星は夢を抱いて巡る
第6章 魔術師 ⑤
ジャイアントステップがある山頂を後にし、薄暗くなってきた洞窟を進みながら、リュカはこう切り出した。
「……昨日、スリークで泊まった時に話したこと、覚えてますよね。ノーウェア島に“キマイラ”が出たこととか、ブタマスクの人たちのこととか。村も島も、何もかもめちゃくちゃになりそうになったのが、ぜんぶ『王様』……キングPのワガママのせいだったんだってことも」
だんだんと暗くなっていく足元に注意を払うように、彼は目をすがめていた。
そしてそのまま、彼はこう打ち明ける。
「……キングPのほんとの名前、思い出しました。ポーキー、だったんです」
「ポーキー……? それって、さっきの小太りの……」
その先は立ち消えてしまったが、リュカはそれも全て汲み取ったうえで頷く。
「僕が見たキングPは――ポーキーは、すっかり髪も白くて、体もよぼよぼになってて、自分じゃ身動きできないくらいになってました。でも、ニューポークに飾ってた自分の像とか、小さい頃の自分とそっくりに作ったっていうロボットは、さっきの子とほんとに似てて……。それにもう一つ、キングPは僕らのいたノーウェア島とは別の時間、別の空間から来たって言ってたんです。これだけ似てたら偶然じゃない。キングPはきっと、『ここ』の出身だったんです」
「じゃ、じゃあ君が王様の街で見た『映画』はフィクションじゃなくって、王様の暮らしてたここで本当にあったことを描いてたってこと?」
尋ねると、リュカは少し考えてからきっぱりと頷く。
その傍らで、洞窟に棲む生き物は相変わらず、近づいてくるリュカに気づくなり一目散に逃げていった。しかし少年はそれらに注意を払うこともなく、自分の道を歩み続けていた。
「でも……確かにピットさんが言ってた通り、あの映画にポーキーは出てませんでした。だから、もしかしたら、ポーキーは帽子の男の子……ネスとは一緒に行けなかったんじゃないかって」
彼は行く先を見つめたまま、そう言った。
少年の声が辺りに淡く響いて消えていく中、やがて、ピットははたと気づく。
「……なるほど、そうか……。さっきの感じだと、ポーキーはネス君のこと、友達だって思ってる風だった。それも、他の子と遊んでるってだけでも文句を言うくらいだから、独占欲強そうだよね。でも、そんなネス君が旅に出た時、そして新しい友達を見つけた時、ポーキーは一緒に行くことはできなかったんだとしたら……」
「……恨んでは、いないと思います。もしも恨んでたら、あんな映画を自分の街で流したりしてないと思うんです。でも……」
そこで、リュカは口をつぐんでしまった。無言のうちに取り出したのは、キングPの宝物。『友達のヨーヨー』をじっと見つめ、しばし彼は気もそぞろに歩いていた。
そうしてしばらく歩いていた彼は、ヨーヨーをポケットに仕舞い、再び前を向く。
「さっきのポーキーは、僕の知ってるキングPと、たぶん同じ人です。見た目はだいぶ違うけれど、でも……気を付けた方が良いと思います。遊び半分で生き物を“かいぞう”したり、それを僕らに……けしかけたり、しまいに“思い通りにならないから”って島ごと全て壊そうとしたり……キングPは、そういう人だったので」
ピットは少しの間、何も言えずにリュカの横顔を見上げていた。
彼はただずっと行く手を見つめており、そして先ほどの声にもどこか、感情を無理に抑えているような気配があった。
経験上、こういった時には無理に聞き出そうとするのではなく、自分から打ち明けようと決心するのを待った方が良いだろう。そう考えて、ピットは相槌を打つ。
「――そうだね。それに、あの子だけネス君の名前が言えたのも気になるし……」
ジャイアントステップまで立ち寄ったものの、残念ながら図書館の北東の道には未だオネット警察の道路封鎖が敷かれたままだった。
一縷の望みに賭け、警官達に封鎖理由を聞いてみたものの、『安全が確認されていない』の一点張りで頑として退こうとしない。ツーソンに向かった時と同じようにはいかなかった。
次に二人が思いついたのは、ネスの名前を出して町の人々に尋ねることだった。
“帽子の少年”ということしか分かっていなかった時とは打って変わって、住民たちはネスの名前を聞くなりぱっと表情を明るくし、それぞれに自分の知っていることを答えてくれた。
「あの子か。野球がうまいらしいね」
「放課後になると、同じくらいの子らと一緒に町内を走り回ってるのを見かけるな」
「私の息子からもよく名前を聞くわ。子供たちの人気者みたいね」
「リーダーってわけじゃないが、子供たちに慕われてて、周りに自然と集まってくるんだな」
「優しいんだよ。なんせ、あの守銭奴――いや失敬、アンブラミのとこの、ひねくれ坊主にも付き合ってやってるんだから」
誰もがネスという少年について、好意的な印象を抱いていた。
よほど良い子なのだろう。ピット達にも、それは容易に想像がついた。何しろ、道中でスリークやフォーサイドの人々、さらには借金地獄に苦しんでいたお人好しのミュージシャンにまで救いの手を差し伸べるような子供なのだ。
しかし一方で、オネットの人たちは、不思議なことにネスという少年について、他の子供とそう変わらない普通の少年だという評価をしていた。
試しに、スリークやフォーサイドで聞いた彼の冒険譚を話すと、オネットの人々は途端に怪訝な表情をしてこう返すのだった。
「えぇ? あの子が旅に出てたって? そんな、まさか」
「あの子は確かにしっかり者だけどねぇ」
「うちの娘と同い年ってことは、まだ12だよ? まぁ、もうすぐ13らしいけど。それにしたって旅に出るような年じゃない」
さらに、肝心の彼の住居については、誰に尋ねてもあいまいな答えしか返ってこない。
内心でやきもきしつつ、リュカと町の人とのやり取りを見守っていたピットは、ふと、聞き込みを終えたばかりの少年が何か気がかりな様子で考え込んでいることに気づく。
今しがたリュカの質問に答え終え、立ち去っていく人の背中を見つめていた彼はやがて、ぽつりとこう呟いた。
「……あの人もそうだ」
「どうかしたの?」
尋ねると、少年はこちらに顔を向け、こう訴えた。
「うまく言えないんですけど、なんていうか……考えてることと、言ってることが合わない人がいるんです」
「――それってまさか、本当のことを言おうとして、無意識で止められてるみたいな感じ?」
ピットがそう確認すると、リュカは難しい顔をしつつもきっぱりと頷いた。
「はい。ほんとは何を言おうとしてるのか、それが分かると良いんですけど、そこまではちょっと……」
「それが分かっただけでも助かるよ」
そう言ってから、ピットは辺りの町並みを肢で指し示し、こう続ける。
「――今まで僕らは四つの街を回ってきた。でも、ネス君の活躍を“知らない”のはこのオネットだけ。そして君がプレッシャーを強く感じるのもこの町。やっぱり、ここに何かがあるんだよ」
「僕もそう思います」
リュカはそう応えたが、沈黙を挟み、少し心配そうな様子でこう言った。
「それが、僕らの手に負えるものだと良いんですけど……」
彼の不安を払拭するように、ピットは敢えて明るい調子で励ます。
「手に負えないものだったとしても、僕らのせいじゃない。そうなったらそうなったで、エインシャントさんに言えば良いんだよ。あなたの見積は甘すぎたってさ」
その後も辛抱強く町内を歩き回りながら聞き込みを重ねるうちに、少しずつネスの家の場所が固まっていった。
町の人たちからは、こんな答えが返ってくる。
「さぁ……この辺りじゃないのは確かだけど」
「図書館の方から走ってくるのを見た気がするよ。でも、友達の家から帰る途中だったのかもしれないしね」
「アンブラミ・ミンチさんちの隣だったかな。……え? ミンチさんの家はって? ……そんなの知ってどうするんだい?」
「うーん……少なくとも、オネットのどこかね。ここら辺に無いなら、あの山の方じゃないかしら。あっちの方にも少しだけ住宅があるのよ」
そう言ってお姉さんが指さしたのは、図書館の北東にそびえ立つ山だった。
北東の山。その麓には、森の木立に隠れるようにして家の屋根が見えていた。しかし二人は、その方角にオネット警察の封鎖網が敷かれているのを、少し前に見てきたばかりだ。
“妨害されている”ということは、その方角が『当たり』の可能性が高い――つまり、ネスの家がある確率が高いということでもある。
町の人には聞くだけのことを聞いてしまった。向こうもリュカの顔をすっかり覚えてしまい、「また君かい?」と返されるほどになってしまった。二人の足で行ける限りのところに行き、残る場所は北東の住宅地だけになっている。
しかし――
夕暮れ時のオネット郊外。図書館に向かう道を歩いていく少年の肩に掴まり、ピットは行く手をぼんやりと眺めていた。
「もう、ここは強行突破するしかないってことなのかなぁ……」
ピットがそう呟くと、リュカがこう返した。
「あんまり物騒なことはしたくないんですけど、そうも言ってられないですよね……?」
と言いつつも、彼の方はあまり気乗りしない様子であった。
緩やかな坂を上っていくリュカの見る先、やはりパトカーは未だに道路をふさいでおり、警察官が仁王立ちしている。さらに、彼らの他にももう一人の人影があるようだ。
二人の警官の間でウロチョロしている太った子供。それが誰であるかに気づいたリュカの足が、ふと躊躇い、その場に止まってしまう。
その一方で向こう方もこちらに気が付き、振り返った。
「おや?」
ポーキーはこちらに気づくと、悠々と腕を組み、にやりと笑う。
「これはこれは、名無しのゴンベエくんじゃないか。野次馬は警察のみなさんの邪魔になるんだぞ」
