星は夢を抱いて巡る
第6章 魔術師 ①
深緑色のジャングル。大気に立ち込めるのは肌に貼り付くような湿気と、むせかえるほどに濃い草いきれ。濃密な熱気をかき混ぜるようにして、辺りには熱帯の鳥が鳴き交わす賑やかな声がこだまする。中天に差し掛かっているはずの太陽の光は、空間を全く覆い尽くすように鬱蒼と生い茂った枝葉に遮られて、切れ切れになった日射しが辛うじて辺りに差し込んでいた。
地上では人の腰丈ほどに伸びた低木や草木が足元を埋め尽くし、折れて垂れ下がった枝や垂れ下がるツタが視界を遮り、一歩先を見通すことすら許さない。
そんな、決して歩くのに適した場所とは言えない未開の熱帯雨林を、たった一人で進んでいこうとする小柄な影があった。
鮮やかな若草色の頭巾を被り、同じ色の上衣を着込んだ少年。年のころは十二を越えたくらいにしか見えないが、盾と剣を持ち、ぱっちりした目で辺りに注意を払いながら草木をかき分けて進んでいく様はなかなか手慣れたものだった。
歩いていきながらも彼は、目印のためか、時折手ごろな枝を見つけては折っていく。少年が進んでいくたび、ジャングルの喧噪に紛れるようにして、パキリと枝の折れる音がほぼ等間隔で響いていた。
やがて彼は道なき道の向こう側に小さく開けた地面を見つける。そのわきには巨大な倒木があった。おそらく少し前まではその大木によって日光が遮られていたために、このあたりで草木があまり育たなかったのだろう。
少年は額の汗を袖で拭うと、もう一度辺りを見回して安全を確認してから、空き地に踏み出した。
盾と剣を仕舞い、横たわる巨木の前までやってくると、彼は足で地面を払うようにして土を退け、小さな穴を掘る。そして背嚢から取り出した何かを穴の中に収め、また元のように土をかぶせていく。
茶色の土に次第に埋もれていくのは、金色の留め金を持つ赤い宝玉。少年は念入りに土をかぶせ、仕上げは手で土を盛り、宝飾が完全に隠れるようにした。
やがて満足がいったのか、彼はぱっと立ち上がると威勢よく両手を叩き、土を払う。最後に適当な枝を地面にさすと、彼は踵を返して元来た方角へと戻っていった。
宝飾の本来の持ち主であるはずの天使は、少し離れたところにいた。彼はいつもと同じ純白の装いを身にまとい、ジャングルの大地を這う木の根の一つに腰かけ、何を見るでもなく物思いにふける様子で彼方を眺めていた。ケープは彼が元々持っていた方の留め具で止められており、あるべき格好に収まっている。だというのに当の本人は心ここにあらずといった顔で頬杖をついているのだった。
「おーい、埋めてきたぞー!」
少年の声がして、ピットは考え事から引き戻された。
振り返った先、プロロ島のリンクが茂みをかき分けて姿を現す。彼はちょっと怪訝そうな顔をしており、その表情のままピットにこう問いかけた。
「なあ、今度こそ教えてくれるんだよな? どうしてあのホーセキを埋めてこいなんて言ったのか」
「うん。実は――」
ピットはそこで、用心するように辺りを見渡した。鳥の騒ぐ声、虫の鳴き声で辺りは騒がしかったが、人はおろか、動物の姿も全く見当たらない。誰も聞き耳を立てていないことを確かめてから、彼はこう続けた。
「――キーパーソンの君に聞きたいことがあるんだ。でも、あのバッジを着けたままだとエインシャントに聞かれるかもしれない」
「聞かれちゃマズい話なのか?」
少し驚いたように目を見開き、リンクはそう尋ねる。
ピットは一つ頷き、こう切り出した。
「『亜空軍』について、何か思い出したことはない?」
それに対し、少年はしばし呆気にとられた様子で口をぽかんと開け、目を瞬いた。それから我に返ると難しい表情になって腕を組み、宙を見上げて呻吟する。
やがて頭の後ろをがしがしとかき、彼はこんな返答を返した。
「ないって言おうと思ったんだけどさ。……なんか引っかかるんだ。どこかで聞いたことある気もするし、勘違いな気もするし」
言いながらも彼は釈然としない様子だった。はっきり答えられないことが自分でも気になって仕方ないのだろう。
首をひねり、少年はこう尋ねてきた。
「それってどういうやつらなんだ?」
「僕が知ってるのは、こことは違う『亜空間』って呼ばれる闇の中に住んでいて、こっち側の世界を爆弾で奪ったり壊したりしてるってことくらいかな。後は、亜空軍を束ねているのがタブーっていう青い巨人で、なんだかおもちゃみたいな兵隊をたくさん引き連れてるってこととか……。あ、後はさっきのバッジ。あのデザインが亜空軍のシンボルみたいなのと似てるらしいんだ」
ピットは自分が知る範囲で並べてみたものの、リンクの方はぴんと来ない様子で首をかしげる。
「うーん……少なくともプロロ島には来てないな、その“アクーグン”ってのは」
「何か思い出せない? 『亜空軍』って聞いて」
「いや。まぁ、何となく良くないやつらって感じはするけど……そのくらいかなぁ。で、それとエインシャントと、どう関係があるんだ?」
「はっきりしたことは分からないんだけど……あの人がさっきのあのバッジを作ったって聞いてるんだ。亜空軍のシンボルとそっくりなバッジをね。だから僕は、前にエインシャントに『亜空軍と関係があるのか』って聞いてみたんだけど、はぐらかされちゃって。でも、少なくとも否定はしてなかった。気にするなって言われたけど」
「気にするなって? なんかヘンな言い方だな、それ」
「そう、そこなんだよ。亜空軍は今もこっち側を攻めていて、誰にも止められないまま空間を奪っている。それに君たちが『エリア』っていう小さな世界に閉じ込められているのは、もしかしたら亜空軍のせいかもしれない。それなのに、気にするな、放っておけって、言われて納得できると思う?」
リンクは首を横に振った。だが、それはピットに対する返答ではなかったようだ。
「おれが言いたいのは、言うとしても『今はその時じゃない』とかそういうことなんじゃないかってことさ。だって、もしもエインシャントがアクーグンの一員だったとしても、リーダーはタブーってやつで、エインシャントじゃないんだろ? なのに『気にするな』なんてずいぶんのんきっていうか、人ごとみたいじゃないか?」
「……あ、そうか。言われてみれば……」
今度はピットが虚を突かれ、目を瞬く。
難しい顔で考え込んでしまった彼の横、木の根で出来た自然の椅子にリンクも腰かける。足をぶらぶらさせている少年に、ピットはやがてこう言った。
「でも……僕には、あの人が全部親切心でやってるとも思えないんだ。あの人は隠し事が多すぎる。僕にも、君たちにも」
「なんかワケがあるんじゃないかな。おれも最初の頃はいろいろ聞いたよ。あいつはカンジンなとこは何にも教えてくれなかったけど、でもそれをおれに説明するときのあいつの声は……なんていうか、おれの方をちゃんと向いてて、真剣な感じがしたんだ」
それを言う少年は、まっすぐな眼差しをこちらに向けていた。
その純粋さに居たたまれないものを感じながらも、天使は確かめるようにこう問いかける。
「……エインシャントはきっと、記憶を失くす前の僕らを知ってる。知ってるのに、全部を教えてくれてないのかもしれない。それでも、良い人だって思う?」
「キオクなぁ……」
リンクは眉間にしわを寄せ、顎を両手に乗せて考え込む。
そのまま彼は黙ってしまい、辺りにはしばらく鳥と虫の鳴き声だけがさざめいていた。ピットは後ろに手を付き、ジャングルの木漏れ日を見上げる。
「――リンク。あれから他のキーパーソンにも会ったと思うけど……何か思い出せたことはある?」
「ぜんぜんってわけじゃないけど、ほとんどないな。ピットは?」
「僕もあんまりパッとしないなぁ。僕の方なんか、今まで結構たくさんのエリアに行って、キーパーソンともいっぱい話したはずなのに。まだ思い出すには足りないってことなのかな。君たちは僕にとって、間違いなく大事な知り合いだったはず。なのに、こんなに思い出せないなんて……」
自分で自分が情けなくなってしまい、ピットはため息をついてうなだれる。
「こんなに忘れっぽくなったなんて、僕も年取ったってことかなぁ」
冗談交じりにそう言った横で、それを聞いたリンクが吹き出す。
「何言ってんだよ。まだ“シラガ”も生えてないのに」
リンクは笑いながら、ピットの肩をぽんと叩いた。
「おれはさ、あんたのせいじゃないと思う。っていうか、誰も悪くないよ。思い出せないのは、みんなキオクが閉じ込められてるからなんじゃないか?」
「記憶が、閉じ込められてる?」
「そう。これはおれの勘だけどさ。全員に手紙が渡ったら、そこで初めてキオクが戻ってくるんじゃないかって思ってるんだ。例えるんなら、でっかい扉の向こうにみんなのキオクが閉じ込められてるんだとして、その扉を開けるためのカギが粉々にされて、みんなの頭ん中に欠片が収まってるのかもしれない。おれたちが全員集まったら、そこで初めてカギが完成して、残りのキオクが戻ってくるのさ。だからエインシャントは、みんなに手紙を配ってくれって言うんじゃないか?」
「うーん……そうだと良いけど」
腕組みをし、首をかしげているピット。その隣でリンクは、腰かけていたところからぽんと地面に降りる。
「おれもお前も、思い出せないなら思い出せないで良いんだよ、今は。急がなくたってさ」
ピットの真正面に立ち、リンクは自信に満ちた表情で腕を組む。
「だって、おれたちが友達だってことは思い出せてるんだ。エインシャントが頭の中で何考えてるかは知らないけど、こうしてあいつのお使いをやって、そこで誰かに会えたら何となくうれしい。おれはそういうのであいつに協力してるんだ」
「会えたら嬉しい、か……」
ピットは半ば自分に聞かせるように、呟く。
それから自分も立ち上がり、今回の助っ人に向き直った。その表情には、幾分いつもの明るさが戻っていた。
「それじゃあ、そろそろここのキーパーソン――僕らの友達を、探しに行こうか!」
と、手近なけもの道を歩いて行こうとしたところでピットははたと気が付く。
「――あっ、そういえばバッジ!」
リンクの方はちゃんと覚えていたようで、先ほど出てきた辺りに立ってこちらを待っていた。
「まずはそれを取りに行くんだろ? ……その顔だと、ずいぶん大事なものっぽそうだな」
