星は夢を抱いて巡る
第6章 魔術師 ②
思わぬタイミングで得られた休暇。
天界の神殿を巡り、部下たちにいつもの聞き込みをしてしまうと、すっかりやることが無くなってしまった。
かつてエインシャントが来る前にピットが受け持っていた仕事は、長らく天使が天界を留守にしている間に部下たちが分担するようになり、すっかり今では隊長なしでも問題なく回るようになってしまっていた。
ピットの代わりに地上の様子を書き留めている代理のイカロスに声をかけてみたものの、彼は笑顔でこう答えるばかりだった。
「我々のことはお気になさらず。ようやくお休みを得られたのですから、隊長はゆっくり羽を伸ばしてください」
彼によると、エンジェランドについては地上も冥府も至って平和であり、また神々の間にも取り立てて不穏な兆しや小競り合いは見られていないという。
エインシャントの依頼を受け、休む暇もないくらいに地上と天界とを行き来していたピットは、昔の自分がどのように時間を使っていたのかをすっかり忘れてしまっていた。
ものの一時間で暇を持て余してしまったピットは女神の下に赴き、何かできることはないかと聞きに行った。しかし返ってきたのはこんな答えだった。
「あら、ピット。いつからそんなにワーカホリックになったのですか? 今のあなたは有給休暇なのですから、働いてはいけないのですよ」
「……有給? 僕ってお給料もらってましたっけ」
「ほら、あなたには時々神器を授けているでしょう。新しい靴や服も」
「現物支給ってことですね。……じゃあその有給を使って、ちょっと地上界に行ってきても良いですか?」
今まで聞き込みができたのは天界のイカロス達に対してのみ。彼らを信用していないわけではないが、実際に一度、本当にエンジェランドは無事なのかどうか自分の目で見ておきたいという思いもあった。
しかし女神は、後ろに控えるエインシャントを見るまでもなく、自らきっぱりと答えた。
「許可したいところですが、それはできません。あなたも忘れてはいないと思いますが、“飛翔の奇跡”は一日に一度しか掛けることができないのです。いくらあなたがお休みとはいえ、不測の事態というのは待ってはくれないもの。いざというときのために飛翔の奇跡は温存しておきたいのです。あなたはいわば、私の切り札なのですからね」
ほかならぬ彼女にそこまで言われてしまったら、それ以上無理を言うことはできなかった。
続いてピットが思いついたのは、エインシャントの尾行だった。
彼の後をつければ、いつも何のために女神と面会しているのかも分かるし、彼が帰ったタイミングですかさず女神に声を掛けることもできる。もしかしたら誰もいないところを見計らって、亜空軍なり何なり、彼の裏にいる者と通信をしている場面に出会えるかもしれない。
神殿の庭園を我が物顔で進んでいく緑衣。ピットはその後ろで生垣に身を隠すように中腰になり、足音をひそめて、彼の背を追いかけていた。
見つめる先、緑衣の後ろ姿は徐々に遠ざかっていく。どうしても気配を悟られまいとすると足が遅くなってしまう。だがあわてて物音を立ててしまっては元も子もない。彼ははやる気持ちを抑え、遠ざかろうとする背を目で追いかけ、腰を落としたままゆっくりと進み続ける。幸いエインシャントはそれほど遠くへは行かずに立ち止まり、どうにか姿を見失わないうちに彼の目的地へとたどり着くことができた。
エインシャントは庭園の中ほどにあるあずまや、八角形のパビリオンの外に立ち、折しも、光と共に現れた女神に近づいて挨拶をしているところだった。
何を話しているのか。ピットは焦りをこらえつつ、残りの距離を詰めていく。
窮屈な姿勢でじりじりと進み、ようやく生垣一つを挟んだところまでたどり着いた。
ピットはその場にしゃがみ込んで全神経を聴覚に集中させる。
「どうやら、あなたはまだ私に隠していることがあるようですね」
そう言った女神の声は、いつもの澄ました声色だ。
緑衣は笑い、こう答える。
「とんでもない。手の内はすべてあなたにお見せしていますよ」
それから彼は、いつもの穏やかな口調でこう続けた。
「例え隠していることがあったとしても……パルテナさん、聡明なあなたであれば、すでにお見通しでしょう」
女神はこれに含み笑いを返した。
「そうと言いたいところですが、あなたはどうやらポーカーフェイスがお得意のようですからね。ここはひとつ、大きく出てみましょうか――」
いきなり、ピットの背後でガサガサと生垣が揺れる音がした。
慌てて振り返ると、生垣が自ら根っこを引き抜いて、わさわさと歩き去ってしまうところだった。
呆然としていたのもつかの間、パビリオンの方を見ると、女神が杖をこちらに向けて微笑んでいるのだった。
「おやおや! これは大層な奥の手ですね」
エインシャントがそう言い、白い手袋で拍手を送る。
よく目を凝らすと、二人の間に置かれたテーブルにあるのは、何やら絵の描かれたカード。
「――二人でカードゲームしてたんですか?」
「ええ。エインシャントさんが持ってきてくれたのです。ポケモンカードというのですが、なかなか戦略性があって奥が深いのですよ。ピットも参加しますか?」
「……いえ、遠慮します」
すっかり拍子抜けしてしまったピットはそう言って、すごすごとその場を離れた。
しばらくして、天使の姿は天界の外れ、神殿から離れたところの広場にあった。
あの後も諦めきれずにエインシャントの後を追いかけたものの、彼は天界を呑気に散策したり、女神と他愛もない世間話をするばかり。その話題にしても、天使から聞いたエリアでの出来事を話のタネに会話に花を咲かせるくらいで、怪しいところは全く見られなかった。
しかも、どうやら彼は途中からこちらの存在に気が付いていたらしい。
天界を立ち去る前に、エインシャントは、神殿の柱に寄りかかって立っているピットにわざわざこんな声をかけていった。
「ピットさん。何か私に聞きたいことがあるのではありませんか?」
「ありません。……聞いたって、まともに答えないでしょ」
面白くなさそうな顔を向け、答えるピット。
「そうですか」
可笑しそうに目を細めて、彼はそれだけを言った。
エインシャントはそれを最後に天界を離れた。
しかし今度は女神の方が神々の会合に出かけてしまい、結局亜空軍について問うことができずに終わってしまった。
「こんな時に限って会合かぁ……パルテナ様、なんだかんだ言って真面目だからなぁ」
円形の広場の真ん中、石畳に寝ころび、ピットは青空を行く雲を眺めてそう呟いた。
かつてのエンジェランドで起きた事件、冥府神ハデスが三界のバランスを無視して己の欲を押し通そうとしたあの一件から、自由気ままな神々もさすがに反省したらしく、しばしば意見交換や近況報告のためのサミットを開くようになっていた。
とはいえ真面目に行われていたのも最初のうち、今では彼らが各々抱える不満や主張を散々ぶつけ合ったり、従者自慢をしたり、はたまたケンカを始めたり。居眠りあり雑談あり間食ありの、自由気ままな集まりになってしまっている。パルテナから聞かされる近頃の様子はそんな調子で、いつ行っても何か大事な決定が為されたという試しがない。しかも神によっては他神に興味が無いとか、会合に興味が無いとか、そもそも面倒くさがって参加していない者も相当数いるらしい。
ため息をつき、天使は立ち上がると石畳を歩いていく。
見晴るかす雲海。垣間見えるのは黒々と横たわる海――亜空間という名の、奪われた領域。
点在する島々を眺めていた彼は、ふと肩に違和感を感じる。
「……ああ、あの鞄か」
手紙を入れている肩掛けカバンは、最後にここに戻ってきた際に回収されて以来、彼の肩から離れている。
いくら手紙が入っているときでも神器に比べればさほど重くないはずだが、無ければ無いでなんだか肩が寂しいような気もした。
その寂しさから連想し、改めて女神の不在を思い出してしまった彼は、どこか決まりの悪い顔をしてのろのろと首を横に振る。
任務から一旦離れて、今までに知った物事と向き合い、整理して順序を付け、俯瞰した上で自分の立ち位置を決める。そのつもりで取った休暇だったはずだが、休みを取ったところで一向に考えはまとまらず、いつまでも同じところをぐるぐると巡るばかりになっていた。
これはきっと、自分一人の手には負えない。誰かと話して考えをまとめた方が良いかもしれない。
とはいえ女神は今はここを離れているし、イカロス達はそれぞれ仕事で忙しそうにしているから、隊長たるもの、自分の相談事に部下を付き合わせるわけにもいかない。
「他は……」
まず思い浮かんだのはブラピ――もとい、ブラックピットの顔。
