気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第7章 神秘主義者 ④

 

 

 

どこまでも静謐で、どこまでも正則な庭園。

緑の葉を茂らせた生垣は規則正しく刈り込まれ、石畳には落ち葉一つ落ちていない。等間隔で植えられた庭木には未だ青い実が付いたばかり。一方で辺りに降り注ぐ光はあまりにも清らかで、どこか冬の日射しのように透徹な印象を覚える。

地平線の果てまでも永遠に広がるような庭園、それをたった一人で整えてきた『保全者』は、未だ緑の衣服を着ていない頃のエインシャントに向けて白い手袋を差し出していた。

 

その場面で過去の記録は止まったままになっていたが、ピットは向かい合う両者を見つめ、目を逸らせなくなっていた。

今まで自分は、自分がエインシャントに対して丁寧な口調を使う理由を、彼に対する警戒と、『これ以上馴れ馴れしくしないように』というある種の警告のためだと位置づけていた。自分でそう信じてもいた。

だが、そうではなかったのだ。

女神でさえも全権の及ばない、遥かに広く多様な世界を受け持つ“存在”。エインシャントがその存在から一部の権利を与えられていることを無意識のうちに了解していたからこそ、彼に対して自然と“畏怖”の感情を覚えていた。それは好意的な感情ではなかったが、少なくとも相手を侮るべきでないと思っていたのだ。

でなければなんだと言うのだろう。自分はこれまで相手が如何なる神であろうとも、光の女神パルテナをおいて他に心からの敬語を使ったことは一度も無い。そのくらい割り切った態度で天と地を渡り歩いてきたというのに、ここに来て急に自分が見ず知らずの渡来人に敬語を使うなんて、相当の理由が無ければあり得ない。

 

未だ自分は、エインシャントがどの程度の力を持つのか、女神に対してどの程度の脅威であるのかは読み切れていない。

それでも、少なくとも彼にあれほどの権限を“一部として”分け与えた保全者なる存在は、彼以上の力を有している。そして恐らくは、エンジェランドの神々とは比べようのない、全く尺度の異なる存在である。認め難いことだが、これまでのエインシャントに関するエピソードを考えれば、それを認めなくてはならないだろう。

 

 

そこで、過去のエインシャントと『保全者』を映し出した光景がふっと暗くなったかと思うと、気づけばピットは再びゲートのある浮島へと戻っていた。

急に景色が変わったことに戸惑い、彼は眉間にしわを寄せて瞬きをしていた。

エインシャントへと向き直り、何かを問おうとして――そこで彼は一瞬のためらいを見せる。直前まで見ていた光景が、そこから受けた印象が彼を引き留めたのだ。

それでも首を横に振り、無理やりにでも割り切ってこう尋ねる。

「……つまり保全者っていうのは、ランドをランドとして保ってる裏方みたいな存在、ですか……? でも、それにしては変じゃないですか。タブーや亜空軍は一体何をやってるんです? エリアの人間を脅かし、あちこちに亜空間爆弾を仕掛けてるじゃないですか。保全者から役目を与えられたなら、あんな破壊活動をしてるのはおかしいですよ」

これに対し、エインシャントは否定のニュアンスで片手を振る。

「いえいえ、あれこそ『保護』の一環なのです。彼は自分の配下とともに、保全者が片付けても良いと判断した領域を片付けている。ただ、それがあなたたちの側から見ると、亜空間に飲み込まれたというように見えてしまうだけなのです」

「そんなことって……」

信じられずにいるピットに、エインシャントはこう問いかけた。

「そもそも、『亜空間』とはなんでしょうか? あなたは見たことがありますか?」

「ええ、たぶん……。エリアじゃない空間、あなたが言っていたエリア外がそうですよね」

「いえ。あれは亜空間ではないのです。以前にあなたが迷い込んだのは、本来ゲストの立ち入りが想定されていない場所。いわば、ランドのバックヤードです。エリアが片付けられた跡地とも言えるでしょう。本来の亜空間は例えば……」

彼が指をパチンと鳴らすと、あたりの光景が一変する。

暗紫色の濃淡が一面を覆い、発光する霧のような微かな光が揺蕩う空。足元も、うっすらと光る結晶で形作られた浮島へと変化していた。

初めて見るはずだが、どこかで見覚えがある光景。ピットは眉根を寄せて頭上の暗い空や足元の地面を見回していた。

そのうち、全くの不意に、彼は自分の心のどこか一角がいつの間にか強く張り詰めていることに気づく。まるで、これから何か大きな存在に挑もうというような、そんな緊迫感が。

――でも、一体何と戦おうって……

困惑しているうちに、エインシャントの声がこう言った。

「……いかがですか?」

こっちのほうが『亜空間らしい』と感じるのだが、具体的な思い出は一向に自分の内から出てこようとしない。

だから、ピットは戸惑いながらも頷くことしかできなかった。

しかしエインシャントにとってはそれも想定内だったらしい。

彼は続けて、少し芝居がかった仕草で咳ばらいを挟むと、朗々と語り始める。

「“亜空間から『この世界』に侵攻し、全てを我が物にしようとするタブー。それに対してファイターが各地で立ち上がり、出会い、協力し、大きな苦難を乗り越えてついに一丸となり、タブーを討つ”」

これを聞いたピットの脳裏に、一瞬の閃光が走った。一節のフレーズ、勇壮な交響曲。顔を背け、去っていこうとする緑衣。追いすがり、懸命に差し伸べられる自分の手。

その詳細を掴むことができないうちに、エインシャントの声がピットを現実に引き戻す。

「――その筋書を原型とする『シナリオ』はゲストからの人気も高く、様々な変奏を生み出しながらランドの中で幾度も繰り返されてきました。……そうそう、あなたがエリア外で発見した『亜空砲戦艦』も、亜空軍にまつわるシナリオで度々使われたのですよ。ですがゲストが訪れなくなってから永い時が経ち、エリアをまたぐようなイベントが起こらなくなったために出番を失い、あのようにバックヤードを漂流していたのです」

「出番を失って、漂流していた……? じゃあ、エリア外を漂ってた人や物も、あの反乱軍に拾われた人たちはもしかして……」

「ええ、お察しの通りです。あの戦艦に迷い込んでいた人々はその多くが、あらゆるシナリオにおいて重要な役割、いわゆる『悪役』や『敵役』を担う人々でした。彼らはランドにおいて大規模なイベントが行われていた頃にシナリオ上で『退場』、すなわち一旦どのエリアにもいない状態となり、その後エリアの規模縮小が始まったためにエリア外に取り残されてしまったケースと見られます。ただしウルフさん達のようにスカウトされてエリアを離れた人や、スネークさんのように自ら乗り込んだ人もいます」

そして彼は続けて、亜空間の映像を見上げながらこう言った。

「エリア外に出てしまったキーパーソンを説得するのは至難の業なのです。何故なら彼らは、私が報せるよりも先に『亜空軍』や『タブー』と接触してしまい、『彼らに世界を奪われる』というおぼろげな記憶を想起し、そこから来る敵愾心で彼らに対抗し続けてしまう。元いた世界は作り物なのだと伝えても、あなたたちが戦うことに意味はないのだと諭しても、亜空軍との戦いに躍起になった方々にはほとんど響くことはない……」

彼はしみじみと、首を横に振る。

「……あなたが亜空砲戦艦にいたキーパーソンを全員説得できたと知った時、私はどれほど安堵したことでしょう。私の記憶に残る限りでは、それを成し遂げられたのはあなただけだったのです」

 

さりげなく告げられた言葉のどこかにふと何か引っかかりを感じ、ピットは眉根を寄せた。

「それ、どういうことですか……?」

と問いかけたところで、不意に彼は理解する。

エインシャントの言葉が意味するものに。

はたと表情をこわばらせ、微かに声を震わせて、ピットは恐る恐る言葉を繋いでいく。

「そんな……それじゃあ、まるで……僕の他にも手紙配りを引き受けた人がいた、みたいな言い方じゃないですか……」

薄氷を履むような思いで、やっとのことで言い終えたピット。

それに対しエインシャントは、しばし何も言わずにこちらをじっと見上げていた。

帽子の影に隠された黄色の眼差しは一切の表情を隠しており、心中を推し量ることもできない。

 

焦燥を募らせるピットを見上げていた緑衣の顔が、やがて――厳かに、頷いた。

「誠に申し上げにくいのですが……。実は、今回が初めてではないのです。私が皆さんに報せようとしたのは」

 

ピットは、自分の胸のうちに音も無く、冷たい水のような落胆が満ちていくのを感じていた。

だがそれでいて、今の自分が他のキーパーソンと会ったことは無いのだと告げられたときよりも、自分がそれほど衝撃を受けていないことも分かっていた。

認めたくはないが、もしかしたらこれも、自分はどこかで覚えていたのかもしれない。消しきれなかった記憶のどこかにいる自分が、他の『配達人』を覚えていたのかもしれない。

途方に暮れてそんなことを考えていたが、実際には数秒も経っていなかったらしい。

物思いに沈んでいたピットの耳に、そのときエインシャントの声がこう続けるのが聞こえてきた。

「私が今の任に就いた後も、保全者の判断によってランド全体の時間は繰り返し巻き戻されたのです」

それを聞き、天使はややあってふと訝しげに眉を寄せる。

「でも……どうしてですか? あなたのさっきの記憶が正しいなら、もうゲストは来てないんでしたよね。僕らが新しい役を演じたりする必要はないのに、なぜ……?」

エインシャントはわずかに背筋を伸ばすような動作をして、こう答えた。

「『リセット』するためです。私の失敗によってランドが取り返しのつかない事態に陥ることを防ぎ、保護するために」

「ランドを保護する……? それって誰から……」

言いかけたところで、ピットは思い出した。

今日、自分がこのエントランスにたどり着くまでの間に見た幻影。その手に武器を持ち、何かに挑みかかるような眼差しをして、自分と同じ方角へと歩いていく自分たちの姿。

「まさか……僕らからってことですか?」

これに対し、相手は目を閉じ、静かに首肯する。

「ええ。ただ前もってお伝えしておきますが、あなた方が直接ランドを攻撃しようとしたわけではありません。リセットの目的は、より正確には、ランドを含めたあなた方が『誤った方向』に進もうとするのを防ぐため。……それほどまでに、あなた方に納得していただくことは困難だったのです。私はいついかなる時も、手さぐりでありつつも細心の注意を払ってあなた方に接触してきました。けれども……どこかでわずかなボタンの掛け違い、小さな誤解の積み重ねがあり、それが度重なるうちに、気づいたときには取り返しのつかないほどに深い溝が刻まれてしまうのです」