「大事なんてものじゃないよ。あれが無いと僕は天界に帰れないんだ。リンク、どこに隠してきたの?」
「心配すんなって、ちゃんと目印も残してるから。ついてきなよ」
そう言って彼は躊躇なく藪の中へと突き進んでいく。天使は見失う前に急いでその後を追い、草木をかき分けてついていった。
二人の姿はたちまちジャングルの中に紛れてしまったが、彼らの話す声は次第に遠くなりながらもしばらく聞こえていた。
「目印って……ああ、なるほど、枝を折ってあるんだ」
「そう。ちなみにあんたのホーセキは土の中に埋めといたからな。そっちの目印には棒をさしてある」
「土に埋めて棒って、なんかカブトムシのお墓みたいだなぁ……」
「埋めない方がよかった?」
「いや、大丈夫だよ。むしろその方が安全かも。下手に見えるところにあったら盗まれちゃいそうだし。……まぁ、こんなジャングルの奥地に泥棒なんていないだろうけど――」
天使の声がそう言った矢先、ジャングルの木々を鈍く揺らして地響きが聞こえてきた。鳥たちが慌てて騒ぎ、飛び立つ中、少しして少年がこう言った。
「……今の、あっちの方から聞こえてきたな。あんたのホーセキを隠したところかも……」
「見に行こう!」
ガサガサと枝葉をかき分ける音が続き、ややあって、少し遠くなった声が響いてくる。
「あ、待って! 君たち、持ってかないで! それ、僕のものなんだ!」
「聞こえなかったみたいだな……。ん? ピット、あれもしかして“キーパーソン”ってやつじゃないか? どう見ても人間じゃないけど、何か見覚えあるなぁ」
「えっ、本当? さっきのゴリラみたいなの……あ、ダメだ、見失っちゃう」
「追いかけるぞ!」
ジャングルに満ちるざわめきの中、二人分の物音は次第に遠ざかっていき、やがて溶け込むように消えていった。
エンジェランドの天使の元には、このところひっきりなしにエインシャントからの『任務』が舞い込んでいた。
天界に帰るのも、もはや最近では鞄を一旦返し、手紙が詰まった状態のそれを再び受け取るまでの間、休憩のために滞在するのみとなっている。
しかしこの頃のピットは、自分に休むことを許さなかった。彼は、長旅の疲れを癒す時間までも惜しむようにして天界の神殿を歩き、親衛隊の部下たちに聞き込みを行っているのだった。
背の翼をなびかせ、外廊下を歩いていく天使。彼の行先には、兜を被ったイカロス達が肩を並べて歩いている。
その背に声を掛けると、イカロス達は驚いたような顔をして振り返った。
「隊長! お久しぶりです!」
「ご無沙汰してます! 隊長はお元気でしたか?」
目深に被った兜の下から朗らかな笑顔を見せる彼らに、
「元気だよ。死ぬほど忙しいけどね」
そう返してから、ピットはこう切り出す。
「――ねぇ、二人とも。僕がいない間、何か変わったことはなかった? 地上界でも天界でも、冥府界の方でも、何かあったって聞いてない?」
イカロス達は顔を見合わせ、それぞれ順番にこう答えた。
「……いいえ。私は特に何も。他の隊員からもそういったうわさは聞いていませんね」
「何か異変があれば、パトロールから隊長代理に報告が行くはずです。そしてそういう場合は、隊長が帰ってきた時に、代理から報告があると思います」
「まあ、そのはずだよね。それが無いってことは、安心して良いんだろうけど……」
そう言いながらも、眉根を寄せて考え込むピット。
「隊長。具体的に、どういったことを心配されているのでしょうか。我々はどんなに小さな異変も見逃さない所存ではありますが、さすがに些細なものだと気に留めずに通り過ぎてしまうこともあり得ます」
「うーん。例えばだけど……あったはずの場所が無くなって、そこに行けなくなってるとか、人間が住む場所を失くして困ってるとか。あとは、そうだなぁ……見慣れない生き物がうろついてるとか、暗闇みたいなので覆われた場所があるとかかな」
ピットはそう言ってみたが、イカロス達にはやはり心当たりは無い様子だった。実際、ピットが今あげたようなことが起きていれば、イカロス達が見過ごしたり、報告に上げ忘れるとは考えにくい。
それでも、彼らは律儀にこう返答した。
「承知いたしました、隊長」
「私からも他の隊員に注意を促しておきます」
「頼んだよ。よろしくね」
敬礼を返す二人に手を振り、ピットは元来た道を戻っていった。
イカロス達に背を向ける形となった彼は、やはり浮かない表情で行く手を見つめ、考え事にふけっていた。
――とりあえず、エンジェランドはまだ無事みたいだ。ブラピが捕まってたところ以外に、取られた場所は無いみたい。……まぁ、土地が削れたことに人間やイカロス達が『気づけない』ことも考えられるけど、そんなのを言い出したらキリがないよね……。
その後も彼は神殿の敷地内を歩き、出会う先々で部下たちに聞き込みを続けていった。
少し前までの彼なら、エリアで散々駆け巡ったり頭を振り絞ったりした反動から、天界から戻ってきたあとは起こされるまで寝てしまうことも多かった。しかし今の彼は違っていた。任務をこなすうちに慣れてきたのもあるかもしれないが、部下達に聞き込みをし、自らも地上を見つめるその目には真剣な感情があった。
きっかけは、亜空砲戦艦での一件。
それを境として、ピットは心の中で疑問を感じつつもただ任務を受け続ける立場だったところから一転し、自ら動いて情報を集めるようになっていた。
自分の企みに誘導するのが目的だったとはいえ、マホロアが言った『頼まれたことを何も考えないでやるだけで良いのか』という問いかけ。
反乱軍に雇われていたウルフから投げかけられた、『続けるつもりなら、自分の中に筋を通せ』という言葉。
そして何よりも、戦艦で最初の協力者となってくれた男。彼が最後にエリアから出て行く際に交わした会話が、ピットに影響を与えていた。
これまでのキーパーソンが手紙を受け取ったときに、十中八九と言っても過言ではないほどに見せた動揺。そこには悲しみ、驚き、怒り、茫然――人によってさまざまだが、おおむね良くない感情が一緒くたになり、整理のつかないままに混ざり合っていた。彼らに対する親近感も手伝い、ピットは次第に彼らの感情を人ごととは思えなくなっていた。
さらにはエインシャントからもらったバッジのせいで亜空軍の一味と間違われたことが決定打となり、その時のピットは与えられた任務自体に大きな迷いを抱えていた。
戦艦で出会い、彼に協力してくれたスネークはそんなこちらに対して、手紙を配るという行動は『間違いじゃない』と肯定してくれた。
ピットが去り際の彼を呼び止め、あの時の言葉の真意を問うと、彼はこう答えた。
『あんたの依頼主がどんな意図を持っているにせよ、あんたが手紙を配ることは、結果的に良い影響をもたらしている。俺はそう言いたかったんだ』
そしてピットに向き直り、さらにこう続けた。
『依頼主はたしかに、俺達から喪われた記憶の、少なくとも一部を把握している。だがそれを手紙にすべて書いているようには見えない。俺達の行動を誘導するために、何らかの情報を意図的に隠している可能性もある。しかし手紙をきっかけに、俺達があんたの言う“エリア”に閉じ込められたことに気づき、同じ境遇の人々と出会えたのも事実だ』
『彼が何を企んでるにしても、いざとなったらみんなで力を合わせれば良いってこと? そんなうまくいくかな……』
『まぁ、全員ともなると一筋縄じゃいかないだろうがな。だが少なくとも、俺達は何かの機会で一度は協力したことがあるはずだ。それに今回も、即席とはいえなかなか良い連携ができただろう』
『……それもそうだね』
ようやく笑みを見せたピットに、スネークは自信を与えるように頷きを返した。それから、続けてこう言った。
『俺はこれから、国に帰ったら情報を集めるつもりだ。……人間の認識は先入観というフィルターを受ける。“ここはエリアなんだ”と、そういう目で見ることで初めて気づけるものもあるはずだ』
『分かった。僕の方もみんなに聞いてみるよ。それで、次に会ったときにお互い情報を交換しよう』
その時は、半ば彼に引っ張られる形で言葉が口をついて出たのだが、本心から出た言葉であることも事実だった。
亜空間を征く戦艦。そこには様々な思想を持った人々が集い、彼らはそれぞれ自分の意思で行動していた。
例えそれが、手紙に記された報せを受けて揺らぎ、否定されるものだったとしても、それまでの彼らは誰もが己の頭で考えた上でそれぞれに方針をとっていた。手紙を受けた後も、立ち直るまでの個人差はありつつも、最終的に自分で新たな判断を下すようになっていた。
彼らの立ち居振る舞いを間近で見ているうちに、ピットは気づけば、彼らの言動や思想と、自分の今までの行動を振り返って比較していた。そして、そこに本質的には自分の意思が伴っていなかったことをまざまざと思い知らされたのだった。
自分が『任務』に対して次第に迷いを募らせるようになっていたのは、それが理由だったのかもしれない。
自分は何をすべきであり、何をすべきでないのか。
今も迷いはある。むしろ焦りさえ感じ始めている。
各地で空間を奪い、あるいは壊しているという亜空軍。エンジェランドの庇護を受けた一帯を除く地上界のほとんどが亜空間に飲み込まれており、追いやられた人たちは辛うじて『エリア』という形で残された、いびつで狭い空間に暮らしている。
エリアは大なり小なり不自然なところがあるにも関わらず、大多数の人間たちはそこを本当の世界と信じて疑わない。
そんな彼らに手紙を配り、真実を気づかせているらしいエインシャント。しかし今になって、彼の裏に亜空軍が付いている可能性が浮上してきた。
彼と亜空軍の関係は一体どのようなものなのか。ピットに与えられた任務は、実は亜空軍を利するものになっているのではないだろうか。
彼が手紙を配るのは、主なる女神がそう命じたからであり、今のところそれ以上でもそれ以下でもない。しかし少なくともピットの本当の願いは、かつてダークサムスが言い当てた通り、『エリアに閉じ込められた人間たちを元の世界に帰すこと』だ。
だが、それを実現させるためには何をすべきなのか。どこから手をつけるべきなのか。