だがどう見ても、彼の方も警察官からうっとうしがられている様子だった。そこでリュカは気持ちを奮い立たせ、ポーキーに向けてこう返す。
「……君の方だって、邪魔になってる」
それを聞き、相手はあからさまに不服そうな表情になった。
「おれは良いんだよ。おれは良いけど、お前は邪魔なんだ」
ムッとした顔のまま、彼はついにこちらに歩いてきた。リュカの前に立ちはだかり、精一杯ふんぞり返って上から見下ろそうとしつつ、彼は偉そうな口調でこう言う。
「お前、ここの子じゃないんだろ? でも家出するような顔には見えないな。……あ、もしかしたら追い出されちゃったのか? お前みたいな『へなちょこ』はウチに要らないよってさ!」
意地悪い笑みを浮かべて、彼は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
リュカの方は無意識のうちに身構え、相手から目をそらすまいとしていた。そんな彼を威圧するように、ポーキーは、ぐいと顔を近づける。
「迷子なのか何なのか知らないけど、なんならここでお前のこと、警察のみなさんに教えても良いんだぜ。お前が“お家”に帰れるようにな」
声を低くし、彼は凄んでみせた。
リュカは何も言わず、相手の、前髪に隠れて見えない目を見返していた。そんな彼の肩に掴まり、ピットは内心で様々な考えを巡らせていた。ここで声を発してポーキーを驚かし、警官も煙に巻いてパトカーの隙間をすり抜けるか、あるいは一旦引き返して作戦を練り直すべきか。
これが自分一人なら、多少派手な立ち回りもできる。だが、今はキーパーソンと一緒であり、しかもはた目から見れば彼が一人という状況だ。自分の向こう見ずなふるまいで人間を、それも年端も行かない子を危険にさらすわけにはいかない。
しばらくピットが迷っているうちに、リュカは断念した様子で顔を背け、踵を返した。
ピットもそれを止めなかった。面倒ごとを避けるなら、彼の取った選択肢が一番無難だ。
その二人の背後で、ポーキーの勝ち誇ったような声が聞こえてきた。
「そーだそーだ。とっとと自分のいたとこに帰りな!」
この言葉に、リュカははっと目を見開き、思わず振り返っていた。
だがポーキーの方はすでにそっぽを向き、封鎖された道路の手前を野次馬がてらにぶらついていた。リュカ達のことは、もう見向きもしていなかった。
日も暮れかかり、オネットの市街地では街灯がぽつりぽつりと灯り始める。
リュカはバーガーショップの店内に座り、ガラス窓越しに次第に暗くなっていく往来を見つめながら、注文した食べ物が届くのを待っていた。
ガラスに映りこんだ自分たちのテーブルのところに、店の制服を着たお姉さんの姿が映る。
振り返ると、窓に映った笑顔そのままの表情でお姉さんが微笑みかけ、トレーに載せた品をテーブルに置いてくれた。
「お待たせしましたー。ハンバーガーとポテトフライ、それからオレンジジュースでーす」
こちらの注文通り、取り分けるための皿も用意してくれている。
「ごゆっくりどうぞー」
最後にそう言ってにっこり笑い、店員のお姉さんはレジのところに戻っていった。
リュカは小皿にポテトフライを分けて置いてくれた。さらにハンバーガーもちぎろうとしつつ、自分の陰に隠れるようにしてテーブルの上にちょこんと乗っているピットにこう尋ねる。
「どのくらい食べますか?」
「あ、そっちは良いよ。大丈夫。この体だとポテトフライ何本かで十分、お腹いっぱいだから」
リュカを見上げてそう答えると、彼はちょっと困ったような顔をした。
「ピットさんこそ、ムリしてないですよね……? もしも口に合わなくて食べれないとかだったら、僕、食べれるもの探します。がまんしないで言ってください」
「本当に大丈夫だよ、心配しないで。ほら――」
と、ポテトフライをつまんで食べてみせる。
「――この通り、ちゃんと食べられるから」
塩味と揚げたての香ばしい油の香り、芋の甘みが口に広がる。
その味に、ふと我に返った。その場の勢いで食べてしまったが、自分でもどういう動作で食べたのかよく分からなかったのだ。無意識にやったのなら、自分が本来の姿である時と同様に手でつまんで食べたのだろう。それが傍からはどう見えていたのか、ピットはふと考え込んでしまった。
――誤魔化されてるのが『見た目』だけってはずはないんだよね。サイズ的にはまさしくカブトムシ大だし、重さ的にもリュカ君の肩に掴まれるくらいだし。でも完全にカブトムシになってるなら、ポテトフライなんか食べられないはず……。もしかして、僕の周囲ぎりぎりにカブトムシ型の結界みたいなのが張られてて、その外と中とで空間のサイズとか重さとかが変わってるとか……? でも、どうやって……。
そこまでを考えたところで先が続かなくなってしまい、ピットは推理を断念する。パルテナの付与する奇跡は、原理を突き止めようと思っても突き止められるようなものではない。だからこそ“奇跡”と呼ばれるのだ。
それに、今考えるべきは奇跡のことではない。
「リュカ君。食べながらで良いから、聞いてくれる?」
見上げると、ちょうどリュカはハンバーガーにかぶりつき、一口食べたところだった。彼はきょとんと目を瞬いてから頷いた。
彼にお礼の意味で頷き返し、言葉を整理するために少し間を置いて、ピットは語り始めた。
「まだ僕の推理でしかないんだけど、君にも話しておこうと思って。このエリアで何が起きてるのか、僕なりに考えたことがあるんだ。――僕は今まで、色んなエリアを巡ってきた。君と同じく、エリアに閉じ込められたキーパーソンに出会って、手紙を渡して、そこが『あるべき姿じゃない世界』なんだと報せてきた。でも僕も君たちがどうして、いつから、どうやってエリアに閉じ込められたのか分からないんだ。僕も、それからたぶんパルテナ様も、君たちがそんな状況にあることも知らなくて、それどころか君たちと繋がりがあったことさえも忘れていた。……きっと、忘れさせられたんだ。君たちを閉じ込めた、『何者か』に」
天使の話にリュカはすっかり集中してしまい、食べかけのハンバーガーもそのままにして聞き入っていた。
ピットの方も記憶を掘り起こすのに夢中になっており、少年の様子には気が付いていなかった。
「その何者かのせいで、誰もが、自分たちが本当にいた世界の姿を忘れていた。……でもたった一人、僕らもよく知ってる人で、そうじゃない人がいる」
「……それって、誰ですか?」
「エインシャントさんだよ。パルテナ様に手紙のことを持ち掛けたのもあの人だし、きっと、手紙を書いているのもあの人だと思う。実際に中身を読んだ君なら分かると思うけど、彼はどう見ても僕らが忘れてしまった事を知ってる。もしかしたらそれだけじゃなく、君たちがなぜ本当の世界から連れ去られたのかも、それから誰がそれをやったのかも。でも、僕が何を聞いても、あの人は『全てのキーパーソンに配り終えたら理由を話す』って言ってはぐらかすんだ。それがほんとに守られるかどうかは怪しいけど。……君たちを閉じ込めた人と彼が関係あるかどうかは、まだ分からない。でも少なくとも僕は、彼は純粋な善意じゃなく、何か別の目的があってこんなことをさせてるんじゃないかって。きっと、君たち全員に手紙を配ったら何かが起こるんだ。でも君たちをエリアに閉じ込めた『何者か』っていうのは、それを阻止したがってるのかもしれない」
「理由は、例えば……僕らが全員力を合わせて、立ち向かってくるからとか……?」
「それも一つありだね」
そう返しつつも、ピットは内心でこう案じていた。『君たちがエリアを出るのに、エインシャントが協力してくれるだろうか』と。
心の内の心配事を表には出さないまま、彼は言葉を続ける。
「――今までのエリアも苦戦するところは苦戦したけど、ここほど露骨に邪魔されるのは滅多にないんだ。あまり考えたくないけど、そろそろ真犯人も僕の行動をほっとけなくなって、直接妨害しに来てるんじゃないかって」
「そう、なんですね……」
リュカはそう返し、しばらくじっと何かを考え込んでいた。
彼の返答を待っていると、やがて彼は再びこちらを向き、思い切ってこう切り出した。
「……あの、ピットさん。今まで行ったエリアで、キーパーソンじゃない人から手紙配りを邪魔されたことってありますか?」
「あるにはあるけど、だいたいは『見慣れない』僕のことを怪しんだり、面白がってイタズラをしかけようとしただけだったり、そういう感じだったかな」
「じゃあ、ピットさんが『このエリアの外から来た人だ』って知ってたわけじゃないんですね」
「そうだと思う」
と答えてから、ピットは少年の問いの意図に気づき、はっとしてこう聞き返した。
「待って、じゃあ君は……あのポーキーって子が僕らの正体を知ってるかもしれないって……?」
「あんまり自信はないんですけど……でも、なんだか変なんです。ジャイアントステップでも、もう少しでネスに会えるってところで横入りしてきましたし、それにさっきも、僕らが坂の上に行こうとするのを邪魔してきました。それに『元いたところに帰れ』って、まるで……僕らのことを知ってるみたいに聞こえて」
その言葉を聞いているうちに、ピットも彼の推理には一理あると思えてきた。
もちろん、あるエリアに住む人が、『そこがエリアである』と気付いていたケースには、今まで一度も遭遇したことはない。ごく少数のキーパーソンが、『何かが変だ』という違和感を覚えて独自に行動していたが、せいぜいそのくらいでしかない。
だが、地上界を細切れにした『何者か』がいよいよ腹に据えかねて、ピットの行動を邪魔すべく、エリアに住む特定の人物に真実の一端と共に特別な力を与えたのだとしたら……?