だが、ピットは頭を振ってその選択肢を除外する。
――ブラピはエリアに閉じ込められてた『当事者』だけど、あの性格だし、僕が呼んでも来ないだろうな。来たとしても、この間の感じだと真面目に答えてくれたり、ましてや一緒に悩んでくれたりしなさそうだし。
続いてピットは、マグナの名前を思い出す。彼は地上界の人間でありながら相当に腕の立つ男で、かつて冥府の神が自分勝手に狼藉を働いた時、魔王の城で出会い、いろいろあってその後もピットに協力してくれた。
マグナは人間の知り得ることくらいしか知らなさそうだが、自分にはない視点を持っているはず。それに、彼なら半信半疑な顔をしつつも、ともかく自分の話は聞いてくれるだろう。彼なりに意見も言ってくれそうだ。でも地上界にいるから、残念ながら飛翔の奇跡も無い今は会いに行けない。
それにそもそも、思い返してみれば、あの一件が解決してから年月が経って久しい。
「マグナ、あの時何歳だったんだろう。人間って何年経ったらおじいちゃんになっちゃうんだっけ……」
腕組みをして考え込むが、どうにも思い出せず、彼は二度目のため息をついて項垂れる。
「後は……だめだ。本当に僕って友達少ないよな――」
そう言いかけた時、彼の目にふとよぎるものがあった。
――いや、そうじゃないはずだ。
心の底から、そんな思いと共に沸き上がり、あふれ出したのは“キーパーソン”達の姿だった。
こちらを振り返り、名前を呼ぶ声。差し伸べた手に、重ねられた手。共に肩を並べ、苦難を乗り越え、同じ景色を見て歩いた日々。
彼らは、友達と言っても良い存在だ。
なのに自分は、彼らとの間にあったはずの思い出を、ことごとく失ってしまっている。
こちらを思い出せないのは向こうも同じとはいえ、このままで良いとも思えない。
それを改めて意識した彼は、ふと気づく。せっかく時間を貰えたのだから、この機会にはっきりさせるべきではないだろうか。
穴だらけのアルバムを埋めるべきピース。
天界なら、きっと彼らの所縁の品がどこかに残っているはず。自分の過去に、確かに彼らがいたという形跡を探すのだ。
思い立ったが吉日と、彼はまず神殿に併設された親衛隊の本部にある、自分の部屋に向かっていた。
エインシャントからの依頼を受けて天界と地上のエリアを往復する日々が始まる前は、ちゃんと隊長のためにあてがわれた自分の部屋で寝泊まりしていた。しかしここしばらくはずっと、夜勤にあたる隊員のために設けられた神殿内の詰所で休息を取っており、もう長いこと自分の部屋には帰っていなかった。
勢いよく木製の扉を開けた彼は、部屋の中から吹雪のごとく舞い出てきた塵をまともに吸い込んでしまい、むせてしまった。
反射的に後ずさるも、その彼の動きにつられて埃も一緒に辺りを舞い、どこまでもついてくる。
目を瞬かせ、手を顔の前で扇ぎ、ようやく室内の様子が見えるようになった。
「――え? うわ……」
出てきたのは、そんな言葉になりきらない言葉だった。
戸惑いと生理的な嫌悪が入り混じった表情を向けた先、そこには見事なまでにうず高く埃が降り積もった自分の部屋があった。
こんな廃墟みたいな部屋が自室のはずはない、そう思いたくなったが、扉にはちゃんと自分の名前が書かれてある。
灰色の積雪に覆い尽くされた室内。その景色を見ているうちに、思わずくしゃみを一つ。それから彼はこうぼやく。
「……どこから来たの? こんな、大量のホコリ……」
少しして、どこから引っ張り出してきたものか三角巾に割烹着、口と鼻もばっちり布で覆った姿でピットは部屋に戻ってきた。片手には箒と毛ばたきを束ねて持ち、もう片方の手には塵取り、足元にはバケツと雑巾まで控えていた。
部屋の窓を開け放ち、まずは毛ばたきを使って棚の上から机の上までの埃を落としていく。床でわだかまっている埃の塊と一緒にまとめて塵取りで回収し、ゴミ箱に捨てる。一度掃除を始めてしまうと細かいところも気になり始めてしまい、棚に置かれたものを一旦どけて、一段一段きれいにしたり、部屋の隅や窓の際まで雑巾を使って拭き取ったり、いつしか彼は徹底的に掃除に打ち込んでいた。
寝具を天日干ししに行く途中でようやく、本来の目的を思い出した彼は、毛布を手すりの適当なところに掛けると急いで自分の部屋に戻っていった。
「危ない危ない……」
最初から比べれば見違えるほどに綺麗に片付いた部屋で、彼は自分の持ち物を引っ張り出し、整理していく。
「――あれ? これ何の時のだったっけ……。あ、そうだ。地上界のダンジョンに潜ったときの地図だ。懐かしいなぁ、あの頃は自分で鉛筆で書きこんでたんだよな。……それとこっちは、トンカチ? あー、思い出した。またメデューサがイカロスを石にした時のためにって、取っといてたんだ。でも一個だけじゃどうしようもないよなぁ。あとで処分しとこう」
一つ品を見るたびにそれにまつわるエピソードを思い出し、当時のことに思いをはせてしまい、なかなか手が進まない。
地上界の怪物を浄化した時に、近くの村に住んでいた人間の幼子からもらったピットの似顔絵。聖なる不死鳥を退けた際に手に入れ、何となくきれいでそのまま持っていたフェニックスの羽根。銀河の海まで遠出した時に拾った、七色に光る星の欠片――
思い出を辿っていた彼の手は、ついに最後の持ち物に到達し、それをしばらく懐かしげに眺めたのちに脇へと置く。
「――これで全部……?」
がらんと空いた床を見やり、戸惑った様子でピットはつぶやく。
結局、彼の部屋にあったものは全てエンジェランドゆかりの品々であり、異国のお土産や、例えば写真やレコードのような――エンジェランドには無い文化の物などは全く見当たらなかった。
「まさか捨てちゃったのかな……」
そう眉根を寄せるピットだったが、本心からそう思っているわけではなかった。むしろ、あれほど親しみを覚える相手との思い出の品を、自分がそうそう簡単に捨てるとは思えなかった。何しろ自分の部屋には、本当に大事なものから、そうでもないものまで蓄えられていたのだ。そんな中から、まるで選び出されたかのように、キーパーソン達にまつわる品だけがきれいさっぱり消失している。
不在が一番厄介だった。
無いからといって、すぐに記憶の真偽を判定できるわけではない。女神に悟られることなくピットの記憶を操作できるほどの存在であれば、思い出の物品を消失させたり、テレポートさせることだってできるかもしれないのだ。
しかし、だとしたらあまり気分の良い話ではない。侵略を免れていると思っていたここにも、敵の手が伸びていることを意味するからだ。
掃除ですっかり埃を被ってしまった彼は一旦、天界温泉に行く。気を取り直して次に向かったのは、神器を保管している倉庫。
倉庫とは名前が付くものの、天界のそれは、まるで宝物庫のような趣で作られている。小高い天井からは柔らかな金色の光が降り注ぎ、大路のように広い通路と、左右の壁際に架けられた神器を厳かに照らしている。
ここに集められた神器はほとんど全て、ピットが収集したものである。
今でこそ、使い勝手の良い数種に限ってここから呼び出しているが、かつては一気に種類の増えた神器を前に、とっかえひっかえ自分に合うものを探して試し撃ちをしたり、少しでもカッコいいもの、強いものを求めて神器を融合させたり、宝箱を探したりしたものだ。
そんな努力の結晶が詰まった保管庫を歩きながら、ピットは少しでも見慣れない武器が無いかと注意深く観察していた。もしもキーパーソン達のいる世界で手に入れた武器があるのなら、それは今の自分にとっては『見慣れない』ものとして映るはずだ。
狙杖に神弓、破掌に衛星……一つ一つつぶさに見ていったものの、やはりここでも“見知らぬ物”は無いようだった。
とうとう突き当りまで到達し、最も大事な神器が飾られている広間に辿り着く。
ここまで続いてきた大路をも越える幅を持つ、円形の広場。そこに飾られているものは、言うまでもなくエンジェランドに由来するものだ。したがってキーパーソンとの思い出を引き出す助けにはならないだろう。ピットは早々とそう判断して引き返そうとする。
が、ふとその眉間にしわが寄ったかと思うと、彼はその表情のまま、後ろを振り返った。
自然光の差し込む大広間。
中央に安置されているのは、巨人の鎧かと見紛うほどに巨大な、ひとつながりの白亜の神器。そしてその手前には、黄金色の鎧と鏡の盾、翼を象ってほの青く輝く光、そして光を宿した神弓。
新旧揃い踏みの“三種の神器”は、女神が施した結界に守られ、新品同然のつややかさをもってそこに佇んでいた。
それを見つめていたピットの心に、ようやく浮かんだのはこんな言葉だった。
――いつの間に直してもらったんだろう……?
