

「……ま、待って! もう一回!」

慌てて呼び止める。エインシャントはその声に反応して振り返ったが、帽子のつばに視線を隠すようにして俯き、そのまま通路を抜けて向こう側の廊下へと歩み去ってしまう。

ピットは苛立ちに顔をしかめるも、仕方なしにうろ覚えで通路に踏み出す。

 

案の定、少しも進まないうちに足が床をすり抜け、またしても元の場所に戻されてしまった。

だが顔を上げた先には、エインシャントが何事もなかったかのように通路の始まりに立ち、待っている。

それを見たピットは相手への憤りよりも呆れが勝り、思わず苦笑してしまった。

「そういうことなら最初から言ってよ」

半ばぼやくようにそう言ったが、エインシャントはやはり何も言わず、僅かに首を傾げただけだった。

 

今度はエインシャントの示してみせたお手本通りに通路を歩き、無事に向こう側へと渡り切る。エインシャントはすでに廊下の奥の方にまで進んでいたが、ピットがちゃんと渡り終えるまで立ち止まり、こちらの動きをじっと見つめていた。

ピットがうまくやってのけたのを見届けるとエインシャントは再び前を向き、滑るように先へ先へと進んでいく。

相変わらず、走っても追いつけないような絶妙な距離を保つ彼。その後ろ姿に目をすがめて見失わないようにしつつ、ピットは早足で歩いていく。

そうしながらも、だめで元々という心境で彼の背中に声を投げかけた。

「おーい!」

やはり相手は台座の上で振り返りこそすれ、一言も喋ろうとしないままに再び向こうを向いてしまう。立ち止まる素振りすら見せない彼の態度に顔をしかめていたピットだったが、ふと、そこで女神の言葉を思い出した。

『あの方の説明では、封筒の中に入っている手紙の文面は固定されたものではなく、その時その場所にふさわしいメッセージを示すようになっているそうで』

物は試しと、彼は鞄から自分宛ての手紙を取り出した。

歩きながら三つ折りの紙を広げた彼は、わずかに目を見開く。そこにはいつの間にか、こう書かれてあった。

『ようこそ、ピットさん。ついにここまで辿り着きましたね』

さらに、文章は彼が最後まで読み終えたタイミングでぼやけ、水に滲んだように横に伸び広がったかと思うと、再び文字の形をとる。

『あいにく手が離せず、直接お会いできずに申し訳ありません。あなたの先を行くのは、私の分身のようなものです。私のいるエリアまでの正解の道筋を案内しますので、ついてきてください』

これはきっと、目を覚まして最初に読むべきものだったに違いない。

唖然として目を瞬いていたピットは、やがてため息交じりに肩を落とす。

「メッセージがあるなら音とか振動で知らせてよ……」

 

 

その後も、ピットはエインシャントの“分身”に先導されるがままに歩き、そのお手本に従って行動した。

無数の扉から正しい扉だけを選んで進み続けたり、壁面のスイッチを決まった手順で押したり。時には、一定時間その場で立ち続けないと道が開けないような部屋もあった。

更には、一見して普通の通路にしか見えない場所でもパズルが隠されていることもあった。だが、うっかり引っかかって戻されたとしても、分身も一緒に引きかえして、ピットが正しい道をたどるまで根気強くお手本を示し続けた。

どこまで進んでも、辺りは一面の純白に染まり、文字や図形といったヒントは何一つない。エインシャントの手助けが無ければ、先へ進むこともままならないだろう。

とはいえ、そうと分かってはいても、言いなりにならざるを得ない現状にピットは不服そうな顔をしていた。

 

分身がしばらく真っ直ぐ進んでいくのを見て取り、ここにはパズルはなさそうだと判断したピットは、緊張をほぐすために歩きながら一つ大きく伸びをした。

手本を示してくれるのは良いが、ほとんどの場合であまりにも手数が多く、記憶するためにはかなりの集中力を使わなければならなかった。それでも覚えきれず、唐突に落とされたりワープさせられて、そのたびに少しずつ心身の体力が消耗していく。

もう少し分割して教えてくれないものか。そうでなくとも、例えば手紙に手順を示してくれないものか。

そんな淡い期待を抱いて手紙を開くが、そこには気休めにもならない文章が載っているだけだった。

『本来、エリアとエリアの間には強固な障壁があります。人々がうっかり別のエリアに迷い込まないよう、目には見えない壁があるのです。今、私はその障壁の暗号をパズルの形に置き換えて、あなたに解いていただいているのです』

「そんな回りくどいことさせなくても、いつもみたいに“転移の門”で行けばよかったのに」

独り言でぼやいたつもりだった。

が、次の瞬間、彼は手紙を見てぎょっとした。まるで彼の呟きに反応するようにして、文章が変化したのだ。

『申し訳ありません。私のエリアに掛けられている暗号は、他に比べてもいささか強力でして』

「……聞こえてるの?」

用心しつつ、そう尋ねる。

手紙の文言に変化はなかった。だが、これはきっと、答えるまでもないことだと思われたのだろう。そう判断したピットは、この純白の世界に着いてからずっと問いたかったことを、手紙に向かって問いかける。

「エインシャントさん。パルテナ様はどこにいるんですか」

『ご安心ください。あの方もあなたと同様の道を辿って、私のいる場所に向かっています。別の分身が案内しておりますから、どうかご心配なく』

「それを信じる根拠は?」

『あなたがどのようなことを考えているにせよ、私にそんなことをするメリットはありません』

「そんなの、あなたにしか分からないじゃないですか」

声に苛立ちを垣間見せて、ピットは言い返す。

そしてその調子のまま、少し声を大きくしてこう続けた。

「第一、あなたは隠し事が多すぎるんです。何を聞かれても後で説明する、いずれ分かるって、そればっかり。それなのに信じろって言われても無理があるんですよ」

『いやはや、全くごもっともです。相互理解には双方の歩み寄りが不可欠ですからね』

「分かってるなら、なんで教えてくれなかったんですか? エンジェランドがエリアに閉じ込められてることとか、僕もキーパーソンだってこととか」

『教えたら、あなたは手紙を配るどころではなくなっていたでしょう』

「そんなこと……!」

と言った自分の声があたりに淡く反響し、ピットはそこではっと我に返る。

幾分冷静さを取り戻した彼の脳裏に、出発前に自分の見せた言動が蘇っていく。

『天界までもがエリアに閉じ込められていた』――その事実を認めたくないがために、目に映る世界までも否定し、間に合わせの理屈を持ち出してまで女神に反駁しようとした時のことを思い出す。

もしも最初に任務を受ける時、既にそれを知らされていたとしたら、果たして自分はエンジェランドを放置して他のエリアに飛び出していこうと思えただろうか。ありとあらゆるエリアに住む人間たちに寄り添い、彼らの苦難を理解するために、心を割くことはできただろうか。

手紙に浮かび上がる文章を前に、ピットは渋々ながらこう返答する。

「……いや。そうだった、かも……」

それを聞き届け、紙面の文章は何食わぬ調子で移り変わる。

『パルテナさんに提案したのは、私です。あなたには任務に集中できるよう、しばらく部外者として手紙配りをしてもらおうと言ったのです。また、そうしていただいたのはもう一つの目的があったのです。他のエリアのことや、そこにいるキーパーソンの方々と接するにあたり、上の空にならないようにと』

「それって……僕に他のエリアやキーパーソンのことを、ちゃんと見てほしかったってことですか?」

『まさにその通りです』

手紙の一行目にあたる位置に、肯定の言葉が滲みだす。

さらに、一拍遅れてその下に長文が浮かび上がった。

『そしてもう一つ。未だ手紙を受け取っていないキーパーソンは、多かれ少なかれエリアに違和感を抱きつつも、それ以上の考えには至ることなく過ごしています。ですが、エリアではない、つまり“本当の世界から来た”という心持ちであなたが訪れ、彼らに手ずから手紙を渡すことにより、彼らの識閾下に貼られた“自分の知る世界がすべてだ”とする思い込みにひびが入ります。自らの暮らしている世界を真正面から見つめ、疑問を抱けるようになるのです』

それを読み終えたピットの顔では、納得よりも不満が勝っていた。

自分が今日この日まで本物だと思っていた天界は、実はエリアの一つであり、作り物の世界だった。それについてはとりあえず事実と考えてやってもいい。そういう心境になっていたものの、エインシャントが文字で告げた言葉はあまりにも他人事のように冷静で、それを一方的に読ませられた天使の方は、自分が何も知らないままに彼の片棒を担がされていた、という印象を抱いたのだ。

「……」

無意識のうちに眉間にしわを寄せながらも、ピットはその苛立ちを心の中に押し込めていた。

 

 

進めども進めども、直角と平面で構成された景色が続く。

天然自然に出来たものとは思えないその風景には、どこかで見覚えがあった。

――そうだ、パンドーラの隠れ家もこんな感じだったような……。

冥府軍に与していた災厄の女神、パンドーラ。彼女は用心深い性格なのか、非常に分かりにくい場所に隠れ家を持っていた。魔力によって隠された空間の裂け目の、その更に奥、罠だらけのダンジョンの中。何か大事なものを隠すならうってつけとはいえ、あんなトラップだらけの場所に暮らすのは不便で仕方がないのではと思ったものだ。