考えつつ、思考を整理するようにピットは呟き始めた。
「ポーキーはネス君の友達で、たぶんあの様子だと、あの子のことを独り占めしたいと思ってる。だけど僕が手紙を渡したら、ネス君はこのエリアから出掛けて、エインシャントさんの任務に明け暮れることになる……。君たちを閉じ込めた犯人と、利害は一致するってわけか」
頷いて、リュカはさらにこう打ち明ける。
「もう一つ、心配なことがあって……。こっちのポーキーが作らせたニューポーク、ごちゃごちゃしてて張りぼてだらけだったって話、しましたよね。……張りぼてだったの、実は……建物だけじゃなかったんです。街の人も、ブタマスクの人もみんな――ポーキーのことを褒めるように、ポーキーのやることに賛成するように、無理やり思い込まされてたみたいだったんです。まるで頭の上から、別の考え方をぎゅうぎゅうに押し込むみたいにして……」
彼はそこで頭を横に振り、こう続ける。
「ここの『エリア』にいる人も、同じ感じがする時があるんです。特に、その人が知らない、分からないって答えてる時に、なんだか急に……こう、平べったくなる感じがして」
両手を合わせるような身振りを交えて、彼はそう表現した。
「なるほど……催眠術みたいなものなのかな」
ピットはそう言ってから、ふと気づき、念を押すようにこう尋ねる。
「君の見たポーキーがお爺さんになってたなら、今『ここ』にいる彼はそれよりも昔ってことになるよね。あの子、その時からそういう“催眠術”を使えたと思う?」
リュカは考え込み、少しして残念そうに首を横に振る。
「――ああ、そうか……そうでした。たぶんできないと思います。僕らが見た“さいみんじゅつ”には、かなり大きくて大げさな機械が必要そうだったので。それと……あの後、ポーキーは自分から安全な場所に閉じこもっちゃったので、もう何もしてこないはずです。例えば時間をさかのぼって、昔の自分に教えたり、何か装置をあげたりなんていうことは、できないはず」
「なるほど……でも、彼がそういうことをやりかねない子だっていうのは分かったよ。それができる状況に置かれた時にね」
「それって、つまり……」
「――あまり考えたくないけど、君たちを閉じ込めている『何者か』があの子に力を貸してるってことかもしれない。それなら説明もつくんだ。なんたって地上界の君たちどころか、天界にいる僕や、パルテナ様まで記憶を消されてたんだから。このエリアの人間たちの思い出を隠したり、心を操ったりするなんて、きっと朝飯前なんだ」
声を落としてそう言ったピットの頭上、リュカがこう繰り返す。
「ポーキーが、僕らを閉じ込めた人と……」
その言葉の先が中途半端なままに立ち消えて、ピットはふと頭上を見上げる。
食べかけのハンバーガーを静かに皿の上に戻し、リュカは何も言わずにガラス窓の方を眺めていた。店の外はすっかり暮れかかり、ガラス窓には金髪の少年と、その陰に隠れるカブトムシの姿がくっきりと映っていた。
鏡写しの自分の姿を見つめながら、やがてリュカは、ほとんど独り言のようにぽつり、ぽつりと話し始めた。
「キングPは……ポーキーは、島の全部、僕らや動物を、ただおもちゃにして遊んでた。王様になりたかったのか、みんなを言いなりにしたかったのか、怖がらせたかったのか、それともただ退屈だったのか……その全部かもしれない。でも、そのせいで、何もかもめちゃくちゃにされたんです。僕の、お母さん、それに、クラウスまで――」
家族のことに差し掛かったところで、不意に、彼の声が引き攣ったように震えた。
言葉になり切れなかった声。そこには深い悲しみと、それにも増して強い、怒りがあった。
普段はおとなしく、内気にも見える少年が思いがけず見せた激情。ピットは思わず怯んでしまいそうになるが、何とか気を持ち直し、自分の横、テーブルの上できつく握りしめられ、震える手に、そっと自分の手を乗せる。
クラウスといえば、確か自分が彼のエリアを訪れた時に出会った、リュカの兄弟のはずだ。彼の身に何があったのだろうか。
記憶を掘り起こしていたピットの脳裏に、ふとリュカの言葉が浮かんだ。
『はい。……やっぱり全部、ちゃんと済んでたんです。あれは僕の見ていた夢じゃない。みんな……みんな、もう大丈夫だったんです』
それを思い出した時、ようやくピットは気づくことができた。
――“もう”大丈夫……あれは、そういうことだったのか。
おそらく、リュカの家族は“かつて”、キングPの身勝手によって筆舌に尽くしがたいほどの悲劇に見舞われたのだろう。しかしそこからリュカは立ち上がり、苦労の末に、何らかの方法によってその悲劇を覆すことができた。
クラウスはその“過去”を覚えていない様子ではあったが、リュカの方は、今の様子を見る限りでは決して忘れることはなかったようだ。
ピットから手紙を受け取り、読んだときにパニックに陥ったのも無理もない。『君が暮らすそこは偽の世界だ』と言われ、自分がようやく取り戻した平穏な日常までも、ただの夢――まやかしだったのだと言われたように思ってしまったのだろう。
――僕は何も知らなかった。……せめてあの時、リュカ君のことを、この子に何があったのかを覚えてさえいたなら……僕も、何かできたはずなのに。
ピットは内心で悔いながら、少年に寄り添い、少しでもその悲しみを分かち合おうとしていた。
そうしているうちに少年の手から、少しずつ、こわばりが抜けていくのを感じた。
「――もう少しで、全部が台無しになるところだったんです。……僕は、信じられませんでした。僕らの周りで起きた全てが、キングPにとっては“ゲーム”でしかなくって、でも僕らがそれに立ち向かったら、しまいに“ぼくを好きにならないやつら”なんか要らない、だから全部壊すって。なにもかも、そういう……自分勝手なことだったなんて」
そう言って、リュカは力なく首を横に振る。
それからテーブルに向き直り、うつむきがちになって、しばらく何も言わずにいた。
沈黙の背景に、不意に場違いなほど陽気な音楽が聞こえてきて、ピットは驚いて顔を上げる。それが先ほどからずっと流れていたハンバーガーショップの店内音楽だと分かり、彼は小さくため息をついて首を横に振る。
店内にいる他の客もテーブル一つ分くらいしか離れていないのに、窓際に座るこちらの様子には少しも関心を向けず、料理を囲んで和やかに談笑している。店員もカウンターに立ち、相変わらず明るいスマイルを浮かべていた。
「……でも」
頭上から聞こえてきた少年の声は、幾分いつもの落ち着きを取り戻していた。ピットは再びリュカの顔を見上げ、その続きを待つ。
「そんなひどい人だったけど……どこかかわいそうだった。キングPは僕らに、自分が強くて賢くて、何でも思い通りにしてきたんだって自慢してた。ニューポークに招待したのも、僕らをあちこち連れまわしたのも、自分の指図一つでこんなにたくさんの人が言う通りになって、世界中の素敵なものを何でも集められるんだって、見せびらかしたかったのかもしれない。でも見れば見るほど、それが嘘なんだって、見栄っ張りなんだって分かっちゃって……。多分、あの人はずっと一人ぼっちだったんです。あの人が色んな時間と空間を行き来したのは、自分で望んだんじゃなく、どこにも自分の居場所を見つけられなかったから。そして、ただ一つ、自分の居場所だって言えたのは――」
リュカはその先を託すように、ピットを見つめる。
「――『ここ』。ネス君がいる今のオネット、ここしか無かったんだね」
「はい、きっと。……きっとキングPは、もう取り返しのつかないくらい遠くに離れちゃってから、ようやく気づいたんだと思うんです」
会いに行けたとして、年老いた姿では彼だと気づいてはもらえないだろう。だからこそ、彼は映画を作らせ、思い出の品々を蒐集したのかもしれない。数少ない友人の姿を偲ぶために。
心の空白を埋めようとして、『彼』のいた光景を再現し、ゆかりの品を集め続ける老いた暴君。その姿を想像していたピットは、心の中の考えから続けるようにして、リュカにこう言った。
「でも今ここにいるポーキーは、これから何が起こるのかを知ってる。そしてもしかしたら、十分なだけの力や何かが与えられているかもしれない。ネス君をずっとここに引き留めておくため、自分の居場所を永遠に独り占めするために」
訪れる者の姿を制限しているのも、外部との連絡を妨害しているのも、きっとそのためだろう。ネスが本当の記憶を取り戻すきっかけとなりうるものを、徹底的に排除するつもりなのだ。
窓ガラスの向こう側、オネットの街並みを険しい眼差しで見つめるピットに、リュカは少し心配そうな表情になってこう尋ねた。
「――どうすれば、先に進めそうですか? もしもほんとに、僕や他のみんなを閉じ込めている犯人がポーキーの後ろに付いてるんだとしたら、ここのエリアの中にいる限り、僕らにできることは何もないんじゃ……」
「そうとも限らないよ」
自信に満ちた明るい声で、ピットはきっぱりと言った。
「手紙を渡してしまえば、僕らの勝ちなんだ。そうすればネス君は本当の記憶を取り戻す。それに彼の上にいる黒幕も、ポーキーに必要以上の力をあげてるとは思えない。だから僕らにも十分勝ち筋は残されてる。……だって、中途半端だと思わない? ツーソンにいたポーラちゃんの両親、スリークやフォーサイドの街の人、あっちの人たちは『世界を救う少年』のことを知っていた。ネス君が旅に出たことも知らないのは、このオネットだけ。時間の流れを止めてるのか、記憶を消したのか、どっちかは分からないけど、ポーキーが思いのままにできるのはせいぜいオネットの周りでしかないんだよ」
「じゃあ例えば、ネスをオネットから連れていくとか、逆にツーソンやスリーク、フォーサイドの人たちにこっちに来てもらうとか……ネスと一緒に旅をしてた友達を見つけて、来てもらうのはどうでしょう? あ、でも……その前にポーキーに気づかれないように進めないと」
