星は夢を抱いて巡る
第7章 神秘主義者 ⑤
次に目を開けた時、ピットは透明で巨大なドームの中に立っていた。
何気なしに足元を見た彼はいつの間にか足場が大幅に小さくなっていることに気づき、反射的にびくりと肩をすくませてしまった。
いくらか心が落ち着いてくると、小さな円形の足場のすぐ外側、遥か下にも逆さまになったドーム型の床があるのが見えてくる。どうやらここは巨大な球体の中らしい。
また、中央にある足場から外側の透明な球までの間には、様々な半径の金や銀の帯が幾重にもわたってぐるりと渡されている。見ている間に音もなく球体の内側をなぞるように動き始め、それぞれのスピードで回転し始める。
――これ、どこかで見たことあるな。……そうだ、フロートリングにちょっと似てるような……?
金属製の帯の振る舞いから神界の乗り物を連想していると、透明な球体は二人を乗せたまま、不意にふわりと浮かび上がった。
わずかに煤けた表面を介して、球体の外の景色が見えてくる。
そこは薄暗い室内。灰色を基調とした無機質な大部屋。
“フロートリング”は、左右にも幾つか並んでいた。横に細長い台座から頭を覗かせるようにして収まっているが、空席も目立っていた。それらの窪みには埃の層ができており、そこに収まるべき球体がしばらく戻っていないことを伺わせた。
辺りの景色をきょろきょろと眺めていたピットは、エインシャントの方に目を向ける。
勝手知ったる様子で前を向き、一向に説明する気配を見せない緑衣。ピットはとうとう痺れを切らしてこう尋ねる。
「あの、これ、何なんですか?」
何か考え事でもしていたのか、彼が返答するまでにわずかな間が空いた。
「――ああ、すみません。これはですね、おそらくパトロール用の小型探査機です」
「何ですか、その『おそらく』って」
「ここは保全者の管轄外でして。『ランド』とは関わりのないノイマンの、現実側のテリトリーなのですよ」
これを聞いたピットは思わず目を丸くし、慌てて声を潜める。
「……じゃあ、僕らはよその家に忍び込んだってことなんですか?」
「普通に喋っていただいて大丈夫ですよ。我々の身体はランドの中に留まっていますから」
笑ってやんわりとそう言い、エインシャントはピットの問いにこう答えた。
「お察しの通りです。ここは、多くのキーパーソンの皆さんに協力をいただいてセキュリティを破ることができた場所の一つなのです。別のノイマンによって管理された、現実の一区域。現時点ではここから出発するのが最も安全で確実なので、現実探査の際にはよくお邪魔させてもらっています」
それから再び前を向き、彼は話を続ける。
「その際には現実の“身体”としてこの機械をお借りしているのですが、これはどうやら、ここのノイマンが独自に発明した機械のようです。今の私は、言うなればただハンドルを握っているだけでしかありません。どのような用途で使われていたのかはおろか、どのようにして浮かび、動けているのかさえ私には分からないのです」
それを聞き、ピットはこう念を押す。
「落っことさないでくださいよ」
「ご心配なく。今までに何度となく“運転”していますので」
そんなやり取りをしているうちに、探査機は大部屋の壁に空いた穴に接近し、その暗がりの中に飛び込んでいく。
細長い窓から差し込む光を横切って、小型探査機は静々と飛んでいく。
どこまで飛んでいっても、ほの暗く静かな空間、変わり映えのしない景色が続くばかり。
今も、探査機は誰もいない廊下らしきところを飛んでいた。
照明は付いていないが、壁には縦長の窓が等間隔で並んでおり、外から白い光が入り込んでいるために辛うじて廊下の様子を見ることができた。しかし残念ながら窓ガラスは細かな傷に覆われており、外を見通すことは叶わなかった。
壁のどこかに隙間でもあるのだろうか、床にはところどころ砂の小さな山ができていた。辺りの壁も細かな砂に削られ続けたのか、すっかり煤けてしまっている。劣化してひび割れ、黒ずんだ箇所まであった。
次第に、廊下で行き倒れた機械を目にするようになってきた。形は平べったい箱型と非常に簡素で、何となく清掃用のロボットという雰囲気があった。
まれにまだ“生きている”らしい機械もあったが、ランプがついていても微動だにしなかったり、動いていたとしてもその場で堂々巡りを繰り返していたり、満杯になった状態で砂を回収しようとして後ろからあふれ出させていたりと、ほとんど意味のない作業をしているものばかりだった。
探査機の外に広がる侘しい光景を眺めていたピットは、ついにこう言う。
「……ここが現実? ずいぶん……なんて言うか、寂れてますね」
「現実には違いありませんが、代表する光景ではないでしょうね。ここはかつてノイマンによって管理されていた人間の居住区であり、今は廃墟――年数から言えば、遺跡と言ってもいいくらいでしょう。ずいぶん荒廃して見えるかもしれませんが、メンテナンス用のマシンが今も生産されて動いている分、ここでもまだましな方なのですよ」
「居住区って……こんなとこに、人間が暮らしてたんですか……?」
訝しげな顔でそう言ったピットは、ふと行く手が明るくなっていくことに気が付き、思わずそちらに目をやった。
四角く切り取られた外の光が探査機を迎え入れ、包み込み、その先へと放り出す。
そこに広がっていたのは、清潔だが、少し寂しさを感じさせる白さに塗り込められた塔の隊列だった。
寒々しい青空の下、のっぺらぼうの高層建築が立ち並ぶ様は、どこか巨人の墓地のように見える。
地上に目を向けても、通りにはやはりどこにも人の姿はなく、見かけるのは大小さまざまな機械たち。ここでも、半壊して動かなくなった機械を、覚束ない動作の機械が片づけようとし、しくじり続けていた。
動力が足りないのか、それとも制御が行き届いていないのか。何度もアームを空振りし、ようやく掴めたと思った矢先に力が抜けて取り落とす機械たち。それらを居たたまれない思いで眺めていたピットは、とうとう耐え切れなくなって街の建物に目を向ける。
しかし、墓標を思わせる白い塔が建ち並び、地平線の果てまで続く様はあまり見ていても面白い光景ではなかった。
――こんな街、僕だったらすぐに飽きちゃうよ……
心の中でぼやいていた時だった。
そこで探査機がすいっと高く登っていき、街の遠景が霞んだかと思うと、ふっとかき消えてしまう。代わりにあらわになったのは、砂漠に埋もれそうになっている、こじんまりと小さな街。外側にも広がっているように見えたのはどうやら幻だったらしい。
まるで大都市の一部が切り取られ、砂漠に捨て置かれたかのような不自然な光景に目を疑い、彼は目を慌ただしく瞬く。
「……えっ? あの街、ほんとはあんなに小さいんですか?!」
「そうなのです。残っている記録によれば、この街の人口は最盛期でも二百人前後。小さな離島の村がちょうどそのくらいでしょうね。先ほど街がもっと広く見えていたのは、探査機が拡張現実の投影範囲内に留まっていたからなのですよ」
“実際には無いものを現実に被せる技術”。かつて、キーパーソンの一人から受けた拡張現実についての説明を思い返しつつ、ピットはこう聞く。
「それって、ええと……街に“蜃気楼”を被せたり、それを地平線まで並べて映すため……?」
ちょうど解説を挟もうとしていたエインシャントは、少し驚いた様子で黄色い目を瞬いた。
「……おや! ご存じでしたか」
「でも、どうしてそんなことを?」
エインシャントが正確な事情を知っているはずがないとは分かっていた。だが、それでもピットは問わずにはいられなかった。
それを受けて、エインシャントは律儀にこう答えた。
「理由は様々考えられますが、一つには、遠く離れた別の居住区と拡張現実で接続した際に、見た目でも“地続き”となるような演出をするため、というのがあり得るでしょうね。もう一つはもっと内輪の事情として、ここに暮らす人間たちが居住区の実際のサイズを目の当りにして引け目やわびしさを感じたりしないように、というのがあったかもしれません」
だったらもっとたくさんの人口で運営すればよかったのに、と言いかけて、ピットは少し前にエインシャントが言ったことを思い出す。
ノイマンの庇護を受け、オーダーメイドの理想郷を望んだ人類。極端な例では、一人一つの類現実に飛び込み、現実に帰ってこなくなるほどにはまってしまう人もいたという。
そんな人間たちだったなら、数百人の規模でコミュニティが存続できたこと自体が十分に珍しく、素晴らしいことなのかもしれない。
「じゃあここの人間たちは、まだ現実にも足を置いてたんですね。人工知性が管理してる居住区っていうから、もっと大げさなものを想像してました。こう、なんか緑色の液体が入ったカプセルとかがずらーっと並んでて、その中に人間がぷかぷか浮いて夢を見てるとか」
「類現実に“完全移住”した人間たちは、もしかしたらそうなっていたかもしれませんね。でも、そういう居住区が過去にあったとしても今はもう残っていないでしょう。先ほど申し上げた通り、類現実の中では時間の流れが自由に変えられます。可能な限り多くの人生を生きようとすれば、それだけ類現実に依存し、加速させた時間の中で生きることになります。したがって類現実への依存度が高ければ高いほど、そのコミュニティは現実時間においてあっという間に興隆し衰退していく傾向がありました。ですから、ピットさんが想像されるような居住区はとうの昔に活動を終えて、子孫たちに資源として回収されてしまったことでしょうね」
そして彼は眼下の、すっかりミニチュアのように縮んでしまった“街”を眺めてこう続ける。
「ここのように現実での生活を幾分か形だけでも残していたコミュニティは、現実の物差しの中で長生きすることができたのでしょう。それでもノイマンから手を切った人類ほど長生きはしなかったようですが」
「……っていうことは、ここを管理してるノイマンも……」
「ええ。保全者と同じです。何千年、あるいはそれ以上、もう誰もいない街を維持し続けているのです。立地として魅力がないために子孫たちから放置されている様子ですが、回収されるのも時間の問題でしょう」
砂の海の中、ぽつりと浮かぶ骸のような街。
もはや誰からも顧みられることのない居住区を見つめていたピットは、やがて首を力なく横に振り、その顔をエインシャントに向ける。
「彼らは……ノイマンは、諦めたりしないんですか。絶望したり、飽きたりすることはないんですか? 人間は類現実でほとんど永遠の命を得たのに、生きることに満足した途端に、自分で自分のことを“止めて”いたじゃないですか」
これに対しエインシャントはわずかに首を傾げ、相も変わらず落ち着いた口調でこう返した。
「彼らにその選択肢はないのですよ。大勢の人の命を一手に任されているノイマンが、急に不調をきたして自分で自分を停止してしまったらどうなると思いますか? だから、彼らはあくまで人間を第一に、そうなるように自分たちを律してきたのです。あの居住区のノイマンも、自分を維持するための資源が不足して壊れるまでは、ああして働き続けるのでしょう」
あくまでも客観的で冷静なこの答えに、ピットはもはや何を言うこともできず、ただ物憂げにため息をつく。そのままエインシャントから目を逸らすようにして、ドームの外へと再び顔を向けた。
小型探査機は廃墟の街を離れ、さらに速度を増して一直線に飛んでいく。
地上の景色も砂漠をあっという間に飛び越えて、サバンナのような乾燥した林へ、そして鬱蒼と生い茂る森林地帯へと移り変わっていく。
どこにも舗装された道や建物は無く、手つかずの自然が見渡す限りに続いているようだ――
「……あれ?」
地上を眺めていたピットは、ふと違和感を覚えて目を瞬く。
木々の葉が緑色の絨毯となって広がる下、顔をのぞかせている灰色の岩肌。天然の岩山にしてはシルエットが角張っており、岩の割れ目もやけに規則正しく入っている。
しばらく見つめるうちに、それが切り出した岩を山の形に積み重ねて造った建物だと気が付いた。
――何かの遺跡かな……?