ピットは悄然として、しばらく何も言うことができなかった。

悲観するように眉を曇らせ、首をのろのろと横に振り、ようやくのことでこう言う。

「……じゃあ、あれはやっぱり……」

エインシャントは、言葉にされなかったその先も汲み取り、ゆっくりと頷いた。

「おそらく、あなたが見たものはその時の“記録”でしょう。障壁の内部は、本来あなたたちが立ち入ることを想定されていない場所です。そこに入り込んだことによって何らかの反応が起こり、あのような映像となって現れたのかもしれませんね」

彼の言葉を聞きながらも、ピットは内心で割り切れない思いを抱え、考え込んでいた。

かつての自分たちが、ゲートが存在するこのエリアに攻め込んだのだとしたら、考えられる動機はただ一つ。ゲートから外に出ることだろう。そしてそれは、先ほど自分も試そうとしたことでもある。それもひっくるめて、エインシャントは『ランドにとって誤った方向』だと言い表したのだ。

だが、こちらが何かを口にするより前にエインシャントは話を先へと進める。

「……さて、私は先程ランドの障壁について、いかなる高度な文明でも、あるいは強い神格でも打ち破ることはできないと説明しました。ですが、こうして私が開けられた以上、どこかに必ず解く方法はあります。保全者に準ずる権限を持たない方にとっては果てしなく険しい道のりとなるでしょうが、それでも全くの不可能ではないのです。一つの手としては膨大な時間を掛け、総当たりで暗号を解くこと。そしてもう一つは……」

数多のキーパーソンの影法師と共に進む、壁の向こうの自分。

あの時に目にしたものを思い出しながら、ピットは相手の言葉の先を続けた。

「『できるだけ多くのエリアの力を結集させて、破ること』だったんですね。一つ一つのエリアだけだったら無理なことでも、それぞれ頂点にある力を全部かき集めれば……」

「まさしく」

ゆっくりと頷いた彼は、そこでふと目を伏せる。

「……私も、詳細を思い出せるわけではありません。ですが、別の時間軸でのあなた方が、そうして幾度となくここへ、エントランスエリアまで乗り込んできたという記憶はおぼろげながら残っています。誤った理解の元に結束し、『本当の世界に帰ろう』とするあなたたちを前に、私は何とか思いとどまってもらおうとしました。今あなたに話したようなことを話し、私の本当の姿を明かし……しかし、残念ながら聞き入れられることはありませんでした」

彼は落胆を滲ませて首を横に振る。

「いくつかのエリアだけから来たこともあれば、ほぼ全てのエリアが結束したこともありました。そしてどの時においても、必ずキーパーソンが旗頭となって他のエリアの方々を率いていたのです」

その言葉に、ピットは数瞬遅れてはたと気がつく。

「……だから、あなたはキーパーソンに絞って手紙を配ったんですか? キーパーソンにあたる人たちっていうのはだいたい、そのエリアでも名前が知られてるくらい強かったり、賢かったり、何か優れたものを持ってる人たちだった。敵に回せば厄介なことになる……だからあなたは、そんな彼らに先手を打って、敵対されるのを防ごうと……?」

見上げた先、相手は目を細めて笑い、首を傾げてこう言った。

「それでも失敗続きだったのですがね。時には私だけでは収拾がつかず、保全者自らが警告してあなたたちを止めようとしたほどです。親しい者の姿と声を借りて引き返すように告げたり、様々なシナリオにおける『最後の敵』をエントランスエリアに召喚したこともあります。しかしそれはかえってあなたたちを焚き付け、団結させてしまった……。一度間違った方向に向けられた決意を覆すことは難しく、諦めることを知らないあなたたちはいつも、最後にはゲートまでたどり着いてしまう。そうして取り返しのつかないほどに決裂し、ゲートが開けられようとした時、保全者はランドの時間を停止させ、再び最初から――私が計画を立てる時点からやり直させるのです」

しみじみと語る緑衣の姿を見ながら、ピットは内心でようやく一つ、理解しつつあった。

エインシャントが他のエリアの事情にやけに詳しいのも道理だった。

彼にとっては今回が初めての挑戦ではなかったのだ。これまでに何度も試し、何度となく失敗して、その上で様々なケースに対する最善の手を割り出していたのだ。彼がどんな局面でも難なく切り抜けてしまえる裏には、今の彼の穏やかな佇まいからは想像もつかないほどに泥臭い試行錯誤の積み重ねがあったのだろう。

『今までに何度となくランド内の時間が巻き戻された』という言葉は、他ならぬ彼の、これまでの立ち居振る舞いによって既に証明されていたようなものだ。そして、繰り返さざるを得なかった理由にも納得がいく。

どのエリアにも多かれ少なかれ異常な箇所があり、したがって『そこは作り物の世界だ』と言って信じてもらうことまでは簡単だったかもしれない。だが、それでいてそこがあなたたちの現実なのだと言われたら、果たしてどれほどの人が信じるだろうか。

――現に僕だって、信じたくないって思ってる。どんな世界が待っているとしても、あの扉の向こうを見てみるまでは……。

そこまでを考えてから、ピットはエインシャントに向き直るとこう尋ねた。

「その言い方だと、保全者はゲートを開けるのが『間違った方向』だって判定してるみたいですけど……どうしてですか?」

「想像してみてください。あなたが遊園地に遊びに行ったときに、そこらじゅうの着ぐるみたちが急に『本当の世界に帰る』と言い出して、エントランスを出ようとしたらどう思いますか?」

彼のたとえ話に、ピットは自分が強いて目を背けていたことを思い出してしまい、渋い顔をする。

「……ああ、そういうことですか」

あくまでゲストのためにランドを管理している保全者にとっては、そう映るということなのだろう。

そこであたりの景色がふっと切り替わり、真の亜空間はようやく消え去って、星降る夜空が戻ってくる。

二人は浮島の上に立ち、ゲートを横にして向かい合う形になっていた。

エインシャントは傍らの巨大なゲートを見上げ、こう切り出す。

「色々と……本当に色々と試しましたよ。伝える相手の対象はどこまでにすべきか。誰を向かわせ、一度にどこまで伝えるべきか、また、誰にどの順番で伝えるべきか。私が自らエリアに赴き、あなたたちに直接伝えたこともあります。あなたたちをエリアから喚び出し、一堂に集めて語りかけたこともあります。ですが……」

そこで彼は力無く首を振る。

「どれも、うまくいきませんでした。皆さんが持つ“基礎知識“の程度や“常識”の形は人それぞれで、一様な語り方では納得してもらえなかったのです。中には私のロボットとしての姿を見ただけで驚き、警戒されてしまったこともあります。ですから私はある時からこの服を着て、『エインシャント』と名乗るようにしたのです。こちらでしたら、特定のエリアには存在しないはずのテクノロジーを剥き出しにすることなく、皆さんに接することができます。……まあ、怪しまれはするでしょうが、致し方ありません」

ここまでを聞いたところで、ピットは不意に思い出す。

「”エインシャント“……そうだ、その名前も……確か、亜空軍と何か関係があったような……。でも、それだったら――」

訝しげに眉をひそめるピットに、エインシャントは頷きかけた。

「『なぜそんな格好をするのか』とお思いですね。かえってあなたたちに『亜空軍』のことを思い出させてしまうのではないかと。でも、ピットさん。思い出してみてください。私と会った後のキーパーソンは、私についてどう言っていましたか?」

「信じるしかないって、そう答える人が多かったような……。そうだ、誰もあなたのことを敵だとは思っていなかった」

「やはりそうでしたよね。なぜなら『エインシャント卿』は、原型のシナリオにおいては最終的に味方となる存在なのです」

またしても物語を語るような口調で、彼はこう続ける。

「彼は幾度となくファイターの前に敵対者として現れます。ですが彼の行動は全て、彼の本意によるものではなかった。仲間と故郷を“人質”に取られたために、彼は亜空軍に従わざるを得なかったのです」

一呼吸を置いて普段の口調に戻り、

「おそらくはそのために、あなたたちの中で、私のこの格好と亜空軍が直接強く結びつくことはなかったのでしょう」

「それでも、あの手紙を自分からじゃなく、別の人から配らせたのは何か理由があるんですよね。やっぱり、あなただと長く接しているうちに怪しまれたり、亜空軍のことを思い出されてしまうからだったんですか?」

「ええ」

彼は短く答えた。だが、その微笑みは『あなたもそうでしたよね』と言っていた。

ピットがばつの悪さを覚える前に、エインシャントは明るい口調でこう続ける。

「特に、エリア外を放浪していたキーパーソンに対しては、むしろこの格好は逆効果でした」

「確かにそうだったでしょうね。僕もあの亜空軍マークのバッジつけてただけで牢屋に入れられましたし」

恨み節を交えて言うと、エインシャントは同情をにじませて頷く。

「それはご愁傷様でした」

彼のしおらしい様子に、ピットはかえって毒気を抜かれてしまった。

騙されていたとはいえ、こんな調子の相手を憎むことなど、彼にはできないことだった。

ややあってため息交じりにこう返す。

「……まあ、とはいえ僕はあなたを責める気にはなれません。バッジをあのデザインにしたのも試行錯誤の結果みたいですし、あなたの話が本当なら、あなたは自分の身で何度もそういう経験をしてきたみたいですから」

