星は夢を抱いて巡る
第6章 魔術師 ④
それから少しして、二人はスリーク行きのハイウェイバスの座席に座り、揺られていた。
物珍しそうな顔をして窓ガラスに顔を寄せたり、車内をきょろきょろと眺めているリュカに、ピットはこう声を掛ける。
「バス、もしかして乗るの初めて?」
エンジンの音で紛れるとはいっても独り言を言っているように見えるのは恥ずかしいのだろう、リュカは小声でこう答えた。
「はい、たぶん。なんだか平べったくて長い車は乗ったことあるんですけど、こんな感じじゃなかったです。なんていうか……バスって椅子だらけなんですね。ピットさんのとこにはバス、あるんですか?」
「僕のところにも無いんだけど、何しろ今まで色んなエリアを回ったからね。こういう車にも乗ったことあるよ」
ピットの答えに、リュカはちょっと驚いた様子で目を瞬く。
「……そうなんですね。あ、でも、考えてみたらそうか……。ピットさんは手紙を配るのが“しごと”だから、人がいるようなエリアを回るんですよね」
「まぁ、そうだね。極端に人けのないエリアもあったけど、ゼロってとこは無かったよ。というか、ゼロじゃ配る相手もいないしね」
そう言って、続けて彼は、リュカがエインシャントからの任務で何をしているのかを聞こうとした。だが、そこでちょうどバスはトンネルを抜け、ガラス窓の向こう側にスリークの街並みが広がる。
茶色に赤茶色、少し地味な色合いのアパートが建ち並ぶ。建物の間から少し遠くに垣間見えたのは、石造りの塀と白っぽい墓石。どうやら墓地があるらしい。
そこまでを見て取っところで、バスが停車し、『スリーク』に到着したとのアナウンスが流れる。
「あ、ここだよ。降りよう!」
ピットの声に促され、リュカは急いで席を立つ。引き出しておいた“ドル”で運賃を支払い、バスを降りた。
スリークでの聞き込みは、オネットとは明らかに手応えが違っていた。
「ああ、赤い野球帽の男の子ね! よーく覚えてるよ」
「そうそう。そしてそのポーラって女の子と、もう一人、眼鏡を掛けたジェフって子と一緒に」
「この町を救ってくれたんだ。ホラー映画みたいな悪夢からね」
スリークでは、誰もが“赤い帽子の男の子”のことを知っていた。悪夢のような出来事に見舞われたこの町にやってきて、知恵と勇気と団結で事件を解決してくれたのだ、と。
「何があったのかって? ゾンビだよ、ゾンビ。ゾンビが墓地から攻め込んできて、この町を乗っ取ったのさ。欲深い奴らだと思わないかい? とっくのとうにこの世を去ったっていうのにさ」
「あんときはそりゃあ……この辺にもゴーストやら何やらが我が物顔でうろついて、酷い有様だったよ」
「わたしたちはオバケを避けてこそこそ暮らすしかなかった。家にカギを掛けて閉じこもってた人もいたね」
「でもあの子たちのお陰で、悪い奴らはみーんないなくなった。あの子たちはスリークみんなの恩人だ」
「まぁ、私達も何もしなかったってわけじゃないけど。それでも彼らのお陰よね、この町が明るくなったのは」
人々はそう言い、子供たちを口々に褒めそやしていた。
しかし、リュカの質問があるところに差し掛かると、途端に彼らは戸惑ったように口ごもり、首をかしげてしまう。
「えっ? 赤い帽子の子の名前かい? ……ああ、いや、僕は知らないなぁ」
「ジェフ君、ポーラちゃん、えぇとそれから……」
「……ごめんなさいね。実は私、彼らの活躍を直接見てたわけじゃないの。あとから、『あの子たちがやってくれた』って聞いただけなのよ」
「聞いたかもしれないし、聞いてないかもしれない……ぼくら、あの時はそれどころじゃなかったんだ」
「名前くらい聞いておけばよかったわ。ほんと、街の恩人なのに私達ってば薄情ねぇ……」
誰に聞いても、三人の子供たちのうち“赤い帽子の子”だけの名前がすっぽりと抜け落ちているのだった。
さらに、この町を巻き込んだ事件の詳細についても、町の人々の記憶には奇妙な空白が存在しているようだった。
「なんでゾンビが攻めて来たのかって……? さあ、僕はゾンビじゃないから分からないよ」
「ゾンビの勝手でしょ、……なんちゃって」
「確か親玉がいたのよ。そうに違いないわ。それをあの子たちがやっつけてくれたから、モンスターはみんな帰っていった。確かそういうことじゃなかったかしら……」
「あの時のことは、正直あんまり思い出したくないんだ。あ、もちろん、あの子たちが来てくれる前までのことね」
めぼしい成果が得られないうちにだんだんと日も暮れてきた中、リュカはなぜか街なかを離れてスリーク北部の墓地へと向かい始めた。
町の人によれば、ゾンビ事件の頃の墓場はスリーク市内でも特にモンスターが多く、とてもではないが住民は恐ろしくて近づけなかったという。だが今は、多少人けが少なくてうら寂しいものの、故人を偲ぶにふさわしい静けさが墓地をそっと包み込んでいた。
その静けさに遠慮した様子で、ピットが声をひそめ、肩口からリュカに声を掛ける。
「リュカ君。ここにはあんまり人がいないみたいだけど、どうしてこっちに来たの?」
少年は行く手を見据えたまま歩きつつも、同じく小声でこう返した。
「……何か引っかかるんです。思い違いかもしれませんけど――」
と、そこで不意に彼ははっと息をのみ、その目がわずかに見開かれる。
「――あった」
彼が見る先、その地面にあったのは大きな穴。墓石のあるべき場所が陥没してしまったかのように、丸く大きな穴が開いているのだった。
ピットが何かを言おうとする前にリュカが駆けだし、その穴の縁まで行って中を覗き込む。
「……」
夕陽に辛うじて照らされたその穴の中には、暗い空間が広がっていた。壁際には一つだけ扉もあり、荒削りの土牢のようにも見える。
それに気づき、ピットはこう言ってみた。
「もしかして隠し部屋? いや、この場合は隠し部屋“だった”のかな?」
一方、リュカは依然として何かに気を取られている様子で、目をすがめて土牢の中をつぶさに確かめている。
「ない……」
少し落胆したようにそう言った彼に、その時、後ろから声が掛けられる。
「どうしたんだい、君」
リュカが振り返ると、そこにはちょっと心配そうな顔をしたおじさんが立っていた。墓地に子供が一人でいるのを見たら、心配するのも無理もないかもしれない。
そんな彼に向けて、リュカは思い切ってこう尋ねる。
「あの、もしも知ってたら教えてください。ここって、確か……銀色のまん丸な乗り物が空から落ちてきたところですよね」
「おや、知ってるのかい?」
そう言っておじさんは目を丸くする。
「いかにもその通りだよ。ここはね、スリークの恩人の一人、眼鏡の子が着陸した記念すべき場所なんだ。……まぁ、正直に言うと着陸っていうか墜落だったんだけどね。あの時はわしらも、ゾンビに襲われてるっていうのに、今度は隕石の襲来かってびくびくしたもんだよ」
それから、そこで彼も穴の中を覗き込み、「おや」と呟いた。
「無くなってるね、あの乗り物。ということは直せたのかな? 結構めちゃくちゃになってたけど、あれでも直せるもんだね」
少年たちはその後どこに行ったのか、直接見ていなくても心当たりは無いか、一応尋ねてみたものの、おじさんも詳しいことは知らないようだった。
北西のツーソンでしばらく見かけてないなら、きっと東のフォーサイドではないか。それを教えてもらい、リュカはお礼を言ってその場を後にする。
おじさんから十分に距離が取れたところで、待ちかねていた様子でピットはリュカに声を掛けた。
「……ねぇ、リュカ君。もしかして君、“ここ”で何があったか知ってるの?」
そう言われたリュカは、少し困ったように眉をひそめた。
「そう……かもしれません。偶然かもしれないけど、それにしてはそっくりすぎるから……」
これを聞き、ピットは思わず身を乗り出す。
だが、すぐにでも事情を聞きたいというこちらの気持ちを察したのか、リュカは先にこう言った。
「まだ自信が無いんです」
「それでも構わないよ。今はどんなことでも手掛かりが欲しいんだ」
「……分かりました。でも、思い違いかもしれないので……ピットさんを迷わせちゃったらすみません」
日も沈みかけ、空は夕焼けの橙色から夕闇の青紫色へと移り変わりはじめていた。
こんな暗い時間に子供が一人で墓地にいるのはなおさら目立ってしまうだろうと考え、二人はスリークのホテルでその日の宿を借りることにした。
ホテルマンから渡された鍵で客室のドアを開け、リュカは驚いたように目を丸くした。
「……こんな広い部屋、貸してもらえるんですね」
ホテルマンからは明らかに子供一人に見えたはずだが、空き部屋が無かったのか、用意された部屋はベッドが二つのツインだった。
「遠慮することはないんだよ。君はちゃんとそのための代金を払ったんだから。さ、今日は休もう。……あ、でもその前に、良かったらさっきの続きを聞かせてくれるかな」
ピットにそう言われ、リュカは頷いた。
「何かヒントになると良いですけど……」
二つ置かれたベッドの片方を椅子代わりにして座り、少年はこう前置きをした。
「……長くなるかもしれませんけど、やっぱり最初から話しますね。その方が分かるかもしれないので」
リュカが生まれ育ったのは、ピットがかつて降り立った絶海の孤島、ノーウェア島。
ずっと平和だったタツマイリ村に、ある時、招かれざる奇妙な生き物が現れ始めた。二つ、三つ、ときにはそれ以上の生き物や機械を無理やりまぜこぜにしたような、危険でおかしなキマイラ達。
変わらないと信じていた『日常』が少しずつ、少しずつ壊れ始め、村の人々は怯え、不安を抱えながらも、どうすることもできずに右往左往するしかなかった。そこにまるでタイミングを見計らったかのように、怪しげな行商人とブタのマスクの集団がやってきた。行商人のヨクバは言葉巧みに村の人たちを唆し、人々の考え方を少しずつ少しずつ、良くない方向に曲げていってしまった。