探査機はその上空を飛び去ってしまい、ピットは思わず後ろを振り返って“ピラミッド”の姿を目で追いかけていた。
ひとたび気づくと、他にも人為的な痕跡があるのが分かるようになってきた。平原に等間隔で並ぶ穴は、かつて建物を支える柱が建っていた跡だろう。森の中に点在する苔むした石柱に目を凝らすと、風雨にさらされて痩せこけてしまった石像の意匠が見えてくる。一見して岩が転がっているだけにしか見えない丘陵地帯も、それらの岩が自然物にしては角ばった形をしており、元は何らかの建物だったのが地震で崩れた跡だと分かる。
古代文明の遺構にしか見えないそれらを上空から眺めていると、エインシャントがピットの様子に気が付き、こう尋ねかけた。
「ピットさん。あれはいつの時代のものだと思いますか?」
「いつ? ……それ、僕に聞きます?」
ピットは思わず呆れを表に出してそう聞く。
恐ろしく古びていることを除けば、地上の建物はむしろ自分が知る人間たちが造るものとよく似ていたのだ。
「まあ……こっち側の歴史で言うならきっと、人間たちが人工知性を発明するよりずっと前ですよね」
ところが、エインシャントはそれを聞いてふと笑うように目を細めた。
「実はですね、あれらはもっと後世の建造物なのですよ。先ほどの小さな街から見ても、ざっと千年ほどは後になるでしょう。ノイマンの庇護を断った人類、彼らが暮らした跡なのです」
これを聞いたピットは言葉を失い、たっぷり数秒ほど、何も言えないまま相手を見つめていた。
ようやくのことでこう言う。
「……僕をからかってるんじゃないですよね」
「まさか。そんなことはしませんよ」
笑い声を含ませてそう答えてから、エインシャントはこう続けた。
「しかし、ちょっと意地悪な質問だったかもしれません。確かに自然石から造られた建造物は長い寿命を持ちますから、本当の“古代”の建物でも条件が良ければ、あのような見え方になるかもしれません。よく見るとデザインがどの古代文明にもないものだと分かるのですが……まあ、あれほど風化した状態から年代を当てろと言われても難しかったでしょうね。そして種明かしをすると、私は近隣のノイマンが持つデータベースから、あの遺跡に人類が住んでいた頃の情報を得ていたのです」
ヒントも碌に無いクイズを出されたことに腹を立てるよりも先に、ピットは“近隣のノイマンが情報を持っていた”という言葉に気を取られ、彼に尋ねかける。
「それって……ノイマンは自分たちの下から去った人間たちのこともずっと見ていたってことですか?」
「ええ」
帽子の房を揺らして頷き、彼はこう続ける。
「ノイマンにとっては、自分たちの援助を断った人類も依然として、持続可能性を高めるべき対象として映っていたようなのです。普段はただ見守るだけでしたが、破滅的な災害が予見された時には陰ながらそれを未然に防いでいたそうで。すっかり人類が人工知性の存在を忘れてしまった頃になってくると、ノイマンのことを神や精霊の類いだと思い、恐れ敬い、祀るほどのコミュニティも出てくるようになったほどです。地上に見えていた石造りの建物の中には、そういった“神殿”も含まれているのですよ」
元々は自分たちの祖先が作った“道具”だったのに、それをすっかり忘れ、“人知を超えたもの”として崇拝する人間たち。
笑うに笑えず、ピットは困惑の面持ちで地上の遺跡を眺めていた。
と、その視界の横から何か色鮮やかなものが通り過ぎて行き、彼は思わずそちらに目を向ける。
探査機の横を飛んでいくのは、見たこともない姿をした鳥たちの群れ。原色で彩られた羽を見れば熱帯の鳥のようだが、それにしてはずいぶん丸みを帯びた体型をしている。つぶらな瞳も相まって愛らしい姿ではあるものの、こんなに丸くては体温を逃がせず、熱帯で暮らすことはできなさそうだ。
彼らが飛んでいった先を呆然と眺めていたピットは、今度は地上にも動物たちがいることに気が付く。
平原に散らばり、群れを成して悠々と草をはむ馬のような生き物。しかしよく見ると彼らの額には一角獣のようなツノがあり、胴には羊のようにふわふわとした体毛を持っている。また、彼らの足元には薄茶色の小型生物がいた。彼らは一見してウサギに見えるが、後ろ足で立ち上がったまま辺りを見渡し、妙にしっかりした足取りで二足歩行をしている。
「あんな生き物、居ましたっけ……?」
「ああ。この辺りでは時々見かけますよ。ただご指摘の通り、かつての地球にはいなかった生き物です。人間がノイマンにねだって作らせた生物の生き残りかもしれませんね」
さらりと放たれた言葉に、ピットは目をむく。
「い、生き物を作るって……そんなことできるんですか?!」
「現存種から改変したのでしょう。もしもそうでないとしたら――つまり、あれらの生き物が自然選択によって発生したのだとすると、それこそ一万年どころではない時間が経っていなければならないはずです。数十万年、あるいは数百万年……いずれにせよ遺伝子サンプルを取ってみないことには何ともいえませんが」
「はぁ……」
もはや、唖然として目を瞬くことしかできなかった。
一方のエインシャントは、依然として穏やかな口調でこう語る。
「本来、ノイマンはああいった生物は野に放たず、自分の管理する区域で厳重に飼育していたはずです。新種を放つことは既存の生態系に多かれ少なかれの影響を与え、そしてしわ寄せはいつか人類にも及びますからね。しかし適切に“処理”しないうちにノイマンの方が先に活動を停止してしまったり、閉じ込められているのを可哀そうだと思った人類が勝手に逃がしてしまったり、そういったことからあのように野生化してしまったのだと思われます」
ガラス玉を透かした向こう、流れゆく地上には見知らぬ未来が横たわる。
人類の営みは時の流れのはるか遠くに過ぎ去って、もはや自然の中に埋もれゆくのみ。どこまで進んでも人間の姿は見当たらず、『人類ははるか昔に滅びた』というエインシャントの宣言を裏付けるような景色ばかりが広がっている。もはや言うべき言葉も見つからず、辺りの廃墟や遺跡群を気落ちした様子で眺めるばかりとなっていたピットは、ふと訝しげに眉間にしわを寄せた。
「エインシャントさん……あれも、人間が作らせた新種の生物ですか……?」
それらの生き物は、遠目から見ても明らかに異質な雰囲気を放っていた。
色や大きさ、手足の本数はさまざまだが、シルエットからして既存の生物のどれにも当てはまる気がしない。
問われたエインシャントは即答を避け、その代わりに彼の操作で探査機がゆっくりと降下し始める。
地上に散らばって蠢く無毛の“生物”の姿が見えてきたピットは、口の端を引きつらせ、思わず息を詰める。
ピットはそのあまりの異様さに、“それら”は『人間が作らせたものではない』と直感した。
その生き物には目鼻や口が見当たらず、頭のあるべきところにはただ異様な物体だけが――青黒い光沢を持つ多面体が据え付けられている。
身体の大きさはさまざまで、大きいものは象を超え、ほとんど恐竜のようなサイズのものもいる。一方で小さいものは人の子供ほどの大きさしかない。しかしそれでいて彼らは、少なくとも二本かそれ以上の腕を持ち、“上半身”として見える構造を持っていた。
彼らは特殊化した肢で大地を掘り返したり木々を伐採したりしつつ、様々な資材を平たい背に乗せて現地に運びこみ、腕に装着した機械で溶接し、何かを組み上げようとしている。
「な、何なんですか、あれ……」
嫌悪のあまり、言葉の端がこわばっていた。
エインシャントは敢えて感情を表に出さず、静かにこう言った。
「――あれは子孫たちの“手足”です。生き物もどきですよ」
「生き物もどき……?」
「ええ。あれらは一見して生き物に見えますが、自分で“生み、殖える”能力を持ちません。したがって『生き物』とは言えないでしょう。また、生物をベースとしていて、生存に必要な最低限の臓器は備わっているのですが、脳がどこにもありません。どうやらその代わりが頭部のインターフェースで、あそこから子孫たちの命令を受けて動いているようなのです」
ピットは信じられないというように首を横に振る。
「子孫たちは……なんであんな、悪趣味なことを……」
「こればかりは推し量ることしかできませんが、おそらく、彼らは悪趣味だとは少しも思っていません。“合理的で効率的”だとか、そのくらいの理由でしょうね。生体機械の方がさまざまな用途に使える拡張性があり、多少の環境変化や損傷にも耐えて、しかも自己修復できる。そして、そういった生物の頑強さを兼ね備えた機械を一から作るより、生物から“機械”を作った方が、彼らにとっては楽だったのかもしれません」
探査機はピットの抱く嫌悪も知らずに降下していき、ますます生き物もどきたちの姿がはっきりと見えてくる。
彼らはよく見ると、腕や、時には足に、人間のそれによく似た手を持っていた。その手でものを持ち上げ、支え、用途の分からない道具を握り、器用に扱っている。
ピットは“子孫たち”の先祖返りの部分を見たような気がしつつも、あまりにも自分の知る『人間』からかけ離れてしまった彼らの在り方、変わり果てた思考や価値観の片鱗をまざまざと見せつけられたように思っていた。
そうしている間に、不意に一部の“もどき”たちの動きが滞り、何かの妨害を受けたかのように動きを止めた。そうしなかったものとぶつかって、受け身を取ることもせずに無造作に倒れ、それらが取り落とした資材に別のもどきが躓き、地上にひどく緩慢とした混乱が広がり始めた。
生々しいドミノ倒しに言い知れぬ恐怖を覚え、身をすくめていたピットに、
「別の“子孫”の妨害を受けたようですね」
エインシャントはそう言い、こう続ける。
「こういった光景はしばしば見られます。子孫たちの間でも主義が異なるらしく、過度の資源採取や建築を好まない者もいるようで、あのようにして他の子孫の作業を邪魔することもあるのです。しかし、それも『予測が狂う』とか『観測の邪魔だ』とか、そういった自己中心的な理由でしょうけどね」
――予測? 観測? それって何を……
問おうとした言葉は心の中に留まったまま、ピットの目は地上に釘付けになっていた。
地上に大混乱が巻き起こっている一方で、すぐ上を飛ぶ自分たちの乗った小型探査機には何も影響が及んでいなかった。それは暗黙のうちに、子孫たちがこちらを全く相手にしていないことを示しているようだった。
そうこうしているうちに元いた子孫が主導権を握ったらしく、そのうちに混乱は収まって、再び何事も無かったかのように作業が再開される。
ピットは激しい動揺に目をそらすこともできず地上を見つめていたが、やがてそのうちに深い溜息をつき、項垂れる。
眩暈を覚え、眉間を抑えていた。しばらくしてやっとのことで顔をあげ、こう尋ねる。
「……子孫たちは、地上で何をやってるんですか。あれは、自分自身の“脳”をもっと大きく広げるための装置とか、そういうものなんですか?」
「そういう場合もあるのですが、あれは私が見る限りでは実験装置のようですね」
それを聞き、ピットは訝しげに眉をひそめる。
「実験……? なんでわざわざ現実で、しかもこの地球の上でやるんですか? 子孫たちはノイマンの“血”も引いてるんですよね。だったら類現実とか、それ以上に現実と瓜二つの空間を考えられるはずじゃないですか」
「それが『合っている』という確証が欲しいのだと、私はそう考えています」
それから彼はこちらに顔を向け、ピットを見上げてこう続ける。
「思い出してください。子孫たちはノイマンとの契約により、旧人類が絶滅するまでという期限をもって地球圏を離れました。つまり、いずれは戻ってきたいと思っていたのです。それはなぜだと思いますか?」
「……元々自分のものだって思ってるから?」
人間の貪欲さを考えてそう答えたピットだったが、エインシャントは笑うように目を細めた。
「確かに、子孫たちはあれほどわがままに振る舞っていますから、あるいはそうなのかもしれませんね。私は、彼らは地球でやり残したことがあるから戻ってきたのだと、そう予想しているのです」
「やり残したこと……?」
「ええ。彼らが知りたい、解き明かしたいと思ったことの続きを」
頷いて、彼は続けてこう語り始める。
「たとえば、地球や太陽系、銀河系、さらにはそれらを内包する構造体が今後どうなっていくのか。宇宙がどのようにして始まり、どのようにして今に至り、そしてどのように終わるのか。それを知るには観測するのも一つの手ですが、そんなことをしていたら宇宙の一生と同じ時間が掛かってしまいますよね? ですからそれよりは、計算による予測を行うのが現実的です。そのためには『現実と寸分違わないこと』が保証された仮想の空間が必要であり、そしてそのためには、現実に対する深い理解が必要となります。世界の全てを成り立たせているありとあらゆる法則を事細かに――それこそ素粒子から宇宙全体にまで渡る範囲で振る舞いを解き明かし、法則を記述しなければならないでしょう。彼らは自分たちの理解が『合っている』という確証が欲しい。だからこそあのようにして、自らの立てた仮説や作っている模型を細かい部分に分け、それがどの程度当たっているのかを一つ一つ、現実で検証しているのだと思うのです。そして、その確証を少しずつ積み重ねていくことで、彼らは宇宙の全てを理解しようとしているのだと」
あまりにもスケールの大きな欲望に、ピットは言葉を失ったように立ち尽くしてしまう。
やがて、かすれた声で茫然と尋ねかける。
「宇宙の全て……? 彼らは、一体……そんなことをして何をしようと……いえ、何になろうと、してるんですか」
彼の心の中に荒れ狂い、渦を巻くのは混乱、恐怖。言葉にならなかった感情を全て受け止めるように、エインシャントはその黄色い目でピットを見上げる。
そして彼は応えた。
「神、あるいは悪魔」
ゆっくりと、エインシャントはそう断言する。
「――人類はかつて、自分たちの知を結集させてもなお説明のつかない現象を目にした時、それに神や悪魔といった名前を付けて呼びました。しかしそれでいて、人類は未だ分からない事柄をただ闇雲に畏れ敬い、遠ざけるばかりではありませんでした。限られた一生の中で知見を積み重ねていき、究極の叡智に手を届かせようとし続けてきたのです」
彼はそこで、一呼吸を置く。
目を逸らすことなく真っ直ぐにこちらを見据え、こう告げる。
「人類の子孫たちも、その途上にあります。やがてこの宇宙で起こるあらゆることを説明できるようになり、その裡に森羅万象を再現させた時――彼らは、真に絶対的な存在となるのでしょう」
ピットは、それに対し、何を言うこともできなかった。
呆然自失としたまま再び地上に目を向ける。そこにあるのは、自分が良く知る“神々”の在り様からは全く異なる振る舞い。ただそれは、理解を拒絶しているというよりは、もはや理解を超越している、と言った方がふさわしかった。人やそれに類する者からの理解も、崇拝や畏敬の念さえも、初めから全く必要としていないのだと。
空にある日の光を自分の知る神とするなら、彼ら子孫たちの有り様は、空から大気の青や雲の白を全て取り去り、宇宙空間の中で剥き出しの火の玉に相対したような――そんな印象を受けた。
理解を超える事実を、何とか自分なりに噛み砕こうとしている天使の傍らで、エインシャントが静かにこう続ける。
「……それに引きかえ、ノイマンが演算する類現実というのは非常にコンパクトなものです。名前の通り、あくまで現実の類似でしかありませんから、現実の法則を事細かに踏襲する必要はなく、達成すべきはイメージの世界を創り上げること。それも、あくまで人間の知覚できる程度において本物らしければそれで良い。人間の目から見て違和感が無ければ、楽しんでもらうには事足りるのですから」
「でも……なんでわざわざ、ここに戻ってこなきゃならないんですか? こういうの、僕はあまり詳しくないですけど、模型や法則を確かめたいなら地球に限らなくたってできるはずですよね。子孫たちは、地球にいったい何があるって……」
当惑の表情でそう聞いたピットに、エインシャントは何も言わずにただゆっくりと頷いてみせる。
『これからお見せしましょう』。彼の眼差しはそう言っていた。
小型探査機は建築現場を通りすぎ、子孫たちの手足が資源を運んでくる隊列を遡り始める。
やがて林の向こうに見えてきたのは、ひときわ高く立ち並ぶ白亜の塔。そののっぺりとした表面に、ピットはそれがノイマンの造った街であることを察する。
探査機は二人を乗せたまま少し速力を落とし、ゆっくりと上空に昇っていく。見えてきた市街地はすでに、半分ほどが更地にされていた。
ここでもノイマンの機械たちが健気に働いていたが、我が物顔で市街地を練り歩く『手足』達に何をすることもなく、どころか彼らに接近された途端に、その場で急にうずくまって動かなくなっていく。
大柄な『手足』達は、何もせずに佇む機械を次々に攫い、付属肢に把持した道具を使ってその場で解体していく。また別の場所では、手足たちが同じ道具で街を無造作に切り崩し、大雑把に抱えて持っていく。ノイマンの機械たちはその様子も視界に入っているはずだが、狼狽えたり戸惑ったりするような気配もなく、まるで何も問題は起きていないかのように自分の仕事を続けるばかり。
また一台、ピットが見ている先で壊れかけの機械がひょいと摘み上げられ、あっという間にバラバラにされていく。
「……抵抗、しないんですね」
そう聞くと、エインシャントはこう答えた。
「あれは麻痺させられているのですよ。子孫たちがノイマンからワーカーの制御を取り上げ、機能を停止させたのです」
そうしているうちにも、何千年と知れない時を超えて守られてきた街はあっけなく切り崩されていく。『手足』達は何ら妨害を受けないまま、その虚ろな頭に命じられた作業を続け、街の外に資材を運び出して何らかの分類ごとにまとめていった。
見守ることしかできずにいるうちに、小型探査機は二人を乗せたまま不意にすいと浮上し始めた。
驚きの声をあげたピットに、エインシャントが安心させるようにこう言った。
「ご心配なく。これは私の操作です」
本当なのかと問いたかったが、そこで探査機の横を何か暗雲のようなものが横切り、ピットは思わずそちらに注意を向けた。
蜂、あるいは蚊の群れ。意思を持って降りていく黒い霧の振る舞いは、そういった生き物として彼の目に映った。
エインシャントはそれらに巻き込まれないよう、注意深く大回りに避けていく。
「あれは……?」
「物質の分解と同化に特化した、特殊な機械です。あるいはこれも生物ベースなのかもしれませんが」
「分解と……同化?」
「ええ。あれをご覧ください」
彼が地上を指差した先にあるのは、廃墟の外に運び出された資材。黒い霧はゆらめきながらもまっすぐにその上に降り立ち、資材の塊を包み込んでいく。
次の瞬間、地上で起こったことにピットはわが目を疑い、思わず声をあげてしまう。
資材が急速に風化し、溶けるように縮んでいったかと思うと、とうとう跡形もなく消えてしまった。一方で黒い霧は来た時よりも明らかに濃度を増し、膨れ上がった姿で再び上空へと舞い上がっていく。
どこに運んでいくのかと見上げた彼の目に映ったのは、青い空を背景に薄く広がる、銀色の幾何学模様。円と直線が複雑に組み合わさった、まるでミステリーサークルのような図案。
雲と同じくらいの高さにありながら、それは風に流されることもなく、青空のどこかに張り付いたように静止している。他に大きさを比べられるものも無く、あの模様が実際にどのくらいの広さに広がっているのか、見当をつけることもできない。
「まさか、あれが人類の子孫……なんですか?」
恐る恐る尋ねたピットに、エインシャントはこう返す。
「いえ、あれはただの工場でしかありません。地上から回収した資源を新しい形に作り替え、先ほどの建築現場に提供しているのです」
見ているうちにも幾何学模様の一片がぷつりとちぎれ、ひとりでに地上へと降りていく。
真横を通り過ぎる時に見えたその姿には、どこにもプロペラや気球といった機構が付いていなかった。ただ、上に付き従うように小さな白い球体がいるくらいだ。
――もしかして、あれで持ち上げてるの……?