かつてパルテナに復讐心を抱き、天界を攻め落とした闇の女神メデューサ。これを退ける際に活躍した三種の神器は、冥府神ハデスの前では歯が立たず、たった一発の光線により、見るも無残に破壊されてしまった。そこでピットは神器を司る神ディントスの下を訪れ、彼が課した試練を乗り越えて、乗り込み型の巨大神器、“真・三種の神器”を手に入れた。これをもってようやくハデスに食らいつくも、激闘の中で神器を構成するパーツは徐々に失われていった。ピットは最終的に、砲塔パーツのみを抱えて戦い、ボロボロの状態でありながらもなんとか勝利を収めることができた。
要するに、どちらも、戦いの末に壊れてしまったはずなのだ。
パルテナが有事に備えてディントスに依頼し、修理してもらったのだろうか。
ピットは訝しげな顔をして首をかしげ、広間に背を向けてまた元の道に戻っていく。
これで自分が収集した物品があるはずの場所は、全て見終えてしまった。
結局、キーパーソンにまつわる品々は欠片も見当たらず、彼らとの思い出が本物だと裏付けてくれるような証拠も見つからず仕舞いだ。
自分に残されているのは、彼らの名前と顔に対する既視感。それからその周辺に、頼りないほど微かな見覚えがある程度になってしまった。
急に心細さを覚えて、彼は天井を振り仰ぐ。
「参ったな……」
ため息交じりに呟いた言葉が、辺りに淡く反響した。
自分は何を信じれば良いのか。何を信じて、この先の行動を決めれば良いのか。
かつてなら、何の迷いもなくパルテナの指示を仰ぎ、彼女が示した指針に沿って動いていたことだろう。
パルテナは光の女神であり、神の大半がそうであるように、あまりにも長期的で広範な視座を持つ。今までにも、多少納得のいかない指令や、意図の分からない任務を下されることもあった。ピットは親衛隊の隊長となって長いものの、女神の思うところをすべて理解できるわけではない。ただ、彼女の指し示す道がいずれは人間のためになっていることは疑いようもなく確信していた。だから疑問を投げかけることはしても、その指示に背くことは一度もなかった。
だが今回は少し事情が違う。
パルテナの指示の裏には、明らかにエインシャントの意向がある。しかも見たところ、彼女は彼の言うことにほとんど疑義や意見を差し挟まず、ただ右から左へピットに受け渡しているようなのだ。
ピットが現在の任務に疑いを持ち始めたころ、それを見透かしたかのようにやってきたブラックピット。彼が言った言葉を思い出す。
『お前が守るべきはあの女神だ。だが女神が信じたからって、お前が理由もなしに信じることを強制されたわけじゃない。むしろ、疑ってかかるべきだ。あいつがうまく言いくるめられて、騙されてる可能性だってあるんだからな』
彼があの言葉を言ったのは、ピットを惑わすためではない。面と向かって指摘すれば彼は否定するだろうけれど、あれは言うまでもなく親切心からの忠告だ。自分の半身ともいえる彼が、ピットと同じくパルテナの身を案じているのはよく知っていた。
ブラピはあの時、続けて“パルテナが操られている可能性”にも言及していた。
その後ピットは注意して女神の様子を見るようにしたが、今のところ、『混沌の遣い』に乗っ取られた時のような言動の変化は全く見られない。
先日も、詰所の仮眠室で寝落ちしてしまった天使を起こすために、わざわざ『音響の奇跡』を使ってまで死神の叫び声を再現するという、なんとも寝覚めの悪いイタズラを仕掛けてきたくらいだ。女神の再三の呼び出しにも気づかず、泥のように熟睡していたこちらも悪かったが。
むしろ平常通りともいえる彼女の様子からすると、つまりパルテナは自らの意思でエインシャントの依頼に協力している、ということになる。
だとすればなおさら、一度、どこかエインシャントのいないところでじっくりと話を聞きたい。女神は何を思い、何を憂えてエインシャントの計画に賛同したのか。あるいはその裡に、何を秘めているのか。だが、この調子では休暇中にその機会は得られそうにない。
そうこうしているうちにエインシャントがやってきて渡航許可を下し、また自分を天界から追い払ってしまうことだろう。
誰でも良い。誰かの意見を聞きたい。また任務に忙殺されてしまう前に、自分の置かれた状況を客観的に見てほしい。
心の内でじりじりと焦燥を募らせていたピットの視界に、その時、一つの神器が映った。
バラの棘にも似た鋭さの、赤黒い爪が備わった射爪。その甲には青紫の花びらをもつ花があしらわれている。
明らかに自然物をモチーフとしており、光の女神が好むところとは少し異なる趣向のデザイン。
「そうだ。ナチュレなら――」
自然を司る女神、その名を呟いて駆けだした。
だが彼は、神器保管庫を出たところではたと我に返り、踏みとどまる。
“自然王”ナチュレは人間を嫌っている。人間は生き物でありながら自然の摂理から外れ、食物連鎖の理を無視しているとの主張だ。彼女はその主義に則り、かつては人間たちの居場所を無理やり“森に帰す”という荒療治までやってのけ、人間を寵愛する光の女神に対して真っ向から喧嘩を売ってきた。それをきっかけに、ピットはパルテナの命の下、ナチュレの率いる軍勢に立ち向かうことになった。
その後、紆余曲折がありつつも互いに矛を収めることになり、今では自然軍とは無期限の休戦状態にある。
だが、彼女らと自分たちは主義主張も異なっている。接点があるとすれば、ピットの写し身ともいえるブラックピットが、半ば押しかけ同然に自然軍の幹部に収まっていることくらいだろう。
共闘したのも、オーラムや冥府軍という共通の敵があったときだけだ。
と、そこまで考えたところでピットの頭に思い浮かぶものがあった。
――でも、今もある意味『共通の敵』がいるんじゃないかな……?
