気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第7章 神秘主義者 ③

 

 

 

出し抜けに辺りが騒々しくなり、ピットは目をつぶったままびくりと肩をすくめる。

まるで大都会の雑踏に放り込まれたかのよう。前も後ろも、右も左も、そればかりか頭上や足元からも様々な声が聞こえる。辺りではひっきりなしに何かがぶつかる音、壊れる音、砕ける音が響き、頭の中で轟き、四方八方から注意を引こうとする。

固く目をつぶり、姿勢を低くし、身を護るように両腕を頭の辺りに上げていたピット。

暗く閉ざされた視界、胸の中で心臓がどくどくいっているのがはっきりと分かった。

少しずつ時間が過ぎていき、これほどまでに辺りが騒がしいにも関わらず自分の身体にぶつかるものが何もないことに気が付いて、彼はようやく恐る恐る目を開けていく。

 

途端に、それを待ち受けていたかのように、幾千、幾万もの走馬灯が一斉に飛び込んできた。

 

 

彼は振動と騒音に包まれた、鋼鉄の小部屋の中にいた。

金属の板を思い切り叩くような音がして目の前の扉が開け放たれ、部屋の中に強い風が吹き込んでくる。

背後から男の声が何かを言い、前に進めと促すようにピットの背を押してきた。

自分は慌てて抗議するが、室内の騒音で自分の声さえ聞こえない。自分の口は、『今は飛べない、自力じゃ飛べないんだ』と言うように動いていた。

しかし悔しいことに相手には騒音のせいで全く届いておらず、何かを答えて元気づけるように背中をたたく。

そのまま男は有無を言わさずにこちらの腕をつかんで共に部屋の外へ、雲海をはるかに見下ろすような上空の世界へと飛び降りていった。

 

目まぐるしく回転する雲の世界が滲んだかと思うと、広いスタジアムが姿を現した。

向かい側に誰かが立っている。赤い帽子に紺色のオーバーオール。

はっと息をのみ、彼の名前を呼ぼうとしたが、自分の声は出てこない。どころか視界の中で自分の腕が勝手に動き、双剣を構える。さっと焦りを募らせたピットの見る先、マリオは慌てた様子も無く帽子のつばをあげて不敵に笑い、腰を落として拳を構える。

満員のスタジアム、興奮に満ちた観客のざわめきが次第に引いていったかと思うと、試合開始を告げる男の声が朗々と響き渡る。それを待ち受けていたかのように、マリオも、そして記憶の中の自分も駆けだした。視野の中で相手の姿がぐんぐん大きくなっていき、ついにぶつかる。

剣を振るい、拳を防ぎ、跳びあがって弓矢を放ち、すんでのところで身をかわす。自分の意志とは関係なく視野がぶれ、激しく動き、目が回りそうになりながらもピットは目を逸らせずにいた。相手の身を案じてのことだったが、不思議なことに相手にも、また自分にも目に見えるけがはないことが分かってきた。これほどまでに激しい打ち合いであるにも関わらず、そこに敵意はみじんもなく、自分たちはどうやら力比べを行っているようだ。

言葉は交わさずとも、相手との間には不思議と通じるものがあった。それでいて、どちらも自分に一切妥協を許していなかった。大技を当てられ、吹き飛ばされ、落ちてきた道具を巡って競い合いながらも、互いの隙を狙い、全力で闘い続ける。

周りを取り巻く無数の人々の声援や拍手も、舞台の上では遠い潮のさざめきくらいにしか感じられない。

 

スタジアムがぼやけ、不意に見慣れた風景へと移り変わる。

気がつけば彼はエンジェランド、光の女神の神殿に立っていた。記憶の中の自分は、やはりこちらの意思などまるで無視して動き、そのたびに視点が揺れ動いて酔いそうになってしまう。

自分は二人のイカロスを前に、何やら張り切って説明をしているらしい。

よく見ると二人は、その兜の下でずいぶん緊張した様子で頬を赤らめている。親衛隊のイカロスにしてはずいぶん初々しい、と思っていたピットはふと気が付く。

――違う。この二人、親衛隊じゃない。……イカロスじゃないんだ。

背には翼もあり、服装や防具も親衛隊そのものなのだが、彼らのその出で立ちはどこかが馴染んでおらず、妙な収まりの悪さを感じる。

このちぐはぐな印象は、どこから来るのだろうか。顔か、振る舞いか、それとも……

そこまでを考えた時、彼ははっとあることに思い当たる。

――もしかしてこれが……。

『エリアになじまないよそ者』。直前の依頼でネスが口にしていた言葉を思い出したピットだったが、そこで記憶の中の自分が振り返って視界にパルテナの姿を映し出し、ほぼ反射的に意識をそちらに向けてしまう。

女神はピットの様子を微笑ましく見守っている様子だったが、ふと何かを思いついた顔で笑い、ピットに何かを言ってくる。

どうやら何らかの無茶ぶりだったらしい。記憶の中の自分はオーバーにずっこけて、それから女神に向けて何かを言い返している。

視界の横に映る『新米』たちは、二人のやり取りにつられて笑っていた。どうやら緊張もほぐれたようだ。

気を取り直した自分は彼らに頷きかけ、ついてくるように促す。そのまま先導するように浮島の端まで一気に駆けていき、地上界目掛けて飛び込んでいった。

 

次の記憶に移り変わった時、ピットは自分の心にざわめきが流れ込んでくることに気が付いた。

目に映るのは暗闇に閉ざされた空。夜にしては異様なほどの濃淡を持って蠢いているが、暗雲にしてもこれほどまでに黒い雲は見たことがない。まるで辺り一面に墨を流したようだ。

冷たい風が吹きすさぶ闇の中、記憶の中の自分は何かに緊張した様子で飛翔していく。どうやら、その感情が自分の方にまで紛れ込んでいるらしい。それほどまでに『自分』が緊張している理由は、探すまでもなく見えてきた。

行く手に何か、翼をもつムカデのようなものが見えてきたかと思うと、際限なく大きくなっていく。

――いや、あれはムカデなんかじゃない……!

暗雲に身を横たえ、宙に揺蕩うのは、あまりにも長大な体躯を持つ異形の竜。

『ピット』

記憶の中でパルテナの声が凛と響く。

『気をつけなさい。あれは、あなたの仲間を核として蘇った“邪竜”です』

自分の口が勝手に動き、悔しげに言葉を絞り出す。

「そんな! じゃあ、遅かったってことですか……?!」

彼方の様子を伺うような間があって、パルテナはこう答えた。

『……状況は絶望的です。先に降り立ったファイター達はほとんど倒されてしまったようです。生き残りが一人……ですが、どうやら動けなくなっているようですね』

記憶の自分は悔しさと自責の念で歯噛みし、翼をはためかせて邪竜の背へと急ぐ。

やがて、ピットは島と見紛う程に巨大な竜の背の上、倒れ伏す仲間たちの姿、そしてその中央に佇む二人の人影を見出す。

彼らの顔を見定めようとしたところで、ピットはふと違和感を覚える。

――ルキナと、あれは……?

白銀の髪を持つ女性と、青い長髪の女性剣士。ルキナは両ひざをついて項垂れている。剣を持った手も下げてしまい、ルフレの面影を持つ白銀の髪の女性に抱き留められているようだ。

自分が来るまでもなく解決したのだろうか、そう思っていた矢先、女神の声が耳を打つ。

『伊達に長く生きてませんね……。“生みの親”という弱みに付け込み、彼女の戦意を喪失させたのでしょう』

天使の見る前で白髪の女性がゆらりと顔を上げ、こちらを認める。ひと房の前髪が顔の前に垂れてくるが、彼女はそれを払おうともしない。

その表情にあったものに、あるいは失われてしまったものに、ピットは記憶の中の自分と共に息をのむ。

彼女の顔には、娘を優しく抱き留める腕とは不釣り合いな表情が――凄惨なまでに酷薄な笑みが浮かべられていた。

『……来ますよ!』

女神の声が警戒を促すと同時に、空中にいくつもの魔法陣が開き、闇の色に染められた光線が容赦なくほとばしる。

 

どこかで見たような、それでいてどこにでもありそうな気がしてくる、これといった特徴のないオフホワイトの廊下。

ピットはスリッパをはき、寝間着姿で廊下を歩いていた。寝起きなのだろうか、自分の足取りはまだ寝ぼけており、スリッパをペタペタと鳴らしながら進んでいく。

やがて居間のような部屋に出る。ルームシェアでもしているのか、居間には何人ものキーパーソンの姿があった。ある者はソファから振り返ってピットに挨拶し、ある者はテレビを前に他愛もない話をしている。幼いキーパーソン達はにぎやかに食卓を囲み、牛乳を掛けたシリアルを食べていた。

自分も遅まきながら食事をしようと、シリアルの箱を手に取った彼に、誰かの声が話しかけてくる。

「おはよう、ピット君! 今日は街に行ってみない? アウトドアの新しい店ができたみたいでさ」

そこまで声がはっきり聞こえていても、振り返った先にある相手の顔はぼんやりとぼやけていた。あまりはっきりと覚えていない記憶なのだろうか、と思っていると、記憶の中の自分がこう答える。

「あー、ごめん。昨日は遅くまでかかっちゃってさ……今日は一日だらだらしたいんだ。また今度ね……」

寝ぼけた声でそう言った時だった。

不意に室内に電子音のコールが響き渡り、天井からいくつも板が降りてきて、パタパタと展開する。

板の表面に映し出された人物が“出動要請”を告げるや否や、室内にいたキーパーソンは待ってましたとばかりに支度をし、どこにしまってあったのか武器まで構え、意気揚々と出撃の準備を始める。

がっかりしているのは、この中ではピットくらいのものだった。

「えぇ~? せっかくの休みなのに……」

声にまで出してぼやいていると、後ろから誰かにどつかれてしまう。

「邪魔だ。どきな」

そう言いながら横を通り過ぎるのは、すでに準備万端の出で立ちをしたブラックピット。彼のことはさすがに覚えているらしく、黒一色の出で立ちも、生意気で反抗的な眼差しまでもくっきりと見えていた。

