気まぐれ流れ星二次小説

星は夢を抱いて巡る

第6章 魔術師 ③

 

 

 

心機一転。

朝の天界、澄んだ空気の中、石畳を軽やかに駆けていく天使の姿があった。

晴れ渡った青空を眩しそうに見上げ、走っていく先には白い石造りの建造物、主なる女神の住まう神殿が堂々たる佇まいで待ち受けていた。

 

守衛の隊員たちが敬礼する横を、彼らに敬礼を返して走り抜けていくピット。

イカロス達は隊長の顔がこれまでにないくらいやる気に満ち溢れ、張り切っていることに気づき、珍しそうにその後ろ姿を振り返っていた。

そんな隊員たちの視線には気づくことなく、彼は白亜の廊下を駆け抜けて、謁見の間に辿り着く。

膝をつき、首を垂れてから彼は顔を上げ、女神に向けて声を掛ける。

「親衛隊隊長ピット、ただいま参りました!」

彼が跪く入口から絨毯を辿った先、広い階段を上ったところに立ち、パルテナは従者に向けて頷きかける。

「ピット、こちらへ」

階段のふもとまでやってきた天使に、パルテナは改めて向き直るとこう告げた。

「先ほどエインシャントさんから渡航の許可と、配るべき手紙をいただきました。準備ができ次第、目的のエリアに向かいなさい」

杖をゆったりと振ると、ピットの頭上に光が灯り、それは肩掛けカバンの形を取って降りてきた。

もはや習慣となった動作で鞄を肩にかける。その蓋を開け、エインシャントのバッジを取り出そうとしたところで彼はふと気づき、こう言った。

「……あれ? 今回は一枚なんですか?」

「そのようですね」

そう答えた女神は、ピットが眉根を寄せていることに気が付く。

「あら、どうしたのですか?」

「なんか嫌な予感がするんですよ。手紙が一枚ならすぐに終わるだろうって思うじゃないですか、でもそうじゃないことの方が多いんです。この間なんか、途中で配る相手が増えましたし。……そうだ、パルテナ様、今回の助っ人の人数はご存知ですか?」

「ええ。一人と聞いてますよ」

これを聞き、ピットは用心深く腕を組んで考え込んだ。

「配る相手が一人に対して、助っ人一人……あり得るラインだけど、少し手厚い気もする。やっぱり警戒した方がよさそうだなぁ……」

「あなたもだいぶ慣れてきたようですね。あなたの予想通り、実は今回向かってもらうエリアは、エインシャントさんの予測で『最高レベルの危険』があると出ているのです」

「えっ……さ、最高レベル……?!」

思わずたじろいでしまったピットだったが、首を振って不安を追いやり、女神に強気の笑みを見せる。

「き、きっと大した事ないですよ。今まであの人の予測が当たってたことなんて無かったですし……!」

「あら、頼もしい言葉ですね。……でも、ピット。笑顔が引きつってませんか?」

「そりゃ最高レベルなんて頭についてたら気にはなりますよ……」

「それはそうですよね。なんでも今回のエリア、エインシャントさんの話では『入り込んだ者は誰一人として帰ってきたことがない』とか」

澄ました様子でそう言った女神を見上げ、ピットは思わず内心の驚きと恐れが顔に出てしまっていた。

それでも、帰還に関しては問題ないはずだ。自分にはバッジがある。

――エインシャントを当てにするみたいでなんだか癪だけど……こうなったら利用できるものは利用してやらなきゃ!

そう心の中で決め、亜空軍の意匠が施されたバッジを手に取ると、勢いに任せてそれを装着した。

自分を鼓舞するために片手をしっかりと握りしめ、パルテナにこう宣言する。

「……僕はやります。まだ見ぬ友人のため、エリアに閉じ込められた人間たちのために!」

その姿を、女神は微笑ましく見守っていた。

「ええ。よろしく頼みましたよ」

 

 

 

転移の門を潜り抜け、次に目を覚ました時、随分懐かしい感覚があることに気が付いた。

まるでサイズの合わない他人の鎧を着せられたような感覚。

頭上に広がるのは青い空。そして、目の前で動いているのは自分の腕ではなく、やけに細く、茶色い枝のような“肢”。

「こ、これはまさか……」

肩口の辺りから、パルテナの声がふと思い出した様子でこう言ってきた。

『ある日の朝、目を覚ますと自分が一匹の虫になっていた――そういうお話があった気がしますね。確かその結末は……』

「そんな、初っ端から不吉なこと言わないでください!」

 

その後、慣れない六本の肢を動かして何とか起き上がろうとしつつ、彼は女神と話を続けていた。

『今回あなたに与えたのは“変身の奇跡”というものです。慣れないでしょうけれど、そのエリアにいる間は解くことができませんから、辛抱してくださいね』

「どうして、解くことができないんですか?」

背中の甲が邪魔でほとんど曲げられない腹を何とか苦労して曲げようとしつつ、ピットはそう問いかける。

『どうも、そのエリアに入るためには“あるルール”に従う必要があるようなのです。そのルールにそぐわないものは、そもそも入り込むことすらできないとか。そしてエインシャントさんによると、あなたが任務を遂行するために適した“外見”は、その甲虫だというお話で』

「えぇ……? 嫌がらせとかじゃないですよね。僕が急に休み取ったからとか」

ピットはついに背中の羽を片方だけ突っ張る、という方法で体を横に傾け、腹ばいになることに成功する。しかし、その目線で見えるものは自分の背よりも高い野草ばかり。

『そんな様子は無かったですよ。むしろあなたのことを心配して、本当に頼んでも良いのかと聞いてきたくらいですから』

「本当ですか? 僕には何にも言ってなかったのに……そのくらいの気遣いができるなら、直接僕に一言欲しいところです」

『あなたがつんけんした態度を取るから、あの方も遠慮しているのではないでしょうか』

「そんな、反抗期の子供がいるパパじゃないんだから……」

ピットがあきれた声で呟くと、通信の向こう側で女神も笑っていた。

その笑い声にノイズが混じった気がして、ピットはふと顔を上げる。

「――どうしたんですか、パルテナ様。今テレパシーが乱れたような……」

『あら――? こちらからも聞き取りにくく――ってきましたね。これはおそらく――妨害――けている――』

「大丈夫ですか、パルテナ様!」

『――、途切れたりもしてるけど、私は元気です――こちらは大丈夫――あなたならばやり遂げられます。幸運を』

女神の声はそれを最後にふつりと聞こえなくなってしまい、ピットがどれほど呼びかけようとも返事は帰ってこなかった。

そもそもこの姿ではほとんど首を横に動かすことができず、肩に例のバッジがついているのかも確かめられない。

――通信ができたり、奇跡を掛けられたならきっと付いてるはずだけど……どうにも心細いなぁ……。

溜息を一つつき、ピットは六本の肢をなんとか操りながらもたもたと進み始めた。まずはここがどこなのかを知るところから。そのためには、少しでも見晴らしの良いところに登らなければならない。

その時、ピットは自分の足元がわずかに揺れていることに気が付いた。

誰かが歩いてくるようだ、と思う間もなく、こんな声が聞こえてくる。

「ピットさーん! どこにいるんですかー?」

聞き覚えのある少年の声。

「この声は――」

急いで記憶を掘り起こし、ピットはこれに応じて声を張り上げる。

「リュカ君! ここだよ、ここ!」

「えっ、どこですか……あれ? もしかして」

草むらがガサガサとかき分けられ、金髪のくせっけの男の子が顔を覗かせる。

つぶらな瞳をきょとんと瞬いている彼に、

「やあ、久しぶり」

と前足を振って見せると、少年は笑顔になった。

「わぁ、ほんとにピットさんだ。今日はカブトムシなんですね!」

「まことに不本意ながらね……」

そう言いながらも、ピットは内心でエインシャントに愚痴を言う。

――ほんとにこの姿じゃなきゃダメだったの? リュカ君の方はそのままなのに……

「リュカ君。君から見て、どう? 僕って完全にカブトムシに見える? つまりその、バッジとか鞄とか、やっぱり見当たらないのかな」

「えぇと……そうですね。見たところ……」

こちらの全身を上から眺め、リュカはそう答えた。

「どうしよう、また失くしたパターンなのかな……」

ため息をついたピットに、リュカは難しい顔をして考え込みながらこう言った。

「もしかしたらですけど、見えないだけかもしれません。例えば『鞄のようなもの』を想像して、そこに『手を伸ばす』イメージをしたらどうかな……」

彼の言う通りに、とりあえず目をつぶり、自分が元の姿だと言い聞かせながら動作を行ってみる。

すると、どういうわけか、次に目を開けた時にはカブトムシの爪で封筒をしっかりと持っていた。

「おぉ、取り出せたよ!」

また同じようにイメージしつつ、封筒を再び想像の中の『鞄』に仕舞う。

それから次に、ピットはこう頼んだ。

「悪いけど、このままだと動くのもままならないから、君の肩か頭に乗せてもらっても良いかな」

これを聞き、リュカはもちろんというように頷いた。

「横から掴みますね」

少年の両手がそっとこちらに近づき、両脇から抱えられて持ち上げられる。足をたたんでじっとしているうちに、右肩のところにたどり着いていた。爪で服の生地を掴み、正面を向くために方向を転換すると、こちらの足がくすぐったかったようでリュカはくすくすと笑った。