三年ほど経つ頃には村は、外も中もすっかり様変わりしてしまったという。
村のほとんどの人々は、少しでも不安や心配を遠ざけようと、そして“シアワセ”を手に入れようとして、行商人が示した胡散臭い価値観をすっかり信じ込んでしまったらしい。
「みんな、まだ使えるような物まで『古臭い、田舎っぽい』ってどんどん捨てちゃって、トカイで流行ってる新しいモノを買って家に貯めこんでいって。家も全部建て替えられて新品のぴかぴかになって、道も全部固い石みたいなもので埋め立てられて。……そうですね、ちょうどここのエリアの町みたいな感じになったんです。……でも、こっちの方がなんだか変じゃないですね。うまく言えないけど、ムリしてない感じがします」
彼はそう言って、ベッドに座っていたところから窓の方に顔を向ける。
スリークの夜景をしばし眺めていた彼は、再び向かいのベッドに向き直り、シーツの上にちょこんと乗ったカブトムシに目を向けた。
「――ノーウェア島の方は、結局、なにもかも一人の“王様”のワガママのせいでした。ブタマスクの人も、ヨクバって人も、王様のためにそれをやってたみたいなんです。しかも王様はそれでも満足しなくて、この島に隠されたとてつもない力を手に入れようとしてて……」
「ずいぶん欲深い人間だったんだね……そんなのがとてつもない力を手に入れようものなら、ろくなことにならないだろうなぁ」
ピットがそう感想をもらすと、リュカも頷きを返した。
「その力のことを知ってる人からも、絶対に渡しちゃいけないって言われてました。それで……その王様のことなんです。僕がピットさんに言っておきたかったのは。僕らが何とか王様の悪だくみを止めようとしていたら、ある時、王様がいる“トカイ”に連れてこられて……そしてそこで見かけたんです。赤い帽子の男の子が出てくる、“冒険映画”を」
映画館で上映されていたのは、王様がオススメしているという一編の冒険映画。
一体いつ、どこで撮られたものだろうか、その映画はノーウェア島のどこにもない場所を舞台としていた。
主人公は赤い帽子を被った黒髪の男の子。頼れる仲間と共に、世界を救うべく、長い長い旅をする話だという。
「赤い帽子の男の子が世界を救う……幼稚園で聞いた話と同じだ」
「そうなんです。それに……」
さらに詳しく思い出そうとして、リュカは眉間にしわを寄せてしばらく考え込んでいたが、やがて断念した様子で首を力なく振る。
「……まだはっきりとは思い出せてないんです。でもこの町は、確かに映画にも出てきていました。主人公の子と“ポーラ”っていう女の子が、怪しいお姉さんを追いかけて……」
と、リュカはそこで何かに気づき、はっと息をのむ。
「そうだ、確かちょうど、この部屋だったような……」
「この部屋で、何かあったの?」
「……はい。あの……主人公と女の子は、この部屋で待ち伏せされて、それでさっきの洞窟みたいなところに閉じ込められちゃうんです。でも、女の子が念じると、その願いが雪国に住む男の子に届いて、その子が乗り物に乗って助けに来るんです。そしてその子の名前が――」
「“ジェフ”だったんだね」
「はい。……あんまりにもそっくりで、信じられないくらいですけど……」
「考えられないことじゃないよ。君は“あるくキノコ”のことを知ってた。もしかしたらこのエリアと君のエリアは、何か繋がりがあるのかもしれない。前にもそんな人たちがいたんだ。本当は同じ場所に暮らしてたはずなのに、知らない間に散り散りになって、別々のエリアに閉じ込められてたって人たちがね」
「そう……ですか。でも僕、こんな大きな町、あの映画でしか見たことないような……。それにそもそも、あの頃はノーウェア島しか……」
そこで言葉が途切れ、記憶を探りに行ってしまった様子の彼を、ピットは名前を呼んでこちら側に呼び戻す。
「――その続きは思い出せそう? 男の子たちがその次にどこに向かったか、覚えてる?」
「あ、そうでした。えぇと……スリークの隣がフォーサイドでしたよね。きっとそこのはず……」
そう言った彼の表情が、ふと怪訝そうなものに変わる。
「……あれ? でも空飛ぶ乗り物が無かったっていうことは……ジャングル? いや、違う、海岸……?」
困惑している様子の少年を見ているうちに、ピットはふと連想するものがあった。それはこのエリアに降り立って間もないころ、女神と交信していた時のこと。
突然にテレパシーが乱れ、それを女神は『妨害』だと言っているようだった。
――そうだ。もしかしたらこのエリアの人間たちや、リュカ君が肝心なところを思い出せないのも……
そう考え、ピットはリュカにこう伝える。
「焦らないで大丈夫。その映画、一度見ただけなんでしょ? それなら十分覚えてる方だよ」
翌朝、二人の姿は再びハイウェイバスの中にあった。
今度の行き先、フォーサイドには用事のある人も多いのか、スリークの時に比べるとたくさんの人が乗り合わせていた。リュカが乗ったときはすでに席も埋まっていたのだが、子供が一人で乗ってきたのを見た人が席を譲ってくれて、そのおかげで座ることができた。
「気にしないで。私もあなたくらいの子供がいるの」
譲ってくれた女性はそう言って、リュカに笑いかけた。
バスがトンネルを抜けた先、その向こうに開けたのは一面の砂漠。
照り付ける日射しに陽炎が揺らめき、地平線の彼方まで続いていそうなほどの、雄大な砂の海原。直線道路を走っていくバスの車内では、さっそくカメラを取り出して窓の外の風景を写真に収めている人もいた。
――バスがあってほんとに良かった。この灼熱の砂漠を歩きでって言われてたら、申し訳ないどころじゃなかったよ……
そう思いながらピットはリュカを見上げ、そこで彼がやけに真剣な顔をして車窓の風景を見つめていることに気づく。
もしかしたら、この砂漠が例の映画に出てきていなかったかどうか思い出そうとしているのかもしれない。
ピットの予想は当たり、リュカはしばらくして上の空の様子でこうつぶやいた。
「……地下の、洞窟……ダイヤモンド……。でもあれは…………じゃあたぶん、帽子の子、もうここには……」
そこで砂漠は途切れ、バスは再びトンネルに入る。
少しして暗いトンネルを抜けた先には、もう砂漠は無くなっていた。バスが走る橋の向こう側には青い湾が広がっている。
リュカはようやく我に返った様子で目を瞬き、のろのろと座席に背を預けた。
バスは橋を渡って次のトンネルに入る。暗くなった車内、まだどこか気落ちした様子でいる彼を見て、ピットは何か声を掛けてやりたくなった。だがここではあまりにも他の人との距離が近すぎて、声を出そうものなら驚かれてしまうかもしれない。
――下手に動くこともできないや……さっきなんて、後ろのちびっ子に『それ、本物?』って触られそうになったもんなぁ……
ため息をつくのも心の中だけにしておいて、ピットはバスの向かう先に目をやった。
折しもバスはトンネルを抜け、その向こうに現れた光景を見て、思わず声が出てしまう。
「わ……」
「これ……これが全部、町……?」
リュカもちょうど驚きの声を上げていたおかげで、ピットの声は誰にも気づかれずに済んだ。
二人が見つめる向こう、バスが向かっていく先の岬に見えてきたのは、朝の日射しを受けて水晶のようにきらきらと輝く高層ビル。しかも、一つや二つどころではない。それが岬いっぱいを埋め尽くすようにしてずらりと肩を並べているのだった。
しかしピットの方には、どこかで見覚えのある風景でもあった。終わりのないパレードが続いていたエリアも、あんな感じの“摩天楼”が建ち並んでいたものだ。
二人が驚いている間にもバスは大橋を走り抜け、窓の外の街並みはぐんぐん伸びあがって見上げるような高さになり、ついにはてっぺんがバスの窓の高さを突き抜けて見えなくなってしまった。
フォーサイドに到着したとアナウンスがあり、バスは街の入り口辺りで停車した。どうやらここが終点のようで、車内のお客は全員ここで降りていく。半ばその人の流れに飲まれるようにして、二人もバスを降りていった。
バスに乗っていた人々がそれぞれに目的地へと散っていく中、リュカはバス停の傍に立ち尽くし、すっかり呆気にとられた様子でフォーサイドの街並みを見上げていた。やがて彼はぽつりと呟く。
「もしかして……これが、ほんとの“トカイ”だったのかな」
「本当の都会じゃない方って、昨日君が言ってた、例の王様の街のこと?」
ピットの問いかけに、リュカはこくりと頷いた。
「……はい。“ニューポーク”って街です。あれはなんか、ヘンテコな場所でした。僕らの村に“かんこう”で来てた人は、みんなその街から来たって言ってて、よくニューポークの自慢話をしていたんです。それでタツマイリのみんなも『トカイってどんなところなんだろう』って、すっかり憧れちゃって……でも、行ってみたらなんていうか……大した事なかったんです。うるさくてごちゃごちゃしてて、でも薄っぺらくて、とりとめがなくて。あれは、なんて言ったらいいのかな……」
言葉を探すように宙を見上げていたが、少しして彼はこちらに顔を向け、こう切り出した。
「――甘いものとかお肉って、嫌いな人、あんまりいないですよね。でもご飯の時に甘いものやお肉の料理ばっかり、テーブルからはみ出ちゃいそうなくらいに並べられたらどう思いますか? こってりしたパフェとか、分厚いステーキとか、甘ーいタルトにクリームたっぷりのケーキとか。嫌いなものを指させばどれでも片づけてくれるし、シチューも甘口で、苦い野菜はどこにも入ってないんです」