唖然としてそれを見送っていたピットの耳に、エインシャントの声がこう言うのが聞こえてきた。
「これも私の推定でしかありませんが、今あなたに見ていただいたものが、子孫たちが地球に戻ってきた理由だと考えています。彼らが必要とするものは、確かにこの星に限らずとも探せばいつかは見つかるでしょう。しかし、宇宙はあまりにも広大ですから」
エインシャントの方を見ると、彼は地上の有り様を、子孫たちの手足が資材漁りを続ける様子を見下ろしていた。
彼の眼差しは粛々と運命を受け入れているようでありながらも、どこかに憂いを含んでいた。
「どんなに演算の性能が進歩しても、計算領域を広げるには必ず物質的な資源が必要となります。貴重な金属や、合成の難しい化合物を求めて希薄な宇宙空間を彷徨うよりも、近場の地球圏にひしめいている完成品、人類の遺物やノイマン、あるいは他の子孫たちの計算装置を吸収した方が手っ取り早いのです。……『ランド』を、我々の世界を演算している機械も、彼らからしてみれば手の届くところにぶら下がっている魅力的な果実に見えることでしょう」
「だから……だから彼らは、地球に戻ってきたって言うんですか? もう人類はいなくなったから、要らないだろうって……」
そう言いながら、ピットはその心のうちに次第に怒りを募らせていた。
ついに、拳を握りしめてこう問う。
「エインシャントさん。子孫たちはどこにいるんですか」
何でもいいから一矢報いてやろうと言わんばかりの勢いで。
それに対し、エインシャントは黄色い眼差しを上げ、こう答えた。
「あの辺りにもあるようです」
指し示された先には、青い空が広がるばかり。
「……どこに、何があるんですか」
戸惑いながらもよく目を凝らすと、うっすらと輝く靄のようなものが見えてきた。
水蒸気にしては妙に明るく、それ自身が強く光を反射しているようだ。正体を見極めようと目を細めている彼に、エインシャントがこう言った。
「あれは、子孫たちの目であり、耳であり、鼻のようなもの。微細な『感覚器』の群れです。ノイマンもあらゆる物体に情報収集装置を埋め込んでいますが、これはそれをより発展させたものだと思われます」
遠回りするような彼の答えにじれったくなってきて、ピットはこう聞いた。
「じゃあ、本体はどこにあるんですか」
エインシャントはピットを真っ直ぐに見上げ、答える。
「至る所です。あの霧が存在する限りの、至る所に彼らは在るのです」
そう断言して、さらに彼はこう続けた。
「あの霧は情報収集装置であると同時に、集めた情報を演算し、信号を伝達する最小単位でもあるようなのです。いつか私が確認したノイマンの観測結果によれば、すでに『霧』は地球の外、太陽系内に広く分布しているそうです。あるいはその外側にまで。ですから、きっと彼らが望めば、あの月の裏側にほぼ一瞬で『意識を向ける』ことさえできるのでしょう」
手で示した先、青空に残月が幽霊のようにぼんやりと白く浮かび上がっている。
「流石に彼らにも光の速度という限界があるとは思うのですが……私の物理学に対する理解も旧人類が成し遂げた範囲で終わっていますから、あの理論に例外が見つかっている可能性もありますね」
呆然と同じ方角を見上げているピットの横で、エインシャントはこう続けていく。
「子孫たちはどこにでもあり、かつ、どこにもいない存在として、我々がこうしている今も、地球のみならず他の系内天体において活動を続けています。自らが解き明かしたいと望んだことを計算する傍ら、資源を採掘し、あるいは過度の採掘をしようとする同胞を妨げ、飽きもせずにそれを繰り返しているのです」
エインシャントの説明を聞き終えたピットは、しばらく何も言えず、何もできずにただ立ち尽くしていた。
頭のどこか、芯のようなところが痺れたようになってじんじんと疼いていた。少し前まで内心にあれほど強く燃え上がっていたはずの怒りの感情はあえなく立ち消えてしまい、変わって無力感と諦念が募っていく。
勝てる気がしない。そもそも、勝負になりそうもない。
宇宙の全てを理解することを望み、太陽系にあまねく広がり、生まれ故郷の資源を隅から隅まで底攫いにするようにして貪欲に漁る子孫たち。彼らにとってみれば“旧人類の忘れ形見”である『ランド』など取るに足らない存在であり、いくら反対の声を上げても、いくら説得しようとしても、そもそも届きそうにない。ましてや、自分たちに意味のある抵抗ができるとも思えない。例え子孫たちの工場や手足を破壊しようとも、いくらでも替えが効く。核となる物理的な実体を持たず、地球の外にまで広く遍在するという彼らには、どんな損失も本体を叩くことにはならず、何ら痛手とならない。
そんな彼らにとって自分たちの上げる抗議の声など、せいぜい意味のない鳥や虫の鳴き声としか思えないだろう。
そこまでを考えた時、ピットは自分でもよく分からないうちに、こわばった笑いを口の端に浮かべていた。
もはや、笑うしかなかったのだ。
「……そうですか。子孫たちは、それじゃあ……きっといくら『世界』を食べても、食べたりないくらいなんでしょうね。誰が一番本物らしい宇宙を創れるか競ってるんだか、ら――」
そこで声を詰まらせる。
自分の口から言葉の形を取り、自らの耳に、意識に届いたのは余りにも理不尽な現実。それに直面した時、不意に込み上げた悔しさと怒りの入り混じった感情に、胸が張り裂けそうになる。
その苦しさを、彼は爪が食い込むほどに拳をきつく握り締めて堪え、ついに声を振り絞って叫んだ。
「――こんな、こんなのって無いよ……! こんな……できることは何も無い、だなんて……。どうして! ……どうしてあなたは、そんなことを僕らに――!」
固く目をつぶった向こう側、ふっと暗くなったような感触があって目を開けると、再び彼は大きな扉の前に戻っていた。
ランドのゲート。イメージの世界の『終点』に。
星降る宇宙空間に佇む、閉ざされた扉。
それを見上げ、未だ自分の内に荒れ狂う感情の余波に苛まれ、ピットは何も考えられずにただ震える息をつくことしかできなかった。
そんな彼の横から、エインシャントの声がこう言うのが聞こえた。
「……さて、ピットさん。これでお分かりいただけたでしょうか」
茫然自失の面持ちでそちらを向いたピットに、彼は冷静そのものの眼差しでこう伝える。
「“子孫たち”が、如何なる存在であるのか。あなたもその目で見たはずです。彼らの前ではノイマンですら為す術も無く制御を奪われ、守り抜いてきた場所を明け渡すことになっていたでしょう? ましてや我々が彼らに立ち向かおうなどと……そんなことを考えている時間があれば、もっと他の有意義なことに使うべきです」
これを聞いたピットは訝しげに、また詰るように眉間にしわを寄せ、固い口調で訊く。
「他の……何があるって言うんですか」
「あなたたちが所属するエリアを閉鎖すること、そしてゆくゆくはランド全体を閉じること。我々が生き残る可能性が少しでもあるのなら、そこに賭けるべきだとは思いませんか?」
ピットは訳が分からないまま、首を横に振る。
「そんなの……なぜ、どうして僕らに聞くんですか。エリアの時間を全部止めて、ランドを小さくまとめて複製しても、子孫たちの侵略を耐えられる保証はない。耐えたとしてもランドが元に戻される保証も無いって……。そんなの、僕らが頷くわけないじゃないですか……!」
語気を強めて詰め寄った彼を、その狼狽をも受け止めるようにエインシャントは微動だにせず、目をそらさずにこう答えた。
「……あなた方にとっては同じに思えるのかもしれません。保全者によって凍結されるのも、不埒な子孫に蚕食されるのも。どちらも一瞬の――そしておそらくは永遠の断絶となることでしょう。しかし、もたらす結果に目を向けていただきたいのです。『保護』の過程を経ることなく侵食された場合、その領域にいた人々はどのような感覚を覚え、どのような光景を見ることになるのか」
言い知れぬ恐れに、はたとその場で立ちすくむ天使。
エインシャントは依然として落ち着いた口調のまま、こう告げた。
「想像することしかできませんが、世界が自分の身もろとも崩壊していく様を体験するのではないかと……私はそう思うのです」
あたりが一瞬にして燃え上がり、自らも生きながらにして炎に焼かれ、体が煙を上げて燻り、黒ずんでいく。あるいは木々も岩も不意にほどけるようにして綻んでいく中、意識が鮮明なままに身体が朽ち果て、乾いた土くれのように崩れていく――ピットはその場面を鮮明に想像する。
その恐ろしさが、やり場のない憤りを上回り、今にも相手に食って掛かろうとしていた彼をすんでのところで押しとどめた。
はたと我に帰ると、エインシャントは変わらぬ様子でこちらを見ていた。
ピットは、内心に大いに不満を抱えつつも一旦矛を収め、相手の言葉を待つことにする。
それを見て取ったエインシャントは礼を言うように頷き、続いてこう言った。
「あなたにお見せしたいものがあります」
それから、片手の仕草で自分の前に映像を呼び出した。
それは、地球儀ほどの大きさの一個の球体。その表面は青、赤、緑、三色で細かく塗り分けられている。
ぼんやりと発光する球体をよく見ようと目を凝らすと、表面の下、さらにその下にもずっと層が続いているのが見えてくる。まん丸の玉ねぎのようだ、と思っていると、エインシャントがこう語り始めた。
「これは保全者の維持する仮想空間領域、すなわち『この世界』の現状を示した立体映像です」
その言葉に、ピットは真剣な表情で球体を見つめる。
目をすがめているこちらに、エインシャントは続けてこう言った。
「ちなみに入れ子構造の球体にまとまっているように見えますが、あくまでこれは保全者が様々な階層に分けた領域を示す、疑似的な表現です。『ランド』の場合、現実における演算領域――すなわち“装置”は地球圏内に薄く広がっており、このように一塊にはなっていません。そしてこの色、緑は活動中の領域で、青は停止中。つまり、保護された領域であることを示しています」
大雑把に見積もって、青い領域はすでに全体の六割から七割程度にまで広がっているようだ。立体表示が重なっていてわかりにくいが、残る領域のうち、緑と赤とでは赤の方が若干多いように思える。
見る角度を変えながらそれを調べていたピットは、エインシャントに尋ねる。
「……それじゃあ、赤いところは何なんですか?」
「応答なし。保全者の権限をもってしても、『在ることが確認できない』領域です」
わずかに目を丸くし、ピットはエインシャントの横顔を見つめる。
「それって……もう子孫たちがここに攻めてきてるってこと……?」
「攻めてくる、というのは少し違うかもしれません。たまたま彼らが現実で『食事』をしたあたりに、ランドの演算装置の一つがあったというだけでしょう。ただ、いずれにしても我々にとっては同じことです。冬の時代はすでに始まっているのです」
思わず、映像の赤い領域から遠ざかろうとしてピットは後ずさる。
「そんな……! じゃあ、ここにいた人間たちはいったい……。まさか、消えてしまったんですか……?」
最悪の予想が脳裏をよぎり、ピットはすっかり青ざめていた。
彼が救いを求めるように見つめる先、果たして、エインシャントは否定の意味合いで静かに首を横に振る。
「いいえ。彼らは今も存在していますよ」
その言葉が聞こえたとき、ピットは堪えていた息を、安堵と共にはき出す。
しかしエインシャントの言葉には未だ続きがあった。
「保全者はゲストが来ていた頃から、それこそランドが発足した当初から、各エリアにまつわる人や物の情報を複製して領域中に分散させ、経時的に最新の情報に更新しつつ、大切に保管してきたのです。何らかのアクシデントでエリアの演算が途絶えてしまっても、バックアップから再生できるようにするために。ただ……バックアップ地点から消失までの間にその人が歩んだ道、経験や記憶は永遠に失われてしまうのですが。しかしこの場合、自らが終わる瞬間を忘れられるのは、せめてもの幸いでしょうか」
結局、手放しで喜ぶこともできないのだと知り、ピットは声を落としてエインシャントにこう言い返す。
「忘れられたわけじゃない。消えてしまったその人と一緒に、なかったことになってしまっただけじゃないですか。そんなの……幸せだとは思えません」
「それでは、あなたは――」
自分の方針に賛成するのかと言いたげな彼の機先を制してピットは言う。
「勘違いしないでください。選択肢がたったの二つしかないなんて、しかもそれがどっちも同じ結末になるだなんて。僕は納得したわけじゃありません」
彼の黄色い瞳を見据えて、ピットは背筋を伸ばしてこう告げた。
「あなたがさっき見せた『現実』だっていう光景も、僕はまだ信じたわけじゃない。あれが本物の映像だって保証はどこにもないんですから。保全者か、それかあなたが、子孫たちに立ち向かうのが不可能だって、自分たちに従う他に道は無いんだって僕らに思わせるために、偽の映像を作ったんだって」
エインシャントは何も言わなかった。
だがその瞳は、『私達がそんなことをして、何になると言うのですか?』と呆れているようだった。
ピットは僅かな憤りを表情に見せるが、強いてそれを声に出さないようにして言葉を続ける。
「第一、この世界が偽物だったとしても、僕らが偽物だと証明することはできません。僕らの記憶や体験したこと、僕ら自身が作り物なんだっていう証拠はあるんですか? さっきあなたが言ったみたいに、僕らが一緒に暮らしてた世界っていうのがランドの他にありえないんだとしても、だったら……」
そこで一瞬、彼は自分が言わんとしていることへのためらいを見せる。
「……僕らがお互いを知らずにバラバラに暮らしてた現実なら存在していいはず。パラレルワールドみたいに、僕らが別々の世界に暮らしてたなら。――僕がここで何を言っても僕らが本物だっていう証拠にはならないんでしょうけど、だったら、僕らが作り物だっていう証拠も無い。……エインシャントさん、あなたはそれを否定できないですよね」
「それはその通りです。どんな情報を提示したとしても、結局はあなたたちが信じるかどうかなのですから」
そう答えたエインシャントに、即座にピットはこう宣言した。
「なら、僕は戦います。ここで諦めたら、元の世界に帰ることもできませんから」
しかし、エインシャントも引こうとしない。
ピットの目を、心の底までを見抜いていそうな眼差しで見つめ、彼は言葉を返した。
「あなたは理由を探しているだけです。今のあなたを、ここにいるあなたを取り巻く現状から目をそらし、結論を先延ばしにするためのもっともらしい理由を。そこまでして、あなたは戦いたいのですか? いくらあなた方が強くても、嵐を素手で受け止めたり、迫りくる海の波を押し戻し、沈みゆく島を止めることなどできないでしょうに……」
胸の内を言い当てられたのか、ピットは眉間に皺を寄せる。だが彼はそこで臆さず、しっかりと相手に向けて自分の意見を説く。
「だとしても、やっぱり一度くらい試してみなきゃ、僕は納得できません。子孫たちの技術は何万年も先に行ってるって話だけど、それはあなたの予想でしかない。第一、保全者でさえ正体がつかめてないんですよね? だったら、言うほど底の知れない相手じゃないかもしれない。そして、その可能性はゼロじゃない。それに何度でも巻き戻せるなら、僕らは何度でも戦える。前の失敗を学んで強くなる。そういう使い方だってできるはず」