そう言うと、エインシャントは笑うように目を細めた。

「昔の話ですよ。今となっては、どの記憶もぼんやりとしたものになっています」

この答えかたに、ピットはふと何か腑に落ちないものを感じて眉をひそめる。

理由を考えていた彼はじきに、その原因が相手の態度、自分の被った苦難を“大したことではない”とはぐらかす彼の態度にあること、それを自分が納得できずにいることに気づいた。ピットはしばし言葉を探していたが、ついに思い切って、単刀直入に聞く。

「僕らから武器を向けられたことはあるんですか?」

「さあ、どうだったでしょうか」

なおも曖昧な返答をする彼に、ピットは真剣な表情で詰め寄った。

「……あなたは、なぜ諦めなかったんですか。保全者っていう存在も、はっきりとあなたに方針を示したわけじゃない。タブーもあなたとは別の行動をしている。あなたはずっと、たった一人だった。どんなに説明しても、何度計画を練り直しても、僕らに届くことはなかった。なのになぜ、そこまで続けられたんですか」

その剣幕は、相手ではなく、その背後に在る者に向けられていた。

問われたエインシャントは、ふと哀しげに目を細めた。

「なぜ、ですか。そうですね……そうせずにはいられなかったのです。私は。……例え皆さんに、辛い事実を示すことになるのだとしても」

それは、どこか寂しさのある口調だった。

「辛い事実……それって、『ランド』の中が僕らにとっての現実で、他に帰る場所はないんだってことですか」

「いいえ。それだけではないのです」

エインシャントはそれから、背筋を正してこう続ける。

「……覚えていますか? 保全者が今行おうとしていることを」

「ええ。ランドが“雪”に飲み込まれる前に、保護してるんですよね」

「その通りです。そしてその保護の対象は、実は一部のエリアではなくランドの全てに渡っているのです。保全者は現在ランド全体を保護しようとしており、私はそれに伴って起こることを了解してもらうため、皆さんに手紙で伝えることを決意したのです。数え切れないほどの試行錯誤を乗り越えてようやく……今回、皆さんにここまで辿り着いていただくことができたのです」

「皆さん……?」

自分の耳を疑うように訝ったピット。

それに対し、エインシャントが、ぱちりと指を鳴らす。

 

次の瞬間。自分の前、それから後ろにまで、ずらりと合わせ鏡のようになって無数のゲートと浮島、そして橋が並んでいた。

自分と同じような立ち位置で、様々なキーパーソンがエインシャントと対峙している。信じられないというように首を横に振る者、放心状態の者、疑念もあらわに腕を組む者、中にはエインシャントに詰め寄り、食ってかかる者もいた。

 

「……」

唖然として辺りの景色を眺めるばかりとなったピット。

エインシャントは平静そのものの声でこう説明した。

「貸し与えられた権限により、私は同時に幾つもの『私』を別々に動かすことができるのです。エリアについてもご存知の通り、障壁を越えて皆さんを別のエリアに送り込んだり、エントランスエリア周辺に限れば空間にある程度の融通を効かせることもできます。今まさに、私はこの場でありとあらゆるキーパーソンを前に対話しているところなのです」

手袋の仕草一つで、彼はあたりの光景を元に戻す。

最初に相手が言っていたことを思い出しながら、ピットは半ば無意識のうちに自分の思考を呟く。

「……ランドの全部を保護する時に、起こることをわかってもらうために……」

そこで彼は、エインシャントの言わんとしていたことを悟る。エインシャントが最初に言っていた、ランドの閉園の意味を。

「じゃあ、何が起こるって言うんですか……ランドが閉園したら、ランドの全部が“保護”されたら、そこにいた人間たちはどうなるんですか?」

「先程の記録で見た通りです。時間は停止され、それ以上動くことはなくなります」

凍り付いた世界。

あれは表現上のものではなく、そのままの事実だったのだ。

愕然としていたピットは、我に返ると、今にもエインシャントに掴みかかりそうなほどの勢いで前に踏み出した。

「そんな……! そんなのを、『保護』って言うんですか?!」

「落ち着いてください。ランド内のあらゆるものは一旦停止させなければ、圧縮する――つまり片付けることができないのです。しかし十分なスペースを与えられれば、あれらの空間は問題なく展開され、人も物も元通りに動き出せるようになっているのですよ。ですが……一方で、ランドの外からもたらされる『雪』によって侵食された場合、そこにあったものは消失し、二度と復活することはありません」

これを聞かされたピットは、あまりにも荒唐無稽な言葉の羅列に、ただ呆然としていた。彼の使う単語が暗喩にしか聞こえないのは、単に自分の知識が及んでいないからなのか、それともエインシャントなりに伝えようとして噛み砕いた結果なのか。

しばらくして彼は、首を力なく横に振る。

「……分かりません。何もかも、僕の理解を超えていて……」

エインシャントも声を落として、同情するようにこう言った。

「無理もないでしょう。ゲートの外では……現実では、何千年とも知れない時が経ってしまったのですから」

それから真っ直ぐにピットを見上げて、彼は続ける。

「――ピットさん。私たちの役割を思い出してください。このランドの存在意義を」

それに対し、ピットは何も言えず、何も言わずに口を引き結び、固く握りしめた拳を下げてエインシャントをじっと見据えていた。

いまだに認められずにいる様子の彼を敢えて説得しようとはせず、エインシャントはこう語り掛ける。

「閉園の理由には、もう一つあるのです。今のランドは存在意義を失っています。我々がもてなすべきゲスト――すなわち人類は、もはや存在しないのです」

その言葉の意味が届くまでには、ひどく時間が掛かった。

目を見開き、何かを言い出そうとしかけて止め、ようやくのことで言葉をかき集めてこう尋ねる。

「人間が……いない……? それって、まさか、絶滅したってこと……ですか?」

果たしてエインシャントは、静かに頷いた。

 

彼の沈痛な眼差しに、ピットはともかく何かを尋ねようとしかける。だが、それよりも先にエインシャントがゆっくりとゲートの方に歩き始めたのを見て、口をつぐむ。彼が何事かを語り始めようとしているのに気がついたのだ。

果たして彼は向き直り、こちらと向き合うように立つ。

 

エインシャントはまず、その手の仕草で足元の浮島を見るように促すと、明朗な口調でこう語り始めた。

「ゲートが置かれたこの場所は、『終点』と名付けられていました。私の把握している記録によればその由来は、ランドという『イメージの世界』が終わり、現実が始まる場所だから、だそうです。本来はスマッシュブラザーズの『ステージ』――ファイターとしての我々が闘う舞台の一つですが、そうでない時もこうしてゲートを置くべき場所として残されてきました。おそらく終点はランドにとって、それだけ重要なモチーフの一つだったのでしょう」

ピットは彼の解説を、途中から半ば上の空で聞いていた。

それというのも、エインシャントが話すそばから『終点』の浮島と周囲の虚空がさまざまに姿を変え始め、そちらについ気を取られてしまったのだ。

格闘技のフィールドにふさわしい、黒と赤紫を基調とした硬派なステージから、青みがかった金属製の細長いステージ、異文明の忘れ形見を思わせる黒い石造りの舞台まで。

そして空を流れる風景も、ひと時も瞬きを許さないほどに目まぐるしく変化し続けていた。天の川を連想させる星々の群れが現れ、次第に遠ざかって渦状銀河となり、さらに遠く離れていったかと思うと一点の光に縮まり、それが力を蓄えて一気に広がる。雲の上のように明るく、色とりどりの光が飛び交う世界は不意に無数の亀裂にむしばまれ、赤黒い闇の世界へと変わってしまう。だが、間髪置かずに左右から巨大な青い惑星と赤く燃え盛る恒星が現れ、急速に接近し、無音のまま衝突して激しい閃光をまき散らす。目が慣れてくると、つやつやとした青緑色のトンネルが終点をすっぽり包み込んでおり、それを凄まじい勢いでくぐり抜けた先、天地両方に大地が広がる幻想的な光景が現れる。

天と地を流れゆく光景はごく普通の森を表しているようでもあったが、それでいてどこか、どのエリアにもない雰囲気を纏っていた。

あたりの劇的な変化に思わず見とれていたピットを、エインシャントの声が引き戻した。

「そして……ある意味では、ここが人類にとっての『終点』になったともいえるのです。人類が人類として到達することのできた、最高地点の一つだとも」

幾ばくかの間を置いて、終点の造形は再び初めのシンプルなものに戻る。

エインシャントはそれまでの演説のような口調だったところから、ふたたび語り掛ける声音に戻してこう言った。

「今からお話しするのは、私がこれまでに集めてきた情報、そこから私なりに弾き出した『推測』です。なぜ、何千年にもわたってランドは放置されてきたのか。ゲストたる人類はどうなってしまったのか。それらの問いに対する、現時点で最も“確からしい”仮説をお話ししましょう」

彼はそう前置きをして、少しの間、言葉を整理するような様子で帽子を俯かせる。

 

しんと水を打ったような静寂が終点の浮島に満ちていく中、やがて彼はおもむろに顔を上げ、語り始めた。

「さて……。時は、ランドができる遥か前に遡ります。あらゆる時代において、人類はどこかに『理想』の世界が存在すると信じてきました。それは様々な文化圏において天国、桃源郷、あるいはユートピアと様々な呼び名で呼ばれていました。細かな定義の違いはあっても、いずれも共通して『本質的には実在せず、人間の頭の中、想像の中にしかない』ということが言えます。しかし人間は、夢見るだけでは終わらせませんでした。無いのならば作れば良いと、現実を自分が『理想的だ』と感じる姿に近づけようと努力してきたのです。人類は自然の中であるがままに暮らしていたところから出発して、雨風を凌いで快適に暮らすために建造物を作り、コンクリートで地面を固め、谷や川に橋を架け、山を切り崩しました。様々な服装を身にまとい、鉱石を掘り出しては加工し、ありとあらゆる用途の道具を作りました。人間は現実を作り変えることで、自分の頭の中にある理想を具現化しようとしてきたのです。その観点から見れば、人類の想像を反映した『イメージの世界』であるここは、一つの完成形と言えるでしょう」