あの時の記憶を思い返していたピットは、ふと目の前に注意を戻した。

エインシャントの分身が、またお手本を見せようとしていた。

分身が進んでいく先、通路はぷつりと途切れて断崖になっている。だが相手は全く怯むことなく、台座に乗ったまま滑るように前に進み、空中を渡り始めた。その様子を後ろで見ていたピットは、僅かな期待を抱いて辺りをくまなく調べたが、残念ながら自分の分の空飛ぶ台座はどこにも隠されていないようだった。

「まさか、僕に空を飛んで来いなんて言わないよね……」

徐々に遠ざかっていく緑衣の後ろ姿を見つめ、恨めしそうな顔をしていたピット。

しかし、まるで目に見えない道を辿るかのような相手の仕草を見ているうちに、ふとその目に閃きが走った。

「そうか、これ……ゼミでやったところだ!」

言うや否や、通路が途切れた向こうの空間を目掛けて神弓を構え、矢を撃つ。

青い輝線が流星のように落ちていき、何もないはずの虚空にぶつかり、淡い光を放って消える。その衝撃が何らかの刺激を与えたのか、宙にぼんやりと道が浮かび上がった。パンドーラのトラップダンジョンでも見たことのある仕掛け。それを見事に見抜いたピットは、誰に自慢するわけでもなく得意げに笑う。

目には見えない正解の道筋。確信をもってその上に足を踏み下ろし、行く手の見えない道に光の矢を放つ。そうして不可視の道を暴きながらピットは分身を追いかけ、進んでいった。

 

 

ヒントも何もないパズルとはいえ数を解いているうちに慣れてきたのだろうか、ピットは次第にエインシャントの分身の反応に若干の鈍さを感じるようになってきた。その鈍さは、同時に別の場所でパルテナを案内しているせいなのだろうか。

少しずつパズルの要領がつかめてきた彼は次第に、分身がお手本を見せるまで待つのではなく、とりあえず自分で心当たりのある手立てを打つようになっていった。半分以上は見当違いに終わるのだが、何もせずに棒のように突っ立っているのも退屈なものだ。また彼は既に、パズルの解き方を間違えたとしても大したことにならないのだと学んでいた。

 

しかしそんな彼も、行く手に開けた広大な“パズル”を目の当たりにした時には思わず驚愕に目をむき、その場で立ち止まってしまった。

彼が歩いてきた道は少しも行かないところで途切れ、その先には虚空が広がっている。その先に群れ飛ぶのは様々な大きさの純白の直方体。小は机ほどのものから、大は鯨ほどのものまで、ひとりでに宙を浮遊し、てんでばらばらな方角にゆっくりと飛び交っているのだった。

いよいよ現実から乖離し、規則的でありつつも複雑で、ある種の神秘性さえ感じさせるほどの光景に目を奪われていたピットは、はたと我に返る。

恐る恐る道の端まで歩いていき、落ちないように慎重に、下を覗き込む。

だが、見えてきたのは同じような直方体の群れ。いくら目を凝らしても、安定した足場や床みたいなものは見当たらない。

抱いていたわずかな期待も打ち砕かれてしまい、彼はのろのろと後ずさって、目の前で行きかう立体の群れを茫然と眺めた。

「これに飛び乗れって……?」

今回は正攻法で行くしかないらしい。分身はすでに立体の一つに乗っており、一緒に運ばれながらこちらをじっと見ている。

それを見上げるピットは恨めしそうな顔をしていた。普段、エインシャントの口が達者なのには閉口していたものだが、何も言わなくなったらなったで、あの無表情な黄色の双眸にいくらでも言葉を当てはめられてしまう。今もあの分身が、涼しげな顔をして「おや、来ないのですか?」と言っているように思えていた。

手の届かないところにいる彼を見上げ、悔しげに拳を握りしめていたピット。

分身はしばらくこちらを見下ろしていたが、ふいに背を向ける。そのまま、折しも通りがかった別の直方体に飛び移り、全く足を止めることもせずに先へ先へと進んでいってしまう。何かタイミングがあるのかもしれないが、それにしても見えない糸で足場の方を手繰り寄せているのではと疑いたくもなるくらいだった。

案内をすると言っておきながら、分身はピットを置いて先に行ってしまった。

置いてけぼりを食らったピットは、ややあって大きなため息をつく。そして鞄から手紙を取り出し、広げると、その紙面に向かってこう言った。

「エインシャントさん。僕が飛べないの知ってますよね? あなたのことなんですから」

『飛ぶ必要はありませんよ。また、必ずしも分身と同じルートを取る必要はありません。前方に進むことができれば良いのです』

「前ね……」

手紙を雑に鞄に仕舞いながら、ピットは遠ざかっていくエインシャントの分身を見上げる。

彼の言った言葉が真実にせよ、そうでないにせよ、主神に会うためには一にも二にも行動が必要だ。ここで立ち止まっていても仕方がない。

タイミングを見極めようと、ピットは目をすがめる。だが辺りには白色の光が満ち、ただでさえ背景に紛れて見えにくい立体の輪郭が、さらに見えにくくなっていた。

「せめて色でもつけてくれないかなぁ」

ぼやいてから、彼は最初の一歩を踏み出した。

 

初めのうちは、目の前に近づいてくる立体にともかく飛び移り、そうすることで前に進もうとしていた。

回数をこなすうちに次第に慣れてきて、目先のことにとらわれていたところから、少しずつ周りのことに注意を向けられるようになっていく。しかしそれと共に、思考に時間を割けるようになった分、考えなくても良いことにまで気が行くようになってしまった。

 

ブロックのタイミングを見計らっていたピットの脳裏に、ふと嫌な予感がよぎる。

緊張に身をこわばらせ、辺りを見回した。

――待てよ……? そもそも僕って、ここまでちゃんと“前に”進めてたのか?

これまでずっと、タイミングを見計らって飛び乗ることにばかり集中していた。前を向き続けるように気を付けていたつもりだが、横ざまに近づいてきた足場を狙おうとして横を向いた可能性も否定できない。

――いや、大丈夫、大丈夫だ。ここには目印も何もないし、方角は間違えないようにって気を付けてた、はず……。

もはや声に出す余裕も無く、ピットは心の中で自分に言い聞かせる。

――きっと目の錯覚だ。周りで特大絹ごし豆腐があっちこっちに飛んでいくから、それに方向感覚が惑わされてるんだ……たぶん。

しかし言葉を重ねる先から自分で疑い始めてしまい、かえって自信が失われていくようだった。

焦りばかりが募っていき、妙案を思いつけないままに思考は空を掻く。凍り付いたように虚空の一点を見つめ、懸命に考えていた彼の顔に、やがてふと諦めの色が浮かぶ。

――こうなったらいっそ、落ちてリセットしようかな……。

そんな考えが頭をよぎってしまい、ピットは慌ててかぶりを振った。

――ここも安全とは限らない。落ちて無事に済むとは限らないんだ。今までのですっかり落ち慣れちゃったけど、ミスならともかく、自分から落ちるなんて天使の名折れだよ!

強いて自分に言い聞かせ、彼は自分が最初に前だと判断した方角に進んでいった。

 

浮遊する直方体はピットの体重程度ではびくともせず、どんなに小さなものでも彼が飛び移ったところで揺れることもなく、それまでたどってきた方角を守って進み続けた。

対する天使の方は、慎重にタイミングを見計らい、白い平面の上で助走をつけて跳躍する。時に距離が足りず、慌てて豪腕を呼び出してその推進力で何とか飛び移ったり、それも間に合わずに下層の立体の上に落ちてしまうこともあったが、彼はそれでもめげずに立ち上がり、ともかく前へ前へと突き進んだ。

そうしてひたすらに走り、跳び、無我夢中で進み続けた彼の目に、唐突に白以外の色が飛び込んでくる。

目の前の直方体がゆっくりと横切り終えたその向こう、台座に乗った緑衣の姿があった。陰影の具合で辛うじて、彼の背後に出口らしき通路があるのが分かる。

いけ好かない相手でも、今この時だけは姿を見つけることができて嬉しかった。喜びに浸っていたピットは自分に気合を入れなおし、最後の距離を飛び移っていった。

 

 

エインシャントの後ろ姿を追って通路を抜けた先、ピットはふと違和感を覚えて行く手に目を凝らした。

相変わらず白一色に染められているものの、辺りのデザインが複雑さを増しているように思える。多少角ばっているが、どこか広い建物の中に見えないこともない。教会のホール、あるいは城内の廊下――ピットの目にはそう映った。

分身はもうお手本を見せることもなく、ただずっと真っ直ぐに、しずしずと進んでいく。

廊下を抜けた先でパズルが無いのは珍しい。そう思いながら遠ざかる分身を見ていたピットは、ふと気が付く。

――あの空飛ぶ豆腐が最後のパズルだったのかな。……ってことは、もしかしてここがあの人のエリア?