対象が神やその従者であっても、記憶を操作し、全く気づかせないままに所有物を隠すことができる何者か。
ありとあらゆるエリアをむさぼり食らい、今や誰にも妨げられることなく略奪の限りを尽くしている亜空軍。
そのどちらか、あるいはどちらもが、自然軍の領地を一部奪い、幹部の一人をエリアに閉じ込めていた。慈しみ守る対象が違えども、自然と大地を護る彼女にとって脅威でないわけがない。
しかしどうにも最後の踏ん切りがつかず、ピットは腕を組み、呻吟しながら迷っていた。
その彼の白い翼に、不意に淡い緑の輝きが灯る。
当の本人が違和感を覚えて顔を上げた次の瞬間、翼が勝手にはためいたかと思うと、有無を言わさぬ勢いで体を引っ張り上げ、あっという間に青空の彼方へと連れていった。
悲鳴をあげながら飛ばされていく天使。
彼の翼を操っている者はあまり真剣に操縦しようというつもりがないのだろうか、彼の身体は斜めに傾ぎながら右に左に回転し、ひと時も落ち着くことがない。ピットが叫ぶのも無理もなかった。
天と地が目まぐるしく入れ替わる視界に、稲光のような輝きが走った。晴れているはずなのにと思う間もなく、稲妻は収束し、快活そうな女性の姿を取った。
ピットと並走して飛びながら、彼女は可笑しそうに笑っていた。
左右に跳ねた明るい金色の髪、青いマフラーを風になびかせて、自然軍の幹部が一人、“電光のエレカ”はピットに問いかける。
「あら! 珍しいお客さんね。もしかして転職希望?」
「そんな、わけ、ないでしょ!」
空中でもみくちゃにされながらも、ピットは必死の思いでそう返す。
彼女の言葉からすると、この近くに自然軍の拠点があるらしい。とすると、やはりピットを連れ出したのは――
『わらわが招いてやったのじゃ』
くるくると回る視界の中、行く手の空に大きく投影されたのは自然王の姿。幼い見た目で一丁前に大ぶりの杖を持ち、偉そうに腰の横に手を当てて立っている。
『心の中とはいえ、わらわの名を呼びまくっていたからのう。うるさくて敵わんから、呼びつけてやったのじゃ』
それを聞き、隣を飛ぶエレカが茶化すように囃し立てる。
ピットはムッとしてこう言い返した。
「そんなに、しつこく、呼んでないよ!」
しかし、これを聞いたナチュレは茶化すようににやにやと笑うだけだった。
『ほう! 呼んでいたことは否定しないんじゃな』
緑豊かな浮遊大陸。空を飛ばされて来た天使は、群生する巨大植物の葉の上に無造作に落とされた。
弾力のある葉にあっちへこっちへと跳ね返されながら森の中を落ちていき、最後は太いツタを滑り台のようにしてぐるぐると滑り降り、どさりと地面に下ろされる。
「――絶対わざとでしょ……」
あちこちぶつけてしまったところをさすりつつ、ピットはのろのろと立ち上がる。
ブラックピットの飛翔の奇跡は今ではナチュレの手によるものだが、彼が飛んでくるときはこんなにひどい“運転”ではない。
辺りを見渡した彼の目に映ったのは、何もかもが桁外れのサイズに育った植物たち。草花でさえこちらの背丈をこえ、木々に至ってはあまりの巨大さに、見た目から梢の先がどのあたりにあるのか検討をつけることすら難しい。
まるで自分が小人になってしまったようだ。あるがままの自然を至高とする自然軍にはお似合いの拠点と言えるだろう。
コツコツと軽快に杖をつきながら歩いてくる音が聞こえ、ピットはそちらに顔を向けると、改めてこう言った。
「ナチュレ。僕を呼びつけて、いったい何の用なの?」
紅色のロングドレスを着込んだ小柄な女神。金色の長い髪をまとめて片一方に垂らし、植物を象った冠を戴いている。見た目こそ十歳にも届かない少女に見えるが、神々の一柱であることは疑いようもない。その堂々たる立ち居振る舞いは、幼い外見にそぐわないほどの威厳を放っていた。
その彼女が、口の片端を得意げにつり上げて一つ、鼻で笑う。
「強がるでない。わらわにはお見通しじゃ。――大方、何か大きな悩みがあるも、そなたの主人が取り込んでおって話せずにいたのじゃろ? そうでもなければ、光の女神に首ったけのそなたがわらわに頼ろうなんぞ、天地がひっくり返っても思うはずがなかろう」
しかしピットも負けてはいなかった。
「それで呼んでくれたの? ナチュレってやっぱり、何だかんだ言って優しいとこあるよね」
そうからかうと、ナチュレは虚を突かれたように目を丸くした。
「な……勘違いするでない! そなたがまるで末成りの瓢箪みたいに萎れた顔をしておったから、冷やかしてやろうと思っただけじゃ」
「はいはい、そういうことね」
「まったく。他神のことを小馬鹿にしおって」
彼女はため息をつき、踵を返すと肩越しに振り返ってピットを手招きした。
「ほれ、客間に案内してやる。付いてくるがよい」
ナチュレが先導して歩いていくと、森の巨大な植物たちは自ら彼女に道を空け、お辞儀をするように葉と茎を傾げていった。
ピットがふと気になって後ろを見ると、二人が通り抜けた後はまた元通りになっていた。最初から道など無かったかのように。
「――そういえば、ナチュレ」
「なんじゃ」
「君、サミット行かなくて良いの?」
ピットのこの言葉に、ナチュレは少しして合点がいったようにピットを見上げた。
「……あぁ、それでパルテナがおらんのか。わらわは行かん」
「ああいうのに興味なさそうだもんね」
ピットが適当に相槌を打つと、彼女は聞き捨てならないというように片眉を上げた。
「何を言っておる。最初のうちは通っておったわ。だが他の神々があまりにもやる気がないのを見ているうちに、馬鹿らしくなってしまったのじゃ。自然を大切にしろと説くのなら、今も昔もやることは一つ。『ないがしろにする者には相応の報いを与える』。これに限る」
「でも折角ならサミットに行って、ポセイドンとか、自然繋がりで協力してくれそうな神様と組んだりすればいいのに」
「あいつは陸のことには興味を持たん。ちょっかい出されん限りはな。だいたい“サミット”と名前のつくくせに、なんじゃ、あのグダグダ加減は。いっそのこと力比べで決めてしまえば良かろうに。……そうじゃ! 各々代表者を立てて戦わせ、勝者が向こう四年間のエンジェランドの主導権を握るなんて良いアイディアではないか?」
「そんな『なんちゃらファイト』なんてしたくないよ。どうせ地上界がリングにされて、めちゃくちゃになるんでしょ?」
「ふむ、それは困るな。やるなら人間どもの街でやってもらわねば」
「それはこっちが困るよ。せめてここみたいに浮遊大陸を作って、そこで戦ったら?」
「これではちと強度が足りぬ。何せ神々が選りすぐった従者が戦うのだからな。特にそなたのような“武器庫”が暴れ回れば、こんな石くれなぞひとたまりもないであろう?」
その言い回しに思い出すものがあり、ピットはにやりと笑ってこう尋ねた。
「……あ、もしかして僕に“爆弾工場”壊されたの、まだ根に持ってたりする?」
しかしナチュレの方はむきになることもなく、ため息をついてこう返した。
「こういうのは根に持つとは言わん。“敵もさるもの引っ?くもの”。あれはわらわの油断が招いた負けじゃ。しかしピットよ、自惚れるでないぞ。先頭を走る者は常に、後続の者から弱点を探られ、虎視眈々と狙われる定めにある。生き残るためには走り続けなければならぬ。それが生きとし生けるもの全てに通ずる理じゃ。そなたの主にもそう伝えておけ」
最後の葉が道を空けると、出し抜けに巨大な空間が露わになった。
人の丈ほどもありそうな大きな落ち葉が降り積もった地面、その先には茶色のごつごつとした塔があった――いや、よく見るとその塔は、計り知れないほどの樹齢を持っていそうな巨木の幹だった。遥か頭上に木漏れ日の切れ目が風に吹かれて揺れるのを見ていると、自分がいよいよアリほどにちっぽけになってしまったような錯覚を覚えた。
「何を呆けておる。早う登って来い」
気が付くと、ついさっきまで前を歩いていたはずのナチュレの姿は消えていた。巨木の幹に生えた、これまた大きな平たいキノコ。自然王は、そこにちょこんと載せられたテーブルセットの椅子に座っているのだった。
巨大な落ち葉の海。一歩ごとに傾ぎ、沈み込みそうになりながらも乗り越えて、平茸から降ろされたツタの梯子を登り、ようやくのことで辿り着く。
流石のピットも息を切らせている一方で、ナチュレはすでに優雅に茶を飲み、お茶菓子代わりの果物をつまんでいるところだった。