彼はあっけにとられたピットをその場に置き去りにして、さっさと先に行ってしまう。

途端に眠気も吹き飛んだ様子でピットは走りだす。

「ずるいぞブラピ! 抜け駆けなんてさせないから!」

「寝坊した時点でお前の負けだろ。戦場では一瞬の気のゆるみが命取りになる。そんなことも分からないのか?」

「少なくとも君よりは分かってるさ。なんせ僕の方がずっと年上だもんね」

勝ち誇り、胸を張ったピット。

しかしブラックピットはこちらを振り返り、呆れたような顔をする。

「……お前、その恰好で出るつもりか?」

「あ、忘れてた」

ブラックピットは一つ鼻で笑い、こう言ってきた。

「長生きしたせいで弛んでるんじゃないのか、じいさん」

「誰が後期高齢者だって?!」

食って掛かるが、相手は全く取り合わずに肩をすくめて行ってしまう。

記憶の中でピットは急いでパルテナに呼びかけ、何とか服装を切り替える奇跡を掛けてもらおうと交渉を始める。

『もう、あなたも良い歳なんですから……着替えくらい一人でできるでしょう?』

「それはそうなんですけど、今はのっぴきならない理由があるんです……! このままだとブラピに先を越されちゃうんですよ。せっかく昨日の任務で成績を追い抜いたのに」

『また次で取り返せば良いじゃないですか。それにあなたならきっと、自分の部屋に戻って着替えてから向かっても十分、現場に間に合いますよ。今回はどうやらターゲットが複数いるようですから』

「ほんとですか?」

『ええ、本当ですとも。あなたの女神を信じるのです』

厳かな声で告げられた言葉に、記憶の中の自分は勢い込んで頷く。

「分かりました、パルテナ様!」

そうして踵を返して走っていく自分だったが、その一部始終を文字通り至近距離で見せられていたピットはなんだか恥ずかしいような照れくさいような、居心地の悪さを感じていた。

――あぁ。傍から見るとこんな感じだったんだなぁ、僕って……。

今だって、別に女神に尋ねるまでもなく、あのモニターさえ見れば現場の状況は分かるだろう。

これまでにピットはナチュレやハデスといった神々から、パルテナへの熱烈な献身ぶりを散々からかわれたものだが、今更ながらその理由の一端が分かったように思っていた。態度を改めるつもりもさらさらなかったが、流石にばつが悪くなってしまい、彼は内心で顔をしかめていた。

 

今度の記憶は打って変わって静かなものだった。

彼はたった一人、巨大な鏡の上を飛んでいた。

視点が動き、地平線の方を見つめる。その先には青く蔭った山々のシルエットが見え、そこで彼は眼下の“鏡”だと思ったものが一面の湖であることに気づく。

しかし、その湖は自然に出来たものとも思えなかった。氷にしてはやけに平坦で、水だとすればあまりにも風が無さ過ぎる。まるで水の代わりに水銀でも湛えているかのようだ。

彼が上空を飛んでいっても銀の湖は静かに凍り付いており、どこまでも彼の姿をくっきりと鮮明に映し出し続けていた。

辺りには誰の姿も無い。自分の服や翼が風にはためく音しか聞こえず、しばらくその記憶を見せられたピットは言い知れぬうら寂しさを感じ始める。

あたりの景色も、ずいぶん作り物めいたものだった。見上げた空は雲一つなく、淡い青色が絵の具のようにのっぺりと広がるばかり。左右に見えている山並みも妙に色の淡い緑色で、まったくむらがない。

これほど退屈な景色なら、いつもの自分なら女神に語り掛けたくなってくるところだ。女神が取り込み中だったとしても、それはそれで独り言で何かを言っていてもおかしくない。

ところが妙なことに、この記憶の自分は妙に神妙な様子で口を引き結び、ずっとまっすぐに飛び続けていくのだった。

そんな飛行がしばらく続くうちに、記憶を見せられているピットの方が痺れを切らしてしまい、何かこの記憶について分かることはないだろうかと、思い切ってこの場面にいる自分の心を覗き込もうとした――

 

次の瞬間、別の記憶、別の自分に放り込まれる。

途端になだれ込んできた高揚、使命感、そして期待に揺さぶられ、危うく自分を見失いそうになる。

慌てて文字通り“我に返った”ピットが目にしたのは、四角い窓越しに広がる巨大な倉庫。正面の扉は大きく開け放たれ、その向こうに満天の星空が見えている。

自分の目と鼻の先にある“窓ガラス”はうっすらと緑がかって発光し、表面が細かく規則的に波打っているようだ。

そこまでを見て取った彼は、はたと気づく。

――違う。これ、モニターなんだ。

そう思っていた矢先、

『進路、クリア。システム、オールグリーン。メルクリウス、発進どうぞ』

自分の座る狭い空間に誰かの音声が鳴り響き、ピットは盛大に驚かされる。だが記憶の中の自分の方は当然のことのように、むしろ待ってましたとばかりに、こう応答する。

「了解! メルクリウス、発進!」

慣れた手つきでスイッチを操作する。彼のいる狭い空間、壁一枚を隔てた外側でエネルギーの唸りが高まっていく。

こちらの心の準備が間に合わないうちに、自分の手が操縦桿らしきレバーを前に押し込んだかと思うと、彼は自分が閉じ込められた小部屋ごと、凄まじい勢いで前へと飛び出していった。

加速の負荷が正面から襲い掛かる。だが、光の速さで走る馬車を駆った時に比べたら、こちらの方がましだった。

記憶の中の自分も負荷が少しずつ弱まってきたところで別のレバーを引き、進路を立て直す。薄緑色がかったモニターの中でも変化があった。流れゆく星空、広大な宇宙空間を背景に、窓の左上に半透明の板が表示される。映し出されたのは女神の顔。

『ピット、聞こえますか? 応答願います』

今の場面に調子を合わせ、すっかり乗り気の様子だ。

「こちらピット。感明ともに良好です!」

それっぽい受け答えで応えたピットに、パルテナは映像の中で可笑しそうに笑う。それからいつもの調子に戻ってこう語り掛けた。

『真・三種の神器“Mk.II”、うまく乗りこなせているようですね』

「いやぁ……今までほんとにたくさん練習させられましたからね。なんでしたっけ、あのシミュなんとかっていう装置で」

『シミュレーターですね』

さらりと答える女神。

「そのシミュレーターもそうですけど、このマークⅡになった真・三種の神器も、ずいぶん様変わりしてますよね……見た目もさらにシュッとしましたし、内装とか操作方法なんて、もはや別物です。中身はちゃんと今まで通り奇跡で動かしてるって言ってましたけど、外見からは想像もつかないです。ディントスも新し物好きですよねぇ」

『神とは言えども、常に流行の最先端を取り入れなければ時代の流れに取り残されてしまいますから。伝統を守りつつも、現状に満足せず、到達点に驕らず、取り入れるべきものは取り入れる。何事においても、そういう柔軟な姿勢とたゆまぬ努力が成長の秘訣なのですよ』

女神がそう言い終えた辺りで、窓の中に別の変化があった。

流れていく星々の中、ぽつりと暗く沈んだ空間が現れたかと思うと、徐々に大きくなっていく。それと同時に、パルテナの映った映像の他にも幾つかのパネルが表示された。

パネルに次々と映し出されていくのは、今のピットにとっては懐かしい面々。

『そいつがあんたの船か? へぇ、なかなか悪くないな』

ファルコがそう言い、モニターの向こうでも彼の乗機がゆっくりとこちらを追い越し、見物するようにコクピットを傾ける。

別の方角から追い抜いたのは、黄色い流れ星。カービィを先頭に、まるで凧あげの尻尾のようになって丸いひとびとが連なっている。パネルに映るピンクだまが、ぱっと顔を輝かせた。

『わぁ~ピットくんだ! やっほー! ねぇ、これどうやったの~?』

どうやら映像と音声の送受信について聞きたいらしい。

他にも見慣れた顔や、そうでない顔、様々な顔が彼の前に現れ、短い挨拶や敬礼をくれる。

その全部に応えきれないうちに、全ての表示が窓の端へと片づけられ、目の前の景色が再び大写しになった。暗い空間は今や他の星々を圧し、なおも貪欲に広がろうとしていた。

それを見つめているうちに、今まで聞こえた声のどれとも異なる声が響き渡る。

『総員、間もなくワームホールに突入する。各員、脱出後は先行班と連携を取り、まずは敵軍を分割し、各個撃破せよ』

声の主は、先ほど自分が発進した“母艦”にいるのだろうか。通信越しで分かりにくいが、その声にはどこかで聞き覚えがあるように思えた。

――キーパーソン? それともエリアで会った人だったかな……。

記憶をたどっているピットをよそに、“自分”は操縦桿を前へと押し込み、仲間とともに暗闇へと飛び込んでいき――

 

機体を揺さぶる騒音は、いつの間にか幾千とも知れぬ人の声、天をも揺るがすような歓声へと変化していた。

自分の目の前にあった薄緑色のモニターは透明で大きなガラス窓となり、その向こうには立派なスタジアムの全景が広がっていた。二階建ての観客席は一番上の席まで埋まっており、人々は横断幕や旗、思い思いのグッズをその手に持って、試合が始まるのを今か今かと待ち受けている。彼らの視線が注がれる先、スタジアムの中央には広大な舞台が浮かんでいた。

銀色の輝線で縁取られた紺色のコート。

その特徴に、ふと、既視感を覚える。

だがピットがその記憶の源にたどり着かないうちに、記憶の中の自分が目の前のマイクへと身を乗り出し、張り切ってこう語りだした。

「みなさん、こんにちは! 今日はここ、セントラルエリアの空中スタジアムから準々決勝の模様を実況していきます。解説は“天界の知恵袋”こと、パルテナ様です。よろしくお願いします!」

自分の視線が動き、隣の実況席に座る女神を映し出す。彼女はこちらに微笑みかけ、自分の前にあるマイクにこう答える。

「はい、よろしくお願いします」

いつもの神々しい姿でありながら、彼女は全く違和感なくスタジアムの風景に溶け込んでいた。

自分は再びマイクに向き直る。

「今、モニターの方ではグループステージのハイライトが映し出されています。今回は初出場のファイターも多く、なかなか予想のつかない試合運びになりましたね」

自分の見る向こう側、コートの上空に気球のような乗り物が降りてくる。気球はバスケットがあるべき位置に大きなモニターを六つも取り付けており、スタジアム内の全員が見られるようにゆっくりと回転していた。