辺りを用心深く見回す。

誰の姿も無く、純白に塗り込められた世界。

――綺麗に掃除されてるみたいだけど、ずいぶん殺風景だなぁ。

内心でそんな感想を抱きつつ、ピットは分身を追って歩いていった。

 

辺りの雰囲気は変わったものの、目的地にはまだ遠いらしい。エインシャントの分身はひたすらに己の道を突き進むばかりで、どこまで追いかけても本人が現れる気配はない。

とうとう痺れを切らしたピットは手紙を取り出し、本人に問いかけることにした。

「まだ着かないんですか?」

すぐに反応があった。

『まだですよ。あなたはまだ、障壁の内部にいるのです。くれぐれも分身を見失わないようにお願いしますね』

まるで子供にやんわりと言い聞かせるかのような文章に、ピットは思わずしかめ面になる。

ここがエリアではないということは、今自分が歩いている場所もパズルの中ということだ。確かにその目で見れば、辺りには他にも取り得る道がたくさんある。外れの道を選んでしまうと、きっと堂々巡りになったり、一番初めの部屋に戻されたりするのだろう。

とはいえ、全く頭を使う場面もなく、ただ答えを知っている人の後ろについて歩くだけというのも退屈なものだ。

「これじゃあただの作業ゲーだよ……」

ぼやいてから、ふと気になって手紙を見ると、こんな文章が浮かび上がっていた。

『おや、退屈でしたか。試しに次はノーヒントで解いてみますか?』

「別にいいです」

彼はむすっとしてそう答えた。

 

その後も、幾つもの大部屋を通り抜けた。

どの場所も、どこかしらに人間の建築物を思わせる雰囲気を纏っていた。だがそれと同時に、ほのかな違和感を有していた。色が無く、直角と平面で象られている以外にも。

ある時は、手すりのない螺旋階段を降りていたところ、ふと頭上に影を感じて見上げた先、自分が少し前に歩いた階段の“裏側から垂れ下がる”ようにして、手すりが付いていることに気が付いた。

またある時は、やけに地面が凸凹して歩きにくいと思っていたら、それが窓や柱であることに気づく。つまり、本来建物の壁面である部分を横切って歩いていたのだ。

どの風景も奇妙ではあるものの、ただの暗号にしてはずいぶん凝った造りをしている。

 

 

今彼が歩いている場所は、博物館のような趣きがあった。ただ台座や額縁に展示物らしきものは無く、どこを見ても出迎えてくれるのは白いキャンバスと余白の空間ばかり。

辺りを訝しげな目で眺めながらも、ピットはこう考えていた。

――エリアやランドっていうのが作り物なんだとしたら、まさかこれが舞台セットだったりするのかなぁ。色を付けたり、細かく彫り込んだりする前の……。

と、彼はそこで慌てて思考を中断し、さっと横を向いた。

 

彼が見つめるのは、自分の横、滑らかに磨かれた壁面。

白い壁に映りこむ自分は、自分のようでいて、しかしどこかが違っている。

映っている自分の顔はこちらを向いているが、自分が意識している感情とは違う表情をしている。そこにあるのは、引き結ばれた口、思いつめたような眼差し。そしてその手には、神弓と鏡の盾があった。

 

それを認めたピットは、驚愕の声を発する。

「えっ……?!」

声を上げたことで金縛りが解け、彼は反射的に後ずさり、自分の鏡像から遠ざかろうとする。

そんな彼の見つめる先、“鏡像”は何も見えなかったかのように再び行く手に顔を向け、決意に満ちた足取りで歩いていった。

神器を携えた自分の後ろ姿を茫然として見送っていたピットは、壁に映る自分の周りには他にも誰かがいることに気が付く。それも一人や二人ではない。ぼんやりとぼやけていて分かりにくいが、それらはどこかで見覚えのあるシルエットを持っていた。

その多くが、手に武器を持っている。

ピットはしばらく壁の方を見ていたが、ようやく、それらが皆キーパーソンの誰かしらであることに気づく。

「みんな……」

影が去っていく方角を見やり、ピットは案じるように呟いた。

映っていた自分の表情、手に携えられた武器。それが意味するところは一つしかない。皆、どこかに戦いに赴こうとしている。

それを意識した彼の脳裏に、ふと女神の言った言葉が蘇る。あなたはかつて三種の神器を携え、エリアを越えて戦ったことがあるのだと。

ということは、先ほどの映像は過去の自分だったのだろうか。自分が忘れてしまったという、過去の自分。

驚きは過ぎ去って、彼は自分の映像が消えていった壁の向こうを見つめていた。

――確かに、さっきの僕は神弓と鏡の盾を持ってた……でも鎧は着けてなかったし、翼もそのままだった。持ってく必要がなかったのか、それともまさか、一部しか持っていけなかったのかな? 壊されたり、盗まれたりとかして……。

幾分心が落ち着き、そこまでを考えられるくらいになったところで、ピットははたと気づいて急いで手紙を取り出す。

「――エインシャントさん! 今、壁の向こう側に……」

彼は、たまたまこちらに意識を向けていたのだろうか、すぐに返事をかえしてきた。

『どうかしましたか?』

「壁に、僕が映ったんです。もう今はいないんですが、僕の他にも沢山の人が」

『そうですか、それは変ですね』

言葉の間の空白が無いせいか、どこか素っ気なく見えてしまい、彼は半ば抗弁するような調子で訴える。

「変なんですよ。映ってた僕は、微妙に僕とは違う恰好してましたし」

『ああ、すみません。私が変だと言ったのは、こちらからでは特に異常が見受けられなかったということなのです』

「そんな……!」

抗議しようとした先で、文章はさっと溶けて新たなものに変わる。

『否定するつもりはありません。あなたが見たのであれば、それは確かにあったことなのでしょう。念のためお尋ねしますが、あなたはその映像から特に危害は加えられていませんね?』

「……ええ、まあ」

『分かりました。私の方も気を付けて見ておきますが、もしも身の危険を感じたら教えてくださいね』

丁重でありながらも手札を明かさず、相変わらずどこかこちらと噛み合わない話し方をするエインシャント。

ピットは依然として用心深く紙面を、エインシャントの言葉を見つめ、こう返した。

「ご心配なく。僕の方で対処しますから」

 

先ほどの“鏡像”は、たまたまこちらを見ていたものの、その顔つきは壁の向こう側――つまり自分の存在に気づいているような様子ではなかった。ましてや、壁を抜けて出てこようという素振りも見られなかった。

とはいえ、ここはエインシャントの言が正しいのなら障壁の中であり、エリアの中とは違う理屈が働いている可能性も否定できない。

そう考えたピットは、最低限何があってもすぐに身を守れるよう、神弓を片手に携えて進むことにした。

それ以降も、自分であって自分でない『映像』は手を変え品を変えてピットの前に現れた。空白の額縁の中に映り込み、あるいは斜めになった天井の壁面に映し出され、これから自分が向かおうとする方角と同じ方へ歩いていく。

たくさんの仲間に囲まれたものもあれば、たった一人で歩いていくものもあった。装備している神器も様々で、時にはこれまでに見たこともない武器や防具を身に着けていることもあった。それらはどことなく、エンジェランドではなく、どこか自分とは縁の遠い世界で造られたような雰囲気があった。

 

少し行った先の壁、誰かに肩を貸し、ゆっくりと歩いていく自分の姿を見かけたときは驚きのあまり、その場に立ち止まってしまった。

肩を貸している相手の姿は相変わらずぼやけていて誰のものかは分からない。少なくとも人型で、そして明らかに頭を垂れ、辛そうな様子で足を引きずるようにして歩いている。映像の中の自分も、万全とは言い難いようだ。着ている服はそこかしこに破れた跡や焦げ跡があり、顔や腕にも掠ったような怪我や治りかけの傷跡がある。

女神と共にある時の自分なら、あんなになるまで怪我を放置しているとは考えにくい。ピットは理由を探し、映像を隈なく見つめ……そして映し出されている自分の表情を見た時、不意に悟る。

行く手を見据え、心の全てを怒りに振り向け、胸の内にあるであろう大きな空白から目をそらし続けているような表情。

ただ、きっとそれは永遠の別れではない。だとすれば自分は、怒ることのできる余裕すら失くしてしまうだろう。それでも彼は、自分とそっくりの幻影、その心境に共感せずにはいられなかった。

「ああ、そんな……」

心配と、悲しさとが入り混じった声で呟いた彼の見つめる先、自分の鏡像は白い壁に溶け込むようにして消えていった。

 

どれも全く身に覚えのない映像ではあるものの、ピットはなんとなく後ろ髪引かれる思いで歩き続けていた。

映し出された『自分』たちが、忘れてしまった記憶のどこかにいる自分だとする保証は、実際にはどこにもない。

しかし偽の幻影にしては細かいところまで再現されているし、あれほどまでに豊富なパターンを作っておく理由も分からない。自分が知らぬ間に心にしまい込み、蓋をしてしまった記憶がひとりでに抜け出し、映し出されたのだと考えた方がまだ筋が通るように思えた。

映像は一体何を伝えようとしているのか、ピットは先ほどからずっとそれを真剣に考えていた。

様々なパターンがあったが、少なくとも三つ、共通点がある。一つ目は、自分以外の姿は、まるで曇りガラスを通したかのようにぼんやりとしか映らないこと。二つ目は、どの映像もピット自身が進もうとしている方角を辿って歩いていくこと。そして三つ目は、ただ一つの例外も無く、映像の中の自分がその目に決意を、何か強大なものに挑もうとする決意を宿していること。