「それは胸やけしちゃいそうだね……。つまりその街は、王様の好きなものばっかり寄せ集めてできた、とても偏った街だったってこと?」
「そうなんだと思います。それによく見たら建物も張りぼてばっかりだったり、遊具もただの模型だったり、なんだか慌てて作ったみたいな、とても変な街でした。あの時はこれがトカイなのかなって思いかけてましたけど……もしかしたらキングPはフォーサイドみたいな、本物の“だいとかい”に憧れて、あんな街を作ったのかな……」
「……キングPって?」
初めて聞いた言葉に、ピットは何気なく問い返す。するとリュカははっと目を瞬き、こう尋ねてきた。
「今、僕が言ったんですか?」
「え……? うん。……たぶん、それが王様の名前ってことだよね?」
「キングP、キングP……そうだ、あの王様は自分のこと、そういう風にも呼ばせてました。でも本当の名前が別にあって……確か……」
言葉は、そこで途切れてしまう。
それでも眉間にしわを寄せ、なんとか記憶を手繰り寄せよう、思い出そうと苦心している様子だったが、やがて彼は残念そうなため息をついてピットに謝った。
「――すみません。なんだかうまく思い出せなくて」
「大丈夫。今もキングPのことを思い出せたんだし、僕らは間違いなく前に進んでるよ。きっとこの街でいろいろと調べるうちに、また何か思い出せるかもしれないよ」
そう言って、ピットはリュカを励ました。
フォーサイドのメインストリートを真っ直ぐ向かった先には、ひときわ高いビルの集まった区画があるようだった。二人は、ひとまずはそれを目印として進んでいくことに決めた。
道行く人々は流石都会というべきか、今までの町に比べるとせかせかと忙しそうな足取りで歩いており、リュカが声を掛けようとする間に通り過ぎられてしまうこともしばしばあった。それでも少しずつ人を捕まえ、例の『赤い帽子の男の子』について知っていることはないかと尋ねていく。
どうやらここでも少年たちの活躍があったらしく、通じる人にはすぐに通じ、おおむねこういった答えが返ってきた。
「そうそう、懐かしいなぁ! フォーサイドが今みたいにすがすがしい街になったのも、思えばあの子たちのお陰だったんだよね」
「昔はねぇ……なんとかっていう大富豪がこの街を牛耳ってたのよ。牛耳ってたって、分かる? 牛の耳って書くのよ。……わたしもなんで、それが牛の耳なのか分からないけどねぇ」
「あの時は暗い時代だった。大富豪の手腕でフォーサイドもすこぶる発展したもんだけど、でもなんだかいやーな雰囲気だったんだ。警察も弁護士も全部、大富豪の言いなりになっててさ、無辜の市民が土地をだまし取られたってウワサも聞いたもんだよ」
「その大富豪も、元々はなんてことない、しがないおじさんだったって話よ。でもある時『悪魔』と取引して、それで権力を我が物にしたって。……あくまでウワサよ」
「『悪魔』はもう退治されちゃったって話だけど、あんなにデカい力が手に入るんなら、子供たちに退治される前に一度でいいから拝んでみたかったな~なんて。いやいや、冗談だよ」
街の人々は『男の子』に関する話題で自分が知っていることを、自ら進んで教えてくれた。だがやはりそこには、『帽子の男の子』の名前だけが欠けているのだった。
それでも新しい街に来たことで、いくらか収穫もあった。
行く手のビルを真っ直ぐに見つめ、何かをじっと考え込みながら歩いていたリュカは、やがてこう切り出した。
「……やっぱり、この街もそうです。あの映画に出てました。あのデパートとか、博物館、劇場、あのビルの看板も……あそこの辺りに主人公の男の子が立ってて、何かで記念撮影してたのも覚えてます」
ピットはこれを聞き、肩に掴まっていたところから思わず身を乗り出す。
「それじゃあ、フォーサイドを支配してたっていう大富豪のことも?」
「はい。ただ……確か、直接会いに行く前に、男の子は“だいふごう”のおじさんに力をあげてた『悪魔』を倒してて、おじさんもすっかり心を入れ替えて謝るんです。だから、そんなに悪そうな人じゃなくなってて」
「へぇ、悪魔を倒したのか……ますます“キーパーソン”らしくなってきたね」
そんなことを話しているうちに博物館の隣を通り過ぎ、突き当りの区画へ差し掛かる。二人が見上げる先、目的の高層ビルがその堂々たる長身を露わにし、そのてっぺんで雲の腹を突かんばかりにすらりと伸びあがっていた。
ビルの四つ角を支えるようにせり出した部分には、『MONOTOLY』という文字が書かれてあった。
「モノトリー……?」
そう呟いて読み上げたピットの横で、リュカがあっと声を上げる。
「――そうだ、モノトリーさんだ。あのお金持ちの名前です。……でもおかしいな、モノトリーさんが良い人に戻ったなら、あのビルも手放してると思ったんだけど……」
「看板の文字を入れ替える暇が無かったんじゃないかな。あんな高いところに書かれてたら、交換するのも楽じゃなさそうだよ」
ピットの推測通り、そのビルの持ち主はすでに別の人に変わっていた。
すれ違うビジネスマンに物珍しそうな目を向けられつつも、リュカはその肩に小さな友人を乗せてビルの入り口、その上に掲げられた建て書きを見上げていた。
「エンリッチ・フレーバービルって書いてあるね」
ピットがそう言い、リュカも頷く。
「……看板の横、剥がした跡あります。ここだけ直したのかな」
そう見上げる彼の横顔は、少し残念そうでもあった。ピットにもその気持ちはよく分かった。
自分も数多くのエリアを巡り、様々な障害に出くわしてきたが、ここまで苦戦したのも珍しい。何しろ今回は、このエリア内で一日が経過したというのに、未だにキーパーソンが誰なのかもわかっていないのだ。名前を聞くか、せめて姿を一目見ることさえできたなら、封筒に名前も浮かび上がり、キーパーソンの確証が得られるのに。しかしここでは、エリアの住民も肝心の部分で記憶がぼかされているので、少年の名前はおろか、その足取りを追うこともおぼつかない。
頼みの綱はほぼ一つ、リュカの見た『冒険映画』の筋書。
それも、スリークではすでに少年たちが立ち去って久しく、このフォーサイドでも、かつてあったはずの『モノトリービル』という名前が削られ、着実に“過去のこと”になりつつある。赤い帽子の男の子に巡り合うための手掛かり、痕跡は、もしかしたらこのエリアの至る所から……すでに失われつつあるのかもしれない。
そんな最悪の予想まで思い浮かんでしまったところで、ピットははたと気づいて、カブトムシのツノごと頭を横に振る。
――僕が弱気でどうするんだ。落ち込んでいる場合じゃない。このエリアはただでさえ“危険”だって言われてるんだから、気をしっかり持たないと!
ピットが気合を入れなおしているうちに、ふっと周りが暗くなる。
驚いて顔を上げると、そこはまるでホテルのエントランスのような趣の、シックな色合いのホール。小高い天井には都会的なデザインのシャンデリアがぶら下げられている。そして周りには、せかせかと出入りするビジネスマン達。どうやらいつの間にか、リュカがエンリッチ・フレーバービルの中に足を踏み入れていたらしい。
「……忙しそうで、お話聞くどころじゃないですね」
辺りを見回しつつ歩いていくリュカの周りで、大人たちはまるでリュカのことなど目に入っていないかのように、足早に歩いていく。腕時計を見たままビルを出て行き、あるいは鞄を片手に颯爽とエレベーターに乗り込み、とてもではないが呼び止められる隙など見つけられそうにない。
そんな大人たちをあっちにこっちにと避けながら歩いていたリュカは、不意に目の前に現れた人影に驚き、その場に立ち止まった。
「きゃっ!」
軽く驚きの声を上げたのは、金色の髪を赤いリボンでまとめたお姉さん。周りの大人たちとは違い、彼女はメイドが着るようなデザインの、青紫色のエプロンドレスを着ている。
「あらっ、ごめんなさいね。ちょっとお買い物のこと考えてて、気が付かなくて……。小さなお客様、本日はどういったご用件かしら?」
顔の横に落ちかけた髪をすくいつつ、彼女はリュカに目線を合わせるようにちょっと身をかがめた。
ここで立ち止まってくれたのを好機と捉え、リュカは思い切って彼女に尋ねる。
「探してる人がいるんです。もしも何か知ってたら教えてください。……赤い帽子の男の子って、このビルに来てませんでしたか?」
それを聞き、彼女はぱっと顔を明るくした。
「帽子の! ええ、あの親切な方でしょう? もちろん覚えていますわ。私が探していた“マシン”を譲ってくださったの」
それから彼女は何かが引っかかった様子でふと宙を眺め、やがて考え込みながらこう続ける。
「あら……でも私、そもそもなんで“ぐるめとうふマシン”なんて探してたのかしら……」
「ぐるめとうふマシン、ですか?」
「ええ、そうよ。いちごとうふも作れる優れものなの」
“いちごとうふ”という単語を聞き、思わずピットは話に首をつっこみたくなったのだが、ぐっとこらえてその言葉を飲み込む。
その様子にはもちろん全く気付かないまま、メイドのお姉さんはこう続ける。
「きっと大切なお客様がいちごとうふをご所望だったとか、そんな感じのことだったと思うのだけれど……特に今はお客様も来てないの。だからたぶん、赤い帽子の方が来たのもずいぶん前ね。このマシンもあれっきり出番が無くて、ちょっとかわいそう」
「あの……ずいぶん前って、どのくらい前か覚えてますか?」
「えぇと、そうね……確か、前のご主人様がこのビルにいらっしゃった時だったはず……」
メイドのお姉さんは宙を眺めて小首を傾げ、思い出そうと苦労している様子だったが、それ以上言葉は続きそうになかった。
それを見てとり、リュカはこう伝える。
「……だいじょうぶです。だいたい分かりました」