それを思いながら歩く彼は、いつしか眉間を曇らせながら自分の足元をじっと見つめているのだった。
虚空に彼の名を呼ぶ女神の声を聞き、ピットははたと顔を上げる。
ほとんど反射的に神殿の方を振り向くと、まっすぐにそちらへ駆けていった。
石畳に軽快な足音を響かせ、親衛隊のイカロス達が敬礼する脇を走り抜け、石段を登っていく。白い石柱の門をくぐり抜けると少しペースを落とし、必要以上に足音を立てないように、それでも足早に廊下を進んでいった。
室内でありながら、柔らかな光が降り注ぐ謁見の間。
神々しく厳かな空間には、すでに光の女神が顕現していた。
入口にたどり着き、跪いた天使を認め、彼女は微笑みかけるとこう言った。
「ピット、略式で結構です。こちらへ」
「はい!」
立ち上がり、ピットは早足で女神の元へと向かった。彼がたどり着いたところで、パルテナは手にした杖をゆったりと振る。宙に光が灯ったかと思うと、それは茶色の肩掛けカバンの形をとってゆっくりとピットの頭上に降りてきた。そのまま不可視の力によって鞄はピットの肩に掛かり、あるべき位置に収まる。
鞄の蓋の隙間からは、すでにこれから配るべき手紙が入っているのが見えていた。
「バッジは鞄に入れておきました。忘れずに着けていくのですよ」
女神のその言葉に、ピットはもはや手慣れた動きでケープの留め具を外し、バッジに付け替えようとする。が、その手はふと途中で止まってしまった。彼は、自分の片手に収まったバッジを、円を半ばまで切った金色のシンボルをじっと見つめていた。
脳裏によぎったのは、亜空砲戦艦で初めて出会った時のウルフが見せた、驚きと怒りの入り混じった表情。
『てめぇ……「亜空軍」とどういう関係があるんだ。あいつらのスパイか?』
ピットは口を引き結び、思い切って顔を上げ、女神に問おうとする。
「パルテナ様――」
しかし間の悪いことに、女神はもうそこにはいなかった。慌てて辺りを見回すと、パルテナは折しも謁見の間を離れ、転移の門が並ぶ廊下に向かおうとしていた。
女神は廊下の手前で立ち止まると杖をかざし、それから天使を振り返るとこう告げる。
「ピット。今回のエリアに繋がる門が開かれました。準備ができ次第、エリアに向かうのです」
凛と立つ女神の表情は、一見していつもと変わらず威厳に満ちたものだった。
しかし付き合いの長い天使には、その中に隠し切れない陰りがあるのが分かっていた。
それは憂いの感情。光の女神はあらゆる生き物の中でも特に人間を寵愛し、恵みの光によって地上界の人々に恩恵を与えている。いくら人間が過ちを犯そうとも、いくら他の神々が人間の振る舞いを非難しようとも、彼女は己の思想を曲げなかった。きっとそんな彼女にとっては、エリアに暮らす人間も、管轄外の存在とはいえども捨て置けない存在なのだろう。
彼女の思いは察するに余りあるものがあり、そしてその思いを前にして、ピットは自分の問いを押し通すほどの横柄さは持ち合わせていなかった。
「……はい」
ピットはそう返答し、内心の反発を押し殺して、亜空軍のマークが描かれたバッジを装着した。
光の女神パルテナは、エンジェランドに在る神々の中でも聡明な一柱として名高い。
その知識の範囲はエンジェランドの中のみに留まらず、まだエリアを巡り始めて日も浅く、覚束なかったころのピットは、彼女の持ち前の知恵によって度々救われてきた。
だからこそ、彼は躊躇していた。
光の女神はそれほどにまで賢明なのだから、『亜空軍』についてもきっとご存知のはずだ。エインシャントがあのバッジを渡したときに、あるいはもしかしたらエインシャントを目にした時に、何も気が付かないとは思えない。
もしもそのうえであの緑衣の話に乗ったのなら、彼が言っていたように亜空軍については気にしなくて良いということなのだろうか、それとも女神は何か策があり、エインシャントに騙されたふりをしているのだろうか。
その思いが、分岐路に立つ天使の足をためらわせているのだった。
息をするたびに、煙と油が混ざり合った苦い臭いが口の裏にへばりつく。耳に届くのは騒々しい音楽と喧噪、クラクションの洪水。どこを見ても金属やコンクリート、あるいは水晶のようにのっぺりとした建材の建物しか見当たらない。
辺りで飛び交う言葉はほとんどが耳慣れないものだったが、辛うじて幾つもの国の言葉が話されているらしいことだけが分かった。……いや、この場合は幾つもの『星』なのだろうか。
ピットが今いるエリアは、エンジェランドの地上界とは何もかもがかけ離れた様相を呈していた。すれ違う人々は半分くらいが人間で、四分の一くらいが異星人、そして残りがロボットといった様子だった。その割合にしてもいまいち自信が持てない。何しろ人々の多くはあまりにも奇抜な髪色や化粧をしていたり、ヘルメットでそもそも顔が見えない者もいる。
それでもピットは、辛うじて人間だと確信が持てる人を見つけては果敢に話しかけに行き、情報を集めようとしていた。
どうやらこの街は余所者に厳しいのか、あるいは見慣れない人間に警戒心を持つのか、まともに応対してくれる人の方が珍しいくらいだった。だが、そういう人にしても、ピットやその相方を見て怪訝そうな表情をして、なるべく手短に話を済ませようとするのだった。
何度目かの聞き込みで首を横に振られ、立ち去られてしまったとき、ピットの後ろで護衛するように付き添っていた金髪の青年はこう言った。
「――警戒されてるな」
ピットは振り返ると、そのとげとげ頭の青年に向けてこう返した。
「うん……。僕らが見慣れない恰好してるからかもしれないけどさ、クラウド……その大剣はやっぱり仕舞った方が良いんじゃない?」
彼が見る先、黒を基調とした服装を着込んだクラウドは、その背に人の背丈ほどもありそうな大剣を斜めに掛けていた。かなりの身幅があり、ほとんど金属の板のようにも見える。しかもそれを剥き身のままで持ち歩いているものだから、道行く人々は遠巻きにこちらを避けて歩いていくのだ。
しかしクラウドはきっぱりと答える。
「悪いがそれはできない。俺の受けた依頼はピット、お前がこのエリアのキーパーソンに手紙を配り終えるまで護衛することだ」
それから辺りに視線を向け、少し声をひそめてこう続ける。
「……それに、この辺りはお世辞にも治安が良いとは言えない。あんたが武器を使えない今は、身を守るためにも俺がすぐに剣を使えるようにしておいた方が良い」
「まぁ、それも一理あるね」
ピットはそう同意し、肩をすくめた。彼の言う通り、道を行く人々は大半が何かしらの武器を携帯していた。さすがに往来で撃ち合いが始まるほど荒んではいないものの、常に武器を持たなければならない程度には剣呑な雰囲気が漂うところらしい。
「ピット、キーパーソンについては尋ねなくて良いのか? さっきからあんたが聞いてるのは『亜空軍』についての話ばかりだ。それと今回のキーパーソンに、何か関係があるのか?」
「関係があるといえばあるのかな……。クラウドも、何か思い出さない? 『亜空軍』っていう言葉を聞いて」
「亜空軍か? ……いや。少なくとも、ミッドガルの辺りでは聞いたことがないな」
しかし、それを答える彼の眉間には何かを思い出そうとするようにしわが寄っていた。
「じゃあ――」
と言いかけて、そこでピットはふと気づいて鞄を開け、バッジの様子を確かめる。バッジの表面には、手では触れることのできない、時計盤のような形をした幻が浮かび上がったままだ。それを見て取り、クラウドがピットに頷きかける。
「大丈夫だ。“ストップ”の効果はまだ続いている。切れたらまた掛けなおすから、一旦俺が預かろうか」
「ありがとう。それじゃあ君に任せるよ」
ピットはそう言ってバッジを手渡した。
往来の途中で立ち話を続けるのも邪魔になりそうだったので、二人は休憩を取ることも兼ねて軽食屋に立ち寄った。
料理が運ばれてくるまでの短い間に、ピットは亜空軍について、彼がこれまでに知ったことを話した。亜空軍が一部のエリアに対して侵攻していること、クラウド達、地上界の人間がエリアに閉じ込められる原因となったのは、亜空軍が持つ亜空間爆弾のせいかもしれないこと、そして自分たちの依頼主の上に亜空軍がついている可能性があること。
しかし、エインシャントと亜空軍の関係についての下りになったとき、クラウドは訝しげにこう問いかけた。
「本当か? ……でも、だとしたらおかしいんじゃないか。わざわざ世界中の腕利きに声をかけて、お互いの存在を思い出させるなんて。そんなことをしたら、亜空軍にとっては不利なはずだ」
そう言ってから、彼はふと何かに気づいた様子で往来の方をじっと見つめる。
「……そうか、もしかしたら……エインシャントは亜空軍をひそかに裏切っているのかもしれないな」
そのタイミングで料理が届いた。二人はそのサンドイッチとタコスのあいのこ風の料理を、それぞれに小皿に取り分ける。
こぼさないよう気をつけつつ一かじりしてから、ピットはこう尋ねた。
「でもさ……もしそうなら、手紙に亜空軍のことを書いてくれると思わない?」
しかし相手は、さほど迷わずにこう返した。
「いいや、そうは思えないな。そんなことを書いた手紙が、もし仮に、他の亜空軍の手に渡ってしまったらどうなると思う? 裏切りがバレて、エインシャントは身動きが取れなくなってしまうだろう」
彼の答えに、ピットは軽く驚いたように目を丸くする。そんなことは考えてみたこともなかったのだ。
今まで巡ったエリアに亜空軍の手先がいなかったからというのもあるが、それ以上にエインシャントの立場に立って考えてみるという発想自体が無かったのかもしれない。
クラウドは、さらにこう続けた。
「お前がエインシャントから渡された、このバッジにしてもそうだ。俺は最初にお前に会った時、このバッジを見ても、亜空軍のことは思い出せなかった。きっと他のキーパーソンもそうだったんじゃないか?」
「……確かに、そうだね。前に、亜空軍を知ってた人がこれを見たときは、最初からこれを亜空軍のマークだって言ってたけど、その人達くらいだ。他は誰も……僕も、そう指摘されるまで全然気づいてなかった」