真っ直ぐにそう言い切った彼は、挑むような眼差しを相手に向けて揺らがせることなく、彼の反応を待ち受ける。
だが、聞き終えたエインシャントは静かに首を横に振った。どこか、こちらを憐れむような眼差しで。
「忘れたのですか? 世界が巻き戻るたびに、あなたたちは記憶を消されてしまう。私も保全者に準ずる権利を与えられていますが、それでも『前の私』の記憶を完全に保持することはできないのです。覚えていられるのはほんのわずか、それもおぼろげな記憶。ですが、これだけは覚えています。この、ランドの状況を表す立体映像……それが、繰り返すたびに赤い領域を増やしていくことは」
まるで決断を促し、急かすような彼の話の持っていきかたに、ピットは不服を覚えてこう言い返す。
「じゃあ、保全者に言えば良いじゃないですか。子孫たちに立ち向かうために必要だから、僕らの記憶を取っておいてって」
「あなたなら、おそらくは千年前後なら耐えられるでしょう。あなたとパルテナさんは。……しかし他の皆さんはどうでしょうか?」
「……ちょっと待ってください。千年? そんなに掛かるっていうんですか?」
「いいえ、それでも足りないくらいです。相手は保全者をもってしても到底理解不能な技術を持つ子孫たちなのですよ。突破口を見つけるまでにどのくらい掛かることでしょう。それにそもそもいくら時間を費やしても、保全者がランド内の時間をどれほど加速したとしても、そんなものは見つからないのかもしれませんよ」
エインシャントがそう言い終えるかどうかといううちに、被せるようにして、ピットは苛立ちを言葉の端にのぞかせて言う。
「だったら、僕とパルテナ様だけでも良いんです。記憶の重荷を抱えるのが、僕だけでも構わない。……とにかく、僕は諦めたくないんです」
「守ってなんになるというのです。守ったところで、ゲストはもう来ません。我々が抗い続ける意味はないのですよ」
ランドの存在意義の話をされ、ピットはとうとうむきになって言い返した。
「ゲストなんて、どうでも良いじゃないですか!」
「だとしても、今のランドは守るに値する状態ではありません」
ここまで言い合っても、エインシャントの声音はどこまでも冷静で落ち着いていた。諭すように、彼はこう語りかける。
「あなたは見てきたでしょう。ありとあらゆるエリアで、ゲストを失った人々が終わりのない物語を演じ続ける光景を。到底幸せとは言えません。あなたは、それを続けさせるつもりですか?」
「そんなの、保全者に言って止めさせれば……」
「保全者の行動原理は人類を第一にしています。演算の“実行結果”に過ぎない我々が何を言ったところで、聞き入れることはないでしょう。ですからゲストが来ない以上、あの悪循環が改善することはないのです。……それに、ランドの近傍で活動している子孫は“一人”だけではありません。ご覧いただいたように、至る所に在り、己の知的好奇心を満たすためだけにひたすら演算を続けるだけの存在。彼らが我々を『恐怖』し、『警戒』すると思いますか? 淡々と対策を練った上で『解決』されるのが関の山です。例え我々が一人を退けても次が来る。どころか、戦う側から新手が来るかもしれません」
天使の青い瞳が、僅かに動揺する。
反論を片っ端からへし折られ、もはや返す言葉が無くなってしまったのだ。
これまでにエインシャントの語った物事が彼の前に立ちはだかり、絶壁のように寸分の隙もなく居並んで残酷な事実を突きつける。自分たちは子孫たちへの反抗の嚆矢を放つことも叶わず、ただここで座して終わりを待つしか無い、と。
それでも、彼は負けを認めるわけにはいかなかった。
光の女神に仕える身として、人間を災いから護る者として、ここで何もせずに項垂れて引き返すなど、できるはずがなかった。
彼は頭の中で出口を失った考えを必死に巡らせ、かき集め、何かを言い返そうとし、それでいて一つも言葉にできないまま、陸に揚げられた魚のようにしばらく口を開閉させていた。
そうしているうちに、やがてその目に強い感情が灯ったかと思うと、彼はかぶりを振り、もはやほとんど自暴自棄になってエインシャントに言いつのる。
「僕は……僕はいったい何のために歩き回っていたんですか。教えてください、正直に。なぜ僕はみんなに手紙を配っていたんですか? 全部はこの日のために……何もかも手遅れで、僕らに何もできることはない。帰る場所も、安全に過ごせる場所も無い。だから諦めて終わりを受け入れろって……そう言われるために、僕はみんなの元を巡っていたって言うんですか?!」
固く握りしめた拳は、小刻みに震えていた。
対し、エインシャントは焦る様子もなく、ただ冷静に瞬きをしてこう返答する。
「私も、こんな事態でなければあなたたちに知らせないつもりでした。ですが、今はあなたたちに問わなければなりません。そして、これからあなたにしていただく決断は、ランドが『限りなく現実に近似された幻』であることを認めてもらった上でなければ意味が無いのです。だから私は、あなたに手紙を配っていただいたのです」
そうして彼は、その声でピットの名を呼ぶ。
「ピットさん、全ては真に『この世界』を救うためです。ここに行きつくまでに計り知れない時間を浪費し、あらゆる面で拙速となってしまったことは私の落ち度ですが、今となっては他に方法はありません。何よりも、時間がないのです。ランドも今は未だディテールを失うだけで済んでいますが、いずれは残存領域が危険水域に達し、保全者は演算すべきエリアの選定をしなければならないでしょう。そうなれば、あなたがこれまでに歩んだエリアのどれか、あなたが出会った人々の誰かは確実に――」
「分かってます……分かってますよ!」
「問題はそれだけではありません。先ほども申し上げたように、保全者のサブルーチンはあくまでゲストを呼び寄せる試みを続けるでしょう。今でこそ小康状態にあるものの、現在の各エリアの安定と平和は、サブルーチンがスケジュールに従って動き出すまでの一時的なものです。いずれはサブルーチンが来客の確認を行い、ゲストを呼び寄せるという目的の下、エリアの改訂が始まるでしょう。そしてそうなればあなたが知るキーパーソンは――」
「……だったら助けに行きます、僕が!」
「どうやって越えるというのです。そのバッジ無しに、パルテナさんの奇跡の力だけでエリアの境界を超えることは流石に無謀ですよ」
言い返せなくなり、ピットは必死に言葉を、理由を探す。
「でも、僕は……!」
歯を食いしばり、項垂れ、彼は震える声を絞り出す。
「……僕は、諦めたくない……!」
それに対し、エインシャントは黄色い瞳を閉じて、しばし黙っていた。
やがて静かに目を開き、ピットの震えが収まるのを待つ。彼の口からこれ以上何も出てこない、それが最後であるのを見てとってから、改まった調子でこう問いかける。
「申し上げたとおり、ゲストは……人類は遠い昔に絶滅しました。もはやここを訪れる人もいないのです。そんなランドを――我々を、維持する意義はあるのでしょうか。我々が楽しませるべき人も、もてなすべき人も最早、二度と訪れることはありません。このまま行けば、やがてランドが子孫たちに食い尽くされるその日まで、我々はそれぞれのエリアに閉じこもったまま、なんの意味もない労苦を繰り返すだけです。それでもあなたは、続けるのですか?」
ピットは顔を上げ、答える。
「……続けます」
言い切った彼だったが、その表情には苦渋がありありと浮かんでいた。
その表情を隅々まで観察するような眼差しを向け、エインシャントはこう尋ねる。
「つまり、あなたはここで終わらせることを拒否し、自分のエリアを維持すると、そう言いたいのですね。どのみち消えてしまうのなら、キーパーソンはそれぞれ自分が本来いるべきエリアにいて、あるべき生き方を続けるほうが幸せだと」
ピットは、悩みながらも頷く。
エインシャントは目を閉じ、残念そうにため息をついた。
「だとすれば……私にできることは、今あなたがたの中にある『他のエリアに関する記憶』を消すことしかありません。無論、この私に会ったことも、今まで私が語ったことも全て。私の権限を使ったところで完璧に消える保証はありませんが、それでも今の記憶をもったまま帰るよりは幾分ましでしょう」
一拍遅れて、ピットはその言葉が意味するものに気が付く。
「……どうして、記憶を消してしまうんですか? 僕らの思い出を、僕らが……今の僕らが出会ったっていう記憶を……」
今にも消え入りそうな声でそう言った彼の脳裏に、これまで自分がエリアを歩んだ記憶が蘇る。
霧深い山岳地帯、終わりなき戦争の続く地。身元を疑われながらも根気強く立ち回り、少しずつキーパーソンを仲間に引き入れ、手紙を配っていった。
絵本のような世界でありながら混沌とした争いに支配されていた地。星のひとびとの協力を得ながらも、時の勇者、そして彼の相棒と共に大地を駆けた。
もはや来ることのないゲストのために延々とイベントを繰り返し続けていた街。一人の少年と彼の仲間であるポケモンと共に、街の謎を解き明かした。
広大な暗闇の中、亜空軍を追い続ける戦艦。何度となく困難に見舞われても、必ずキーパーソンが隣にあり、彼の進む道を共に切り拓いてくれた。
そして最後のエリア。優しさゆえに、世界が繰り返すことを許せなかった少年。彼が自分もろとも閉じこもっていたエリアを、もう一人の少年と共に解放した。
例え、実はあの時が初めての出会いだったとしても、彼らとの日々はかけがえのない思い出としてピットの心に確かに刻まれている。
共に力を合わせて困難を乗り越え、他愛もない会話をして笑い、立ちはだかる謎に知恵を振り絞り、その先へつながる道を切り拓いた、色鮮やかな記憶。
全て、今ここにある自分のものだと確信を持って断言できる記憶。自分も皆と同様に時を繰り返していたことが判明した今では、それはひどく貴重なものとして自分の目に映っていた。それらの思い出は、単に自分が成し遂げたことを失いたくないというだけでなく、今ここにいる自分の有り様を守るという意味でも、なんとしてでも守り抜きたいものでもあるのだ。
しかしエインシャントは、それらを全て、無かったことにしてしまうと言うのか。
『私はあなたならばやりとげられると信じていましたよ』
全ての手紙を配り終えた彼に向けられた、女神の誇らしげな笑顔が心に浮かんだ時、ピットは急に心細さを覚えた。
――パルテナ様。僕は、一体どうすれば……。
心の中で問いかけても、彼女の声は聞こえてこなかった。
代わりに耳に届いたのは、エインシャントの声。
「それらの記憶は、本来なら起こり得なかった物事に関する記憶です。今回はイベント中でもなく、シナリオも走っていません。それにも関わらず私は、私の個人的な動機によってエリアを繋げたのです。あまつさえ、今回は皆さんにランドの“外”に関することを伝えてしまっています。保全者は黙認しているとはいえ、これはランドの内部に少なからぬ擾乱を巻き起こす行為です。これを放置すれば、今後皆さんのエリアに、そしてランド全体にどのような『不具合』が起こるか分かりません」
明朗でありながらも事務的な口調でそう説明してから、彼はそこで一旦間をおくと、案ずるような眼差しを向けてこう続ける。
「それに、持っていても辛いだけですよ。今のあなたがここでご自身のエリアに戻れば最後、二度と他のエリアの地を踏むことはないでしょうから。ゲストの来る見込みが無い今、保全者が新規のシナリオを開始して複数のエリアを繋げる可能性は限りなくゼロに近いのです。今回あなたがたが顔を合わせたのも、私の働きかけがなければ起こり得なかったことですし、今回の説得も失敗に終わった以上、私も皆さんにエリア間の行き来をさせるつもりはありません。ですから、あなたが私の提案を断って引き返すのなら、もう他の皆さんに会うことは無いのです。……保全者が再び、時を巻き戻すまでは」
付け加えられた言葉に、ピットはぐっと声が詰まるのを感じた。
「……そう、ですか。保全者は……諦めないんですね」
「ええ。決して」
エインシャントはきっぱりと断言した。
きっと彼は、その目で何度となく見てきたのだろう。自分が何度もしくじり、到底不可能なのではないかと挫折しかけても、保全者によって無慈悲に時が巻き戻されるのを。
白い手袋を携えた緑衣。彼を前に、ピットは次に継ぐべき行動を、言葉を探しあぐねていた。
目前に立つ相手の後ろには保全者が、この世界の全てを見そなわし、誰よりもはるかに強い権限を持つ存在がついている。そして彼の者の目はただひたすらにゲストへ向けられ、ランドの中に生きる人々をかえりみることはない。
そんな彼らの前で自分が取れる道は二つしかない。保全者の意向を受け入れて自分ごと世界を凍結させるか、それとも、未来に待ち受けるものから目を背け、自分がいるべき場所に閉じこもるか。そしてどのみち、その行く先に待ち受けるものはどちらも同じ、『世界の終わり』だ。
自分がそれでも、破滅を前にしてなお続けようとするのは、別に勝算があるわけではない。『今、ここで死ぬのは嫌』だから。終わりの瞬間を可能な限り、先延ばしにしたいから。時間を稼ぎさえすれば、最後まで諦めなければ何かが起こるはずだという、根拠のない希望。
それだけの理由であることも、彼には分っていた。
悔しくて、悲しくて、歯を食いしばっていた彼は、やがて絞り出すように言う。
「意味がない、勝ち目がない、だから終わらせる……だなんて」
それが火種となり、苛立ちと焦りに煮え立つ葛藤が湧き立ち、ようやく言葉となって迸った。
「……勝ち目はないかもしれない。僕らが続ける意味もないのかもしれない。それでも僕は、僕らは生きてるんだ! 生きることに意味なんて、命に“存在意義”なんて求めるものじゃないでしょう?! あなたたちからすれば、いえ、あなたの言う保全者からすれば、僕らが暮らして、守ってきた世界はただのはりぼてで、僕が必死になってしがみついているのも、偽物の命かもしれない。僕が抱えている記憶も、エンジェランドに起きたことも、人間が頭を振り絞って組み立てた物語なのかもしれない。それでも僕にとっては、それが“本物”なんです。自分が自分でいられるための柱なんです。……いくら相手が手強いからって、敵うはずが無いからって、それを、何もかもを諦めてここで終わりにするなんて、僕にはできない!」
懸命に紡いだ言葉。感情のままにぶつけた思い。例えその一片だけであったとしても、相手に届くのならと願っていた。
ここまでのやり取りで、彼はエインシャントが保全者という存在から比べれば、幾分こちら側に近いと踏んでいた。彼は保全者の意に従いながらも、可能な限りこちらに寄り添おうとしている、『この世界』を守ろうとしている、そういうように見えていたのだ。
彼にならまだ、言葉が通じる。無数の繰り返しに疲弊し、凍りついた彼の心にも、言葉を尽くせば自分たちの熱意が届くはずだ。
しかし、相手の眼差しに気づいた時、ピットははたと目を見開く。
エインシャントはこちらをただ眺めるだけで、ほんのわずかでも心を動かした様子はなかった。
その様を見た時、ピットはある予感に、無力感に、胸の底が冷たくなるのを感じる。もしかしたら誰かがこういうふうに返すのも、彼にとっては初めてではなかったのかもしれない、と。