モニターに映し出されている試合を眺めているこちらに、女神はちょっとからかうような口調でこう言ってきた。

「そうですね。私もまさか、あなたが予選敗退になるとは思いませんでしたよ」

「うう……面目ないです。でも次こそは、必ず優勝してみせます……!」

そう宣言したこちらをよそに、パルテナは涼しげな様子でマイクに向けて語り掛ける。

「さておき、決勝トーナメントにはグループステージで勝ちあがった各グループの上位2名、合計16名のファイターが進出しました。今日行われるのは準々決勝。ということは、今日は全部で8試合行われるのですね」

「パルテナ様、実況の台詞まで取らないでくださいよぉ」

自分の口がそうぼやくが、割合早く気持ちを切り替えるとこう続ける。

「それから、今回は17名なんですよ。アイスクライマーの二人がいますから」

「あら、これは失礼しました。あの子たちもなかなか頑張っているようですね。ここ最近のリーグ戦でも順調に成績を伸ばしていますから」

そんなやり取りをしているうちに、窓の外で動きがあった。

モニターを支える気球が浮き上がっていき、観客の歓声が一層大きくなる。

「選手入場です! 今、決勝トーナメントに選ばれた17名のファイターが次々とステージの上に現れています」

「参加者総勢100を超えるグループステージ、熾烈な闘いを勝ち抜いた猛者揃い。面構えが違いますね」

「あ、そんな表現すると音だけで聞いてる人が勘違いしちゃうじゃないですか。そんなにおっかない顔した人いませんよ」

「ええ。だいたいの皆さんは笑顔で手を振ってますね。あのように大一番で余裕をもって振る舞えるのも実力のうちでしょう」

スタジアムに満ちていたざわめきは少しずつ落ち着いていき、ステージの上に現れた小さな人影も徐々に一列に並んでいく。

ここからでは遠すぎて、他に誰がいるのかも分からない。目を凝らそうとしたが、記憶の中の自分は当然ながら言うことを聞かず、一呼吸を置いてマイクに向かい、改まった様子でこう告げる。

「さあ、決勝トーナメントの開会式が始まります」

 

場面はまたしても一瞬で切り替わり、彼は雑踏のただなかに放り込まれていた。

辺りはどこを見ても人、また人。真っ直ぐ歩くことすらままならない。用心深く見上げた先はほとんど建物で覆いつくされており、建物の隙間からかろうじて青空の切れ端が見えている。

煙の色にくすんだ青色の空。それを見上げる自分の視界には、上の方に何か布のようなものが被さっていた。どうやらこの記憶の自分はフードを目深に被っているらしい。

無言のうちに自分は再び俯き加減になり、足元を見ながら歩いていく。見えてきた自分の身体は、上も下も、いつもの服装とは全く違う服を着ていた。周りの人間たちと似た、少し砕けた雰囲気の服を着こんでいるようだ。

その肌触りまでもが伝わってきて、ピットの方は着慣れない服装に居心地の悪さを感じていた。一方、記憶の方の自分はこういう服装をし始めてから長いらしく、そういった気持ちは全く伝わってこなかった。

感じられるのは、強い警戒心。その下から僅かに、ぴりぴりとした苛立ちも顔をのぞかせていた。

いったい自分は何を警戒し、何に苛立っているのだろうか。

先ほどから自分は、俯きながらも時々、左右に素早く眼差しを送っていた。誰かこちらを見ていないだろうか、こちらに気づいていないだろうか。そんな思いがこちらの心にも流れ込んできた。

ふと隣が空き、視線を向けた先にはどこかの店のショーウィンドウがあった。そこに映り込んだ自分自身の姿は、灰色のフード付きのパーカー、さらにその上からサイズが二回りは大きそうな黒いジャケットを羽織り、紺色のジーンズを履いていた。背中には翼を隠すためか、ずいぶん大きなリュックを背負っている。もしかしてパーカーとジャケットの背中を二か所切って翼を通し、リュックに入れているのだろうか。

映し出された自分の顔はフードの下で口を引き結び、用心深げな眼差しを自分自身の鏡像に向けている。

立ち止まっていたのもつかの間、自分は顔を背け、再び人間たちの間を縫うようにして歩き始めた。

 

いつの間にか、彼は暗い廊下を走っていた。

彼方に見えてくるのは、白い光を湛えて扉の形に開かれた“転移の門”。

「ピット、出動します!」

掛け声とともに飛び込んでいき、その翼に飛翔の奇跡が施される。

目の前に一気に青空が開け、自分の体は風に乗って滑るように大空を翔けていく。

ようやくいくらか本来の記憶に近い思い出に行き当たったことに安心していたピットだったが、次に聞こえてきた声はパルテナのものではなかった。

『こうしておぬしを飛ばすのも久方ぶりじゃな!』

うきうきとしたナチュレの声に対し、こちらの声はずいぶん元気がなかった。

「できれば二度目は無いほうが良かったんだけどなぁ……」

『なんじゃ、そんなにわらわに借りを作るのが嫌か?』

「……」

記憶の自分は浮かない様子で黙りこくってしまう。どうやら突っ込み返す余裕もないようだ。

『なぁにをふさぎこんでおる。いつもの元気はどこにいったのじゃ、おぬしらしくもない。やる気がないのなら、今ここでおぬしの翼を手放してしまうぞ?』

その声に、ピットは慌てて下を見る。

どうやら天界に向けて飛んでいるらしく、地上ははるかに下にあった。

「えぇっ! そ、それだけは勘弁して!」

本気で慌てるピットをよそに、自然王は少し真面目な調子に戻ってこう呟く。

『まぁ、分からんでもないのう。今回の敵はまったく得体が知れん。神々のような力を持ちながら、それをどう使ってやろうという意思も、他に向けてこのような主張をしようという野心も感じられぬ』

「でも、それじゃあなぜ……」

『うむ。あのような事件を引き起こした以上、やつらがこの世界を疎んでいるのは事実じゃな』

やがて上に見えてきたエンジェランドの神殿は、淡く発光する障壁に守られていた。

「ああ、これもまたか……って、ちょっと待って! まさか、このまま突っ込ませる気?!」

『わらわもそうしてみたいところだったのじゃが、今回は助っ人を呼んであるのでなぁ』

「なんでちょっと残念そうなの……?」

『ほれ、おぬしの新しい知り合いの一人じゃ。今通信をつなげてやろう』

通信に第三者の声が入ってくる。

『ピット、今どのあたりまで来たんだ』

「あれ、その声はアイク?」

『こっちは障壁の目の前までたどり着いたところだ。辺りの敵はおおかた片づけたが、次が来る前には撤収したい。ずっと補給無しで上がってきたからな』

来てくれたのは彼一人ではないらしい。彼の声の背景では、聞き覚えのある人々の声が“通信”に紛れ込んでいた。

「上がってきたって、まさか地上からここまで?」

そこでナチュレが声をかける。

『雑談をしている暇はないぞ。おぬしも腹を決めよ』

目の前の神殿は刻一刻と大きくなりつつある。

それを見つめるピットに、ナチュレの声がこう言った。

『やつの張った障壁は、いうなれば“場”の変化を止め、摂動を沈め、静謐なままとするもの。つまり、それをかき乱せるような性質の力を真っ向からぶつければ、巨大な障壁をもかき消せる――』

「おおっ!」

『――はずじゃ』

空中でずっこけるピット。

「はずって……。でも、今はそれに賭けるしかない。アイク、頼んだよ!」

通信機の向こうから彼の返事は無かったが、彼はきっと無言で頷いていたことだろう。

そんなピットにナチュレがこんなことを言う。

『これ。タイミングを合わせておぬしを飛び込ませるのはわらわじゃぞ? わらわには頼まんのか』

「催促されるとなんだかなぁ。有難みが抜けちゃうというかなんというか……」

『ははぁ、おぬしはいわゆるツンデレというやつじゃな?』

「いや、微妙に違うでしょ――」

『あっ、こりゃ! よそ見をするでない!』

見る前で、金属を打ち鳴らすような音が鳴り響いたかと思うと、神殿をも覆いつくすような巨大な障壁が、わずかに揺れた。

ついでバリアの表面に青いひび割れが入ったかと思うと、割れ目から一斉に青い炎が噴き出し、障壁を侵食し、瓦解させ始める。

『今じゃ! ゆけっ!』

障壁が崩れていく様に見とれていたピットは、心の準備も間に合わず、無理な姿勢のままバリアの隙間に飛び込まされてしまう。

服がはためき、ケープが裏返って顔を乱暴に叩き、前が見えなくなってしまう。

荒れ狂う風が全身を打ち、ピットは手にした神器だけは手放すまいと、必死にその手を握りしめていた。

そうして耐えているうちに風はやがて和らいでいき、すっかり辺りは静かになった。

気がつくと、そこはすでに天上の神殿。

ピットは飛翔の奇跡で運ばれながら頭をぶるぶると振り、乱された髪を手でなでつけ、服装を整えながらも、気掛かりな様子で辺りを眺めていた。

パルテナがかつて混沌の化身に憑りつかれた時とは違い、神殿の周りは荒れ果ててもおらず、どころか塵一つ落ちていない。

誰の姿もなく、うら寂しささえ感じる神殿の道の上をゆっくりと飛んでいく。見知った場所の変わり果てた様子に心を痛めていると、記憶の自分の口が動き、ぽつりと呟いた。

「……光の化身ってきれい好きなのかな」

ナチュレの声がそれに対してこう返す。

『あの体でどうやって掃除をすると言うのじゃ。あの羽根を箒代わりに使うとでも? ……まぁ、今は宿主がいるから掃除も楽じゃろうな』

「あぁぁ、それを思い出させないでよ……」

途端に萎れてしまうピットにむけ、ナチュレが呆れたように溜息をつく。

『まったく、いつまでめそめそしておるのじゃ。情けない』

それから幾らか語調を強めて、発破を掛けるようにこう言った。

『今おぬしが横にいるのなら、わらわがその頬を張り倒してやるところじゃぞ! ここまで来るのにどれだけの助けを借りたと思っておるのじゃ。わらわだけではない、おぬしのともがらも大勢関わっておる! 涙を拭け、胸を張れぃ!』