「やっぱりそうか。そうすると、このマークは俺達やエリアの人に向けたものじゃなくて、任務中に“もしかしたら偶然会うかもしれない”亜空軍の関係者に向けたものかもしれないな。お前は本来、どのエリアにもいるはずのない人間だ。でも亜空軍のバッジを着けておくことで、怪しい人物ではない、亜空軍のために働いているんだというメッセージになる」
「説明は通るけど……」
明確な反論ができるわけでもなかったのだが、ピットは素直に頷くことができずにいた。代わりに、こう尋ねる。
「……クラウド。君はエインシャントのことをどう思ってる?」
「依頼主だ。それ以上でも、それ以下でもない。俺は依頼があれば受ける。『何でも屋』だからな」
そう宣言してから、彼はこう付け加えた。
「……まあ、タダ働きはしないつもりだが」
「要するに、ビジネスライクな関係ってことだね」
「そうだと言いたいが……」
彼はそこでため息を挟み、声を落としてこう続けた。
「正直なところ、失った記憶の手掛かりを探すためというのもある」
「……その様子だと、あんまり首尾は良くないのかな」
「ああ。手紙を受け取ってからだいぶ経つが、相変わらずだ。でも、あんたに会ったのはそんな昔のことじゃない、それだけは言える。ちょっと前までは遠出とか腕試しとか、そんな余裕はなかったからな」
そう言った彼だったが、いつの間にかこちらから視線をそらしていた。彼は床のどことも知れないところを眺めているようだった。まるで、過去を見つめるように。
ピットの方も何も言わずに、彼の次の言葉を待っていた。
クラウドがいるエリアに赴いたのも随分前のことだが、その時のことは今でもはっきりと覚えている。
ピットが降り立ったのは、手付かずのままの荒野。赤茶けた大地には腹を空かせた野生動物がうろつき、手頃な獲物がいないかと目を光らせていた。
そんなエリアで最初に出会い、もう一人のキーパーソンを探すために協力してくれた長身の男。銀色の長い髪に、紅い瞳。どこか掴みどころのない雰囲気こそあったものの、彼は道中の護衛を一手に引き受け、どんなに獰猛な野生動物が出てこようとも難なく倒してくれた。涼しげな顔で荒野を進みながらも、こちらが付いてこられるか時々気遣ってもくれた。
しかしミッドガルに着いた時、彼はその仮面を脱ぎ捨てた。天使の前で見せていた親切なふるまいは、『もう一人のキーパーソン』に会うためだけのものだったのだ。
出会いがしらに重い一撃を食らい、倒れ伏したクラウド。物音を聞きつけて彼の仲間が駆けつける中、銀髪の男は――セフィロスは悠々と相手を見下ろしていた。
これを睨みつけ、懸命に立ち上がろうとする青年。
『セフィロス……何度生き返れば気が済むんだ……!』
対し、名前を呼ばれた銀髪の男は冷たく嘲笑う。
『待っているぞ』
それだけを言い残し、姿を消してしまった。
『そんな余裕はなかった』という彼の言葉は、ほぼ間違いなく、あの男に関するものだろう。あの時、倒れたクラウドを助け起こそうとしていた黒髪の女性や、セフィロスに向けて腕の銃を構えていた体格のいい男、彼らの表情には単に自分たちの身を守るだけでない強い意志が込められていた。
忘れられるはずがない。クラウドに手紙を渡した時、彼が見せた動揺。そして手紙の内容を聞いた時の仲間たちの反応も――
当時のことを思い出していたピットは、クラウドの声に我に返る。
「でもそれも、そうあって欲しいと思っているだけだ」
見上げた先、すでに彼はこちらに向き直っていた。
「俺は失くした記憶を取り戻したいと思ってる。だが同時に……恐れてもいる。記憶を取り戻すことで、それまでの自分が“嘘”になってしまうんじゃないか、と」
彼はそこで頭を横に振る。
「……ピット、俺は何年か前に、ようやく本当の自分を取り戻したばかりだった。でもお前に出会って、まだ完全じゃないことを知った。それも多分、まだ大きく欠けている。そんなに大きな穴が開いているなら、全ての欠片が戻ってきた時、俺には一体何が残るんだろうかと、このごろはそんなことを考えてしまう。だが……」
澄んだ青色の瞳をピットに向けて、彼はこう続ける。
「それでも、俺は知らずにいることはできない。本当の自分に、いつまでも背を向けている場合じゃない。そしてそれはきっと、『みんな』も同じはずだ」
彼の真剣な面持ちに、ピットは遅れて気が付く。彼はこちらを励まそうとしてくれたのだ。
もしかしたら先ほど黙っていた間に、内心の曇りが表情に出てしまっていたのかもしれない。
「……ありがとう。みんなもそう思ってくれてると良いけど」
申し訳なさが混じる笑顔を返してそう言った。
と、その時、出し抜けに店内にひときわ大きな歓声が沸き起こり、二人は驚いてそちらの方角を見る。
カウンター側に設けられたスクリーンに大写しとなっているのは、スポーツカーと思しき車体。車輪の無い流線型の車が信じられない速度で宙を飛び、コースを駆け巡り、追いつ追われつのレースを繰り広げている。
レースカーの内部にもカメラが置かれているのだろうか、時折画面は二つに分割され、車の外観とレーサーの様子が同時に映し出されていく。
そして最後、現在トップを走るレーサーの顔が映し出された時、ピット達は同時に席から身を乗り出した。
「あれは……!」
レーサーの名前を示しているらしい字幕は読むことができなかったものの、ピットが鞄から取り出した手紙には既にその名が浮かび上がっていた。
「――よし。行こう、クラウド!」
勢い込んで立ち上がったピット。しかし相手が付いてこないのに気づき、振り返ると、クラウドは何とも微妙な表情でスクリーンを眺めているのだった。
彼はその表情のまま、こう言った。
「……レースに参加するのか?」
「行ってみないと何とも言えないけど、こういう場合は大体、レースに勝たないと会えないんじゃないかな。……何か問題があるの?」
「ああ。依頼を引き受けておいて情けない話だが、俺は……乗り物がダメなんだ。自分で運転する分には大丈夫かもしれないが……」
「分かった。僕に任せといて!」
「大丈夫なのか? ……あのレースカー、尋常じゃないスピードだぞ」
「平気平気。何しろこっちは、光の速さで走る馬車だって乗りこなしたんだよ」
「なら良いが――」
そう言った矢先、またしても店内の客がどよめいて二人はスクリーンの方を見る。折しも一台の車が派手にスピンし、コースアウトするところだった。状況を見るに、どうやら他の車から意図的に体当たりされたらしい。
画面の向こう側、レースカーは壁に衝突し、爆発と共に粉々になってしまった。
こういった場面は日常茶飯事なのか、店内の客たちはレーサーを気遣う様子もなく、不平不満を言ったり、あるいは拍手を送ったりして、またレースの観戦に戻って言った。そんな中、思わず凍り付いてしまったピットの背に向けて、クラウドが少し遠慮がちに声を掛ける。
「……本当に大丈夫か?」
雲海を透かし、遥か下に垣間見えるのは、漆黒の海に浮かぶ無数の島々。
雲に支えられた天空の神殿。ピットはその外れの見晴らしのいい場所にただ一人、じっと黙って腕を組み、立っていた。見るからに不満げな顔をしているが、それもそのはず、これからエリアに出発という段になっていきなりエインシャントが神殿を訪れ、エリアに不穏な動きが見られたとかで『渡航を一旦待ってほしい』と言ってきたのだ。
このところ、エインシャントは前よりも頻繁にエンジェランドを訪れるようになっていた。ピットが任務で不在にしている時でもお構いなしにやってきているらしく、こちらがエリア上空を飛翔の奇跡で飛んでいる最中、女神に話しかけている声がバッジ越しに聞こえてくることさえある。しかし、その会話の内容はこれといった怪しいところもなく、どれも他愛もないものばかり。また、イカロス達に聞いてみたところ、天界にいる間の彼は何をするでもなく、ピットがとんぼ返りで任務に赴くのをよそに女神と優雅にお茶会などをしているだけらしい。
イカロス達は相変わらず呑気に構えており、エインシャントのことは女神の言うままに客人として扱い、もてなしている。
だがピットには解っていた。このところピットは、『任務』とは直接関係のない聞き込みばかりに時間を費やし、ともすれば任務を疎かにしがちになっている。きっとエインシャントは、エンジェランドを訪問するついでにさりげなく、ピットや女神の様子を伺うつもりなのだろう。こちらがどの程度、エインシャントのことを疑っているのか。そして、亜空軍についてどれほどの情報を得ているのかを。
亜空砲戦艦での一件以来、ピットは幾つもの依頼をこなし、それだけ多くの人々に会ってきた。
だがあれ以降、亜空軍に出会うことはおろか、出先のエリアで亜空軍を思わせるエピソードを聞くことも、助っ人として選ばれたキーパーソンから亜空軍の話を聞くことも、一度も無いままになっている。
もうあなたが亜空軍と会うことはないと告げた、エインシャントの言葉通りに。
あまりにも不自然なほどの“静けさ”に、ピットは次第に疑いを募らせるようになっていた。もしかしたら、以前にピットが亜空軍と出会ってしまったのは、エインシャントにとっては不都合なことであり、想定外の事態だったのではないか。だからあれ以降、彼は慎重にふるまうようにしたのではないだろうか、と。
今も、渡航を一旦中止したのは亜空軍のためかもしれない。出先でピットが亜空軍と鉢合わせないよう、彼らが破壊活動を終え、エリアの人々の記憶を操作した後に送り込むつもりなのかもしれない。
『気にする必要はない』
そんなおざなりな言葉で自分を騙せると思っているのなら、大間違いだ。
亜空軍こそが地上界を引き裂いた犯人であり、エインシャントはその首謀者と結託している――その証拠を突き止め、彼らの企みを暴いた暁には、人間たちのために亜空軍を浄化し、必ず地上界を取り戻してみせる。
内心で決意を滾らせる天使だったが、無残に変わり果てた地上界を見つめるその表情には、明らかな葛藤があった。
彼には女神への忠誠心を別にしても、行動をためらうだけの理由があったのだ。