「ごめんね、あまり動かないようにするから」

「ピットさんも、手が疲れたら言ってくださいね。……あれ、この場合は足なのかな」

 

リュカがしゃがんでいたところから立ち上がると、それにつれてピットの視点も一気に高くなった。

吹き抜ける風に波の音が微かに聞こえて、ピットはふと気づく。

「ここは……岬?」

「そうみたいです。でも僕もさっきここに着いたばかりで、よくわからなくて」

「あそこに一軒、家があるけど……ただの売り家みたいだね」

彼らの見る先に建つのは、赤い三角屋根の家。隣の大きな看板には『くちばしみさき不動産』の広告文が書かれてある。おそらく不動産会社のセールスマンらしきおじさんも近くに立っているが、明らかにこちらを客だとは思っていないらしく、手持無沙汰そうに向こうの方角を眺めている。

ちょっとこの辺りのことについて聞いてみようかと、ピットが提案するより前に、リュカが動いた。

「あの、すみません。ここは何ていうところですか?」

山高帽を被ったスーツのおじさんは、軽く驚いた様子でこう返した。

「――えっ? 君、地図かなんか持ってないのかい? ここはオネットのくちばし岬ってところだよ」

「オネット……」

ぽつりと繰り返すリュカ。その横から、ピットはおじさんに向けてこう尋ねる。

「その地図ってどこで貰えるの?」

すると、おじさんは目を丸くし、慌てた様子で辺りを見回し始めた。

「い、今の声、誰だい? 君しかいないはずなのに……」

リュカがピットの方に顔を寄せ、小声でこう伝える。

「――ピットさん。今のその姿だと、話したら驚かれるかも……」

「あ、そっか……」

 

 

その後、セールスマンのおじさんから市立図書館で地図がもらえると聞いたリュカは、まずは図書館のある市街地へと向かうべく、岬から続く森の小道を歩いていた。

彼の肩に掴まって運ばれつつ、ピットは先ほどのやり取りを思い返していた。

草原でリュカと出会ったときに感じた、ほんの少しの違和感。それがさっきの会話を見ているうちに、一つの確信になりつつあった。

間違いない。前に会った時に比べて、彼の雰囲気が明らかに変わっている。

 

リュカの暮らす『エリア』を訪れたのはだいぶ前、ピットが今の任務を始めてそれほど経っていない頃。それこそ、マルス達のいた“イルーシア”での任務を完了した後のあたりだった。

あの頃の自分は、まだ手紙を配るということがどういうことなのかも意識しておらず、キーパーソン達に対して見覚えがあることにも気が付いていなかった。

それでも――いや、だからこそ、あの時の出来事は深く印象に残ることになった。

 

 

 

飛翔の奇跡が続く限り海の上を飛び、ようやく水平線の向こうから見えてきたのは、二つの山がそびえたつ絶海の孤島だった。

海に面したのどかな村、タツマイリ村に降り立った天使。さっそく聞き込みを始めようと思ったところ、珍しいことに住民の方から声を掛けられた。

「えぇと、ナントカさん! 久しぶりだねぇ。久しぶりすぎて名前を忘れちゃったよ。ごめんね」

ずいぶん親しげに話しかけられたものの、ピットの方はさっぱりその人物に見覚えがなかった。その後も、木造の家が建ち並ぶ村を歩いていると、いくらかの住民から同じように声掛けをされ、そのたびに適当に調子を合わせて挨拶をしていた。

いつかここに訪れたことがあったのだろうか、と訝しみながらも聞き込みを続け、ピットは『この島に遊びに来た人はみんな、オソヘ城のクマトラ姫、ドロボー親子のウエスとダスター、そして何よりあのフリント一家に会いに行く』という情報を得る。

姫や泥棒親子の方には封筒が反応しなかったので、ピットは消去法から、まずフリント一家の暮らす家に向かうことにした。

 

集落のある辺りを抜け、潮風を受けながら緩やかな登り坂を登っていくと、岬の上に立つ大きな一軒家が見えてくる。家の隣に何かの小屋もあるようで、風に乗って、干し草と家畜のにおいも流れてきた。

海に面した側に玄関があるようだ――と思っていると、家の方角で勢いよく扉の開く音がした。

「いってきまーす!」

やがて家の陰から飛び出してきたのは、オレンジ色の髪の少年。前髪が逆立つように持ち上がった特徴的な髪型。着ている服は横縞の半袖シャツに紺色の短パン、肩には棒きれを担いでいる。

家の敷地を走り抜け、下り坂に差し掛かったところで彼はこちらに気づき、立ち止まった。

「――ん? お兄さん、何か探しもの?」

「僕、フリントっていう人の家を探してるんだ。この島に来た人がみんな行くところだって聞いてて――」

ピットの言葉を最後まで聞き終わらないうちに、少年はパッと顔を明るくしてこう言った。

「分かった、リュカに会いに来たんだ! 待ってて、今呼んでくるから!」

くるりと踵を返し、少年は坂を駆け上っていく。

一方、取り残される形になったピットはきょとんと目を瞬いていたが、はたと我に返って封筒を取り出した。そこに確かに『リュカ』の名前が出ていることを確認し、ほっと安堵のため息をつく。

「今回はあっさり終わっちゃいそうだな……」

キーパーソンを迎えに坂を登っていく。

家の方からもこんなやり取りが聞こえていた。

「リュカ、いつまで食べてるんだよ!」

これは先ほどの少年の声だ。

「さっき食べ始めたばっかりだよ……」

眠そうな声がそう答える。

「起きるの遅いからだぞー! ほら、リュカに会いに来たって人が外にいるんだ。早く会いに行ってあげなって」

「僕に会いに来た人? わ、押さないで――」

「ご飯は逃げないから、別に後でもいいだろ? ほらほら」

「もー、分かったから引っ張らないでよ、クラウス」

彼らの親らしい大人の笑い声も聞こえてきた。

やがて、再びオレンジの髪の少年が姿を現した。今度はもう一人、背丈も恰好もそっくりな少年の手を引っ張っている。連れてこられた金髪の少年は、まだ眠そうに目をしょぼつかせており、寝ぐせのついた髪をもう一方の手で直そうとしていた。

「ほら、あの人だよ。――お兄さん、リュカ連れてきたよ!」

「ありがとう」

クラウスと呼ばれていた少年の後ろ、連れてこられたリュカはそこで初めてピットの存在に気が付く。

「……」

途端に眠気も吹き飛んでしまったようで、彼はしばらく何も言えずにピットの顔を見上げていた。

それに気づき、クラウスが後ろを振り返った。

「どうしたんだ、固まっちゃって」

「……あ、ううん、何でもない……」

リュカは首を横に振り、一歩前に進み出た。

「あの……僕に、何か用ですか?」

兄弟と比べると内気そうな顔をした少年。

ピットの方も歩み寄り、鞄から一通の封筒を取り出した。

「君に届けたいものがあるんだ。君宛のおしらせだよ」

「僕に手紙……?」

自分の名前が書かれた封筒を受け取ると、リュカは封蝋をめくって開け、中の手紙を取り出した。

文面をうっかり見てしまわないようにピットがそっと後ずさる一方で、クラウスの方は自分も手紙を読もうとリュカの隣に身を寄せた。

クラウスは、少しして訝しげに眉間にしわを寄せる。

「なんだこれ? なにも書いてない……」

しかしそこで、何かを察したかのようにはっと身を起こす。彼が見つめる先には、手紙を持ったまま動けないリュカの姿。

金髪の少年は明らかにその目に恐怖を浮かべ、手紙に書かれた“何か”から目をそらせなくなっていた。

「リュカ――」

心配した兄弟が声を掛けた矢先――

 

雷鳴がとどろき、稲光が岬の小屋を貫く。

裂けた木材が飛び散り、破片が坂の方にまで降り注ぐ。毛並みが黒焦げになった羊が慌てふためいて逃げ惑い、その場にうずくまって震える。そうこうしている間にも羊小屋についた火は次第に燃え広がって、曇り空の腹を赤く焦がし、ぶすぶすと黒い煙を立ち昇らせていた。