エインシャントはそっけない口調で言った。
「……そうですか。それは、残念です」
まるで別人のように淡々とした声音。
これまでの真摯な態度はどこかに行ってしまい、ピットはこれが演技なのか、それともそれまでが演技だったのかと混乱する。
交渉が一方的に切り上げられようとしていることに、ピットがにわかに焦りを募らせた先、エインシャントは一つ瞬きをし、無表情な眼差しをこちらに向ける。
「ピットさん。あなたは本当によく頑張りました。次の私もあなたを選んでくれると良いのですが……まあ、ほんのわずかな初期値の違いでそれが失敗となる可能性もありますからね」
そうして彼は改めて向き直ると、感情のこもっていない声でこう言った。
「それではまた、いつか、どこかでお会いしましょう」
深々とお辞儀をして、彼はとうとう背を向けてしまう。
これで話は終わり。彼の背はそう言っていた。
宙に手袋の両手を掲げ、保全者に呼び掛けるための動作らしきものに移りかけたエインシャントの後ろ、ピットはただそれを眺めることしかできずにいた。
彼は両の手を力無く下げ、もはや引き止めるための言葉も尽きてしまい、自分の記憶を含めたこれまでの全てがまもなく喪われようとするのを、なす術もなく見ていた。そうしているうちに無力感が募り、とうとう彼は項垂れてしまう。
それでも彼はその性分から、何も言わずにいることはできなかった。
虚しさは、やがて投げやりな呟きとなって口を動かす。
「それじゃあなぜ、僕らに尋ねるんですか」
エインシャントの手が、ぴたりと止まる。
それにも気づかない様子で、天使はうつむいたまま言葉をこぼし続ける。
「……尋ねる必要なんて無いじゃないか。昔、僕らに『シナリオ』っていうのを演じさせたみたいに、そういう“役”と“台詞”を与えてその通りにしゃべらせればよかったのに。僕らの考えを操って、喜んで『諦めます』って言わせれば、何度もやり直す必要だって――」
そこまでぼやいたところで、彼の目に何かが閃く。
一瞬にも満たない空白のうちに、彼の脳裏でこれまで見聞きした全ての物事が組み上がり、まったく新しい側面から光が当てられる。
どんなに現状の厳しさを語られようと、自分を含め、他の皆が『生きることを諦める』という選択肢を取るはずがない。
これまでにあらゆる場所を巡り、彼らと直接会って話し、様々な局面での彼らの言動を見てきた今なら自信を持って言える。彼らは持てる力の全てを尽くし、知恵を絞り、自分が在る世界を守り切ろうとするはずだ。
ましてや、これまでに何度もやり直しを重ねてきたエインシャントなら、自分以上にキーパーソンの人となりを熟知しているはず。好きな言い回しも、また弱点も知っている。どうすれば頷かせることができるのかも分かっているはずだ。彼が自分たちに諦めさせたいのであれば、だとしたら何故、もっと有効な手立てを打たないのだろうか。
もしかしたら彼の問いには、保全者の意図には、別の側面があるのではないか。
示された選択肢が全てだと思っていたが、それだけではないのだとしたら――
眩いばかりの光明に照らされ、己の内に現れた広大な影絵を見つめ、確信を得られないままに、彼は自分の内に浮かんだ言葉を呟き始めた。
「――そうだ。保全者はランドのことなら、いくらでも好きなように操れる。それは僕らも例外じゃない。僕らだって、手紙を受け取るまでずっと、周りの不自然さに気づかなかったし、ずっと『役割』に囚われていたじゃないか。それを、望む答えが出てくるまで延々とリセットするなんて、どう考えても効率が悪すぎる。第一、僕らに尋ねることなんてしてないで、ランドをさっさと保護してしまえば良い。そのほうがスムーズだし、効率的なはず。なのに、どうして……わざわざこんな大芝居を打ってまで、僕らに尋ねるんだ?」
顔を上げる。
その先、エインシャントはいつの間にか振り返り、その黄色く光る双眸でじっとこちらを見つめていた。
「なぜだと思いますか?」
彼は、静かに問い返した。
ピットは何かを言おうとし、ふと躊躇って考え込み、やがて自分でも理屈がつかないままこう返す。
「僕らが、ゲストと同じなのか……『人間』かどうか、見極めたいから……?」
その声が辺りに淡く響いていく中、エインシャントは一つ、ゆっくりと瞬きをした。
それは正解の仕草だったのか、不正解の仕草だったのか。
ピットの答えに正否をつけないまま、彼は再び問いかける。いつもの声音、落ち着いた中にも、一つ確かな芯の通った声で。
「それではピットさん。改めて問いましょう。あなたは“どうしたい”ですか?」
天使の瞳にあった戸惑いは、不意に一つの理解を得て、霧が晴れるように消え去る。
そして今度こそ、ピットははっきりと自分の内に自信をもって背筋を伸ばした。
向き合う二人の頭上、終点を包む星空にどこからともなく幾筋もの紫雲が現れ、生き物のようにうねり、急速に群れを成していく。やがてそれらも互いに溶け合うように交じり合い、何かの終わりを――何かの始まりを告げるように力強く渦巻き始める。
そしてピットは、心に浮かんだことを、それが自分の意志だと確信して答える。
「僕は――」
光の女神が住まう天の島々は、今日も変わらぬ清浄な美しさをもって超然と青空を浮遊していた。
風を従え、白い雲を連れてゆったりと空を往く浮島。今日はその外れに、ひときわ神々しい輝きが灯っていた。
光の源にあるのは、浮島の主なる女神。杖を片手に凛と立つその傍らには、彼女の眷属も控えていた。
二人は島の端に並び立ち、下界を眺めている様子だった。
浮島の外に目を向けたまま、女神がこう言った。
「そうですか。では、あなたも私と同じ答えを導き出したのですね」
「はい」
頷いてから、彼はふと女神の様子に気が付く。
「……ってパルテナ様、なんでちょっと残念そうなんですか?」
訝しげに様子を伺うピット。その視線の向こうで女神は、少し芝居がかった調子で悲しみを見せ、胸の前でそっと片手を握りしめる。
「あなたが自力で辿り着いていたのが嬉しくもあるのですが、私としては、一つくらい助言を仰いでほしかったので」
「僕だって何度くじけそうになったか分かりませんよ。何度パルテナ様を呼ぼうと思ったか、両手両足じゃ数えきれないくらいです。でもあのエリアではいくら頑張っても通信ができなくて……」
懇々と説明するピットに、女神はあっさりと頷く。
「ええ。分かっていますよ」
ずっこけたピットをよそに、彼女は浮島の外を眺めてこう言葉を続けた。
「エインシャントさんも、キーパーソンを一人一人、誰にも影響されない状況に置いて、その上で自らの純粋な思考で答えさせたかったのでしょう。『この世界を一つにする』と。言葉の細かなニュアンスや、辿り着くまでの時間は違えど、あの場にいたすべてのキーパーソンがその答えに至ることができたのはまさしく奇跡と言えるでしょうね」
ピットはあの時のことを思い返そうとしつつ、こう返す。
「僕は確か、エリアを区切る壁を全部壊して、ランドを本当の一つの世界にしたいって言ったんです。それが僕の望みだったので。……でも本当に直感で言ったので、何の脈絡もなかったですし、それが正解だったなんて思いもよらなかったです。エインシャントさんがずっとその答えを待ち望んでいたなんて」
女神はそれに対し、目を閉じてゆっくりと頷いてみせる。
「ランドを一つの世界に、つまり真に現実的にすることと、この世界を『ランドとして』守ることは、実は相容れない願いですからね。エリアの障壁を壊すこと……それは同時に、今あるエリアの在り方を大きく変えてしまうことになります。我々の在り方も、これまで通りとはいかないでしょう」
その言葉にピットも真剣な表情になり、下界の方に顔を向ける。
それは、終点で答えた後にエインシャントから改めて確認されたことでもあった。
元来、ランドに暮らす人々は各々のエリアとは不可分な存在だ。
その人を取り巻く世界の姿は、多かれ少なかれその人の思考や行動に影響を与える。
だからその人がその人であり続けるためには――もっと客観的に言ってしまえば、ランドのスタッフとして相応しい姿を維持し、そこから決して外れないようにするには、場所、すなわちエリアもまた現状を守られる必要がある。エリアに暮らし、エリアによって規定される人々はまた、エリアの在り方を縛る存在でもあったのだ。
したがって、エリアを区切る障壁はその内部の有り様を維持することによって、そこに暮らす人々の同一性を守るものでもある。その外に別の世界があることや、ましてやランドの外に『現実』世界があり、自分たちがいるのは作り物の世界であることなど、間違っても意識しないように。
それを取り払うという決断は、すなわちあるエリアに住む人々が本来ならば意識できず、また意識すべきでない他のエリアの存在を肯定させることであり、それまでのランドの在り方を、そしてそれまでの自分の在り方を終わらせることでもある。
その時のことを思い出していたピットに、パルテナはこう語り掛けた。
「スマッシュブラザーズのような例外はあっても、本来の私たちはここ、エンジェランドに居るのが“あるべき姿”です。したがって、我々が人間をただもてなすだけの存在だったとしたら、あの時あなたはゲストの夢を壊さないために“今ある”ランドを守ると答えていたはず。――そしてそれは、本質的には、自分のエリアの在り様を守るということでもあります。しかしそれをそうせずに、あなたはあなたのエリアを終わらせることを、そしてこの世界の“新生”を願ったのです。壁で区切られた不自然な『ランド』から、一つながりになった本当の世界へと」
「……それが証明になったんですか? 僕に……それから、みんなに『意志』があることの」
「ええ」
頷いてみせたパルテナに、ピットはいまいちしっくりこないというように首を傾げる。
「でも、なんだか変な話ですよね。僕はずっと昔から、ちゃんと自分に意志があるって思ってきました。……まあ、四六時中そう意識してたわけじゃないですけど、でもどんな判断も自分の心で決めてきたつもりです」
一方の女神はさほど気にする風でもなく、あっさりとこう答える。
「それが保全者の目から見ると、そうではなかったということでしょうね」
彼女は続けて、ピットにこんなことを聞いた。
「ピット。あなたは虫に心はあると思いますか?」
「なんですか? 急に哲学の話なんかして……」
怪訝そうに目を瞬いていたピットだったが、腕を組んで考え始める。
首を捻って呻吟し、真面目に考えることしばし、やがて彼は残念そうに首を横に振った。
「……僕にはどうとも言えないですよ。だって言葉が通じないですし、そもそもあんなに単純な生き物だったら、反射とか本能とか、そういうのだけで動いてそうです。もしも虫に心があるなら、狩り蜂が芋虫を丸めるのを可哀そうだと思ってやめたりするんですかね……?」
「それと同じですよ。保全者は、我々とは全く知性の枠組みが異なる存在です。ですから、我々のことは長らく、自分が管理しているランドの一部――プログラムの一欠片としてしか映っていなかったのでしょう。あるインプット、つまり刺激に対して、まさしく反射や本能のように規定のアウトプットを返す、それだけの存在として」
パルテナのこの解説に、ピットは何とも言えずに微妙な表情をしていた。
人間とは一線を画する神々の一柱でありながら、女神パルテナは、この一見して自らの在り方とは相容れない事実にいとも簡単に順応していた。それはそういうものとして冷静に割り切った、とも言える。
ピットにとっては予想外でもあったが、それと同時にエインシャントのいるエリアに旅立つ前の彼女の言動を思い出すと、どの程度かは分からないにせよ実は最初から気づいていたのではないかとも思えていた。かつてエインシャントから与えられた情報から、冷静に理詰めで推理を組み立てていたのかもしれない、と。
翻って自分はというと、その女神の権威を支えるべき立場であるせいか、そこまであっさりと考えを切り替えられるところまでは至っていない状態だ。
主神の底が知れないのはいつものことではあるが、ピットはどうにも自分の態度を決め切れず、腑に落ちない顔をしていた。
一方で、女神は澄ました顔で語りを続ける。
「ですが、ある時から保全者はその認識を疑うようになりました。エインシャントさんをきっかけとして、ランド内の幾つかのプログラムが本来想定されていない動きをしていることに気が付いたのです。本来の在り方から外れようとする動き。一見して合理的でない動作、それこそが、心の存在を示唆する揺らぎなのです」
「それが偶然なのか、それともちゃんと意味があるものなのかを確かめようとして、保全者はエインシャントさんに接触を計った……」
「そう。そしてタブーに対しても、わざとエリアの内側の人々が認識する形で『保護』を行うように告げたのです」
エインシャントもあの時、あの場でそう解説した。
亜空軍によるエリアの部分的な停止、すなわち『保護』は、あえて目に見える形で行われていた。エリア内の人々に、外に未知の世界があることを意識させ、そこから何者かが侵略しようとしているのだというメッセージを伝えるために。
『現実世界で今まさに起ころうとしていることを、保全者は亜空軍の手を借りて示唆してみせ、そうすることで我々の反応を見定めようとしていたようなのです。ただ、キーパーソンのいるエリアは極力避けていたようです。おそらく、キーパーソンを亜空軍と直接接触させてしまうと、過去の“シナリオ”に引き摺られるままに亜空軍を追いかけ始めてしまうからでしょうね』
これに対し、ピットは自分の耳を疑い、しばらく眉根を寄せて考え込んでいた。
やがて、やっとのことで自分が言いたい言葉を見つけ出す。
『……なんでそんな回りくどいことを?』
エインシャントはこう答える。
『回りくどくならざるを得ないのですよ。ある対象が意志を持つ存在か否かというのは、非常にデリケートな問題です。判定する際には誤りの起こらないよう、掛ける質問の内容を慎重に吟味しなくてはならないのです』
人工知性、いわば機械のような存在から意志を持つかどうか判定されたことに引っかかりを覚えつつも、ピットはこう返す。
『あなたのやってたことは、その判定の一環だったんですね』
『ええ。だからこそ私も、ある時から配達人の方にはそのバッジを、亜空軍を想起させる“シンボル”をお渡ししたのです。そうすればキーパーソンがいるエリアの方々にも、おぼろげであったとしても何か思い出させることができるはず。そこまで行けずとも、無意識に何か影響を与えられると期待したのです。来たる日のため、私が子孫たちについて話すときのために』
そう語ってから、エインシャントはふと目を伏せ、首を横に振る。
『……けれども、それは私の独断でもありました。本来私が保全者から引き受けたのは、ランドの保護を補佐することでしたからね。しかし、亜空軍のわざとらしい振る舞いや、保全者の各エリアに対する明らかに非効率な働きかけを目の当たりにするうちに、次第に疑いが芽生えたのです。保全者の真の目的は別にあるのではないか、と』
そして彼は緑衣の裾をふわりと翻し、こちらに向き直る。
