気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第5章 老いをもらたす者 ⑥

 

 

 

一心不乱に走り続けるピット。

船内にあれだけいたはずのパイレーツはどこにも見当たらず、また彼を連れ戻そうとする仲間の足音も聞こえず、彼の走る道はしんと静まり返っていた。

しかし、彼にはそれを異常だと感じられる心の余裕もなく、ようやく立ち止まったのは、背後でシャッターの降りる音がした時だった。

我に返り、後ろを振り向いたピット。彼が向かおうとしていた先でも同様に壁が降り、完全に閉じ込められてしまった。

 

どこからともなく、再び女神の声が聞こえる。

「よくここまで辿り着きましたね、ピット」

はっと顔を上げ、ピットは辺りを慌ただしく見回す。

「どこですか、パルテナ様! まさか、この船に閉じ込められて……」

「心して聞きなさい」

彼女の声が真剣な気配を帯び、思わずピットは一点を見上げ、固唾をのんで次の句を待つ。

「彼らは、キーパーソンは敵を見誤ろうとしています。あなたも船から投げ出されたときに目にしたはずです。虚空に浮かぶ『世界』の小ささを……。あなたには分かりますね? あれは皆、『エリア』なのです。キーパーソンを始めとする数多の人間を閉じ込めた、偽りの楽園……」

女神の声は小部屋の中に反響し、源を突き止めることができない。

「そう。案ずることはありません。亜空軍が攻め込んでいるのは、本物の世界ではないのですから。そして彼らの目的も、この船の人々が言うような侵略や占領などではありません。むしろ亜空軍は、人々の暮らす領域が偽物であることを伝えるために行動しているのです。爆弾によって『エリア』を――偽の世界を破壊し、その儚さや脆さを白日の下に晒し、わざと武力を見せつけて脅かすことで人々の目を覚まさせ、そこを出て行くように伝えているのです」

パルテナの言葉に、次第に当惑を露わにしつつあったピット。

彼女の声が途切れた時、彼はもどかしげに首を横に振り、己の中に沸き起こっていた感情を何とか言葉の形にして言った。

「……そんな。……いくらなんでも、それじゃあ余りにも乱暴ですよ……!」

だが、女神はそんな彼を窘めるようにこう言った。

「ピット、事態は一刻を争うのです。あなたもその目で見たでしょう。数多の『エリア』においてどれほどの人々が、長く単調な時の輪の中に閉じ込められていたのかを。そしてどれほどの人間が、自分の記憶が不完全であることに気づきもせず、仮初の日々を暮らしていたのかを……」

憂いを湛える彼女の声に、ピットはそれまで無意識のうちに握りしめていた拳を下げ、うなだれた。

彼の頭に去来していたのは、彼がこれまでに歩んできたエリアでの風景。

平和な場所も、そうでない場所もあった。大なり小なりはあれども、明らかに不自然な状況に陥っているにも関わらず、不平不満を言うくらいのことはしても、疑問を持つこともせずに暮らす人々の姿を、飽きるほどに見せられてきた。

パルテナは僅かに声を落とし、こう続ける。

「タブーは彼らを憂い、憐れんでいました。エインシャントに命じ、私たちを通じて、キーパーソンと呼ばれる人物に真実を報せました。ですが……残念ながら今のところ、事態は一向に改善する様子がありません。誰もが自分の住むエリアに混乱をもたらすことを恐れ、行動に出ることを躊躇ったのです。彼らの心理も理解できます。人間には現実の全てが見えるわけではありません。ほとんどの人間は、自分が見たいと思う現実しか見ない……ですから、いくら彼らに人望や権威があっても、この世界が偽物だなんて“荒唐無稽な真実”を伝えたところで、受け入れられる自信が無かったのでしょう。でもこのままでは、彼らは全て偽りの箱庭に閉じ込められ、真の敵に出会わぬまま、無意味な反復の中で徐々に力を削がれていくことでしょう。タブーはそれを是とせず、最終手段に打って出たのです――」

彼女自身も憂えるように、悲痛に曇る女神の声。

わずかな沈黙を置いて、パルテナは声を改めて言った。

「良いですか、ピット。これは、タブーなりに考え抜いた末に辿り着いた、たった一つの策なのです。すべては人間のため、地上界に生きとし生ける者たちを本来の世界に帰すため」

ピットは何も言わず、戸惑いを胸に湛え、ただじっと天井の辺りを見据えていた。そんな彼に向けて決意を命じるように、女神の声がこう告げる。

「さあ、私と共に来なさい。他のキーパーソンにこの真実を報せ、亜空軍と共に戦うよう促すのです」

「パルテナ様……」

呟いた天使の表情に、やがて、強い意志が現れる。

「パルテナ様は――そんなこと言わない!」

姿の見えない相手を見据えると、彼は挑みかかるように一歩前へと踏み出した。

「キーパーソンは、まだ誰も本当の世界を見つけられてないんだ。それなのに、どこに逃げろって、どこに帰れって言うの?! 『エリア』に暮らす人間達ならなおさら、そこが偽の世界だなんて思ってない。亜空軍で追い詰めたって、怯えてエリアの中を逃げ惑うだけで、そこを出て行こうなんて思うはずがない! 本物の世界に帰したいなら、まずはそれを見つけて、見せてあげるべきなんだ! パルテナ様だったらそう命じてくれるはずだ!」

言い切った自分の声が淡い残響を残す中、しばらくして、含み笑いのような音が聞こえてきた。

見る見るうちに声は変調していき、女の笑い声に、低い不協和音が微かに混じり始める。

「思い上がりも甚だしいな。それは彼女の意見ではなく、お前の意見だろう」

聞き覚えのある声に、ピットは僅かに目を見開く。

「その声……まさか、ダークサムス?」

「ご名答」

声は先ほどよりもずっと焦点を絞り、天井の一点から聞こえるようになった。

「君……ずいぶん声真似がうまいんだね」

用心深く頭上を見上げ、ピットが言う。

「簡単なことだ。音というのは単純な振動の組み合わせでしかない」

そう言いながらも、“彼女”は自分の声を様々に変化させてこう続けた。

「含まれる振動の成分を――調節してやれば、如何様にでも変えることが可能だ。この声とて――今の私が気に入っているというだけ。お前たちと意思疎通をするための――作り物に過ぎない」

いずれの声音にも聞き覚えがあり、親しみのある声が聞き慣れない言葉を告げる様に、ピットは言い知れぬ違和感を覚えて眉根を寄せていた。

彼の当惑には全く頓着せず、ダークサムスは再び平時の声に戻ってこう言った。

「――さて、ピット。お前は先ほどの言説を、パルテナがそう望むはずだと自分に言い聞かせているようだが、その根拠はどこにある? お前たちには他の個体の心理を奥底まで理解しきることなど、原理的に不可能なはずだ。ましてや相手は超常の存在、女神なのだろう? ……まぁ、そんなものが本当に実在するとはにわかに信じがたいものだが」

この言葉にピットは腹を立て、彼女の声がする方角に指を突き付けた。

「失礼だぞ、ダークサムス!」

だが、彼女は平然としてこう返すばかりだった。

「私は私の思ったことを言ったまでだ」

そしてその調子のまま、続けてこんなことを言った。

「私は別に、お前の意見を否定したわけではない。本当にそう思っているかも分からない他者に自分の主義主張や希望、期待を仮託するのは不遜だと言いたいだけだ。お前はこれまでも、これからも、ただお前の信条を拠り所にすれば良い」

「……君が何を知ってるって言うのさ。僕にとってパルテナ様は、そんな軽い存在じゃないんだ」

敬愛と責務、双方が入り混じった複雑な表情でそれを吐露したピットに、ダークサムスの声は笑いを挟み、こう返す。

「そうらしいな」

その様子に、ピットはふと怪訝そうに眉をひそめる。

彼女が異様に、こちらの事情に詳しいことに気づいたのだ。いくらキーパーソンと自分とが面識があるとはいえ、ここまで詳細な事柄を言い当ててきた人物はいない。

そこまで考えて思い出すものがあった。彼ははたと額に手を当て、いくらか青ざめた顔で天井を見上げた。

「……待って、もしかしてさっき僕の頭掴んだとき、何か仕掛けたの……?」

それを聞いたダークサムスの声が失笑する。

「するわけがない。お前たちに対しては、そもそも不可能だからな。その代わり、記憶の表層くらいは読ませてもらったが」

「ちょっと……僕のプライベート勝手に覗かないでよ」

「自衛のためだ。ただ、今となっては詮無いことだが、お前のその頭なら理由や目的を聞いたとして、取り繕うこともせず正直に答えたかもしれん」

「なんかちょっとバカにしてない?」

彼女はそれに一つ笑うだけで、話を切り替えた。

「案ずることはない。今は船体に染み込ませたフェイゾンの微細な結晶を介して音を発生させ、お前の声を聞き取っているだけだ。ああ、それから……ついでにその空間ごとお前を移動させている」

これに、ピットは驚いて辺りを見渡した。言われてみると微弱な振動と共に、小部屋がゆっくりと横に移動していく気配がある。

だが、ここは元々通路の途中に過ぎなかったはずだ。それがまるでエレベーターのように移動しているのなら、その通り道にある空間ではどのような変化が起こっているのだろうか。

「どこに連れて行く気?」

「そう怖れるな。お前の仲間のところだ」

と言われたものの、心配を拭い切れずに壁や床のあたりを見回すピットをよそに、頭上のダークサムスの声はこう言っていた。

「……つくづく私も衰えたものだな。かつてならこんな船など、そして『奴ら』など、思いのままに操ることができたというのに」

自分の非力さを嘆くような声に、ピットは再び頭上を見上げる。

「奴らってどっちのこと? 反乱軍、それとも亜空軍?」

「どちらもだな」

あっさりと、そんなことを言うダークサムス。

「この船を見つけるまで、私は永きに渡り、この亜空間を漂い続けていた。船に漂着したことで目覚め、そこに巣食っていた微生物どもを手駒にしようとしたのだが……どうしたわけか、奴らには私の力も、フェイゾンの影響も及ばなかった。今でこそ私は、この船のちっぽけな一室を甘んじて受け入れ、動力源から余剰エネルギーを得る代わりに戦艦と戦闘機の管理を受け持っている。だが、当然それは私の真の目的ではない。実はな……お前から手紙を受け取るまでは、私はタブーを狙っていたのだ」

思いもよらぬ告白にピットは口をぽかんと開け、目を皿のようにして頭上を見上げる。

「あ……えっ……?! タ、タブーを、君が?!」

「フ……良い反応だな。私は、反乱軍が亜空軍を追い詰めた暁には、隙を見て反乱軍を出し抜きタブーを“手中”に収めるか、そのマトリクスくらいは頂いてしまおうと考えていたのだ。亜空間を自在に渡り、無尽蔵に配下を生み出す奴の能力を手に入れれば私はかつてのように……いや、これまで以上に強大になれるはずだと。だが……」

自嘲気味に笑うような音を挟み、彼女は話題を変えた。

「お前はあいつにも配るのだろう? この船の『長』を気取る生き物に」

ピットは戸惑い気味に頷く。

何を期待しているのか、ダークサムスは可笑しそうに高笑いし、こう宣言した。

「私が手を貸そう。お前は奴に一泡吹かせてやれ。私の代わりにな」

 

 

小部屋の移動は、やけにゆっくりとしていた。何かを警戒しているのか、時々迂回したり、減速して止まりそうになることもあった。小部屋を通せるルートには条件があるのか、あるいはもしかするとあの幻影を警戒しているのかもしれない。