天使が文句を言うより前に、彼女は澄ました顔でテーブルの向かいを指し、こう言った。
「ほれ。そなたの席はそっちじゃ」
指した先にあるのは、低すぎず高すぎず、ピットにとっては丁度いいサイズの椅子。石の上に分厚い苔が生した、“天然もの”の椅子だ。
だがピットは、ナチュレが座っている椅子を見て呆れた顔をしていた。自然王が腰かけているのは、緑の蔦が自然に絡み合ってできた、非常に背の高い椅子。石造りのテーブルもそれに合わせて片一方が高くなっているのだった。
「あのさぁ……自分が背低いからって、こんなにあからさまなのはかっこ悪くない?」
「あからさまに頭が高いのはそなたの方じゃ」
ナチュレは片手を腰の横にあて、背筋を伸ばして天使を見下ろす。
「よいか? そなたの目の前にいるのは自然を統べる『王』じゃ。いくらそなたらの贔屓する人間が賢しらに振る舞おうと、天然自然から切り離されては生きては行けまい。分かったのなら、少しは立場をわきまえよ」
「はーい……」
渋々ながら、ピットは席に着く。
いつぞやパルテナが『混沌の遣い』に乗っ取られ、行き場を失くしたピットを拾ってくれたのはナチュレだった。ただしその時は客人扱いはされず、あくまで一時的な身元預かりという待遇だった。一方で今回は少なくともピットの分のお茶が出されており、お客として扱ってもらえているのは分かった。今はあんまり話をこじらせず、女神の機嫌が続いているうちに、その気まぐれに乗せてもらうのが良いだろう。
内心でそう考えたピットは、お茶菓子が自分の方には用意されていないことにはつっこまず、テーブルの上に見える自然王の顔を見上げた。
彼女は組んだ手の上から、厳かな顔でこう言った。
「さあ、そなたの悩みを打ち明けよ」
が、すぐさまこんな注文を付けた。
「些細なことだったら許さんぞ。かと言って、長すぎるのもダメじゃ。わらわもヒマではないからな、簡単にまとめよ」
「簡単にまとめてっていうのが一番難しいんだよな……」
ピットは腕組みし、まず自分の中で順序だててから整理して、こう切り出した。
「僕は今、パルテナ様の命で『とても遠い土地』に出向いてるんだ。そこで特定の人に手紙を配るっていう任務なんだけど、手紙の文面を見ちゃいけないとか、必ず一度は僕の手から渡さなきゃいけないとか、変な縛りがある。それに手紙を配ったら何になるのかも教えてもらってない」
「あいつの秘密主義は今に始まったことではなかろう?」
「パルテナ様が与えた任務なら、僕もとやかく言わないよ。でも今回は違うんだ。エインシャントっていう、どこから来たのか、何者なのかも分からない人がパルテナ様にその話を持ちかけたんだ」
頬杖をついていたところから、ナチュレは訝しげな顔をして頬から手を離す。
「エインシャント? 誰じゃ、そやつは」
「僕も良くは知らないけど、少なくとも彼は自分のことを“ゲートキーパー”だって言ってた。エインシャントはパルテナ様の神殿にいきなり現れたんだ。しかも、招かれていないのに、だよ。きっと神々と同じくらいの力を持ってると思うんだけど、そうか……ナチュレも知らないのか」
「そやつがもしも神だったのなら、きっとこれまでわらわには縁の無い神だったのじゃろう。何しろエンジェランドにはありとあらゆる神が在るからなぁ。……そうじゃ、試しにそやつの恰好を言ってみてはくれんか? 何か思い出せるかもしれん」
彼女にそう催促され、ピットは腕を組んで記憶を掘り起こす。
「恰好は……そうだなぁ、背丈は僕よりも低くてずんぐりしてて、深緑色の服と帽子で全身をほとんど隠してる。顔は帽子で隠れてて真っ暗で、黄色く光る丸い目だけが見えてる。腕は無いのに、白い手袋をつけた手だけが宙に浮かんで――」
と、そこでピットはふと眉間にしわを寄せ、ナチュレを見上げた。
「あれ? そういえば、ブラピから何も聞いてないの?」
「いいや。あいつからは、ただ『暇を貰いたい』としか聞いておらん。あいつもそのエインシャントとやらと会ったことがあるのか?」
気にする様子もなく、あっさりとそう答える。
「ちょっと……ブラピは曲がりなりにも君の軍の幹部なんだからさ、もうちょっと気遣ってあげたらどう?」
「我が軍は『自主自立』がモットーじゃ。“自然軍”らしいじゃろ? 今のところは大地や自然に行き過ぎた被害も出ておらぬからな、幹部の皆にも自由行動を許しているのじゃ」
胸を張るナチュレ。それを見上げつつ、ピットは内心でこう考えていた。
知らぬ間に本来の拠点から連れ去られ、エリアに閉じ込められていたブラピ。仮に失踪の事情を聴かれていたとしても、彼は本当のことを説明しなかったかもしれない。きっと彼のことだから、ナチュレや他の幹部には弱みを見せたくないと思っているだろう。
彼が手紙を受け取り、エリアを脱出してから過ごした日々の長さを、たった一人で思い悩んだであろう時間の長さを思いながら、ピットは半ば心ここにあらずといった顔でハーブティーをすすっていた。
そこにナチュレの声が届き、彼は再び顔を上げる。
「まあ、エインシャントについてはひとまずそのあたりでよい。して、そなたの言う『とても遠い土地』とは何じゃ」
「何って言われても一言じゃ言えないなぁ……ともかく、色んな場所だよ。エインシャントは『エリア』って言ってるんだけど、パルテナ様でも奇跡を届かせられないくらいに離れた場所で、エンジェランドでは見たこともないようなものがあったり、全然知らない姿の人たちがいたりするんだ」
ピットの説明を聞き届けたナチュレは、少ししてふと合点がいったように膝をぽんと打った。
「――なんじゃ、そういうことか! そなたら、『あちらの世界』から召喚を受けたのじゃな?」
「『あちらの世界』……? ナチュレ、何か知ってるの?」
「知っておるも何も、ほれ、思い出さんか? 前にそなたとブラックピットが“混沌の狭間”に挑んだ時のことを」
「……ああ、そうだ。そこで出てきたコメトが、まるでメト――」
と言いかけて、ピットはそこでナチュレがこちらを軽く睨み、口の前で人差し指を立てていることに気づく。
「――そういえば、何で口にしちゃいけないの? あの時は確か、あっちの世界に干渉してはいけないとかなんとか言われたけど」
「あの時は説明どころではなかったからな、この機会に教えてやろう。『あちらの世界』とは要するに、わらわやそなたの主、その他エンジェランドの神々とは“縁の遠い”土地じゃ。それでも神は極めて寿命が長いゆえに、伝聞などでその遥か彼方の世界のことを知る機会もある。特にそなたの主パルテナは何の影響を受けたのやら、やたらと知識に貪欲でな、『あちらの世界』のことについても様々収集しておるようじゃ」
「確かに、よくエリアのことでアドバイスもらってたっけな……」
「そうして蓄積されていった神々の知識、そのほんの上澄みが、そなたらのような眷属にも『教養』として受け継がれているのじゃ。だからそなたもコメトを見て、メト……なんちゃらのことを連想できた。しかし、『あちらの世界』に行ってもそこがそうだと分からなかったということは、やはり耳学問は耳学問、ということなのかのう」
彼女の言葉に引っかかるものを感じ、ピットは首をひねる。
「分からなかったとも違うような……あ、でもその前に、干渉しちゃいけないのは何でなの?」
「焦るでない。それはな、干渉を繰り返すうちに、神格やそれに類するものが『変性』してしまうからじゃ」
ゆったりと腕組みをし、ナチュレはこう語りだした。
「『あちらの世界』は我等と縁が遠い。というのも、こことは世界の在り方がまるで違うのじゃ。環境も、生き物も、常識や文化もこことは全く違う」
ピットは自分の巡ってきた様々なエリアでの光景を思い出し、彼女の言葉に頷いていた。
ナチュレの語りは続く。
「したがって『あちらの世界』に深く関われば関わるほど、神やその眷属としての在り方は否応なしに変化していく。例えば、全く海の無い世界に海の神が訪れたならばどうなると思う? “水の神”みたいなとこに落ち着くならともかく、存在意義を失って自分で自分が分からなくなり、下手をすれば消失、ということだってあり得る」
「消失……?! 消えちゃうってこと……?!」
自然王は、ピットのその慌てぶりを面白がって笑う。
「そなた、パルテナのこととなると途端に目の色を変えるのう!」
ひとしきり笑ってから、彼女はこう続けた。