「そう。そこなんだよね……でもそこさえクリアできたら、きっとうまく行くと思うんだ。今までの感じだと、ポーキーは一人で出歩いてることもある。でもネス君に僕らが接触しようとすると、すぐにやってきて邪魔をした。ということは、ポーキーがノーマークの状態でネス君に会いに行くのはあんまり良い手じゃないってことか……何とかして彼の気を引けないかな」
それから、二人は良い手を求めてしばし考え込む。リュカは皿に置いていたハンバーガーを再び食べ始め、ピットも自分の分のポテトフライをつまみ始める。
半ば上の空で食事を続けていた天使と少年。やがて、リュカがこう切り出した。
「……ピットさん。それ、僕がやります」
ピットがその言葉の意味に気が付くまで、数秒掛かった。
「え……もしかして、ポーキーの注意を引くってこと? ……でも君は、キングPに――」
首を横に振り、リュカの名前を呼ぼうとした。だがその先をまるで読み取ったかのように、リュカは笑ってこう言った。
「僕は大丈夫です。ムリしてません」
「ほんとに……? 相手はもしかしたら、黒幕とつながってるかもしれないんだよ?」
「だとしても、手紙を持ってるのはピットさんですよね。それに、ポーキーから見たら僕しかいないみたいに見えてるはず。だから僕一人で会いに行って引き留めても、裏があるんじゃないかって怪しまれることもない。ピットさんはその間に、あの山のふもとに――ネスの家に向かってください」
彼の言うことには筋が通っている。自分たちの取れる選択肢の中では、それがきっと一番確実だろう。
だがそれでも、ピットはすんなりと頷くことができなかった。
このエリアで出会ったポーキーは見た目だけで言えば、ただの生意気な少年にしか見えない。でも、その登場のタイミングが毎度、やけに見計らったようだったのは無視できない。自分たちが最初にオネットに降り立った時には全く姿を見せなかったのに、他の町を巡り、ネスはここにいると確信して戻ってきた途端に顔を見せ、ジャイアントステップでは自分たちの行動を明らかに邪魔することさえしてみせた。
ただ、彼の言動を見る限りでは、今のところ積極的に追い出したり、閉じ込めたりといった手段を取るようには見えない。……今のところは。
『入り込んだ者は誰一人として帰ってきたことがない』
エインシャントが言ったという、このエリアの評価を思い出す。
――あーもう! 『危険』って、ほんとにそう思うんだったらさ! もうちょっとこっちの『初期装備』も手厚くしてくれたって良いんじゃないの?! なのになんで僕がカブトムシで、こんな小さな子一人に助っ人の責任を負わせるのさ!
内心で盛大に不満をぶちまけてから、ため息をつき、リュカを見上げる。
「――危なくなったら、すぐに逃げてね」
こう返すのが精いっぱいだった。
ホテルオネットの一室。明かりも消され、真っ暗になった室内には一人分の寝息がかすかに聞こえていた。
歩き詰めで疲れたのだろう。リュカはベッドに横になると、少しもしないうちに眠ってしまった。部屋の中には、他に誰もいない様子だ。
開け放たれた窓から差し込む月の光が、ソファの上にぽつんと置かれた書置きとペンを青白く照らしていた。そこには、苦労の滲む筆跡で『朝までに 戻る』と書かれてあった。
すっかり寝静まったオネットの市街地。その上空に、翼を広げて飛ぶカブトムシの姿があった。
「はぁ……腕と足が攣るかと思った」
すべての肢をだらんと垂らし、ピットはそう呟いた。本来カブトムシの身体は、後ろ足で長時間立ち上がれるようにはできていない。自重で後ろにひっくり返りそうになるのを二本の肢だけで耐え、残り四本の肢でペンをしっかりと抱き抱えて、ようやく書き上げたのがあの書置きだった。
ピットは首をあげ、夜空に浮かぶ満月を見上げる。
――この姿のことでたった一つ感謝するとしたら、制限時間を気にせずに飛び回れることだね。もっと早くに気づいていればなぁ……。
背中の翅が飾りではなかったのは、不幸中の幸いだった。
オネット警察は夜を徹しての道路封鎖を行っていたが、彼は夜陰に紛れて警察官たちの頭上を難なく飛び越え、その先に進むことができた。
緩い登り坂を飛んでいった先、オネットの住民たちが言っていたように二軒の家屋が建ち並んでいるのが見えてくる。どちらも二階建てだが、向かって左側の家の方が大きいようだ。
――ネス君の家の隣は、確かアンブラミって人の家だよね。守銭奴だって言われてたし、あっちの大きな家の方がそうなのかな……?
そう考え、まずは突き当りの右の家、小さな方の一軒家へと向かっていった。
彼の行動は計画されたものではなく、全くの思いつきだった。先に眠ってしまったリュカを見ているうちに、今の時間帯ならポーキーも眠っているのではないか、と気が付いたのだ。
リュカに黙って出てきたのには理由があった。まず一つには、日中ずっと歩かせておいて、真夜中まで付き合わせるのは流石に申し訳ないと思ったから。そしてもう一つは、ピット自身もこの作戦に勝算があるのかどうか、確信を持てなかったから。
今、自分たちはポーキーを足止めしようとしているが、それで万事が上手くいくという保証はどこにもない。彼の邪魔が入りそうにない時間帯に敢えてネスに接触を試みることで、他にも危険が潜んでいないかどうかを確かめる。もしも無ければ、そのままネスに手紙を渡してしまえば良い。
このエリアに潜む罠を深く調べないうちに、リュカをポーキーの足止めに向かわせるのは、光の女神に仕える者としての信条に反する。それにもっと個人的な心情、友人をみすみす危険にさらす訳にはいかないという思いが、彼を突き動かしていた。
全ての窓を外から見て回ったが、小さな方の家は、一階も二階も全て電気が消えていた。
特に二階はカーテンも閉め切られており、住民がいるのかどうかも定かではない。
――参ったな。だいたい寝室があるのって二階だと思うんだけど……これじゃあ、あの子の家かどうかも分からないや。
思い切って窓ガラスに体当たりしてみたが、この身体の小ささでは大した音も立たない。声を張り上げてネスの名前を呼んでみるも、家の中で誰かが動くような気配もせず、ただ自分の声があたりにむなしくこだまするばかり。
「……留守なのかなぁ」
ため息をつき、ピットは一階まで降りていくと玄関の様子を伺う。
「あ……なぁんだ、インターホンあるじゃないか」
周りに誰もいないのをいいことに、彼はそう独り言を言いながら、インターホンのボタンを両腕で押さえて押し込んだ。――しかし、ドア一枚隔てた向こう側はしんと静まり返ったまま。ベルの音も聞こえてこない。
押す力が弱かったのかと思い、今度はボタン目掛けて体当たりをしてみる。だが、状況は相変わらずだった。
「――故障してるの……?」
静まり返った家、開かずの扉を見上げ、ピットは困惑も露わにそう呟く。
と、その背後、にわかにエンジンの音が近づいてきた。驚いて振り向くと、緩やかな坂道を一台の黒い車が上がってくるのが目に入った。車高の低さと言い、エンジン音の重厚さと言い、いかにも高級そうだが、どことなく嫌味な感じのする車だ。
車は小さな家の前を素通りし、その隣の大きな家の敷地に入っていった。
ここからでは見えない車庫かどこかに止めて、やがて車に乗っていた人々が降りてくる物音が聞こえてきた。夜も遅いというのに、大きな声で何かを話し、笑っているようだ。やけに上機嫌なところを見ると、お酒でも入っているのかもしれない。
何か情報が得られるかもしれない、そう考えて、ピットは隣の家まで飛んでいった。
やがて彼の見る先で、家の陰から男女二人が姿を現した。どちらも恰幅が良く、羽振りがよさそうで、そしていかにも横柄な顔をしている。似たもの同士の彼らは、一目見ただけで夫婦と分かる雰囲気があった。
ピットは彼らの頭上から回り込み、その後ろからそっと尾行する。
どぎつい赤色のドレスを着たおばさんは、深緑のスーツを着込んだおじさんの腕につかまり、ずいぶん睦まじい様子だったが、隣家が見えてきたところでふと眉間にしわを寄せ、夫にこう言った。
「あんた。ところでお隣さんはいつお金を返してくれるんだい?」
「ああ、ラードナ。おれも事あるごとに催促してるんだがねぇ……まだまだ完済にはほど遠いんだよ」
「たまにはビシッと言ってやったらどうなんだい。あんたがあんまりにも甘いもんだから、お隣さんもあんたのこと、なめてるんじゃないのかい? お隣の子供らが遊んでる様子を見た限りじゃ、新しい服や玩具、買ってやるくらいの余裕はあるみたいじゃないの」
妻の文句を聞いているうちに、夫は笑って首を横に振った。
「おいおい、流石にそこまで搾り取ってしまう訳にはいかんよ。考えてもみろ、我がミンチ家のお隣がこれ以上ボロボロでみすぼらしくなってしまったらどうする。見るに堪えないだろう? そんなことになったらお隣のナントカ君も、いよいようちのポーキーやピッキーとは釣り合わなくなってしまうじゃないか」
「それはそうだけどねぇ……そうなったらそうなったで、さっさと立ち退きさせれば良いじゃないの。ほんとに、あんたのお人好しには参っちゃうわ。おかげでうちがどんなに苦労させられてるか――」
と、そこで不意に奥さんの方が言葉を途切れさせ、髪をバサバサと振るようにして慌ただしく周囲を見回し始めた。
「どうしたね、ラードナ」
「なんかさっきから耳障りな音がするのよ。ブーンブーンって……」
イライラした口調で彼女が言うのが、自分の立てる“羽音”だと気づいた時、振り返った彼女と目が合った。
途端におばさんは厚化粧した目を吊り上げ、ヒステリックに叫ぶ。
「キイイー! 小うるさいハエだよ! 死んで地獄に行け!」
突然の金切り声に怯むピットの頭上から、容赦のないハンドバックの一撃が襲い掛かり――
驚愕の声をあげて、目を覚ます。
視界に映るのは、朝日に照らされたベージュ色の天井。
「――どうしたんですか……?」