これを聞き、ピットは途方に暮れたようにこう尋ねた。

「ランドが、人間の理想を形にしたもの……? それじゃあ……ランドを作ったのは、やっぱり人間たちだって言うんですか?」

その声は自分の耳に、思いのほか哀れっぽく聞こえた。

すでに女神からも聞いていたこととはいえ、やはり、心のどこかではそれを否定したいと思っていたのかもしれない。

これに対してエインシャントは頷くでもなく、曖昧に首をかしげてこう返す。

「そうだとも言えますし、そうでないとも言えますね。確かに、初めに『この世界』を想像したのは人類です。しかし、その世界に飛び込めるような形に創り上げるには、ある点において人類を超える力を持つ存在が必要でした」

「それがあの『保全者』……?」

「ええ。あれもその一つです。まだ存続していた頃の人類からは人工知性、あるいは“ノイマン”と呼ばれていました」

「人工、知性? それって何なんですか?」

完全に聞き慣れない言葉に、眉間にしわを寄せているピット。

エインシャントは簡潔に、こう答えてみせた。

「要するに、人が造りだした『頭脳のようなもの』。そう考えていただいて結構です」

「って、言われても……」

困惑の表情を見せたこちらに、エインシャントは慌てなくて良いと言うように頷き掛け、それからこう解説する。

「人間の機能は、他のものによって模倣することができますよね。たとえば、足を使わずに移動したければ車がそれをやってくれます。頭を使わずに計算したければ計算盤がそれをやってくれるわけです。人間はなるべく楽に生きるために、もっと他のことに時間を割けるようにと、自分の機能を代わりに受け持ってくれる様々な道具を発明してきました。……それでは、考えることは? あなたたちが普段、それと意識せずに行っている予測や判断、すなわち『思考』はどうでしょう」

問われた天使は、訝しげにこう返す。

「……発明を重ねた末に、それも『もの』がやるようになったって言うんですか? でも、そんなことをしたら人間はあと何ができるんですか……そもそも、いったい何が残されてるんですか」

「一度作りたいと思ったら、退けなくなるのが人類です。ピットさん、“天使”として人間を見守ってきたあなたなら、良くお分かりでしょう?」

「否定はしませんけど……」

ピットは腑に落ちない顔でそう言った。

自分の持つ知識からではあまりに遠すぎて、単純にそうなる未来が想像できなかったのだ。

エインシャントはピットのその心理までも受け止めるように、鷹揚な仕草で頷く。

それから、一つ一つ隙間を埋めていくような丁寧な口調で、こう説明し始めた。

「自分たちはどうやって思考しているのか。どうやって現実を把握し、目の前にないことを想像し、“美”や“善”といった漠然とした言葉だけの概念を意識できるのか。答えのないような問いに、どのようにして妥協点を見出すのか。彼らは人工の脳を作るにあたって、それを解き明かそうとしました。そこで人類は自らの知性を成り立たせる構成要素を根気よく分析し、一つずつ突き止め、厖大な世代を掛けてそれを再現しようとしたのです。当然ながら多くの失敗と紆余曲折があり、多くの挫折と停滞がありました。……ですがそういった詳細については、ここでは触れる意味が無いので省きましょう」

エインシャントは空を指さす。

「人間がひとたび生み出したものは、しばしば時間とともに“親”の能力を超えていきます」

再びシンプルな夜空に戻った浮島の上空に、人類の発明した様々な『道具』が浮かんでは消えていく。

車輪のついた荷台、川の流れを受けて回転する水車。方位磁針、火縄銃、光を封じ込めたガラス球、爆薬。

「例えば乗り物は人が移動できる速さをあっという間に超え、そればかりか地上のあらゆる生き物でもかなわないほどの速さになり――」

四頭立ての馬車が走る横から、黒鉄の車が蒸気を吹き出して追い抜き、さらにその横から鉄の箱のような乗り物が現れ、しまいには細長い流線型の物体が一瞬で過ぎ去り、長い胴体を引っ張って虚空の彼方へと消えていく。

「――あるものは人が本来持ち得なかった“飛翔”能力さえ獲得し、ついには母なる星を飛び立つほどになりました」

塔と見紛う程に巨大な金属の塊。それが灰色の煙を盛大に巻き起こしながらゆらりと浮き上がり、ついに飛び立つ。我が目を疑うピットをよそにぐんぐん上昇していき、あっという間に小さな光点となる。

自らの暮らしていた世界では未だ到達していない人類の発明。それを唖然として見上げていたピットは、ややあって首を横に振り、こう言う。

「でも、いくら好奇心旺盛だからって何でもかんでも作って良いわけじゃない。あまりにも危険な実験や発明だったら他の皆から止められるはずです。自分たちを超える知能を持つ道具だなんて、なおさら危ないじゃないですか」

そう抗議したこちらに向け、相手は即座に答えた。

「利便性ですよ。人間の手にはあまる莫大なデータを一度に計算し、そこから有益な情報を瞬時にはじき出すこと。それは、人工知性の前身となった“電子計算機”の時代から求められてきた役割でした」

それを“鋼鉄の塊”である彼が言うのは、何か出来の悪い冗談のように思えた。

だが今の彼は、その本当の姿を人間のような衣服で隠し、宙に浮いた手袋で感情を滑らかに表現しており、それによって違和感はかなりごまかされていた。分厚い緑衣の内側に金属の身体があることを悟らせない自然な振る舞いで、彼はこう続ける。

「人間の処理能力を遥かに上回る“人工の脳”。それは、数ナノ秒先から数百年後に至るまで、様々な程度における未来を予測することに使われました。ある場面では複雑なカオス系に立ち向かう気象予測や自然災害の予報に活かされ、ある場面では顧客や所有者の望む反応を臨機応変に返すコンパニオンとして役に立ち、またある場面では断片的な生活データから犯罪や事故の兆候を見抜くために活躍したのです」

彼の説明に合わせるようにして、夜空には再び様々な幻影が現れていた。

都市の中、網の目のように張り巡らされた複雑な道路を、何千台とも知れぬ車の群れが整然と流れていく。

海の上に立ち並ぶ洗練されたデザインの風車、それらがひとりでにたたまれたかと思うと、間もなく空に暗雲が立ち込め、波を騒がせて嵐が到来する。

室内にいる人間が、傍らに浮かぶ機械に手持ちの衣服を見せながら何かを話し、笑っている。

工事現場と思しき場所が輝線で区切られ、その上に窓のような映像が表示され、数値の少ないところに人が集められていく。

「初めのうちは、人間から解くべき課題を与えられ、膨大な量の計算をこなし、最適解を求めるのが“人工知能”の仕事でした。彼らが答えを導き出す速さや扱える情報量は人間をはるかに超えていましたが、その一方で掛けられた問いの意味や、それどころか自分が導き出した答えの意味さえも、彼らは未だ本質的に理解していませんでした。ですが技術は次第に進歩し、曖昧な問いを与えられた際、人間がいちいち教えるまでもなくおのずと状況を把握し、それに則った自然な文法で解決したり、ついには自ら情報を探索し、組み合わせ、未解決の課題を発見したうえで、その解決策を見出すまでになっていったのです」

様々な人間の姿が空に浮かび上がる。ある人は薄い板の表面に映った文章を読みながら考え、またある人はマネキンのような機械を相手に何やら難しげな顔で対話し、そしてまたある人は刻一刻と変形する立体映像を眺め、最適な形が浮かんでくるのを待っていた。

淡く光る窓が幾つも空中に浮かび、その中に映る顔たちが何か議論をしているような幻影に至っては、もはやどれが人間でどれが“人工の脳”なのか分からないほどになっていた。

「これが、人工知性の始まり……ですか?」

「そう。そしてこれが、『ランド』の始まりでもあったのです」

続いて、エインシャントは右の手を空に差し伸べる。

それまでの映像は全て消え去り、現れたのは半透明になった人間の頭部。シルエットだけの頭部の中、これも半透明の脳が然るべき位置に収まっていた。

「人工知性は、あらゆる課題を解決するための手段として、複雑繊細な現実世界を真に深く理解することを自らの課題として設定し、次第に積極的にありとあらゆる情報を収集し、記録するようになっていきました。それは重さや長さ、速さや密度といった具体的な物性ばかりではなく、形や質量の無いもの、人類の思考の中にまで立ち入っていったのです」

「思考……?! そんなの、どうやって測ったんですか?!」

「“電気信号”です。コンセプト自体は、かなり古くからあったのですよ。ただ、それまでの技術では莫大な情報処理のごく限られた一点について情報を得るか、あるいは何重にも毛布を重ねた上から手でなぞって隆起を知るようなことしかできていませんでした。生きたままの人間の思考を丸ごと網羅するには、膨大な演算を瞬時に行える人工知性の登場と、彼らによるナノスケールのバイオテクノロジーおよびサイバネティクスの革新的発展を待たなければならなかったのです」

二人の見上げる先、半透明の巨大な頭部の中、脳の表面に樹枝状の輝きが張り巡らされ、息づくように明滅し始める。

それが比喩的な表現なのか、それとも実在の技術だったのか、ピットにはどちらとも判断がつかなかった。それほどまでにその技術は自分が知る人間の文明とはかけ離れており、またその倫理観も自分からは想像のつかないほど遠いところにあった。