その声につられて胸を張ってから、慌てて突っ込む。

「いや、泣いてないから!」

自然王はそれを受けて満足げに笑い、こう言った。

『よぉし、その意気じゃ。そのままやつを叩き出してしまえ!』

視界が開け、見えてきたのは神殿前の広場。

中央にはただ一人、光の女神が佇んでいる。

伏せられていた顔が上がるも、その顔には表情というものがない。ぼんやりと半眼を向け、その背後ではつぼみが開くような形で白い翼が開いていく。本来女神が有している翼とは異なる、四枚の羽。こちら側に向けられた翼の内側は、虹色に輝き、揺らめいていた。

ピットが睨みつけるのは女神ではなく、その背後――翼の付け根に居座る淡黄色の光球。

女神が頂くべき後光になりすました“存在”を見据え、ピットは神器の柄をきつく握りしめる。

「パルテナ様……。今、お助けします!」

 

 

 

そして気づけば彼は、再び虚空の浮島の上、ゲートの目の前に戻っていた。

 

ここがどこであるのかも、目に映る景色が何であるのかさえも理解する余裕もないまま茫然と立ち尽くしていた彼の頬を、何か温かいものが伝う。

反射的に拭ったところで、それが一筋の涙であったことに気が付いた。

「……な、なんで、僕は……」

呟いた声は、すっかり鼻声になってしまっていた。

ピットは慌てて指で目をこすり、涙の跡を消し去ろうとする。

そうしているうちにも心の中では、ありとあらゆる感情が押し寄せ、昂り、せめぎ合っていた。あふれんばかりの喜び、喪失の悲しみ、不公平から来る怒り、焼け焦がれるような懐かしさ……混沌とした感情は行き場を失って胸いっぱいに膨れ上がり、息苦しさを覚えるほどだった。

目頭が熱い。ぬぐった傍から視界がぼやけ、また涙となってあふれ出そうとする。自分が悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、それすらもよく分からない。

ありとあらゆる時と場所で歩み、人々と語り、共に闘い、様々な駆け引きをする自分の『思い出』。その記憶の中の“自分”が感じている思いが一気に込み上げ、訳の分からないほどに一緒くたになっている。

ピットは、これこそが自分から失われていた記憶、キーパーソンとの思い出だったのだと心を震わせていたが、奇妙なことに、彼は自分がそう感じることに当惑してもいた。

確かに、自分が目にした映像には一定の現実味が、“真に迫る”勢いがあった。だがそれでいて、自分はその前後の経緯を全く思い出すことができない。加えて、それらのエピソードはどこかしらが互いに矛盾しており、中には自分が確かだと言える過去の記憶と真っ向から対立するものまであった。

生き別れの兄弟を探していたら、我こそはと名乗り出る人物が山ほど現れたような心持ちだった。どれもが同じくらいの本物らしさと怪しさを備え、一向に決めることができないまま混乱ばかりが募っていく。

自己が幾つもの小片に分かたれ、それぞれがてんでばらばらに主導権を主張している。今の今まで『自分とはこういうものだ』と信じ、疑うことなど考えたこともなかった前提が崩れ、互いに相容れぬ過去、無数の自分を前に、今ある自分を見失いそうになる。

 

そんな彼を引き戻したのは、背後から聞こえたエインシャントの声だった。

「手荒な真似をして申し訳ありません。しかし、そうでもしなければあなたはあの扉を開けてしまっていたでしょうから」

その声に、この場にエインシャントがいたことを思い出す。

涙を振り飛ばすように強くかぶりを振り、ピットは背後に向き直った。

自分の気持ちを奮い立たせ、粉々になってしまいそうな自我をかき集めて、彼はエインシャントに立ち向かう。

「エインシャント、僕に何をしたんだ! あんな幻で、僕をどうにかしようったって――」

しかし、緑衣の男は被せるようにこう返した。

「ピットさん。お尋ねしますが、本来……“私”にはそんなことができるのでしょうか?」

「……いや――」

できない、と答えかけて――途端にピットは眉をひそめ、口ごもってしまう。

先ほどまで煮え立っていた怒りも、急速にしぼんでいく。

彼の直感は、エインシャントにはそんなことはできない、できるようには思えないと言っていた。だがそれでいて、そう判断するための記憶は一向に見当たらない。

だとしたらなぜ、自分はそれを“知っていた”のだろうか。

言葉を失ったように押し黙って立ち尽くし、戸惑い、自己の内を見つめるばかりとなった天使。彼のその様を見上げていたエインシャントは、やがて静かな口調でこう言った。

「先ほど私がお見せしたのは、ランドに残された“記録”をただ再生したものです。それを見て、あなたは様々な思いや感情を想起したことでしょう。ですが、それらはランドの記録には付随していないもの。いずれもあなたの内から自ずと湧き上がった感情であり、あなたの“記憶”に由来するものなのです」

それを聞き、表情に戸惑いを見せて顔を上げたピット。

言葉にされなかったこちらの問いも汲み取り、エインシャントは頷いてこう返す。

「ええ。違和感を感じるのも無理もありません。なぜなら、それらは今ここにいるあなたの過去ではなく、本来ならば消されていて然るべき、別のあなたの記憶なのですから」

「別の僕の、記憶……?」

呆然と、呟くように繰り返すことしかできない。

当惑するばかりの天使を前に、エインシャントはゆっくりと、それでいて否応なしに話を先へと進め始めた。

「そう。……かつてのランドでは、訪れるゲストの皆さんを飽きさせないために、各エリアでの『通常運行』とは別に、期間限定の特別なイベントを実施していました。それこそが、唯一無二のストーリーに沿った『シナリオ』。あなたが目にしたものは、かつてランドにおいて実際に開催されたシナリオの、一種の記録映像のようなものです。ご覧いただいたように、この世界において我々は多種多様なシナリオを演じてきました。本来の我々としての『有様』を遵守したものから、最低限の特徴を踏まえたものまで、様々な役をこなしてきたのです」

「でも……あれは僕の過去じゃない。だって、僕はあんなこと……」

戸惑い気味に、力無く反論する彼の言葉は自信なさげに立ち消えてしまった。

あれが本当に自分と縁のない記憶だというのなら、あれほどまでに強く込み上げてきた感情はいったい何だと言うのだろうか。

エインシャントは彼の当惑も受け止めるように、ゆっくりと首肯してこう答える。

「先ほど、私はそれらの記憶を『本来なら消されているはず』のものだとお伝えしましたね。シナリオの中にいる我々は、普段エリアにいる時の我々とはどこかが異なっています。ですから、一つのシナリオが終わりを迎えるたびに、そのシナリオでの記憶は消去される手筈になっていたのです。もちろん、一切の先入観無く、新鮮な気持ちで次のシナリオに当たれるようにというのもありますが、各自のエリアでの『通常運行』に戻った際に記憶の齟齬や予期しない言動を生まないためにでもあります。例えば……。そうですね。ピットさん、あなたにお渡しした封筒をよく見てください。そこにある印章のデザインを見て、何か思い出しませんか?」

半ば言われるがままに、しかし訝しげな顔をしながらピットは手紙を取り出す。

今までにもあの印章は何度となく目にしてきた。だが、これまでは一度も何も感じることがなかったのだ。

半信半疑の表情で白い封筒を裏返し、円に十字の印章を注視した彼は、ほどなくしてはっと息をのむ。

「――これ、僕、どこかで……」

ピットは唐突に、“手紙が届いた時”のことを思い出した。

それも一度きりではない。様々な時と場所で自分はその手紙を受け取っていた。

そこに入っていたのは、自分が“戦士”として選ばれたという招待状ではなかっただろうか。

一連の記憶を思い出した時、彼の口からこんな言葉が呟かれた。

「“スマッシュブラザーズ”……」

無意識から出てきた言葉に、ピットは自分で驚いてしまい、はたと口をつぐむ。

自分が突然、外国の言葉を口走ったような、そんな違和感があった。

それは、自分が持つ記憶の裏側から飛び出してきたような異質さをはらむ言葉。ピットが今まで歩んできた中で、一度も耳にしたことが無いと断言できる。だというのに、『スマッシュブラザーズ』という単語には言い知れぬ懐かしさを、燦然とした誇りと昂ぶりを感じるのだった。

突き付けられた矛盾に、ただ困惑することしかできないピット。

彼に対し、エインシャントはそれでいいのだと言うように頷きかけた。

「……そう。それは、あなたがこれまでにそうとは意識せずにこなしてきた無数の役割、その中でも特に大きな存在。それでいて“本来かくあるべき”あなたとはどこかで異なる存在。親衛隊の隊長であるあなたと、ファイターとしてのあなたは、相似であると同時に双璧を成す存在だとも言えるでしょう」

彼の言葉に淀みはなく、あたかもそれを公知の事実として語っているかのようだった。

ピットの耳にも彼の声は音として届いていた。だが、それが意味するところを理解できずにいた。

 

分からない。分かりたくない。

分かってしまえば、今ここにある自分が打ち崩されてしまう。

そんな確証のない恐れが次第に声を強めて胸の底から沸き上がり、彼の思考を妨げていたのだ。

 

表情に狼狽を露わにし、ともすれば目を閉じ耳を塞いで自分の内に閉じこもってしまいそうな様子の天使。

そんな彼を、エインシャントは、しばらく何も言わずに見守っていた。ただ静かに佇み、焦る様子も、苛立つ様子もなく。

どのくらい経った頃か、ようやくピットの動揺が幾分鎮まった頃合いを見計らってゆっくりと語り始めた。

「――かつて、まだランドにゲストが訪れていた頃のことです。各エリアは今ほど隔絶した姿ではなかったものの、基本的には独立しており、その中に暮らす人々は他のエリアを意識することなく暮らしていました。たまに『シナリオ』に動員されて外に出向くこともありましたが、ほとんどの方はシナリオには参加せずに自分のエリアにいる時間の方が圧倒的に長かったのです。あれだけのエリアがあれば、そこに暮らす全員に見せ場を与えるのは至難の業でしょうからね」