メイドのお姉さんも、『帽子の子』の名はその記憶から欠けてしまっているようだった。服装、特徴、持ち物を聞き出し、そのついでに思い出してくれないかと期待したのだが、話題が名前のことに差し掛かると、不意にピントがぼけるように曖昧な返答になってしまうのだった。少年たちがその後どこに向かったのかも、聞いた記憶は無いという。
結局その後、買い物があるからということでお姉さんとは別れ、リュカは再び、せわしないビジネスマンの往来に取り残される。
ざわめきに紛れる程度の小声で、ピットはリュカにこう尋ねてみた。
「……どうする? エレベーターで上の階、行ってみる?」
彼から返事が返ってくるまでには、ほんの少しの間が空いた。
リュカはややあって、気掛かりな様子で眉根を寄せ、こう返す。
「それなんですけど……ちょっと変なんです。さっきのいちごとうふの話、映画には出てきてなかったような気がしてて……」
「えっ、本当?」
思わずちょっと声が大きくなってしまい、慌ててピットは小声に戻してこう続ける。
「――でもさ、そういうこともあるんじゃないかな。ほら、小説とか漫画とか、映画化するとどうしても端折られちゃうエピソードとかあるでしょ?」
「そういうものなんですか……?」
いまいちぴんと来なかったらしく、リュカは戸惑った顔でそう返した。
「そういうものだよ。特にあの男の子はこれから世界を救うんだよね? どこを取っても波乱万丈のエピソードだらけで、全部を映画にしてたら、とてもじゃないけど一、二時間じゃ収まらないんじゃないかな」
そう説明してから、ピットはこう付け加える。
「まぁでも……端折られるとこって大抵本筋とは関係ないところが多いから、このビルのことはあんまり気にしなくても良いかもね。もう前のご主人、モノトリーっておじさんもこのビルにはいないみたいだし」
その後も隣のデパートや博物館に立ち寄り、『帽子の少年』についての手掛かりがないかと探り、人々に尋ねて回った。
だが二人はじきに、大都市ゆえの難点があることに気づく。
「どこに行ったかって? いいや、知らないなぁ」
「いやー、そこまではちょっと……僕も知り合いから聞いただけだからね」
「何しろふらっとやってきて、ふらっと行っちゃったようなものだから」
「そう。ぜーんぜんアピールしてかなかったのよ」
「『どこそこに行くから支援してくれ』とか、そんなことは一言も」
「無欲といえば無欲なのかねぇ」
フォーサイドは一日を通して人の出入りが多く、それだけに少年たちの活躍も断片的にしか見ていない人がほとんどだった。彼らを直接見た覚えがある、というだけでも十分に珍しい部類に入るくらいだ。
彼らの口から紡がれるのはどれも、どこか無関心さを感じるほどにあっさりとした答え。それがこのエリアを覆う何らかの“妨害”を受けているせいもあると分かっていても、街を悪魔から救った少年に対して、彼らがあまりにも素っ気ないように思えてきてしまった。
そうしているうちに昼過ぎになってしまい、ピットの提案で二人は一旦休憩を取ることにする。
博物館の裏手に広がる憩いの広場。草地の外周に置かれたベンチの一つに座り、リュカはさすがに少し、疲れた顔をしていた。
「ここにはいないみたいですね……ここの次は確か、どこか海沿いの街、だったはずなんですけど……」
「そこがその子の、旅の終点だったの?」
「……いいえ。そこからまだまだ続いてました。遠い国からやってきたプー王子が仲間になったあと、海を渡って、砂漠を越えて、ジャングルを抜けて、地底の大陸まで……それに、夢か本当か分からないような場所にまで」
そこで、リュカは落ち込んだ様子でうなだれる。
「だから海沿いの街に行っても、ここと同じことになるかも」
「大丈夫。それなら最後まで、足跡を追いかけるまでさ。だって、ほら、考えてみてよ。君の見た映画は男の子の旅が終わるところまで描いてたんでしょ? それなら僕らが見て回るべき場所には終わりがあるはず。その子が訪れたところを一つ一つ巡っていって、そうすればいつかは追いつくはずだよ」
ピットの方は、今までにも何度も、キーパーソンの幾人かが行方不明になっていたり、各地を転々としていた事例に出会っている。その場合は基本的に、辺りの人々にキーパーソンの名前を出してその近況を聞くことで、何とか追いついて手紙を渡していた。
今回のエリアでは肝心な部分で情報が得られないことばかりだが、根気強く続けていればいつかは、欠けたピースも埋めることができるはず。
そんな思いから伝えられたピットの励ましに、リュカはややあってちょっと笑顔を見せ、頷いた。
「……そうですね。それじゃあまずは、海沿いの街ですか?」
「そうしよう。……あ、でもまずはお昼にしようよ。ほら、腹が減っては戦ができぬって言うでしょ?」
光の女神がピットに与えた“変身の奇跡”には姿を変えるほかに空腹を紛らわせる効果でもあるのか、すでに丸一日が経過しているというのに、ピットは全くお腹が空いていなかった。
フォーサイドのベーカリーでお昼のパンを買うときに、自分ばかり食べるのは悪いと思ったようでリュカがクッキーを一袋買ってくれたのだが、それにも結局手を付けず、手紙と一緒に自分の鞄に仕舞ってある。
リュカはベンチに座り、スキップサンドという名前のサンドイッチを食べていた。ピットもその肩から降り、ベンチの上で休憩していた。
少年が黙々とサンドイッチを食べている間、ピットは青空を眺めて考え事にふけっていた。
リュカが食べ終えたタイミングで、ピットはこう声を掛ける。
「――リュカ君。そういえば、ちょっと気になったことがあって」
「気になったこと?」
「うん。君が前に、王様の街で見た映画についてなんだけど。自分の好きなものばかり集めて、嫌いなものは追い出してたっていうくらいワガママな王様ならさ、自分のことを褒め称えるような映画を作るはずじゃない? なのに、自分以外の男の子を主人公にしてるなんて。……例えばさ、王様にそっくりな人が出てきて、その男の子を事あるごとに助けてくれたりとか、絶体絶命のピンチの時に助けに来るとか、そういうことは無かったの?」
言い終えて見上げると、リュカは驚いた様子で目を丸くしており、少しして思い出したように返答がかえってくる。
「……いいえ。そういえば、無かったです。そういうのは」
それから彼は顎に手を当て、思い出しながらこう続ける。
「でも、確かに変ですね……キングPはあんなにたくさんの人たちを手下にして、ニューポークに自分の大きな像を建ててたり、自分を称える歌をバンドに歌わせてたり……そもそも、自分のこと王様って呼ばせてるくらい、“自分だけ”って感じだったのに。あの映画だけは全然……」
「そっか……じゃあもしかしたら、それはキングPが作った映画じゃなかったのかな。昔どこかで誰かが作った映画で、それを気に入ったキングPが映画のフィルムを手に入れて、街で流してるとか。だとしたら王様が出てこないのも分かるんだ」
ピットはそう言ってみたが、リュカは依然として怪訝そうな顔をしたまま、首を傾げた。
「……僕らも、映画館ではそう思ってたんです。でも……僕らがキングPのいる、ニューポークのビルの最上階を探してた時――どこもなんだかヘンテコな階ばかりだったんですけど、一つだけ、はっきりと立派で金ぴかな階があったんです。幅が広くて、長い廊下。赤い絨毯を歩いていくと、次の部屋では部屋の中に川が流れてて、そこをゴンドラに乗って進むんです。そして川の左右には色んなものが飾られてて……どれも、映画で出てきたものばかりだったんです。それに――」
それから彼はポケットを探り、何か赤いものを取り出した。それは、何の変哲もないヨーヨー。少し古びていて塗装が欠けている部分もあるが、保管状態が良かったのか、表面はつやつやと輝いている。
「これはニューポークのビルとは違う場所で手に入れたものなんですが、これも映画で出てきてたような気がするんです。それにこのヨーヨーを守ってたメカは、このヨーヨーのことを、『キングP様の大事な宝物』、『友達のヨーヨー』だって……」
「友達……?」
今度はピットの方が考え込む番だった。
「――うーん、なるほど……もしかしたらそれって、映画の特典とかで友達が貰ったものをプレゼントされたとかかな。映画のセットをレプリカで再現しちゃうくらいの熱心なファンだったみたいだし、それを大事に取っておくのも分からなくもないけど」
「……」
リュカからの返事は返ってこない。見上げると、彼は膝の上で、赤いヨーヨーを両手で包むように持ち、それをじっと見つめて考え込んでいる様子だった。どこか遠くに思いをはせ、悩んでいるような、悲しんでいるような面持ちをしている少年。声を掛けるべきか、もう少しそっとしておいた方が良いか、ピットが迷っているうちに、その耳に街の雑踏とは違う音が聞こえてきた。
リュカがベンチの背越しに後ろを振り返り、ピットも急いでベンチの背をよじ登り、道路の方角に注意を向ける。
陽気なブルースの音楽と共に通りを走ってきたのは、真っ黒なミニバス。その車体の側面には『TONZURA』という文字が書いてある。賑やかで楽しげな音楽に半ばつられるようにして、二人はそのミニバスを何となく目で追いかけていた。
ミニバスは二人の前を通り過ぎ、向こうの角を曲がって見えなくなりかける――が、そこで急にブレーキを踏んだかと思うと、バックで戻ってきた。
そのままかなりのスピードで後退してきたミニバスは、驚いているこちらのちょうど真ん前に停まる。
前の席も後ろの席も、開けることのできる窓が全て開き、お揃いの黒いスーツを着た男たちが顔を出した。幾人かは楽器をその手に持っている。どうやら先ほどの音楽は生演奏だったらしい。