壁があるからといって安心はできない。少なくとも騎馬の幻影は壁を抜けて現れていた。牛頭の幻影も、明らかに瞬間移動をしていた。あんなのがここに出てきたら、と考えてしまい、ピットはかぶりを振って最悪の想像を頭の隅に追いやる。

立ったままでいると方向転換や加減速のたびに揺らされて落ち着かなかったので、ピットはその場に座り込み、どこかに到着するのを待つことにした。青みがかった照明を見上げていた彼は、ふと天井に問いかけた。

「――ねぇ、まだ聞いてる?」

「どうした」

「君は、僕の記憶を見たんだよね」

「全てではない。私の知ろうとした部分までだ」

彼女がさりげなく言った言葉をピットは呟くように繰り返す。

「知ろうとした……か」

それから再び、姿の見えない存在に向けてこう聞いた。

「じゃあ、もし見たなら教えてくれる? 僕の記憶の中に、君がいたのかどうか」

ダークサムスはこれに対し、一つ鼻で笑うような声を立てた。

「なるほど。やはり興味深いな。お前たちの言い回しで言えば、答えは『ノー』だ」

きっぱりと告げられた言葉に、ピットは我知らず気落ちしたような表情をしていた。

「――やっぱり、そうなの……?」

「そこは、私が特に知りたかったところでもあるからな。念入りに調べたが……何も無かった。奇妙なほどに」

彼女の答えを聞き、ピットは思わず片膝立ちになって問いかける。

「ちゃんと全部見た? ずっと昔の記憶まで」

だが、ダークサムスはにべもなくこう返すばかりだった。

「あんな一瞬で完璧を期すのは不可能だ。しかし、目につく範囲では無かったな」

「それじゃ……ファルコが言ってたことは本当に――」

「“偽の記憶”か? いいや、それも当たりからは程遠い。もしもそうなら、私はお前の記憶の中に何らかの形で私自身の姿を見出しているはずだ」

彼女の声はそこで、幾分下に降りてくる。どういう原理か、座っているピットの見る先、そこにまるで彼女自身が降り立ったかのように、空中の一点から言葉が続けられる。

「先に言っておくが、これはお前の記憶が改竄されていない、という意味ではない。仮に偽の記憶があったとしても、私に判断はできない。第三者である私から見るのでは、記憶の真偽は分からないからな。だが、“何も無い”というのは全く別だ。お前の頭には作り物であれ、本物であれ、『私に出会った』という記憶がどこにも無い。その意味が分かるか?」

見上げた目には、何も映らない。ただ、反対側の壁が無機質な灰色に広がるばかり。だが、ピットはそこに彼女自身がいるように思いながら、不可視の顔を見つめ、彼女の言葉を待ち受けていた。

見えざる黒い甲冑が、わずかに首をかしげる気配があった。

「――お前は、私に関する一切の記憶を持たない。だというのに、私に強い既視感を覚えているのだ」

「でも、そんなことって……」

眉間にしわを寄せ、ピットは続けてこう聞いた。

「じゃあさ、忘れさせられたかどうかは分かる? 僕らが会ったことがあるっていうのがやっぱり本当のことで、それを誰かに消されたっていう可能性もあるよね」

ダークサムスの声がため息をついた。少し呆れているようでもあった。

「簡単に言うがな、消されたのか、元から無かったのか、判別するのは並大抵のことではない。それとも今からお前の頭を隈なく調べてくれと?」

「……それはカンベンして」

あの時の衝撃を思い出し、思わず苦い顔になるピット。

気を取り直し、ダークサムスは彼にこう伝えた。

「仮に消されたのだとしても、それをやってのける者が現実にいるとは信じ難い。記憶というものは、お前が想像する以上に複雑に絡み合っている。そこでは時間軸などお構いなしにあらゆる事柄が関連付けられ、ほんのわずかなきっかけでも、関係する記憶を手繰り寄せられるようになっている。それでもなお、お前達が互いに会うまで、自分が何かを忘れたということに気づかせないほどに、また目の前にした後でも、どれほど思い出そうとしても思い出せないほどに――そこまで齟齬なく自然に、かつ都合よく記憶が消せるものとは思えない」

ダークサムスはそう言い切った。

まだ納得のいかない部分は残っていたものの、明確に反論できるほどの知識も証拠もなく、ピットは胸の内に落胆を覚えながらも虚空を見上げる。

「君にも、見当がつかないってことだね。なんで僕らが、お互いに聞いたことがある、見たことがあるって思うのか」

「だから興味深いのだ」

彼女の声が、そう応えた。

 

 

小部屋の移動が止まり、片一方の壁が開く。

着いたということなのか、問おうとしたピットはそこで、すでに彼女の気配らしきものが消えていることに気が付く。言いたいことを言い終え、用は済んだということなのだろう。

開け放たれた通路は代わり映えのしない灰色の壁面を見せてずっと奥まで続いていた。人の気配のない通路を見つめ、ピットは少しの間考え事にふけっていた。ダークサムスから言われた物事を思い返していたのだ。

物憂げな顔をして佇んでいた彼だったが、やがて首を横に振り、迷いを振り切るように立ち上がる。

そうして行き止まりの小部屋を後にし、仲間を探して歩き始めた。

 

通路はしんと静まり返っていた。パイレーツの争う音が聞こえないところを見ると、まさか、ずいぶん遠くまで運ばれてしまったのだろうか。

スネーク達は艦橋に向かっていたはず。だが、手紙を持ったままピットがいなくなったことで、こちらを探している可能性もある。ダークサムスの言葉が本当なら、彼らの近くで“下ろして”くれているはずだが――

そこまでを考えた時だった。

『こういった立ち回りを続けるつもりなら……少しは疑うことを覚えるんだな』

スネークの声が耳に蘇る。

――そうだ……なんで、僕は……

はたと立ち止まり、わずかに目を見開く。

自分は『彼女』の何を知っているのか。ダークサムスはこの船を見つけた時、先に乗っていた反乱軍を操ろうとしたと言っていた。それほどの野心を持つ存在が、ただでピットを送り返してくれるとは思えない。どうして自分は、『仲間の元に送る』というあの言葉を無条件に信じていたのか。

スネーク達の名前を呼ぼうとした彼の背後、

「動くな。手を挙げろ」

低く唸るような声がそう言った。

戸惑いながらも右手を上げると、舌打ちする音がして、彼はぶっきらぼうに告げた。

「片手だけ挙げるヤツがあるか。両手だ」

素直に従いながらも、ピットはそっと肩越しに後ろを振り返る。

声で分かっていたが、やはりそこに立っていたのは銀色の狼、ウルフだった。

彼は片手に大ぶりな銃を持ち、こちらの背中に突き付けていた。物騒なことに、その銃身にはナイフが備え付けられている。

だが、そこで別の動きがあった。彼のもう片方の手が服の胸ポケットに向かい、何かをわずかに引き出して見せる。

それは純白の封筒。驚いてウルフの顔を見ると、彼もまた、こちらの反応を観察するようにじっと隻眼でこちらを見ていた。

「……ウルフ」

思い切って声を掛けようとしたが、それを遮るように、その背に銃口の先のナイフが当たる。服を隔てて刃の感触を覚え、ピットは顔をしかめて抗議する。

「ちょっと……僕の服、間違って切らないでよ」

「静かにしてろ」

ウルフは苛立ち紛れに、それでも声を抑えてそう返した。

内心で不平を感じつつも従う姿勢を見せた天使に、ウルフは片手に銃を持ったまま前に回り込む。彼は、ピットの右肩に付けられたバッジを外しつつ、声をひそめてこう伝えてきた。

「……こっから先は監視カメラがある。音は拾ってねぇはずだが、怪しまれる動きはするなよ」

敢えて抵抗せずにバッジを取られるがままにしたピットだったが、その目は心配そうにバッジを追いかけていた。

ウルフは再び天使の後ろに回り込むと、両腕を後ろに回すように告げた。

 

手錠こそ付けられなかったものの、バッジを再び失った今、ここでパイレーツや幻影に出くわしたら為す術もない。

あの幻影のことをウルフは知っているのだろうか、肝心な局面ではバッジを返してくれれば良いがと、そう考えながらピットはウルフが指示するままに通路を歩いていた。

船内はやけに静かだった。少し前までは、仲間割れしたパイレーツの撃ち合いと怒号とでひどい有様だったのだが。

言い知れぬ居心地の悪さを覚え、ピットは沈黙を破って肩越しにウルフを振り返る。

「どこに連れてくつもり?」

小声で尋ねると、彼もまた声をひそめ、あまり顔を動かさないようにしてこう答えた。

「お前のお目当ての部屋だ」

それを聞いたピットは一旦は前を向くも、ふと眉間にしわを寄せて考え込み、ややあって気づく。

「――“仲間”ってそういうことだったのか……」

呟いてから、再び振り返る。

「ダークサムスも君も、わざわざこんな芝居打たなくったって良いのに。確かにガノンドロフの幻は手ごわかったけど、あとちょっとで道が開けそうだったんだよ」

だがこの言葉に、ウルフは耳をぴくりと動かした。

「何だと? ……てめえら、まさかそのまま“上”に乗り込むつもりだったのか?」

思わず牙を覗かせ、彼は目を剥いてこちらを凝視する。

「そうだけど――」

「冗談も休み休み言えよ」

苛立ちで低く唸るように言ってから、彼はそこではっと気づいたように辺りに視線を巡らせ、再び声を抑え気味にしてこう続ける。

「お前、知ってるか? 『スペースパイレーツ』の連中は、パイレーツとはつくが、ありゃただの宙賊じゃねえ。まぁ、確かに構成員どもはさほど上等な頭をしてないが、そのくせに奴らの持つ技術は度を越してやがる。宇宙戦争でもやらかすつもりかってくらいにな。……だが今、奴らは反乱軍の下っ端に甘んじている。その理由が分かるか?」

答えも聞かず、彼はすぐさまこう言った。

「反乱軍のトップだよ。あの男は只者じゃねぇ。聞いた話じゃ、パイレーツを引き連れたリドリー相手にあいつはたった一人で立ち向かい、真っ正面からねじ伏せたらしい。それでパイレーツはすっかりビビっちまって、あいつに鞍替えしたんだとよ。リドリーのヤツは腹に据えかねて何度も寝首を掻こうとしたそうだが、ガノンドロフはこれっぽっちの隙も見せなかったって話だ」

これを聞き、天使は返事も忘れ、ただ唖然として相手の顔を見るばかりになっていた。

パイレーツの集団というだけでも勘弁したいくらいなのに、あのリドリーまでも……熟練の戦士サムスを相手に互角の戦いを繰り広げていた、彼をも退けたのか。信じがたい強さだが、心当たりはあった。

つい先刻、本来のリーダー、リドリーの元に戻ろうとしていたパイレーツたち。彼らの裏切りを許さず、退路を絶ったのはガノンドロフ本人ではなく、その幻影に過ぎなかった。だがパイレーツはその幻影に恐れをなし、自暴自棄になって攻撃を開始したのだ。

反乱軍を名乗る集団において、いかに絶対的な力による圧制が敷かれていたのか。推して知るべしだろう。

ウルフは隻眼で睨むようにこちらを見据え、さらにこう言った。

「オレは今まで、奴が滅多にブリッジや船長室から出てこねぇのを、てっきりダークサムスの力に頼ってんだと思ってた。だがそうじゃなかった。あいつは最初っから、その気になりゃてめえの身はてめえで守る、そういう奴だった。お前らが中枢部に侵入できたとして、奴の幻影がどこまでも追いかけてくる。仮にそれを切り抜けて奴の前に立てたとこで、相手にされるはずもねぇ。あっという間に成敗されるのがオチだぜ。いくらお前の“お友達”が強かろうとな」