警戒を解こうと冗談でも言ったつもりなのか、そこでエインシャントはこちらに笑いかける。だが、天使の方はとてもでは無いが笑い返すことのできる余裕も、また食ってかかるほどの気合もなかった。

彼の様子を知ってか知らずか、エインシャントはそのままの調子で再び言葉を続ける。

「しかし、これにはいくつかの例外がありました。ごく限られた一部の人は頻繁にシナリオに参加し、時には特別な役目を担って本来のエリアとは全く異なる場所に赴くこともあったのです。その代表例こそ、スマッシュブラザーズの『ファイター』。選ばれた人には、ある招待状が渡される決まりとなっていました。赤い封蝋に、円と十字の印章――スマッシュブラザーズのシンボルが刻まれた封筒が」

『ファイター』『招待状』『スマッシュブラザーズのシンボル』。

それを聞いた時、自分の脳裏において手の付けようがないほどに散乱したパズルのピース、そのうちのごく一部がぱちりと嵌ったような感覚があった。

ピットは再び自分の手紙に、その封蝋に目を向ける。

「みんな、このマークに見覚えがあるって言ってた……失くした記憶の手がかりになるはずだって……」

そう呟いていた彼は、そこではたと気づく。

「……それじゃあ、キーパーソンっていうのは」

「ええ。皆さん、スマッシュブラザーズのファイターを経験した方々です。かつてはエリアを渡り歩き、力比べで腕を競い、時には特別な『シナリオ』を演じ、協力して冒険し、強大な敵を打ち倒し……そうすることで、ゲストの皆さんを楽しませていたのですよ」

エインシャントの言葉は、途中からほとんど意識に届いていなかった。

彼の言動を受けて呼び覚まされた記憶の奔流、そのただなかにピットはすっかり巻き込まれていたのだ。

アナウンスが自分の名前を呼びあげる声。スタジアムを埋め尽くす観客の歓声。一瞬のうちに目の前を過ぎ去っていく、無数の闘いの記憶――

しかしそれらの記憶は明らかに『今ここにいる自分』のものではない。先ほど自分が見せられた走馬灯と同様、いずれも自分が覚えている過去とは矛盾する出来事だと、確信をもってそう言える。

そう考えていた彼は、途中ではたと気がつく。

――待てよ? だとしたら、ファイターとしての僕、みんなと面識があった僕は……

動揺していたピットは、エインシャントの次の言葉に、我に返る。

「ですが、あなたにはいずれも覚えがないはずです」

さっと顔を上げた先、相手は落ち着き払った様子でこう続けていく。

「なぜなら、“今の”あなたは、私の依頼を受けるまではずっとエンジェランドにいて、そのほかに出掛けたことなど一度もなかった。スマッシュブラザーズという単語を耳にしたのも、そしてその招待状を受け取ったのも今日が初めて。つまり――」

その先を直感する。

言い知れぬ予感、戦慄にも近い震えが込み上げて、彼は相手の言を遮ろうとする。

「……やめて!」

しかしほぼ被せるように、まるで王手をかけるように、エインシャントは真正面から言い切った。

「――“今の”皆さんは、お互いに初対面なのです。どこかで共に暮らし、共に闘い、そして競い合ったのは“別の”あなただった。……見覚えがあると感じたのは、遠い過去に『シナリオ』を演じていた時のあなたの残像、消しきれなかった記憶の残渣、そこから来る“錯覚”に過ぎなかったのです」

 

その言葉に、ピットは急に強い孤独を感じ、全身に張り詰めていたものが抜け、今にも膝からくずおれそうになる。

 

否定したい。撥ね退けたい。だが、エインシャントの言葉には筋が通っていた。

そうだとすれば説明がつく。

彼から見せられた無数の記憶、ありとあらゆる時と場所でキーパーソンと共に歩む自分の姿と、それに対する大なり小なりの違和感。

これまでの任務において、何人ものキーパーソンから耳にした、自分たちがいつ、どこで出会ったのか分からない、あるいは『出会ったはずがない』という言葉。

ピットは先ほど目にした大量の『過去』と対比することによって、ようやく自分の過去が、本来の記憶がどのようなものだったのかを認識することができた。

自分は、思い出せる限りの昔からずっとエンジェランドに暮らし、光の女神が下した命のもと、人間を助け、妨げとなるものを浄化してきた。エンジェランドを一時でも離れたという明確なエピソードの記憶は、自分の中には欠片も無い。あれほどたくさんのエリアを巡った後でも、その状況は一向に変わらなかった。

自分の部屋や武器庫に、他のキーパーソンにまつわる所縁の品が一切無かったのも当然のことだった。そもそもそんなものは、今の自分は未だ手に入れていなかったのだから。

 

今ここにいる自分は、過去に一度も、皆を見たことが無かった。手紙を配る任務を与えられてようやく、初めて彼らに出会ったのだ。

だが、だからといって素直にそれを受け止める気にもなれなかった。それほどまでに彼ら、キーパーソンに対して感じる親しみは自分の心に深く、明確に刻まれていた。

 

理性と感情が対立し、混乱が頭の中で渦巻いている中、エインシャントの声が静かに、こちらの意識の戸を叩く。

「誠に申し訳ありません」

その声に、ピットは呆然としたままエインシャントの顔を見る。

彼は、深緑の帽子を被った頭を深々と下げたまま、こう言った。

「私はその既視感を……皆さんがファイター“だった”時の記憶を利用したのです」

やがて顔を上げ、こう続ける。

「それも全ては、あなた方に手紙を受け取ってもらうため。……ピットさん、あなたのように他の皆さんと“かつて”出会ったことがある方であれば、本来初対面であるにも関わらずキーパーソンの人々に既視感を覚えさせ、多かれ少なかれ『話を聞いてみよう、聞くべきだ』という思いを抱かせられるのです」

これを聞くピットは、表情に虚しささえ浮かばせてただエインシャントを見つめることしかできなかった。

これまでに自分が無数のエリアを巡ってキーパーソンを全員探し出そうと思えたのも、『親しみを覚える人々を理不尽な状況から救うため』。より一般的な、苦境に置かれた人間を救うという、女神の遣いとしての本来の信念、それを上回るものを彼らキーパーソンに対しては感じていたのだ。

それに、きっとそれは自分だけではない。

行く先々で出会ったキーパーソンの中には、手紙の内容を読み、ピットに様々な協力を申し出てくれた人もいた。また、エインシャントの依頼を受けてピットの配達に同行してくれた人もいた。彼らもまた、自分に言いしれぬ既視感を、親近感を覚えていたからこそ、あれほどまでに親身になって付き合ってくれたのではないだろうか。

 

しかしエインシャントは、それらが全て『錯覚』だったのだと、そう断言してしまった。

 

ただ立ち尽くすばかりとなった天使の目前、エインシャントは一呼吸を置き、帽子のつばの下からピットの顔をじっと見上げる。

「……思い出しましたか? 我々はこの世界において何度となく自分自身を刷新し、新たなシナリオを演じ続けていたのです。すべては、ゲストをもてなし、愉しませるため。ゲストのために創られたこの世界、扉のこちら側に広がる『ランド』こそが私達にとっての在るべき場所、いわば“現実”。あなたの求める、皆さんが帰るべき場所は、ランド以外にあり得ないのです。これで、お分かりいただけたでしょうか?」

決断を迫られ、ピットは言葉に窮してしまった。

懸命に言葉を探そうとするが、考えれば考えるほどに思考は空転するばかり。中途半端に開かれた口はやがて声を発せられないままに閉じられ、彼はきつく歯を食いしばる。今の自分に、エインシャントを真っ向から否定することはできない。彼が語ったこと以上に、はっきりと現状を説明できるような理屈を見つけることはできない。

だが、それでも――苦し紛れに彼は首を横に振る。

「見てみなきゃ……分からない。……だって、そうですよね? 仮に僕らが、このランドの中で色んな時間と場所を生き続けたんだとしても、あなたの説明は……どこかに僕らがみんなで暮らしてた“本当の世界”があるんだってことを否定できるものじゃない。今の僕がみんなと初めて会ったんだとしても、それが僕の本当の、あるべき本来の記憶とは限らない。本当にこの先に、この扉の向こうにみんなの、僕らの居場所が無いのかどうかは見てみるまでは分からないじゃないですか。……あなたはそれも否定するんでしょうけど、僕はこの目で見るまでは信じません。絶対に、諦めませんから」

エインシャントはしばらく何も言わず、ピットを眺めていた。

相も変わらず冷静な眼差しを、ともすれば無感情に見える眼差しが一度瞬きし、彼は僅かに顔を上げる。

「……あなたはどうしてもその先へ行くと仰るのですね。ですが、然るべき覚悟を持たずにその扉を開けるのはお勧めできません」

覚悟。

思いもよらぬ言葉を突き付けられ、動揺するピットにエインシャントは真摯な口調でこう問いかける。

「扉を開けた先、そこにはたった一つの答えが待ち受けています。その唯一の答え、真の“現実”があなたの見てきたどのエリアとも一致しなかったとしたら……。あなたはその真実に耐えられますか? それでもあなたは、その扉を開けますか?」

丁寧でありながらも、真っ直ぐな思いが込められた声音。

ピットは戸惑い、自分の背後にそびえたつ扉を見上げていた。が、やがて扉から離れるように後ずさって距離を取る。

巨大な扉を見上げることができるくらいまでに後じさりすると、ちょうどエインシャントと並ぶ形になった。

傍らに立つエインシャントが帽子を上向かせ、こちらに向けて静かに尋ねる。

「ピットさん。あなたはあの扉の向こうに、どのような世界が……いえ、どのような現実が待ち受けているとお考えですか?」

「どんなって言われても……」

「問い方を変えましょう。ピットさん、あなたはあの扉の向こうに広がる光景として、どのようなものを想像していますか? あるいは、どのエリアに一番近い光景を予想しているのでしょうか」