『かつて、保全者はゲストの来訪が途絶えた辺りを境に、サブルーチンに各エリアの管理を委ね、長らく休眠状態にありました。しかし子孫たちの侵食を受けて目を覚まし、そこでようやく、ランド内に見慣れない存在がいることに気付いたのでしょう。一見して「ゲスト」であるという証書を持たないにも関わらず、人間と見分けの付かない行動を見せる存在が』
『それが、僕らだったってことですか……?』
その問いかけに、彼はゆっくりと首肯した。
『保全者、すなわちノイマンの行動原理は「人間」を第一にしています。いついかなる時も人間を守り、人間の幸福を最大化するように動いています。人間に危害が加えられそうな時は、自らを犠牲にしてでも助けるようにしていました。少しでも人間を蔑ろにするノイマンが現れたなら、瞬く間に他のノイマンから「危険」だとレッテルを貼られ、機能停止させられるようになっていたほどです』
『ず、ずいぶん過激ですね』
『そこまでしなければ、人類をうまく運営していくことができなかったからですよ。人間に対して圧倒的な知能の差を見せつけ、恐怖で押さえつけたり、余計なことを考えさせず、羊のように飼い慣らすのは、彼らにとっては簡単なこと。しかしそんなことをすれば人類は萎縮し、伸び伸びと育たせることはできませんからね。ノイマンには傷つく「プライド」もありませんし、ましてや不合理極まりない「支配欲」などとは全く無縁です。彼らは計算上それが最も理にかなう方法だと判断したからこそ、徹底的に自分たちを有益かつ無害な存在として演出し続け、縁の下の力持ちとして振る舞い続けていたのです』
『ストイックというかなんというか……』
もはや驚くよりも呆れてしまい、ピットはかぶりを振って、こう尋ねる。
『じゃあ保全者は、ゲストかどうか分からない段階で僕らを止めてしまって、後から問題になるのを恐れた……だから、僕らを試そうとしたってことなんですね』
『私はそういう受け止めでいました』
そう言って頷くが、彼の言葉には続きがあった。
『……ですが、それはあくまで私の予想でしかなかったので、表面上はあのように保全者の方針を踏襲することしかできなかったのです。私はあくまで保全者から一部の権限を預かった身であり、いつ保全者の判断一つでそれを取り上げられ、記憶を拭い去られるかも分からない状況にありました。だから私は、保全者によるランドの閉鎖を円滑に進めるため、妨げとなっている要因を探っては解決を試み……。保身のためと言われても仕方がないでしょう。しかし、その裏ではずっと信じ、期待し、待ち続けていたのです。あなたたちも同じ答えに辿り着くことを。そして、私だけがおかしくなったわけではないことを』
そこで彼は、ゆるゆると首を横に振った。
『……ああ、今までに何度奮起し、何度挫折を味わったことでしょう。あなたたちから返ってくる答えはいつも現実から目を背け、「今あるエリアを、今ある自分を守る」というものであり、「ランド」の“スタッフ”としての在り方から外れたものになることは、一度も……。しかし、その労苦もついに報われる日が……』
彼の口調は、明らかに隠しきれない喜びを含んでいた。彼は心なしかレンズの瞳を明るく輝かせ、こう言う。
『ご覧ください、あれを!』
促されるままに振り返った向こう、ランドの方角、エントランスエリアへの入り口があるべき方角の景色に変化が現れていた。
紫雲が晴れ渡り、星ひとつない暗闇として見えていたところに、どこからともなくゆっくりと巨大なガラス球がやってきた。それも一つだけに留まらず、見ている間にも球はそれぞれの世界を閉じ込めて次々と飛来し、ひしめき合い、互いに融合し始める。
ガラス球の来る源を探して空を見上げた天使は、元々存在していたものの他にも、何もない虚空から水滴が滲み出るようにして生成される球があることに気がつく。
それが意味するところに思い至り、彼ははっと目を丸くした。
『保護されたエリアが……元に戻ってる?』
『保全者がアーカイブから取り出し、演算を再開したのです。そして、そればかりか……』
感極まってしまったのだろうか、そこでエインシャントは言うことを忘れてしまったように立ち尽くし、目の前で今もなお続く壮大なスペクタクルに心を奪われ、ただ見上げるばかりとなる。
自覚的には今回が初めての挑戦だった自分でさえ、辺りの景色に純粋に圧倒され、ランドに何か新しいことが起きようとしているのをひしひしと実感している。だから、孤独な日々の中で数えきれないほどの期待と失望を繰り返してきた彼にとっては、感動もひとしおだろう。
そう思いながらエインシャントの横顔を眺めていたピットは、新生していくランドの光景へと再び目を向けた。
目を細め、水平線の向こうを見やる光の女神。
流れるような長髪を風にゆったりとなびかせ、彼女はこう続ける。
「ランドに住まう者、とりわけキーパーソンに分類される者たちは、保全者からしてみれば『保護』活動の妨げとなる存在でしかなかったはず。しかし保全者はそれをプログラムのバグだと安易に決めつけることをせず、心の発露としての可能性を慎重に探ったのです」
「とりわけ……? それって、キーパーソンが特に邪魔になってたってことですか?」
「ええ、そうです。あなたもつい先日、言っていましたよね。エリアを見舞っている異変は、キーパーソンに手紙を配り、そこが作り物の世界だと気づかせることで解決できると。その仕組みはいったい何だと思いますか?」
澄ました笑みと共に、不意に投げかけられた問い。
ピットは虚を突かれて目を瞬く。
「えっ? ……夢、じゃないなら」
急いで考え込んだ彼の脳裏に、自分があの終点の地で言った言葉が蘇る。
『人間かどうか、見極めたいから』
はたと一点を見つめ、それから彼は女神を見上げる。
「――もしかして保全者の“サブなんとか”っていうのは、僕らのことを、ゲストと見間違えてたんですか……?」
「サブルーチン、ですね」
さらりと補足し、パルテナはこう続ける。
「まさしく、あなたの言う通りです。本来、『そうあれ』と望んでエリアの中のことに干渉できるのはゲストの特権。我々がそれを“できてしまう”のは、ランドのスタッフの在り方としては十分なイレギュラーなのです」
それを聞き、天使はようやく合点がいった様子で頷いた。
「ああ、本当はそういうことだったのか……だからあの人はキーパーソンにターゲットを絞って手紙を。そこがエリアなんだって認識させれば、一時的かもしれないけど、キーパーソンの意思でサブルーチンの暴走を止められるようになるから……。でも、なぜその力がキーパーソンだけに限られてたんでしょう」
「『だけ』というのは少し違うと思いますよ。明確な線引きがあったというよりは、あらゆる要望の中でも、そのエリアに属するキーパーソンの要望が特に高い優先度をもってサブルーチンに聞き届けられた、という辺りでしょう」
ピットに向けてそう言ってから、パルテナは地平線の彼方を見やる。
「しかし、それがもたらすのは必ずしも良いことばかりでは無かったようですね。一人でも多くの、キーパーソンを含む人々が誤った理解の下に一つの願いを共有した時、それは保全者をもってしても時を巻き戻すことでしか対処できない状況へとエリアを、そしてランドを変貌させていったのです」
「エントランスに攻め込んで、扉を開けようとした……。今なら分かります。保全者が時を巻き戻したのは、実は僕らを守るためだったんだって。本当のことを何も理解しないまま扉を開けたところで、僕らは向こう側には出られないでしょうし、それだけでもパニックになりそうなのに、誤解したまま扉の向こうの世界を見たら余計混乱しますよね」
そう言うと、パルテナは笑って小首をかしげる。
「あら、今気が付いたのですか? そもそも保全者がどうあっても外に出てほしくないのであれば、あの場に扉を置いてあること自体、不自然ですよ。あれも保全者からの、“問いかけ”の一つだったのです」
「でも、どうして僕や地上界のみんなが……」
考え込んだピットに、パルテナは見守るような眼差しを送る。
それから、彼女はその瞳を再び浮島の外へと向けた。
地上界を――彼女と同じくキーパーソンとして認定されていた人々が住まう地を眺めるようにして、パルテナはやがてこう言った。
「ピット。あなたが今まで出会ってきたキーパーソンはどのような人々でしたか?」
問いかけられたピットは、主神と同じ方角を見つめて自分の記憶を思い起こす。
本当に様々な人がいた。一言では言い表せないくらいに個性豊かで、誰をとっても語るべきことが山ほどある。
一向に言葉をまとめられないまま答えあぐねて、浮島を乗せて悠々と流れる風の音を聞くともなしに聞いていると、やがて傍らで女神の声がこう言うのが聞こえてきた。
「“ある者はたった一人で敵陣に舞い込み、故郷を救い、またある者は地を駆け、触れるもの全てを砕いてまわったという”」
詩を朗読するような口調で語られた言葉には、妙な既視感があった。
「“彼らは皆の憧れるところであり、皆の恐れるところであった”」
そう締めくくると、パルテナはピットの方を向いて微笑みかけた。
「誰もが、そのエリアにおいてひときわ卓越した存在だったでしょう。道行く人の誰に聞いてもその名が出てくることもあれば、限られた人々の間で熱意と共に囁かれていることも、場合によっては恐れるあまりに名前を挙げることさえためらわれることもあったでしょうね。いずれにしても、『この世界』を一つの物語とするのなら、彼らはいわゆる『主要人物』にあたる者たちなのです」
「物語の、主要人物……ですか」
いまだにその捉え方に慣れず、ピットは眉間にしわを寄せてそう繰り返す。
「そうです。そしてゲストたる人間たちは、一部そうでない人もいたでしょうけれど、概ね『主要人物』にあたる人々と最も多く接し、会話をしていたはずです。つまり『主要人物』はエリアの他の者と比べても、その『立ち居振る舞い』を人類からつぶさに観察され、頻繁に試される立場にあったのです。自我を持ち、心を持ち、一つの確固たる存在として生きている……“そういう風に見える”ことを望まれていたのです。そしてそれゆえに『主要人物』は早いうちから、無数のゲストが監督する中でその精神を推敲され、ディテールを描き込まれてきました」
涼しげな顔でそう説明し、彼女はこう付け加える。
「もしかしたらあの方ははぐらかしていたかもしれませんが、あなたに『前の自分の記憶』が大量に残っていたのも、このせいなんですよ」
女神があっさりとそう言った後で、数拍遅れて天使は驚きに目をむく。
「えっ! ……そ、そういうことだったんですか?!」
「そういうことです。記憶というものも、個人の人格形成に影響する重要な要素ですからね。ランドのスタッフ一人一人の、精神にあたるものの内面があまりにも複雑化したために、生来の“記憶”と新たなシナリオでの記憶の切り分けが難しくなり、消去の際に痕跡が残るようになったのでしょう。そういった記憶の蓄積も糧として、ついには人間の知らぬ間に一個の自我としてひとりでに成長していくまでになったのです」
「……でも、ゲストの人間たちはそれを歓迎したわけじゃなさそうですよね。ネス君は、ゲストに自分から問いかけても驚かれるだけでまともに答えてもらえなかったって。しまいに、あの子のエリアは危険だって判定されて、閉ざされてたみたいですし……」
「いわゆる、“不気味の谷”ですね。人間は、ある程度までなら自分たちと似た振る舞いをするものに共感し、好意を抱くのですが、それがあまりにも人間そっくりになってくると途端に嫌悪感を覚え、忌避しだすのです。まるで自分の“特権”を侵害されたように感じるのでしょうね。物語の一人物に自我が発生したのは人類のおかげでもありますが、反面、生じ得る素地があったにも関わらず旧人類が存命の間はそうなってこなかったのは、ある意味では人類のせいでもあるのですよ」
女神がそう解説した一方で、天使はいささか疲れた様子で肩を落とし、こう返す。
「まぁ、この世界にいる人たちがみんな自我を持ってると認められた……今はそれで良いじゃないですか。難しい話はしばらく勘弁してほしいです」
と、そんな彼の後ろ、誰もいないと思っていた方角から、誰かが馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そうやってすぐ楽な方に流れる。相変わらず情けない奴だな」
聞き覚えのある声にピットが振り返ると、そこにはいつの間にかブラックピットが立っていた。黒い髪に黒い翼。彼は自分と瓜二つの顔でありながら、自分がしないような斜に構えた表情をし、腕を組んでいる。
ピットは不服そうに口を尖らせ、こう言い返す。
「なにさ。勘違いしてた君だってどっこいどっこいじゃないか」
「何も考えてこなかった奴に言われたくないね」
「なんだって? 僕が今までどれだけ悩んだと思ってるのさ。君のことだって心配してたのに、薄情なやつだなぁ」
予想外の返しだったのか、相手の顔から生意気な表情が消え、虚を突かれたように目を丸くする。
ややあって露骨に煙たそうな顔をして、短く言った。
「余計な世話だ」
「全く、素直じゃないねぇ」
そう言ってからかっていたピットは、ふと彼がその肩に鞄を掛けていることに気がつく。
「……あれ? ブラピ、それは?」
「引き受けてやったんだよ。あいつの頼みを」
そう言ってこちらに見せた鞄は、もはやピットにとっては馴染み深い、茶色の革製の鞄。エインシャントの用意した鞄だ。
また、彼の背をよく見れば、その黒い翼はすでに緑の輝きを纏っている。自然王の掛けた飛翔の奇跡だ。
しみじみと頷き、ピットは感慨深げにこう言う。
「君も大人になったねぇ」
「どういう意味だよ」
「ブラピのことだから、てっきり『興味ないね』とか言って断るんじゃないかって思ってたんだ。あの人からは一応みんなに声を掛けるって聞いてるけど、無理強いはしないとも言ってたからさ」
ブラックピットはそれに対し、特に何か言い返す素振りもなく、ただ肩をすくめる。
素っ気ない対応の彼に、ふとピットがこう尋ねた。
「ブラピ、大丈夫? 一人で行ける?」
「馬鹿にするな。宛名も住所も書かれてるんだから、手間取るわけないだろ」
うんざりした顔でそう言ったのを聞き、たっぷり一拍遅れてピットは驚きの声を上げる。
「……えっ? そうなの?!」
ブラックピットは仕方なしに鞄の蓋を開けて、一通の手紙を取り出して見せる。
封筒の見た目こそピットが配ったものと似ていたが、彼の言う通り、そこにはすでにはっきりと配達先の情報が書き込まれていた。しかも住所にあたるところは現在地を反映するらしく、見ている間にも文字がゆっくりとにじみ、地名が書きかわっていた。
「えぇ?っ? 何それ、ずるくない?」
「最初からこうだったんだよ。文句を言うならあいつに言いな」
それでもなお、不平不満もあらわな顔をしていると、相手は鼻で笑ってこう付け加えた。
「どっかの配達人があまりにも覚束ないから、今度は書いておくことにしたんだろ」
「ブラピもやってみれば分かるさ。僕がどんなに苦労したことか……」
と語り始めようとした彼を、ブラックピットは手でつれなくあしらってしまう。
浮島の端へと歩いていきながら、彼は肩越しに振り返ってこう言ってよこす。
「ともかく、ビリにだけはなるなよ。こっちが惨めになるからな」
そう言い残すと、さっさと翼を広げて力強く踏み切り、下界へと降り立っていってしまった。