仮にあれが過去の自分だったとして、一体誰と、あるいは何と戦おうとしているのか。そしてその戦いの結末は、いかなるものだったのか。

映像の中の一つで見た、孤独な自分の姿、強いて感情を排した自分の表情を思い出してしまい、彼は首を横に振って不安を追いやる。

――負けたはずはない。だって、僕は今、こうしてここにいるんだ。

ピットは強いて自分にそう言い聞かせる。

戸惑いを押さえつけ、引き返そうとする足を踏みとどまらせ、緑衣の分身を追ってひたすらに白亜の博物館を進んでいった。

 

延々と続くかに思われた、がらんどうの博物館。

何気なく角を曲がった先で風景は趣を変え、小高い屋根のついた回廊のような場所に出る。

左右には窓らしきものはなく、欄干が渡されたその上はそのまま外に開けているようだった。

もう映像を映し出せそうな平らな壁は見当たらなくなり、安堵すると同時に、まだ見るべき映像があったのではと思ってしまう。ピットは少しの間、背後の曲がり角を名残惜しげに見つめていたが、やがて気持ちを割り切って回廊を歩き始めた。

何気なく見た外に何かが見えた気がして、彼はそちらに目を凝らす。やがて白一色に見えた空間に、うっすらと何本もの横線が引かれているのが見えてきた。自分の目線と同じ高さにある線と線の間に、さらに薄く等間隔に縦線があるのを見つけた時、驚きにわずかに目を見開く。

そこでようやく、自分が見ているのが何であるのかが分かったのだ。

自分が歩いている回廊は、一つだけではない。広大な空間に無数に反復され、左右上下に、幾つも幾つも並行に並んでいるのだ。

それに気づいた時、彼は思わず欄干に駆け寄り、身を乗り出していた。どこかの回廊に光の女神の姿が無いだろうかと期待したのだ。けれども、彼の目で見ることのできる範囲には、女神の姿はおろか誰の人影も見当たらないのだった。

諦めきれずに目をすがめていた彼だったが、どこを探しても無機質な白しか見当たらず、やがて溜息交じりに欄干から身を離す。

歩き始めながらも肩掛け鞄から手紙を取り出し、こう尋ねかけた。

「まだ、着かないんですよね」

『ええ、まだ障壁の内部です。しかしご安心ください、すでに道のりの半分は越えていますよ』

曖昧な返答に、ピットは半ば皮肉交じりにこう言った。

「それは何よりです。具体的に何パーセントまで行ったんですか?」

『難しい質問ですね。障壁の暗号は常に変動していますから、あなたが進むべき総距離も一定ではなく、揺れ動いているのです。しかし変動の幅にも限りがあるので、あなたが進んだ距離をだいたいであれば言い表すことができます。したがって、少なく見積もっても半分以上とお伝えしたのです』

「ああ、そうですか……」

ため息交じりの返答を返し、手紙をしまおうとした彼は、そこで文章が変化したことに気づいて手を止める。

『退屈でしたら、何かお話をしましょうか』

そんな気分じゃないと言いかけて、ピットはふとあることを思いついた。

「――世間話なら別に要らないですけど、あなたには前から聞きたかったことがあるんです。それもたくさん」

『その様子ですと、私のいる場所に着くまで待ちきれないようですね』

「当然です。今までいったいどのくらい待たされたと思ってるんですか? これでキーパーソン全員に配り終えたんですから、約束通り僕の質問に答えてもらいますよ。……まぁ、あなたのことだから、またはぐらかすんでしょうけど」

半ば投げやりに付け足してから、ピットはこう続ける。

「まず、あなたは何者なんですか? いつかはゲートキーパーだとか言ってましたけど、それって何かの役職なんですか」

『いえ、私が自分でそう言い表しているだけです。誰から付けられた呼び名でもありません。しかし私が現在担っている役目を言い表すのには、その言葉が相応しいと思いまして』

「担ってる、役目……?」

思わぬ言葉に、ピットは目をぱちくりさせた。

まるで彼が、さらに別の存在からその使命を請け負ったかのような言い方だ。

まだこちらが尋ねたことの全てを満たす答えではないものの、思いのほか彼が問いに答えてくれるようだと知り、ピットはもう一歩踏み込むことにした。

「直訳するならゲートを守る人、門番ってとこですか……。じゃあ聞きますけど、“門番さん”は何のためにパルテナ様に手紙配りを持ちかけたんですか? 配達って、普通郵便局の仕事じゃないですか。そんなのを“神頼み”にするなんて」

『私が、そうしようと判断したのです。あなたがたに依頼しようと』

「人選はエインシャントさんの自由だった、と。そしたら、手紙配りそのものはどうなんですか?」

『それも、私の判断です』

てっきり、誰か上からの指令だと答えるものだと思っていたピットは、しばらく何も言えずに自分の目を疑い、紙面を凝視していた。

「じゃ、じゃあ……全部あなたの独断ってことですか……?」

文章は変わらなかったが、それはある意味では、今の問いの答えにもなっていた。

何らかの『門』を守る者としての使命を帯びた彼は、自分の判断で手紙を配ることにした。閉ざされたエリアに囚われた“キーパーソン”の目を覚まさせ、その外に意識を向けさせる手紙を。

そこまでを考えたところで、ピットはふと気づいてこう尋ねる。

「それじゃあ、キーパーソンって何なんですか?」

『そのエリアにおいて要となる人々。今は、そうとだけ言わせてください』

途端に曖昧になった。ピットは声には出さず、心の中だけでこう呟く。

――これはアウトか。

 

回廊を抜け、次の空間はひたすらに道幅の広い十字路が連続する場所になった。巨人の通る道かと思うほどにとにかくスケールの大きな空間で、見上げた天井はどこまでも高く、次の十字路に行きつくにも数分かかるのではないかというくらいに長く感じる。巨大な壁面には、直角と直線で象られた抽象的な凹凸模様が施されていた。凹んだ部分は複雑に枝分かれしていて、角ばった唐草模様に見えないこともない。

エインシャントの分身は十字路に差し掛かるたびにランダムに右左折し、あるいは直進していく。その背中を見失わないように気をつけながらも、ピットは手紙を片手に持ち、何とか少しでも情報を得ようと質問を続けていた。

「僕はパルテナ様から、ここがランドの中にあると聞きました。エリアはその中に浮かんでいるビー玉だけど、昔は一枚の地図みたいに、ちゃんと一つながりになっていたって。それは本当のことなんですよね」

『ええ。仰る通りです』

「なぜ分かれてしまったんですか?」

手紙の文面はひとたび滲むも、しばらく何の文字を為すことの無いまま、ゆらゆらと揺らぎ続けた。

答えあぐねているのだろうか。

待つのがだんだんとじれったくなって、ピットは重ねてこう訊く。

「――亜空軍のせいですか」

今度は、比較的すぐに答えが返ってきた。

『申し訳ありません。しかし、それはこの場で答えるには相応しくない問いですので』

「何がどう相応しくないって言うんですか?」

そう言ってから、ピットは不満げな顔をしてぶつぶつと呟く。

「そんなセンシティブな質問したかな……」

と、彼の前を進んでいたエインシャントの分身が、予想していなかったタイミングでふいっと左に曲がり、姿を消す。

慌ててその方を見ると、壁面にぽつりと、人の背丈ほどの出入り口が開いているのが見えてきた。うっかりしていると壁面の複雑な凹凸に紛れて見落としてしまいそうだ。

 

短い通路を抜けた先、今度は幅の広い階段と踊り場が連続する部屋が待ち受けていた。

今度は分かれ道は無いらしく、分身もひたすらにまっすぐに階段を登っていく。しばらく分身の挙動を観察し、それを十分に確かめてからピットは再び手紙に目を向ける。

そして逡巡の末、自分が最も聞きたかったことを尋ねかけた。

「あなたは何をしようとしてるんですか。僕らに、キーパーソンの皆に手紙を配って。……何か手立てを、ここから出るための手段を知ってるんですよね」

今回も、なかなか返事が返ってこなかった。

揺らぐ文字は、しかし今度はピットが催促するよりも前に固まる。

『私が皆さんに報せたのは、それが必要だったからです。皆さんの暮らすそこがエリアであると、解っていただく必要があったのです』

さらに、その下に文章が浮かび上がる。

『あなたはきっと、その理由はと尋ねたいところでしょう。しかしこればかりは、私の口から直接お伝えしたいのです。今のように文字だけでのコミュニケーションでは、声音や表情、間といったものが表現できません。私もこの時をどれほど待ち望んでいたことか分かりません。ですが、だからこそ失敗はできないのです』

やけに真剣な、彼自身の意志をはっきりと記したような文章だった。

ピットは予想以上の反応に驚き、しばし何も言えずにいた。

ようやくのことで我に返ると、わずかな諦めを含んだ口調でこう返す。

「分かりましたよ。とにかく、続きはあなたのいる場所に着いてからってことですね」

これ以上粘っても埒が明かないだろう。ピットはそう考えて手紙をたたみなおし、今度は封筒にきっちりと入れなおして鞄の中に仕舞った。

 

 

 