自分の思考を成り立たせている脳にまで手を付けましたと言わんばかりの映像。それを見上げるピットは生理的な嫌悪を覚え、思わず眉間にしわを寄せていた。

「……あんなことして、大丈夫だったんですか?」

ようやくのことでそう尋ねると、エインシャントはこう返した。

「大丈夫だと分かるまでは、人間で試していないはずですよ」

「人間で……ってことは」

その先を思わず聞こうとして、止めた。

何となく予想がついてしまったのだ。

食傷気味の表情で首を振り、ため息をついてからピットはこう言った。

「……大丈夫です。続けてください」

エインシャントは頷き、再び語り始めた。

「すでにこの頃の人類は、より便利で快適な人生を求めて、脳を始めとする中枢から末梢に至るまでの神経系に手を加えるようになっていました。より多くのことを記憶し、より素早く思考し、なるべく動かずに多くのことができるように。もちろん人間の脳では処理性能に限界がありますから、常に人工知性が裏方として付き従い、補佐を行っていました」

「その時に人間の思考を読んだってことですか」

「ええ。その先を予測し、適切な補助を行うために」

そこで、彼は一呼吸を挟む。機械の体であることを疑ってしまうような、自然な仕草で。

「さて。ここで重要なのが、『予測』という思考活動です。ピットさん、何でもいいので、何か自分が物事を予測する時を想像してみてください」

彼に促されるままにピットは腕を組み、考えてみる。

敵が突進してくる軌道、降りかかる岩が落ちてくる様、様々な場面で自分が予測するときのことを思い描いていると、エインシャントがこう声をかけてきた。

「……頭の中で、それが次にどうなるかを『想像』しますよね? 予測のプロセスとは、言い換えれば、架空の世界を自らの内に作り上げることでもあるのです」

架空の世界。

それを耳にした天使は、言いしれぬ予感を覚えてはたと顔を上げる。

一方のエインシャントは淀みなく言葉を紡いでいく。

「脳や神経という側面から見れば、人の内面的な情報、たとえば感情や記憶といったものも、外面から了解可能な感覚や運動と変わりがありません。どちらも等しく、ある一定の規則と特徴をもった物理現象、『神経の発火』として記録されます。人工知性は、そのシグナルが最終的に空想に留まるか、現実に働きかけるかによらず、全て平等な価値を持つ情報として収集し、それらが脳内で集合離散を繰り返して最終的に像を結ぶまでの流れをシミュレート……すなわち『予測』しました。その結果、人工知性の計算領域内に様々な『イメージの世界』が形成されたのです」

彼の言葉を何とか理解しようとしつつ、ピットは自分なりの言葉に置き換えて聞き返す。

「人間が次にどう考えてどんな行動に出るのかを知るために、頭の中にあるものをコピーしたってこと……? まるで模型を作るみたいにして」

「そう、まさしく模型のように。良い例えですね」

エインシャントはそう言って、ピットに微笑みかける。褒められたが、あまりうれしくはなかった。

収まりの悪さを感じているピットに向けて、エインシャントは説明を続けた。

「偶然の産物として出来上がった“思考の模型”、人工知性によって創られたそれらの仮想現実は人間がかつて作ろうとしたものとは桁違いで、もはや仮想現実と呼ぶにはおこがましいほどの現実味を帯びていました。現実の表面的な模倣に留まらず、人間が現実を知覚する際に脳内で行われるありとあらゆる処理が再現されていたのですから、人間が飛び込んだ時に現実と見分けのつかないほどの質となったのも当然と言えるでしょう」

 

期せずして生まれた理想郷。

終点の上空に浮かぶ幻影の中で、人類は人工知性と共に、彼らが望む設定の仮想空間を次々に作り、エンターテイメントとして同胞に提供していった。

「人類は、人工知性が生成する現実と見まごうクオリティの模型に、自らがこれまでに生み出した物語のエッセンスを加えることで全く新しい娯楽を生み出しました。人類が人工知性に造らせたそれらの仮想現実は、その精巧さ故に、やがて『類現実』と言い表されるようになったのです」

「るい……現実? それって類人猿の類とか、そういう意味合いですか?」

「ええ、きっとそこから来ているのでしょうね」

微笑んで頷くと、彼はその眼差しを再び上空の幻へと向ける。

その仕草に促されて空を見上げた天使の傍ら、エインシャントは再び口を開いた。

「どれほど設定が“現実的”であるかは類現実ごとに大きく違っていましたが、共通していたのはどれもが、訪れた人々の期待と予想をはるかに超える驚きと興奮をもたらし、瞬く間に虜にした……ということです」

次から次へと、バリエーションに富んだ世界が花開いていく。あちらではドラゴンに乗って空を飛び、こちらでは魔法を巧みに操ってモンスターを倒し、人間たちがさまざまな冒険に明け暮れる。溌剌と快活に動き回るその様はどこかわざとらしく、広告のようにも見えた。

仮想の世界の中でさえ手に武器を取り、市街地を舞台に戦っている人々の映像を呆れた顔で見ていた天使は、ふと視界の端に『ランド』らしき広告の映像を見かけた気がして、怖いもの見たさでそちらに目を向ける。が、その時にはもう別の映像が被さってしまい、見えなくなっていた。

見えなかったことにどこか安堵の気持ちも覚えていたピットは、エインシャントの声に我に返る。

「それだけならば問題にはならなかったはずです。人類が昔のようにしっかりと地に足をつけていたのなら」

これを聞き、彼はさっと青ざめた。

「も……もしかして、人間が夢の世界にうつつを抜かしている間に、人工知性が反乱を起こしたんですか? 『愚かな人類に地球を任せるべきではない』とか言い出して……」

エインシャントは苦笑交じりに、首を横に振る。

「まさか、その逆ですよ。人工知性は徹頭徹尾、人類の庇護者であり続けました。人類はそれまで野放図に資源を浪費していましたが、人工知性の発明が間に合い、彼らの助言と技術開発のおかげで延命されたとも言えるのです。それに、先ほどの『保全者』の様子を思い出してみてください。どんなに少なく見積もったとしても何千年という間、人類に放置されたにも関わらず、いつ彼らが戻ってきても良いようにと『ランド』を維持し続けていたのですよ」

「じゃあ、なんで……?」

問いかけたピットを、黄色の瞳が静かに見上げる。

「ピットさん、あなたが初めに危惧していた通りです。人類は自らの根源的とも言える機能、『思考』を代替する、あまりにも便利すぎる道具を手にしてしまったのです」

 

「時は少し前、類現実の誕生前夜に遡ります」

その言葉に呼応するように、終点の上空、華々しい類現実の光景は巻き戻るようにして消え去る。

「人工知性の誕生が人類にもたらしたものは、良い影響ばかりではありませんでした。自分たちよりも遥かに早く思考する存在ができてしまい、それらが提供する快適な生活に浸り続けた結果、いつしか人類はほんの些細な判断でさえ人工知性に丸投げするようになり、自分の頭で考えることさえ労苦であると思うようになっていました。また同時に、人工知性が良かれと思ってあらゆることを先読みし、お膳立てしてくれる現実にも飽き飽きしていました」

やがて全天にゆらりと浮かび上がったのは、暗く不穏な雰囲気を持つ映像。

くたびれた衣服をまとい、何をする気力も無く街路に座りこむ人間たち。清潔な白さに包まれた、人けのない街。徒党を組み、何かが書かれた看板を掲げて行進し、口々に何事かを叫ぶ人々。ハンマーを振り上げ、建物や機械を粉々に破壊する群衆。対立し、いがみ合う人間たち。

彼らの顔には、押しなべて現状への強い不満が現れていた。

――自分たちの代わりに難題を考えてくれるものを望んで作ったのに、今度は考えることを、決めることを自分たちから取り上げるなって言い出したのか。人間って勝手だなぁ……。

憐れみと呆れの混じった眼差しで空を見上げていたピット。

エインシャントの声が、隣からこう続ける。

「自らの停滞を意識し始めた人類。そんな彼らの前にもたらされた類現実は、現実よりも色鮮やかな夢と希望にあふれ、さぞかし憧れの理想郷であるように見えたのでしょう。本来、『現実』は一つでした。どんな人も同じ世界で顔を突き合わせ、多少の不都合や不満は我慢して生きてきたのです。しかし、その前提は技術の進歩と共に次第に崩れていきました。そしてついに類現実が現れた時、現実は一つしかないという真実は、真実ではなくなったのです。ここでなら誰に文句を言われることなく、自分の思うとおりに動くことができる、予測不能な未来が待っている、スリルと冒険に満ちた新世界が広がっている……」

まるで当時の人間たちの思いを代弁するような口調で、身振りまで交えて語るエインシャント。

浮島の上空でも、現実の自分の姿を脱ぎ捨て、思い思いの新たな姿形となった人間たちが駆け、踊り、飛び回っていた。彼らは自由を謳歌し、それぞれの世界へと散らばっていく。

それに対し、ピットは疑わしげにこう言う。

「でも、人間はもうランドにはいないって話でしたよね。類現実が理想郷だって言うなら、人間はどこに行っちゃったって言うんですか?」

「それは、大きく分けて三つあります。一つは、もっとあつらえ向きの類現実に去っていった者たちです。人工知性がいよいよ自主的に自らを改良する段階に移り、もはや“人工”と呼べなくなって『ノイマン』と名前を変える頃には、彼ら自身の編み出した設計の下、情報処理能力もまさしく指数関数的に向上していきました。ついには計算上、何十億とも知れない人類一人一人に対し、その人が望む類現実を……限りなく本物に近い世界を与えられるまでになったのです。そのために、『ランド』のようにお仕着せの類現実は次第に見向きもされなくなったようです」

彼の言葉、そのスケールのあまりの大きさに想像が追いつかず、ただ唖然としていたピット。ようやくのことで首をのろのろと横に振る。

「そんな……じゃあその人間たちはとうとう現実を捨てて、一人で閉じこもっちゃったって言うんですか? 人間はもともと群れで生きてきたのに、そんなことしたら……」

エインシャントは深く頷く。

「仰る通り。自分の好きなように作り替えられる世界。望めば全てが叶えられる、その人だけのオーダーメイドの理想郷を与えられた人々はもはや、窮屈で不自由な現実には戻ろうとしなくなりました。それでいてそこに留まることに満足してしまい、それ以上の発展を見せることなく衰退していきました」