一つは、亜空砲戦艦での出来事。あの場にいたキーパーソンは、亜空軍について直接知る機会があった。彼らが数多の『エリア』を脅かし、亜空間に潜んで一方的に攻撃を繰り返し、ほとんど誰にも止められずに横暴の限りを尽くしていることを。だが、一度手紙を読んだキーパーソンは亜空軍を直接の敵とはみなさず、まずは天使が無事に任務を遂行し、全員に手紙を配り終えることを優先した。
彼らの口から聞けたのは、『軽々しい行動は避けるべき』という言葉。人によっては自信たっぷりに、『彼らは真の敵ではない』と断言する者までいた。
自分にしても、亜空軍が本当に諸悪の根源であり、彼らを退ければ全てが解決すると確信を持てたわけではない。長い間もやもやとしていたところに、あからさまに怪しげな集団が現れたから飛びついただけ、と言われれば反論のしようもない。また、彼らがどれほどの勢力なのか、今の自分が立ち向かったところで勝てる相手なのか、それさえも分かっていない。もしかしたら、仮にキーパーソン全員と結託することに成功し、みんなで挑んだとしても、ほとんどこちらの攻撃も当てられないうちに一瞬で倒されてしまうかもしれないのだ。
そしてもう一つ気がかりなのが、今もまさに天界に来ている緑衣の男。この光の女神が住まう領分において、彼は相変わらず野放しの状態になっており、しかもそれを誰もが気に留めず、見過ごしている。
天空の神殿には女神の奇跡によって結界が貼られており、不審な存在は侵入できないようになっている。仮に無理矢理通り抜けたとすれば、神殿を守衛する親衛隊が出動し、立ち所に包囲することになる。エリアに出向いているピットも、そういった時には強制送還される手筈だ。また、訪問の許可を受けた者であったとしても、潜り抜けた時に女神が探知し、それによってそつなくおもてなしができるようになっている。
ところが、エインシャントについては事情が違っている。彼がやってきた時の女神の反応を見ている限り、彼がいつやってきていつ帰るのか、女神でさえも把握していないようなのだ。つまり、彼は女神が『許可』を与えたわけでもないのに、自由自在に天空の神殿に出入りしているということになる。
想像したくもないが、そんなことができるのだとすれば、あの男にはやはり神々と同等の力があるのかもしれない。
そしてそんな彼が頻繁に天界を訪れ、女神との面会を天使に見せつけるように行なっている現状は、見ようによっては天使を牽制しているとも取れる。お前が少しでも怪しい動きをすれば、どうなるか分かっているだろうな、と。
――まるで人質……いや、この場合は『神質』になるのかな。
ピットはそう心の中で思い、力なくため息をつく。
本来なら自分は親衛隊の隊長として女神の傍に就き、率先してその身を守り、危険に立ち向かうべき立場だ。しかしそれが、女神の任命によってエンジェランドから遠ざけられ、不本意ながらエインシャントの駒として働くことになっている。
それを思ううちに、彼は我知らず肩口の宝飾をじっと見つめていた。エインシャントが用意したという『特別製のバッジ』。亜空軍のシンボルと瓜二つのバッジをほとんど睨むようにして見ていたピットだったが、ついに我慢しきれなくなり、自らの手でそれをむしり取ってしまった。
ケープが肩からずれ掛かってくるのも構わず、彼はそのまま大きく振りかぶる。
地平線の彼方を目掛け、思い切り放り投げようとしたピットだったが――その姿勢のまま、動けずにいた。
歯を食いしばり、内心の葛藤に絡めとられ、彼は悔しげな顔をしていた。
心に去来していたのは、この任務を命じられた時に女神から掛けられた言葉。
『私は、あなたならばやり遂げられると信じています』
そう言って微笑んだ女神の表情、茜色に染まった夕焼けの空を思い出す。
とうとうピットはバッジを投げられず、その腕を力なく下ろした。
天界の外れに一人、立ち尽くす天使。肩を落としていた彼は、やがて空を仰ぐ。
頭上に広がる空はこの日も見事な快晴だった。だがその澄み切った青さはどこか寒々しく、見る者の心に潜む孤独を否応なしに掻き立てるような色をしていた。
四角いゾンビ、四角い骸骨、四角い蜘蛛……
真っ暗な森の中、ピットが光の矢を射るたびに青白い輝きが宙を走る。つかの間、何もかもが立方体で出来た世界が白く照らし出されては、再び闇に消える。
「ピットさん、できました! 入ってください!」
背後でしずえの声がして、ピットは最後に牽制の矢を放ってから急いで踵を返し、その方角へと駆け込んだ。
角ばった段差を大股に乗り越え、山肌に空いた土のトンネルを潜り抜けると、後ろでざくざくという音が聞こえ、一瞬辺りが真っ暗になる。
「ああ、全部閉めたら流石に暗いね」
今度はむらびとがそう言って、土を掘る音がしたかと思うと、即席の避難所に僅かな光が戻る。だがすかさず、何か鋭いものが風音を立てて飛んできて、ピットの顔のすぐ横をかすめて土壁に突き刺さった。
「あの骸骨……!」
急いで振り向くと、ピットは盾の衛星を呼び出す。一瞬遅れて、コツンという音がして次の矢が跳ね返される。
「――エイム力高すぎじゃない?」
ため息交じりに、言いそびれた残りを言うピット。
暗がりの中、ぼんやりと見えるしずえが急いでこう言った。
「むらびとさん、二段目ではなくて一段目を開けてみましょう!」
「足狙われないかな。でも真っ暗なのも困るし、やってみるか」
ピットが最前列で盾を構え、作業中のむらびとを守る。彼は一旦穴を埋め戻してから、今度は下の方を掘り抜き、正方形の穴を開ける。掘られた後の土はどういう原理か、一瞬で手のひら大の立方体に縮まったかと思うと、むらびとの手に回収された。
サイコロ状の土をポケットにしまい、むらびとはその場にかがんで外の様子を伺う。
「……とりあえず大丈夫そう?」
外は少し静かになったようだった。矢の飛んでくる音は収まり、ゾンビが低く呻く声、蜘蛛の甲高い囁き、そして骸骨の骨がカチャカチャと鳴る音しか聞こえてこない。
「――あれ? もしかして」
怪訝そうな声で呟いたかと思うと、彼はポケットから何かを取り出し、先ほど開けた穴にはめ込んだ。
それは木製の柵らしき物体。間一髪、その柵に阻まれた小型のゾンビが手前でちょこまかとうろつき回っていた。
「うわ、あんな小さなゾンビもいるのか……」
「はぁ……助かりました」
ほっと安堵のため息をつくしずえ。
助っ人が複数人付く任務の例にもれず、今回もなかなか難易度の高いエリアが待ち受けていた。
まず、人間が一人も見当たらない。あたりは立方体で構成された自然が広がるばかりで、いくら歩き回っても人はおろか、人工物すら見つけられずにいる。キーパーソンを探そうにも現地の人がいなければ手掛かりを得られず、とにかく三人は、何かを見つけるまでと歩き続けている。
次の問題が、昼夜が極端に短く、さらに夜になるとどこからともなく敵対的なモンスターが溢れだすこと。百鬼夜行か、それとも終末世界か。いずれにせよ戦えるのがピットしかいない今回は、無理に押し通すよりは夜になるたびに即席のバリケードを作り、立て籠もるのが安全だった。昼も夜も体感で数十分くらいしか続かないため、少し待てばいずれ安全な昼になる。とはいえ、何もせずにじっと待つのも退屈でじれったいものだ。
早く夜が明けてほしいと思いながら、足元の柵を、その向こうの外の地面を眺めていたピットに、しずえが遠慮がちに声を掛ける。
「あの、わたしたちもお手伝いできると良かったのですが……」
「……手伝い? 今も助かってるけど」
きょとんと目を瞬いたピットに、しずえは言いにくそうな様子でこう返す。
「その――一緒に戦えたら、こうして穴に籠ったりしなくて済むと思うんです」
そう言った彼女の真摯な表情に、ピットはようやく事情が飲み込めた。
「なんだ、それなら気にしなくて良いよ。君たちは土や木を集めたり、こうしてバリケードを作ったりしてくれてるでしょ? 僕が戦うことに専念できるのも、君たちのお陰なんだよ」
「そう、でしょうか……?」
しずえは、まだ申し訳なさそうな顔をしている。
しかし考えてみれば、彼女は村役場の一職員でしかなく、むらびとにしてもその村の気ままな一住民に過ぎない。彼らに武器を取って戦えという方が酷だ。それよりはそれぞれの得意分野を活かした方が良い。ただ、バリケードづくりが村役場の業務なのかと言われると、それもそれで変な話ではあるが。
いずれにせよ、それを踏まえてもここまで彼らに気を遣わせてしまうのなら、全てはエインシャントの人選ミスのせいだとしか言いようがないだろう。
天使が内心でそう考えていると、
「ピット。今度は僕もこれで追い払えるか、試してみるよ」
むらびとが呑気な口調でそう言った。その手に持っているのは、彼が自宅から持参してきたらしいパチンコ。
途端にしずえが慌ててこう窘める。
「むらびとさん……! あんまり危ないことはしないでください。風船とは違うんですよ!」
「じゃあこれとか?」
そう言って取り出したのは、木を切るときに使っている斧。
「もう、むらびとさんたら……」
しずえは呆れ半分、心配半分という顔で眉を寄せていた。
きっと、むらびとも現状の立ち位置に、彼なりに思うところがあるのだろう。そう汲み取って、ピットは心配させないように笑顔を見せ、こう言った。
「斧は木材を手に入れるために必要だよね。壊れちゃったら大変だし、木こりするときのためにそのまま持っておいてよ」
何度目かに日が昇った時、三人の行く手にようやく人工物が見えてきた。
「おー、家だ! 村だ!」
小手をかざし、歓声を上げるむらびと。同じ方角を眺めて、しずえはこう言った。
「外側が塀で囲まれていますね。入口はあるんでしょうか……?」
真四角の森のただなかに現れた、木造の家並み。外周はきっちりとクリーム色の石垣で守られており、ご丁寧にねずみがえしまで付けられていて、乗り越えるのは難しそうだ。
しかし、外をぐるりと回り込んでいくと、一か所だけ銀色の扉が設けられた場所が見つかった。扉の横の壁には灰色のボタンが埋め込まれている。
「インターホンかな?」
ピットが試しにそのボタンを押し込むと、ガチャリと音を立てて扉が開いた。あまりの呆気なさに、かえってその場で固まってしまうピット。
「――えっ? これただのスイッチだったの?」
「だれでもウェルカムなんじゃないかな」