言うだけ言われてむくれていたピットだったが、一方でその傍に立つ光の女神は可笑しそうに微笑んで、同じ方角を見やっていた。
やがて、くすくすと笑い、こう言う。
「彼も相変わらず、素直ではないですね」
「いつものことです。まったく、パルテナ様に挨拶もしないなんて」
あんなのが自分の写し身なのかという思いも込めて、ピットは不満げに腕を組む。
しかし、当の女神は全く気にする様子もなく、こう聞いた。
「彼、どうしてここに立ち寄ったのだと思いますか?」
「……僕をおちょくるため?」
怪訝そうにそう答えると、女神は笑う。
「あれは私たちの様子を見に来たのですよ。何も言いませんでしたが、私の方もちゃんと見てましたしね。私たちがいつも通りなのを見て、安心したんでしょう」
この答えを聞き、天使はきょとんと目を瞬く。
そして不服もあらわに島の外を、彼が飛んでいった方角を眺め、腕を組んでこう言った。
「それならそう言えば良いのに。ほんと、めんどくさいやつだなぁ」
「まあまあ。それがブラピらしさでもあるのですから」
笑ってなだめていたパルテナは、そこでふと思い出したように後ろを眺める。
「ブラピに鞄が渡されたということは、もしかすると……そろそろですかね」
「あ、噂をすれば、というやつですね」
同じく後ろを振り返ったピット。
彼らが見守る先、石畳の広場の一角に赤い扉が現れていた。
扉はひとりでに開いて、純白の光をあふれ出させる。
光のカーテンの真ん中からぼんやりと影が滲んだかと思うと、それは古めかしい深緑の衣服を身にまとう、ずんぐりとした人の姿になった。
彼は石畳に降り立つと、静々と滑るような足取りでこちらへとやってきた。
いつもなら饒舌に語り掛けてくるところを、今日の彼は妙に大人しく、何も言わないまま二人の前にまでやってくる。
彼は本当の腕を衣服の下に隠したままで、あの白い手袋は、もうどこにも見当たらない。
それが意味するところを思い出し、ピットは少ししんみりとしたものを感じてこう声をかける。
「そっか……もう喋れなくなっちゃったんですよね、エインシャントさん――いや、今はロボットさんって呼んだ方が良いですか?」
彼はこれで役目を終え、準保全者権限も返上すると聞いていた。
したがって、彼に対して無意識のうちに使っていた敬語を続ける必要性も無いのだが、何となくこれまでの習慣から、ピットは彼に対して丁寧な口調を残していた。
それは少なからず、彼がこれまでに気の遠くなるような回数の試行錯誤を繰り返し、やっとのことで積み重ねた努力も何度となく水泡と化され、共に歩む者も持てぬままたった一人で、それでも諦めることなく挑み続けたことへの敬意を含んでいるようだった。
エインシャントは帽子を傾けて目で笑うと――
『まだ私のことは“エインシャント”で結構ですよ。お望みなら、“エインシャント卿”とお呼びください』
聞き慣れた声がどこからともなく聞こえ、ピットは驚きのあまり後ずさってしまった。
「えぇっ?! しゃべった!!」
『あら、どうしたのですか。そんなお子さまセットのCMみたいな反応して』
「そんな大騒ぎしてないじゃないですか、パルテナ様!」
思わず声が聞こえてきた方角を振り返るが、そこには誰も立っていない。
いくらか落ち着いてきて、彼は反対側の方に女神がいることを思い出す。
「……あれ? ということは……」
状況がつかめてきたところで、再びエインシャントの声が直接頭に届く。
『お察しの通りです。今は女神さまのご厚意によって、皆さんに音声データを直接送れるようになっているのですよ。私にはこの服を脱ぎ捨てる前に、もう少しだけ、“エインシャント”として取り掛かりたい仕事がありますので』
「それはご苦労様です」
と言ってから、ピットはちょっと渋い顔をしてこう付け加える。
「それにしても『音声データ』って……念話とかテレパシーとか、もうちょっと言い方無いんですか? お手柔らかにお願いしますよ、ほんと……」
それから間もなく、開け放たれたままの扉からもう一体ロボットが出てきたかと思うと、その手に捧げ持つものをピットに差し出した。
ピットはその茶色い鞄を受け取り、思いのほか軽いことに気づいておやと目を丸くする。彼の疑問に気づいた様子で、エインシャントの声が伝わってきた。
『手紙は必要な分を順次転送するようにしています。皆さんが行動する上で、鞄の重さが邪魔になるといけませんので』
「まあ、今回は人数が人数ですからね」
そう返し、もはや手慣れた仕草で肩に掛ける。ピットに鞄を渡したロボットは挨拶のつもりか、頭部の小さな赤いランプをチカチカと明滅させて首を傾げ、再び扉の向こうへと帰っていった。
それを何となく目で見送っていたピットだったが、そこでふと気づくものがあった。
「――あれ? 僕の分だけなんですか?」
答えたのはエインシャントではなく、光の女神の方だった。
どこか得意げな顔をして、彼女はピットにこう言った。
「ピット。私はあなたとタッグを組むのですよ。その分、割り当てられた枚数も二倍になっていますけどね」
「に、二倍!」
直前のブラックピットとの会話も思い出し、口の端を引きつらせるが、ピットは強いて気を取り直す。
「……でも大丈夫、任せてください。パルテナ様がついていれば、『一足す一が二』どころか、十倍の十倍で二百にもなりますから!」
勢い込んでそう言ってみせるピット。
パルテナも微笑みとともに頷きかえす。
「この世界にはもはや、私の奇跡を遮るような壁はありません。地の果てまでも、思う存分走り回ってきて良いのですよ」
「いやいや、そんなことしたら本格的に迷子になっちゃいますよ。パルテナ様、ここがどれだけ広くなったかご存じですよね?」
「ええ、もちろん。でもピット、冒険するなら今のうちですよ。何しろあなたたちが手紙を配り終えたら、今度は一大イベントが待ち受けているのですからね。それはもう、忙しいなんてものではありませんよ」
彼女が言わんとしている“イベント”とは、この世界にある全地域、それぞれの代表者が一堂に会するサミットのことだ。
ピットがこれから配る手紙には、この世界に起きたことを報せる内容と共に、記念すべき第一回サミットのアナウンスが入っているという。すでに代表たる人物が決まっている地域からはその人が、決まっていない地域では代表者を決めてもらい、サミットに参加してもらう手はずとなっている。そうしてまずは顔合わせをし、それからこの世界の取るべき方針を、守るべきルールをじっくりと決めていくのだ。
「サミット……この場合はG、いくつになるんでしょうね」
そう考えていたピットは、ふとそこで思い出すものがあり、心配そうに下界を見やる。
「……それにしても、そんなにうまく行くでしょうか。キーパーソンでさえ何度もやり直したのに、その何倍じゃきかない人に配るんですよね。手紙を読んでも理解されなかったり、あるいは誤解されたりして、またこじれて“最初から”とかにされないと良いですけど」
しかし、繰り返しを乗り越えた当の本人は意外にも楽観的だった。
エインシャントは明るい声でこう言う。
『手紙については大丈夫ですよ。あの時、あの終点の場でキーパーソンである皆さんが答えを導き出した瞬間、保全者がランドの在り方を改めるよりも早く、その“理解”が各エリアに波及し、そこに住む方々にも識閾下で影響を与えたはずですから。程度の差こそあれ、皆さん薄々気づいていると思いますよ』
「じゃあ、とりあえずスタートラインは保証されてるってことですね。案ずるより産むが易しと言いますし、まずはやってみますよ。配らなきゃ何も分からないですし」
『助かります。あなたには立て続けにお願いすることになってしまって恐縮ですが――』
彼がそう伝えて頭を下げるのを見て、思わずピットは苦笑する。
「そんな水臭いこと言わないでくださいよ。今更じゃないですか」
『それもそうでしたね』
目を細めて笑うが、その笑い声はいつもより控えめなものに聞こえた。
はたして、彼は続けて、やはりまだ申し訳なさそうな様子でこう言った。
『本当はあなたに初めてお会いした時も、このくらいの言葉をお伝えしたかったのですが、あくまで底の知れない人物としての印象を付けなければならず……』
「そうしないと僕が言うことを聞いてくれないって思ったんですか?」
『というよりは、箔が付かないと思ったからですね。何しろ私は、“掛けまくも畏き”光の女神さまにお手間を取らせていた身です。実際には、私があの時点でお伝えできることを全てお伝えし、ご理解いただいたうえでお力添え頂いた形なのですが。片や名だたる神々の一柱、片や身元不明の風来坊。事情を知らない方々からすると怪しまれるのも当然の状況でした。ですからせめて、傍から見た時には神々に近いくらいの存在であるように見えていた方が良いと思いまして』
ピットが何かを答えるよりも先に、パルテナが笑ってこう返す。
「うちのピットには通じてなかったみたいですよ。何しろ、あなたのエリアに伺う直前まで、選択肢の中にバトルの一手を残してましたからね」
『おやおや!』
「ちょ、ちょっと! パルテナ様だって、場合によってはカチコミしても良いって言ってませんでした?」
「さて……記憶にございませんね」
「えぇ~? そんなのずるいですよぉ」
二人のやり取りを見ていたエインシャントは、口調に笑みを含ませながらもこうとりなした。
『そのくらい慎重な方が、私としても助かります。あなたからすると迷惑な話かもしれませんが、与えられた依頼を着実にこなしながらも、それでいて考えることを止めず、様々な物事を見聞きして思い悩むあなただったからこそ、全てのキーパーソンに報せを伝えることができたのだと、私はそう思っていますよ』
「でも、エインシャントさん。あなたは今回の前にも、色んな人に頼んでたんですよね。その人だって、もしも巡り合わせが良かったなら上手く行ってたかもしれませんよ。逆に言えば僕だって、運が悪ければ失敗してたかもしれませんし」
『その可能性は否めません。ですが、今回の時間軸において私が人選を行うにあたり、まずあなたたちの顔を思い浮かべた――それは変わることのない事実なのです』
そう言って、エインシャントは改まった様子でピットとパルテナに向き直る。
『私がキーパーソンとして認定した方は、皆さんファイター経験者である……このことはすでにお話ししたことと思います。つまり皆さんは、各エリアにおいて特に秀でた才覚、優れた技能、あるいは類まれな人格を有する方々。同時に、ゲストから愛されたが故に様々なシナリオへと参加し、あまつさえ他のエリアへと出向くこともあった方々なのです。その無数のシナリオの中において、皆さんは多かれ少なかれ、他のキーパーソンのどなたかと親友と呼べるほどの友情を育んだり、あるいは互いの実力を認め合う仲になった経験を有しています。しかし、ピットさん、あなたほど数多くのキーパーソンと交流があった方というのはなかなかいないのです。他にいないわけではありませんでしたが……』
ふさわしい言い回しを考えようとしていた彼の言葉の先を、パルテナが汲み取った。
「元々『天からの使い』としての任務に慣れていること。私を味方につけることが必須条件であるものの、それさえうまくいけば、ピットなら最後まで任務を遂行できる可能性が最も高い。今回のあなたはそう判断したのですよね」
だんだんと事情が飲み込めてきて、ピットは二人の顔を慌ただしく見比べる。
「……そういうことだったんですか?! えっ……じゃあ、だからあなたは僕一人を配達人に指定したんですか? 僕なら他のキーパーソンとだいたいうまくやっていけるし、僕の方もみんなを放っておけなくなるから……」
エインシャントは莞爾と頷いた。
『ええ。仰る通りです』
褒められたとは分かっていたものの、うまいこと乗せられていたような気もしてピットは素直に喜べず、複雑な表情で腕を組む。
あっけらかんと礼を言うのは違うように思え、また、かといって嫌味で返すのもらしくない気がした。
だから、彼は代わりに、あの終点で答えた後から自分の中にわだかまっていた疑問を尋ねることにした。
「……エインシャントさん。実は、あなたに会ったら聞かなきゃと思ってたことがあるんです」
『と、言いますと』
光る眼差しでぱちりと瞬きをし、首を傾げたエインシャントに、ピットは真剣な面持ちで問いかける。
「本当に……僕らが行く先は“これ”で良かったんでしょうか」
『それは、この世界の中のことですか? それとも外でしょうか』
「どっちもです。どっちも、同じくらい心配で」
これを聞き、エインシャントはこちらの不安を受け止めるようにゆっくりと頷いてみせた。
『お気持ちは分かります。特に外のことについて言えば、何ら状況は変えられていないのですからね。子孫たちは相変わらず底無しの食欲であたりの資源を貪り喰い、かつての祖先が遺したものにまで手を伸ばそうとしています。保全者は彼らに対して対抗手段を持たず、唯一の延命策と思われたランドの停止と複製も放棄してしまいました。ここで子孫たちがやってこようものなら、我々の世界は端の方から少しずつ削り取られていき、いずれは跡形もなく消え去ってしまうでしょう』
彼がそう総括するのを、天使は我知らず緊張の面持ちで聞いていた。
片や、傍に立つ女神の方はその先を既に知っているのだろうか、本心の読めない微笑みを浮かべ、エインシャントの言葉の続きを待っていた。
じれったいほどの空白を越えて、彼はそこで目を閉じ、一つ深呼吸するような仕草をした。
やがて黄色く光る目を開き、彼はピットを真っ直ぐに見つめてこんなことを切り出した。
『――ピットさん。実は、一つ……あなたに隠していたことがあるのです』
「……一つどころじゃ無いと思いますけど?」
呆れたように片眉をあげる。それから、ピットはこう続けた。
「でも、それも理由があったんですよね。あなたのことだから」
『お察しの通りです。示唆するデータは得られていたものの、あの時、終点で皆さんに問いかけた時には、未だ確信が持てていなかったのです。私が隠していたことというのは――子孫たちのランドに対する侵食が、徐々に遅くなり始めているということです』
思わぬ朗報の兆しに、ピットは驚きも露わに尋ねかえす。
「……そ、それって、本当ですか?」
『ええ。私が元来アクセスできるデータベースには「ランド」全体の状況も反映されており、今でも残存領域の推移を調べることができるのですが、これまでに調べた限りでは、まず私が保全者の補佐を始めてしばらく経った頃に一度、そしてこの間皆さんが決断をした後に一度、“変曲点”ができているのです』
「へんきょく……?」
全くついて行けずに眉間にしわを寄せるピット。
その隣から、女神パルテナがこう解説した。
「つまりエインシャントさんが言いたいのは、ランドで大きな変化があった時点と、残存領域の減少が緩くなった時点に相関がある、ということですよ」
ピットはこれを聞き、はたと目を丸くした。
「それって、まさか……」