リュカの声が聞こえてそちらを見ると、ベッドから身を起こした彼の姿があった。寝ぐせのついた頭を傾げており、まだ眠たそうな顔をしている。
「こわい夢、見たんですか?」
「夢? いや、そんなはずは――」
そう答えかけたピットだったが、自分がうつ伏せになっていたソファの上に書置きが乗っていないのを見て、はっと息をのむ。
慌てて飛び立ち、昨日自分が使ったはずのペンとメモ帳を見に行ったが、机の上にあるそれらは新品同然の状態でそこにあった。メモ帳にはちぎられた跡もなく、ペンは澄ました顔でペン立てに収まっている。
しばらく自分の目が信じられず、茫然としてペンとメモ帳を見つめていたピット。ややあって、その頭に理解が追いつく。
――ああ、『無かったこと』になったのか……。
自分がやられてしまうまでの流れが、起こらなかったことになったのだろう。“ポップスター”と呼ばれていたエリアでも似たような時間の改変があった。あの時と比べれば遥かに小規模だが。
――今回のこれは、きっとパルテナ様のおかげだ。
頭を振って、リュカに向き直る。
「――悪夢と言えば、悪夢なのかな……どぎつい厚化粧のおばさんに罵られる夢を見たよ。地獄に行けーって」
彼からの返事は返ってこず、見ると、リュカはすっかり目が覚めた様子でこちらをじっと見つめていた。
「ピットさん、飛べたんですね……!」
「え? ……ああ! そうなんだよ。僕もさっき気づいたところでさ。でもこれで、君の肩に負担を掛けずに済むよ」
「……ずっと飛びっぱなしは疲れませんか?」
「大丈夫。三分以上飛んでも何ともないみたいだし」
実際に昨晩試したからね、と心の中で付け足す。
身支度を済ませ、朝食をとり、二人はホテルを出発した。
まず向かったのは市立図書館の東側の道。昨日最後にポーキーを見かけた場所だ。
リュカの後について飛びながら昨日のやり取りを思い返していたピットは、そこでふと引っかかるものを感じた。
――待てよ? この道、道路が塞がれてるはずなのに、昨日の車はどこから上がってきたんだろう……さすがに住民が通るって言ったら空けてくれるのかな?
そう考えていたところで、目の前の縞シャツの背中が立ち止まった。
行く手を見据えたまま、リュカは声をひそめてこう言った。
「……いました。ピットさん、気づかれないうちに進んでください」
彼の頭の陰から様子を伺うと、彼の言った通り、警察のバリケードの周りをうろちょろするおかっぱ頭が見えた。
「分かった。君も気を付けてね」
そう飛び立とうとしかけて、ピットはこう付け足す。
「絶対、無理はしないで。危ない気配があったら深入りしないで、すぐに逃げるんだよ」
それは昨晩の経験から来た言葉だったが、リュカには当然実感があるはずもなく、彼はピットの剣幕にかえって笑ってしまった。だがそれはそれで、緊張をほぐす意味ではよかったかもしれない。
「大丈夫です。今は僕一人しかいないので、無茶はしません」
図書館の前を横切り、ピットは西側の道へと飛んでいく。
ポーキーがいるあたりを避けるため、ジャイアントステップのある山の辺りから大回りに回って、ネスの家がある山のふもとに向かう算段だ。
制限時間の無い飛行を楽しんでいたのもつかの間、彼はカブトムシの欠点にも気づき始めていた。本来の姿ならあっという間に飛び越せてしまえそうな段差も、この姿では断崖絶壁に思えてくる。さらに飛ぶときは始終全力で翅を動かさなければならず、時々どこかの木に止まって休憩を入れなくてはいけなかった。念には念を入れて遠回りのルート取りをしたが、もう少しショートカットしても良かったかもしれない。
何度目かの休憩で木の枝につかまり、ピットは青空を見上げて息をついた。
「虫も鳥も、ほんとに偉いよ……なんてことない顔して飛んでるのにさ、本当はみんなこんなに苦労してたんだね……」
そう独り言を言い、もう一度気合を入れなおして翅を広げ、飛び立つ。
崖をあと何段か越えた先に、薄紫色の屋根が見えてくる。目指す家まで、あと少し。
その時だった。
眼下の森で何か大きなものが動いた気がして、ピットはふとそちらに目をやった。
緑色の丘が動いている。その表面は明らかに森の葉とは違い、日の光を反射してぬめぬめと輝いている。さらによく見ると、その丘には赤いトサカのような房が付いているようだ。
質感は生き物そのものだったが、あまりの大きさに、それが生物なのだと自分を納得させるまでにはずいぶんな時間が掛かった。
そうしている間にも『丘』は頭を持ち上げ、長い蛇のような胴体を露わにし、ついには日射しを遮るほどに高く伸びあがると、巨大な頭をもたげてピットの前に立ちはだかった。
大きく裂けた口、その口に収まらないほどに長い牙。獲物の血なのか、口は赤く汚れている。一方で目は見当たらず、その頭の巨大さも相まって、まるでオオグチボヤの化け物のように見えた。
その大蛇は、明らかにピットのことを認識していた。
胡乱な調子で唸ったかと思うと、吹き飛ばそうというつもりか、大きく息を吸い込む。
対するピットは、全くの丸腰。
「――三十六計、逃げるに如かず!」
叫ぶや否や、可能な限りの全速力で大蛇の懐に飛び込み、その脇をすり抜けて向こう側へと脱する。一瞬遅れて轟音がとどろき、背後の空気が急に熱くなった。
必死に羽ばたき、熱気が遠くなってきたところでくるりと転回する。後ろを見ると、そこには火の粉をあげて燃え盛る森があった。
全力で翅を動かすうちに森は遠ざかっていき、火の海の中にいる化け物も小さくなっていった。大蛇はピットの方を横目で見ている様子だったが、森からは出られない何かがあるのか、追いかけてくるような気配は無かった。
危機を脱した彼だったが、安堵よりも心配の勝る声でこう呟く。
「……うわぁ、あんなのがいたなんて。リュカ君、大丈夫かな……」
様子を見に行きたいという思いがよぎったが、ピットは強いてそれを抑え、目の前のことに集中する。
彼はきっとこちらを信じ、ポーキーの足止めをしてくれている。自分がすべきは、その間にネスと出会い、彼に手紙を渡すことだ。
ところが、ネスの家の前にたどり着いたピットが見たものは、玄関ポーチに立ちはだかる男。
金髪にアロハシャツ、黒いサングラスをかけた男は日焼けした逞しい腕を組み、眩しい笑顔を振りまいていた。
こんな男、オネットにいただろうか、と思いながらもピットは声を掛ける。
「あのー、どちら様……」
「ハロー! そして……グッドバイ!」
唐突に男がそう言ったかと思うと、視界が大きくぶれ――気が付くと、ネスの家はどこにも無くなっていた。
辺りを慌ただしく見渡し、ピットは気づく。
「違う、ここは……」
そこはオネットの市街地。振り返ると、“G・H・ピカール”という市長の宣伝ポスターが目に入る。
「市役所の近く……ということは、だいぶ飛ばされちゃったなぁ……」
そう呟いてしまってから、ピットははたと口をつぐむ。周りの市民に聞かれでもしたら、たちまちのうちに捕まえられて見世物にされてしまうかもしれない、と思ったのだ。
しかし、幸いにも近くには誰もおらず、喋るカブトムシを目撃した人はいないようだった。
ほっと安堵のため息をつき、ピットは再びネスの家を目指して飛び立っていった。
その後も、奇妙な妨害が続いた。
森を飛び越えようとすれば“大蛇”が現れ、炎や電撃でこちらを撃ち落とそうとする。森を避けて山沿いに行こうとすれば、どこからともなく目玉だけの敵や唇だけの敵が大群をなして飛んできて、ピットの行く手を遮ろうとする。それらを何とか切り抜けたとしても、ネスの家の周りにはアロハシャツの謎の男がおり、見つかり次第オネットの町のどこかに飛ばされてしまう。誰何しようとも交渉しようとも耳を傾ける様子が無く、諦めて窓から入ろうとしても、目ざとく見つけられてしまい、例の掛け声とともにワープさせられてしまった。
何度目かの挑戦に失敗し、市街地に戻されたピット。
苛立ちから思わず、言葉にならない声をあげたが、その声が辺りにこだましたような気がして、はっと我に返る。
「――あれ……?」
その目に映ったのは、薄暗いオネットの街並み。通りには人影もなく、どの店も扉を閉め切っている。
いつの間にか夜になってしまったのだろうか――そう思い、何の気なしに空を見上げた彼の目に映ったのは、薄曇りの空をゆっくりと横切ってい円盤。
「うぇっ……ユ、ユーフォー?!」
UFOは一機だけではなかった。同じような空飛ぶ円盤が何機も、まるでオネットの全域を見張るかのように、上空を行ったり来たりしているのだった。
ついに黒幕もこちらの行動に気づき、怪しみ始めたのだろうか。それに思い至ったピットは、申し訳程度に物陰に隠れながら飛び、慎重に辺りの様子を伺いつつ、ネスの家を目指そうとする。
彼は大蛇のいる森や、訳のわからない怪物のいる山を避けるため、まずは正攻法の道順で向かおうと考えていた。
――このUFO騒ぎで、警察の皆さんも撤退してくれてると良いんだけど……
その時だった。
背後に気配を感じたかと思うと、異質な響きを持つ声がこう言った。
「止マレ」
振り向くと、そこにいたのはいかにも宇宙人然とした姿の集団。タコ型であったり、機械型であったり、彼らは様々な姿をしていたが、どうやら先頭に立つ白銀色の人型がリーダー格らしい。
手も指も見当たらない触手のような腕の先をこちらに向け、その宇宙人が言った。
「ブンブーン。マサカ生キテイタトハナ……ギーグ様ノ計画ヲ徹底的ニ邪魔スル、ソノシブトサ、敵ナガラアッパレダ」
「ちょ、ちょっと待って。さっきから何のこと言ってるのか分からないよ。きっと人違い――いや、虫違いじゃない?」
「黙レ。命乞イナド見苦シイゾ」
白い宇宙人はそう言って、腕を高く上げる。
攻撃の合図か。それを認めたピットの脳裏で、慌ただしく思考が飛び交う。
――逃げられるか……!? 何人か、銃っぽいのも持ってる。しかも、さっきの大蛇みたいに電撃でも使ってきたら……だめだ、この人数、避け切れる気がしない!