むらびとが警戒心の欠片もない調子でそう言って、さっそく村の中に入っていってしまう。
「あ、待ってください!」
しずえも後を追おうとして、その手前で立ち止まる。扉のところから顔だけを覗かせ、
「――おじゃまします……!」
挨拶をしてから入っていった。
幸い、そこは有人の村だった。ただ、やはり全員が角ばった姿をしている。少しずつ服装は違うものの、顔は皆お揃いの鼻でかで、目の色も肌の色も双子かと思うほどにそっくりだった。夜になると現れるゾンビ達とは頭の形が違っていて、少しだけ面長である。
腕組みをしたまま村内を歩き回る人々。ピットはちょうど近くを通りがかった一人を呼び止めた。
こちらの挨拶に対し、「うぅん?」という相槌を返して振り向いた村人に、ピットはまずこう切り出した。
「えーと……、この辺りずいぶん人間が少ないけど、何かあったの?」
「はぁ」
「あれ? ……もしかして塀で囲まれてて、気づいてなかったとか? 夜になるとゾンビや骸骨やらで大変なことになってるんだ」
「ふぅん?」
「君たちが村を塀で囲っているのは、きっとモンスターの襲撃を防ぐためだよね。前からこんなに物騒だったのか、それとも何かきっかけがあったのか知りたいんだけど。例えば亜空軍とか――」
だが、話の途中にも関わらず、角ばった顔の村人はため息のような声を返して立ち去ってしまった。
遅れて事情に気づき、ピットは拍子抜けした様子で目を瞬く。
「――あ、これ……言葉が通じてなかったのか」
ピット達からすると完全に見分けのつかない顔をした村人たちだが、彼らとは明らかに出で立ちも体型も違う人々が村の中に紛れ込んでいるというのに、警戒する様子も、あるいは逆に話しかけてくる様子もない。せいぜい、通りがかったついでにちらりと目を向け、挨拶なのか何なのか、例の気の抜けた声を出すくらいだ。
てっきり大した意味のない相槌のようなものだと思っていたのだが、村人同士でもその“音”で話が成り立っているらしく、先ほどからピットが眺めている先の二人組はずっとその調子で会話らしきものを続けていた。
「“お前さん、見たかね? あのへんてこな連中を”」
「“ああ。ほれ、その一人がこっちを見とる”」
「“いやはや、あんなに平らでない人間がこの世にいるものかね”」
「“まったくだ。薄気味悪いから近寄らん方が良い”」
と、そこでピットの横にむらびとがやってきた。
「何してるの? ……あ、分かった。もしかして吹き替えってやつかな」
「あ、見つかっちゃったか。アフレコとも言うね」
ピットは笑ってそう答える。
それから、民家の軒先に座っていたところから立ち上がると、一つ伸びをした。
「――あーあ。この調子じゃ聞き込みどころじゃないよ。やっとこのエリアの人間に出会えたと思ったのに、言葉が通じないんじゃなぁ……」
四角い雲の流れる空を見上げ、彼は駄目で元々、女神の名前を呼んでみる。
「パルテナ様ー! 聞こえてますかー? お取込み中のところすみませーん!」
耳を澄まして待ってみたが、やはり返事は返って来なかった。
「――ダメか」
「パルテナさまって、確か君のところの女神さまだよね」
「うん。翻訳の奇跡とか、授けてもらえたらなって思ったんだけど……忙しいのかなぁ」
かつて、手紙配りの任務を始めたばかりの頃は、そもそも助っ人として呼べる“手紙を受け取った後のキーパーソン”が少なかったこともあり、ピットの単独任務が多かった。そしてその頃の女神は、周囲に人がいようといまいとお構いなしにバッジ越しにピットに話しかけており、ピットもいつもの調子でこれに応えていたものだ。
ところが、手紙によって真実を知るキーパーソンの人数が増えるにつれ、女神からの声かけは次第に少なくなっていった。助っ人がいる場合には、それと出会うまでは会話をしていたのが、この頃では飛翔の奇跡で無事に地上に降りた時点であっさりと切り上げてしまうことも多い。
神々特有の飽きっぽさが出たのかもしれないが、そう見せかけておいて、天使には考えも及ばないような深遠な理由から、会話を控えるようにしている可能性もある。奇跡を授けないのも、“その必要はありません”という彼女からのメッセージなのかもしれない。
「と言ってもなぁ……」
ピットはため息をつき、項垂れた。
そんなことをしているうちに、辺りは早くも暗くなり始めていた。村のそこかしこに点在する小さな松明が次第に存在感を示し、草地を明々と照らし出す。
突然、ガチャガチャと扉の開け閉めする音が聞こえてきてそちらを見ると、村人が示し合わせたように一斉に、あちこちの家に入っていくところだった。
何となく二人で後を追い、民家の窓ガラスを覗き込んでみると、鼻でかの村人たちは早々とベッドの上に横たわっていた。しかも掛け布団は使わず、あの腕組みの姿勢のまま仰向けになっている。
「もう寝ちゃうんだ」
「健康的だね」
そんなことを言っていると、後ろからしずえが走ってきた。
「むらびとさん、ピットさん! 外にいて大丈夫なんですか?」
「あっ……そういえば」
空は急速に暮れかかり、あっという間に夜がやってくる。
が、いつものあのモンスターたちの声は聞こえてこない。ピットはそれでも念のため、弓をもって村内を見回ってみた。
民家の陰、塀の傍も見て回り、それから村の中心部で待つ二人に頷きかけた。
「――大丈夫そうだよ。もしかしたら明るくしてればモンスターは出てこないのかも。太陽の光で燃えちゃうし、光が苦手なのかもね」
「ああ、よかったです……!」
しずえはほっと安心して笑顔を見せた。
その隣で、むらびとは辺りを見回し、こんなことを言っていた。
「なるほど、こういう風にすれば夜も安全なのか……こういうの、作ってみようかな」
そう彼が見つめる先には、村の教会と思しき三階建ての建物がある。
「むらびとくん……まさか、ここで暮らすつもり?」
「まさか! でもさ、いざというときに帰ってこられる家があると、何かと便利でしょ? モンスターにも襲われないで済むよ」
「うーん、それもそうだよね」
毎晩の襲撃を思い返して賛成しかけたピットだったが、しずえの方はこう釘を刺す。
「拠点を作るのには反対しませんけど、あんまり凝ったものを作ろうとはしないでくださいね」
「えへへ、ばれたか……」
と彼は頭の後ろをかき、笑った。
村の周囲を守る石壁のおかげで、ひとまず今夜の安全は確保された。
けれども、この村の人間から聞き込みをするのはまず不可能だろうから、夜が明けたらまた村を出て出発しなければならない。あてもないが、ともかく進んできた方角そのままに。
四角い月はまだ昇ったばかりで、朝が来るにはまだ掛かりそうだった。一度、むらびとの提案で資材集めのために外出してみようという話になり、塀の外の様子を伺ってみたのだが、やはり森の中にはモンスターたちがうろついており、不用心な獲物を見つけてやろうというように辺りを見回しているのだった。
三人にとってはまだ半日も経ってない頃であり、眠気は全くなかった。地面の段差に腰かけて手持ち無沙汰にしていたピットだったが、ふと、今なら聞き込み調査にうってつけだと気づく。さっそくバッジを付け替えると、まずはしずえに声をかけに行った。
家の外壁に寄りかかり、星空を眺めていた彼女は、ピットに名前を呼ばれて振り向いた。
「しずえさん! これ、持っててくれる?」
「――え? あ、はい!」
半ば勢いに呑まれた形で、彼女はバッジを受け取る。
「それから……村のあっちの方に行っててくれるかな。少ししたら僕の方で呼びに行くから、そこで待っててね」
「わ、分かりました」
ちょっと怪訝そうな様子でありつつも、しずえは頭の鈴を鳴らして頷き、ピットの指した方角に走っていった。
「よし。次は……」
ピットは首を巡らせて、むらびとの姿を探す。
村内を散歩しつつ、建屋のデザインを見物していたむらびと。彼を呼び止め、ピットはまずこう切り出した。
「むらびとくん。『亜空軍』について、何か知ってることはある?」
「え? あくうぐん……?」
彼は目を丸くし、驚いた様子でそう繰り返す。
これまでに度々目にした反応。ピットはすでに、相手の心中を大方汲み取っていた。
「――その顔。それがなんだかよく分からないけど、聞き覚えあるって顔だね」
「うん、そうなんだよ。でもどこで聞いたんだろうなぁ……」
首をかしげるむらびと。
ピットは亜空軍について彼が知っている範囲の話をし、さらに現在の地上界が無数のエリアに分割されているのは、彼らのせいかもしれないというところまでを説明した。むらびとはその説明を、最後まで口を挟まずに聞いてくれた。
「……じゃあ、僕らが君のことを上手く思い出せないのもその、あくうぐんのせいってことなの?」
「そう言い切れると良いんだけどね……」
ピットは腕を組み、眉間にしわを寄せてこう続ける。
「僕が亜空軍について知ってるのは、『爆弾』を使って空間そのものを壊してるか、あるいは奪ってるってだけなんだ。彼らに記憶をいじる力があるってはっきり分かってるわけじゃない。でも少なくとも、君たちの記憶を誤魔化せば、明らかに狭くなった世界をおかしいって思うこともないし、亜空軍をやっつけようともしなくなる。だから亜空軍にとっては都合がいいはず」
「でも、あくうぐんは、わざわざ閉じ込めた人たちのところに出てきて、また爆弾を仕掛けてるんだよね?」
「そうなんだ。彼らにとって、例えば空間そのものが何かエネルギーみたいなものになってて、お腹が空いたから残りも奪いに来た、とかならわかるんだけど」
「まぁね。それにさ、もしもあくうぐんが僕らの記憶をいじれるなら、なんで襲われたことを覚えてる人がいるのかな?」
むらびとが何気ない調子で言った疑問に、ピットははたと気づく。
「――そうか。それもそうだ」
亜空軍と、キーパーソンやピット達の記憶をごまかした犯人。両者がもしも同一なら、ウルフ達のように“亜空軍の襲撃を覚えている人”が存在するのは不自然だ。
もしかしたら、ウルフのいたエリアの場合、亜空砲戦艦の介入によって亜空軍の侵攻が未然に防がれたから、亜空軍による記憶消去が行われなかったのかもしれない。
だが仮にそうなのだとしたら、亜空軍にとっての“侵攻の成功”とは、どんな状態を示すのだろうか?