「まぁ、わらわが言ったのはあくまで『そうなるらしい』という、これまた伝聞の話じゃ。これまでにそうなった話を聞いたことはない。なぜなら、神々は各々の野心こそあっても全能ではない。身の丈以上のことは控えるのが賢い在り方だと知っておる。さもなくばハデスのように、脅威を感じた他の神々に、結託して叩かれてしまうからのう」
それを黙って聞きながらも、ピットの顔には内心のわだかまりが出てしまっていた。
――確かに他の神様に協力はしてもらったけど、実際に動いたのはほとんどパルテナ様と僕だけだったような……
彼のその表情には気づかず、ナチュレは先ほどの笑いを残した様子で果物をつまんでいた。
「それにそなたらは大丈夫じゃろ。何かとキャラが濃いし。それとも何か、自分で自分が変わった実感でもあるのか?」
軽い調子で投げかけられた問いに、ピットは思い出すものがあった。
「変わったっていうのとはちょっと違うかもしれないけど……最近、自分の記憶に自信が持てなくなってるんだ。あっちの世界で僕が手紙を渡す相手は、赤の他人じゃない。みんな僕に見覚えがあるし、こっちも彼らの顔と名前を知ってる。でも、どこで会ったのか、彼らと何をしてたのかが全然思い出せない。しかもお土産とかプレゼントとか、そういうものも天界に全然残っていなくて……。ナチュレの話を聞いたら、ますます自信が無くなっちゃったよ。今までは、あの人たちと本当に会ったことがあるんだって思ってたけど、もしかしたらそれは……勘違いっていうか……僕が『遠い世界』に関わって影響を受けたせい、だったのかな……」
テーブルの向こう側、いつしかナチュレは真剣な顔になってピットの話を聞いていた。
尻すぼみに消えた最後までを聞き届け、彼女は一つ考え深げに唸った。
「むぅ……興味深いことじゃな。顔見知りだと感じるところからすると、かなり個人的で主観的な印象、明らかに『教養』の範疇を越えておる。本当にそなたが“留学”していて、その記憶もゆかりの品も一切失われたのか、それともそなたの在り方が変性しつつあるのか……」
「僕は……自分は変わってない、と思う。でもどうなってたとしても、気づけないよ。自分じゃ変わったことに気づけないんだから、自分は自分だ、変わらないって、そう思うだろうし……」
いつになく訥々と答えたピットに対し、ナチュレはにやりと笑いかけてこう言った。
「安心せい。わらわから見てもそなたはほとんど変わってはおらぬ。相変わらず光の女神一筋で、他の神々への礼儀をちっとも知らぬ、向こう見ずの鉄砲玉じゃ」
「……ほとんど褒めてないよね?」
少しいつもの調子が戻ってきた天使に、ナチュレは一つ声を立てて笑う。
「公平かつ的確な評価じゃ。それにピットよ、相手もそなたのことを知っておるというのなら、やはり本当に会ったことがあると考えて良いのではないか?」
彼女の指摘に、ピットは顔を上げた。その表情には驚きと、少なからずの安堵があった。
それを見届けてから、ナチュレは落ち着き払った声でこう問いかける。
「――して、そなたはその見知らぬ知り合いに『手紙』を配っていると言ったな。それはどういうものなんじゃ」
「えぇと……見た目は本当に、何の変哲もない封筒なんだ。真っ白な紙で出来ていて、暗い赤色の蝋で封じられてる。最初は何も書かれてないのに、僕がキーパーソン――配る相手の名前を聞いたり、顔を見ると、その名前が浮かび上がるようになってるみたいなんだ」
「ほう、なかなかの技術じゃな。そなたの既視感に反応しているのか」
彼女は感心した様子でそう言った。
「僕としては最初から書いておいてほしいところだけどね……。それで、封筒の中には一枚の紙が入ってるんだけど、さっきも言ったように僕はそれを見ちゃいけないって言われてる。そもそも渡すべき人じゃないと白紙に見えるみたいだから、僕が見ても何も読めないんだと思う。でも読み上げられたのを聞くのは別に良いみたいだし、みんなの反応を見てたら大体どんなことが書かれていたのかも分かってるんだ。あの手紙には……」
次の言葉を継ぐ前に、ピットはつかの間ためらいを見せた。
パルテナに確認を取らないうちに、他の神に――これまでにエリアと関わったことのない相手に、世界に迫る危機を明かしても良いのかという葛藤。
しかし、彼は思い直す。ここまで来てしまったからには引きかえすことなどできない。
自然王を見据え、彼は再び語りだす。
「……あの手紙には、受け取った人が今暮らしている場所が、実は偽物なんだっていう“報せ”が書かれてる。キーパーソンや、彼らの身近にいる人間たちはみんな、本物そっくりに作られた箱庭みたいな世界、『エリア』に閉じ込められているんだ。ただ、手紙はそれに気付かせるだけみたいで、具体的に本当の世界がどこにあるのか、誰が彼らを閉じ込めたのかも書かれていない。そのせいかどうか分からないけど、キーパーソンには『下手に動くのは危ない』って考える人も多くて。……それに、たぶんエインシャントは手紙に書いていないところまで知ってる。なのにそれを敢えて書いてないんだ。それもこれも、キーパーソンのことを『情報』で釣って、上手く利用するため――」
言葉はそこで途切れて、ピットは唖然としてテーブルの上を見上げていた。というのも、その先に座っているナチュレの顔が、今にも吹き出しそうな表情で震えていたからだ。ピットの沈黙がとどめになったのか、ついにこらえきれずに彼女は失笑し、森中にこだまするような声で大笑いする。
ひとしきり笑い終えて涙をぬぐいつつ、彼女はこう言った。
「いやいや、これは傑作じゃ。そなたら、揃いも揃っていっぱい食わされたようじゃのう!」
「……え? いっぱい食わされたって……」
ぽかんと口を開け、ただ相手の言葉を繰り返すばかりのピットに、ナチュレはこう告げる。
「ピット。本物そっくりに作られた世界と言うが、世界をそっくり複製することなど不可能じゃ。まぁ、生き物としての勘が鈍りに鈍った人間には分からない程度のクオリティでなら造れるかもしれぬ。だとしても、なぜそんなものをわざわざ用意してやるのかさっぱり分からん。人間が邪魔なら追い出して、それで終わりで良いじゃろ。それよりは、本物の世界という“土台”があって、そこがあたかも偽物に見えてしまうような幻影を見せたり、嘘の情報で騙しているのだと考える方が筋が通っておる」
ピットはむきになって立ち上がり、彼女に言い返す。
「でも、僕はエリアをこの目で見た。この足で歩いたんだよ。あれは幻覚なんかじゃない」
「ほう、ではそれが偽の世界だという保証でもあるのか? 例えばエリアの中から、その端っこが見えたとか」
「あるよ。宇宙船で飛んで行ったら、それ以上進めない場所があったんだ」
「そんなもの、バリアでどうにでもなる。わらわが言いたいのは『世界の果て』じゃ。仮に箱庭の世界があるとすれば、その果てもあって然るべき。そしてそこから先は天も地もなく、光も闇もなく、ただ『無』だけがある。そなたが言う『エリア』とやらにいた時、そんな景色を見たことはあるか?」
「それは……ないけど」
彼は握りしめた拳の行き所を見失い、自信なさげに視線を落としてしまう。
確かに言われてみれば、自分がエリアを旅していた際に、あからさまな『世界の果て』を見かけたことは一度も無かった。内部から見た時には分からないようになっているのかもしれないが、そうだと言い切れるほどの具体的な証拠があるわけではない。
もちろん天界から俯瞰すれば、亜空間に取り囲まれた島々を見ることはできる。しかし、それらが今まで自分が旅してきた『エリア』と同一のものだという証拠はない。女神がそう言ったのを、真っ直ぐに信じていただけだ。
今、自分の手元にあるのは非常に抽象的で主観的な、印象と直感。エリアを見た時の、“どことなく不自然だ”という感覚。その第一印象のせいもあって、手紙を読んだキーパーソン達の言動を疑いもせず、そのまま鵜呑みにしていたのだと言われれば反論のしようもない。しかし、ほかならぬ“親しい友人”が言う言葉を、どうして疑うことができようか。
彼は半ば無意識のうちにのろのろと席に座りなおし、途方に暮れたように虚空を見つめる。
心の中で感情と理性がせめぎ合い、黙りこくってしまったピットの向かいで、ナチュレは悠々と腕を組み、胸を張る。