黒のスーツでありながらも何となく陽気そうな雰囲気のある彼らは、少しして怪訝そうに眉をひそめる。
「あれっ?」
「ほら、やっぱり他人の空似だよ」
「でもどこか似てるよーな……」
そう口々に言っていたが、こちらがぽかんと呆気にとられた表情をしているのを見て取り、赤いサングラスが特徴的なお兄さんがこう言って謝った。
「ああ、ごめんよ坊や。おじさん達の勘違いだ。気にしないでね」
他のメンバーもそれぞれに謝ったり、照れくさそうに笑って頭を下げ、窓を閉めようとする。
それを、リュカが急いで呼び止めた。
「――それって、赤い帽子の子ですか?」
それを聞き、陽気なスーツの男たちは「おお!」とどよめく。どうやら当たりだったらしい。
「なんや、知り合いやったか!」
「道理で似てると思ったよ。雰囲気っていうか、顔立ちっていうかさ」
彼らは人呼んで“トンズラブラザーズ”。ブルースを専門にしているミュージシャンだという。
彼ら曰く、『赤い帽子の男の子』には今まで二回も世話になっている。というのも、“うっかりしていて”シアターの支配人に不当な契約書を結ばされ、多額の借金を背負わされていたところ、例の男の子がやってきて二回とも助けてもらったのだとか。
そこまで関わりのあった彼らなら、もしかしたら男の子の名前を覚えているかもしれない。二人は一縷の望みに賭けて尋ねてみたが、残念なことに六人が全員とも、彼の名前を忘れてしまっていた。
トンズラブラザーズのメンバーは互いに顔を見合わせ、誰も思い出せない様子であるのを知ると、悔しげな様子で首を横に振る。
「なんてこった! おれ達の恩人だって言うのに、これじゃあ面目が立たないぜ」
「えぇっ、誰も覚えてないの? そんなことってある?」
「いやいや、絶対覚えとるはずじゃ。そがいに昔のことじゃぁない」
「ここ、ここまで出とるのになぁ……!」
もどかしそうな顔をしている彼らに、リュカはこう声を掛けた。
「名前は大丈夫です。僕らもたぶん同じで、全然思い出せないので……。あの、じゃあ、その子が今いそうな場所って知ってますか?」
今度はすぐに反応があった。
思い出せたことに少なからず安堵している様子で、彼らは口々にこう言った。
「ああ。サマーズに行くって言ってたな」
「サマーズ、知ってるかい? 青い海、白い砂浜で有名な観光地だよ」
「でも、そのためのヘリが盗られちゃったらしくって」
「ほいでスリークまで、あの子らを送ったんや。代わりの何かがあるっちゅう話だったかな?」
これを聞き、ピットは傍らのリュカにささやく。
「海沿いの街……! 君の予想は当たりだよ。サマーズへの行き方を聞いてみよう!」
ところが、リュカはすぐには頷かず、何かをじっと考え込んでいる。
やがて彼が小声で切り出したのはこんな言葉だった。
「……もう一度、オネットに戻りませんか?」
「オネットに?」
そう聞き返してから、ピットはふと気が付く。リュカにはどこか、普通の子供以上に勘の働くところがある。この提案も、何か理由があってのことだろう。そう考え、彼はリュカにこう確認した。
「――何か気になることがあるんだね」
「はい。……フォーサイドまで来てやっと気付いたんですが、オネットから離れれば離れるほど、なんだか楽になる感じがしたんです。なんていうか、空が広く感じるというか、空気が軽くなったというか……。オネットにいた時は全然気にならなかったんですけど、でも今と比べると全然、“重さ”が違うんです」
真剣な面持ちでそう言ったリュカ。
そんな二人に、ミニバスの方からこんな声が掛かった。
「君たち、オネットまで行きたいのかい?」
運転席の男も助手席側に身を乗り出してこう言う。
「ここで会ぅたのも何かの縁じゃ。道の都合でツーソンまでになるが、乗っていきんさい」
リュカが何か答えるのも待たず、ミニバスのスライドドアが開かれる。
後部座席に乗っていたメンバーも、リュカのための席を開けて手招きする。
「遠慮せんとって。わしらもちょうどあっち方面に向かうところやったから」
「そうそう。ここからオネットまで歩きは大変だよ」
結局トンズラブラザーズの熱意に押され、二人はミニバスに乗せてもらうことにした。
「さぁ、ノリノリで行くぜい!」
一人の掛け声に、他のメンバーも拍手と声で応える。エンジンが唸り、ミニバスは意気揚々と走りだした。
助手席の男がオーディオのスイッチを捻ると、再び陽気な音楽が流れだす。後部座席でも幾人かのメンバーがさっそく楽器を取り出し、楽器の無い者も歌ったり、膝を手で叩いて伴奏をつけていく。
全開になった窓の向こう、歩いていく人々がブルースを聞いて振り返る。ミニバスを認めると誰もが喜びを露わにし、大きく手を振っていた。中には、走って追いかけようとする者までいる。リュカがその様子を驚いた様子で見ていると、隣に座っていた赤いサングラスのお兄さんは演奏の手を止め、ちょっと得意げにこう言った。
「僕ら、イーグルランドではちょっとした有名人なんだよ。今はツアーライブ中でね。“トンブラ”のトラベリング・バスに乗れたこと、きっとクラスメイトに自慢できるよ」
「クラスメイト……?」
リュカがきょとんと目を瞬き、そう返す。そんな彼に、今度は後ろの座席からこう声を掛けられた。
「なあ、坊や。その肩のはトランシーバー的なモノなのかい?」
「えっ! あ、これは、その……」
答えに窮してしまったリュカに、痩せ型でサングラスの男は気にする様子もなくこう続ける。
「保護者の人とつながってるんだろう? 流石にその年で一人旅は危ないだろうからね。良いアイディアだと思うよ」
そう解釈してくれたので、ここぞとばかりに元気よく、ピットはこう答えた。
「どうも、お世話になってます!」
「やぁ、どういたしまして。旅は道連れ、世は情けってやつさ」
そう言って、痩せ型の男は軽く帽子をあげて挨拶を返した。
そんなやり取りをしているうちに、あっという間にフォーサイドの摩天楼は窓の外を過ぎ去り、やがて街を出るトンネルが見えてくる。
湾に架けられた橋を渡り、トンネルを抜けて砂漠の道路を走り、二人が来た道を順調に戻っていく。車内ではオーディオの音楽に負けないくらい、トンブラのメンバーたちが賑やかに会話していた。
「ツーソン、思い出深い町だなぁ。思えばあの子と初めて出会ったのもあの町だった」
「いやぁ、あん時はもうダメかと思うとった! 支配人にどえらい借金掴まされてなぁ」
「それが今じゃ、頼まれてライブしに行く立場だもんね」
「あのライブハウスで収まるかなぁ?」
「そんときは野外ライブじゃ」
「いいね! ツーソンをグルーヴィに揺さぶろう! スリークにも届くくらい――」
と言いかけたところで、別のメンバーがふと何かを思い出し、リュカに向けてこう尋ねてきた。
「そういえば君たち、確かスリークからバスで来たって言ってたよね。どうだった? あの町、元通りになってたかい? なんせこの前は、浮かれてる間に通り過ぎちゃってたから」
「えぇと、はい。たぶん……」
リュカがそう答えると、男たちは感嘆の声をあげる。
「あの子らのお陰やな」
「まったく、大したもんだ!」
「スリークを襲ってたオバケ達の話も聞いてるよね? あいつら、ツーソンにつながるトンネルにまで出しゃばってたんだよ。僕らがツーソンにいたころ、あの子たちがトンネル通れなくて困ってるって聞いて、お世話になったお礼にスリークまで送ってあげたんだよね」
「きっとあの後、オバケ相手に大立ち回りしたに違いない。頼もしい子供たちだなぁ」
ひとしきり語り合い、懐かしむように頷いていた男たちだったが、やがて一人がぽつりとこうつぶやいた。
「こんなにはっきりと思い出せるのに、おかしいな……なんであの子の名前だけ思い出せないんだろう」
助手席でも指で数えつつ、小太りのメンバーがこう言う。
「ツーソンのポーラちゃん、ウィンターズのジェフ君……」
しかし、三本目の指は中途半端に立てられた位置で止まってしまい、彼はそのまま唸っていた。
「……うぉー、あかん。思い出されへん」
彼が頭を抱えたその横、運転席でそれを聞いていた男が不意に息をのみ、こう言った。
「――オネットじゃ!」
後部座席でもメンバーがざわめきたつ。
「そうだオネット!」
「あの子はオネットの出身だ!」
途端に彼らは、まるで答えを見つけたかのように拍手し、座席越しにハイファイブまでする。
戸惑いつつも見よう見まねでそれに応えたリュカに、赤いサングラスの男は笑顔を見せてこう言った。
「これは音楽屋の直感だけどね、あの子はサマーズじゃなく、きっとオネットにいる。今はどこもかしこもすっかり平和になってるんだ。あの子がこれ以上冒険する必要はないはずなんだよ」
トンズラブラザーズのトラベリング・バスはツーソンの劇場を通り過ぎ、車道が続いているぎりぎりの町外れまで二人を送ってくれた。
「オーケー、ブラザー! 着いたぜ!」
「すまんのぉ。車で行けるんはここまでじゃ」
「ここから先は歩きになるが、気を付けていけよ」
「あの子に会ったらよろしくね!」
歩道側の窓を全開にし、トンブラのメンバーたちは口々にそう言ってリュカ達に手を振っていた。二人がお礼を言い、手を振り返す向こう、黒いミニバスは走りだし、角を曲がって見えなくなる。
「さ、行こうか」
そう言って何気なく見上げたピットは、リュカが何か懐かしむような顔をしていることに気づいた。
「あれ、どうしたの?」
声を掛けられたリュカは、ふと気づいて照れ笑いする。
「――あ、すみません。なんだかDCMCを思い出して、懐かしくなっちゃって」
「DCMC?」
「はい。音楽やってる人たち……えぇと、バンドって言うんでしょうか。ちょっと音楽の感じは違うかもしれませんけど。僕らも、DCMCの人たちに助けられたんです。その時のことを思い出してました。それに……実はトンブラの人たちも映画に出てたんです。主人公に助けられたり、助けたり、そういう話もそのまんま」