「そんなの試してみなきゃ――」

むきになって言い返そうとしたところで、ピットは周りの風景が変わったことに気づき、言葉を途切れさせる。

左側の壁、目線の高さに沿ってずっと一列にガラスのように透明になっており、そこから外の様子が見えていたのだ。

ガラス玉のような世界が点在する亜空間を背景に、見渡す限りの長さに渡って火花のような輝きがちらついている。目を凝らすと、蠅のように小さな何かが群れを成し、戦艦の外を飛び交っている様子が見えてきた。

不意に合点がいって、ピットは目を丸くする。道理で船内が静かな訳だった。今やパイレーツ達は船外に舞台を移し、派手に撃ち合っているのだ。

こういった場面は見慣れているのか、窓に映るウルフの顔は、ちらと船外に目を向けただけでそれ以上の興味は引かれず、再び目の前に注意を向ける。だがピットの方は、窓から目を離せなくなっていた。

――ダークサムスもウルフも、それにリドリーも、手紙を読んで“亜空軍”との戦いを……反乱軍でいることを止めた。だから、きっと君たちが戦い合う必要なんて無いはずだ。なのに……

彼らが宇宙のならず者集団と知っていてもなお、彼は案じるように窓の外を見つめていた。

と、その先でいきなり、視野いっぱいに眩い光が炸裂する。

思わず跳び上がりそうになって、少しして、辺りの通路が何ともなっていないことに気づく。まだ動悸が収まらない中、ウルフの声が後ろからこう言った。

「バリアだ。ダークサムスの奴がコントロールルームにいる限りは、この船は滅多な攻撃じゃ沈まねぇよ」

それを言い終えるかどうかという時に再び、今度は二、三発の閃光が襲い掛かる。

「……何なの? さっきから……」

肩をすぼめたまま、ピットは窓の方を見やっていた。同じ方角に目をすがめていたウルフは、ややあってこう呟く。

「あーぁ……リドリーの野郎、完全に頭にキたみてぇだな」

彼の見る先に目を向けると、亜空間の暗さで分かりにくくなっていたが、他の戦闘機に比べて明らかに大きな宇宙船がゆっくりと前に進んでいくのが見えてきた。おそらくあれが、リドリーの乗る強襲船なのだろう。その船はコバンザメのように何機もの戦闘機を従えていたが、同型の戦闘機、おそらくは反乱軍側のものにまとわりつかれ、ひっきりなしに光線を食らっている。

だが強襲船はそれらに目もくれず、ただひたすらに亜空砲戦艦のどこか――ピット達から見て上の方を目掛けて執拗な攻撃を続けていた。船で最も上部にある構造といえば、一つしかない。

「……まさか、ブリッジを狙ってる?」

「他にあるかよ」

そう言ったウルフの声には、全く焦った様子が無い。おそらく、あの強襲船をもってしてもブリッジが破壊される可能性は万に一つも無いのだろう。

彼は依然、声を低く抑えつつもこう続ける。

「おい、いくらサル頭でもこれだけ見りゃ分かるだろ。お前がどんだけ人を引き込んで徒党を組もうと、あいつに真っ向勝負を挑むのは無茶だってな。それよりは、こっちの手の方がいくらかマシだ」

「いくらかマシ? そんな頼りない作戦なら乗りたくないんだけどな」

「贅沢言うんじゃねぇ。お前らは拾ってねぇだろうが、船内通信じゃ『反逆者も扇動者も一人残らず始末しろ』とのお達しが来てるんだ。せいぜい誰かに殺されないよう、捕虜は捕虜らしくしてろ」

彼がそう言ったのを、後半はほとんど聞こえておらず、ピットは訝しげに聞き返す。

「……扇動者って?」

振り返った先、ウルフの眉がぴくりと神経質そうに動く。

「はァ? っとに、てめェは暢気な野郎だな! お前らのほかに誰がいるってんだよ」

「でも僕ら何も――」

それを遮って、ウルフは片手に持ったバッジの模様を、さりげない仕草でこちらに見せる。

「このバッジだ。今朝方“亜空軍の手先を引っ捕らえた”って話は、すでに奴の耳に届いてる。そいつが牢から逃げ出したってこともな。で、まるでそれが引き金だったみてぇに、反乱軍にケチが付き始めた。戦艦内で暴れ回る侵入者に始まり、中枢部でトラップが作動、そして極めつけがリドリーの裏切り。全て元を辿ればお前に行きつく」

この言葉に、ピットはしばらく唖然として何も言うことができなかった。

「じゃ、じゃあガノンドロフは、僕が内側から反乱軍を壊してやろうって……? でも……僕は亜空軍じゃない。どっちに味方するつもりも無いよ」

振り返ったピットの視線に正面から応え、ウルフは頷きを返した。

「ああ。リドリーの野郎が暴れてんのも、別に亜空軍側に寝返ったわけじゃねぇ、ただの憂さ晴らしだ。ここを出て行く前に、積年の恨みを晴らそうってんだろ。……だが、あいつにはそう見えてねぇのさ」

 

しばらく歩いていると、不意に空気に煙臭さが混じり、ピットはふと怪訝そうに首を巡らせる。

進んでいった先はやがて、幅の広い通路に繋がった。あちこちでパイレーツが倒れ伏し、うつぶせに、あるいは仰向けになって呻いていた。酷い火事でもあったのか、壁には煤がこびりつき、元の銀灰色を見せている場所の方が少ないほどになっている。

惨状に眉を曇らせていた彼は、ややあって、ここが初めにブリッジへの侵入を試みた道、“中央通路”であることに気づいた。結局ここにいたパイレーツ達は、リドリーに率いられて強襲船まで撤退するか、ここで全滅するまで戦いつづけるかしたのだろう。

息はあるようだが、軽重様々な怪我を負ったエイリアンが倒れているのを見かけるとつい、そちらに目をやってしまう。

そうしていたピットの背後で、これまで以上に声をひそめてウルフが言った。

「――お出ましだぜ。怪しまれるんじゃねぇぞ」

顔を動かさないように、視線だけをさりげなく前方に向ける。

「……」

思わず驚きが表情に出てしまいそうになり、ピットはぐっと歯を食いしばってそれをこらえる。

 

騎馬の幻影は思いのほか近くに、こちらの真正面に姿を現していた。

忽然と、そうとしか言いようがないほど唐突に、それでいてあたかも前からそこにいたかのように。

 

骸骨を模した仮面の奥、見定めることのできない視線がピットを見据えているように感じられた。通路は無風であるはずなのに、幻影の背では緋色のマントがゆっくりとたなびいている。

目を合わせてしまえば勘付かれてしまうように思えて、天使は強いて幻影の目を見ないように俯いたまま、歩いていく。

幻影は道を空ける様子もなく、こちらの行く手に堂々と立ちはだかっていた。片手に携えられた槍はその穂先を下に向けていたものの、刃先は見る者を威圧するのに十分な鋭さをもって輝いている。

背後のウルフは無言のまま、ただ銃口の合図だけで直進するように伝えていた。だが、いよいよ目前まで迫った漆黒の馬の鼻先は、幻影と思えないほどの質感をもって近づいてくる。

我慢できずに目をつぶり、最後の一歩を踏み出す。

前髪を生暖かい風が撫でていき、気づけば幻影は馬と共に消え去っていた。乾いた砂の香りだけが、その場に残っていた。

呆けたようにその場に立ち止まっていると、

「おい」

ウルフの声がして、背中を銃把で軽くどつかれてしまった。

 

スネーク達と来た時は断念せざるを得なかった中央通路の扉。その向こう側は小部屋になっていた。

ウルフが入口付近のパネルを操作すると扉が閉まり、床から持ち上げられるような感触があって、小部屋ごと上へと移動し始めた。

彼はそのまま、長いため息をついて壁際に寄りかかる。銃も下げており、その様子を見たピットは、ここには“カメラ”が無いのだろうと理解する。そこで、ずっと後ろに回しっぱなしで疲れてしまった腕を振り、手を組んで伸びをした。

そこでふと思い出すものがあり、ウルフの方を向く。

「――ねぇ、そういえば他の二人は?」

「あぁ? 誰のことだ」

訝しげに眉をひそめるのを見て、ピットはあの場面で彼はこちらに気づいていなかったことに思い至る。とはいえ会話を盗み見ていたと言うのも彼の機嫌を損ねそうだったので、こう言った。

「フォックスから聞いたんだよ。君は後二人のパイロットと一緒に、反乱軍に雇われてるって」

「ああ、レオンとパンサーのことか。今頃、“寝返った”パイレーツの相手でもしてんだろ」

さほど心配する様子もなく、彼は素っ気ない口ぶりでそう答える。

「え、まさか置いてったの……?」

「人聞きが悪いこと言うんじゃねェよ。曲がりなりにもオレ達はあいつに、ガノンドロフに雇われた身だ。全員で戦線を離脱してみろ、オレらまで反逆者扱いされちまう。だから『仕事』はあいつらに任せて、オレは別行動を取っただけだ。離脱した理由は詳しく知らせてねぇがな」

つまり、彼が何を知ったのかは仲間にも伝えなかったのだろう。あるいは、伝えられなかったのかもしれない。

ピットが内心でそう案じながら狼の獣人を黙って見ていると、彼の隻眼と目が合った。

途端に彼は胡散臭そうな顔をして言った。

「……おい。そいつはどういう意味だ?」

「えっ?」

「その目だ。まさかてめえが蒔いた種を、そっから何が芽ぇ生やしたかを心配してるんじゃねぇだろうな? だったら余計な世話だぜ」

天使に指を突き付け、彼はさらにこう続けた。

「今こうしてお前を“連行”してるのもな、お前を助けるためじゃねえ。オレが自由になるためだ。ダークサムスの奴もそのつもりだろうよ」

ピットは少し気圧されながらも、考えた末にこう返した。

「――あの手紙、僕が書いたんじゃないからね」

これを聞き、ウルフはうんざりした顔をする。

「そんなのは分かってる。お前が書きそうな文章には見えねぇ。だがな、それを渡すと決めたのはお前だ。結果も何もかも受け止めるくらいの覚悟を持ったらどうなんだ」

そこで彼はピットを見据え、こう続ける。

「てめえのそのツラ、配った相手の反応を聞くのはこれが初めてじゃねぇんだろ? 中途半端にクビつっこんでうだうだ悩むくらいなら、いっそのこと辞めたらどうなんだ」

これを聞き、ピットは驚いたように目を丸くした。

「そんなことできない……! これは、パルテナ様から与えられた大事な任務なんだ。僕がどうこうできるような問題じゃ――」

だがピットの言葉を途中で遮るようにして、ウルフが身を乗り出し、こう訊く。

「大事、大事と言うがな、何がそんなに大事なんだ。お前、言えるか?」

「それは――っ、そんなの、僕に分かるわけないよ! パルテナ様が何を思って僕に任せたかなんて、教えられてもいないのに」

もどかしげに言葉を詰まらせ、そう言ったピットの様子に、ウルフはややあって合点が行ったように身を起こし、壁に背を預ける。

「……フン、なるほどな。お前自身は納得しきってねぇってわけだ」

そう鼻で笑い、肩を一つすくめる。

むきになって抗議しようとしたピットだったが、見る先で再び上げられた彼の顔を、そこにあった真剣な眼差しを見て思わず口をつぐんでしまった。

ウルフはその隻眼で天使を真っ向から見据え、こう言った。

「続けるつもりなら理由を探せ。お前がこの船を無事に切り抜けたとして、この先、どんな奴に出会うか分かったもんじゃねぇ。それでも迷わずお前の道を切り拓くってんなら、上から言われましたで済まそうとするな。なんだって良い、ひたすら単純で真っ直ぐな、自分が納得できるスジってもんを頭ン中にしっかり通しておけ」

 

 

小部屋の中に柔らかなチャイムが響き、扉が静かに開かれる。

ピット達はすでに、捕虜とそれを連行する傭兵としての偽装を再び整えていた。

が、その先に待ち受けていた景色の異質さに、進みだそうとしかけていたピットの足が躊躇う。

うっかり後ろのウルフに声を掛けようとして、直前で監視の目がある可能性に気づき、心の中に声を押し込める。

――ここ……船の中、だよね……?