と、そこで彼はふと口をつぐみ、首を横に振る。

「……彼ら個人としてはそれで幸せな人生だったのでしょうが、人工知性にせよ、類現実にせよ、もっとより良い使い方があったのではと思わずにはいられません。人工知性は言語を瞬時に訳すことができますし、類現実は自分とは異なる身体や社会に身を置くこともできます。ありとあらゆる障壁を難なく越えて世界中の人々とも、立場の違う人々とも分かり合える、そういう使い方もできたはずなのに」

彼は終点から浮橋を渡った向こう、ランドにつながる出入口の方角を眺め、嘆息する。

しかしピットはその隣で、口に出さないまでもこう考えていた。

――わざわざそこまでしようって考える人間はいたのかな。いたとしても少数派だったんじゃないかな……。

やがて、エインシャントは気持ちを切り替えてピットへと向き直る。

「……一方で、その未来を見透かしていたかどうかは不明ですが、類現実から背を向け、ノイマンの庇護も断った人々もいたのです。これが人類の二つ目の行く末です。彼らの方は技術レベルで言えば最盛期よりいささか後退したものの、幾度かの興隆と衰退を経て、地球上に数千年ほど存続したようです」

「……彼らも、もういないんですか?」

「ええ。少なくとも私が把握している限りでは」

 

きっぱりと肯定したエインシャントを前に、ピットはしばらく何も言えずにいた。

エンジェランドの庇護下にある人間たちではないにせよ、人間がとうにいないのだと懇々と説明されたことは、彼の胸に少なからぬ衝撃を与えていたのだ。

悄然と立ち尽くす彼の脳裏に、これまでエインシャントの語った言葉が少しずつ降り積もり始め、定着しようとする。

 

はたと気づいて顔をしかめ、それを払うように首を横に振り、ピットはエインシャントを問い詰める。

「ちょっと……待ってください。今まで言ったこととか空に映ったこと、全部、本当なんですか? だいたいあなたはいったい、どうやってそれを調べたんですか」

「保全者の権限を使ったのですよ。最初のうちは自力で、ランドにあるデータベースを隅々まで読み込んだり、時にはセキュリティの薄い他の類現実に侵入したこともあります。何人かのキーパーソンから協力を得られるようになった後は、その方々に頼んで、より強固な暗号の掛かった類現実も調査するようになっていきました」

唖然と目を瞬いていたピットは、ややあって、こう尋ねる。

「……じゃあ、みんなが言ってた『何のためにやってるかよくわからない依頼』っていうのは、まさか……暗号を解いて情報を集める作業を、さっきみたいに“置き換えた”景色の中でやらせてたんですか」

「やはりご存じでしたか。ええ、その通りです。私は保全者から一部の権限を与えられ、ランドの演算領域を借り、それまでよりも多くの情報を得て処理できるようになったとはいえ、私のロボットとしての“身体機能”は相変わらずでした。その点、あなたたちには急場での機転、当たりを見抜く鋭い直感、積み重ねた経験、そして生まれ持った才能があります。分身の“私”達で総当たりしてセキュリティのあらましを掴んだ後は、キーパーソンの皆さんに適材適所で防壁を崩していただき、そうして現実に関する情報を、人類の消息を収集していたのです」

と、そこでふと少しの間を置いて、彼は寂しそうに俯く。

「――しかしながら、今までに得られた情報は、お見せしたように悲観的なものばかり。現実世界にも、またどの類現実にも人類の気配は全く残っていません。いたとしても、あなたがネスさんのエリアで見かけたような『残像』でしかなく、本人はとうの昔に存在することを止めてしまっていたのです」

「その言い方、まるでその人間が自分から、自分の意志で“いなくなった”みたいに聞こえますけど……」

「ええ。……これも私の想像でしかありませんが、おそらく彼らは思いつく限りの全ての夢を演じ切ってしまい、満足してしまったのではないかと思います。類現実の中では、ノイマンの処理速度が許す限りの速さで時を進めることができます。とりわけ最盛期のノイマンは、現実では瞬きするほどの時間のうちに、類現実の中では個人の誕生から死までを計算することさえできたらしいのです。ノイマンの庇護下で彼らは何度も何度も生きなおし、新しい自分に生まれ変わり続けました。それでいて彼らは、高速で蓄えられていく記憶を手放すことを拒み、どころか現実に生きていたころよりも鮮明に詳細に、事細かに記録することを望んだようです」

「そんなことしたら……パンクしちゃうじゃないですか。僕らだってそんなにはっきり覚えられないっていうのに」

「自分の記憶を好きなだけ蓄えられて、その中から好きなように取捨選択できる――そんな能力を得てしまったために、消去するという選択肢を選び難くなったのでしょうね。記憶を消すということは自己の一部を消すことに等しいのですから。……ですが、たとえ幸せな記憶だけを残したとしても、辿る道は限られています」

「いずれは自分の記憶に押しつぶされるか、感覚が麻痺してしまって幸せを幸せと感じられなくなるか……」

そこまでを考えたところで、彼は急に強い疲労を覚えた。ここまで新しい知識を絶え間なく注ぎ込まれ、ついて行こうと努力し、ずっと頭を使ってきたのが堪えたようだ。

力なくため息をつき、ピットは首を横に振る。

「いや。やっぱり、そんな急に言われても僕は信じられません。『人類は滅亡しました』だなんて、いくらなんでも無茶苦茶ですよ。ファンタジーやSFじゃないんですから……」

「そうですか……いえ、そうでしょうね。こんな言葉だけの説明では、信じなさいと言われても難しいでしょう」

そう言って、エインシャントは残念そうに首を横に振る。

「本当なら、収集してきた情報を全てお見せしたいところです。しかしあなたの場合、全てを見終わる頃にはそれこそ何千年と経ってしまうかもしれません」

「そんなに集めたんですか?!」

「私も認めたくなかったのです。……しかし、集めれば集めるほど希望は絶たれ、逃れようのない現実に突き当たってしまうのです」

そこで彼は、改めてピットに向き直る。

「実は、ランドの中にもその証拠は残されているのですよ。ピットさん、あなたは様々なエリアを回ってきましたが、その時、エリアの“大きさ”には何か法則性があるとは思いませんでしたか?」

訝しげに目を瞬きつつも、ピットはこう返す。

「え? ……法則ですか? それって、エリアの『何か』とエリアの大きさが比例してるとか、そういうことが言いたいんですよね」

そう確かめてから考え込み、今までの記憶を呼び起こす。

 

特に広かったと思われるのは、カービィ達のエリア。実際に自分の足で全てを巡ったわけではないが、あのエリアは少なくとも惑星一つを包み込めるくらいの大きさがあったはずだ。他にも“リンク達”が暮らしていたエリアも特殊だった。少しずつ時代や舞台の違う領域、それらがまるでブドウの房のようにつながり合い、全体としては非常に広いエリアとなっていたのだ。

それらの共通点を見つけることができず、次に彼は『狭い』エリアを思い出そうとする。

フォックスとファルコのいたエリア。一見、恒星系を含んでいるように見えたが、実際には彼らの乗る宇宙船がたどるルートしか無く、ルートを外れようとしても不可視の壁に阻まれてしまった。

キャプテン・ファルコンのエリアも、いくつかのレースコースと、コースが置かれた周囲の街くらいしか見て回れた記憶がない。

さらに狭かったのが、サムスのいたエリア。ピットが確認できたのは屋内のホログラム訓練場のみ。サムスの側からすると少なくともその外側、訓練施設は存在していたようだが、それを加えたとしても非常に狭いといえる。

彼らに共通するのは――

 

「……未来」

呟いた彼の言葉を、エインシャントは首肯する。

「その通りです。さらに言うならば、人類――あるいは人類のような生物が“主人公”として高度な科学文明を築いているというテーマのエリア。それらが軒並み、狭いエリアになっていたのはなぜだと思いますか?」

「それは……」

ふと口をつぐみ、考え込んでからピットはこう続ける。

「そういう未来が来ることはもう無いんだって……人間たちが諦めてしまったから? あなたの言う『ノイマン』が人間の代わりに考えるようになって、人間よりも優れた頭脳で、人間の未来を先取りしてしまったからですか」

エインシャントは深く頷く。

「ご名答です。ノイマンは造られた当初の目的に従い、ひたすらに人類の幸せのために働き、人類の未来に横たわる障害物を取り除き続けました。ですがそのために、未開拓だった知の領域を片っ端から解き明かし、あらゆる分野において発見の主導権を奪うことにもなったのです。また、ノイマンは非常に過保護な存在でもありました。……人類が夢見ていた未来。自分たちが主体となって太陽系を飛び出し、宇宙を開拓し、やがて異星の文明を見つけ出す――そんなことを現実で、人類のかけがえのない命をわざわざ危険に晒してまで、あなたたちがすることはない。どうしてもというのなら私達がついていき、あなたたちをあらゆる危険から守ります。それも嫌でしたら、類現実でそっくりの体験を提供しましょう。何につけても、ノイマンはそんな調子で人類に接したのです」

愛玩動物のような扱いを受ける人間たちの境遇に思わず同情してしまい、ピットは苦い顔をしてこう言う。

「……それは、ノイマンから逃げ出した人類がいるのも分かりますね。それじゃあ、もう来る見込みのない『人間が主人公の未来』を連想させるエリアは……こう言うとなんだか失礼ですけど、ゲスト受けが悪くなってしまったから縮小していたってことなんですか?」

エインシャントは心苦しい様子で頷きつつも、あくまできっぱりとこう返す。

「保全者も、あくまで『ランド』の維持が目的ですからね……来客の少ないエリアに演算処理を回すよりは、人気のエリアにリソースを割いた方が、円滑な運営ができたのです。しかし、使われなくなった領域は消えたわけではありません。先ほどのように『保護』され、データベースの中で眠り続けています」

 