「だろうねぇ。だいぶ『あの子』のことにも詳しかったし、あれだけ関わってたら出てないはずないよね。映画で言うなら、あの人たちはきっと“名脇役”って感じだよ」
ピットの言葉に笑顔で頷き、それから少年はこう切り出す。
「お兄さん、あの子はオネットにいるはずって言ってましたよね。僕らがここに着いたばかりの時は『赤い帽子』のことを知らなかったから、うまく聞き出せなかったんだと思うんです。だからそのことを言ったら、きっと思い出してもらえるはず……」
リュカも、そしてその肩のピットも、森の向こう側に垣間見えるオネットの街並みを、期待を込めた眼差しで見つめていた。
昨日通った道を遡り、森の小径を抜けて、二人は再びオネットに戻ってきた。
ピットの目には他の町と変わるところのない、平穏な町並みにしか見えない。だが、彼を肩に乗せている少年は何かに違和感を抱いている様子で眉間に軽くしわを寄せ、なかなか次の一歩を踏み出せずにいた。
「やっぱり、何か重さを感じます」
「重さ……プレッシャーみたいなものなのかな?」
「プレッシャーかな……なんだか、こう、ずっと背中に視線を感じるみたいな、ちょっと嫌な感じです」
「その視線って、睨んでるとか怒ってるとか、そんな感じの?」
「……いいえ。今のとこ、ただ見られてる感じしかしないです。僕らの動きをじーっと見られてるような――」
そう言ってから、リュカは思い切って後ろを振り返ってみる。だが、そこにあるのは森の木々ばかり。誰がこちらを見ているというわけでもなさそうだった。
姿の見えない“視線”の主。しかし当面のところは何を仕掛けてくる様子でもなさそうだと判断し、リュカは聞き込みを始める。
ところが、町の人々から返ってきたのは怪訝そうな反応だった。
「赤い帽子の少年? それだけだとちょっと分からないなぁ」
「そういうのは私たち大人より子供の方がよっぽど詳しいわ。友達の誰かに聞いてみたら良いんじゃない?」
「帽子を被った子なんて、この町にはわんさかいるよ」
そこで二人は一旦作戦会議を挟み、今度はもっと条件を掛けて尋ねることにした。
ツーソンのポーラという女の子、ウィンターズのジェフという男の子、それからもしかしたら、ランマのプー王子。彼らと一緒に、世界を救うために冒険している男の子。
スリークでゾンビを退治した少年であり、フォーサイドでは悪魔の力に魅せられた大富豪を改心させた。
これならもう、『そんな子供はありふれている』なんて答えは出てこないに違いない。二人ともそう期待していたのだが――オネットの人々から返ってきたのは、呆れたような表情。
「あなた……マンガの読みすぎじゃない?」
「スリークやフォーサイドでそんな事件があったなら、テレビも新聞もその話題で持ちきりになると思うんだけど」
「映画館を探しなよ。とりあえず子供向けとか、アドベンチャーって書いてあるジャンルを片っ端からさ」
「そんな子供、オネットどころかイーグルランドのどこを探してもいるとは思えないけどなぁ……」
「いったい誰から聞いたの? 君、もしかして乗せられちゃってない?」
そういった答えが続いた後で、ようやく一人、こんな提案をしてくれた。
「ウワサはともかく、この町に住んでるのは確かなんだね。そうしたら図書館に寄ってみたらどうだい? 図書館では地図を貸し出してるからね」
「図書館って、この街の北ですか?」
「うん。ほら、あのバーガーショップが見えるかい? あの横の通りを北に歩けばすぐだよ」
お兄さんに教えられた通り、二人はまずバーガーショップのある辺りに向かう。
その横の通りは少し行ったところで車道が途切れ、舗装されていない道が奥の方まで伸びている。突き当りに図書館らしき広い建物があり、道はその左右にまだ伸びているようだった。
小手をかざして図書館の方角を眺めつつ、ピットはこう聞く。
「ここって確か、昨日は警察が封鎖してた道だったよね?」
「だと思います。もしかしたらこっちも封鎖しなくてよくなったのかな――」
と言いつつ歩いていたリュカの目に、赤い回転灯が映る。
「――あ、今日はあっちにいますね」
こちらから見て右奥側、緩い登り坂になっている方の道にパトカーが停まっていた。
「また封鎖してるの? お勤めご苦労様だねぇ……」
ため息交じりにそう言って首を横に振り、ピットはリュカの横顔を見上げてこう言った。
「あっちはとりあえず放っておこう。今は図書館に行ってみようか」
「はい」
そう答え、歩き出したリュカ。
と、今度は分かれ道の左側から子供たちの言い合う声が聞こえてきた。見ると、林につながる小径に小さな人影が二つ立っている。
「どうしたのかな……」
「……ちょっと見に行ってみよう」
半ばピットの言葉に促されるようにして、リュカは小走りにその方へ向かっていく。
図書館の裏手に広がる林。草地と木立の境に、二人の子供が向き合うようにして立っていた。
一人はぼさぼさ頭の男の子で、小さいながらも勇気を出してその場に踏ん張り、一歩たりとも動くものかという様子で相手を見上げている。
そしてもう一人は金髪でおかっぱ頭の男の子。こちらの方が身なりは良いが、いささか太りすぎのように見える。彼の方は腕を組み、偉そうにふんぞり返って、長い前髪の下から相手を見下ろしていた。
帽子の子ではなさそうだ、と内心でピットが残念に思っていると、不意にリュカの肩がわずかに震えた。
「リュカ君……?」
見上げた先、彼の青い目は動揺を押し殺し、微かに揺れ動いているようだった。
が、それ以上問う前に、林の際に立つ少年たちの方で進展があった。
おかっぱ頭の男の子がわざとらしくため息をつき、ぼさぼさ頭の子に向けてこう言った。
「困るんだよなぁ~。こんなところに勝手に小屋を建てられちゃ」
「な、なんだよ。なんのこと言ってるか分からないよ」
「あーあー、良いのかなぁ嘘ついて。?つきは泥棒の始まりだぞ。まったく、人様の土地に勝手に家建てるなんて良い度胸だよな」
それから彼はぐっと相手に顔を近づけ、その鼻先に指を突き付け、意地悪い笑みを見せる。
「お前、ふほーたいざいって言葉知ってるか? お前たち、みーんな警察にタイホされて、牢屋に入れられちゃうんだぞ。母ちゃんにはがみがみ怒られるだろうし、父ちゃんにもしこたま“けつ叩き”されるだろうなぁ」
「ポーキー! 脅かしたって、い、入れてやらないからな!」
ぼさぼさ頭の男の子がむきになって言い返すと、ぽっちゃり体型の男の子は一瞬、虚を突かれたように黙ってしまった。
ややあって、彼は生意気な口調でこう言い捨てる。
「……へ、へーんだ! どーせお前たちの作る秘密基地なんて、みすぼらしいボロ小屋なんだろ。頼まれたって入ってやるもんか!」
あっかんべーまでして見せて、彼は踵を返すとこちらの方角に歩いてきた。
面白くなさそうに口をへの字に曲げていた彼は、そこでようやく、自分たちのやり取りを見ていた人がいることに気が付く。
「お? なんだよ。ここらじゃ見ない顔だな……お前、どっから来たんだよ」
リュカの返事は無い。
こちらが何も言えない様子であるのを見て取ると、彼は小馬鹿にしたように鼻で笑い、その横を通って市街地の方に歩いて行ってしまった。
「……リュカ君、大丈夫?」
ピットが声を掛けると、リュカははっと気が付いて目を瞬く。
硬直が解けた彼だったが、その視線はおかっぱ頭の少年が去っていった方角を見つめたままだった。
「――ポーキー……?」
その目に渦巻く混乱には、様々な感情が入り混じっていた。焦りと恐れ、怒りと戸惑い。自分でも整理のつかない感情を、彼は首を横に振って一旦脇に除ける。
やがて彼が再び顔をあげてピットの方を見た時、その瞳にはいつもの落ち着きが戻っていた。
「すみません、大丈夫です」
「ほんとに大丈夫……? 無理しないで良いんだよ」
「大丈夫です。もう大丈夫。さっきのは僕のことなので……。今大事なのは、キーパーソンを見つけること、ですよね」
「それはそうかもしれないけど、一番大事ってほどでも――」
ピットがそう返したのが聞こえていなかったのか、リュカはそのまま歩き始めてしまい、ピットは慌ててその肩に掴まることになった。
ぼさぼさ頭の少年は、まだ林の際に立っていた。よく見ると彼の背後だけ、草地が踏みしだかれて平らになっている。さらにその道は奥の方へと続いており、どうやら先ほどの会話にあった“秘密基地”はこの先にあるらしい。
果たして、リュカに声を掛けられた少年は驚いたように目を丸くし、こう言った。
「あれっ。ここが隠れ家だって、分かっちゃったんですか?」
全くの初対面であるにも関わらず、ぼさぼさ頭の男の子はリュカのことを気前よく通してくれた。
不思議に思いつつも藪をかき分け、木の根を踏み越えて歩いていくと、その先にひときわ大きな木が現れる。その木の幹に架けられた梯子を目で追うと、枝の上、茂みに隠れるようにしてログハウス風の小屋が乗っているのが見えてきた。
「わぁ……!」
リュカは憧れの眼差しでそれを見上げ、感嘆の声をあげる。
彼くらいの年の子なら一度は憧れるものだろう。そう思いつつ、ピットは横から解説を入れる。
「いわゆるツリーハウスってやつだね」
「ツリーハウス……僕も帰ったら作ってみたいな」
そう呟き、リュカは梯子のところまで歩いていった。
そして頭上の小屋をもう一度見上げるも、誰かが出てくる様子は無い。じっと目を凝らしていたリュカは、ややあってこう言った。
「――気づいてるみたいですけど、別に嫌がられてる感じじゃなさそうです」
「さっきの見張りっぽい子も通してくれたもんね。上がってみても良いんじゃない?」