攻め込んだエリアの全てを亜空間に置き換えることなのだろうか。そしてそうなった時、そのエリアにいた人間たちはどうなってしまうのだろうか。
元は“ポップスター”にいたのが、『トンデモナイ化け物』に襲われ、気づいたら亜空間らしきところをさまよっていたというマホロア。サムスによってとどめを刺されたはずが、辛うじて生きて亜空間を漂っており、亜空砲戦艦に漂着したというダークサムス。
キーパーソン達やそのほかの人間たちが、仮初の地すらも失って亜空間を漂う様を想像してしまい、ピットは首を横に振ってその恐ろしい光景を振り払った。
「どっちにしても、亜空軍をこのまま放っておくわけにはいかないと思うんだ」
「うん。僕も、すま村が襲われるかもって考えたら怖いなぁ……。ねぇ、もしもだけど、そうなっちゃったらどうすれば良いのかな? エインシャントさんに言って、みんなを呼んでもらう?」
彼が素直にそう言ったのに対し、ピットはすんなりとは頷けず、難しい顔をして考え込んでしまった。
たっぷり十秒間ほど逡巡した後、彼はやっとのことでこう答える。
「……そうだね。聞いてみても良いと思うよ」
その先は言葉にはせず、彼は心の中だけに留めてこう呟いていた。
――もしもそうなったときにあの人がどう動くか、注意して見ておかないとな……
空が少しずつ白み始めた中、続いてしずえを探しに行くと、彼女は村の外周の塀のところに立ち、石壁に手を当てて何事か考え込んでいる様子だった。
声を掛けられてはっと振り返り、彼女はこう言った。
「――あっ、ピットさん! ちょうどいいところに。この壁、ちょっと見てもらえませんか?」
「壁に何かあったの?」
「ええ。……あ、といっても正しくは壁そのもの、でしょうか。ここの村のこの塀、とてもおしゃれで素敵だなぁと思って見ていたんですが、こんなにさらさらした石、この辺りでは見かけなかったような気がするんです」
ベージュ色の滑らかな石。まるで砂漠の砂がぎゅっと固められたようにきめ細かく、松明の明かりを受けてところどころがきらきらと細かく輝いている。
翻って村の建物はというと、辺りの森に生えている木々で作られた木造建築や、灰色のごつごつした石を積み重ねた石造りの家ばかり。どこにも塀に使われているような砂色の石材は見当たらない。
「確かに。統一感が無いっていうか、ここだけ目立ってる感じがするね」
「そうですよね。……やっぱりわたしは、この塀、もしかしたらこの村の人ではない方が作ったんじゃないかと思うのですが……言葉がお互い分からないと、尋ねることもできませんよね」
「一つ手としては、近場の砂漠を探すのが良いかな。そこに誰か住んでないか、そうでなくても岩を切り出した跡が無いかどうか。あとで見てみよう」
「はい!」
笑顔で頷いた彼女に、ピットは元々の要件を思い出してこう言った。
「……あ、でもその前に君にも聞いておきたいことがあって――」
村の反対側で待つむらびとにバッジを渡し、再びしずえの元に戻ってきたピットは、まず『亜空軍』について聞いてみた。
しかし彼女の反応はそれまでのキーパーソンと同じもので、『何となく良くない人たち』という印象を持ちはするものの、それほど危機感は覚えていない様子だった。ピットが彼らのしていることについて話し、彼らが今もなお脅威であることを説明した後でも、彼女の反応には変化がなかった。しかしこれは、そもそも彼女達のいるエリアがかなり平穏であることも関係しているかもしれない。住む場所が脅かされるかもしれないと聞いても、あまり実感がわかないのだろう。
続いて、ピットや他のキーパーソンについて思い出したことはないかと尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「実は……あの後何度か、エインシャントさんから依頼を受けて村の外の世界に行ってきたのですが、その時ご一緒した方の中には、わたしたちが昔から噂を知っている方がいらっしゃったんです」
真剣な面持ちでそう言った彼女。
「噂?」
「はい。もしかしたらあなたもご存じかもしれませんが、わたしたちの村では様々な家具や服が売り買いされていて、住民の皆さんは思い思いの服装を身に着けて、お家の中を飾っています。どんな人でもお気に入りの一品が見つかるくらいに幅広いレパートリーがあるのですが、その中には『遠い世界の有名人』にちなんだグッズもあるんです」
と、そこで彼女はふと何かを思い出した様子で言葉を途切れさせ、服のポケットから何か板状の機械を取り出して操作した。
「――そうそう、これとか」
横向きに持った機械、その画面には服や靴のリストが表示されていた。彼女が指でそのリストに触れると、左にその品物が表示されていく。
「“おにいさんのぼうし”、“おとうとさんのぼうし”、“ゆうしゃのふく”、“バリアスーツ・ヘッド”……」
読み上げていくピットの見る先、明らかに見覚えのあるキーパーソンの服装が映し出されていた。
「――これ、全部君の村で売られてたの? 昔からっていうことは、僕から手紙を受け取るよりも前に?」
「そうだったんです。ただ、その時のわたしたちは詳しいことを知らなくて、ただ『とても有名な人』ということしか分からなくて。……そんな方々と、わたしやむらびとさんがお知り合いだったなんて、今でも信じられないくらいです」
しずえはそう言いいつつ、板状の機械を持ったまま、両の手をそっと胸元で合わせていた。
どこか緊張した面持ちでありつつ、目を輝かせ、興奮を抑えている様子の彼女。それに対し、ピットは腕を組んで真剣な表情で考え込んでいた。
「そうだったのか……」
呟き、彼女に向き直る。
「教えてくれてありがとう。そうするとやっぱり、君たちを閉じ込めた何者かっていうのは、どこか抜けてるのかもしれないね」
「えっ?」
「だって、君が見せてくれたものは『別のエリア』にちなんだグッズだよね。他の人には分からないかもしれないけど、少なくとも君たちはさっきのグッズを見ているうちに、消された記憶が戻っちゃうかもしれない。なのに隠しておかなかったのはミスだとしか思えないよ」
「そうだと良いのですが……。でも……わたしたちがどのくらいの間、ピットさんのいう『エリア』に閉じ込められているのかは分からないのですが、その間一度も『おかしい』と思ったことはなくて……」
その先は彼女の内に消え、しずえは難しい顔をして考え込んでしまった。
一通りの聞き込みを終える頃には再び朝日が昇り、示し合わせたように一斉に、四角い顔の人々が民家から出てきていた。
むらびとは、さっきいた場所とは少し離れたところに移動していた。
この村の住民と何やらやり取りをしていた様子で、その手には角ばったコンパスらしきものが握られていた。
「ここの人、物々交換してくれるみたいだよ」
開口一番、彼はそんなことを言った。
「物々交換って、何と交換したの?」
「小麦。待ってる間暇だったからさ、村の雑草をむしってたんだけど、そしたらいつの間にか小麦が手に入ってて」
彼の指さす方角を見たピットは、自分の目を疑った。到着した時には雑草に覆われていた村の敷地が、いつの間にかむらびとのいた一帯だけすっきりと掃除され、きれいな平面を見せている。そしてその範囲には、木材で区画された領域も含まれていた。
「あれ? あの場所って確か……むらびとくん、君が手に入れた小麦、たぶん畑に植わってたものじゃない?」
「畑? あ……あれ畑だったのか。悪いことしちゃったな。あとでなんかタネ植えとこう」
来た時には黄金色の麦穂がなびいていた一角は、見事なまでに丸裸になっていた。
二人がそんな会話をしているうちに麦藁帽を被った村人が畑にやってきた。むらびとは早速彼のところに行き、手持ちの作物の苗などを渡そうとした。が、相手はすま村の植物が分からなかったようで、その横を素通りして畑仕事に取り掛かり始めた。自分の畑が一晩にして刈り取られたことには、全く気付いていない様子だった。
むらびとは戻りがてら、畑の一角に勝手ににんじんを植えてから戻ってきた。
「いらないみたいだったけど、何も返さないのも悪いかなと思って」
「いるいらないって言うより、何かそもそも収穫されたことにも気づいてないように見えるなぁ……」
これほど呑気で不用心な人々なら、親切な誰かが放っておけず、彼らのために村を石垣で囲ったのも道理が通る。
後はその“親切な誰か”がどこにいるかだが……
そんなピットの心を読んだように、むらびとがこう声を掛けた。
「ねえ。このコンパスだけどさ、何かヒントになるかもしれないよ」
四角い小さなタイルの寄せ集めで構成されたコンパス。カクカクした見た目ではあったが、ちゃんとむらびとが向きを変えるたびに方位磁針も動いていた。
「この針。見てて何か気づかない?」
得意げに微笑み、謎かけをするむらびと。ピットはしずえと共にそのコンパスを覗き込む。しずえはふと気づき、空とコンパスとを見比べ始めた。
「――あれっ、コンパスの赤い針って……確か北を向くはずですよね」
ピットは彼女に頷きかける。
「うん。そして太陽は――東から昇って西に沈むのが普通。……このエリアの四角い太陽もそれに従うなら、だけど」
「じゃあつまり、このコンパスは“南西”を指してるんでしょうか?」
彼女の答えに、むらびとは笑顔を見せて頷いた。
「そう! きっと南西に何かがあるんだよ」
立方体の土を積み上げ、即席の見張り台を伸ばしていくむらびと。
「気を付けてくださいねー!」
しずえが、どんどん遠く高くなっていく彼の姿に声を掛ける。
小手をかざして辺りを見回していたむらびとは、やがてこっちに手を振り返し、またざくざくと土を掘って足場を崩し、降りてきた。
「すっごい良い景色だった! ……あ。でね、南西には砂漠があったよ。そして遠くて見づらかったけど、砂漠の向こう側にはなんか街みたいなものがあったな」
村を出発して数十分後、砂漠の手前で一晩シェルターにこもり、満を持して夜明けとともに出発した三人。
安全な昼間のうちに移動する算段だったのだが、どういうわけか、今の彼らは必死に砂漠を駆け抜けていた。彼らの後ろから迫るのは、色褪せた淡褐色のゾンビ集団。彼らは緑のゾンビとは違い、どういうわけか日が照り付ける中でも燃えることが無く、平気な顔をして襲ってくるのだった。