彼は我知らず顔を上げ、扉の向こう側に広がる光景を凝視していた。

そこにあったのは、石造りの歩廊。

左右の壁は高く伸びあがり、黄色みがかったステンドグラスのはめ込まれた、背の高い窓がずっと向こうまで等間隔で並んでいる。窓からは、亜空間ではあり得べくもない斜陽が差し込み、深紅色の絨毯が敷かれた廊下を橙色に照らし上げていた。

不思議と、懐かしさを感じる。だがそれはキーパーソンにまつわるぼんやりとした既視感とは異なり、かなりはっきりしたものだった。考えていたピットは、それが彼の普段暮らしているエンジェランドの、地上界で良く見られる建築物と似ていることに思い至った。

無骨な鉄に囲まれた迷宮に、突如として現れた厳かな歩廊。果たしてこれは現実なのだろうか。

 

ようやく、戸惑いながらも踏み出された一歩で、絨毯の下に確かに石畳の凹凸があることを知る。少なくとも、床は本物らしい。

後ろでウルフが、声をひそめて短く言った。

「ヤツの趣味だ」

ピットは頷く動作もできず、心のうちだけで彼にこう返していた。

――これを趣味の一言でやってのけるなんて……よほどの凝り性だね。

歩廊には彼らの他に人はおらず、番兵らしきものは影すら見当たらない。この場所に居を構える人物はよほど自分の実力に自信があるのだろう。あるいは、自分だけを信じているのかもしれない。幻影さえも排除されている様子の廊下を眺めながら、ピットはそんなことを考えていた。

ふと、耳に微かな音が聞こえてきて、天使は顔を前に向ける。

廊下の先、終着点にある背の高い扉。その向こう側から、楽器の音色が聞こえていた。弦でも管でもない、人の手や息遣いによる揺らぎに乏しく、堂々と響くこの音はオルガンだろうか。

その旋律に耳を澄ましていたピットは、やがてほぼ無意識のうちに呟く。

「……この音楽、どこかで」

ピットの様子に気づき、ウルフは真剣な声音でこう尋ねる。

「お前、聞き覚えあるのか」

天使は眉間にしわを寄せる。

歩いていく二人の周りでいよいよ旋律は厳かに響き渡り、小高い天井に反響していた。オルガンの音色は決然として勇ましく、それでいて厳かに紡がれていく。

ついに目の前まで迫った扉、板一枚を隔てて聞こえてくる旋律を耳で追い、考え込んだ末にピットはこう呟いた。

「なんか、歌詞があった気がするんだけど……」

彼がそれ以上のことを思い出せない様子であることを見て取り、ウルフは彼の思考を断ち切るように前に出る。

「……この先が船長室だ。開けるぞ」

彼は二度ノックをしてから、返事も待たずに扉を押す。

見上げるような高さの戸は、見た目から想像するよりも遥かに静かに、ゆっくりと開かれていった。オルガンの音量もそれにつれて大きくなっていく。

 

そこに広がっていたのは、大聖堂と見紛うほどに荘厳な空間。

突き当りの壁には様々な太さと長さの金管が左右対称に建ち並び、抽象的な祭壇のように、厳かで神々しい造形を織り成していた。左右の壁はこれまでの廊下と同じように丈の高いステンドグラスの窓がはめ込まれ、そこから差し込む暁色の光が室内を満たしている。

あまりにも広大な空間。だがオルガンの重厚な響きは部屋の隅々にまで満ち、辺りの大気を震わせていた。

相変わらず亜空砲戦艦には似つかわしくない規模と見た目の空間ではあったが、ここまでの歩廊とは違う点が一つだけあった。空中、人の目の高さに半透明の板がいくつも浮かんでいるのだ。それらには船内の各地の様子が、ノイズ交じりに映し出されていた。スネーク達が映っていないだろうかと僅かな期待をかけ、ピットは目を凝らす。だが入口からでは遠く、空中に架けられた窓に映る詳細を見分けることは難しかった。

そこで扉の前から部屋の奥まで伸びていく深紅の絨毯、その先を目で辿ったピットは、浅い階段を上がった先、金管の祭壇の前に大柄な男がいることに気づく。

それとほぼ時を同じくして、パイプオルガンの前に立つ偉丈夫はぴたりと演奏を止めた。彼が最後に押さえていた和音が天井に残響を響かせる中、男はおもむろにマントを翻し、こちらへと向き直る。

入口に立つこちらの姿を認め、遠くに見える彼の顔が、口の片端を吊り上げて笑う。

「ほう、生け捕りか」

興味を引かれた様子で彼が口にした言葉は、小高い天井を鈍く震わせ、威圧するように低く響き渡る。

ピットの背後、ウルフの声が告げた。

「――小僧、後はお前次第だ。せいぜいしくじるなよ」

小僧と呼ばれたことに思わず反駁しようと振り返りかけた、そんなピットの視界に黒い影が割り込む。

見上げた先、角付きの幻影が表情の読めない顔でこちらを見下ろしていた。抵抗する隙も与えられず、影で象られた手が素早く伸び、こちらの片腕をがちりと捕らえてしまった。そしてそのまま、強引に引っ立てられる。

身長の差から、ピットは掴まれた側の腕を上げざるを得なかった。だが幻影は、すこぶる歩きにくそうにしている彼の事情などには頓着せず、ぐいぐいと連行していく。

そのままパイプオルガンの手前、階段の前まで連れてこられたピットは、捕まった時と同様に唐突に解放される。幻影は消え去り、ピットは鎧を着込んだ反乱軍の長を前に、一人取り残された。

鷲鼻の偉丈夫。色黒の肌は光の加減か、僅かに緑がかっているようにも見えた。頭では赤褐色の髪を編み込み、額には金属製の飾りを着けている。ただでさえ逞しく鍛えられた身体は異国の紋様を描かれた黒い鎧で固められ、そこに立っているだけなのに、彼の佇まいは堂々たる威厳を――“王”たる風格を存分に示していた。

現に彼は、明らかに拘束されていないピットの様子を見ても、欠片ほども警戒するような気配が無かった。

天使がバッジを身に着けていないために、実質見た目通りに丸腰であることは事実なのだが、たとえここで神弓を持っていたとしてもきっと相手は何ら変わらず、今のような余裕を見せるように思えた。

相手の放つプレッシャーに押されそうになり、思わず挑みかかるような視線を返して口を引き結ぶピット。そんな彼の様子を観察するように悠々と見まわしてから、ガノンドロフは一つ、小馬鹿にしたように鼻で笑った。

「……まぁいい。どういう了見で我が軍勢に歯向かったのか、直々に聞いてやるのも一興だな」

彼にとっては“扇動者”であり、船内で暴れ回った侵入者の一味であるはずのピット。その手はすでに自由になっており、下げた拳がきつく握りしめられているにも拘わらず、ガノンドロフは一向に構わず階段を降り、悠々と天使の前までやって来た。

彼はそれ以上は何を仕掛けるつもりもなく、ただ腕組みをしてピットを見下ろし、こちらの行動を待っているようだった。

存分に余裕を見せつけ、それによって威圧する反乱軍の王。

武者震いか、それとも本能的な恐れか、身体が勝手に震えそうになるのを、ピットは強いて拳を固く握って押さえつけていた。

一つ、深呼吸をし、真正面から相手を見上げる。

「――ガノンドロフ。これは、亜空軍からの通告だよ」

そう告げて、ピットは肩掛け鞄から一通の手紙を取り、差し出す。

王はそれを訝しげに見おろしていた。その面持ちは心なしか、思いのほか無害な行動を目にして、拍子抜けしているようにも見えた。

しばらく黙ったまま彼はこちらをじっと凝視していたが、やがて、差し出された手紙を受け取る。彼がもう片方の手に小刀を手に取ったのを見て、ピットは思わず身構えてしまったが、それはペーパーナイフの代わりに封を切るのに使われ、再び腰のホルダーへと収められる。

ピットが見上げる先、ガノンドロフは一切表情を変えずに手紙を読み進めていた。そのまま最後まで読み終えると、彼は元のように手紙を折りたたむと封筒の中に仕舞った。

それから再び天使を見下ろし、封筒に入った手紙を片手の指でつまんでみせる。

一体何のつもりかと、天使が怪訝な眼差しを向けたその時だった。男が口の片端を吊り上げたかと思うと、ピットの見る前で、封筒が紫焔に包まれる。

愕然と目を見開き、思わず前に踏み出すピット。そんな彼を鼻で笑い、ガノンドロフはこう告げた。

「笑わせるな。これがお前たちからの通告だと?」

だが、少しして怪訝そうに片眉を上げる。彼の見る先、ピットの表情が呆気にとられたようなものに変わっていたのだ。彼の視線を追うと、自分の右手が掴む手紙、それは炎の中にありながらも平然として白く、無傷のままでそこにあり続けていた。

口の端をぴくりと痙攣させるも、彼は念を込めて右手の周りに小規模な魔法陣を生じさせる。封筒は魔法陣の中に封じられ、手から離されてもそのまま宙に浮かび続けていた。

彼はすかさず右の手のひらを構え、手紙を目掛けて無数の光弾を撃ち放つ。しかし着弾のたびに折れ曲がりこそすれ、手紙は一向に破れる様子がないまま全ての弾を受け止め切った。

男はいよいよ腹に据えかねて、魔法陣を解除するなり返す手で長剣を抜き放つ。

もはや彼の目には使者すらも映っておらず、舞い落ちる途中の手紙に狙いをつけると、その剣の腹で勢いよくはたき落とす。

流れのままに剣の柄をくるりと回して逆手に持つと、辺りの大気をびりと揺るがす一声と共に剣を振り下ろし、封筒を刺し貫こうとした。

 

王は剣を床にまっすぐに突き立てたまま、それを支えのようにして立ち、肩で息をついていた。

見開かれた目が向けられた先、封筒は、あいも変わらず純白の表面を見せてそこにあった。剣の切っ先は封蝋のちょうど真ん中を捉えていたが、円に十字のマークは少しも削れた様子がなく、全くの無傷だった。

信じ難い光景を前に、それを認めざるを得なくなり、突き付けられた現実に男は口を歪める。食いしばった歯の間から、怒りとも屈辱ともつかない声がもれた。

「――バカな……ありえん……」

悔しげに呟かれたその言葉は、手紙の頑丈さに向けられたものだろうか、それとも手紙の『内容』に――

問おうとしたピット。だが、言葉は発せられないまま、彼ははっと後ろを振り向いた。にわかに後ろが騒がしくなり、そこに親しい声がいくつも含まれているのに気づいたのだ。

 