その様を見上げていたピットは、不意に後ろに人の気配を感じて振り返る。そこには、黒焦げの小屋を見物するかのように立ち止まり、小手をかざしている人の姿。そしてその向こう側、先ほど通ってきたのどかな集落はどこにも無くなっており、自動車の走る近代的な町並みが森の向こうに垣間見えていた。

 

その光景は、瞬きをしている間に消え失せてしまった。

小径の向こうにあるのは元の木造の家並みになり、コンクリートの道や、排気ガスを出して走る自動車はどこにもいなくなっていた。岬の上の羊小屋も、何事も無かったかのようにそこに建っていた。

一体さっきの光景は何だったのか。ピットが呆然と立ち尽くしていると、自分の腕に何かがぶつかった。

見ると、リュカがこちらの横を通り過ぎ、村の方角に走り去っていくところだった。彼はその手にあの封筒を、きつく握りしめていた。

服の布を引っ張られて、ピットはそちらに目を向ける。クラウスが服の裾を手でつかみ、こちらを睨みつけていた。

「おい、リュカに何したんだよ!」

「ぼ、僕はただ――」

狼狽えてしまい、ピットはそれしか返すことができなかった。

クラウスは天使がそれ以上何も知らないことを悟ったのか、『もういい』というように裾を放し、自分も兄弟を追って走っていってしまった。

 

遠ざかっていく双子の背中を、ピットはしばらく何もできずに見送っていた。

遅れて我に返ると、彼は急いでバッジに触れ、その向こう側に呼び掛ける。

「エインシャントさん! 今、手紙は渡せたんですが、その子がショックを受けてどこかに行っちゃって……」

通信の向こう、エインシャントはいつもと何ら変わらぬ穏やかな口調でこう言った。

『問題ありません。ここでの任務はこれで達成ですよ』

「えっ、任務って、扉をくぐるまで見守るんじゃないんですか……?」

『“ここ”の場合は手紙を渡せば、それで大丈夫です。お疲れさまでした、ピットさん。パルテナさんをお呼びしましょう』

「大丈夫? ほんとに……?」

呟いたが、それはほとんど独り言だった。

 

 

 

思えば、あの時が一つのきっかけだったかもしれない。

それまでの任務で出会ったキーパーソンは比較的年齢が上だったせいもあり、ここまで激しい反応を見せられたことはなかった。だがそれはもしかしたら、彼らの年齢や立場から来る自制がそうさせていただけであり、彼らも内心ではあのくらいの衝撃を受けていたのかもしれない。

それほどショッキングな『報せ』をいきなり見せるのは、正しいことなのだろうか。

あの日からピットは徐々に、自分の与えられた任務に対して懐疑的な視線を向けるようになっていった。

 

またそれと共に、あの時、結局後を追えず仕舞いになってしまった少年のこともずっと記憶のどこかに残り続けていた。

キーパーソンに見覚えがあると気づき、しかも彼らがただの人ではなく顔見知りであること、かつてどこかで共に暮らし、共に力を合わせて戦ったこともあるらしいことを知り、それもあってリュカにあの時、一言でも声を掛けていればと悔やむようになっていた。

 

こうして再び会えた彼が、ピットが何かするまでもなく立ち直っていることに気づき、ピットは安堵していた。

しかし同時に、立ち直ったこと以外にも、前に会った少年とは何かどこかが違っているような気がしていた。

違和感の源を探ろうとリュカの横顔を眺めていると、その視線に気づいた様子でリュカが首を巡らせた。

「どうしたんですか?」

「あ、いや……あの後、大丈夫だった?」

おずおずと聞く。リュカにはそれだけで伝わったらしい。彼は安心させるように一つ頷いてみせた。

「はい。……やっぱり全部、ちゃんと済んでたんです。あれは僕の見ていた夢じゃない。みんな……みんな、もう大丈夫だったんです」

そうはっきりと答えた彼の顔つきは、やはりあの時に比べても少ししっかりしているように思えた。

 

 

森の小道を抜けると、そこには不動産屋のおじさんが言っていた通りの市街地が広がっていた。

立ち並ぶレンガ造りの建物、コンクリートで舗装された道路、行きかう色とりどりの車、歩道を歩いていくたくさんの人々。

「わぁ……」

すっかり圧倒されてしまった様子で、リュカが思わず声をもらす。

ぽかんと口を開けたままのリュカ。その肩口につかまっているピットは、辺りを歩く人の多さを見てこう言った。

「これは聞き込みのやりがいがあるね」

その言葉を聞き、リュカはふと思い出した様子でこう聞いてきた。

「そういえば、お手伝いって何をすれば良いんですか? 今日はピットさんの仕事を手伝うって聞いてたんですけど」

「僕の仕事はいつも同じだよ。そのエリアのキーパーソンを突き止めて、手紙を渡すんだ。キーパーソンには色んな人がいるけど、だいたいどのエリアでも有名人ってところは一致してる。だから、まずは辺りの人間に聞き込みすることから始めてるかな。この辺りで一番有名な人は、ってね」

そう手短に説明してから、彼は幾分声を落としてこう続ける。

「これっていつもは僕の役目なんだけど、今回は君にお願いしなきゃいけないかも。さっきみたいに驚かれちゃうからね」

それを聞き、リュカは笑顔をみせて頷いた。

「分かりました。僕、やってみます」

 

それほど背の高い建物は無く、さほど大きな都市ではなさそうに見えるものの、オネットの町を行き交う人々はどことなく忙しそうな雰囲気だった。

リュカが呼び止めてものを尋ねようとしても、しばしば手短な挨拶だけを残して去られてしまう。それでも根気よく人を捕まえて質問をするうちに、少しずつ情報が集まってきた。

「すみません。この辺りで誰か有名な人っていますか?」

黒いスーツを着た男はこの問いに、ちょっと笑ってこう答える。

「ここはのどかで慎ましやかな町……まぁ、言ってしまえばイーグルランドの田舎町だ。そんなタレントみたいな人はいないよ」

また別の人は、こんなことを言っていた。

「有名な人っていうか、名物はあるね。オネット警察の道路封鎖さ。今日もやってるみたいだし、見に行ってみたら?」

色黒でモヒカン刈りのおじさんからは、こんな話を聞けた。

「ツーソンなら心当たりあるな。なんとか幼稚園ってとこのポーラって娘がなんだかとにかくすげぇって話だ。……何がどうすげぇのかって? あ、そこんとこは聞いてなかったな」

しかしピットは“ポーラ”という名前に聞き覚えはなく、封筒にも反応は無かった。

 

町の人々はリュカの質問に答えながらも、興味津々に、あるいはさりげなくちらちらと、肩に乗っているカブトムシ――ピットの方を見ていた。

おおむね男の人や子供たちはそういう反応だったものの、女性受けはあまりよろしくなかった。

リュカに声を掛けられて振り返った厚化粧のおばさんは、こちらを見るなり黄色い悲鳴を上げた。

「きゃーっ! あ、あなた! か、肩に、あ、あ、あれが乗ってるわよーっ!」

「……あれって、あのあれですか?」

「そうよ、あのあれよ!」

「大丈夫です、あれじゃないです。……ほら、ツノがあるでしょ?」

リュカがそう言うと、おばさんは恐る恐る、遠目からこちらを眺める。

「――あらほんと。あれじゃなかったわ」

このやり取りを聞かされていたピットは、リュカに聞こえる程度の小声でこう呟く。

「なんで『あれ』で通じてるの? そもそもあれって何?」

リュカから答えが返ってくる前に、おばさんがまだ用心深く距離を取りながらこう言ってきた。

「あれじゃなくて本当に良かったわ。でも、急に羽を広げて飛びかかってきたりしないでしょうね」

「はい。僕の友達なので」

「――虫がお友達なの? そう……」

リュカがあまりにも真っ直ぐな目をして答えたので、おばさんはかえって何も言えなくなってしまった様子だった。

 

それ以降は、なるべく女の人は避けて聞き込みを続けることにした。

「最近、何か大きな事件とか、ありませんでしたか? この町じゃなくても、もっと前のことでも、何でも良いので」

リュカにそう聞かれ、Tシャツの若者はこう答えた。

「あるよ、目の前に。君、カブトムシが肩に乗ってても気にしないなんて、よっぽどおおらかなんだね。あるいは無類の虫好きってやつなのかな?」

また、別の人は秘密めかしてこんなことを打ち明けた。

「実は……この間ラッキーサンドを食べたら当たりが出たんだよ。ほんとに存在するのか疑いかけてた頃なんだけどね。苦節一か月、毎日食べ続けてようやく……え、そういうやつじゃないって?」