緑衣の分身がくぐり抜けていった狭い通路、それを抜けた先で彼を待ち受けていたのは、完全な白一面の世界だった。天も地もなく、壁がどこにあるのかも分からないほどにのっぺりと塗り込められた白。

反射的に立ちすくみ、目を丸くしていたピットだったが、数度瞬きするうちにぱちりと切り替わるようにして世界が変化する。

 

出し抜けに、色が戻ってくる――いや、それはもはや“押し寄せる”と言った方が近かった。

空の青が、建物の色彩が、地面の薄茶色が、木々の緑の複雑さが目に飛び込み、途端にあふれ出した鮮烈な色合いと明暗に視覚が圧倒され、混乱のあまり後ずさってしまう。

 

前まで見ていた景色を求めて振り返った彼の目に映ったのは、薄暗い袋小路。暗いとはいえ、そこにもやはり色彩が待ち受けている。あの白一色の世界はどこにも無くなっていた。

少しずつ目が慣れてきた彼は、自分の前に広がる光景に恐る恐る向き直る。

「ここ……どこ?」

自分でも分からないうちに、そんな言葉が口をついて出た。

純白の世界を通り抜けた先、そこには街の通りが広がっていた。通りの左右には二階建てから三階建て程度の建物が建ち並び、歩道には人間が行きかっている。“車道”らしき幅の広い道が真ん中にあるが車の姿は見えず、人々の中には車道に出てのんびりと歩いていく者もいた。

そこでエインシャントの姿がどこにもないことに気づき、ピットは慌てて鞄から封筒を取り出し、手紙を引っ張り出す。

「あの! ここ、どこなんですか? ここがあなたのエリアってことで良いんですよね!」

焦りから思わず声が大きくなってしまった。

周りを行きかう人々はピットに物珍しげな視線を向けるものの、それ以上の関心は示さずに通り過ぎていく。ピットの方も周囲に注意を向ける余裕も無く、紙面を凝視していた。

しかしいつまで待っても、文章に変化はなかった。ここまでのパターンで何となく学んだピットは、ややあって長いため息をつき、こうひとりごちる。

「目的地『付近』に到着しましたってことだね」

諦めの境地で手紙を仕舞い、鞄の蓋を閉じた。

 

整然とレンガのタイルが並べられた道、等間隔に植えられた街路樹、競い合うように並ぶショーウィンドウ。ピットが暮らしている辺りの人間たちに比べると数段進んだ文明のようだが、これまでに様々なエリアを巡ってきた今のピットにとっては、もはや珍しい光景ではなくなっていた。

辺りの建物などに気を取られることもなく真っ直ぐに通りを歩いていき、ちょうど通りがかった人間を呼び止めてこう尋ねかける。

「ねえ、君。ここはどこなの?」

山高帽の男はフレンドリーな笑みを見せて立ち止まり、口を開く。

「ここは――」

しかし、その先がなかなか出てこない。

男は半開きの口に白い歯を見せて、微笑んだまま虚空を見つめ、固まってしまったかのように動かない。

心配になったピットが相手の肩を叩こうかと思い始めたとき、唐突に男が歩き出し、虚を突かれたピットは反射的に道を空ける。呆気に取られて見送るピットを振り返ることもせず、男はそのまま歩き去ってしまった。

驚きが過ぎ去って、ピットは遠ざかる男の背中を見送りながらもこう呟く。

「……なるほど?」

何が分かったわけでもない。ただ今のは、極端とはいえ、今までのエリアで度々遭遇した現象と似ていた。

 

その後も、だめ押しでこの辺りの情報を得ようと手当たり次第に聞いて回ったが、悉く失敗に終わってしまった。

立ち止まってくれるところまでは誰もが親切な笑みを浮かべ、何なりとお申し付けくださいと言わんばかりの顔でこちらの質問を待つのだが、こちらがこの“街”について何かを尋ねた途端、答えかけたところで凍り付いてしまう。そして何事も無かったかのように、ピットの存在など無かったかのように、通り過ぎて行ってしまうのだ。そうなってしまうともう、いくら呼び止めようとも、あるいは走っていって肩を叩こうとも、思い切って回り込んで顔の前で手を振ったとしても無視されてしまう。

さすがに五人連続で同じ対応をされた後、ピットは渋い顔で往来に立ち止まり、折しも去っていく人間を見つめながら一人考え込んでいた。

――うーん、やっぱり変だ。ずいぶん“適当”だなぁ……。

本来あるべき世界の姿から、どこかしらが外れてしまっているという『エリア』。その内側に暮らす人々は、周囲の物事に違和感を覚えないよう、その思考や認識の力を何者かによって制限されている。今までにもエリアの綻びや矛盾を突くような質問をしてしまった場合、途端に相手の返答があいまいになったり、あるいは不自然に別の話題に逸らされてしまうことは多々あった。

しかし流石に今のように唐突に話を切り上げられるようなことは、記憶している限りではほぼ無い。言うなれば、ごまかし方が適当なのだ。

 

情報収集が望み薄な地理情報については一旦置いておき、次にエインシャントの居場所について尋ねようとする。だが、人々から返ってきたのは怪訝そうな反応。

「あー……知らないです」

「ごめんなさい、分からないわ」

「誰だい? エインシャントって」

「聞いたことないねぇ」

そもそも、誰一人としてエインシャントという名前自体を知らないようだった。

ひとしきり辺りの人に聞いて回ったピットは、休憩がてら建物の壁に寄りかかって腕を組み、往来を行きかう人々を観察するように眺めていた。

――でもおかしいな。ここはあの人のエリア……のはずだよね。あの人あんな格好してるわりに、エリアの中では全然目立たない人なのかな?

そう考えてから、自分でその説を否定する。

辺りを行く人間たちはごく標準的な頭身であり、どう見てもあの寸胴なエインシャントとは寸法が違う。あんなのがのほほんと通りを歩いていたら、目立ってしまって仕方がないだろう。

――……まあ、かくいう僕も翼のこと一度も指摘されてないわけだし。それもこれも、ここの人間たちがとてつもなく鈍感なだけかもしれないよね。

と心の中で自分に言って聞かせ、ピットは壁から身を起こした。

周りの人が当てにならないのなら、次にとるべき手は一つ。目立つ構造物を探して、行ってみることだ。

歩き出した彼が見据える先には、建物の並びを越えた向こう側、白く巨大な正方形が頭を覗かせていた。

 

歩いていく途中、辺りの人々の様子が目に入る。

やはり、彼らの動作にはどことなく妙なところがあった。

お土産屋らしき建物の、ショーケースの前に立つ親子連れ。子供たちはぬいぐるみを指さし、両親はニコニコと笑って頷いている。

「見て、見て!」

「あらかわいい」

「これ欲しい」

「どうしようかな」

が、彼らはその場からそれ以上動こうとせず、店に入ろうとする様子もない。ピットが近づいていき、通り過ぎ、さらに後ろを振り返っても、彼らはそこから一ミリも動いていなかった。

通りの角には、パラソル付きのテーブルが出ているおしゃれな喫茶店があった。

椅子に座り、くつろいだ様子で雑誌を読んでいるお客が一人。ふと思い立ち、後ろに回り込んで紙面を見てみると、書かれているのは当たり障りのないエッセイ。しかし、その人がいくらめくってもずっと同じページが繰り返される。ピットが自分の目を疑っているのをよそに、その人は全く動じることなく優雅にコーヒーをすするばかり。

映画館を模した建物、外の壁に貼られたポスターを眺め、頷き、談笑している様子の人だかり。だが、横を通りがかった時に聞こえてきた会話はこんな調子だった。

「ああ」

「そうだ」

「ねぇ」

「うん」

「いいね」

薄っぺらく虚ろな会話に怖気を感じ、ピットは思わず逃げるようにそこを通り過ぎてしまった。

通りには様々な移動式の屋台があった。風船を売っているワゴン。ポップコーンを売っているワゴン。客を呼んでいる店主は、たとえピットと目が合ったとしても売り文句を呼びかけたりせず、笑顔のまま自然な流れで目をそらしてしまう。

並んでいる人がいる屋台、先頭の人と店主はにこやかに会話しているが、よく聞くとどちらもほとんど意味のない相槌を打っているだけで、いつまでたってもお金を渡したり、商品を渡したりする様子が無い。

「いらっしゃい」

「迷うなぁ」

「どれにしますか」

「おいしそう」

彼らのやり取りを見ていたピットの頭に、不意にこんな考えが浮かぶ。

 

誰も彼も、全部演技でやっているのだ。

ここで自分が屋台に突撃して商品を奪ったとしても、店主は追いかけてきたりしないのだろう。なぜなら、“台本”にはそんなことは書かれていないから。

 

そこまでを考えた時、彼は背中にぞっと悪寒が走るのを感じた。まるで自分がそうと知らずに、上演中の演劇の舞台に紛れ込んでしまったかのような、そんな違和感と心細さを覚えたのだ。

彼はこれ以上余計なことを考えてしまわないよう、辺りに満ち溢れる不自然さから目を背け、行く手だけに目を向けて足早に歩いていった。

 

 