振り返った先、空中に大きな星型の穴が開いていた。

前にリドリーの足止めに使われたものとは違い、それは中心に向かって明るく、赤紫色を帯びていた。

その輝きの中から続々と、仲間がくぐり抜けてくる。サムス、次いでスネークが現れ、魔王を前に全く怯むことなく武器を構える。先に出た彼らの後衛を務めるように、フォックス、ファルコもブラスターを手に並び立つ。そして最後に顔をのぞかせたマホロアは――室内の様子を見るなり、恐れをなして小さく悲鳴を上げた。

無理やり作ったような引きつった笑顔を見せ、

「ジャ、これでボクはお役御免だネ!」

と、ワームホールを縮小させながら退散しようとしたが、そのツノのところでファルコにむんずと捕まえられてしまった。

「お前は帰りのアシをやるんだよ」

 

それぞれに銃口を魔王へと向け、居並ぶ戦士たち。

多勢に無勢のはずなのに、ガノンドロフは少しも焦る様子もなく、子細に検分するかのように目をすがめて四人の顔をじっと観察していた。

おそらく見覚えがあったのだろう。彼はやがて、僅かに目を見開く。

幾分冷静さを取り戻した彼は、剣を鞘に収めてゆっくりと屈みこみ、封筒を手に取る。

背筋を伸ばして立った彼は、四人に向け、自分が内容を読んで了解したことを示すように手紙を示しながらこう告げた。

「……貴様らと戦うつもりはない」

ガノンドロフはそのまま、その視線を傍らのピットに向ける。

「礼を言うぞ、小僧。ようやく目が覚めた。真に立ち向かうべきは……」

彼はその先を言わず、ただ彼方を睨みつけるように見据えた。その手に力が入り、手紙がくしゃりと音を立てて折れ曲がる。

封筒をきつく握りしめたまま、彼は歩き始めた。天使の傍らを通り抜け、道を空けたキーパーソンらの間を抜けて、小高い天井に足音を反響させながら、彼は――反乱軍の長は船長室を後にした。

 

 

 

亜空砲戦艦は針路を変え、最寄りの『エリア』へと船首を向ける。

それを見てガノンドロフの心変わりを察したのか、あるいは単にこれ以上の攻撃は無駄と判断したのか、リドリー率いるパイレーツも砲撃を止め、戦艦と並走して亜空間を飛行していた。おそらく、彼らは自力で亜空間から脱出することができないのだろう。きっと今頃、リドリーは強襲船のブリッジで、面白くなさそうに頬杖をついているに違いない。

そして肝心の亜空軍は、撤退する戦艦を追うこともせず、何事も無かったかのように進軍を続けていた。それはタブーと呼ばれる存在も例外ではなく、青く輝く半透明の姿は戦艦を一顧だにせず、暗紫色の闇の中で背を向けたまま徐々に遠ざかっていく。

 

メインフロアの通路、ブリッジの一階層下を一周ぐるりと巡る回廊。

一面がガラス張りのように透明になった壁を前に、天使が一人、佇んでいた。

外と内を隔てる不可視の境界に片手を当て、彼は何も言わずに船の外を、流れゆく暗紫色の亜空間とガラス玉の宇宙を眺めていた。

限りなく黒に近い紫色の闇を背景として、丸く色鮮やかな世界が浮かぶ様は、やはり天界から眺めた地上の様子と良く似ている。あの黒い海として見えていたものが亜空間であり、小さな島として見えていたものはエリアを内包する球体だったのだ。

それでも、こうして亜空砲戦艦に乗り、亜空間の側から眺めると、同じ景色は全く意味を違えて自分の目に映っていた。

あまりにも広大で、あまりにも厖大な偽物の世界たち。水晶玉や凸レンズを通したように膨らんだ景色が一つ、また一つと後ろに通り過ぎていく。

 

自分は、何をすべきなのか。

ピットは先ほどから、それをずっと一人で考え込んでいた。

自らの主であるパルテナの命ずることを拝受し、かの女神が自らの判断で、本心からそれを言っているのだと信じて疑わず、依頼主の真意を推察することも自らに禁じ、何も考えずに手紙を配り続ける。忠実な振る舞いではあるが、それは親衛隊の隊長として相応しい行動と言えるだろうか。

今一度考えてみよう。自分の行動は、何をもたらしてきたのか。

依頼主から渡される手紙には、おそらく、キーパーソンと呼ばれる人々の記憶を甦らせるような報せが書かれてある。それを読み、彼らは自分たちに失われた記憶があることに気づき、さらにそれをきっかけとして、自らのいる場所がまがい物の世界、『エリア』であることを見出すのだ。

しかし今のところ、周りの人々にそれを説き、エリアの外に出るように促したという人物には未だに出会ったことがない。彼らはそこが偽の世界だと知らされたにも関わらず、未だに、エリアの中に閉じこもったままなのだ。

彼らの心情を慮り、天使は同情から首を横に振る。

――無理もないよ。出たところで、向かう先が無いんだから。

『本物の世界を探してあげるべき』

ダークサムスに威勢よく言った、自分の言葉が脳裏によみがえる。確かに、それは自分の本心だ。でもどうすれば良いのか、それは全く見当がついていなかった。

――地上界は……彼らにとっての本物の世界は、どこにあるんだろう……どこに行っちゃったんだろう。こういうのはきっと、彼らを閉じ込めた黒幕を倒せば一件落着なんだろうけど……。

内心でそう思いながらも、ピットは視線を上向かせる。だがそこには暗紫色の亜空間を背景にして無数の水晶玉が浮かぶばかり。

一体誰が、何のために。

考えていたピットの脳裏に、真っ先に上ったのは“亜空軍”、そしてその首領であるタブーの姿。

亜空軍は『空間を破壊、あるいは奪い取る』手段を持っているらしい。だとすれば、今目の前に広がっている光景が、すでにほとんど亜空軍に奪いつくされ、ボロボロになった世界の『なれの果て』だという最悪の予想もできる。もはや本当の世界と呼べるものはほぼ残っておらず、点在する不完全で歪な偽物の空間『エリア』に辛うじて人間たちが暮らしているのだと。

だが一方で、彼らこそが首謀者だと言い切るにはあまりにも情報が乏しかった。仮に彼らがキーパーソンたちを含む地上の人間から本来の居場所を奪い、記憶をも消したのだとしたら、そのままエリアに閉じ込めておけば良いはずだ。それをわざわざ、改めて人間たちの前に姿を現して存在を知らしめ、せっかく消した記憶を蘇らせてまで、残りわずかな空間を――それも、おそらくは偽物の世界を――せせこましく奪うというのは不可解でしかない。

説明がつかないのはそれだけではない。キーパーソンに手紙を渡し、何らかの行動を促す『ゲートキーパー』、エインシャントの意図だ。彼は一体、亜空軍とどういう関係があるのか。

ピットは自分の右肩を、ウルフから返却されたバッジを見つめる。赤い宝玉を留める金具は、円を途中まで切るマークを、亜空軍の旗印を描いている。これは光の女神曰く、エインシャントの作だという。

――シンプルなデザインだし、偶然の一致なのかもしれない。でも……どうもあの人のことは信用しきれないんだよなぁ。

ピットは眉間にしわを寄せてバッジを凝視していた。

だが赤い宝玉は一点の曇りもひびもなく、ただ透徹に天使の顔を映し返すだけだった。

エインシャントは、何を考えてこのデザインにしたのだろう。手紙を配る使者が身に着けるアイコンに、このマークを選んだ理由は何なのだろう。

偶然の一致でないとしたら、ピットやエインシャントが亜空軍側だと見せかけたい、というところか。

では、その目的は。

亜空軍が真の敵ではないということを知らせたいのだろうか。それとも、態勢を整えてから対決するように忠告したいのだろうか。未だ亜空軍を見たことがないキーパーソンには事前に、そしてこの船の人々のように、現に交戦していた者たちには直ちに戦いを止めるように。

しかしそれにしては妙なところがある。すでに手紙を受け取り、読んでいる人々――フォックスやファルコ、スネーク、彼らの『亜空軍』や『タブー』に対する反応が新鮮すぎるのだ。つまり彼らの手紙には、亜空軍やタブーに関する物事は、それを示唆するものすら書かれていなかったのだろう。

不自然だったのはそれだけではない。

ピットと同じく、この戦艦で初めて亜空軍を知ったフォックスたちは、彼らの所業に衝撃を受けた様子ではあった。だが、だからといって「あれこそ真の敵」と定める様子もなく、ピットが手紙を配り終えることを最優先に動いた。

だとすると、もしかすると手紙には、亜空軍の所業をも易々と超えてしまうような何者か、あるいは何かを示唆するような情報が書かれているのかもしれない。

しかし、そこまでを考えたところで、ピットは何かが引っかかったように片眉を上げる。

「いや、でもなぁ……」

思わず声に出して呟き、彼は腕を組んで首をかしげてしまった。

「だとしたら、みんなそう言うはずだ。具体的に何がどんなことをしていて、だから止めなきゃいけないんだ、とかさ。……でも、今まで聞いたのはみんな、本当の場所に帰らなきゃならないってそれだけ。それも今すぐじゃなく、近い将来には必ずってくらいでしかなさそうだったし、そんな緊急って雰囲気じゃなかったんだよなぁ」

ぶつぶつと呟く天使。

しばらく難しい顔をして考え込んでいたが、やがて彼は諦めたように首を横に振る。

――結局、僕はまだ何も知らない。続けるつもりなら筋を通せって言われても、それを決めるための情報が少なすぎるんだ。

わずかに顔を俯かせ、透明な壁に踵を返して船内側へ、スネーク達がいる場所へ向かおうとした。

その瞳が何かを見つけ、彼はふと足を止める。

 

自分一人と思っていたが、いつの間にかもう一人、同じ階層に人影があった。朱殷色のマントを羽織る偉丈夫。彼は船の進行方向ではなく、その反対側をじっと眺めているようだった。

そこにあるものは、ゆっくりと遠ざかっていくタブーの背。

反乱軍の長であったはずの彼が艦橋ではなく、全く関係のない通路に一人立つ姿。それを見ていた天使は思うところがあり、彼の元へと歩いていった。

通路に微かな足音を響かせ、彼の隣までたどり着く。ガノンドロフは腕組みをして彼方を眺めていたが、ピットが隣に来たところでようやく一瞥し、こう言った。

「――小僧、何の用だ」

「小僧ってさ……僕、そんな年じゃないんだけど」

思わずむきになってそう抗議するが、相手は面白がるように鼻で笑うだけだった。

「ほう? 十六にも届かぬ顔付きに見えるがな」

「少なくとも君より上って自信はあるよ」

「フン……面白いことを言う。オレも負けてはいないぞ」

「嘘だぁ、せいぜいアラサーでしょ君」

「アラサーとは何だ」

訝しげに聞き返した魔王に、ピットはこう教えてやる。

「三十代前後ってこと」

「そう見えるだろうな、今の姿は」

歯を見せてにやりと笑い、ガノンドロフは船外の景色に視線を戻す。

過ぎ去る水晶玉を見やりながら、彼はこう続けた。

「小僧。矢鱈に年月ばかり重ねても、成長できぬのなら面白くないだろう」

「できないわけじゃない。人間より遅いだけだよ。……たぶん」

少し自信なさげに呟かれた最後の言葉は、頼りなく天井にこだまし、消えていく。

 