「では、決まりじゃな。やはりそなたらはエインシャントの与太話にまんまと乗せられておるのじゃ。箱庭など最初から無い。エリアというのは本当の世界が区切られただけの、ただの結界じゃ。キーパーソンとやらも、実はずっと本当の世界にいるのに、感覚を惑わされ、偽りの報せに踊らされておる。しかしエインシャントもよく考えたものじゃな! 人間が関わればパルテナも協力せざるを得まい。実に良いエサを用意したものじゃ」
彼女のこの言葉に、ピットはもう一度自分を奮い立たせる。
まだ彼女に伝えていないことがある。これを聞けば、きっとナチュレも危機感を覚えるはずだ。
「……エリアは本当にあるよ。君の方だって、ちゃんと地上を見てるの? 今、地上界には亜空間っていう闇が広がってて、その中に取り残された空間の島みたいなのが点々と散らばってる状態なんだ。それが『エリア』なんだよ。あったはずの大地は亜空軍に壊されたのか奪われたのか、どこに行っちゃったのかも全然分からない。しかも、亜空間は亜空軍のせいで広がりつつある。放っておけばここも飲み込まれるかもしれないんだ」
しかし、ここまでを言っても相手にはさほど響かなかった。
ナチュレは呆れたような顔をしてこちらを見おろしていた。
「何を寝ぼけたことを言っておる。亜空間に亜空軍じゃと? そんなもの見たことも聞いたこともないわ」
「そんなの君が知らないだけかもしれないじゃないか」
ピットがむくれてそう言うと、彼女はもったいぶって一つ咳払いをした。
「わらわは自然と共に生まれたようなもの。こう見えても神々として古株じゃぞ」
「だとしても、何もかも知ってるわけじゃない。君はエインシャントのこと知らなかったでしょ」
「知らないのではない、知る必要がなかったというだけじゃ。仮に木々や獣を脅かす惧れのあるものならば、わらわが記憶に留めぬはずがなかろう。そなたのところの『雑学王』がイレギュラーなんじゃ。……それに、百歩譲って亜空軍がいたとして、ここを攻めるのならとんだ命知らずとしか言いようがないわ。ここには数多の神々が住まうのじゃ。ちょっとでも脅かそうものなら、森に獣、海に空、あらゆるものが牙を剥くであろう」
「そんなの、亜空間が相手じゃどうしようもないよ。海も空も何もかも、君が言うところの『あらゆるもの』を飲み込んでしまうんだから」
「ますます怪しくなってきたのう! そんな『ぼくがかんがえたさいきょうのなんとやら』みたいなもの、実在するならとんでもないことよのう。そんなものがなんで、今になって動き出すんじゃ」
ナチュレはすっかり面白がって笑うばかり。
「闇の海に浮かぶ、かりそめの世界か。まさしく泡沫のようじゃのう」
くつくつと笑いを挟み、彼女はピットに向けてこう言ってきた。
「一万歩譲ってそんなものがあったとしよう。だがそうだとしても、わらわにはやはり、そなたが今まで旅してきた場所こそが『本物』だとしか思えぬ」
「なんでそう思うのさ」
「その方が理屈が通るからじゃ。考えてもみよ、そなたが手紙を配ることで、『あちらの世界』の人間たちは己の暮らす世界が偽物だと思うようになったのじゃろう? して、亜空軍とやらは地上界を食い荒らしておる、と」
彼女はそこでテーブルに肘をつき、組んだ手に顎を載せてピットを見下ろした。
「――だとすれば、こうも考えられるのではないか? 自分のいる場所が偽物だと思わせることで、今後、亜空軍に攻められたとて本腰を入れて守ろうとは思えなくなる。そなたが手紙を配ることは、やがて無抵抗で本当の世界を明け渡させるための下拵えになってしまったのやもしれんぞ」
自然王のこの言葉はさりげない口調であったが、ピットの心には鮮明に、雷鳴のようにとどろいた。
「そん……な……」
思考が真っ白になり、無意味に空回りする。
彼女の推理には筋が通っていた。キーパーソンと呼ばれる人物は、各々その『エリア』で最も腕の立つ人物であったり、周囲の人間から厚い信頼や親愛の念を得ていたり、あるいは何かしら秀でた才能を持つ人々であることが多い。実際にキーパーソンを複数名抱えていた『反乱軍』は、各地で亜空軍の侵攻を食い止めていたと聞く。それほどの知恵や力を有した人物は、亜空軍にとっては邪魔でしかないはず。だから彼らに『そこは偽の世界だ』と吹き込み、各々の暮らす場所の防衛に疑念を抱くような状態にしてしまうことで、侵略を容易く行えるようにしていたのだとすれば――
しばらく何も言い返せずにいた彼だったが、やっとのことで自分を奮い立たせ、こう返す。
「――そんな、あり得ないよ。エリアの方が本当の世界だなんて。だって、時間が巻き戻っていたところだってあったんだよ? 本物の世界でそんなこと、できるわけないじゃないか。それに君は他人事みたいに言ってるけど、ブラピだって偽物の世界、エリアに閉じ込められてた当の本人なんだよ! 自主自立も良いけど、生存確認くらいはしなよ。僕のおかげで見つかったようなものの……」
しかし、彼が言い終わらないうちにナチュレはきょとんと目を瞬き、こう口をはさんだ。
「何を言っておる。あいつはずっとここにおったぞ」
「えっ……? いや、そんなわけないよ。僕が手紙配りに行った時、ブラピのいたエリアには君や他の幹部なんていなかった。せいぜい他の兵士達がいたくらいで……」
ピットはそこで、見上げる先のナチュレの顔がにやにや笑っていることに気が付いた。
言葉にはしていないものの、明らかにその顔は、ピットが一杯食わされただけだと言いたい様子だった。
むきになって、ピットは席を立つ。
「じゃあ僕についてきてよ。君だってその目で見たら信じるよね、地上が“暗闇”に覆い尽くされそうになってるってこと」
「よかろう。ま、大方そなたらの目に幻術が掛けられているんじゃろう。わらわが解いてやらんこともないぞ」
ナチュレはそう言って、椅子を構成するツタに掛けてあった杖を手に取り、ゆらりと振った。
辺りの植物が呼応するようにざわめいたかと思うと、ひとりでに伸びあがって絡み合い、彼らがいる平茸のバルコニーからまっすぐに降りていく道を作り出した。
ナチュレが座っていた背の高い椅子、それを構成する植物がゆるゆると引っ込んでいき、彼女は難なく平茸の上に降り立つ。
「では、案内せい。その橋を伝っていけば浮遊島の端まで行けるからな」
「ご親切にどうも」
ピットはそう言って、緑の橋を降りていく。
が、中ほどまで降りたところでふとその足が止まった。彼はわずかに目を見開き、行く手を凝視していた。
ものも言えずにいる彼の代わりに、ナチュレが天使の背後から、笑みを含んだ声音でこう言う。
「おや、そなたは招いておらんぞ」
植物で出来た緑の橋。そのたもとに一筋の神々しい光が差し込んだ。清らかな輝きの中から現れたのは、緑色の髪をなびかせ、後光のように翼を広げた光の女神。
彼女はふっと笑い、ナチュレにこう返した。
「自然王ともあろうお方が誘拐ごっことは、穏やかじゃないですね」
口こそ笑みを浮かべているものの、その瞳には冷静な光があった。
二人の神々。彼女らの間にある空気が、沈黙のうちに徐々に張り詰めていく。
間に挟まれる形となったピット。プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも勇気を振り絞り、彼は己の主に声を掛けた。
「パルテナ様、あの……これには訳が……」
しかし、意外にもあっさりと――それでいてきっちりと、パルテナはこう言ってピットの言葉を遮った。
「よいのです。気にしていませんよ」
彼女が杖を掲げると、巨大樹の樹冠を貫いて暖かい光が降り注ぎ、ピットの全身を包み込んだ。いつも地上界から帰還する際に掛けてもらう奇跡と同じだ、と思う間もなく、彼の身体は光の源に引っ張られるようにしてふわりと浮かび上がり、吸い込まれていった。
視界を占めていた光が薄れ、気が付くと彼はすでに居るべき場所――天界の神殿に帰されていた。
そこは神殿の外れ、地上界を一望できる広場。
空はいつの間にか暮れかかり、黄色から橙赤色までの色合いに美しく染め上げられている。
ナチュレとのやり取りで内心恐れていたものの、雲の切れ間から見える地上の景色は何一つ変わっておらず、漆黒の海と色鮮やかな島々が薄紫色の雲の下に見えていた。
「ピット。遅くなってしまってごめんなさいね」
パルテナの声に、天使は慌てて後ろを振り返る。女神はこちらに笑いかけていたものの、辺りを照らす斜陽のせいか、どこかその笑みは哀しげにも見えた。
「そんな、謝るのは僕の方です……! まさかナチュレがあんなに地獄耳だとは思ってなくて……」
弁解するピットに、光の女神は静かに首を横に振る。