角を曲がった先、ついに姿を現した建造物。

そのあまりの規模と美麗さに、天使は思わず立ち止まり、まじまじと見入ってしまった。

「これ……まさか凱旋門?」

まず目につくのは正面、見上げているうちに首が痛くなってくるほど大きな、白い石造りのアーチ。どことなく自分が暮らす世界でよく見る建築様式の面影を感じるが、ただの門にしてはずいぶん巨大で仰々しく、飾りの彫り込みも精緻に見える。

眩しいほどに白いアーチの奥には、建物の高さと同じくらいの丈がある柱、まるで巨木のような石柱が等間隔に立ち並び、ずっと奥まで続いている。柱はガラスと金属でできた天蓋を支えており、天蓋から差し込む日差しが下の通りを明るく照らしている。

壮大で厳かな空間。よそ者の自分が踏み込むべきか否かと躊躇っていた彼だったが、ふと見ると、あたりの人々が何気ない調子でそのまま出入りしていることに気づく。ところどころで立ち止まって何かを見ているような人もおり、どうやら天蓋の下、柱の間にも店か何かが建ち並んでいる様子だ。

ただ、ここにもやはり緑衣の姿は見当たらない。

「扉のない門は流石に守れないよね。そしたら、門番が守るためのゲートはこの奥にあるのかな……?」

そう呟き、その場で背伸びしてみる。が、アーケードは思いのほか長く、向こう側にトンネルの出口のように白い光がぽかりと開けている以外は何も分からない。

「……とりあえず、向こう側まで行ってみるしかないか」

自分に踏ん切りをつけさせるようにそう言って、彼はアーケードの方へと歩き始めた。

 

足元、幅の広い道はつややかな陶器製のタイルに彩られ、道幅いっぱいに草花や星を模した模様が描かれている。

道の左右には三階建ての建物が建ち並び、一階のショーウィンドウの向こうには服や靴、花に宝飾、雑貨に食べ物、店ごとに異なる様々な売り物が並べられている。

視点を上に向ければ、金属の骨組みとガラスが堅牢な屋根を為し、その向こう側にくっきりと青い空が見えている。

立派なアーケード街だった。だがそれだけに、辺りの人々の“おざなりな”言動が否応なしに引き立てられてしまう。

まっすぐに歩いていく天使の左右、行き交う人々は親しげでありつつも焦点が曖昧な笑みを貼り付けて、通り過ぎざまに一言声を掛けてくる。

「やあ」

「どうも」

「失礼」

「こんにちは」

はじめのうちは何となく最低限の言葉や会釈を返していたピットだったが、こちらが返事をしようとしまいと彼らの動きにほとんど変化がないのを見ているうちにやりきれなくなって、心を鬼にして彼らを無視し、ただひたすらに前を向いて歩き続けていく。

彼はほとんど睨みつけるようにして出口の白い光を見つめ、こう自分に言い聞かせていた。

――彼らもランドから解放されれば、こんなことからも自由になる。だから今は、とにかくエインシャントを探さなきゃ。

 

彼が向かっていく先、白い光は依然として壁のように出口を塞ぎ、その先を見通すことを妨げ続けていた。

歩調を緩めないまでも、ピットは次第に当惑の表情を露わにし、行く手の光を見つめていた。

――よほど向こう側が明るいのかな……? いや、それにしたってこんな、カーテンか何かみたいに……

そんなことを考えているうちに、彼はアーケード街の端まで辿り着いてしまう。

歩いても歩いても光は晴れる気配を見せず、ついに彼は、光の壁の目前に到達する。

ほんの一歩先を満たす光は燦然と眩しく、まるで実体を持っているかのように床から天井までを満たしている。それでいて熱くも冷たくもなく、眩しい以外にこれといった存在感を持たない奇妙な光だった。

辺りを歩く人々は壁には近寄ろうとせず、例え偶然近くまで歩いてきたとしても自然な流れで踵を返し、戻っていく。

それを見て取り、ピットはためらいながらも光の壁に向き直る。

――これは、行き止まりなのかな……それとも……。

恐る恐る右手を前に伸ばす。

手のひらは何にも当たることなく、何を感じることもなく、あっさりとその先に突き抜けてしまった。驚いてひっこめた手は無傷のままで、これといった異変も見当たらない。ぽかんと口を開けて手のひらを見つめていた彼だったが、やがてその目に決意を見せ、光の壁に向き直る。

 

 

反射的に、目を固くつぶっていた。

慎重に片目を開けた彼が目にしたのは、星一つない夜空。驚きに目を見開いた彼は、その先に薄ぼんやりと発光する浮島があることに気が付く。

反射的に振り返ったすぐ後ろには真っ白に光る壁があり、彼はそのあまりの眩しさに慌てて目を細める羽目になった。

 

目をすがめたまま、再び前に向き直る。

少しずつ目が慣れてきて、黒一色の中からゆっくりと風景が浮かび上がってくる。

見えてきたのは、手すりも何もない一本橋。それも、薄紫色のガラスに似た材質の板が空中に浮かんでいるというだけの道。浮島はその橋を渡った向こうにある。

それぞれの板の幅はちょっとした大路ほどもあり、また浮島ともさほど離れているわけではないのだが、何しろ頼れるもののない道を行かねばならず、ピットはなかなかその場から踏み出せずにいた。

――さっきのパズルみたいに、落っことされたりしないよね……?

恐る恐る片足で最初の板をつついてみるが、意外にも板はびくともせず、どっしりと構えて動かない。頼りなく見えるのは、どうやら見た目だけなのかもしれない。

無意識のうちにこらえていた息をつき、彼は行く手の浮島を見つめる。

「……行ってみるしかないか」

半ば自分に言い聞かせるようにして、そう言った。

 

半透明の橋を渡り、天使が歩いていく。

辺りは静かで、彼が立てる足音しか聞こえない。そのコツコツという微かな音も、辺りの空間に淡く反響しながら薄れていき、暗闇に吸い込まれていくばかり。

しばらく足元に注意を向けていた彼だったが、橋が見た目よりも遥かに頑丈で揺るぎないことが分かってきた辺りで、少しずつ辺りの風景に目を向けられるようになってきた。

――……あれ?

いつしか、空が表情を変えていた。

雲が晴れたのだろうか、一面の星空が彼の頭上に広がっている。

満天の星空に見とれていた彼は続いて、何の気なしに足元にも目を向けたところでその行動を後悔する。薄紫色の足場の下、いつの間にかそこにも星空が広がっていた。改めて自分が何の支えも無い橋を渡っているのだと気づかされ、足がすくんでしまいそうになる。

首を横に振り、無理やりにでも視線を引っぺがして前を向く。手足がこわばる前に思い切って動かし、再び前に進み始めた。

 

虚空に足音を残して歩いていく天使の頭上を、一つ、また一つと流星が駆け、薄れて消えていく。

浮島に近づくにつれて流れ星の頻度は増していき、色とりどりの軌跡を夜空に残していった。大体は流れ星らしく落ちていくものが多かったが、時には下から上に駆けあがっていくものもあった。

だが、天使の目はそのどれにも向けられず、ただ真っ直ぐに浮島を見つめている。

その表情には、訝しさと、驚きとが入り混じっていた。

 

見覚えはない。ないはずなのに、初めて見る気がしない。

自分の中で相反する思いが同時に浮かび上がり、どちらもその場を譲ろうとしない。

 

せめぎ合う感情に、ついに彼は足を止めてしまう。

見つめる先にあるのは、巨大な“ゲート”を支える八角形の浮島。

島の外周は暗い紫色だが、ガラスの橋がつながっている部分からは灰色の道が、ゲートの置かれた中心部に向かって続いている。

そしてその先、ゲートの扉は固く閉ざされていた。夜空に暗く沈んだ石造りの表面は荒くざらつき、流れた年月の長さを偲ばせる。それでいて、流れ星が近くを飛ぶたびに表面にうっすらと未知の幾何学模様が浮かび上がり、ゆっくりと暗闇に溶け込んでいく。

超古代文明の忘れ形見――そんな言葉が似合いそうな構造物だ。

 

そんなことを心の中で考えていた時だった。

 

「皆さま、当ランドは閉園時間となりました」

 

突然、背後から朗々とした声が聞こえて、ピットは思わず驚愕の声をあげてしまう。

すぐさま振り返ると、いつの間にか数歩離れた後ろに忽然とエインシャントが出現していた。

こちらが声を掛けるよりも先に、彼は演劇じみた調子でゆったりと歩き始め、相変わらず朗らかな声で語り始めた。

「夢と想像が織りなす無限の世界、お楽しみいただけましたか? どなたさまもお忘れ物のないよう、お手荷物は身の回りに、そして大切な思い出は心の中にしっかりしまって、お気をつけてお帰りくださいませ」

そう言いながらピットの横を通り過ぎ、浮島へと上陸する。

そしてピットの方に向き直ると、彼はこう締めくくった。

「またお越しいただける日を心よりお待ちいたしております。本日はご来園、まことにありがとうございました」

ゲートを背に深々と礼をし、余韻に浸るように動かない。

やがて深々と息を吸って――彼は、顔を上げた。

「……さて、ピットさん。お分かりでしょうか? これが、私たちに課せられた役割だったのです」

「“役割”……?」

警戒も露わに、ピットはそう尋ね返す。

「ええ。例えば……」

エインシャントの白い手袋の片方が、彼自身の胸の辺りをを示す。

「私はかつてこの世界――ランドにおいて『案内役』を仰せつかっていました。先ほどあなたが通ってきた『エントランスエリア』に常駐し、ゲートの向こう側からお越しになったゲストの皆さまを歓迎し、その日に開催されるイベントやおすすめのエリア、穴場のスポット等々、ゲストの方々にお伝えしていたのです」