窓の外、魔王が一心に見つめるのは半透明の青い巨人。その後ろ姿はすでに芥子粒のように小さかったが、そのまま微動だにせず縮んでいき、やがてピットの目では追いきれないほどに小さくなってしまった。だが、魔王は依然として同じ方角を向き続けていた。

険しい表情で口を引き結び、亜空軍の首領を睨む顔。

ピットはそれを見上げ、思い切ってこう尋ね掛けた。

「ねえ。君がさっき言ってた、『真に立ち向かうべき』相手って……誰の事なの? 手紙に書かれてあったの?」

これを聞き、魔王は少なからず驚いた様子で天使を見下ろした。

「……なんだ? 貴様、あんな芝居を打っておいて、文面も知らずに渡していたのか。……まぁ良い」

再び船外に顔を向け、彼はこう切り出した。

「亜空軍ではない。……少なくとも、あの青い巨人ではない。より強大で、捉えどころのない存在……何者かが、オレをこの船に縛り付けていた」

「封印でもされてたの?」

「そういう意味ではない。『感情』を利用されたのだ。亜空軍に対してオレが抱えていた、復讐の念を」

「復讐……?」

ピットは僅かに目を見開いた。確かに自分も、亜空軍に対しては強い既視感を覚えていた。そしてその感情には、怒りとも敵対心ともつかないものが含まれていた。だがそれは、復讐とは意味合いが異なる。一体彼は、亜空軍とどのような確執があったのだろうか。

「確たる証があるわけではない。だが数多の記憶のうち、どこかには必ず、奴らの存在があるはずだ。そうでなければ説明が付かん。オレがこの船に辿り着き、闇の中を征く奴らの姿を見たときに沸き起こった、かつて奴らに愚弄されたという屈辱、腹の底から湧き上がったこの怒りは」

ガノンドロフは腕をほどき、顔の前に上げた右の拳を固く握りしめていた。その指の間からは、彼の感情を具現化したような紫色の炎が揺らぎ、静かに立ち昇っていた。

彼の様子を見て、我知らずこんな言葉が口をついて出る。

「……君も、思い出せないんだね」

「も、というのはなんだ。他にもいるのか」

「ああ、えっと……少なくとも僕。それからスネークとファルコも知ってるみたいだったんだ。タブーのことを。でも誰も、あの巨人が何をしたのか、なんで自分たちがあんなに衝撃を受けたのかも分かってない」

ピットはそう言って、ガラス張りの壁に向き直る。そこには、浮かない表情をした自分の顔が映っていた。

「思い出せないのは亜空軍のことだけじゃない。僕らが今までに会った人たちは、僕のことをどこかで覚えていた。……それに僕の方も、みんなに見覚えがあった。僕らはどこかで会ったことがある。話したことも、遊びに行ったことも、もしかしたら腕試しをしたことも。でも、それがいつ、どこだったのか、肝心のところを誰も思い出せていないんだ。だから、本当にあったことなのかどうかも……」

「何を悩む必要がある」

この声に、ピットは相手を見上げる。ガノンドロフは傍らに立つこちらに目を向け、天使を見おろしていた。

「目にしたことをきっかけとして思い出せるのなら、本来それが指し示すべき『先』も確かに存在していたのだろう」

「……でもさ、それにしては変なんだよ。どんなに長い時間、一緒に行動してても、顔と名前くらいしか思い出せるものがない。記憶が全然戻ってこないんだ。キーパーソンの中には、そっちの方が――僕らが会ったことがあるっていう記憶の方が偽物なんじゃないかって言う人もいるし」

「そんなことを言い出せば切りが無い。第一、確証はあるのか? それが偽りの記憶だと、あからさまに分かるような証は」

そう言った魔王を前に、天使は懸命に記憶を手繰り寄せる。自分の分だけでなく、キーパーソンがそれを示唆することを言わなかったかどうかも。

フォックス達のケースのように、『キーパーソンに似た種族は、自分の住む一帯で知られていない』というのはどうだろう。ただ、それにしてもフォックス達の方が、そういった種族の暮らす辺りへの行き方を忘れてしまっているだけという可能性を捨てきれない。

結局、思い出せる限りの範囲には見当たらず、彼は渋々首を横に振る。

天使の反応は予想に違わなかった様子で、魔王は悠々と腕組みをし、こう語り始める。

「記憶とはお前がこれまでに積み重ねてきた経験を記すものであり、己を形作り、維持する為に必要なものだ。したがって記憶を否定することは、己の一部を否定することに等しい。殊にお前たちの失った記憶というのは、顔を見ただけで相手が知己だと悟るような類いなのだろう? それほどまでに肝心な物事を、子細に思い出せぬからと言ってそう易々と真偽を疑うようでは、いずれ己が如何なる人物であるのかさえも見失うことになるだろう」

「でも……中には自分の記憶と矛盾してるって人たちもいるんだ。生まれてからずっと同じ地方で暮らしているのは確かで、僕らの方も彼の地方に来たはずがない、なのに見覚えがあるって」

「ならば、そのどちらも真実というだけだ」

全く動じることも無く告げられたこの言葉に、ピットは愕然として言葉を失ってしまった。

なかなか次の句が継げずにいた彼だったが、目を瞬き、ようやくのことでこう言った。

「えぇっ……?! そんなことって……だって、矛盾してるんだよ?! どっちも本当なんて、そんな……」

「有り得ん話ではない」

そう言い、魔王は窓の方を見やる。そこに映る自分の像を見ながら、こう続けた。

「現に、オレがこの船に廻り合う前には、ここに至るまでには幾つもの記憶がある。いずれもお前から渡された手紙を契機に思い出したことだがな。……砂漠で、高原で、あるいは島で――数多の世界で、オレは全てを手に入れることを望み、力をもってあらゆるものを従え、支配しようとした。だが必ずどこかで阻まれ、敗北し、封じられた。その多くが、定められた名を持つ勇者と賢者の手によるものだった。奴らに先手を打たれ、未然に防がれた記憶も、あるいは奴らを退け、つかの間の栄華を築いた記憶もある。互いに矛盾しているが、どちらにも己の記憶とするに足る『確からしさ』がある。無論、いずれは瑕疵が見つかるかもしれん。だが今ある手札ではどうとも判断できぬ。ならば今暫くはいずれもが真実だと、そう考えるつもりだ」

「同じ相手に先回りされたこともあるし、逆に倒したこともある……」

反芻するように繰り返したピットの言葉、その先を取り、ガノンドロフはこう続けた。

「そうだ。どちらも確かだというのなら、あるいは時が巻き戻っているのかもしれんな。敗北し、封じられるたびに、異なる時と場において甦り続けていたとすれば。荒唐無稽な話だが、だとすれば説明もつく」

これを聞いたとき、ピットの脳裏によぎるものがあった。

「――『閉じた時間の輪』」

思わず口をついて出た言葉を聞き留め、横に立つ男は訝しげに片眉を上げる。

彼を見上げ、ピットはこう説明した。

「前に行ったエリアでキーパーソンが僕にそう説明してくれたんだ。彼らはずっと、終わりのない戦争を続けていた。勝ちそうになったり、負けそうになるたびに時間が巻き戻って、それまで戦っていたことも忘れてたんだって」

「ほう、先例があるか。ならば先ほどの仮説もあながち捨てたものではないな。……しかし、腹立たしい話だ。彼方に見える頂を目指し、立ちはだかる者を退け、時に這いつくばってでも前に進み、ようやく手が届こうかというとき、見えざる者によって深い谷底に蹴落とされ……それを数え切れぬほどに繰り返していたとは。オレがこの船に残っていたとして、またいずれ勇者や賢者に倒されていたというのか」

彼はそこで、窓に映る自らの姿を見定めるように目をすがめる。

「……こうなった今となっては、亜空軍に対する確執も、もはや数多ある記憶の中の一つに過ぎぬ。ならばこそオレは奴らとの戦いを、この船を捨ててやる。これはオレの意志だ。これ以上、余人に定められた道を歩かされてなるものか」

最後の言葉を言うとき、彼は忌々しげに顔をしかめ、怒気をたぎらせてそう言い捨てた。

 

 

 

航行の末、亜空と実存を隔てる界面を抜けて亜空砲戦艦が辿り着いたのは、明るい青色の海に囲まれた無人の島だった。

見渡す限りに他の島は見当たらず、ここがエリアなのだとすれば、海と一つの島しかないエリアということになる。

誰もいないエリアがある、というのは初耳だったが、それは単にエインシャントにとって用が無かったためかもしれない。配る相手が誰もいないのなら、立ち寄る必要もないというわけだ。でも、誰もいないのにエリアとして造る必要があるのかどうかはよく分からなかった。人間たちを騙すための試作品、というあたりなのだろうか。

 

抜けるような青空の中、戦艦を通すために開かれた空間の穴は自然と縮んでいき、やがて静かに閉じてしまった。

きらめく浅瀬に停泊した巨大戦艦は、寄せては返す波にその船底を洗われるがままになっている。その装甲にはいくつもの大穴が開いていた。ダークサムスが船から去ったことにより、破損個所を埋めていたフェイゾンという物質も彼女に回収され、無くなってしまったらしい。

おそらくこの船は、もう二度と飛び立つことはないだろう。

侘しげな気配を漂わせる鋼鉄の骸。それを見上げていたピットはふとこんなことを思う。

――こんなたくさんの穴……誰に開けられたんだろう。亜空軍は……違うだろうな。彼らは反乱軍を相手にしてないはずだ。でも、だとしたら……亜空軍を追いかけてどこかのエリアに出たときに、現地の人に驚かれて攻撃されたとか?

こんな巨大な船が空間の穴から出てくれば、驚かない方がおかしいだろう。もしかしたら主砲も、何度かそう言った誤解を受けた末にとうとう壊れてしまったのかもしれない。空いた穴を塞ぐだけでは直せないような、そんな致命的なダメージを受けてしまったのだろう。

――特に僕とスネークが放り出された時のあの穴、戦艦の前を真っすぐ貫いてたってことは……やっぱり昔、『何か』が主砲の辺りを貫通したってことだよね。そんなものを受けちゃったら、ひとたまりも無いかもなぁ。

砂浜に立ち、見上げてもなお頂の見えない戦艦を眺めていたピット。彼の名を呼ぶ声が聞こえて、ふと後ろを振り返った。

橙色の甲冑。磨き抜かれたその表面が日光を反射し、天使は思わず反射的に目を細めてしまう。

狭められた視界の向こう側から、声が届いた。

「ここにいたのか」

「うん。もう残ってる人はいないかなって」

そう言ったピットに、サムスはバイザーの向こうでふっと笑った。

「……君は優しいな。聞いた話では、パイレーツに監禁されていたんだろう? そんな相手に気を遣うことはない」

『捕まっていた』という部分に反応し、ピットはこう弁明する。

「あれは神器を呼び出せなかったからだよ。丸腰じゃなかったらこてんぱんにやっつけてたところなのに」

相手の表情はバイザーに隠れて見えなかったが、何となく、依然として可笑しげにほほえんでいるような気配があった。

そのまま彼女はピットの横に並び立つと、ヘルメットを仰向けた。

笑みの気配は静かに過ぎ去り、幾分無機質さを取り戻した緑のバイザーが戦艦の骸を見上げる。

「――あの男の言葉を聞いてなおも残るようなら、我々にしてやれることはない。ここに置いて行かれても文句は言えないだろう」

つられて同じ方面を見上げていたピットは、しばらくしてふと気づき、彼女の方を見る。

「サムスは? ちゃんと帰る場所はあるの? ……あ、って言っても、本当の場所じゃなくて……」

「……帰る場所? 何か問題でも?」

「ああ、いや……君のいた『エリア』、なんだかとても狭いみたいだったし、家も何もなくて、住めるような場所じゃなかったような気がして……」

言い淀んでしまった天使に対し、サムスからの答えは予想していたよりも早く返ってきた。

「なるほど、そういうことか。君たちは本当に、あのARルームにワープしてきたんだな」

「えっ? エーアール? ワープ……?」

 