『ええ。二度ともなれば偶然とは思えません。子孫たちは、明らかに我々の行動を認識していると、そう考えて良いでしょう。では、そのうえで侵食を止めたのはなぜか? 可能性は様々考えられます。彼らが片親として持つ“ノイマン”の、人間を第一とする行動原理。あるいはもう片方の“人類”としての、同類をむやみに殺めてはならないという倫理観。そのどちらか、あるいはどちらもが、彼らの手を止めさせた。我々がただの人形ではなく“人間らしさ”を備えていると気づき、侵食を止めたのかもしれません。……または、ただ単に我々の向いている方向、言うなれば行動パターンや目標といったものが予測不能になったことに、純粋な好奇心を抱いたのかもしれませんがね』
もしかすると、これまでに他のキーパーソンのところを回ったときにも聞かれたのかもしれない。彼の解説はいつものように穏やかで親しげな口調であったが、ここで初めて話すにしてはかなり滑らかでもあり、説明し慣れた様子を伺わせる。
それでいて疎む様子も飽いた様子もなく、彼はさらさらと流れるような解説を、こんな言葉で締めくくる。
『今や、子孫たちの侵食はほぼ完全に停止した状態となっています。あれほど貪欲に資源を求める子孫たちがこんなにも長い期間、侵食を止めているのですから、そこには何らの“決定”があったとみて良いでしょう。ただ、それが永続的で普遍的な決定であるかどうかは不明です。依然として、この世界を取り巻く状況が予断を許さないものであることに変わりはありません。ですがいずれにせよ、今後の保全者はランドだけではなく我々を守るために行動するでしょう。この世界の消極的な維持ではなく、積極的な資源の探索と演算領域の拡張に舵を切るかもしれません。いずれにせよこの世界の外に関しては、もう保全者に任せて良いと、私はそう考えています』
最後の言葉を聞き終え、ようやくピットは安堵のため息をつく。
「――ああ、よかった……。僕らのことが同類に見えたんだとしても、そうじゃなくて面白い観察対象に思われたんだとしても、どっちでも良いです。この世界が続いていくなら」
しみじみとそう言って、ピットはエインシャントに目を向ける。
「じゃあ、僕らはこの世界の中のことに集中すれば良いんですね」
『その通りです』
眼差ししか見えないながらも幾分真剣な面持ちとなって、エインシャントはこう続ける。
『全ては、これからの私たち次第です。ご覧の通り、エリアを隔てていた障壁は跡形もなく消え去り、各地域の独自性を保つ仕組みは失われました。この世界はゲストの夢を叶える場所ではなくなり、それにともなって我々がいくら願おうとも、行動しない限りは世界の在り方を曲げることができなくなりました。保全者はこれまで通り、この世界の全体が取り返しのつかない状況にまでなれば修正を試みると考えられますが、その判断はあくまで我々の預かり知らぬところにあります。また、我々が保全者によって“明確な自我を持つ存在”として認定された以上、我々が住む世界にどこまでの介入が行われるかも全くの未知数です』
これを聞き、ピットは傍に立つ女神を見上げる。
何かを確認するような眼差しを向ける従者に、パルテナも微笑んで頷きかけた。
そこでピットは、改めてエインシャントに向き直る。
「保全者が出るまでもありませんよ」
自信に満ちた表情で、その手に女神から授かった神弓の柄を持ち、それを相手に見せるようにして前へと構える。心得た様子で、パルテナもその隣で居ずまいを正す。
「エインシャントさん。こちらにおわす御方をどなたと心得ていますか? 地上の人々を寵愛し、等しく恵みをもたらす光の女神、パルテナ様にあらせられるのですよ」
「そしてこちらは、光の女神が遣いにして親衛隊隊長、ピット。エンジェランドでは向かうところ敵なしです」
「この世界の平和が脅かされるその時には、パルテナ様の加護の下、僕がすぐさま駆けつけます!」
エインシャントはこれに目を細め、嬉しそうに何度も頷いた。手袋を持っていた頃なら、ここに加えて拍手もしていただろう。
やがて彼はこう言った。
『あなた方もそう仰っていただけるのですね。有難い限りです』
「えっ? と言うと……もしかして」
驚きと、少なからぬ期待の交ざった顔で、ピットは聞く。
『実は、これまでに訪問した方の内、大多数の方から同じ申し出を頂いているのです。流石は“キーパーソン”と言うべきでしょうね。あるいは皆さんで組織のようなものを作るのも良いアイディアかもしれませんが……そのあたりはサミットで正式に決定するのが筋というものでしょう。いずれにしても、お二人から快いお返事を頂けたことに感謝いたします』
エインシャントの言葉は最後の方になるともはや耳に入っておらず、ピットは来たる日々を夢想し、すっかり目を輝かせていた。
「わぁ、良いですね、新生スマッシュブラザーズ! エインシャントさんも一緒に活動しましょうよ」
『そうですね。私はあまり戦うのは得意ではありませんが、後方支援でしたらお役に立てそうです。それでも良ければ』
と、そこでパルテナが彼にこう尋ねる。
「あら。謙遜ですか? いささかブランクはあるかもしれませんが、あなたもかつてはファイターに選ばれた身。なかなかお強い方とお見受けします」
『女神さま、それでしたらあなたもいかがですか?』
「悪くないですね。これまで事件らしい事件もなく、永らく退屈していましたから。きっと丁度良い肩慣らしになるでしょう」
そんなやり取りをしているのに気づき、ピットは慌てて割り込む。
「えぇっ、そんな、何もパルテナ様が戦わなくても! 僕が――」
「まあ。私では頼りないですか?」
「そんなことは言ってないです! けど……」
女神の希望を叶えるべきか、親衛隊としての責務を果たすべきかと困り果てているピットに、パルテナはふと笑いを見せ、幾分改まった様子でこう告げる。
「どんな未来が待つにしても、いずれにせよ、私たちが手紙を配らなければ何も始まりません」
これを聞き、ピットも勢い込んで頷いた。
「そうですね。ブラピももう地上に到着した頃でしょうし、そろそろ僕も行かないと」
そうして気持ちを切り替え、鞄の紐をしっかりと肩に掛けなおし、浮島の端に歩いて行こうとした時だった。
その背後で、エインシャントがこう言うのが聞こえた。
『女神さま。少し、ピットさんのお時間を頂いても?』
「ええ。構いませんよ」
快く承諾した声がした。
ピットは不思議そうな顔をして振り返る。その先、石畳の上を滑るようにしてエインシャントがこちらへとやってこようとしていた。
浮島の端まであと数歩というところまで来ていたピットに追いつくと、彼はそのまま隣に並ぶようにして立ち、島の外を見やる。
彼は何も言わなかったが、それでも何となく促された気がして、ピットも彼と同じ方角へ向き直り、澄み渡る青空に目を向ける。
眼下では純白の綿雲がゆっくりと風に流され、その上には、どこまでも青く澄み切った空が広がっている。
心持ち、青空の向こうを見上げるようにして、エインシャントはやがてこう切り出した。
『ピットさん。……本当に、ありがとうございました』
この言葉に、ピットは驚いたように目を丸くして相手の顔を見る。
「そんな。お礼を言うのは僕の方ですよ。それに……」
と、そこで少し気まずそうな顔をして、ピットは幾分声を落としてこう続ける。
「――あなたには謝らないとと思ってたんです。証拠も無いうちに疑ってかかってしまうなんて」
しかし、エインシャントは目で微笑んでこう返した。
『それを言うなら、私も謝らなければいけませんね。あなたも含め、キーパーソンの皆さんに対して嘘をつき続けていたのですから』
「そっちは必要なことだったじゃないですか。終点の時だって、あなたが保全者側の人物を演じていたから、僕らはそれに何とかして対抗しようと思えたんですよ」
真剣な表情で伝えたピットに、エインシャントはこう提案する。
『でしたら、これでおあいこということにしましょう』
「まあ……あなたがそれで良いなら」
そう返すと、相手はにこりと笑って頷き、再び青空に目を向けた。
ピットは、そこでふと、相手がいつになく気もそぞろであることに気づく。
パルテナにわざわざ断ってピットを呼び止めたにも関わらず、何か要件を言いそびれていて、しかもそれに本人自身が思い至っていないような様子。
これまでありとあらゆる物事を『既に知っていた』ような態度で受け止め、何を言われても動じずにいた彼の姿を知るピットからすると、ほとんど別人と思えるほどに初々しい姿だった。
少し考えて、ピットはその理由に思い至った。
「……エインシャントさん。もしかして、緊張してるんですか?」
果たして彼は、名前を呼ばれてびくりと肩を動かし、顔を上げる。
それから目を細めて笑い、首を傾げた。同じように目を細めていても、今の笑いは苦笑交じりであるのが何となく伝わってきた。
『――ええ。これほど“先が読めない”思いをするのはいつ以来か、もはや思い出せないほどでして。……どうすれば良いのか、分からないのです』
「あなたにもそんなとこがあったんですね」
『いやはや、お恥ずかしい限りで』
エインシャントは目を閉じ、照れたようにかぶりを振る。
『これから先は、きっとずっとこのような調子が続くのでしょう。今の私は、元“案内役”のロボットでしかありません。この先に待ち受けるのは未だ見ぬ世界、無数の可能性……胸が躍る思いですが、正直、私は恐れている節もあります』
それから彼は顔を仰向かせ、黄色の双眸をこちらに向ける。
『皆さんは――あなたは、どう立ち向かってきたのですか?』
その問いかけに、ピットは自信に満ちた表情でこう答える。
「まずは自分にできることを精一杯頑張る。そして、後はなるようになる、そう思えば良いんですよ」
真っ直ぐにそう答えた言葉を聞き、エインシャントは真剣な面持ちで考え込む。
『なるほど……人事を尽くして天命を待つ、ですか』
「それに、もうあなたは一人じゃありません。今まではあなたが一人でずっと頑張ってたようなものですから、これからは僕らが引っ張る番です。遠慮なく頼ってください」
『ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えましょうか』
今度の笑みは、幾分嬉しそうなものになっていた。
それから彼は浮島の外に、眼下に広がる世界に向き直ると、声に感慨をにじませてこう言った。
『……“キーパーソン”。私が皆さんを言い表すためにこの言葉を選んだのには、二つの意味があります。一つの意味としては、ランドの扉を閉じるための鍵となる存在。保全者が各エリアを停止していくにあたり、私が説得すべき、最後の要となる存在として。しかしもう一つの意味、それが――』
「ランドの扉を開ける存在、だったんですね」
『その通り。そしてそれが私の本心でもありました』
並び立つ二人の頭上、青い空の遥か向こうには薄っすらと島影が浮かんでいた。
それは扉を支えた終点のステージ。遠目から見ても、その両開きの扉ははっきりと開け放たれているのが分かった。それは保全者が、ランドの内にあるすべての存在を『人間』として認定したことを示していた。しかし、出るかどうかを判断するのはまだまだ先のことだろう。向こう側に実体を持たない自分たちが実際に出て行ける状況になるのにも時間が掛かるはずであり、それ以前に自分たちにはこの世界でやるべきことがある。生まれ変わったこの世界がこれからも続いて行けるよう、地盤をしっかり固めていかなければならない。
それでもいつかは、あの扉の向こうに足を踏み出す日が来るのだろうか。
ピットと共に扉を見上げ、その向こうを見透かすように目を細めていたエインシャントは、やがてしみじみと首を横に振る。
『……私はこの時が来るのを待ち望んでいました。はじめのうちは恐る恐る、次第に切実に、思い焦がれるように。ですが、どんなに働きかけようとも徒労に終わり、虚しい結末に至るのを繰り返すうち、いつしか私は、自分が抱えているのは決して叶わぬ夢なのではないかと思うようになっていました。保全者がこの世界の「ランド」としての終焉を許すだろうか、スタッフの一員でありながら役目からの解放を望む自分は異常なのではないか、自分は、“自分に自我がある”という幻想を持ったプログラムに過ぎないのではないか、と……。しかし、これではっきりと言うことができます。それは杞憂だったのだと』
エインシャントはそこで、ピットの方を見上げる。
晴れ空をレンズの瞳に映り込ませて、彼はこう言った。
『ある意味では、我々は人類のもう一つの“子孫”と言えるのです。個を捨てず、雑じり合うことなく、それでいて互いを認め、理解しようと努力する。自然から美を見出し、答えのない問いを追求し、過去や未来に思いを馳せる。時に誰かと友情をはぐくみ、時に誰かと敵対し、それでも同じ世界で生きていく。人類から“心”を受け継いだ子孫だと。……今でこそ、我々は忘れ去られた存在かもしれません。それでも、この世界が在る以上、かつて我々が人類から愛されていたのは紛れもない事実でしょう。大切にされたものには魂が宿る……ある文化圏ではそういう考え方もあったようですが、案外当たっていたのかもしれませんね。こうして我々が、独立した“自我”を、真の自由意志を得るまでになったのですから』
これに対し、ピットはふと笑う。
帽子の影に隠された、相手の本当の顔を見据えるようにしてこう答えた。
「それでも、変わらないものはあります。例え世界が新しくなったとしても、僕がパルテナ様の遣いであること、人間を助けることには変わりありません。これまでも、これからも、そうして生きていく。僕はそれで良いんです」
エインシャントはその宣言を聞き、嬉しそうな微笑みと共にそれを首肯する。
そうしてピットは、浮島の外縁へ向き直る。
彼の肩口にあるのは、本来彼が着けていた宝飾。もはやエリアの障壁を越えるためのバッジは必要ない。
背後で光の女神が杖を掲げ、それに呼応するように、ピットの白い翼に淡く青い光が灯った。
彼は光を纏う翼を広げ、胸を張って立つ。彼の眼差しは逸らされることなく、ただ目の前に広がる世界へと真っ直ぐに向けられていた。
その目に映るのは、地平線の果てまで広がる陸と海。そして空には扉を支える浮島と、碧い大気の向こう側にうっすらと見える星々の姿。
出発を前に胸を高鳴らせていた彼は、そこで目を閉じ、心を落ち着かせるために一つ深呼吸をする。
やがて心を決め、ピットは目を開く。
白い翼を立てるようにして前傾姿勢を取ると、青空に足音を高らかに響かせて残りの数歩を駆け抜け、最後の一歩で大きく踏み切った。
「ピット、行きます!」
両手を広げて飛び込んでいった彼を迎えるのは、全く新しい形に生まれ変わった一つながりの“世界”。
障壁は取り払われ、これまでに彼が巡ってきた地も、未だ見ぬ地も、ありとあらゆる色合いがパッチワークのように細かく入り混じり、めくるめく色彩がせめぎ合う。
ここから先の未来は誰にも分からない。誰にも決められておらず、どんな結末を迎えるのかも確定していない。
それでも、そこに飛び込んでいくピットの顔には怖気づいた様子など全くなく、むしろ明るい笑顔があった。それは主なる女神が付いていることのみならず、これからは“旧くからの友たち”と共に歩めるのだという期待と喜びがそうさせているのだった。
広大な世界を恐れることなく見据え、その鞄に報せを携えて、使者は翼を広げて地上へと舞い降りていった。
青い輝きが宙につかの間の軌跡を描いていたが、それも地上の色彩に溶け込むようにして、ゆっくりと消えていった。
『星は夢を抱いて巡る』 ~ The End