ここを切り抜ける一手を探しあぐねていた彼の目の前が、不意に明るく燃え上がった。
一直線に火が走り、並んでいた宇宙人の集団を一気に炎の中に巻き込む。それでいて炎は、まるで意思を持っているかのようにその場に留まり、ピットの方へは広がろうとしなかった。続いてロケット花火のような音が背後から聞こえ、細長い小型ロケットがいくつも炎の中に飛び込んでいき、次々に爆発する。
不思議に思っているうちに今度は頭上が明るくなったかと思うと、曇り空を切り裂いて無数の光が容赦なく降り注ぐ。その光もピットのいる場所には降ってこなかったものの、あまりの眩しさに思わずピットは目を腕で庇っていた。
気が付くと、あれだけいた宇宙人は一人残らず、目の前からいなくなっていた。
「おい! そこのお前、怪我はないか?」
初めて聞く声がした。
「――えぇと、大丈夫。ありがとう、助けてくれて」
戸惑いながらもそう答え、ピットは振り返る。
声で薄々想像はついていたとはいえ、そこにいた子たちの若さに、彼は驚いてしまった。
金色の髪を赤いリボンで結んだ女の子。眼鏡をかけ、緑色の学生服を着込んだ男の子。その二人とは明らかに異なる国の恰好をした、白い装束に辮髪の男の子。先ほど声を掛けてくれたのはこの少年だったようだ。
彼らは皆、ネスとほとんど同じ年に見える。
「三人の、子供……って、まさか君たち……!」
はたと気が付いたピット。言われなかったその先をくみ取った様子で、リボンの女の子が頷く。
「ずっと、ずっと待ってました。あなたが、“世界の外の人”ですね」
「世界の外の人……?」
まるでこちらの事情を知っているかのような言葉に、ピットは自分の耳を疑い、そう聞き返す。
しかし急いでいる様子の彼女には届かず、女の子は真剣な表情でこう言った。
「あなたたちはやってきてすぐだから、きっとまだ大丈夫。……あなたに、お願いしたいことがあるんです」
宇宙人がうろついている市街地から一旦南に退避し、安全な場所へと移動してから、彼らはピットに自己紹介をした。
リボンの子がポーラ、学生服の子がジェフ、そして辮髪の王子がプー。まさしく彼らは、リュカが見た映画にも出てきた、ネスの友達だった。
「わたしたち、彼を助けたくて。でも……」
ポーラはそう言って俯いてしまい、ジェフがその先を続ける。
「見ての通り、今、オネットは時間の流れがおかしくなってます。たぶんあなたも見たと思いますが、普段はずっと前の、全てが始まる前のオネットが繰り返されてましたよね。ああなってると僕らは、あんまり長いこと留まることができなくて、しまいには見えない力によって追い出されてしまうんです」
それを聞いていたプーが、ふと町の方角に目をやる。
「それにしても、今日はずいぶん様子が違っていたな……あれは“侵略者”がオネットの町を襲った時と同じだ」
「うん。あれはたぶん、この人が繰り返し彼の家に行こうとしたからじゃないかな」
彼らのやり取りからは、あの現象をずいぶん見慣れているような雰囲気が感じられた。
それに気づいたピットは、こう尋ねてみる。
「もしかして君たち、僕らが来る前からこれに気づいてて、あの子を助けようとしていたの?」
「はい。でも……わたしたち三人でどんなに力を合わせても、どんなに知恵を振り絞っても、だめだったんです。どうやっても彼に会うことができなくて……」
案じるように、ポーラはオネットの方角を見つめていた。
彼らの話を聞いているうちに、ピットの中では、一つの恐ろしい予想が固まりつつあった。
どうやら『黒幕』は、ピット達が来る前からポーキーに手を貸していたようだ。それも、先ほどあの凶悪な宇宙人を一掃した彼らでさえもその妨害を撥ね退けられないくらいに、強い力が与えられているらしい。
――エリアの外側にいる存在が力を貸したんだから、それも無理もないよ。それにしても……だからこのエリアは、『最高レベルの危険』があるって言われたのか……。
地上界の人間たちをエリアに閉じ込めた『黒幕』。それが如何なる存在であるにせよ、よりによってあんな我儘でひねくれ者の少年――ポーキーにそれほどまでに強大な力を与えるなんて、自分の目から見ても判断ミスだったのではないかと思えて仕方が無かった。
ポーキーは、孤独を募らせた末とはいえ、いつかの未来において人を人とも思わない暴君になる少年だ。そんな子供に強すぎる力を与えてしまったら、一体どうなることか。自分の望みを叶えるために、どんなに残酷なことも、その非道さを知ろうとしないままにやってしまうかもしれない。
そこまでを考えた時、改めて、あの町に置いてきてしまったリュカのことが心配になった。
――今頃オネットのあの辺りはどうなってるんだろう。ポーキーが宇宙人をけしかけてくる前に、逃げてくれてるかな……。
オネットの方角を見つめてそう案じていた時、その傍らでポーラがふとこう言った。
「でも……時を進めることがあの子にとってつらいことなら、わたしたちはそれをすべきじゃないのかしら」
その言葉を聞き、ピットは少し怪訝そうに彼女の方を向く。
ややあって、その顔に理解が追いついた。
――“辛いこと”……ああ、きっとポーキーのことを言っているのかな。時間を元に戻せば、ネス君は遠いところに行ってしまう。いずれはオネットにも戻ってくるのかもしれないけど、もうそれはポーキーと遊んでくれていた頃の彼じゃなくなってる。この子たちとも、世界を救うための旅の中で強い絆が芽生えてるだろうし、ポーキーにはもう、そこに割り込む隙間は残されてない……。
そう考えてから、ピットは少女にこう声を掛ける。
「……それでも、できる限り元に戻そうよ。そして彼を助けよう。僕もそのためにやってきたんだ」
ポーラはほっとしたような笑顔を見せた。
「ありがとうございます。実は……あなたたちにしか頼めないことがあって」
その先はジェフが引き継いだ。
「ここからは僕が説明します。でも、実際の場所を見ながらの方が良いと思うので、まずはオネットに戻りましょう」
時は少し遡り、朝のオネット郊外。
道路封鎖を続ける警官たちを背に、ぷくぷくした腕を組み、威張っているのはおかっぱ頭の少年。ふんぞり返る彼と対峙し、たった一人で立つリュカの姿があった。
下げた拳を静かに握りしめ、ただ黙っているばかりの彼に対し、ポーキーはわざとらしくため息をつくとこう言った。
「こりないなぁお前も。いい加減あきらめろよ、警察の皆さんも困ってるだろ? とっととあきらめておうちに帰りな」
リュカは首を横に振り、相手の顔をしっかりと見据え、短くもきっぱりと言葉を返す。
「ポーキー。あの子を、ネスを自由にして」
しかし相手はあっけにとられたような様子で口をぽかんと開け、ややあって呆れた笑いをもらす。
「……はあ? お前なに言ってんだよ。独り占めするなってこと? えらそーに指図するなよ。ネスはおれとだけ遊んでれば良いんだ。あんな貧乏くさいボロ小屋のやつらとじゃなく」
それを聞いたリュカの目に、戸惑いがよぎる。
目の前にいる少年、彼の言ったことは本心からの言葉なのか、それともまだ知らないふりをしているのか。
先ほどからずっと全神経を研ぎ澄ませ、勇気を振り絞って彼の心を注視しているのだが、一向に見えてこない――いや、“見当たらない”。
かつてリュカが仲間と共に立ち向かい、戦うことになった『王様』。幼稚なままに年老いたキングP、彼の心に渦巻いていたのは、毒々しいほどの甘さに満ち、腐臭をあげて煮え立つ混沌。奇妙にねじくれ、引き攣れ、直視することもはばかられるような感情の堆積物。
だが今、目の前から感じ取れるのは他の子供とほとんど変わることのない、等身大の心でしかない。
もしもここにいるポーキーが自分たちの到来を警戒し、意図的に自分の力と心を隠しているのなら、何とかしてそれを暴かなければならない。
静かに決心を固め、リュカはポケットに片手を入れ、忍ばせておいたヨーヨーを手に取る。
――もしもこの子が『同じ』だったなら……
彼はその脳裏で、ノーウェア島での出来事を思い出していた。
ノーウェア島の地下深くに眠る、闇のドラゴン。
それは世界を変えてしまうほどの力を持ち、眠っていてさえ、島をあらゆる災いから守ってきたほどだった。
どこか遠い時間、遠い国からこの島にやってきた招かれざる闖入者キングPは、幼稚な独裁者としてしばらく島を荒らしていたが、ドラゴンのことを知ると、こともあろうに、己の破壊欲を満たすためだけにそれを従えようと企んだ。そして彼の手の者によって、ドラゴンを封印していた『ハリ』が抜かれ始めた。