「それは――」

『エンジェランド』と真っ先に言いそうになって、ピットははたと口をつぐむ。それが自分の願望と、少なからぬエゴから来たものであることに気づいたのだ。

エインシャントも、まるでこちらの胸中を見透かしたかのようにこう言う。

「あなたの歩んだ旅路を思い出してください。あなたが見てきた世界は、あなたの暮らしていたエンジェランドと比べてどうでしたか? どれも、“見たことのない”世界ばかりだったでしょう」

確かにそれは彼の言う通りだ。しかしそれでは彼は、ありとあらゆるエリアの光景が共存する世界は、現実ではありえないと言いたいのだろうか。

ピットはとりあえず相手の言ったことに用心深く首肯しつつも、こう返す。

「はい……でも、現実のエンジェランドからとても遠く離れてたなら、おかしな話じゃないですよね。僕が見る機会がなかったってだけですから」

「それはそうかもしれませんね。では、これはどうでしょう? あなたの行ったエリアの“文明”については。エンジェランドとそう変わらないところもあれば、かなり風変わりな技術のある世界も、はたまた非常に科学技術の進歩した世界もありましたよね。まるで時代や世界そのものが異なるかのように」

ピットは否定できず、渋々頷く。

「……でもそれにしたって、例えば元々別の星にいたとかなら良いじゃないですか」

「確かにそうでしょうね。ではその場合、あなたを含むキーパーソンがお互いに見覚えがあったのは、なぜでしょうか?」

「それは、僕らがランドに閉じ込められる前に――」

『他の星に行けるような文明のキーパーソンが、他の皆を招待したのだ』と言いかけて、彼は口をつぐむ。

これが成り立つには、少なくとも“自分が他の星にも行ったことがある”という記憶が必要になる。それも、先ほど見せられたシナリオのような風変わりなものではなく、真に自分の過去だと言えるようなものが。だが当然ながら、思い当たる節はない。

さらに言えば、そんな交流があったのだとしたら、キーパーソンの他にも互いの世界の存在が広く知られていたはず。

エインシャントが指摘したように、今まで目にした世界の中には非常に技術が進歩したところもあった。そしてピットは、人間の貪欲さをよく知っている。それが良くも悪くも、彼らの繁栄を支えてきたのだ。そんな人間たちが他の文明を圧倒するほどの力を持っている時、平和的にせよ一方的にせよ一切の干渉をせず、外交も貿易も行うことなく他の地域を放置するとは考えにくい。

理由が見つからないのは、自分の記憶がまだ不完全だからだ、本当の世界に関する記憶が失われているからだと思いたかった。だがそれを肯定する証拠も、否定する証拠もない。結局は自分の願望に沿わせた、辻褄合わせでしかない。

今、自分の手元にある記憶から推量するのなら、こういうことになる。『自分たちが元々いた本当の世界』があり、かつ他のキーパーソンと交流があったのもその世界でのことだとするのなら、文化が違うのならまだしも、技術の発展度合いからして大幅に毛色の違う複数の世界が競合することなく共存していたのだと。そんな結論に行きつき、ピットは言葉を見失ってしまう。

視線を泳がせ、彼はほとんど独り言のようにつぶやき始める。

「僕らが本当に知り合いだったなら、やっぱり……元々皆同じ場所にいたんじゃ……、いや、でもそれじゃあ変だ。剣と魔法の世界と、科学と技術の世界が隣り合わせになるなんて、どう考えてもありえない」

エインシャントは静かに頷く。

「あなたの考える『世界』を実現するには、より小さな世界の間を区切る障壁が必要です。どんなに高度な文明でも、あるいはどれほど超越的な力を持つ存在でも破ることのできない、絶対的な障壁が。そうでなければ、一方が他方を瞬く間に侵食し、独自性は急速に失われていくでしょう」

「障壁、それって……さっき僕が解いてきた“暗号”みたいな……」

と言いかけて、彼ははたと気づく。みたいな、ではなく、あれこそがまさしくエインシャントの言う障壁の条件を満たすものであることに。

「まさしく。ランドの方の『障壁』に備わっているのは、各エリア固有の法則を担保する機能。それによってエリアの独自性と自立性を保っているのです」

その言葉に、ピットはふと我に返る。彼の説明に、心当たりがあったのだ。

「エリア独自の法則? それって、物理の法則とか……ですか?」

そう言って傍らのエインシャントを見おろすと、彼は一つ頷いてこう返す。

「ええ、もちろんそれも含みます。あなたの目から見れば物理的にありえないような建造物や、理屈に合わないように見える現象。エリアを巡る中で様々目にしてきたことと思います。しかしそんなことは現実ではありえませんよね? そもそも宇宙というのはある一つの法則に基づいて発生するもの。だから一つの宇宙に対し、物理法則は一種しか存在し得ません。我々の居場所がそれぞれの法則を保ったまま同じ宇宙に共存することは、物理的観点から言って“現実的ではない”のです」

そこで彼は、ピットの方に身体ごと向き直る。

「そのほかにも、ランドの障壁には重要な役割があります。それは、エリアごとに独自のルールが保たれるようにすること。ここで言うルールは物理法則ではなく、ある種の決まり事と捉えてください。平たく言うと、障壁はエリアごとのルールが混ざることを防ぎ、そのエリアで起こりえないことは起こらないようにする――そういった辺りですね。本来は障壁によって、別のエリアのルールが持ち込まれることはありません。しかし、もしも何らかの細工によって他のエリアのルールが適用されようとすると……おそらく、あなたも何度か聞き覚えがあるはずですが――」

彼の右の手が人差し指を立ててみせた次の瞬間、鋭い金属音が辺りの空気を乱雑に引き裂き、ピットは思わず耳を抑えて身をすくませた。

その音は、今までに幾度も耳にしたことがあった。

カービィ達のエリアで“悪しき心を実体化させる”とも言われた鏡に、その身を映し出されそうになった時。

エリア外から飛び込んできた亜空砲戦艦が、ピット達のいたエリアを破壊しながら現れた時。

ネスの心が作り出した国、“お前では行きつくことはできない”と明言された心の深部に飛び込もうとした時。

耳障りな不協和音を聞いたピットの脳裏に、その時の瞬間が鮮明によぎる。

過去を見つめ、共通項を見出そうとするピット。しかし、先にエインシャントが答えを与えてしまう。

「――これは二つ以上の矛盾する決まり事、すなわちルールがぶつかったときに発生するノイズです。あなたにお渡しした“バッジ”には、ある程度まであなたの所属するエリアのルールを押し通したり、そのエリアのルールを無効にする機能を持たせていたのですが、スムーズに押し通せるレベルにはどうしても限界がありまして……あなたのエリアのルールと行き先のエリアのルールが互いに一歩も引かないまま、衝突してしまうこともあったわけです」

「ルールの衝突した音が、さっきの金切り声だったんですか?」

「そのような理解で構いません。無理を通された障壁があげる悲鳴、ともとれるでしょうね。一方で、うまくバッジの力で押し通せた場合にはこういったノイズが発生することはありません。普段何事もなくパルテナさんの奇跡が届いたり、あなたの神器を呼び出せたりしたのは、あなたの周囲に限り、そのバッジで“エンジェランドのルール”を押し通せたからなのです」

その説明を聞き、ピットは気が付く。

「そうか、だから僕がバッジを付け外ししたら奇跡が……」

かつてパルテナはピットに対し、バッジが無ければ奇跡を届かせるのもままならないと明かしていた。

マリオ達のエリアでその言葉の意味に気づいて以来、ピットは一時的に奇跡を解除したいときに自主的にバッジを外すこともあった。

また亜空砲戦艦では、バッジを奪われたことで神器を出し入れするための奇跡を失ってしまい、しばらく丸腰で切り抜けなければならなかったものだ。

エインシャントの言を取るのなら、本来ならば障壁を越えた先ではあの状態が通常であり、エンジェランドに由来する物事――奇跡を働かせられたのは特別なことだったのだ、ということになる。

超越的な力を持つ存在――光の女神でさえも、エインシャントの手助けなしでは別のエリアにピットを送り込むことも、奇跡による援助をすることもできなかった。女神はいつか、それを指して『物理的な距離が遠いからだ』と言っていたが、あれはおそらく方便だったのだろう。実際には、『障壁』によって本来ならば女神は干渉できないから、だったのだ。

そこにたどり着いたピットは、困惑も露わに呟く。

「でも、そんな障壁……それこそ夢の中でもなきゃ、あるわけない。パルテナ様の奇跡まで遮ってしまうなんて……」

と、彼ははたと目を見開く。

それから、恐る恐る傍らの緑衣を、エインシャントの方を見る。

「じゃあ、あなたは、障壁を無視して僕らを別のエリアに送り込んだり、他のエリアの法則を持ち込ませていたってことですよね……?」

躊躇っていたピットは、やがて決心し、思い切って尋ねかける。

「あなたは――一体、何者なんですか」

エインシャントがふっと笑う気配があった。

彼は帽子を傾かせてこちらを見上げ、温和な声でこう返す。

「私は、皆さんと同じですよ。決められたエリアに住み、ゲストの皆さまが楽しめるよう、定められた役割をこなしていました」

そして彼の右手が動き、自然な流れで帽子を脱ぐ。

彼があまりにもあっさりと素顔を明かすつもりであることに、かえってたじろいでしまったピット。だが本当に驚いたのはその後だった。

現れたのは人間の顔ではなく、生き物の頭ですらなかった。

金属で造られた扁平な箱型の頭、双眼鏡のような一組のレンズ。それが円筒状の首に支えられてこちらを見上げていた。

唖然としていたピットは、己の内から驚愕が過ぎ去った後にも未だ残っている感情があること、それが既視感であることに気が付く。はっとして、今しがた脳裏からよみがえった彼の本当の名前を呼ぼうとした――が、エインシャントは金属の瞼を少し細めて笑い、再び帽子を被ってしまった。

「驚きましたか? それとも、もうすでに薄々お気づきだったでしょうか。……ただ、今の私はそれだけではありません。『保全者』の補佐という、新たな役割を担っているのです」