「そうですね」
頷きを返し、リュカは木製の梯子を一段一段、慎重に登り始める。
やがて梯子を登り切り、小屋のポーチらしきところにたどり着いたリュカは、小屋のドアをノックする。
「おー、入っていいぞ!」
中から少年の声がこう返し、リュカは扉を押し開ける。
小屋の中にいたのは三人の男の子たち。黒い帽子を目深にかぶった子、ウェスタン帽の子、そして赤い野球ヘルメットの子。三人は木製のテーブルにボードゲームを広げて囲んでおり、ちょうど遊んでいるところだったようだ。
入口に現れた新顔を見ても、意外にも彼らは慌てたり追い返したりすることもなく、むしろこんなことを言った。
「あ、お前、もしかしてあいつの新しい友達だろ?」
「えっ、あいつって誰のこと……?」
戸惑うリュカだったが、少年たちは全く気にせず、口々にこう返す。
「あっはっは、とぼけちゃって」
「ここのこともあいつに教えてもらったんだろ?」
「おれには分かるよ。なんかあいつが傍にいそうな、そんな雰囲気があるよ、お前」
笑顔を見せる彼らに、リュカは戸惑いから立ち直ると、思い切ってこう尋ねてみた。
「“あいつ”って、赤い帽子を被ってる子、だよね」
「ああ、そうだよ。赤い野球帽な」
入口に一番近い子がそう答えた。
「……僕、実はその子の名前、聞くの忘れちゃって。ここに来たら分かるかなって思って来たんだ」
「へー? 珍しいな。あいつの名前知らないなんて。もしかしてよその町から来たの?」
「まぁ……そんなところ」
リュカがそう答えると、別の子が興味津々の面持ちで身を乗り出した。
「え、引っ越してきたの? すっげ、久しぶりの転校生じゃん! なんかカッコいい!」
途端に他の二人もその話題に気を取られてしまう。
「どこから来たの? あ、待って、当ててみる。お前の感じからすると……ツーソン? いや、意外とスリークとか?」
「来て早々あいつの友達になるんだからな、こいつはなかなかの大物だぞ」
すっかり話が名前のことから遠のいてしまった。彼らの反応から、おそらくこれ以上名前を聞いても出てこないと思ったのか、リュカは話を別の方向へ切り替える。
「えぇと、あの子のことだけど、ここで待ってたら会える?」
「どうだろ? あいつ、今日ここに寄るって言ってた?」
そう別の子に投げると、その子も首を横に振る。
「いや、聞いてないよ。お前は?」
「いーや、おれも」
『男の子』の友達であるはずの彼らでさえ、彼の名前も、今の居場所も、住んでる家も記憶から出てこないようだった。
こちらが聞き出そうとすると、決まって話題が逸れてしまい、三人で盛り上がっているうちに勝手な方向に持っていかれてしまう。
これ以上尋ねるのは彼らにとっても、こちらにとってもためにならないだろう。リュカとピットは暗黙の裡に目配せをかわし、小屋を後にすることにした。
その後、オネット市立図書館を訪れた二人は、カウンターのお姉さんから無事に地図を貰うことができた。しかし期待と共にそれを広げた二人が見たものは、全くの白紙の地図だった。
あっけに取られていたのもつかの間、リュカは急いでカウンターの方に戻ってこう訴えた。
「あの……すみません。これ、何も描いてないみたいなんですけど」
「……えっ、ほんと? ちょっと見せて――」
リュカはお姉さんに地図を手渡すが、少しもしないうちにお姉さんはくすくすと笑って地図を返した。
「あんまり真剣な顔するから信じちゃったじゃないの。あなた、演技うまいわね。きっと俳優さんになれるわよ」
「え、でも、そんなはずは……じゃあ、この図書館はこの地図で、どこにあるんですか?」
「ああ、地図記号が違うとかそういうことだったのね。ほら、これ。ここが市立図書館よ」
お姉さんは平然として、白紙の一点を指さすのだった。
図書館から出たリュカは真っ白な地図を広げ、お姉さんが指さした場所に鉛筆で丸を描き、隣に文字を書き込み始めた。
地図と称して白紙を渡されたことの意味を考え込んでいたピットは、遅れてそれに気づく。
「何してるの?」
「……図書館の場所です。僕らの目には見えなくても、町の人には見えるなら、あとは建物の場所を聞いて書き込んでいけば……オネットの地図を完成させられますよね」
鉛筆を手に、リュカは珍しく、ちょっと得意げな顔をしていた。
「なるほど、頭良い!」
人通りの多い市街地に戻り、今度は白紙の地図を片手に人々を呼び止め、記憶にあるオネットの建物を片っ端から挙げ、所在を尋ねては埋めていく。時には地形や通りをなぞってもらったり、地名を書き入れてもらったりもした。
町の人にとっては妙な要求だったかもしれない。だが大方の人は、すでにはっきりと描かれた地図を改めて鉛筆でなぞってくれというこちらの要求を、面白がりながらも受け入れてくれた。
おかげで町の地図は、上三分の一程度を残してきれいに埋めることができた。その空白地帯だけは、指差して何があるのかと聞いても、誰も具体的に答えたり描いたりすることのできなかった場所だ。
「ここから北は……昨日もパトカーの封鎖で通れなかった場所だね」
図書館から上に広がる空白地帯を眺めてピットがそう言うと、リュカも頷いた。
「……今日は少し北の方まで引っ込んでましたけど、でもまだ道が塞がれてるところですね」
「僕の勘では、この道の先にキーパーソンの家があるんだと思う。でも昨日のやり取りがあったのに、まだパトカーで塞がれてるあたり、ここを通るのは一筋縄じゃいかないだろうね……。きっと何か、まだ条件があるんだ」
「条件……例えば、名前を突き止めるとかですか?」
「名前もあり得るけど、もう少し手前の、もうちょっと難しくない何か……例えばここに行ってみるのはどうだろう? まだ行ったことないよね」
ピットはカブトムシの肢を精一杯伸ばし、地図の一点を指さした。
図書館の手前の分岐点を左、すなわち西に行ったところ。その道の先にある丸には、『旅芸人の小屋』とあった。
再び町の北へと向かい、図書館の前で道を左に曲がり、少年たちの隠れ家がある林を横目に通り過ぎてさらにその先へと歩いていく。
と、リュカが何かを見つけて立ち止まった。彼の見る先には一枚の大きな看板が立てられている。
『この北の山の上「ジャイアントステップ」 危険、立ち入りを禁止する。』
看板にはそう書いてあった。
「ジャイアントステップ? 何かそういう題名の音楽があったような……」
ピットがそう呟いていると、リュカが声をひそめてこう尋ねてきた。
「……本当に行くんですか? なんだか、危険とか、立ち入り禁止とかあるんですけど……」
『危険』という言葉に、ピットの脳裏に一瞬だけ、エインシャントの判定がよぎる。
だがほどなくして彼は首を横に振り、それを追いやってしまった。この辺りは人通りも少ないとはいえ、市街地からさほど離れてはいない。本当に危険だというのなら、もっとあからさまに厳重な警備が敷かれているはずだ。
――それこそオネット警察の道路封鎖とか……いや、あんなのじゃ足りないな。
内心でそう考え、彼はリュカにこう伝えた。
「行くだけ行ってみよう。きっと何もないと思うけど、もしも何かあったらすぐに引き返せば大丈夫だよ」
「……分かりました」
まだちょっとだけ不安そうな顔をしつつも、リュカはそう言って頷き、再び歩き出した。
旅芸人の小屋は、妙な立地条件のところに建てられていた。
件の“ジャイアントステップ”があるという山のふもと、峠道をふさぐように木製の塀が立ちはだかっていて、一見すると小屋など無いように見える。だがよく見ると、塀の真ん中あたりにはちゃんと扉があり、塀の向こうには屋根も顔をのぞかせている。
どうやら、元々は峠道の入り口に小屋だけが建てられていたのが、後から無遠慮に建てられた木の塀に両脇から挟まれ、一体化してしまったらしい。『旅芸人の小屋』と書かれた看板があるおかげで、辛うじてここに小屋があると気づくことができる。
木製の塀には、やはりここにも『立ち入り禁止』と書かれたポスターが貼られていた。だが、扉の向こうの様子を伺うまでもなく小屋の戸が開いたかと思うと、赤い背広を着込んだ男が顔をのぞかせた。
「おや、どうしたんだ? その顔は『道に迷った』って風でもないね」
そう言った彼の後ろから、こんな声が聞こえてくる。
「さっきの子の友達じゃねぇの?」
「ああ、なーるほど。確かになんか雰囲気似てるもんな」
その言葉を聞きつけて、半ば反射的にリュカはこう尋ねていた。
「――それって、赤い帽子の男の子ですか?」
「そうだよ」
「それ、僕の……友達かもしれない人なんです。どこに行ったか知ってますか?」
「もちろん。ちょっと前にここを通っていったよ。例の“でっけぇ足跡”のある山には、入り口も出口もここ一つっきりだから、まだその子は山の上にいるはずだ」
その言葉を聞いた時、思わずリュカとピットは互いに顔を見合わせて喜びの声をあげていた。
長いこと暗闇に閉ざされていた道のりに、待ち焦がれていた光明がようやく差し込んだかのような嬉しさと安堵が、二人の心を包み込んでいた。人が見ている前であることも、すっかり忘れてしまうくらいに。
だが幸い、二人分の声が聞こえたことについて旅芸人には怪しまれずに済んだようだった。
はやる気持ちを抑え、リュカは旅芸人の男にこう尋ねる。
「あ、あの! 立ち入り禁止っていうのは分かってるんですけど……ここを通してくれませんか?」
「え、立ち入り禁止? ……ああ、このポスターな。気にしなくて良いよ。市役所の連中に勝手に貼られたやつだ。何やら、悪ガキ連中がここに勝手に入って騒いだとかいうもんでね。でもあいつらももう大人しくなったみたいだし、そのうち剥がそうと思ってたんだ」
そう言って旅芸人の男は扉を大きく開け、リュカを招き入れてくれた。