言葉はよどみなく、かえって耳から、意識から取りこぼしてしまいそうになる。

何とかついて行こうとしながら、ピットは用心深くこう訊く。

「どういうことですか……?」

と、そこで彼はパルテナの言っていたことを思い出し、はたと目を見開く。

「それじゃあ、やっぱりここは――ランドはそういう、テーマパークみたいなものだったんですか?」

「ええ。あなたもご存じで?」

と小首をかしげ、エインシャントは合点がいったように目を瞬く。

「……ああ、どうやらパルテナさんから聞いたようですね」

これを聞きつけたピットは、ぴしゃりと言い返す。

「“様”をつけてください。前々から思ってましたけど、あなたは少し失礼なところがありますよ」

「ご本人がそれで良いと仰ったものですから」

「本当に? ……あんまりにも横柄だから呆れて、とかじゃないの?」

聞こえるように言った文句も、エインシャントは黄色く光る目を細め、涼しい笑みで受け流してしまった。

いつもの彼らしい態度ではあったが、この期に及んでまでそれを続けるのを見ると、無性に腹立たしく感じた。

ピットはここまで散々じらされた分も含めて、自分がいかに不満を持っているのかを表情で伝えようとする。しかし相手が一向に構わない様子であるのを見ているうちに根負けし、諦めのため息をついた。

一体、この世にこの人が腹を立てたり焦ったりすることなどあるのだろうか。そう思いながらも、彼はこう訊く。

「――とにかく、今度こそ答えてくれるんですよね。パルテナ様に手紙配達を依頼した動機、あなたの目的を」

エインシャントは静かに頷き、答えた。

「ここまで辿り着いていただくためです」

そして彼は自分が立つ場所を手で示し、こう続ける。

「私のいる場所に。空間的にも、また、認識という意味でも」

「あなたの認識……つまり、ここがテーマパークの中だってこと、ですよね。じゃあ、それを知らせたのは?」

「それには二つ理由があります」

彼はそう言って、まず人差し指を立てる。

「一つは、『ランド』を閉園させる意義についてご理解いただくため」

「閉園……?」

思わず、ピットは訝しげにそう繰り返していた。

だがエインシャントはそのまま、二つ目の指を上げてみせる。

「そして二つ目は、それについて皆さんからの了承を得るためです」

ぽかんと口を開けて相手を見ることしかできなくなっていたピットは、やがて理解できないという様子で首を横に振る。

「どうして? いや、そもそもそんなこと、何で僕らに……」

心の中、再び疑念が沸き起こり始める。何一つとして彼の言うことが分からないことから来る苛立ちさえも、そこには混じっている。

手紙を配るのが自分のいる場所にたどり着いてもらうため、同じ目線に立ってもらうためだと言うのなら、なぜ未だに自分に同じものが見えてこないのか。

そんなこちらの心境をも見透かすような目をして、エインシャントは穏やかな声でこう言った。

「あなたは『ランド』について知らされたばかりでしょうから、無理もありませんね」

ゆっくりと頷いてみせ、彼はこう続ける。

「ここが如何なる目的の下で造られたのか。今一度、私の方からご説明いたしましょう」

 

漆黒の空に彩りを残して、音も無く流れゆくほうき星。

虚空に浮かぶ島に立ち、その背後に門を守るようにして、エインシャントは幾分もったいをつけるように目を閉じ、やがてこう語る。

「エリアとは作り物の世界。ランドはそれらを集めてできた集合体。そして全ては、ゲストをもてなすために一から創られたのです」

しかしそれを聞いたピットは僅かに落胆したような表情をする。

相手の言が、すでにパルテナから聞いていた情報と同じであるとしか思えなかったのだ。

「もてなす……ですか。これがテーマパークだって言うなら悪趣味が過ぎますよ。戦争がずっと続いてるエリアもありましたし、数えきれないほどの侵略者に襲われてるエリアもありました。あんなののどこがエンターテイメントだって言うんですか?」

そう尋ねるとエインシャントはぱちりと目を開き、そつなく頷く。

「ああ。それらのエリアは本来あるべき姿ではないのです。減っていく一方のゲストを何とか呼び戻そうとして――」

あくまでここはテーマパークの中なのだと、あなたたちは今までそれに気づいてなかったのだと、当然のように話を進めようとするエインシャント。

ピットは反発を覚え、語調を強めて彼の言葉を途中で遮った。

「そもそも、あなたの言ってる“ゲスト”って何なんですか?」

「ゲートの向こう側から来る方々です」

口を挟まれたにも関わらず、彼は落ち着いた声でそう答える。

ピットは僅かに眉間にしわを寄せた。

「……それだけですか? 彼らが、僕らを閉じ込めたんですよね。ランドって名前のついた、巨大な“夢”の中に」

これを聞き、エインシャントは「ほう」と感心したような声を上げた。

「なるほど、“夢”ですか。あなたはそう例えるのですね」

彼は微笑んでいた。

まるで、生徒から『正解ではないが面白い答え』を聞いた教師のように。

だが、それはピットにとって余裕の笑みとして映る。こちらを見守るようでいて、決して同じ場所に降りて来ようとはしない者の表情として。

その差を縮めようと、挑みかかるように彼は言い返した。

「例えたんじゃありません。夢じゃなきゃなんだっていうんですか? 僕は今まで、この目で見てきたんです。キーパーソンの意思一つで時間が巻き戻るのも、人やエリアの在り方が変わるのも。そんなの、夢でなきゃありえない」

そう断言すると、続けてエインシャントにこう言った。

「そこを通してください。どういうつもりで僕らを閉じ込めたのか知りませんが、僕はゲストっていう人間たちに一言言ってやらなきゃ気が済まないんです」

返事も待たずに、ピットは決然と歩き出す。

エインシャントは止める素振りも見せなかった。浮島に上陸し、横を通り過ぎていったピットを、その場から振り返る。

彼はただ、こう尋ねた。

「どこへ行くのですか?」

ピットは振り返らず、真っ直ぐにゲートを見据え、ほとんど睨みつけるようにして言いやる。

「ランドの外です。僕の心は決まってる。僕はここから出て、皆が――僕らが帰るべき場所を探します。それと、ゲートの向こうにいる人間たちにみんなを自由にするように、元の場所に帰すように伝えるんです」

彼の背後、エインシャントが静かに首を横に振る衣擦れの音がした。

「……ピットさん。それはあまり良い手とは言えません」

 

それから彼は、はっきりとした口調で告げる。

「まず、あなたは一つ大きな誤解をしているようです。その扉の外にあなたの言う『帰るべき場所』はありません。強いて言うなら、このランドの中にあったそれぞれのエリアこそが、我々のいるべき場所であり、帰るべき場所なのです」

 

思わぬ言葉に、ピットは思わず足を止めた。

逡巡の後に、エインシャントを振り返る。

 

「……それ、どういうこと……ですか?」

聞くのが恐ろしかったが、彼は聞かずにはいられなかった。

眉をひそめる彼が見る向こう、エインシャントはゆっくりとこちらに向き直る。

そして、まっすぐに言葉を突きつけた。

「つまり……このランドこそが、我々にとっての現実だということです」

 

婉曲も比喩も抜かれて放たれた、厳然とした宣言にピットは息をのむ。

「そんな……」

エインシャントはほんの少し前に、ランドとは作り物だと言ったばかりだ。それを指して彼は、自分たちにとっての現実だと断言したのだ。

あまりにも荒唐無稽なことでありながら、ピットはそれを笑い飛ばすこともできず、言おうとした言葉は心の中の混乱に呑まれ、声にならないまま胸の奥につかえてしまう。それほどまでに相手の声は、眼差しは真剣なものだったのだ。

彼の言ったことが信じられずにいるピット。その場で立ちすくんでしまった天使に向けて、エインシャントはこう語り掛ける。

「今までにあなたから手紙を受け、私の下まで一度来ていただいたキーパーソンの皆さんの中には、エリアは本来の世界から切り取られて造られたという認識をお持ちの方もいました。自分自身も、それから身の回りの人々も、本当の世界から連れてこられたのだと。……その場では指摘しなかったのですが、今、この場であれば言うことができます」

そこで彼は一旦言葉を切り、背筋を伸ばすような気配があってこう断言する。

「残念ながら、そうではないのです。我々は元から、最初から“この世界”に在ったのです。ランドが創られたその時から、ずっと」

ピットは一瞬その目に動揺を見せるも、強いて自分の気を確かに保とうとし、勇気を奮い立たせ、エインシャントから視線を逸らさずに立つ。

そんなこちらにエインシャントは真摯な眼差しを向け、なおも語りかける。

「今まであなたたちが生き、時に戦い、守り――そうして暮らしてきたのも、ランドにおける『役割』を果たすため。我々の生い立ち、我々の言動、我々の一挙手一投足、何もかもがエリアの中での出来事、あるいはランドの中での出来事としてゲストを愉しませていたのです」