リュカはハリを守護するマジプシーの人々から、ドラゴンはより多くのハリを抜いた者に従うのだと知らされる。そこでキングPに対抗すべく、世界を良い方向に変えるべく、リュカ達も各地のハリを探し、抜いていった。
そして七つあるハリのうち、互いに三本ずつを抜き、どちらが最後の一本を手にするかというときになって――ポーキー、彼自身がロボットに乗り込んで現れ、リュカ達は行く手を塞がれてしまったのだった。
激しい閃光、それから衝撃。庇った腕に、腹に、足に、とげとげしい感触が襲い掛かる。
隣で誰かが倒れる音がした。
「……ちくしょう! なんだよ、あいつ! 何なんだ!」
威勢のいい声だったが、リュカにはその声の調子で、彼女がかなり痛手を負っているのが分かっていた。
「大丈夫? クマトラ!」
「気にすんな、これくらいどうってこと――」
だが彼女はそこで声を詰まらせ、顔をしかめる。うつ伏せのまま肩で息をつき、立ち上がれない様子の彼女を見て、リュカは急いで駆けより、助けようとする。
それより先にたどり着いたダスターが、手でリュカを制止する。年長者の落ち着きを見せて、彼はこう言った。
「リュカ、ここは任せろ。力を温存しておくんだ。あいつが他にどんな手を持ってるか分からないうちは」
ダスターはリュカの目を真っ直ぐに見てそう言ったが、リュカには、彼がその内心に緊張と不安を隠しているのが分かっていた。
そしてそれは、リュカも同じだった。先ほどから一向に相手の攻撃の正体がつかめず、対策の取りようも無いように思えていたのだ。
ポーキーは、自分のことを不死身だと言ってみせた。年老いた彼本人は別として、彼の乗り込んだロボットには一向に弱る様子が無く、この戦いが終わるものかどうかさえも自信が無くなってくるほどだった。
だが仲間の治療に努めるダスターを前に、リュカは心の中の不安を強いて押さえつけ、再び前に向き直る。
その横に、茶色い犬が走ってきて寄り添った。リュカと同じ方角を見つめ、四本足でしっかりと立つと、ボニーは吠える。彼の言わんとしていることは、十分にリュカに伝わっていた。
『ここはぼくらでがんばろう! 少しでも手掛かりを見つけようよ!』
リュカは頷き返し、目の前の敵に意識を集中させる。
そこにいるのは、カニかクモを真似し損ねたような奇怪なロボット。胴体のところには頭の側を上げたベッドが埋め込まれ、ぶくぶくでよぼよぼのポーキーが身を横たえている。自分だって身動きもままならない様子だというのに、彼はリュカ達の苦戦する姿を見て、ぜいぜいと咳き込みながら嘲笑っていた。
「あはははは、ゴホンゴホン……どうしちゃったんだい、さっきまでの威勢は。ぼくを止めてみせるって、息巻いてたじゃないか。それなのに、もうそんなんで終わりなのかい? まったくつまらないじゃないか。おまえたちならちょっとはできると思ったのに、どうやらぼくの見込み違いだったようだね!」
掠れた声で高笑いする、歪んだ“王様”。
「残念だよ。今まで色んな時代、色んな国にお邪魔してきたけど、結局最後まで、ぼくに追いつける者はいなかった。それだけぼくが“スマート”ってことなんだよね。分かるかい? スマートって。賢いって意味だよ、こういう場面ではね!」
何かの冗談を言ったつもりなのだろうか、彼は大口を開けて笑い、挙句の果てに自分の唾でむせて激しく咳き込む。
すぐさまロボットのアームが一本動き、王様の背中をさすってやる。それを当然のように受け入れる王様の顔は、がらりと表情を変えていた。
暗く、自分の内に籠るような顔をして、彼は呟く。
「――そう、誰も追いつけなかった。誰も。誰も、ぼくに……」
そこで彼は、乾いた笑いを洩らす。
それはこれまでの馬鹿にしたような笑いとは明らかに違い、どこか諦念の混じった自嘲気味の笑い声だった。
「せっかくあんなに準備したのにな。驚かせてやろうと思ったのに。結局、あいつは追いかけて来なかったんだな」
ポーキーの呟きを聞いたリュカの脳裏に、一つの閃光が走った。
彼はその考えの妥当さも確かめる間もなく、ほとんど反射的な動きでヨーヨーを手に取り、ポーキーに向けて見せつける。
カニのロボットは動きを止め、乗り込んでいるポーキーが訝しげな様子でこちらを見つめる。
次の瞬間、起きたことが信じられず、リュカはあっけに取られてしまった。
ポーキーが歓声をあげ、ふにゃふにゃの手をもたげ、ほとんど拍手にもなっていないような手の動きをしてみせたのだ。打って変わって明るい声で、彼はこう言った。
「ワーオ、ブラボー! ……ゴホ、ゴホ。ぼくの大事なヨーヨー! てっきりイカヅチタワーと一緒にダメになっちゃったんだと思ってたよ! 嬉しいなぁ、わざわざぼくのために持ってきてくれたの? なんて素敵なサプライズだろう。世界の本当のおしまいを見届けるぼくのお供に、この“特等席”に一緒に座らせようって言うんだね? 本当に気が利くなぁ」
彼はそう言って笑っていた。笑い過ぎて涙まで出ていたが、いつの間にかハンカチを持っていたアームが近づき、器用な動きでそれを拭いとる。
ひとしきり笑い終えたところで、彼は澄ましたような顔をしてこう言った。
「でも許してなんかあげない。これまで散々邪魔してくれたのもおまえたちだもの。まずはそのお返しを存分にしてあげるよ」
入れ歯をはめた口が醜く歪み、底意地の悪い笑みが露わになる。
「それはぼくのものだ! 今はおまえに貸してるだけ。傷なんかつけたら容赦しないからな。ぼくのかわいい怪物が最後のハリを抜いて、おまえたちがみーんな塵になったあとで、ちゃんと返してもらうからね」
再び目を開くと、記憶の中の暴君は少年の姿になって、そこに立ちはだかっていた。
――もしも、この子も同じなら……きっとこれで分かるはず。
リュカは心の内でそう呟き、ヨーヨーをポケットから出すと、少年に向けて見せつけた。
彼は、ポーキーは途端に虚を突かれたような顔をする。
すっかり言葉を失ってしまった様子で口をぱくぱくさせていたが、ようやく言葉が出てくる。
「えっ……それ、そのヨーヨー、あいつとお揃いじゃん! ど、どこで買ったんだよそれ! ……いいなぁ」
その声にあったのは、純粋な羨望。先ほどまで偉ぶっていたのが嘘のように、彼の態度からはすっかり毒気が抜けていた。
彼に相対するリュカの方も呆気に取られていた。こんな反応は、想像だにしていなかったのだ。
何も言えずにいるうちに、それでも少しずつ、彼の心が目の前の現実に追いついていった。
全身から力が抜けていきそうになるのをぼんやりと感じていた彼は、自分の心の中からこんな言葉が浮かび上がるのを聞く。
――なんだ、そうか……そうだったんだ。
『この子じゃない』。彼の感覚もそう言っていた。
彼はわがままではあったが、本当に何も知らない。何も隠していないのだ。
しかしそうと分かってもなお、リュカの表情にはわだかまりが残っていた。それは、悔しさと、悲しさの入り混じった苦い感情。
彼が最初に出会った“ポーキー”は心の歪みきった暴君であり、自分勝手な理由で世界を、ノーウェア島を、そしてリュカの家族を取り返しのつかない程に壊しかけた。そんな彼にも、本当に普通の少年だった頃があったなんていきなり知らされても、素直に認めることはできなかった。
それでも、彼は一歩、前へと踏み出す。
羨ましさも露わに見つめるポーキーに、手にした赤いヨーヨーを差し出した。相手は驚いたように肩をすくめ、おずおずと両手でそれを受け取る。
「え、くれるのか? そういうことだよな?」
せわしなく自分の手元とこちらとを見比べている彼の手にヨーヨーを託し、真っ直ぐにその顔を見据えて、リュカは伝えた。
「――大事にして。忘れないで」
ポーキーは訝しげな顔になりつつも、こう返す。
「当たり前だろ、失くすもんか」
ポーキーはすっかり上機嫌になり、鼻歌を歌いながら図書館の前の道を下っていく。彼は早速ヨーヨーの糸を巻き、ぶきっちょな手つきで遊ぼうとしていた。
そんな彼の背を見送っていたリュカは、やがて自分の中で踏ん切りをつけ、封鎖された道の方に向き直る。警察官二人は相変わらず後ろで手を組み、辺りをゆっくりと見渡し、まんべんなく注意を向けていた。
ポーキーが妨害者ではないと分かったので、ピットにそれを伝えなければならない。彼と合流するため、まずはだめで元々、警官に声をかけてみようとする。
しかし、その矢先のことだった。
地鳴りのような音が響き渡り、リュカは身をすくめ、その方角に顔を向ける。
そのどよめきには、何十本とも知れぬ木々が幹ごと揺さぶられる音が混じっていた。やがて生暖かい突風がリュカの全身に吹きつけ、辺りを通り過ぎていったが、彼の目はすっかり凍り付いたようになって上を、森の上空を見つめていた。