そんなに特ダネが気になるなら新聞でも読んでみたら、と言いかけた人は、ふと帽子のつばを上げてリュカを眺めた。

「そう言えば君、なんだかあちこちで聞き込みしてるようだけど……もしかして新聞記者か何かなのかい? てっきり学生かと思ってたけど、若く見られるタイプだったりする?」

そしてある人は、首を傾げつつこう言った。

「どうだろうな。特に何かあったってわけでもないな。近頃はシャーク団もすっかり大人しくなったし」

「シャーク団……?」

「三度の飯より悪ふざけが大好きな、典型的不良少年どもだよ。前まではゲームセンターを根城にして、我が物顔で暴れてたんだ」

 

“シャーク団”という集団はよほど有名だったのだろうか、オネットの誰に聞いても知らない人がいないくらいだった。

「そうそう。やつらの暴れっぷりったらすごかったな。道行く人に難癖付けて突っかかるわ、町外れの小屋を勝手に荒らすわ、車道を占拠してスケボーだのホッピングだので遊び回るわで、警察が手を焼いてたくらいだが、どうやらボスのフランクをこらしめたヤツがいたらしい。それで悪さをやめたって話だ」

「そのフランクっていう人をこらしめたのは誰だったんですか?」

「さぁ……そこまでは知らないなぁ。今はフランクもすっかり心を入れ替えて大人しくなったし、聞きに行ってみたらどうだい?」

 

 

町の人にゲームセンターの場所を聞き、リュカはその方角に向かって歩いていた。

その肩につかまって運ばれながら、ピットは短い首をひねって考え込んでいた。

「悪い子をやっつけたってねぇ……いまいちインパクトに欠けるなぁ」

そう呟いていたピットは、リュカの肩に緊張が走ったことに気が付き、目の前に注意を戻す。

見ると、建物の壁に寄りかかり、へんてこな恰好をしたティーンエイジャー達がこちらを見てにやにやと笑っているのだった。頭のとんがった目出し帽を着けていたり、あるいはサメのヒレみたいなものが付いたヘルメットを被っていたり。彼らはフラフープやスケートボードを小脇に抱えていたが、沿道では遊ばないようにしているようだった。

「おい、チビ助!」

「昆虫博士!」

そう冷やかし、ゲラゲラと笑っていたが、それ以上は何もしてこない様子だ。

リュカの方はこういう雰囲気にあまり慣れていないらしく、あまり目を合わせないようにしながら足早にそこを通り過ぎていった。無理もないかもしれない。彼が暮らすタツマイリ村は小ぢんまりとしていたから、ああいう不良少年の居られるたまり場などはなかったことだろう。

 

ゲームセンターの扉を押し開けると、賑やかでせわしない音の洪水に包み込まれた。

照明の抑えられた店内には箱型の機械が並び、四角く光る画面にはシューティングや格闘ゲーム、リズムゲーム、落ちものゲーム――様々なゲームが映し出され、遊んでくれる人を誘うようにちかちかと動いていた。

シャーク団の不良少年はここにもたむろしていたが、壁に寄りかかって炭酸飲料を飲んでいたり、ゲームに夢中になっていたりと、他の子どもたちとそう変わらない様子でゲームセンターを利用している。

音と光の目まぐるしい乱舞に気圧されていたリュカだったが、ここに来た目的を思い出し、壁際に立つシャーク団の若者に声を掛ける。

「お兄さん、シャーク団ですよね? ボスの人って、ここに来てますか?」

「――あ? お兄さんだと? ハッ、面白いこと言うじゃねーか、チビ。ボスに会いに来たってことはお前、仲間に入れてほしいってか? ま、使いっぱしりくらいにはなりそうだよな」

肩を震わせて笑い、それから彼はこう言った。

「お前、ツイてるぜ。フランクさんは今日はバイトが非番の日だからな。ほら、通んな」

そう言って彼は退け、背後にあった扉を押し開けた。

どうやらその扉は非常口だったらしい。扉の先は外に通じており、木製の塀に囲まれた中庭が広がっていた。

 

中庭にはサンドバッグやスピードバッグ、ベンチプレスと、様々なトレーニング用具が置かれていた。晴れた日は心地よいだろうけれど、雨の日は一体どうするのだろうか。

中庭の中央、今もサンドバッグにジャブを打ち込んでいるのは、真っ赤なスポーツウェアを着込んだ金髪の男。トレーニング中だというのに、真っ黒なサングラスをかけている。そして彼もまた、サメの背ビレのような形に髪を整えていた。あれがフランクで間違いないだろう。

男は非常口の扉が開いたことに気が付き、こちらを振り返った。

「――ん? なんだ、入団希望者か。悪いが新規の入団は受け付けてないぜ」

「入団じゃなくて、フランクさんに聞きたいことがあって……」

「なんだインタビューか? まだデビューもしてないうちにそんなことあるわけないよな。おっと、まずあんた、聞きたいことがあるんなら名を名乗りな」

「あ、あの――リュカです」

「フランクだ」

彼はこちらまで歩いてきて、ごついオープンフィンガーグローブをつけたままの手を差し出し、握手をした。

「見たところ、お前はスポーツ記者じゃないようだな。ましてやスカウトでもない。何を聞きに来たんだ?」

「えぇと……噂で、あなたに勝った人がいるって聞いたんですが、それが本当のことなのか信じられなくて……」

リュカが慎重に言葉を選びつつそう尋ねると、フランクは口の片端を上げてにやりと笑った。

「今のおれを見たら信じられねぇだろうな。だが、本当だぜ。……かつてのおれは、自分が無敵だと自惚れていた。が、そうじゃないってことを思い知らされたのさ。おれよりも強いヤツにな……」

「――それ、誰だったんですか?」

「あれは男同士の、サシの勝負ってやつだ。部外者にはそう易々と語れねぇな」

 

フランクの口は予想以上に固く、結局それ以上は何も分からずに終わってしまった。

トレーニングが途中だからと帰されてしまったリュカ達は、思い切ってゲームセンター周辺のシャーク団にも聞き込みを行った。だがボスを倒した『強いヤツ』に関する情報は聞けず、リュカはピットと共にすごすごとゲームセンターを後にする。

「はぁ……名前さえ分かればなぁ」

リュカの肩から青空を見上げ、ピットは嘆息する。

「そうじゃなくても、住んでる場所とか、特徴とか知りたかったんだけど。――まあでも、少なくとも男だってことは分かったよね」

ピットの言葉に一つ頷き、リュカも考え深げな表情をして同じ空を見上げていた。

「あんなに強そうなお兄さんに勝ったなんて、どんな人なんだろう……」

 

 

町の人が言っていた通り、オネットの道路はところどころ封鎖されていた。それもやけに気合いが入っており、車道はパトカーでふさぎ、歩道にはバリケードを置き、警戒にあたるお巡りさんは必ず二人以上という念の入れようだ。

図書館につながる北の道まで封鎖されており、リュカ達は途方に暮れてその手前で立ち止まっていた。

警察官の一人に事情を尋ねると、彼は胸を張ってこう答えた。

「ちょっとでも何かがあれば問答無用で道路を封鎖する。それがオネット警察さ」

どこか自慢げにも見えるような態度だった。

「何かって、何があったんですか?」

「ん? それは君、えーと……そう、治安維持だよ治安維持。治安はいついかなるときでも守られるべきものだからね」

そう言った彼の肩を、もう一人の警察官が小突く。

「なんて言って、お前また署長の話聞いてなかったんじゃないの?」

「なんだよ、お前だって寝てたじゃないか」

言い返された方は咳払いで誤魔化し、リュカに向けて改めてこう言った。

「――ともかく、ここは当面通行禁止だ。分かるかい? 安全が確認されるまで通っちゃダメってことだよ」

 

通してくれないものはひとまず仕方がないと、二人は引き続きオネット市街地を歩き回っていた。

バーガーショップにドラッグストア、ホテル、市役所……オネットにある建物をひとしきり巡り、二人は聞き込みを続けた。

この辺りに有名な人はいるか、最近大きな事件は無いか、そうでなくても何か変わったことはないか。

だが、手ごたえは相変わらずだった。

「縁起でもないわ。事件なんて、無いに越したことないじゃないの」

「さぁてねぇ……」

「有名人に会いたいなら、フォーサイドに行ってみれば?」

「そんなことより君、学校はいいのかい」

「オネットは今日も相変わらず。良くも悪くもって意味で」

「なぁ、坊や。こんな田舎に何を期待してるんだい?」

 

聞き込みが一向に進展のない一方で、二人は、周辺の地理にだけは少しずつ詳しくなってきた。

市街地の南にはオネット市外に抜ける道が、北には郊外に続く道がある。だが、その南北の道どちらもが封鎖されている。街の西には鬱蒼と木々の生い茂る森が立ちはだかっており、東にはリュカ達が到着したくちばし岬しかない。