状況が飲み込めずに目を瞬くばかりのピットに、サムスが説明したのはおおよそこのようなことだった。

ピット達三人がいたのは、銀河連邦軍の模擬戦闘訓練に使われる区域だった。

何の用意もせずに踏み入ると、そこはただ真っ白でだだっ広いだけの空間にしか見えない。専用の装備を着けて初めて、戦闘訓練用の映像と音が届く仕組みなのだという。彼女の説明によれば、『被ったヘルメットによって立体映像を網膜に投影し、音響を耳に届かせることで、現実に仮想の景色を上書きしている』という。また、スーツにも細工がしてあって、仮想の敵から受けた攻撃はちょっとした衝撃となってフィードバックされるという。

実際には無いものを現実に被せる技術。それが拡張現実、彼女のところでARと呼ばれるものらしい。

馴染みのない単語のオンパレードに混乱しつつも、ピットは訝しげな顔でこう返した。

「……でも僕、ヘルメットもスーツも使わなかったよ?」

サムスからの返答には、わずかな間が空いた。

「――ああ、そうだろうな。確かにあの時、君たちはAR用の装備を着用していなかった。それでも模擬戦闘ができたということは、どうにかして拡張現実を認識していたのだろう。原理は分からないが……ともかく、君たちの元に向かった時に、確かに私は君たちの姿を見た。連邦軍指定のスーツを着ていない君たちを。だがあの時、私は、それを妙な事だとも思っていなかった」

磨き抜かれたバイザーをこちらに向け、彼女はこう続ける。

「……気づけなかったことはそれだけではない。明らかに軍所属のIDを持たない部外者が侵入し、しかもどうやったものか戦闘機を二機も持ち込んだのに、あの時コントロールルームにいた人々はただの一人も異変に気付いていなかった。訓練を止めようともせず、何も問題が起きていないというようにモニターを眺めていた。また、試験であれば一回きりで終わらせるはずなのに、彼らだけがどういう方法を使ったのか、何度も挑戦していた。本来ならシステムへのハッキングを疑い、すぐに対処しなければならない状況のはずだ。なのに誰も……私自身さえも、それを“おかしい”と思わなかったんだ」

冷静な口調の裏には、僅かに、隠し切れない焦燥がにじみ出ていた。

アルバムから抜け落ちた記憶、ばらばらになった場面を拾い集めるように言葉が綴られていく。

「今回だけではない。思えば前にも何度か――何度だっただろうか……そういった未登録の挑戦者はARルームに現れていた。彼らは何度も同じ訓練を繰り返し、時には目覚ましい記録を残して、私が直接ルームに降りていき、会いに行ったこともあった」

それを耳にしたピットは驚きに目を丸くし、彼女の言葉を遮ってこう問いかける。

「――じゃあ、それって……僕らみたいな人が前にも来てたってこと? 君のいたエリアに」

「ああ」

肯定しかけたヘルメットの動きが、途中で訝るように止まり、何かを思い出そうとする様子で横を向く。

「……いや、正確に言えば少し違うな。彼らは確か、正式な装備を着けていたはずだ。それに君のように、何かを渡してくることもなかった」

そこまでを聞き届けたピットの顔から、何か張り詰めていたものが抜ける。

「……そうか、それなら違うか」

半ば上の空で呟かれた言葉を、今度はサムスの方が拾った。

「違う?」

「えぇと……、前に指摘されたことがあったんだ。僕の他に手紙を配る人はいないのかって。エインシャントさんにしてみれば、キーパーソンに手紙を配ることは大事なことのはず。なのに、それを任されたのが僕一人しかいないみたいでさ。君のところに僕らみたいに、無断でARルームに入った人がいたって聞いて、もしかしたらって思ったんだけど、その様子だと違うみたいだね」

同情の気配を滲ませ、ヘルメットが僅かに首をかしげる。

「本当に配り手が君一人しかいないのなら……おそらく、やむを得ない理由があるのかもしれないな。例えば同時に複数箇所で配るようなことをすれば目立ってしまうとか、あるいは全ての相手に配ることのできる人が君くらいしかいないとか」

「そう……なのかな」

思わぬ言葉にピットは目を瞬いた。急に一目置かれてしまったような気がして、慌てて自分も理由を探してみる。

例えば、配り手はエリアに囚われていない者である必要があるとか。あるいは、エインシャントから女神を介して渡された“特別製の”バッジ。これが実は世界に一つしかない上、そう簡単に作ることもできない相当な貴重品なのかもしれない。

――なんだ。考えてみたら色々あるじゃないか。

今になって、あの時ブラックピットに言い返せなかった悔しさを思い出し、思わず彼は顔をしかめていた。

 

それぞれに考え事にふける二人の向こう側、無人の海はゆったりとうねり、寄せては引く波が砂浜を洗い続けていた。

やがてサムスが、半ば心ここに在らずといった様子で水平線の彼方に目を向ける。

「私があの場所にいたのは……そう、昔のよしみで訓練の視察を頼まれ、あの場所に来ていたんだ。だが、それがいつのことだったのか、そして誰から頼まれたのか……記憶が曖昧になっている。いつからあのメインセクターにいたのかも……」

赤いヘルメットが、悔しさと諦念を込めて首を横に振る。

「まるで夢でも見ていたようだ。不自然を目の前にしても何も思わず、それを当たり前のこととして受け入れていた。しかし、それでは私は一体、何のためにあの場にいたんだ。なぜ……いや、それとも、意味など無かったのだろうか……」

解消しきれなかった混乱と、幾ばくかの落胆を残し、彼女は口をつぐんだ。

考えてみれば彼女は、宇宙海賊の巣食う戦艦を一人で駆け抜け、ピット達と合流するまではずっと独力で状況を切り開いていた。そんな揺るぎない心を持つ人間が、自分がずっと今まで現実を正しく把握できていなかったのだと知ってしまったら、どう感じるだろうか。

掛けるべき言葉を探し、ピットは足元の砂浜に目を落とす。彼が懸命に頭を働かせている傍で、白い波は呑気なほどにゆったりとした動きで砂浜を洗い、細かな泡をきらめかせていた。

そんな彼の横で、ふとサムスの声がこう呟く。

「――だが、私は……本当に夢から醒めたのか?」

「えっ……?」

思わぬ言葉に、ピットは驚いて顔を仰向かせ、彼女の方を見る。

サムスは、幾分ヘルメットを着けた頭を俯かせる。視線の先、たゆたう波に目を向けてこう答えた。

「リドリー。ダークサムス。君が手紙を渡した相手は、かつて――」

彼女の、銃身になっていない方の手が上がり、静かに握りしめられる。

「――私がこの手で、決着をつけたはずだった」

きつく握りしめた感覚を、自らの知覚を確かめるように、しばし彼女はその手を見つめていた。

「彼らには因縁がある。目の前にすれば、それが“本人”かどうかも分かる。そしてあれは……紛れもない本物だった。クローンでも複製でもない。……でも、何故……」

口調の端にふと揺らめいたものを、彼女はかぶりを振ってそこでとどめた。

水平線の彼方に目をやり、ため息をつく。

「……何もかも、これが夢だと言ってしまえるのならどれほど良いだろうか」

ピットは、しばらく何も言うことができなかった。頭には少し前にガノンドロフの言っていた『矛盾する記憶のどちらも真実』という説がよぎっていたものの、さすがにそれをそのまま告げるほど無神経ではない。廃工場で繰り広げられた凄まじい戦闘を、そしてそれが意味していたものを、忘れることなどできるはずがなかった。

だから代わりに、サムスから視線をそらしつつ、こう相槌を打った。

「――夢から醒めたら、また別の夢だったってことも、あるもんね……」

どこか所在なさげにしていた彼だったが、傍らの甲冑の方から微かな電子音を聞いたように思い、何の気なしに顔をそちらに向ける。

少しもしないうちに、彼は目を丸くした。

赤いヘルメットが金属に包まれた手で持ち上げられ、彼女の素顔が露わになっていた。

白い肌、淡い金色の流れるような髪。ヘルメットにたくし込まれていた細長いポニーテールがするりと落ち、顔の横に掛かりかけたのを、彼女は首を振ってはらう。やがて切れ長の青い瞳が正面から天使を見据え、短く尋ねかけた。

「……この顔に見覚えは」

その声に、硬直から解けたピット。

自分でもよく分からない感情に眉間をしかめながらも、勢い込んで頷き、遅れて言葉でこう返す。

「――知ってる。見たことあるよ、どこかで」

そう、確かに彼はサムスの素顔を知っていた。露わになった顔を見た時、点と点が線でつながった、そんな感覚があった。まるで古くからの友人に思わぬ場所で出会ったかのような、そんな驚きがあったのだ。

これを聞き届けた彼女の顔から、わずかに、張り詰めていたものが抜けた。しかしそれは、複雑な感情の交ざった表情だった。予想が当たったことにおおむね安堵しながらも、どこか、当たってしまったことに落胆しているかのようだった。

だが、彼女はすぐに感情を切り替え、こう切り出した。

「私は滅多なことでは顔を見せない。従って……君はかつて、私の親しい友人だった可能性が高い」

これを聞き、ピットは目を見開く。

「それ、本当……?」

「ああ。むやみやたらに顔を明かすと、いろいろと面倒なことになるからな。賞金稼ぎをやっているから、というのもあるが……」

そこで彼女は言葉を一旦止め、呆れたように首を振る。彼女が言わんとしていたことは、推して知るべしだろう。

「銀河連邦において、ほとんどの人々からは私は男だと思い込まれている。時には、金属の外皮を持つ種族だと思われていることさえある。全身をパワードスーツに包み、賞金首を追いかける姿こそが大抵の人々が知る『私』だ。それでもなお、君が私の顔を知っているというのなら――今、私達がここにこうしているのも、そして私達があの船で見てきた物事も現実だと、そう認めるほかないだろう」

ピットは、それでも用心深く、彼女をじっと見つめてこう問いかける。

「……そういう夢を見せられてるって可能性は?」

再びヘルメットを被りかけていたサムスは、その手をぴたりと止める。

その姿勢のまま、こちらに視線だけを向けた。

「そうだな……私の素顔を知る、私の知らない何者か。そんな者がいたとして、それがそういう『夢』を作ったのだとしたら……」

彼女の青い瞳が、水平線の彼方を遠く見据える。

「人知を超えた存在、それがやったのだとしか思えない」

思案するような眼差しはそこで伏せられ、赤い金属と緑のバイザーの向こう側に隠されてしまった。

 

 

二人で島の中央部に向かっていくと、南国の木々が風にゆったりと揺られる森を背に、狐顔の戦闘機乗りが立っていた。

「ピット。反乱軍にいたキーパーソンは全員扉を抜けた。パイレーツや、反乱軍だった連中もな。後は俺達だけだ」

その背後には、彼の言う扉があった。開け放たれた向こう側にはただ光があふれるばかりで、つながる先を見通すことはできない。

青白い光を纏う、赤い扉。見た目だけなら、板材を並べて留めた、いかにもありふれた扉に見えるのだが、僅かに地面から浮かぶ様はまるで質量を感じさせない。

今まで、手紙を受け取ったキーパーソンは皆、あれと同じ見た目の扉を抜けてエリアから一旦去っていった。エインシャントの言が正しいのなら、おそらく向こう側にはエインシャントが待っていて、彼らにより詳細な話をしているはずだ。