それを聞かされたピットは、何も言わずに、下げた拳をきつく握りしめる。

彼には到底、その言葉を受け入れることなどできなかった。

自分がこれまでに出会ったありとあらゆる神、ありとあらゆる人との、喜怒哀楽に満ちたかけがえのない記憶。キーパーソンとして出会った友人たちが拠り所とし、いつかはそこに帰ると決意していた本当の世界の記憶。その何もかもが作り物だなんて。

自分たちの生き様は“ゲスト”なる人々にとって皿に盛られた果実に過ぎず、だからあのようにナイフで切り分けて興じ、供していた、というのか。

思考がそこに至った時、ついに怒りが混乱を上回り、彼は挑みかかるようにして言い返した。

「……そんなはずない、ありえませんよ! だってここが現実なら、僕らが“元から”このランドにいて、僕の活躍をゲストも見ていたんだって言うなら、僕は『ゲスト』っていう人間たちのことも覚えていなきゃおかしいじゃないですか。でも、僕は全然記憶にない。エンジェランドのどこでだって、そんな人間を見た覚えはありません!」

エインシャントは相変わらず涼しげな様子でこう答える。

「それはそうでしょう。ゲストはもう永いことランドを訪れていないのですから」

だがこの答えはピットにとって、かえってペースを取り返す一助となった。

「ずいぶん都合がいいですね。でも、残念ですけどその言い訳は僕らには通用しませんよ。人間の『長い間』なんて、僕らにとってはたかが知れてるんですから。僕らが覚えていないのなら、それは存在しなかったってことなんですよ」

そう宣言したピット。

エインシャントはややわざとらしく驚いた様子で、目をぱちくりさせる。

「これはこれは、大層な自信ですね。しかし……素朴な疑問ですが、あなた方は本当に全てを覚えていられるのですか? そんなに厖大な時間の一つ一つをつぶさに覚えられて、しかも忘れることが無いのだとしたら、いずれは肥大化した自分の記憶に圧倒され、押しつぶされてしまいそうなものですが……」

面白がるような口調。

ピットは渋い顔になりつつも、こう言い返す。

「……全部を覚えてるとは言いません。けど、『天界に人間が来る』なんて異例中の異例、僕が忘れるはずがないんですよ」

しかし、相手はすぐさま返した。

「必ずしも、あなたの目に人間として映っていたとは限りませんよ。なぜならあなたがたはゲストの夢を壊してしまわないよう、彼らが『よそ』の人だとは、すなわち『本来ならその場にいないはずの人である』とは気づけないようになっていたのですから」

ピットは困惑に眉根を寄せる。

「でも、それじゃあどうやってもてなしてたって言うんですか」

「漠然と認識することはできたのですよ。客、あるいは知人、仲間として迎え入れる存在。そして、守るべき存在、危害を加えるべきでない存在として」

「だとしても、お客さんだとは認識できるんですよね? なら、やっぱり僕には覚えがありません。メデューサがエンジェランドを占領したときだって、ハデスが世界をめちゃくちゃにしたときだって、そんな人を見かけた記憶も、ましてや僕が誰かをもてなしたって記憶もないですから」

ピットはそう言いきった。

その目を覗き込むように、エインシャントはその帽子のつばの陰から、黄色く光る目でじっと見据える。

幾らか声を低く落として、真剣そのものの口調で彼はこう問う。

「なるほど……。仮に、あなたがそのメデューサさん、ハデスさんと何度も戦ったことがあるのだとしても……それでもそう言いきれるでしょうか?」

思わぬ言葉に、ピットは、しばし言葉に詰まる。

それがエインシャントの策だと、単なる揺さぶりだと言い切る自信はなかったのだ。

逡巡の後、彼はそれまでとは打って変わって、訥々とした口調で尋ねかける。

「……それって、僕も……繰り返してたって言うんですか、何度も、同じ時間を」

聞きながら、どうか答えないでくれと、そう思っていた。

自分もキーパーソンの皆と同じなのだと。彼らと同じように、閉じた時間の輪の中に捕らえられ、それでいてそれを気づくことなく繰り返していたのだと。

だがそこまで言っておきながら、エインシャントは判断に委ねるようにこう返す。

「あなたは、心の底ではすでに分かっているはずです」

しかし彼は突き放したわけではなかった。

彼の言葉には続きがあったのだ。

「ピットさん。私が初めてあなた方のエリアに訪れた時のことを思い出してください。あのとき私は、道の途中で見かけた石室についてあなたに問いかけましたよね? 手紙を受け取られた後のあなたでしたら、何か思い出すものがあるのではないでしょうか」

「石室……」

呆然と繰り返したピット。

記憶を呼び起こした彼の脳裏に、あの時の光景が浮かび上がる。

神殿の外れ、道端にぽつんと取り残された古ぼけた石室。その中を覗き込むエインシャント。彼が見る先にあったのは、苔むした石細工の台。その上部は皿のように窪んでいて――

 

そこまでを思い出した時だった。全くの不意に、その風景の背後から別の記憶が炙り出される。

 

石室の中央に安置されたのは、“水盆”を支える石造りの台座。よく手入れされ、苔は全く生えておらず、つややかな灰色の表面に辺りの写像が映り込んでいる。

自分はその台座の前に立って水盆を覗き込み、水鏡に映し出されている映像を眺めている。

そこに映るのは、拳を交えて戦うマリオとカービィ。しかし、彼らの表情は適度な緊張を持ちつつもあくまで明るい。どうやら二人は腕比べの一種として闘っているらしい。どういう格闘技なのかも見当がつかないが、記憶にある自分は当然のように彼らの試合を観戦し、応援している。

しかし自分が見守る先、マリオ達がふと手を止めて訝しげに空を見上げる。水鏡も視点を上向かせ、映し出されたのは暗赤色の雲が立ち込めていく空。不穏な雲を率いるようにゆっくりと飛翔するのは、コウモリのような翼を広げた戦艦、ハルバード。暗雲からは黒色の雪が降り注ぎ、二人の周囲、舞台に落ちた傍からひとりでに凝り固まり、亜空軍の兵士たちを象りはじめる。

勝手に流れていこうとする場面を前に、ピットは何もできずに戸惑っていた。

――待って……これ、そもそもいつの記憶? こんなことあったっけ……?

『記憶の中の自分』は自分の戸惑いも意に介さず、パルテナから任務を受けて地上界へと降りていってしまう。流れからしておそらく、マリオたちの救助に向かったのだろう。

 

走馬灯はやってきた時と同じくらい唐突に消え去り、ピットは虚空の浮島にいる自分を見いだす。

しかし、直前まで見えていたものは彼の思考に大きな波紋を残していた。

 

これほどの事件があったのなら、自分が覚えていないはずがない。

それに、これはまさしく、自分がずっと探してきた記憶――キーパーソンと関係する『失われた記憶』に該当するのではないだろうか。

だがピットは、そこまでを意識していながらも安易に認定することはせず、思い出された記憶に疑惑の眼差しを向けていた。

妙な違和感があったのだ。

自分の内から浮かび上がったような一連の光景だが、何もかも人ごとのように感じ、何一つとして見覚えがなかった。ジグソーパズルの中によそから迷い込んだ、どことも当てはまることのない異質なピース。そういうように感じられたのだ。

そこまでを考えた時、ふとピットは一つの答えに至る。

――そうだ。無茶苦茶なんだよ、この人の言ってることは。

きっと、今の見慣れない幻影も、エインシャントが掛けた術か何かのせいだろう。余程彼はここから出ることを諦めさせたいらしい。

そう思えるようになったことで、ピットはだんだんと冷静さを取り戻してきた。

エインシャントを正面からじっと見据えて、こう告げる。

「僕を騙そうったって、そうはいきませんよ。僕らの暮らす世界が何もかも遊園地のアトラクションで、僕らはそこのスタッフだっただなんて……僕を止めるにしても、もう少し出来の良い嘘をついたらどうなんですか?」

そうして踵を返し、ゲートまでの最後の数歩を詰める。

両開きの巨大な扉。まずは戸の重さを推し量ろうと、彼は片手を扉の表面に当てて、押そうとした。

 

背後で、エインシャントがため息をついた。

 

ピットは言い知れぬ予感に、硬直する。そればかりか、思わず手を止めて振り返っていた。

ここまであまり自分の感情といったものを出さず、始終オブラートに包んだような回りくどい表現、穏やかな受け答えをしていたエインシャント。

しかし彼はここに来て、急にそれを投げ出した。倦怠感の入り混じった“呆れ”を露わにしたのだ。

 

俯かせていた帽子をあげ、彼は表情の読めない黄色の眼差しをこちらに据える。

「気が進まないのですが……“今の”あなたでは思い出せないのだとしたら、致し方ありません」

焦燥と共に、ピットは問おうとする。

「何をする気――」

それを最後まで言い切ることができないまま、急に辺りが真っ白な光に満たされる。

こちらを見るエインシャント、流星の飛び交う夜空、暗紫色の浮島、そして中途半端な恰好で止まった自分の手――視界に映る何もかもが光の中に溶け、消えていった。

 

 

 

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最終更新:2023-05-20

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