四方の選択肢をふさがれ、二人はともかく歩いて行けるところを隈なく回ろうとしていた。そもそも、そうするしかなかった。

道行く人に声をかけ、訪問者を招き入れてくれる民家にも足を踏み入れ――だがやはり、返ってくる答えはどれも似通ったものでしかない。

オネット警察の道路封鎖をコッソリ抜ける方法はないか、とまで聞いてみたが、諦めた方が良いと言われてしまった。なんでも、オネットの警察官は道路封鎖にある種の誇りを持っており、並大抵のことでは突破できないという。さらには署長を筆頭として警察官は皆マーシャルアーツを極めているらしく、治安維持に必要とあらば関節技をきめられたうえで警察署に連行されてしまうんだとか。

ただ、あくまでそれらは噂に過ぎないと、教えてくれたちょび髭のおじさんはそう付け足した。

「誰も試した人がいないからね。だってそうだろう? 痛いのはもちろん、警察さんのお世話になるなんて、誰だってイヤなんだから」

 

とうとう二人は、地図を貰うまでもなくオネット市街地の様子がすっかり頭に入ってしまったような気になってきた。

「ここで家は最後だね……」

リュカの肩に掴まり、ピットはため息交じりにそう言った。

その言葉にリュカは残念そうな顔をして頷く。

「街には抜け道も、トンネルも、線路も無いって言われましたよね……。あとは森を抜けるしかないのかなぁ」

そう言いながら、最後の扉をノックした。

「どうぞ、はいって!」

家の中からおじさんの声がそう応えた。

扉を開けると、まず目に入ったのは手作りの屋台。でかでかと書かれた“HINT 5$”という文字。屋台は木製で、塗装すらされていない。木目を生かした素朴な造り、と言えば聞こえは良いが。

先ほど声をかけてきたおじさんは屋台に立ち、店主然としてこちらを待ち受けている様子だ。

それを見ているうちに思わず声に出してつっこみそうになるのを、ピットはぐっとこらえてから心の中でこうつぶやく。

――でもさ、屋台って普通屋外に置くものだよね…?

二人そろって怪訝な顔で眺めていると、やや髪の後退したおじさんは威勢の良い声で開口一番こう言った。

「ちょっと待った! ヤングマン!」

「ヤングマン……?」

おじさんの勢いにたじろぎつつも、リュカがそう繰り返す。

「そう、そこのヤングマン。君の他にいないじゃないか。君はいかにもヒントが欲しそうな顔をしている」

「えっ! なんでわかったんですか?」

「そりゃあおじさんも商売だからね。ほら、これ。ヒントって書いてあるだろう?」

頭上の看板を指さし、それからおじさんは自慢げに腕を組むとこう言った。

「今なら君に、たった35ドルで素晴らしいヒントをあげよう」

「ドルって何ですか?」

きょとんと目を瞬いてリュカが尋ねると、おじさんはあっけにとられたような顔をした。

おじさんが何かを言う前に、ピットは急いでリュカに耳打ちする。

「お金の単位の一つだよ」

「えっ……ここ、おカネが必要なんだ……名前が違うから、DPじゃきっとだめですよね」

小声で相談していると、ヒント屋のおじさんは残念そうなため息をついて肩をすくめ、こう言ってきた。

「あらま、どうやらお金が無い、と。でも、ただでヒントをあげるわけにはいかないんだ。もしもヒントが欲しいなら、どこかで工面しておいで」

 

ヒント屋を後にして、リュカは特に行く当てもなく歩道をそぞろ歩いていた。

その肩に掴まるピットも、次にとるべき道を思いあぐねている様子だった。

「どうしたものかなぁ……あれだけ町の人に話を聞いてもダメだったし、あのヒント屋っていうおじさんも当てになるかどうか」

「35ドルっていうのがどのくらいのおカネなのか分からないけど、僕は、そんなに高くなかったら聞いてみるのも良いかなって思います」

「物は試しって言うもんね」

「でも、どこかでバイトとかできるのかな……」

ぽつりと呟かれた言葉に、ピットは驚いてリュカの顔を見上げる。

「――バイト?!」

「どうしたんですか?」

「いや、君の口からまさかバイトなんて言葉が出てくるとは思わなくて……。しかもさっきの感じだと、君自身がバイトやったことあるって感じだったよね」

リュカはピットの反応に驚きつつも、頷きでそれに応えた。

それを見届け、ピットは長い溜息をつく。

「……なんて言うか、君って苦労してるんだね。そんなに若いのに」

しかしリュカは少し笑って首を振り、こう答えた。

「そんなつらい“バイト”じゃないですよ。ちょっと大変でしたけど、ちょっと、面白かったかな」

二人でそんな会話をしながら歩いていた時だった。

「君、君。そこの縞シャツの君」

後ろから声を掛けられ、リュカは振り向いた。

「僕のことですか?」

「そう。そこの声真似の君だよ。誰に似せたのか分からないけど、ずいぶん上手いね」

サングラスを掛けた青年は、そう言ってにやっと笑う。

「――おっと、用件はそれじゃなかった。……ほら。これ、落としたよ」

そう言って差し出されたのは、見覚えのない長方形のカード。

「えっ? ……これ、僕のじゃないです」

「そうかい? でも、確かに君のズボンのポケットから落ちるのを見たよ。それと……名前のとこに『リュカ』って書いてあるけど、これは君の名前とは違う?」

「い、いえ。それ……僕の名前です」

「じゃあ君のものに違いないよ。今度は落っことさないようにね。悪い人に拾われたら大変だよ」

リュカは差し出されるままにカードを受け取り、サングラスの青年はそのまま歩き去っていった。

その背をぽかんと見送るリュカ。一方でピットは、カードに刻まれた文字にいち早く気づいていた。

「……なるほど、これは確かに悪用されたら困るやつだ。これ、“キャッシュカード”って書いてあるよ」

「キャッシュカード?」

「僕も詳しくは知らないんだけど、確かお金の代わりになるもののはず。さっそくヒント屋に戻ってみよう」

 

張り切って戻ってきたリュカからお代としてカードを差し出されたおじさんは、片手で眼鏡を上げ気味にして、しげしげとカードとリュカの顔とを見比べていた。

とうとう待ちきれなくなって、リュカはヒント屋のおじさんにこう尋ねる。

「あの……それ、おカネとは違うんですか?」

おじさんは首を横に振った。

「まあ、そのものではないね。いやはや、今時これの使い方を知らないなんて珍しい。貰った時にお父さんお母さんから説明されなかったのかい?」

「えっと、貰ったんじゃなくて――」

正直に言いかけたリュカだったが、ピットは急いでその肩を叩き、注意を引く。

「話がややこしくなっちゃうから」

「でも……」

おじさんはカードを眺めていて、リュカとその肩に乗るカブトムシとが小声で言い合っているのには気づかなかった。

「ほんとはお代をもらうところだけど、今回は初回限定の特別大サービスだ。このカードの使い方をただで教えてあげよう」

そこで咳ばらいを一つ挟み、おじさんは説明を始める。

「君が銀行に預けたお金を、わざわざ銀行に行かなくても引き出せる。そんな便利なカードが、このキャッシュカードというものなんだ。このカードを差し込めばお金を引き出したり預けたりできる機械、キャッシュディスペンサーはだいたいどこのお店にもある。ドラッグストアとか、ホテルとか。まずは行ってみてごらん」

そう言って、カードをリュカに返してくれた。

 

ヒント屋のおじさんが言っていた通り、ドラッグストアに入ってみると、カウンターの横にキャッシュディスペンサーと書かれた機械が設置されていた。

呑気で陽気な調子の店内音楽が流れる中、リュカはカードを機械のスロットに入れる。画面をじっと見つめていた彼は、やがてぽつりとこう言った。

「欲は言わないけど、35ドルあると良いな……」

その矢先、画面に数字が表示される。示された桁数は2を遥かに超えており、二人ともしばしその場で固まってしまった。

リュカがいつもより一層小声になって、肩のピットに向けて尋ねかける。

「ピットさん……これ、どのくらいすごいんですか?」

呆然と首を横に振り、ピットはこう答えた。

「僕にも分からないよ……まず、ここの物価がどのくらいなのかってとこだけど……」

 

リュカはカウンターのところに行き、眼鏡を掛けた店員のお兄さんに声を掛けた。

「すみません」

「いらっしゃーい。どんなご用かしら?」

お兄さんはちょっと女っぽい口調でそう言った。

「このお店で一番高いのって、なんですか?」

「あらっ、こんなお店でそんな質問をされるなんて珍しいわね。ちょっと待っててね……」

と、店員はリストを取り出してめくり、少ししてその一つを指さした。

「あったわ。『やすもののうでわ』ね。“やすもの”ってつくけど、このお店じゃ一番高いのよ。えーと、値段は98ドルね」

「98ドル……」

リュカはキャッシュディスペンサーの方を見る。その画面に表示された額は、腕輪を文字通り“山ほど”買えるくらいありそうだった。

 