大柄なゾンビは足も遅く、走れば振り切れるのだが、時折小柄ですばしこいものもいて、それらがとにかく厄介だった。ピットはしんがりを務め、小柄なゾンビの姿が見え次第、すぐさま矢を射かけて倒していた。
「ホントしつこい!」
ピットの口から思わずそんな言葉がついて出る。
何度倒してもキリがなく、仲間が何人倒されてもゾンビたちは全く怯む様子がない。余程飢えているのだろうか。
手持ちの土を使えばバリケードを作ることもできるのだが、だだっ広い砂漠の真ん中ではとっかかりにできる壁も無く、バリケード作りにも時間が掛かる。まずは十分に距離を取らなくてはいけない。
「あ、あそこに洞窟がある」
むらびとの言葉に振り返ると、彼が指さす先、砂漠が陥没して洞窟に繋がっていた。どこまで続いているのか、奥は暗くて見通すことができない。
「洞窟か……モンスターがいなきゃ良いけど、背に腹は代えられない!」
三人は砂岩の段差を駆け下りて洞窟に駆け込むと、手分けして土を積み上げ、天井と床を繋ぐように壁を作っていく。
ところが、大方埋め終えて壁が完成しかけた頃、ピットは壁の隙間に何か緑のものを見たような気がした。続いて聞こえてきたのは、吹き出し花火のような音。違和感に眉を寄せていたのも一瞬のうち、急いで二人の方を向くと叫んだ。
「壁から離れて!」
間一髪、爆音と共に土壁が吹き飛び、遅れて天井の砂がどさどさと落ちてきた。
洞窟内の暗さに目が慣れていたところから一気に明るくなって、目を瞬きながらもピットはむらびと達の姿を探す。
「――二人とも、大丈夫?!」
彼らは無事だった。それぞれに頭の上に落ちてきた砂をスコップで掘って除け、顔を出す。
「僕らは平気。だけど……」
むらびとはそう言って上を見上げる。彼の見る先、砂漠のモンスター達が追いつき、砂漠の陥没穴をぐるりと囲んでいるのだった。降りられる場所を見つけ、のろのろと降りてくる褐色のゾンビ達。
「囲まれちゃいましたね……」
「二人とも、僕の後ろに――」
そう言いかけたその時、ピットが見上げる向こう側、ゾンビ達が何かに気を取られたように別の方角を向いたかと思うと、次々に倒されていく。
弓矢と、剣を持った二人組の姿が視界に映った。
「あれは……」
「どこかで見た……」
ピット達が見守るうち、角ばった姿の二人組は褐色のゾンビ達を追ってこちらに降りてきた。明るい水色の装備を身に着けた二人組は、あたりに残っていたゾンビも難なく倒し――そこで初めて、彼らの顔がこちらを向いた。
仰天した様子で文字通り飛び上がり、彼らは弓や盾を構えて距離を取ろうとする。だが、こちらから声をかけるまでもなく顔見知りだと気づいたようで、すぐに警戒を解くとこちらに駆け寄ってきた。
色黒な方は、腰を折ってお詫びの挨拶をし、カクカクのパンを雨あられと投げ渡してくる。オレンジ色の髪の方は喜びも露わに、三人の周りをぴょんぴょんと跳びはね、走り回っていた。
「ひとまず一件落着か」
ほっと安心し、ピットは肩掛けカバンの蓋を開ける。
むらびとは拾ったパンをさっそくかじり、こう返した。
「終わり良ければすべて良し、だね。……それにしても砂漠の向こうの街、もしかしてこの人たちが造ったのかな。ねぇピット、帰りにちょっと寄っていかない?」
振り返ったピット。だが、彼が何も言わないうちに代わりにしずえがこう言った。
「むらびとさん、ピットさんは手紙の配達で忙しいんですよ」
「そっかぁ、それもそうだね。じゃあ、また今度にしよう」
のんびりとそう言ったむらびと。
その一方で、ピットは複雑な表情をして何も言えずにいた。やがて、彼は自分が手にした封筒に目を落とす。『円に十字』の赤い封蝋で閉じられた、純白の封筒に。
ピットはそれからも数多のエリアを巡り、“見知らぬ知り合い”と出会った。
平和な場所もあれば、理不尽なほどの苦境に陥った場所もあった。だがその原因はいつも、亜空軍とは別のところにあった。
ほんのわずかな手掛かりを求めて、本来の任務もそっちのけになってしまうくらいに、キーパーソンや現地の人々に尋ねて回った。
しかし一向に収穫は無く、『亜空軍』に関する情報は亜空砲戦艦の一件で得られたところから大して進歩のないままに留まっている。
代わりに心の中で募っていったのは、焦燥。ピットがいくら亜空軍のもたらす危機について語り、彼らこそが君たちをエリアに閉じ込めたのかもしれないとまで言っても、キーパーソン達にはいまいち響かず、『見かけたら伝える、エインシャントに報告する』くらいの返答しか返ってこない。今すぐに皆で結束しようとか、力を蓄えて侵攻に備えようとか、そういった言葉は、誰の口からもついに聞けなかった。
一度手紙を受け取った人間たちの、エインシャントに対する評価は様々だった。
全く疑いを抱いていない者もいれば、怪しさを感じつつも、協力するほかに良い手はないと答える者もいた。
確かに、キーパーソン達にとっては現状、エリアの外に出るための手段はエインシャント頼みである。彼に見捨てられれば、自分の他に真実を知る者のいない仮初の世界に取り残され、遥かに広かったはずの世界を夢見ながら単調な日々を過ごすことになる。
そして少なくとも、彼が手紙を介して『真実』を知らせてくれたことについては、おおむね誰もが感謝しているようだった。
だがそれを聞くピットは、内心で煮え切らない思いを抱えていた。エインシャントのその行動が、完全な善意から来るものとは思えなかったのだ。
おそらくエインシャントは亜空軍と何らかの関係がある。粉々になる前の地上界を、そして記憶を失う前のピット達を知っている。本当は彼は、もっと多くのことを知っているはずなのに、わざとその一部だけを手紙という形で伝えている。そうしてもったいをつけることによって、残りも知りたいと思わせ、協力を取り付けている。ピットには彼の行動が、そういうようにしか見えなくなっていた。
では、そうまでして彼は何をしようと――あるいは何を企んでいるのか。
以前にクラウドが指摘したように、彼はもしかしたら亜空軍を裏切ろうとしており、その苦しい立場から、キーパーソンにもすべてを伝えられずにいるのかもしれない。
しかし、それにしては不審な点もあった。亜空軍の侵攻を免れており、いまだに斥候の気配さえもないエンジェランドであれば自分の立場や目的を隠す必要も無いはず。それが、天使の協力を取り付けるうえで『亜空軍』のあの字も出さなかったのは不自然だ。一番初めに女神と面会した際に、その場からピットを外させたのも不審な行動としか言いようがない。もしかしたら女神パルテナにだけは真意を伝えているのかもしれないが、そうだとしても、そんなに秘密主義が過ぎる相手に自分たちの選択肢を、地上界の命運を委ねるのは危険でしかない。
だからこそピットは自ら動こうと考え、任務に乗じて各地のキーパーソンに声を掛けていた。結果は振るわなかったが、彼らに注意を喚起するだけでも意味があると、彼は自分に言い聞かせていた。
また同時に、ピットは女神にも、事情を話して亜空軍に対する対応を尋ねようと時機を見計らっていた。だが、こちらはそもそもその機会が得られず仕舞いになっていた。何しろ任務が矢継ぎ早に下されるせいで、エンジェランドに滞在できる時間はごくわずかしかない。女神に出会えたとしても、そのそばには何食わぬ顔をしたエインシャントの姿があった。
見計らったような出現だが、不自然ではない。エリアから帰還する際には、必ずエインシャントと連絡を取ることになる。だからピットが帰ってくるタイミングで先回りして天界を訪問することも簡単なのだろう。
彼の、あの表情の読めない黄色の瞳に自分の言動を追われているような気がして、ピットはついぞ自分の懸念を伝えることが出来ずにいた。
考える間も与えまいというように次々と舞い込む任務。どれほど聞き込みを続けようとも成果が得られず、理解も得られない日々。
パルテナ様はどこまでご存じなのか。亜空軍を浄化せよと、自分に命じてはくれないのだろうか。
心の中に疑問を押し込めるうち、知らぬ間に、エリアを巡る天使の歩みはだんだんと鈍くなっていた。
ある日、エリアからの長旅から帰ったピットは、パルテナからこう声を掛けられる。
「ピット。今回はずいぶん苦戦していたようですね。その顔は……何か悩みごとがあるのですか?」
思わず顔を上げると、そこには、心の底から従者を案じる女神の顔があった。
「パルテナ様――」
戸惑いと躊躇いに、我知らず言葉が詰まる。
首を振り、ピットは再び顔を上げ、女神に正面から向き合うとこう伝えた。
「――少しの間、お休みを貰っても良いでしょうか」
パルテナは軽く驚いた様子であったが、やがて微笑むとこう答えた。
「ええ。良いでしょう」
「やっぱり――って、えっ?! 良いんですか?!」
目を丸くしたピットの前で、女神は頬に片手をあて、怪訝そうに小首をかしげる。
「あら? もしかして私がダメと言うと期待していたのでしょうか。でしたら、その期待に応えないわけにはいきませんね」
「いえいえ、そんなことないです! ただ、てっきり『次の依頼が来てるから、それが終わってから』って言われるんだと……」
「ああ、そういうことでしたか。それなら心配はいりませんよ。ねぇ、エインシャントさん?」
彼女が振り返った先、この日もピットより先に天界に着いていたエインシャントがとんがり帽子を揺らして頷く。
「ええ。次の依頼は少々厄介でして、慎重に時機を見計らいたいのです」
「……今までに厄介じゃないエリアなんてありました?」
天使はあからさまな不信を見せてそう返すが、この皮肉は彼には通じなかった。
「あなたがそう仰るのも無理もありませんね」
目深にかぶった帽子の下で、黄色の瞳が微笑むように細められる。
「ですが、あなたのお陰でこれまでに多くのキーパーソンに手紙を渡すことができました。最初のうちは比較的安全なエリアから回っていただいたので、こうして難しい場所が残ってしまったというわけです。渡航できるようになりましたら、私の方からお知らせします。このところ依頼が立て続けになってお疲れでしょうから、どうか今のうちにゆっくり休んでください」
『あなたに言われることじゃない』と言ってやりたかったが、ピットはその言葉をぐっとこらえて礼をし、その場を辞した。内心の不満は十分に表情に出てしまっていたが、やはりエインシャントはそれを全く意に介さずに、謁見の間を後にする天使に穏やかな眼差しを向けるだけだった。