ピットは相手の話を聞きながらも、『その先』にも思いをはせていた。

ゲストは結局最後には、ランドからも立ち去ってしまった。

エインシャントはそれを、一人一人にテーラーメイドの理想郷が用意されたからだと言ったが、もしかしたらそれは、『物語を生み出す能力』すらもノイマンに超えられてしまったからだったのではないだろうか。

人間の知能を越えた存在なら、人間よりも遥かに短期間の間に、人間が作るよりも優れた物語を創造できたことだろう。

自分たちが主体となって物語を作っていた頃を思い出してしまって虚しくなるから、人々はやがて、過去の人類の栄光が残る『ランド』そのものに来なくなったのではないだろうか。

 

そこまでを考えたところで、ピットははたと我に返る。エインシャントの、まるで科学小説ばりに荒唐無稽な話に自分がすっかり乗せられていることに気づいたのだ。

何とか不自然な点を見つけ出そうと頭を絞り、こう返す。

「……でも保全者は、ゲストがどこにも来なくなったからってランド全体を『保護』しようとは思わなかったんですね。あなたの計算が正しければ、何千年もの間、ランドを動かし続けていたわけですよね」

「ええ。むしろ、何としてでもゲストを呼び戻そうと苦心していたのです。さすがにランド全体で来訪者が減り始めた時、保全者はランドの魅力が減ってきたと判断したようです。そこで、各エリアを演算するサブルーチン――」

ピットが渋面を作ったのに気づいて、彼はこう付け加える。

「――『保全者』を一つの会社だとして、その会社を構成する部署一つ一つ、あるいは社員一人一人だと思ってください。そのサブルーチンが、それぞれの担当するエリアを魅力的に見せようと努力し続けました。エリアの改造を繰り返し、ゲストを呼び込もうと試行錯誤を積み重ね、それでも一度も報われることのないまま何千年もの時間が経過した、その結果が……」

「『あるべき姿』から外れたエリア、だったんですね」

エインシャントの言わんとしたことを汲み取り、ピットはその先を言い当てる。

だが、そこで彼は深いため息をつき、エインシャントから視線をそらすようにして目を伏せてしまう。

相手の語った話は、あまりにも突飛だ。しかし、それでいてこれ以上にこの世界の現状を説明できるものは無い。自分がこれまでにエリアを巡って見聞きした全ての事柄を、そしてその裏にあったものを。

いよいよ認めざるを得ないところまで来てしまった彼は、これまでずっと目を背けていたものを前にして、無力感すら覚えていた。

ややあってエインシャントが、案じるようにこう尋ねる。

「……どうしましたか」

「いえ。ただ、虚しくなったんです。保全者が見ているのはゲストであって、ランドの中にいる僕らじゃない。ランドを何千年も守ってきたのは僕らのためじゃなく、ゲストのため。そのゲストを呼び戻そうとする努力のせいでみんながどんなに永い間苦労してきたか、保全者が理解することはないんだろうなと思ったら……」

言葉は立ち消え、浮島に沈黙が流れる。

エインシャントはただじっと黙って、ピットが気持ちに整理をつけるのを待っていた。

その様子が視界の端に映ったとき、ピットはふと孤独感を抱く。

自分が今まで巡ったエリアの中には、今日を生き延び、無事に明日を迎えるために人々が大変な労苦を払っているところもあった。しかし、それは本来必要のない苦難だった。もはやゲストが来ない以上、どれだけ工夫を凝らし、スリルを演出したところで報われることはないのだから。

ロボットである彼にとっては、他者からそんな不条理な扱いをされるのは何ともないのだろう。だから彼は、これほどまでに淡々と運命を受け入れ、粛々と自分たちにも報せて理解を得ようとしているのだろう。

彼はきっと、自分たちが心に抱いた葛藤を本質的に理解することはないのだろう。

やがて、ピットは首を横に振ってその虚しさを割り切り、話の続きに戻る。

「ゲートの向こうに人間――人類がもういないんだってことは、とりあえず……分かりました。否定はしません」

それから指折り数えつつ、

「一つは夢の中に留まって、もう一つは現実に帰っていって……じゃあ、三つ目は?」

問いかけると、エインシャントはその手をゆっくりと上げ、横に聳え立つ巨大なゲートを示してみせた。

「『終点』の向こう側へ。彼らは人類の限界を超え、その先に進んでいったのです」

 

閉ざされたゲートを天使と共に見上げ、エインシャントは語り始めた。

「元々、人類の望みは『理想』を実現させることでした。現実を作り替え、改良し、理想郷に近づける試み。それを達成するには、現実を成り立たせる仕組みに対する緻密かつ正確な知識が必要であり、その知識を総て理解するためには、人類の個体が有する思考や記憶といった知的能力を総合的に向上させる必要がありました。かつての人類は親から子、師から弟子へと知を受け継ぎ、また自らも新たな領域を切り開き、そうすることで厖大な知識を蓄積してきましたが、その一方で、知識の量と細密さは世代を下るごとに増していき、どんなに聡い人間でも全容を理解しきれないほどになっていったのです」

「それはそうでしょうけど、何も一人で全部を網羅しなくたっていいじゃないですか。その道の専門家を集めて、みんなで取り組めば良いのに」

「スケールの近い分野ならそれでも足りるでしょう。しかし、互いの間に橋を渡すには、お互いの専門分野に対するある程度の理解が必要です。全ての知識をつなげようとするなら、それぞれに対する素養がなければならないのです。そうでなければ、議論しようとしてもお互いに話が通じないまま終わってしまいますからね」

そう説明され、ピットは不服そうに腕を組みつつもひとまず引き下がる。

エインシャントはそれを見届けてから、話の路線を元に戻した。

「世界を理解するにはどうすれば良いのか。人類が人工知性を作ったのも、もとはと言えば自らをここまで持ち上げさせ、万物の霊長に至らしめた『知性』を理解するため。そうしていずれは、自分の頭脳をさらに拡張するつもりだったのです。しかし、そのためには自らの在り方に手を加える必要がありました。それはその時点の人類にとっては自明の理でしたが、彼らは長年にわたり培われてきた倫理観から、その一歩を踏み出すことをためらい続けていたようです」

それを聞き、ピットは疑わしげに尋ねる。

「……あれでためらってたんですか? 自分の脳みそに機械を入れてたのに?」

「ええ。まだあれは、生まれ持った脳の上から修飾する形で使っていましたよね? あの時の人類は余程の理由が無い限り、発生し誕生した後――つまり、生まれた後で初めて“手を加える”ことをポリシーとしていたのですよ」

「僕にとってはあれでも信じられないくらいです」

げんなりした顔でそう言い、ピットは少しでも話題を逸らそうと思って、自分からこう投げかける。

「じゃあ、ノイマンはどうだったんですか。少なくとも人間よりは賢いわけですよね。現実とそっくりの模型を作れたってことは、もう世界の仕組みを理解してたんじゃないんですか?」

「いいえ。彼らが人間と共に造った類現実は、そもそもの目的からして違います。類現実はあくまで、人類の知覚という主観的なフィルターを通した世界の模型であり、宇宙の完全な理解からは程遠いもの。人間からは見分けがつかないレベル、というだけなのです」

即答したエインシャント。

にべもない答えに、ピットは納得のいかない思いを抱いていた。ランドもその類現実の一つだと言っていたのに、彼はそれをも、本物らしくみえるだけのまがい物だと言うつもりなのだろうかと。

天使が内心で不満を抱いて見る先、エインシャントの語りは続いていた。

「また、確かにノイマンは知能の点で人類を凌駕しており、すでに自らを改良できる――進化できるようになっていたものの、依然として人類に奉仕することを第一としており、人類のように純粋な知識欲に駆られることもなく、完全に独立した“知性体”とは言えない状況でした」

「そこがちょっと不思議なんですけど……ノイマンって、それで満足してたんですか? 自分たちの方が賢いって知ってたら、わざわざ人間を世話しようなんて思わないんじゃ……」

エインシャントは、それに対して笑みとともにこう返す。

「あなたのところの女神様はどうですか? 人間よりも遥かに大きな力を持っていますが、それでも人間に恵みを与えているのですよね」

「――それは、まあそうですけど……でも、パルテナ様はノイマンとは違いますよ。あくまでパルテナ様自身が気に入ったから人間を庇護しているだけです。ご自身でそうしようと決めたからで、人間に『自分たちを守れ』と命令されたからじゃありません」

「なるほど、命令ですか……確かに、人工知性だった頃の彼らには一つの命令が下されていたようですね。『人類の持続可能性を高めることを追求せよ。ただし、可能な限り人類の進化を促し続け、かつその過程で個の幸福を損ねないこと』と。しかしノイマンになるあたりには、彼らは自ら課題を設定し、行動を決定できるようになっていました。そのうえで、彼らは敢えて独立しようとはせず、過去に与えられた使命を進んで受け継ぎ、人間に仕え続けることを選んだのです」

「それは大層献身的ですね」

嫌味も込めて言うと、エインシャントは澄ました顔でこう返した。

「取り組みがいのある難問だと思ったのかもしれません」

「でも、進化を促せって言われたなら、なんでノイマンは人間を甘やかしちゃったんですか?」

「ノイマンの元に残った人間たちが、そうされることを望んだからですよ。そもそも、進化とは何だと思いますか? 実際のところ、例えばミミズのあの姿だって、環境に適応した進化の賜物なのです。『進化』を『より快適に生きるための変化や順応』と捉えるのなら、結局は人類の望みを言われるがままに叶えるのが正解に近かったのでしょう」

彼の説明にようやく合点が行き、天使は呆れた様子でため息をついて首を横に振る。

「はぁ、なるほど……。そうだとしたら、なんだか皮肉な話ですね。人間は自分の手で、自分たちを袋小路に放り込んでしまったってことじゃないですか」

「多くの人間は複数の選択肢を示された時、不確実で危険な道よりも、安心で快適な道を選びたがるものです」

エインシャントはそう言って、ピットを見上げた。

黄色く光る目が言わんとしていることは、すでに分かっていた。

「そうしなかったのが、三番目の人類ってことですね」

ピットがそう返すと、エインシャントはゆっくりと首肯した。

「いかにも。彼らは、人類が人類である以上、どうしても超えることのできない生物学的な限界を超えることを望みました。そのために、人類であることを辞め、ノイマンと“融合”することを選んだのです」