ドラッグストアを後にしたリュカは、キャッシュカードを見つめて眉根を寄せていた。

「これほんとに僕のカードなのかな……」

彼を勇気づけようと、ピットは横からこう言って聞かせる。

「きっと君のものだよ。君の名前が書いてあったし、君のポケットから落ちたっていうから」

「でも僕、こんなカード見たことない……。もしも僕とそっくり同じ名前の人のだったとしたら、今頃その人、困ってるんじゃないかなぁ」

「僕らの取るべき行動は二つに一つだ。あと35ドルだけ使わせてもらって、理由を言って謝って後でお金を返すか、それとも真っすぐ警察署に行って、落とし物として届けるか」

リュカはその場で立ち止まり、目をつぶって考え込む。

ほどなくして目を開き、迷わずに歩き出した。その方角にある建物は、ピットにも分かっていた。

「僕が天使だからって、遠慮しなくても良いんだよ。ほら、今日は見ての通り、天使というよりカブトムシなんだから」

「それでもやっぱり、できないですよ。僕一人でも、こうしてたと思います」

真っ直ぐに行く手の警察署を見つめて、リュカはそう答える。それを見ていたピットはすっかり感心してしまった。

「えらい……君の方が天使に向いてるかもしれない」

 

警察署に入り、受付に立っていた女性警官に事情を話すが、カードを受け取った彼女から返ってきたのはこんな答えだった。

「今のところ、カードを落としたって人は来てないわよ。参考に、このカードを拾った時の状況を聞かせてくれるかしら?」

「はい。えぇと……道を歩いてたら、サングラスのお兄さんに声を掛けられて、そのカードが僕のポケットから落ちたって言われたんです。確かに書かれてる名前は僕のものなんですけど――」

そこまでを説明したところで、警官は怪訝そうな顔をして首をかしげる。

「君が落として、君の名前が書いてあるなら、君のものじゃない? どうしても預かってくれって言うのなら預かるけど……」

答えに困っている様子のリュカに代わり、ピットは咄嗟にこう声を上げた。

「――大丈夫です! 僕らの方で預かるので!」

警官はぎょっとして目を見開く。

「あらっ、今の誰?! カウンターの下に誰か隠れてるの?」

リュカは慌てて取り繕う。

「い、いえ、何でもないです! 今のはその、声変わりみたいなもので……」

「そうなの? でも、さっきあなたの口、動いてなかったような……。まあ、ともかく、そういうことならあなたに返すわね」

 

カードをポケットにしっかりとしまい、警察署を後にしたリュカは神妙な顔をしていた。そしてその表情のまま、肩に掴まるピットにこう伝える。

「……僕、あんまり無駄遣いしないようにします」

「大丈夫だよ。あれだけあったら、一か月やそこらじゃ使いきれないから」

 

改めてドラッグストアに行き、今後必要になるであろう分も含めてお金を引き落としたリュカ達は、みたびヒント屋の戸を叩く。

屋台に立つおじさんに、リュカは紙幣をもう一度数えてから、35ドルを渡して尋ねた。

「あの……僕ら、探してる人がいるんです。その人がどこにいるのか教えてください」

しかし、おじさんはあっさりとこう返す。

「そういうのは探偵に頼むものだよ、ぼうや。ここはヒント屋だからね、そのお客さんに今まさに、最もふさわしいヒントを、私が見つけてあげる。そういうところだ」

それから屋台からぐっと身を乗り出し、メガネ越しに、リュカをじっくりと眺め始めた。

「おやおや……なんと、うーむ。これはまた……珍しい」

そう言いながらしばらく唸っていたかと思うと、おじさんは再び屋台の定位置に戻る。

「君にふさわしいヒントは無いみたいだ。少なくとも今のところはね」

「そんな! 僕たち、人を探さなきゃいけなくて、でもその人が誰だか分からなくて、それで困ってるのに……」

「なるほど、誰か分からない人を探しているのか。そりゃまた難儀だねぇ。じゃあ、せっかくお代もいただいていることだし、月並みなヒントだけど――『いろんな人とこまめに話をする』。これを大事にしてみなさい。ほら、君みたいな子供たちの大好きなゲーム、ロールプレイングでも基本のキだろう?」

そう言われたリュカは、困惑と苛立ちから思わず眉を寄せる。

「でも……!」

そこで首を横に振り、彼は一旦心を落ち着けてからこう続けた。

「僕たち、それでもうこの町を一周回っちゃったんです」

「ほう、ほんとかい! それは大したもんだ。それでも分からなかったとなると……探し人はオネットにはいないのかもしれないね。他の町には行ってみたかい? そう、例えばこの町の南にあるツーソンとか」

 

 

町の南とは言われたものの、ヒント屋を出てその方角に歩いていったリュカとピットが見たものは、相変わらずの道路封鎖だった。パトカー2台に警察官2名。それらの隙間をふさぐように並べられた、黄色のバリケード。

「あーあ、まだやってるよ」

ピットはすっかり呆れた様子でそうぼやいた。

そんな彼に、リュカがこう尋ねる。

「ピットさん。あの横、森の中を通ったら避けられませんか?」

「うーん、どうだろう……あんなに熱心に塞いでるんだから、森の中を見回ってるお巡りさんがいてもおかしくないかも。……あ、ほら、そこの木のとこ――人が通っていったよね」

ピットが前脚の一本で指した先、木立の間に見え隠れしつつ歩いていくのは、警察の制服を着た人々。

「ほんとだ……何か探してるのかな」

「失せもの、失せ人……? でもそれにしては変だよ。オネットの誰に聞いても、大した事件は起きてないって言ってたよね。これは田舎町の人に失礼かもしれないけど、田舎ってさ、ちょっとでも事件のかおりがすればすぐに野次馬が集まって、あっという間に噂が広まるイメージがあるんだけどな」

ピットの言葉に、リュカはちょっと上の空といった様子で頷く。彼の目は道路を封鎖する警察官に向けられていた。

「これじゃ、まるでお巡りさんたちだけ違うものを見てるみたいですよね」

「――聞いてみようか」

今度は、リュカはそれにしっかりと頷きを返し、封鎖された道路に向けて真っすぐに歩き始めた。

手持無沙汰そうにしていた警察官二人は、少し遅れて、自分たちの方に向かってくる少年に気づく。

「……おや?」

「こらこら、少年。ここは通行止めだよ」

そう言って、一人の警官がリュカの前に立ちはだかる。組まれた両腕は制服のせいかがっしりとして見え、町の人から聞いた話を思い出したリュカはその場でたじろぎ、立ち止まってしまう。

それでも勇気を振り絞り、意を決して、彼は警官にこう伝えた。

「僕たち、どうしてもここを通りたいんです」

そう言うと、警察官はサングラスの向こうで眉毛を片一方、咎めるように吊り上げた。

「なんだって? 冗談言っちゃいけないよ。こっちは仕事でやってるんだから」

向こうにいる方の警官も同僚の言葉に大きく頷き、こう言ってきた。

「そう。オネットのお巡りさんが通せんぼするのにはちゃんと訳があるんだよ。市民の安全を守るため、好奇心旺盛な子供が危ない目に遭うのを防ぐためなんだ」

それを聞き、ピットは思わずいつもの癖で口をはさんでしまう。

「危ない目って……このあたりで事件でも起きてるの?」

はっと気が付いた時には遅く、二人の警察官は慌てた様子で辺りを見渡し、声の源を探そうとしていた。

「だ、誰かいるのか?!」

しかしそこは開けた公道であり、近くにはリュカの他には誰もいない。少なくとも、人間の姿をした者は。

結局何も見つけることができず、二人の警察官は怪訝そうな顔をしつつも元の立ち位置に戻ってくる。バリケード側に近い警官が、ややあってリュカにこう話しかけた。

「今のはきっと、君の腹話術、だよね……? そうだ、そうに違いない」

自分を納得させるように何度も頷き、ようやく心を落ち着けた彼は、改めてリュカに向き直る。

「さっきも言った通り、オネット警察は市民の安全を守るのが仕事なんだ。特にこの頃は――」

そう言いかけた彼の口が、途中で言葉を忘れてしまったかのように止まってしまう。サングラスの上の眉毛が訝しげにひそめられたかと思うと、彼はぽつりぽつりとつぶやき始めた。