小屋の中は非常に質素だった。木製の椅子に机、大きめの本棚が一つ。部屋の隅にはスプリングの飛び出たベッドがある。そして何よりも目を引くのが、向かいの壁に開けられた大穴。穴の向こうにはそのまま外の景色が広がっており、山肌にぽっかりと開いた洞窟がちょうど真正面に見えていた。いったいこの壁の穴は、例の悪ガキ連中――シャーク団が壊したのを、直す余裕も無くてそのままにしているのか、それとももっと前からこのままなのか。
文字通り開放感のあふれる部屋を前に、反応に困っている様子のリュカ。
一方で旅芸人は取り繕うこともせず、ごく自然な調子で壁の穴を指さし、こう言った。
「あそこに見える洞窟を抜けていけば、山の上にたどり着けるはずだ。はずだって言うのも、おれ達は登ったことないからなんだよね」
椅子に座って本を読んでいたもう一人も、本から顔をあげてこう付け足す。
「そうそう。ぐれたネズミだの、むこうみずなナメクジだのがいるから、普通の人間は近づこうとは思わない。だがあの子もあんたも、只者じゃないんだろう? そんならおれ達、止めるなんて野暮なことはしないぜ。友達に会いに行ってきな」
小屋の壁に開いた穴をくぐり、外に出た二人の耳に、誰かの口ずさむ歌が聞こえてきた。
歌詞はほとんど聞き取れず、鼻歌のようにしか聞こえない微かなフレーズ。それでも、リュカは思わずその場で立ち止まり、ピットと共に山の上を、歌が聞こえてくる方角を見上げていた。
やがて、リュカがぽつりと呟く。
「この歌……どこかで聞いたことある……」
「――えっ、君も?」
驚きの声をあげると、リュカもびっくりしてこちらを向いた。
「ピットさんも、聞いたことあるんですか?」
「うん、たぶん……。それに、これって、もしかして……」
後半の呟きは、半ば独り言に近かった。
ピットの脳裏に去来していたのは、亜空砲戦艦を統べていた首領の男。彼がパイプオルガンで奏でていた音楽も、今とちょうど同じような既視感を覚えるものだった。だが、同じ音楽の続きとするにはずいぶん曲調が違っている。あっちを“合唱付きのオーケストラによる荘厳な交響曲”とするのなら、今聞こえるフレーズはもう少しはつらつとした勢いがあり、ブラスバンド向きのようにも思える。
つながりを感じない音楽に、共通する感情を抱く。初めて聞いたはずの音楽に、既視感を覚えている自分。
そのことから来る違和感が静かに、それでいて次第に膨れ上がりつつあるのに気づいたピットは、一旦それを横に追いやる。キーパーソンのことについてもそうだが、『見知らぬ既視感』を覚えた時の対処法として、一旦考えないようにするというのが、いつの間にかすっかり身に着いてしまっていた。
――それが良いことなのかどうかわからないけど……。
そうしなければ目の前のことに集中できないとはいえ、さすがに、その“棚上げ”を何とも思わないほどにはなっていない。彼は言い難い罪悪感のようなものに、内心で表情を曇らせていた。
外から見た時には、山というよりも丘に近いくらい小ぢんまりとした山だったはずだ。しかし、その内部に踏み込んだ二人を待ち受けていたものは、外見には釣り合わないほどに広大な洞窟だった。
山肌の隙間から差し込む光があたりをぼんやりと照らしており、それで何とか周囲の状況を知ることができる。これがもしも夜だったなら、洞窟内は完全な真っ暗闇になっていたことだろう。
リュカの立てた足音が幾重にも反響し、次第に小さくなりながら上に昇っていく。その音を耳で追いかけるようにして見上げていくと、ここから数階層登った先に出口があるのがうっすらと見えてきた。目指す山の頂上には、きっとあそこから行けるのだろう。
そしてその場所までは、誰が掛けたものか、各段差ごとに梯子が掛けられている。
とりあえずその梯子を登っていけば良いのだろうと見て、歩き出したリュカは、ふと何かに気づいて立ち止まる。彼が見る先、薄暗がりの中でこそこそと動く小さな影があった。灰色のねずみに大きなナメクジ、真っ黒なアリ。いずれもリュカの出現に驚き、慌てふためいて逃げ出したようだった。
暗がりに身を隠し、目立たないように縮こまっている生き物たち。その様子がちょっとかわいそうに思えたのか、リュカは声をひそめてこう呟く。
「……僕らのこと、怖いのかな」
「僕らが強いの分かるんじゃない? 戦わずに済むなら、それに越したことはないよ」
ピットがそう言ってあげると、リュカはこちらに笑みを見せた。
「それもそうですね」
そう言って、それから少しの間、彼は目指す先を見通そうというように目を細めて見上げていたが、やがて気を取り直し、再び前へと歩き始めた。
広い洞窟にたった一人分の足音を響かせて歩き、表面に錆の浮いた梯子を注意深く登っていき、動物たちが避けていく横を通り過ぎていく。そうして歩いていくこと数十分、煙突のように細長い空間を上がっていった先に、ようやく明るい光が見えてきた。
「――あ、外だよ! もうすぐだ!」
ここまでずっと肩に掴まっているだけだったピットは、そう言って少年を励ます。梯子を掴み、一段一段登っている途中のリュカは息が上がりそうになっていたので何も言えなかったものの、同じ方角を見つめて安堵の表情で頷いた。
最後の数段をもどかしい思いで登り切り、息を整わせるのも待たずに洞窟の外に出る。日は傾き始めていたが、暗い洞窟から出てきたばかりの二人にはそれでも眩しく感じられた。腕で庇を作るようにして目を凝らすリュカ。その肩でピットも同じようなポーズを取って、前を見つめる。
山の上には手つかずの野原が広がっていた。
中央には幾つかの窪みがあった。それらの穴は、まるで巨人がはだしで一歩だけ、そこに足を踏み下ろしたような具合に見えた。中くらいの穴が一つと、四つ並んだ小さな穴。そしてさらにその向こうには、ちょっと間延びしたハート型に見える大きな窪み。
そこだけは不思議と草も生えておらず、まるで今しがた足跡が付けられたばかりのよう。
そして、その『土踏まず』にあたるところに、誰かが寝っ転がっていた。
こちらから見えるのは、赤い野球帽のてっぺんと、頭の後ろで組まれた腕。彼はすでに歌うのを止めていたが、組んだ足の片方を、何かのリズムを取るようにのんびりと振っていた。
リュカも、ピットも、互いに顔を見合わせるまでもなく分かっていた。彼がその子だ。彼こそがキーパーソンであり、このエリアで有名な『赤い帽子の男の子』、そして二人にとってかけがえのない――
緊張で声が詰まりそうになりながらも、リュカは声を掛けようとして一歩、前に踏み出る。
だがその体を、横から乱暴に押しのける者があった。
よろめいてしまったリュカには見向きもせず、先へ進んでいったのは金髪で太り気味の男の子。彼は肩を怒らせて歩いていき、寝転がっている帽子の少年に向け、不満もあらわな声でこう言った。
「ネス! そんなヤツほっとけよ」
リズムを取っていた足が止まり、帽子の少年が驚いた様子で身を起こす。ポーキーの陰からちらりと見えたその顔は、黒髪に黒目がちな男の子。
彼が何かを言う前に、ポーキーはずんずんと近寄っていき、巨人の足跡を回り込んで帽子の子の横にたどり着くと、半ば強引にその手を引っ張って立ち上がらせる。
「――ポーキー、どうしたの?」
戸惑った様子で帽子の男の子はそう聞くが、相手は何も答えず、そのまま彼の手を引いて連れていこうとする。
彼がキーパーソンをこの場から連れ去る気であることに気づくと、ピットは慌てて、リュカの肩を叩いて急かした。
「……まずいよ、リュカ君! あの子を止めなきゃ!」
だが、少年は凍り付いたようになってしまって、動かない。
見上げると、彼の表情には強い警戒があった。彼は自分の横を通り過ぎていくおかっぱ頭の生意気な少年を、その目でじっと追いかけている。まるで柵も檻も無い中で野生の虎に出会ってしまったかのように、彼は息を押し殺し、少年の一挙一動を観察しているのだった。
対するポーキーはリュカ達に目もくれず、相変わらず不満そうな表情をしたままその横を通り過ぎていく。そして彼に手を引かれた帽子の少年も、すっかりポーキーに気を取られてしまっているのか、一度も視線が合うことの無いままに行ってしまう。
そして二人の姿が洞窟に消える辺り、ようやくポーキーが口を開き、帽子の少年に向けて不平たらたらな口調でこう言った。
「なー、お前だってほんとはつまんないんだろ? あんなやつらと遊んでてもさ。だからこんなとこにいたんだろ。まったく、言いたいことはちゃんと言えよな」
帽子の子の返事は聞こえず、そのまま二人の姿は暗闇に溶け込み、消えてしまった。
それをただ見守ることしか出来なかったピットは、はっと我に返ると再びリュカの肩を前脚で叩く。
「リュカ君、追いかけないの?」
「……は、はい!」
そう応えるも、リュカの足は躊躇い、中途半端なところで止まってしまう。
戸惑い、何かを言いかけて――彼は首を横に振り、今度はきっぱりと走り始めた。
だが洞窟を覗き込んだ二人は、そこに広がる静寂に、もはや先ほどの少年たちが洞窟を抜けてしまったことを知る。帽子の子はともかくとして、ふとっちょの子がそれほど早く歩けるものだろうか。
二人とも、何とはなしの直感で、たとえ今から全速力で追いかけたとしても、彼らに追いつくことはできないだろうと思っていた。
洞窟から吹き上がる冷たい風が失望と落胆を乗せ、二人の横を通り過ぎていく。
沈黙を乗り越えて、リュカが口を開いた。
「…………すみません」
声を落としていたものの、その声音には動揺はなく、落ち着いたものだった。
彼は、肩口に掴まらせたピットの方を見る。その表情には、静かな決心があった。
「僕、ピットさんに、話しておきたいことがあります」