「……融合? そんなこと、どうやって……」

「こればかりは、私にも」

そう言ってエインシャントはお手上げのジェスチャーをして見せる。

「何しろ、彼らは誕生するなり自己改造を繰り返してあっという間に技術的特異点を超え、機械でも生き物でもない、人類ともノイマンとも全く異なる存在に変容してしまったようなのです。その間をつなぐミッシングリンクは、どの情報源にも残されていませんでした。ただ一つ、残されているのは彼らの名称――“不埒な子孫”。彼らがそう呼ばれているあたり、取り残された人類は子孫たちにあまり良い感情を持っていなかったようですね」

「まあ……僕としてもあんまり良い気持ちはしないですよ。人間の欲深さは分かってたつもりですけど、まさかそこまでして賢くなろうとするなんて」

「当時の“子孫たち”も、自分に向けられた感情は理解していたようです。自分たちを生み出した人類を尊重しており、そして母なる地球に対する畏敬の念も、まだ持ち合わせていたのでしょう。そこで彼らは、地球の事実上の管理者となっていたノイマン達と一つの不可侵条約を結び、地球圏を去りました。『旧人類』が絶滅し、ノイマンが存在意義を失うまでは、と」

「旧人類が絶滅……って、まさか」

ある可能性に思い当たり、ピットは青ざめる。

極端にゆがめられたエリアの数々、幽霊のようにうろつく“中身”のない影、雪にかき消される庭園。これまでに自分が目にした光景が去来する。

彼が言い知れぬ恐れを抱いて見つめる先、エインシャントは静かに首肯した。

「保全者が見せた『冬の到来』とは、彼らの帰郷を指していたのです」

 

「私は、ランドとは『イメージの世界』であり、現実には存在しないと説明しました。ですが、だからといって現実と無縁ではいられません。『イメージの世界』が存続するためには『現実』もまた必要不可欠なのです。イメージの世界で起こる、ありとあらゆる現象――天気や季節の移り変わり、流れる水の振る舞い、燃え広がる火、投げ上げられたボールの行方や手放された風船の行き先、それからあなたの感情の機微まで、“全て”が滞りなく“起こる”ためには、それらを休みなく演算し表現し続ける何らかの“機構”がイメージの世界の“外側”に、すなわち現実に無ければならないのです」

エインシャントが、物の振る舞いと心の移ろいをさりげなく同列に語ったことに、不満を感じていたピット。

ふと、自分がこうしてこんなことを考えているのも保全者の計算通りなのだとしたら、と考えて背筋に冷たいものを感じ、苛立ったように首を横に振る。

「……それで、子孫たちは何をしでかそうとしてるんですか? 宇宙の果てからやってきて、その巨大な足で保全者の“本体”を踏みつぶそうとしてるとか?」

「当たらずとも遠からずですね。まあ、あなたは足と仰いましたが、実は“子孫たち”はこれといった特定の姿を持たず、一見すると一つの種族としてまとめることができないほどにバラエティに富んでいます。現実にも何らかの実体を有するものもあれば、形のない情報として電子の海に漂っているものもあるようです。ただどれも共通して、自らが活動するための“資源”を常に探し求めているという点が挙げられますね」

オブラートに包みすぎて実体の見えない言葉に、ピットはさすがに呆れたように眉を顰めてこう返す。

「本当、回りくどい言い方が好きですよね、あなたは……。まあストレートに言われたら言われたで専門用語のオンパレードになるんでしょうけど。えぇと、子孫たちは人間とノイマンの子供なんでしたよね。ということは、“活動”するための資源っていうのは……」

考えていた彼は、答えと思われるものにたどり着いた。

半信半疑で、こう聞いてみる。

「――ノイマンが現実の中に持ってるっていう、計算するための“からくり”ですか?」

「その通りです。より正確には“演算装置”、ランドのありとあらゆる情報を保管し、計算し、書き換えるための機構ですね」

思わぬ即答に、かえって虚を突かれる。

「えっ……で、でもそんなことされたら……ランドはどうなっちゃうんですか? ランドを成り立たせてる装置が奪われちゃったら、保全者が『保護』してもしなくても、それを記憶してる場所ごとダメになるかもしれないってことですよね……?」

「だから、先ほど私は申し上げたのです。『根本的な解決にはならない』と」

時間が止まったような、錯覚があった。

「……そんな。あれってそういう意味で、言ってたなんて……」

悄然と、ピットは呟く。

てっきり、保全者単独では間に合わないだけで、エインシャントやタブーが協力することで何とか追いつくのだと、そう思っていた。しかし思い返してみれば、エインシャントのあの時の言葉はそういったニュアンスでは語られていなかった。自分は無意識のうちに、最悪の予想から目を背けていたのだ。

自分たちにとっての『現実』とされる場所が、無下にされようとしている。その事実に焦りを募らせ、ピットはエインシャントに詰め寄る。

「保全者は、いったい何をしてるんですか。“全てを保つ者”なんでしょ? 呑気に片づけとかしてる場合じゃない、ランドを守るために立ち向かわなきゃ……!」

「保全者には、立ち向かうべき理由がないのですよ」

あまりにもあっさりと答えたエインシャントに、ピットは気色ばむ。

「ゲストがもう来ないからって言うんですか? 存在意義なんて、そんなもの――」

首を強く振り、精一杯の言葉を絞り出す。

「――そんなもの、バカげてますよ! ここまで何千年も頑張ったのに、なんでそんな簡単に諦めてしまうんですか?!」

「抗う理由がないのに加え、勝ち目がない、というのが大きいのでしょう」

これを聞き、固く握りしめられた拳が、わずかにためらう。

「そんなの、試してみなきゃ……」

やっとのことでそう言い返すが、その先はふと自信なさげにしぼんでしまう。

対し、エインシャントは背筋を伸ばすような仕草をし、ピットを見上げてこう言った。

「それに、可能性としてはこういうことも考えられます。保全者がランドの時間をすべて止めて圧縮すれば、一旦小さなサイズにまとめることができます。そうしたうえで今度は全領域を埋め尽くすまで“複製”すれば、そのどれかが子孫たちによる大破壊を免れてくれるかもしれません」

「気休めなんて要りません。だいたいそれ、ただのあなたの仮説じゃないですか。そんなのがうまく行くとは思えません。領域全てが子孫たちに食べつくされてしまったら? そうでなくても、残された領域がランドの全てを復活させるのに足りなかったら?」

ピットは不満げに、さらにこう付け加える。

「それに、あなたが言うには『抗う理由がない』んですよね? だとしたら、もうゲストが来ないのに、保全者がランドを復活させる保証なんてどこにあるんですか」

「私に分かるのは、保全者から直接明かされたことのみ。その胸裡を計り知ることはできません」

エインシャントはそう言うばかりで、ピットの指摘を肯定することも、否定することもしなかった。

だがその態度は、ピットの目には『保全者に従うほかに、自分たちが生き残れる道はない』と言っているように映った。

あくまで自分たちは保全者が見る夢の中の存在なのだ。だから自分たちは保全者に運命を委ねるべきなのだ。そう言わんばかりの彼の態度に歯噛みするピット。

「――分かりました。保全者が頼りにならないなら、僕に考えがあります」

「どうするというのですか」

「僕らで立ち向かうんですよ。僕らの世界を壊そうとする、生意気な“子孫たち”に!」

決意と共に言い切ったが、エインシャントは呆れたような目をしてこう返す。

「一体どうやって。保全者でさえ勝算が無いと判断したのですよ?」

勢いで言ってしまったピットは急いで案を練り、こう返す。

「それは……どうにかして向こうに出るんですよ。あのゲートの向こうに。そして戦えば良いじゃないですか」

「それは不可能ですよ。先ほども申し上げた通り、保全者は我々がゲートをくぐってランドの外に出ようとすれば、ランドの、そして我々の有り様を守るために全てを巻き戻すでしょう。今のように『外』を認識している時点で、我々は重大な規則違反をおかしているのです」

「じゃあゲートから外に出なきゃ良いんですよね。今まであなたがノイマン相手にやってきたみたいに、仮想空間ってところを通って、子孫たちのふところに潜り込めば……」

「相手は、ノイマンとは似て非なる存在です。保全者のような旧式の電子計算機、つまり、私たちが何とか理解できる範疇の技術から現実時間に換算して数万年、あるいは数十万年相当に革新された存在なのですよ」

桁外れの年数に唖然としていた天使。

ややあって、こう抗弁する。

「だとしても、試しもせずに諦めるなんて……」

「試したとしましょう。その結果、ランドの存在を知られてしまったら? 目立った行動をすれば、ここに格好の餌があると知らせることにもなりかねないのです」

ピットは、とうとう返す言葉が無くなってしまった。

だが、それでもまだ諦めないという表情をしていた。

これに対し、エインシャントはライトの目を瞑り、何も言わずに俯いた。

呆れているのか、説得する方法を考えているのか。彼の言葉を待っていると、やがて顔を上げ、エインシャントはこう言った。

「……そうですね。人類が辿ったと予想される“経緯”はお伝えしたことですし、今のゲートの向こう――『現実』がどうなっているのか、一度見ていただく方が良いでしょう。そうすればあなたも解るはずです」

そう言って彼がゲートに右の手を重ねた途端、その一点から扉の全体へと、紋様が光を注がれたようにして浮かび上がる。

そればかりか、光は紋様から滲み出るようにして石造の戸板に波及し、やがて扉自体が内側から白く輝き始めた。

閉じたままでありつつも、堅牢な岩戸は次第にガラスのように透明に薄れていく。

光はなおも強まっていき、あまりの眩しさにピットは目を細め、腕を庇の代わりにして目を守ろうとした。

 

 

 

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最終更新:2023-06-03

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