そう言って彼は、まるでこちらを迎え入れるような仕草で、宙に浮く白い両手を広げて見せる。

そんな彼を前に、ピットは戸惑ったように目を瞬いていた。

「保全者……? それは、タブーや亜空軍とは別物なんですか?」

エインシャントはそれを聞き、少しして「ああ」と合点がいったような声を上げた。

「そちらを想像されますよね。ええ、もちろん別物です。タブーは私とは異なる役割を与えられ、それに従って行動しているのですから」

「え……?」

亜空間を自在に渡り、無尽蔵にしもべを生み出せると言われていたタブー。あの“巨人”までもが、何らかの存在に従っていたというのか。

到底信じることのできない言葉に、ピットは受け止める以前のところで立ち止まってしまい、それ以上先へ進むことができなくなっていた。

そんなこちらをよそにエインシャントは、さらに続けて何かを言おうとしていた。ピットはそれに気がつき、手で押しとどめるとともにこう言った。

「――ちょっと待ってください!」

エインシャントは素直にこちらの言うことを受け入れ、話を待つ姿勢になる。

対するピットはしばらく苦渋の表情で俯き、自分が何を知っていて、何を知らないのか、そしてそのうえで何を主張したいのかをまとめようとしていた。

しんと静まり返った浮島の上に佇み、じっと黙りこくって頭を働かせ、考えを煎じ詰めていく。

やがて彼は顔を上げ、言葉にためらいを混じらせながらも、相手に向けてこう告げた。

「……まだ、あなたの言うことを信じたわけじゃありません。ランドが僕らの本当の居場所だってことも、この扉の向こうには僕らの居場所が無いんだってことも、まだ信じてない。……でも、最初から話してくれませんか。あなたが何を知っていて、どういうつもりで僕らに報せたのか」

エインシャントはそれを聞き、ふと微笑むように目を細めた。

「最初から、ですか。いささか長い話になりますが、構いませんね?」

「構いません。でも、僕が分かるまでちゃんと説明してください」

「承知いたしました。それでは――」

 

芝居がかった仕草で衣服をふわりと翻し、エインシャントはエントランスエリアの方向へと歩いて行く。

浮島の端に立ち、彼は小さな背をすっと伸ばす。星降る夜空の向こう、明るい輝きをあふれさせるランドの入り口を背景に、彼は両手を大きく広げた。

 

「始まりの日。それは私にとって何の変哲もない、いつもの日々と寸分違わぬ『何もない』日になるはずでした」

その声が朗々と響き渡った途端、二人の周りで世界が動き出した。

自分の感覚では一歩もその場から動いていないはずなのに、エントランスエリアがある方角から白い光が見る見るうちに接近し、二人はその向こう側へと飛び込んでいた。

少し前に自分が通り抜けた道のりが逆回しになって前から後ろに駆け抜けていく。立派なアーケード街もぼやけて見えるほどの速度で通り過ぎ、街の通りを次々と曲がり、そのたびに視覚と平衡感覚のずれがピットを襲い、その場でふらふらと足元をためらわせてよろけそうになっていた。

ちょっとスピードを緩めてくれないかと頼める余裕も無く、歯を食いしばって耐えていたピット。

幸い目的地にたどり着いたらしく、ピットが限界を迎える前に辺りの風景はあるところで落ち着き始めた。

全く平静そのものの声で、エインシャントが口を開く。

「その日もエントランスエリアは晴れ。雲量2から3、ほどよい量の綿雲が空に浮かび、のどかに流れる日でした。ちなみに、これはこのエリアにおいて最も出現確率の高い天候です」

二人の目の前に広がっているのは、彼の言葉通りの青空と、エントランスエリアの町並み。道行く人々がそれぞれに“街の人”を演じている。

おおむねピットが見てきた時の様子と同じだったが、少し眺めるうちに違いが見えてきた。

それは、街角に点在する“ロボット”。彼らはさりげなく風景に紛れるようにして通りのそこかしこにおり、手持無沙汰そうに空をぼんやりと見上げていたり、誰かを探すようにゆっくりと頭を左右に動かしていた。

「あそこにいるのが“私”です」

そう言って手袋をはめた手で指さしたのは、他のロボットと全く見分けのつかない姿をした一体。

「あれがエインシャントさんなんですか? ……まだ、その服は着てないんですね」

「ええ。まあ、あちらが我々の本来の姿ですからね」

彼は笑いを含んだ口調でそう応える。

「――さて。ご覧の通り、当時の私は他の“私”達と同様、ゲストがいつ問いかけてきても良いように準備を怠らず、困っているゲストがいればすぐに馳せ参じられるように備えていました。来る日も、来る日も」

彼の説明に呼応して、時が移ろい始める。通りの上で日は傾き、街路樹や建物の影は滑るように伸びていく。青かった空は夕暮れの橙色に、さらに夜空の藍色へと移り変わっていく。

道行く人々はロボットたちの姿など見えていないかのようで、誰一人として彼らに声をかけたり、目を配ったりすることなく通り過ぎるばかり。やがて“閉園”を知らせるアナウンスと音楽が流れ始め、ロボット達は三々五々、建物の隙間から闇の中へと消えていく。

エインシャントとなるロボットも仲間たちと共に路地へ帰ろうとしていたが、そこでふと立ち止まり、ゲートがある方角を眺めた。

「いつの頃からでしょうか。私は、夜が来るたびにこう思っていたのです。『ああ、今日も誰も来なかったな』と。そして、ほんのちょっとした疑問から――」

二人が見つめる先で、ロボットの姿のエインシャントが目を閉じる。

再びその目が開かれた時、瞳に青い光が灯ると同時に辺りの風景が一変した。

彼の立つ地点を中心としてエントランスエリアのあらゆるものが同じ色調の青に染められていき、輝線で囲われた立体に変化する。

――これ、サムスのエリアで見たことある……! たしか拡張、現実……?

記憶を思い起こそうとしているピット。そんな彼を置き去りにするように、エントランスエリアが急にぐっと縮まっていき、明るい青色のうねりの中に見えなくなってしまう。

昔のエインシャントは依然として彼らの見る前におり、様々な数字や記号が浮遊する無辺の海の中をどこかに向けて進んでいこうとしていた。

「……何をしているんですか?」

「現在の時刻を見ようとしているんですよ。“我々”は『案内役』としての役割上、ランドのあらゆる情報を検索できるようになっていました」

「僕の知ってる検索方法とは全然違うんですけど。これじゃ、まるでSFみたいじゃないですか」

未知のものへの警戒をにじませてそう言ったピットに、エインシャントは落ち着いた口調でこう答える。

「視覚的イメージの方が色々とわかりやすいのですよ」

「分かりやすい? 僕は目が回りそうです」

不満げに言うと、相手はふっと笑った。

「何回か練習すれば、きっとすぐに慣れますよ。空を縦横無尽に飛び回って弓矢を放つあなたのことですから」

そして彼は一息置くと、再び解説を始めた。

「かつての私たちは、この情報の海に頻繁に潜ってきました。そうでなくては、ゲストの皆さんに最新の情報を誤りなく伝えることができませんからね。でも、本来その機能はゲストのためだけに使われるべきものだったはず。どうやら私は、他の私たちに比べるとほんの少しだけ自意識が強かったのかもしれません」

一心に情報の海を進んでいく過去の自分に懐かしそうな目を向けたまま、彼はこう続ける。

「ゲストが来たならば歓待しよう、情報を望まれれば惜しみなく与えようと、役に立つ準備をしているのにもかかわらず、誰一人としてゲストが訪れない日々。来る日も来る日も待ちぼうけているうちに、私はふと、自分の存在意義についてそこはかとない疑問を抱いたのです。自分はいつから、なぜこんなところにおり、来る見込みのないゲストを待ち続けているのか。自分は何のために存在するのか、と……」

「それで、今の時間を?」

「ええ」

やがて思い出の中のエインシャントの前に、巨大な数字が立ちはだかる。

角張った数字たちは寸分のずれもなく、不可視の平面に沿って整列している。一番左だけが四桁で、残りは二桁の数字たち。後ろの方は「分・秒」と思われる振る舞いで動いている。とすると残りは時、日、月、そして年――

目で辿っていたピットは、じきに違和感を覚えて眉をひそめる。

「あれって……どういう『暦』を使ってるんですか? 一番左って、この並びなら多分何年っていうのを表してるんですよね。わざわざ四桁も用意してあるのに、上の二桁を全然使ってないのは変です。四桁だったら普通、千何年とか、二千何年とか、そのくらいの暦で使う桁数ですよね」

「良いところに気づきましたね」

エインシャントはそう言って、0が二つ並んだ年数表示を眺める。

「あれは、表示しきれなくなったのです。“オーバーフロー”と言いまして、本来想定されていなかった五桁目に突入したために、あのような数値が表示されているのです」

「五桁目って……」

はたと気づき、ピットは驚愕に目を丸くする。

「――い、一万年ってことですか?! いったいいつから数えてるんですか、この暦! 新石器時代? それとも旧石器時代……?」

「どの暦を使っているのか、ですか……調べることもできますが、あまり意味はないでしょう。この時間情報を設定するときに『五桁目を想定していなかった』。それさえ分かれば十分ですよ」

「想定していなかった……?」

「ええ。想定していなかったのです」

どこか遠くを見つめるような目をして、エインシャントは頷いた。

二人が眺める先で、ロボットの姿のエインシャントは慌てた様子で情報を手繰り寄せては目を通し、辺りに散乱した情報群の中を何かを探し求めるように右往左往していた。

「明らかな異常は、時間の他にも見つかりました。あれは……ああ、ゲストは本当にどこにもいないのかと、各エリアの情報を検索しているところですね。しかし――」

宙に幾つもの青い窓が開く。ピットには見慣れない文字と図形で何かの情報が映し出されていたが、赤い点滅が意味するところは何となく理解できた。

エインシャントもこう説明する。

「エントランスを除き、どのエリアも完全にアクセス不能。すなわち、今エリアの中がどうなっているのかを知ることができない状態だったのです」

彼の説明に、ピットの脳裏にふとエンジェランドの書物庫で見た光景がよみがえった。『渡航不可』と短く記された文章の羅列が。

エインシャントはピットの様子には気づかず、こう続ける。

「ただ少なくとも、ゲストがランドに出入りする際には必ずエントランスを通る仕組みになっていましたから、ランドを入った人数と出た人数を調べることはできました。そしてその計算結果は、プラスマイナスゼロ、だったのです」