「……シャーク団は、別に暴れてるわけじゃないし、山に隕石とかが落ちたわけでも、ましてや町にUFOなんかがやってきたわけでもない……」

とうとう、相方の警官と顔を見合わせ、彼はこう言う。

「……そういえば、なんで封鎖してるんだっけ?」

彼らは互いの顔を見つめたまま、その場で静止していた。

数秒が数分にも感じられる沈黙の後、先に動いたのは、リュカの前に立ちはだかっていた方の警察官だった。彼は制服の腰ベルトに掛けていた無線機を手に取り、もう片方の手を上げて、リュカを制止するように掌を向ける。

「あー、君。これはあくまでホウレンソウの一環だからね。分かるね?」

ザリザリと砂をこするような音が聞こえて、無線機の向こうから誰かの声が漏れ聞こえてきた。

警官は無線の相手に向けて話しはじめる。その声の調子は、リュカに対するものとは全く違っていた。

「あ、署長! ……はい。はい、そうです。南部の道路です。はい……ええ、問題なく。あ、それでですね、署長。たった今、小さな市民の方が来られて――ええ、なぜ封鎖しているのかと。はい、そういうことです。あ、いえ、私は存じております。存じておりますが、あくまで確認のため、ストロング署長の意図が間違って伝わることが無いようにと」

そこで警官は口をつぐみ、心持ち空の方を見上げる。相手の返答を待っているようだ。

しかし、無線機から漏れ出てくる音はノイズばかりで、誰かの声が混じっている様子ではない。

それに気づいたピットは、内心でこう思っていた。

――これは大方、その署長って人も黙ってるんだろうな……

リュカと一緒に見守っているうち、警官に動きがあった。

「――あ、はい。聞いております。……え? ……あっ、りょ、了解であります。はい。それでは――」

通信の切れた無線を、彼はしばし何も言わずにじっと見つめていた。

その沈黙が何を意味するのか。サングラスを掛けた顔では推し量ることもできない。

ピットが固唾をのんで答えを待ち受けていると、警官は再び顔を上げ、こちらを見た。その顔には親しみを伴う笑みがあった。

「よかったな、少年。封鎖はたった今解除されたそうだ」

それから相方にも目配せをし、二人掛かりでバリケードを片付け始める。

あっけにとられたリュカ達をよそに現状復旧を終えた警官たちは、それぞれパトカーに乗り込むと、さっさとその場をあとにしてしまった。

背後でエンジンの音が遠ざかり、町のざわめきに溶けていく中、ピットはリュカと顔を見合わせる。

「なんだこれ……」

「なんだったのかな……」

 

経緯に腑に落ちないところはあったにせよ、ツーソンにつながる道は開かれた。

オネットとツーソンを繋ぐのは、森の中を抜けていく小径。意外なことに、そこにはただ草地が広がるばかりで、車道はおろか歩道さえも整備されていなかった。道は平坦で歩くのに不自由はしないものの、辺りには看板も何も見当たらない。これでもしも木立の向こうに町並みが見えていなかったら、歩いているうちに『この道で良かったのだろうか』と、だんだん自信が無くなってくるところだろう。

ふと視界の端に赤く小さなものを見かけた気がして、ピットは何気なく目でそれを追いかけた。

「……え、キノコ?」

それはまさしく、おとぎ話の絵本に出てきそうな赤地に白ぶちのキノコ。茎は途中で二股に分かれており、キノコはそれを足のように使って歩いていくところだった。少し離れたところにも何個――あるいは何匹かおり、ひょこひょこと傘を揺らして歩いている。

リュカの方もそれに気づくと、ちょっと驚いた様子でこう言った。

「わ、“あるくキノコ”だ! 久しぶりに見た」

その驚きは、意外なところで知っているものを見て面白がっているようでもあり、キノコをちょっと警戒している様子でもあった。

実際に彼は、キノコたちの出方を見計らうように、その場で立ち止まっている。

「リュカ君。あのキノコって、もしかして危ないの?」

「うーん……今の僕なら一人でも危なくないかもしれないけど、イヤな胞子を飛ばしてくるから、ちょっと厄介なんです」

「まぁ、キノコ系と言えば状態異常のエキスパートっていうのは世の鉄則だよね。……でもあのキノコ、なんだか逃げてくみたいだよ」

「あ、ほんとだ。やっつけずに済みそうですね」

リュカは最後にもうちょっとだけ様子を見て安全を確認し、再び歩き出した。そんなこちらを避けるように、キノコたちはいそいそと道を空けていく。

 

その後も森の小径を歩くこと数分、二人は次の町に到着した。

オネットに比べると少しだけ大きな建物が多く、こちらの方がもしかしたら“ちょっと都会”なのかもしれない。

少し大きくなった町の規模に気圧されてしまったのか、リュカは町の入り口の手前で立ち止まって、そのつぶらな目を丸くして町並みを眺めている。

そうしていた彼は、ふと思い出したようにこう言った。

「……ツーソンって、そういえば、なんだかすごい子がいるって話でしたよね」

「そうだったね。確か学校、いや、幼稚園にいるんだったっけ……? だとしたら結構小さい子なのかな」

しばし考え込んでから、リュカがこう切り出す。

「何がどうすごいのか分からないけど、ちょっと会いに行ってみても良いですか?」

「うん。僕も少し気になってたんだ。隣町にまで名前が知られてるくらいだからね」

 

町の人に幼稚園の場所を聞き、リュカはその方角に向けて歩いていた。

肩に掴まっているピットは特にすることもなく、通り過ぎていく景色を眺めていた。ホテル、自転車屋、それにデパート。“カオスシアター”という変わった名前の建物もあったが、看板には“しばらくお休み”との文字が書かれていた。

締め切られた扉を眺め、ピットは心の中でこうひとりごちる。

――まだまだこの町も、都会って感じじゃなさそうだなぁ。

リュカはそこで突き当りの角を右に曲がり、さらに歩いていく。

道を進むにつれて右の方からたくさんの人のざわめきが聞こえてきて、二人はふとそちらに顔を向けた。

家並みが途切れたかと思うと、見えてきたのはたくさんの露店が並んだ広場。調味料を売っている店、手作り風の陶器を並べている店、どう見てもがらくたにしか見えないものを寄せ集めた店。遠目に見ても様々なお店があるのが分かった。

風に乗って焼き立てのパンのにおいが流れてきた時、リュカの足並みがちょっとためらいを見せる。

はたと気づいて、ピットはリュカの肩を前脚で叩いた。

「……そういえばリュカ君、ずっと歩きっぱなしだもんね……。幼稚園に向かう前に何かお腹に入れていこうよ」

 

入口の看板には『ヌスット広場』と書かれていた。いささか不名誉な名前のついた広場だ。

その近くで出店を開いていたパン屋さんからバターロールとオレンジジュースを買い、二人は広場の外れに腰掛けて一息いれることにした。

パンを食べるより先に、リュカはまずオレンジジュースのプルトップを開け、缶の半分ほどを一気に飲む。お腹もそうだが、歩き詰めで喉も乾いていたようだ。ジュースを飲んで一息ついた彼は、続いてパンを半分にちぎると、まずピットに差し出した。

「――あ、僕は良いよ! お腹空いてないから」

ピットはそう言って辞退する。ほとんど動いていないので、お腹が空いていないのは本当だった。それにそもそも、この姿で何が食べられるのかもよく分からなかった。手紙と同じ要領で行けば、もしかしたらパンでも食べられるのかもしれないが。

「本当に大丈夫ですか?」

「うん。……それにしても、気づかなくてごめんね。足が疲れたとか、お腹がすいたとか、そうじゃなくても休憩したいときはいつでも言ってくれて良いからね」

リュカはそれに笑顔を見せて頷き、それからこう言った。

「ほんとは食べ物、いくつか持ってきてるんです。でも『ちょっと食べる』って感じのものじゃないので、取っておきたくて」

「なるほど、準備良いね! この調子だと、ほんとに長丁場になるかもしれないもんね。ここから先も町が続くならどこでも食べ物を買えそうだけど、森とか山とかしばらく歩くことになったら、備えはいくつあっても、ありすぎるってことはないよ。……そうだ、僕も鞄があるから、持ちきれなくなったりしたら教えて。いくらでも預かるから」

ピットは明るい口調でそう言ったが、内心では、移動も聞き込みもリュカに任せっきりになってしまっている現状を申し訳なく思っていた。不甲斐なさと共に感じるのは、やはりエインシャントへの不満だった。

――まったく、こんな手も足も満足に出ない姿にしてさ……本当にこの姿じゃなきゃダメだったのかな?