――……そうしてくれてるって信じたい。

内心でそう呟き、ピットは少し渋い顔をした。

首を振り、内心のわだかまりを一旦よそに置く。それから彼の元へと歩いていった。

扉のそばにフォックスやファルコだけでなく、スネークもまだいるのを見て、彼はちょっと驚いたように目を丸くした。

「待っててくれたの?」

「別れの挨拶がまだだったからな。あんたには世話になった」

スネークの言葉に、ピットは苦笑いしてしまった。

「……そんな。世話になったのはこっちの方だよ。君たちがいなかったら、反乱軍をやってたキーパーソンに手紙を渡すのは無理だった」

「あんたがいなかったら、俺は延々とあの船をさまよっていたさ」

「そうかなぁ……? 君だったら、どうにかして船のコントロールを手に入れてたんじゃないかって思うんだけど」

「手に入れたとしても、あの船で帰れるのは本物の世界じゃない」

そう言ったスネークの後ろで、ファルコがこんなことをぼやく。

「この扉を抜けたって、別に元の世界に帰れるわけじゃねえぞ」

「ファルコ」

フォックスに窘められたが、彼は肩をすくめるだけだった。隊長はため息をつき、スネークに向けてこう言った。

「……俺達は手紙を受け取ってから随分経つ。確かに、本当の世界に帰るための手掛かりはまだ見つかってない。でも、まずは気づけただけでも大きな一歩だと思うんだ」

「そうだな。境界を認識しなければ、それを出ることにも思い至らない」

スネークが頷きを返した横で、サムスもこう発言した。

「これほど多くの人々が――私も含め、気づきもせずに閉じ込められていたことを考えれば、軽々しい行動は避けるべきだろう。まずは何が起きているのか、何が起きようとしているのかを知るところからだ」

それから彼女は、その黄緑色に輝くバイザーをピットへと向ける。

「ピット。私からも礼を言わせてほしい。君の任務で私の力が必要となれば、いつでも呼んでくれ」

「あ……ありがとう。でも――」

パートナーの選定はエインシャントの一存なのだと伝えようとしたときには、彼女の後ろ姿は颯爽と扉の向こうに踏み入り、光の中に消えようとしていた。

「――行っちゃった……」

「またいずれ会えるだろう」

スネークがそう言ってくれた。

「……さて、俺たちが出て行くまではあんたも帰れないんだったな」

「あとこいつもだ」

ファルコの声が後ろから聞こえて、ピット達は振り返る。いつの間にか移動していた彼は、その片腕にマホロアを抱えていた。彼はすっかり意気消沈した様子で、抱きかかえられるがままになっている。

「あうぅ……ボクの……ボクの船……もうチョットで手に入るトコだったノニ……」

項垂れたフードの陰から、彼はそんなことを呟いていた。

「あんたの船じゃねぇだろ。諦めな。どっちにしろ、あんたの手に負えるシロモノでもなかったしな」

「ハァ……悔しいケド、キミの言う通りダヨ……。それニ、あのたくさん浮かんでタ“宇宙”、み~んなニセモノなんでショ? それなラ別に欲しくナイヤ……」

この言葉に、ファルコはたっぷり数秒間沈黙し、目を剥いて自分の腕に抱える生き物を凝視した。

「――お、お前……そんなこと企んでたのか、そのツラで」

「ナァニ? カワイイって言いたいノ? モット言ってくれテ良いんだヨ」

ファルコは色々と言いたいこともあるようだが、その前に気力が尽きてしまった様子で深々とため息をついた。

「……ったく、どいつもこいつも。お前も大人しく、元いたエリアに帰んな」

そう言って扉の前まで歩いていく。

「えっ? エリアって何のコト? ソレってキミたちだけのハナシでショ? ボクがいタのはポップスターって言う星デ――」

と、そこで彼は光の中に無造作に放り込まれ、その先は聞けず仕舞いになってしまった。

塵をはたきおとすように、翼のような手をパンパンと叩くファルコ。

「後はもういないな」

彼の言葉に、スネークがこう返す。

「ああ、俺だけだ。……しかしマホロアのやつ、どこに隠れていたんだか」

「普通に船の前で放心してたぞ。小さくて気づかなかったんじゃねぇか?」

ファルコの言った横で、フォックスがこう付け足す。

「あるいはさっきみたいなワームホールに隠れてたのかもな」

スネークは顎に手を当てて考え込んでいたが、やがてはたと気づく。

「まさか、俺達が帰った後で船を手に入れるつもりだったのか……?」

「どうだろうな。あんなボロ船、直すったってキリがないだろ」

投げやりな仕草で肩をすくめ、ファルコはそう返した。

 

 

 

やがてスネークも扉の向こうに消え、フォックス、ファルコもアーウィンに乗って同じ扉を――戦闘機に合わせて拡大した扉を潜り抜けていった。

 

後には無人の島と、巨大戦艦、そして天使だけが残された。

青い空には入道雲がそびえ立ち、白い砂浜では清らかな波が踊り、背後の森では木々が風にざわめいていた。

辺りには夏の日射しが照り付けていたが、吹き抜ける風が気温を程よい暖かさにまで和らげていた。どこか夢の中のように穏やかで平和な浜辺に立ち、しばらくピットは何も言わずに戦艦を見上げ、考え込んでいた。

今回の『任務』では、本当に色んなことがあった。あまりにも膨大で途方もなく、未だに頭の中で整理がついていない。おそらく、自分一人の手には負えそうにないだろう。

――帰ったら、パルテナ様に相談しようかな……

そう思いながら、ほぼ無意識のうちにピットは肩口のバッジに手を触れた。

わずかな間を置いて、いつになく心配そうなエインシャントの声が返ってきた。

『ああ、ピットさん! 探しましたよ、いつの間にエリアを移動したのですか?』

「いつの間にって……見てなかったんですか? こっちは大変だったんですよ、あなたが指示したエリアに行ったら、いきなり空が割れて巨大な船が降ってきて――」

『船……』

エインシャントの声が茫然とした様子で呟き、ピットは思わず口をつぐんでしまった。

『ピットさん。それはどのような船でしたか』

戸惑いながらもピットは、今も目の前に佇んでいる戦艦を見上げながらこう伝えた。

「えぇと……海を行く船っていうより宇宙戦艦って感じで――もっと言うなら巨大な砲台のついた移動要塞ですかね……。少なくともその船に乗ってた人は『戦艦』って呼んでましたよ、亜空砲戦艦って」

その単語を聞き、バッジの向こう側でエインシャントが息をのむ気配があった。

『……続けてください、ピットさん。その後、何があったのですか』

ピットはしばらく、何も言えずにいた。自分の耳を疑っていたのだ。

彼の、これほどまでに深刻な声音を聞いたのは初めてのことだった。いつもはこちらが何を言おうと、何を尋ねようと、なだめすかし誤魔化してしまう彼が、これほどまでに真剣になることがあったのか、と驚いていた。

「……話せば長いんですけど」

そう前置きをし、ピットは要点を抑えつつ、戦艦の中で起きた出来事を彼に伝えた。

反乱軍と名乗る人々に捕まり、バッジのせいで亜空軍の手先と勘違いされたこと。危うく“取り調べ”を受けるところを、戦艦に潜伏していたキーパーソンに救われたこと。今回のパートナーとして同行した二人のパイロット、そして本来の配達先だったキーパーソンの協力もあり、反乱軍を構成する四人のキーパーソンに何とか手紙を配り終えたこと。

すべてを傾聴し、エインシャントはほっとしたような声音でこう言った。

『ああ、では……無事に、全員に手紙を渡すことができたのですね』

安堵のため息。だがそれは、明らかにピットに向けられたものではなかった。不平を顔に表して黙っていたピットだったが、ふと訝しげに眉をひそめる。彼の言った言葉、そのどこかが引っかかるのだ。

「無事に渡せたって――エインシャントさん。もしかして知ってたんですか? 亜空砲戦艦のことも、あの船にキーパーソンがいるってことも」

『ピットさん、それは――』

「言い訳は聞きたくありません。誤魔化されるのも、もうたくさんです」

畳みかけるように先手を封じ、ピットはその勢いのままにこう訊いた。

「あなたは隠し事をしている。僕にも、そしてきっとパルテナ様にも。全てを話していたのなら、パルテナ様があなたに協力するとは思えない。だってあなたが与えたこのバッジは、『亜空軍』のものなんでしょう?」

しかしバッジの向こうは、沈黙を貫いていた。

ピットは一層声を大きくして彼方の依頼主に呼びかける。

「僕は聞きましたよ。亜空軍は爆弾を使い、軍勢を率いてあちこちを侵略し、全てを亜空間に取り込もうとしているって。亜空軍が攻めてる先は結局、全部エリアだって話ですけど、それでも人間たちを脅かす存在には違いないんです。人間に恩恵を施す光の女神、パルテナ様に仕える者として、僕は到底見過ごすことはできません」

なおも、答えは返ってこない。

ピットは歯噛みし、ほとんど怒鳴るようにして問いを、思いを叩きつける。

「正直に答えてください! あなたも彼らの仲間なんですか?! このバッジに亜空軍のマークを使ったのは、なぜなんですか……?!」

穏やかでありながらも冷静な声が、彼を留めた。

『落ち着いてください。……あなたはその亜空軍の統率者を見ましたか?』

今までの分も含めて思いの丈をぶつけ、まだ幾分苛立ちの余韻を残しながらも、ピットは彼の問いかけに正直に、自分が見たものを伝えた。

「ええ……途方もない大きさをもつ“人”で、タブーと呼ばれていました。あれが本当の姿なのかどうかも分かりませんが、青く光っていて……」

『その存在は、あるいはその配下は、あなたの行動を妨げましたか?』

「……いいえ、何も……。僕に気づいていたのかどうかも……。反乱軍にも、大した反撃をしてこないって言われてました。あんなに撃たれてるのに、戦艦を落とそうとしてこないんです」

『なるほど……』

エインシャントはそう呟くと、いつもの穏やかな声に戻ってこう言った。

『ピットさん。あなたが気にすることはありません』

この言葉に、ピットは目を見開く。

「気にするなって……!」

『大丈夫です。あなたがあの“エリア外”に行くことは今後一切ありません。彼らと接触することもないでしょう』

「エリア外……? 僕が閉じ込められた船は、あの亜空間はエリアじゃないんですか? それじゃあ地上界の海と島々に見えていたのはやっぱり……それに一切ないって……なぜあなたがそんなきっぱりと言えるんです! あなたはいったい何を知って……」

『いずれ分かります。あなたがその役目を果たしたとき、いずれ』

その言葉を残し、エインシャントの気配はバッジから去ってしまった。おそらく女神を呼びに行ったのだろう。

 

彼に問いたかった物事を胸の内に残したまま、ピットは放心したように前方を眺めていた。その先にあるのは、廃墟となった亜空砲戦艦。装甲に空いた穴から波が入り込み、虚ろな洞を丹念に洗っていた。

戦艦の中で反響し、響く波の音を聞いているうちに、ピットの心にあった炎は少しずつ弱まっていった。

代わりに現れたのは、途方に暮れたような表情。道を見失い、迷子になってしまった子供のような顔をして、彼は波打ち際にただ一人、佇んでいた。

 

 

 

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最終更新:2022-11-05

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