「いいえ、私が言いたいのは昨日今日のことではないのです。……円滑な任務遂行のためにやむを得ないことだったとはいえ、あなたには何も語ることができず、辛い思いをさせてしまいました。しかし、あなたが数多くのエリアを巡った今であれば、私が知ったことを幾つか明かしても差し支えないでしょう」
柔らかく微笑み、彼女は天使に問いかける。
「さあ、ピット。何から聞きたいですか?」
「あの――」
聞きたいことは山ほどあった。それが一気に押し寄せて、彼はかえって何も言えなくなってしまった。
強いて気持ちを落ち着け、心の中でざわめく声の中から、自分が今一番聞きたいことは何なのかを選り分ける。意識の端、どこかで緑衣の目が光っていないかという思いがよぎったが、ここまで来てしまったからには、聞かせてやれば良いのだと思いなおす。
それから彼は再び顔を上げ、こう問いかけた。
「――パルテナ様は、『亜空軍』のことをご存じでしょうか」
「ええ、もちろん」
即座に返されたのは、思いもよらぬ肯定の言葉。
ピットは愕然とし、目を見開く。
「えっ……そっ、それじゃあ、エインシャントのことも……地上が虫食いだらけになったのが亜空軍のせいだってことも、最初から……知っていて僕に……。パルテナ様、なぜ僕に命じてくれなかったんですか? 亜空軍を“浄化”するのですって……」
焦りと驚きから、ほとんど問いの体を為さなくなってしまった彼の言葉を、女神は遮ることなく最後まで聞き届ける。
それから、彼の狼狽がいくらか収まった頃合いを見て、落ち着いた口調でこう言った。
「今、あなたがすべきことは亜空軍の浄化ではありません」
「そんな――僕では勝てないってことですか?」
ピットのその言葉に、女神はふと可笑しそうに微笑む。
豊かな緑の髪を揺らし、彼女は広場の端へ歩み寄る。
「ピット。こちらへ」
彼女の後を追い、ピットも雲海に載せられた石畳の縁まで行く。
パルテナがその手にした杖で指した方角。そこには地平線の果てにまで広がる暗紫色の闇――よく見ると、ぽつりと青い輝点があった。
青い輝きは縦に細長く、さらにその中心やや上辺りには赤い輝きが内包されていた。言うまでもなく、あれは亜空軍の首領、タブーだろう。
ピットが下げた手を静かに握りしめた一方、パルテナはこんなことを告げた。
「彼らもまた、キーパーソンと同じ。今はただ、定めに縛られた存在でしかないのです」
一瞬遅れ、ピットは戸惑い気味に顔を上げる。
「“定め”? それっていったい……」
亜空軍がキーパーソンと同じ、と言われたが、ピットにはどこが同じなのか全く分からなかった。片や、空間そのものを奪う加害者であり、片や、あるべき世界を奪われた被害者である。共通点を探し出すのが難しいくらいだ。
彼の内心の困惑を察した顔で女神は頷き、それから眼下に広がる暗闇の海を手で示す。
「――ピット。あなたはこれまでに数多くの『エリア』を巡りました。そこであなたは何を見て、何を思いましたか?」
緑色の瞳を向けられ、ピットははたと我に返る。
記憶を整理するようにふと目を伏せ、それから彼は再び女神を見上げる。言葉に迷い、躊躇いながらも訥々と語り始めた。
「僕は……色んな人が――人間の姿をしてない人も、みんなが、どこか不自然な世界で暮らしているのを見てきました。同じ戦争が何度も繰り返されている世界や、昔は平和だったはずなのに、今では大量の侵略者であふれかえっている世界だったり、パレードやスポーツの試合、すべてが時計仕掛けみたいに毎日毎日きっちりと動いていた世界も……。そこで暮らす人間たちを、僕は『助けたい』と思っています。そしてそれ以上に、キーパーソン達のことが心配で……あの人たちは、なんだか他人とは思えないんです。きっと僕は、昔どこかであの人たちに会ったことがあるんです。向こうも僕らのことをどこかで知っていて、でも、それを何者かに忘れさせられてしまったみたいで。どうすれば良いのか分からない、手紙を配ることがその役に立つのかも……でも……僕は、彼らを助けたい、あの状況から救いたいんです」
ピットの言葉を、思いを最後まで聞き届け、パルテナは微笑みと共に頷いた。
「――今であれば、あなたにも話してよいでしょう」
光の女神は、改まった様子で従者に向き直る。
ピットも我知らず背筋を伸ばし、彼女の言葉を待つ。
「……ピット。私の願いも、あなたと同じところにあります」
はっきりと伝えられた言葉に、ピットは僅かに目を丸くした。
「同じところ……。もしかして、パルテナ様もキーパーソンに見覚えがあるんですか……?」
女神はこれに対し、微笑みと共に頷いてみせた。
「ええ。ですが、私のモチベーションはそれを越えたところにあるのです。――ピット。かつて、最初にエインシャントさんがここを訪れた時のことを覚えていますか? あの時、私はエインシャントさんの案内で一度ここを離れましたよね」
「はい。……なかなか帰ってこないから、心配してました」
パルテナもピットのあの時の様子を覚えていたのだろう、口元に手を添えて可笑しそうに笑う。
「ふふ、そうでしたね。あの時は一日がかりになってしまいましたから。でも、一日でも足りないくらいだったのです。何しろあの時、私はエインシャントさんの案内で全てのエリアを視察していたのですから」
この言葉に、ピットは目を丸くする。
「――えっ?! パルテナ様、僕よりも先にエリアに行ってたんですか? じゃあなんで、『向こうに何が待ち受けてるのかも分からない』なんて言ったんですか? 僕の気を引き締めるため……?」
「それもありますが、あれは私の本心ですよ。全てのエリアを巡ったとはいえ、それはほとんど横目に見て通り過ぎるようなものだったのです。何しろ――あなたは身に染みて理解していることでしょうけど、厖大な数のエリアがありましたからね。しかもエリア内の物事には干渉しないよう、私達はいわば『透明人間』のような状態で、エリアのごく限られた領域を垣間見ただけに過ぎません」
そこで彼女は、杖を持った手の仕草で地上の方を見るように促した。
「――実際にその足で歩き、その目でつぶさに見てきたあなたなら、私が言うまでもなく分かっていたでしょう。あれらは『あるべき姿ではない』世界なのです」
「あるべき姿ではない、世界……」
「そう……しかし大部分の人間たちは記憶を消され、感覚を狭められ、それに全く気付いていません。このままでは、彼らは本来あるべき発展から遠ざけられ、無意味な反復を繰り返し続けることでしょう。ですから、まずは『最初の一歩』として、キーパーソン――気づくことのできる人々に、然るべき報せを届ける必要があるのです。彼らが本来いた世界は、エリアと別にあるのかもしれませんし、あるいはエリアこそ、変わり果てた『本当の世界』なのかもしれません。いずれにせよ、このまま何もせずにいることは私の望みではないのです」
地上に憂いの眼差しを向ける、光の女神。
ピットは隣でその横顔を見ているうちに、自分の中で安堵の念が湧き上がると共に、一つの確信が定まるのを感じていた。
――パルテナ様は大丈夫だ。操られていたわけじゃない。
人間を見守り、恵みの光を与え、過度な干渉になりすぎないようにしつつも、助けるべきと決めた時には手を差し伸べる。彼女のその在り方は、これまでと変わるところがない。やはりエリアにおける人間に対しても、エンジェランドの外の存在とはいえ、危機にあると知ったからには救うべきと考えていたのだ。
彼らの置かれた状況を見過ごすことはできない。親しみさえ感じる人々が、何者かに騙されたままになるのは許せない。
ナチュレの言ったように、もしかすると自分たちはその心をエインシャントに利用されているのかもしれない。だがもしもそうだと分かったのなら、女神の加護の下、キーパーソン達と立ち上がれば良いのだ。
「パルテナ様……僕はやります。今からでもエリアに向かわせてください!」
「良い面持ちになりましたね。でもピット、残念ながらもう今日はあなたを飛ばすことができないのです」
「――あ、そうか、さっきナチュレに飛ばされたから……」
自責の念から、がくりと肩を落とすピット。
「それにいずれにしても、まだエインシャントさんから手紙をいただいていませんからね。今日のあなたは、どうやらいつも以上に頭を使ったようですから、ゆっくり休んだ方が良いですよ」
にっこりと笑って、光の女神はそう言った。