「それって……いつから、だったんですか?」

「最短でも何千年前。ただし、それ以上の可能性も十分にあります。基準となる『現在の時刻』がオーバーフローによって当てにならない以上、推定しかできませんでした」

「何千年……」

まだ警戒の表情で、そう繰り返すピット。

そんな彼の傍らから、エインシャントの声がこう明かした。

「さらに……恥ずかしながら、私はこれ以前からこのくだりを何度となく繰り返していたのです」

驚いて振り返ったピットに、彼は幾分申し訳なさそうに声を落としてこう続ける。

「当時の私はそれに気付くことなく、いつも今回が初めてというつもりでここに来ていました。そして毎回、『ゲストが来なくなってから、あまりにも長い時間が経ちすぎている』――そういう結論に至るのですが、何かしらの防衛機制が働くのか、エントランスエリアに戻る辺りで知らぬ間に記憶からその事実を消去してしまうのです」

そこで彼は一呼吸を置き、背筋を伸ばす。

「……しかし、この日は何かが違っていました」

様々な情報をかき集め、片っ端から目を通していたが、手詰まりであることを認めざるを得なくなったのか、ロボットは茫然と天を仰ぐ。

心なしか肩を落とし、悩む様子で海を漂い、彼は元の自分がいたエリアに戻ろうとしているようだった。

しかし青い電子の海が収束して姿を現したのは、エントランスエリアの街並みではなかった。

 

そこは陽光降り注ぐ、静かな庭園。

二次元の幾何学模様を描いて広がる生垣。短く刈り揃えられた芝生。色ごとに整理され、それぞれの花を咲かせる花壇。几帳面に並べられた飛び石の左右には、まだ青い実を実らせた果樹が整然と並んでいた。

庭園には、姿のはっきりとしない人影が一つだけあった。それは青々と葉を茂らせた周りの植物を網で囲い、まだ青い果実を収穫し、装飾物を片付けていた。

その“庭師”がロボットに気が付き、白い手袋をはめた手で麦わら帽子のつばを上げ、にこりと笑う――実際には顔も見定められないくらいぼやけていて、笑った口元さえもどこにあってどんな形をしているのか分からない。

だが、それでもピットには庭師が笑っているのが『解った』。

のっぺらぼうの庭師には、旧知の友人のような親しみと同時に、底知れぬ畏怖を感じた。

 

固唾をのみ、ようやくのことでピットはこう問う。

「あれは……いったい、何の神なんですか?」

これを聞き、エインシャントは含み笑いをした。

「神ですか。あなたらしい解釈ですね。確かに、ランドにおいてはそう呼ばれてもおかしくないほどの権限を持っていますが……しかしあれは、神というには無欲で、どこまでも従属的な存在です。その証拠に、あの存在は自らを指してランドの創造者や造物主だとは言いませんでした。その代わりに、自分のことを『全てを保つ者』、保全者だと名乗ったのです」

「全てを、保つ……?」

「ええ。保つ、つまり保護する、維持する、修理する。そういったことを想像してもらえれば結構です」

ピットはそこで、庭師がその手に着けている手袋のデザインに見覚えがあることに気が付く。

今のエインシャントが着けているものと似ているような――と思う間もなく、隣でエインシャントが話を先へと進めていく。

「本来なら我々には直接干渉したりしないはずの『保全者』が、あのようなアイコンを纏って姿を現した理由は、私には分かりません。もしかすると、明らかに『役目』から外れた行動を何度も取っていた私に関心を持ったのかもしれませんね」

二人が見守る先、ロボットは慌てた様子で辺りを見回していたが、やがて決心し、庭師の方に恐る恐る近寄っていった。

仕草からすると、どうやら何かを問いかけている様子だ。しかし言葉は聞こえてこない。

「なんて言ってるんですか?」

「『ここはどこか、こんなエリアがあることはデータにない』『あなたはゲストではないようだが、誰か』『ここで何をしているのか、それはあなたの役目なのか』そういったことを矢継ぎ早に聞いていますね。――ああ。音声としては聞こえません。テキストメッセージとして、とにかく投げかけているところです。相手がゲストではないようなので、届くかどうか自信はありませんでしたが」

「それって……ほんとは、あなたは喋れないってこと――」

エインシャントは人差し指を立て、静かにするように促す。

もう片方の手で指した先、場面が動き始めていた。

庭師は何も言わず、答えの代わりに、手にした青い果実を差し出す。

やがて彼がゆっくりと手を離すと、果実は宙ににとどまり、驚くロボットの目の前で半透明の球体となって膨れ上がり、二人を、庭園をのみこんで広がっていった。

果実の中にあったのは、どこかの風景。人も動物も、凍りついたように動かない。

彼らの周りを、様々な風景が回り、踊るように通り過ぎていく。

「これは……エリア、ですか? それにしてはなんだか小さいような気もしますけど……」

訝しげに聞いたピットに、エインシャントはこう返す。

「ああ、そういえば……それに答える前に、“エリア”という言葉の定義について明確にしておいた方がよいでしょう。エリアとは本来、一つながりだった頃のランドにおいて、それを区切った小区画のことを指す言葉なのですが……ピットさん、実はあなたが見てきた“エリア”はそれらよりも遥かに小さいものとなっているのです。エリアと呼んでも間違いではありませんが、現在は多くとも数%、ほとんどはそれ以下の領域しか残っていません。ですから、正確にはエリアのなごり、と考えていただいた方がよいでしょう」

パルテナから、本来のランドは一つながりだったとは聞いていたものの、そこまでエリアが小さくなっていたとは思っていなかった彼は驚愕に目を見開く。

「え……あれで“なごり”?! いやいや、冗談ですよね。だって……星を丸ごと含んでたエリアだってあったんですよ? それで数%しか残ってないだなんて」

「ランドは現実には存在していませんから、広さは理論上いくらでも広げることができるのですよ。もちろん、それ相応の資源が必要になりますが……」

重大な事をさらりと言う彼だったが、ピットの耳にはほとんど届かなかった。再び辺りの光景が大きく変化し、ピットは思わずそちらに注意を向けていたのだ。

観覧車のように、あるいはメリーゴーラウンドのように回っていた、凍り付いた風景。それらが再び収縮していったかと思うと、摘み取られた青い果実であったり、網に覆われた木々であったり、片づけられた装飾物であったり、そういったものに変化していった。

それを見ていたピットの目に、ふと理解の色が浮かぶ。

「……もしかして、この庭はランドを表してて、さっきのは『片づけられた』エリアの一部だったんですか?」

「さすがピットさん。飲み込みが早いですね」

エインシャントが頷きかける。

「仰る通り、あれらは保全者によって停止された領域です。エリアをエリアたらしめる『情報』を長期にわたって保存し、損なわれないようにするための準備。それを保全者は、冬囲いのような光景として抽象化し、私にも理解できる形に落とし込んで見せたのです」

彼が言ったことの半分も理解できなかったが、ピットは困惑の表情をしつつもこう尋ねる。

「でも……なぜですか? 木の葉っぱも青いし、果実なんてまだ熟してもいないのに、もう冬囲いだなんて気が早すぎませんか」

「あの時の私も、そう問いかけたのです」

エインシャントが見やった先、ロボットがもの問いたげに見上げる前で、“庭師”がそれに応えるように空を指し示す。

 

やがて落ちて来たのは、雪のひとひら。庭師はそれを手のひらで受け止め、静かに握りしめた。

途端に辺りの時間が急速に進み、庭園に季節外れの冬が訪れる。

まだ青さを残したままの庭園、そのすべてが降りしきる雪の中に塗り込められていく。

雪は木々や花を覆うのみならず、溶かし、侵食し、そして何もかもを空へと昇華していく。

 

かけがえのない財産としてその眼に映った庭園の芸術。その全てが否応なしに損なわれ、失われて行く様。

精緻を誇る庭園が一様な空白に置き換えられていく中、それを眺める保全者は感情を露わにせず、全てを定めとして受け入れるように立ち尽くしている。

ロボットも途方に暮れた様子で空を見上げていると、やがて光景は瞬きするうちに再び元の緑の庭園に戻り、保全者はロボットに背を向けて黙々と『冬囲い』に取り掛かり始めた。

雪はよく見ると、今でもちらちらと降っていた。

「さっきの……どういう意味なんですか」

「……止めることのできない時間の流れ。それが近い将来、本格的に『ランド』の外から到来し、全てを無に帰す。保全者はそう伝えたのです」

「ランドを、無に……?」

予想をはるかに上回る言葉に、宣言に、ピットはただ茫然としてそう繰り返すことしかできなかった。

「ええ」

短く応えて頷いた彼に、わけがわからないまでも、なんとか食いついていこうとしつつピットはこう問いかける。

「で、でも、あの冬囲いさえやっておけば大丈夫なんですよね。どこか安全なところに仕舞っておけば、消えることも……」

「……そうだと言えたならどれほど良いでしょう」

静かな口調でありながらも、エインシャントはそこで初めて、その声に深い悲しみを露わにした。

「保全者は包み隠さず、私に伝えました。ランドを取り巻く現状と、それに対して保全者が行っていることを。しかし……告げられた情報から考える限り、今のままでは目標を達成できないことは明らかでした。保全者も私の指摘を、否定しませんでした」

「そんな……それじゃあ、あの、保全者っていう存在だけじゃどうにもできないってことですか……?」

「根本的な解決にはならないでしょう。しかしそれでも……あまりにも広大な庭園、ランドを擬似的に表現した風景の中でたった一人黙々と働く保全者を見るうちに、私は保全者の行いに、ランドに対する『愛』を感じました。私も、案内役として務めてきたランドには深い愛着を抱いていました。そこで、いてもたってもいられなくなって尋ねたのです。私に何か手伝えることはないか、と」

振り返った保全者は、見上げるロボットに対して宙から何かを現し、授けた。

それは、一対の白い手袋。

「こうして私は保全者に準ずる権限を与えられ、ランドの保護を推進すべく働き始めたのです」

 

 

 

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最終更新:2023-05-27

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