 

休憩を終えてヌスット広場を発ち、ほどなくして二人は幼稚園に到着する。

優しい緑色をした三角屋根に、白塗りの壁。屋根の上の方には、カラフルな文字で『POLESTAR』と書かれた看板が見えていた。

扉の前まで行ったところで、リュカはちょっと戸惑った様子で立ち止まる。幼稚園の中から聞こえてくるのは、楽しげにはしゃぎまわる子供たちの声。ピアノの伴奏に合わせて歌う声もあれば、何人かで追いかけ合い、バタバタと走り回る足音も聞こえる。

邪魔をして良いものかと躊躇していたリュカだったが、やがて心を決め、扉を軽くノックした。

返事は返ってこない。きっと部屋の中が賑やかすぎて、誰にも聞こえなかったのだろう。

今度はもう少し強く叩こう――そう思ってリュカが握った手を構えた時、後ろで男の子の声がした。

「ねぇ、おにいちゃん、ちょっとどいて」

振り返ると、ここの幼稚園の子らしき青い服の男の子が立っていた。

「――あ、ごめん」

リュカが避けると、男の子はドアを押し開けて入っていった。扉はそのまま半開きのままにされ、リュカ達にも室内の様子が見えるようになる。幼稚園は一階がほとんど丸ごと、園児のためのスペースになっているらしい。広い部屋の中、ちびっ子のための椅子や机、本棚はなおさら小さく見え、まるでミニチュアのドールハウスに迷い込んでしまったような気がした。

遊び回る子供たちのほとんどは、戸口に立つリュカに気づいていなかった。ただ一人、玄関に近いところにいた女の子がふと顔を上げ、リュカの存在に気が付く。

「……」

女の子は積み木を持つ手を途中で止め、不思議そうな顔をしてリュカのことをじっと見つめていた。それに気づいたリュカがその子を見つめ返すと、その子は恥ずかしがって部屋の奥へと駆けていき、ピアノを弾いている女性の後ろに隠れてしまった。

ウェーブがかった金髪の女性は演奏の手を止め、その子に声を掛ける。

「あらあら、どうしたの?」

彼女はその子が何も言わずに見つめる先を見て、戸口に立つリュカに気づいた。

「あら? 誰かのお兄さんかしら? お迎えの時間にはまだ早いみたいよ。みんなと一緒に遊んでいく?」

「あ、あの……! そうじゃなくて、僕、ポーラっていう子に会いに来たんです。ここにいますか?」

リュカの言葉を聞き、女性は目を丸くして口元に手をやった。

「まぁ! そうだったの……せっかく尋ねてきてくれたのに、ごめんなさいね。ポーラは今、頼もしい子たちと一緒に旅をしているの。時々ここに顔を見せに来てくれるんだけど、今日は来そうにないわねぇ」

そこで部屋の奥、二階の方から男の人の声がした。

「なんだ、またテレビの取材か?」

階段を降りてくる足音がして、ぶつぶつと文句を言う声が近づいてくる。

「まったく懲りない人たちだ。あれほど、うちの子を芸達者なサル軍団と一緒にするなと……」

苛立ちを乗せて扉をガチャリと開き、現れたのは口ひげを生やした金髪の男性。

彼はそこで顔を上げ、戸口のリュカを見る。

「おや……」

思わず、そう口に出して彼はその場で立ち止まってしまった。

やがて彼は我に返ると、ぽかんと開けていた口を閉じ、首を横に振る。

「――失礼、人違いだったようだ。てっきりあの少年かと思ったが」

これを聞いて女性の方も驚いたように彼の方へと向き直った。

「あら、あなたも?」

そのやり取りを聞いたリュカは、戸惑った様子で目を瞬く。

「あの少年……? あの、僕が誰かに似てたんですか?」

「そうね、よく見ると違うのだけど……。ねえ、虫好きのぼく。立ち話もなんですから、上がってらっしゃい」

 

一階の部屋の一角に園児用の小さな椅子を集め、リュカはその一つに座らせてもらった。

幼稚園の夫妻も同じ椅子に座っていたものの、さすがに大人には小さすぎるようで、二人とも足を持て余している。

奥さんの方が説明役となって、ポーラという女の子について教えてくれた。

まず、彼女は二人の子供であること。年は幼稚園というよりもっと大きくて、すでに学校に通っていること。

彼女には他の子供とはちょっと違うところがあるという。例えば、先のことを何となく言い当ててしまうとか、祈ると様々“不思議なこと”が起きるとか。母親はそれを指して『あの子には神様がついている』と表現した。

夫婦は娘の不思議な力を隠していたわけではないものの、かといって大っぴらに言いふらしていたわけでもなかった。それでもいつしか人づてにその噂が広まってしまい、一時期はテレビだの新聞だのの取材が来て大変だったという。

そして話は、“少年”の下りに入った。

「ポーラが旅を始めたのは、そう、あの男の子がきっかけだったの。確か私、もう伝えたわよね、ポーラには昔から不思議な力があるって。ある日ベッドまで起こしに行ったら、あの子ぱっちり目を開けて、真剣な顔をしてこう言ったのよ。『ママ、わたしはもうじき旅に出なきゃいけないの。長い、長い旅に……。でも、心配しないで。世界を救う男の子が一緒だから』って」

ピットは思わず、小さな声でありつつもこう呟いていた。

「世界を救う……」

リュカも真剣な表情で身を乗り出して、ポーラのお母さんに尋ねた。

「その男の子の名前って、分かりますか?」

「それはもちろん……」

彼女はそう言いかけて――怪訝そうに眉をしかめた。

隣のお父さんの方も、困惑した様子で腕を組んでいる。

「……おかしいな。ポーラからも聞いていたはずなんだが」

「本当。このあたりまで来てるのに……だめだわ、私も忘れっぽくなっちゃったわね」

 

少年はどこから来たのか。ポーラ達は今どこにいるのか。

二人ともはっきりと答えることができず、困ったように眉間にしわを寄せて首をかしげるばかり。

しかし、少なくともオネットにはそれらしい子たちがいなかったことをリュカから聞くと、お父さんの方がふと思い出したようにこう言った。

「オネットにいなかったとすると……それならスリークを通ったかもしれないな。ここから南東にあるトンネルを抜けた先にある町だ」

 

様々教えてくれたことにお礼を言い、リュカは幼稚園を後にする。

ポーラの両親は幼稚園の外まで出てきて、こちらを見送ってくれた。

「スリークに行くならバスに乗っていくと良いわ。バス乗り場はこの道を真っ直ぐよ。あの子たちに会ったらよろしくね」

「カブトムシの少年、良ければポーラに伝えてくれたまえ。たまにはお家に帰ってきなさい、パパもママも待ってるからと」

「はい。いろいろありがとうございました!」

ぺこりと頭を下げ、リュカはポーラの母親が教えてくれた方面へと歩き始めた。

と、その矢先、後ろから小さな足音が追いかけてきた。

「おい、お前さん!」

振り返ると、そこには野球ヘルメットを目深に被った幼稚園児の男の子が一人。彼はリュカを見上げてこう言った。

「ポーラちゃんと旅に出た、イキな兄貴のことを知りたいんだろ? おいらも兄貴の行き先は知らないが、恰好はばっちり覚えてる。あいつはお前さんと似たような縞模様の服を着てたが、頭には真っ赤な野球帽をかぶってた。遠くからでもよーく目立つぜ」

小さな見た目によらず、いなせな口調でそう伝えると、彼は「じゃあな、あばよ」と手を振って幼稚園へと駆け戻っていった。

男の子が十分遠ざかったところで、ピットはリュカにこう言う。

「縞模様の服に赤い野球帽かぁ……でもそういう子って、どこにでもいそうだよね」

ところが、なかなか返事が返ってこない。それに気づいて彼の横顔を見上げると、リュカは男の子が去っていった方角を呆然と見つめていた。その眉間には、何かを思い出そうとするように軽くしわが寄っていた。

「……赤い、帽子……」

心ここにあらずといった様子の彼を案じ、ピットは逡巡の後、声を掛けることにする。

「リュカ君……?」

呼びかけから一瞬遅れて、リュカの肩がぴくりと動く。

「――あ、すいません……ちょっと考え事してて」

「気にしないで。それよりも、何か気になることがあったの? あの男の子が言ってたことで」

そう聞くと、相手は落ち込んだ様子で首を横に振った。

「……よく思い出せないんです。もう少しで思い出せそうなのに、あとちょっとのところで思い出せなくって……」

そう言った彼は、そこでもう一度首を振り、気持ちを切り替えるとピットに顔を向けた。

「ピットさん、どうしますか? ツーソンでも聞き込みしておいた方が良さそうですか?」

「うーん……迷うところだけど、僕はその『世界を救う』って言われてる子を追いかけた方が良いと思う。その子がここのキーパーソンなんじゃないかな」

「僕も賛成です。その子のことを探すうちに、僕の思い出せない何かも、思い出せるかもしれない。なんだか、そんな気がしてるんです」

 

 

 

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最終更新:2023-02-25

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