封鎖された道の向こう、左側の森が明々と燃えている。
それだけではない。赤く燃え盛る炎の中、異様に頭の大きな大蛇の影がゆらゆらと揺らいでいた。
夢とも現実とも分からない光景に、ただ見ていることしかできなかったリュカ。火の粉が爆ぜる音に我に返ると、急いで近くにいた大人――警察官たちに声を掛けた。
「後ろ、見てください! 火事です!」
「えぇ? 火事だって?」
警官二人は顔を見合わせ、それから揃って後ろを見やる。だが、彼らは明らかに森の方角も見たはずなのに、ややあって怪訝そうな顔をしてこちらに向き直る。
「――どこが火事なんだい?」
「どこって……森です、ほら! あっちの方!」
今度は指さして見せたが、警察官の反応は異様なほどに薄かった。
「森って言ったってねぇ」
「なんともないじゃないか」
しまいに、一人がふと怪しむような顔をして、リュカのことをじろじろと眺め始める。
「……ん? よく見たら君、昨日もここに来てなかったか?」
もう一人もそれに気づき、にやりと笑ってこう言った。
「ははぁ、分かったぞ。ここをどうしても通りたいんで、俺達を騙そうとしてるんだな? だが、つくにしたってもうちょっとマシな嘘をつけよなぁ。……あ、いや、別に嘘をつくことを奨励してるわけじゃないぞ」
全く相手にしてくれない大人二人を前に、じれったくて歯噛みするリュカ。
一方、森の方では大蛇が未だに暴れていた。ゆらゆらと頭を揺らし、あちこちに炎を吹いている。
その意味に気づいた時、彼ははっと息をのんだ。あの大蛇は何かを、あるいは誰かを狙っている。そしてそれはおそらく――
「……ごめんなさい!」
警官たちにそう謝って、リュカは片手を前に突き出した。
手のひらの向こう側、宙に幾つかのきらめきが生じたかと思うと、たちまちのうちに爆竹のような輝きとなって警官たちに向かっていく。
「ひぇっ!」
「目がぁ!」
顔面を手や腕で庇い、二人は悲鳴を上げる。
涙で前が見えなくなってしまった警察官の間をすり抜け、バリケードもくぐり抜けて、リュカはその先へと必死に走っていった。
しかし少しも先に進まないうちに、行く手を一心に見つめていたリュカは我が目を疑い、慌てて立ち止まる。
警察のバリケードを越えた向こう側に待ち受けていたのは、道の幅を埋め尽くしてしまうほどの人垣。誰も彼も青紫色の頭巾を被って顔をすっかり隠しており、それと同じローブに身を包んでいるために、男女の別さえもはっきりとしない。
彼らは青いペンキの入った缶とブラシとを持ち、憑りつかれたような目をしてゆらゆらとその身を左右に動かし、その場で足踏みをしていた。ただの唸りにしか聞こえなかった声が、次第に意味を持って近づいてくる。
「ブルーブルー」
「ブルーブルー」
熱に浮かされたような声。個性を没し、単調な色に塗り込めたようなその異様さに、リュカは生理的な嫌悪感を感じ、思わず一歩後ずさってしまった。
彼が眉をひそめているのには、もう一つ理由があった。警察のバリケードの向こう側には、先ほどまで少しも気配が無かったはずだ。一人や二人ならともかくとして、これほど大勢の人がいたのなら、そもそも気配以前に声や音で気が付くだろう。それらがまったくないままに、あの青頭巾の集団は、リュカがバリケードを突破した途端、忽然と姿を現したのだ。
彼らの恰好、そしてその唱える言葉には既視感があった。あれもあの『映画』に出てきた集団だ。しかし、だとしても――
「なんでオネットに……?」
リュカは訝しげに、そう呟いた。
あの特徴的な恰好は間違えようもなく、“ハッピーハッピー教”の信者たちだ。しかし彼らは、あの冒険映画においてはツーソン近郊の村を拠点としており、それ以外に姿を現したことはなかったはずだ。
それに彼らは、教祖を自称していたおじさん、カーペインター氏が正気に戻ったことによって我に返り、以降は心を入れ替えて真っ当な村人として生きていくことにしたはずだった。また一方で、カーペインターに偽の啓示を与えていた『像』は盗み出され、フォーサイドに流れ着き、あのモノトリーに力を与えることとなる。
リュカ達の見たフォーサイドは既に大富豪による支配から解放されていた。したがってカーペインターも、ここにいる彼らも、順序から言ってもう改心していて良いはずなのだ。
時間も、場所も無視して現れた人垣。そこからは何者かの強い意思が感じられた。
『ここから先へは、何人たりとも通すまい』
だがリュカの方も、ここで諦めるつもりはない。燃え盛る森の方角、首をもたげる大蛇をもう一度見やると、心を決めて歩き出した。
信者たちは経文を唱えながら、青いペンキを木々の幹に塗りたくり、草花を青く染め、辺りを青一色に変えようとしている。
彼らは近づいてくる少年がいることに気が付き、うろんな眼差しを向ける。
数十を超える眼差しが突き刺さるが、リュカは一切怯むことなく、ただ彼らに向けてこう告げる。
「僕はこの先に行きたいんです。通してください」
だが信者たちは口々にこう言うだけだった。
「ブルーブルー。青くない、罰当たりなやつ……」
「ブルーブルー。なんて邪悪な色をした髪だ」
「ブルーブルー。青くない奴はさっさと去れ!」
「ブルーブルー。少年よ、救われたければ青く染まれ」
こちらの話を一切理解しようとせず、手にしたブラシをのろのろと振り回す信者たち。
リュカは内心で焦燥を募らせていた。
相手はあまりにも人数が多く、先ほどのように“PKフラッシュ”で目くらまししようにも、その間に他の信者が寄ってたかって飛びかかり、取り押さえられてしまうかもしれない。
別のPSIを試みようとした彼の手が、ふと躊躇う。
――あんまり人には使いたくないんだけど……でも、そうでもしなきゃ……!
良心の痛みに蓋をして、彼は目の前に立ちはだかる人々に指先を向ける。
「どいてくれないなら……無理にでも通りますよ!」
その手に六角の輝きを纏わせ、警告した。
彼の言葉はこけおどしではない。間もなく放たれようとしているのは、辺り一帯に大きな衝撃を与える特別なPSIだ。
しかしその輝きも見えているのかいないのか、信者たちは相変わらずその場に佇み、ふらふらと足踏みを続けるばかり。
これ以上待つのは無駄だ。そう自分に言い聞かせて、リュカはその手に集めた心の力を一気に解き放つ。
鮮烈な光が四方から集まり、宙に幾何学模様を描き、エネルギーを蓄えながら一点に向かって収束していき――しかし、何事も為さぬままに消えてしまった。
驚愕に目を見開いていたのもつかの間、リュカはすぐさま警戒の姿勢に移る。
乱暴な信者たちも、それどころかオネットの山並みも、目の前から消え失せていた。今、彼の目に映るのは明暗が逆転した世界。今まで歩んできた中で見かけた記憶のある建物、通り、人々の雑踏が入り乱れ、まるでネガフィルムのように反転したまま目まぐるしいほどの速度で流れ去っていく。
一つ一つを見ているうちに酔ってしまいそうになって、リュカは目をつぶり、心を落ち着けようとした。
だが、少しも経たないうちにリュカははっと目を開く。
誰かの声が、外と内の境界を容易く通り抜け、リュカの心に触れる。
――君は、あの子を知ってるの?
その『心』には、言いようのない既視感を感じた。その持ち主はどこにいるのか、急いで首を巡らせ、源を突き止めようとする。
だがリュカの目に映るのは幻覚のように取り留めのない、支離滅裂な走馬灯ばかり。
そうこうしているうちに、再び、何者かがリュカの心を覗き込む。
折しも心に浮かんでいた記憶を読まれた、そんな感触があって、やがて居たたまれない気持ちを滲ませた声がこう言った。
――……そうか、そんなことに……。
辺りの空間に深い悲しみの波が押し寄せ、リュカは危うく押し流され、自分を見失いそうになる。
必死に踏みとどまるリュカの頭上から、一つの決意に満ちた声がこう伝えてきた。
――ごめん、僕が止めなかったからだ。今度は止める、ここで止めるよ。ずっと、ずっと……。
その言葉に、リュカはほとんど反射的に顔を上げる。見定められないままに、それでも懸命にその名を呼び、引き留めようとする。
だが僅かに及ばず、辺りの混沌がより一層速度を増して渦を巻き、何もかもを虚空の彼方に吸い上げていく。そのただなかに巻き込まれたリュカは、心も、記憶も攫われそうな恐怖に襲われ、何もできぬままその場にへたり込み、うずくまってしまう。
彼の耳に、別の少年の声が届いた。
「――つかまって!」
反射的に目を開く。視界に映るのは、こちらに差し伸べられた手。
それが誰であるのかを気にする余裕もなく、リュカは無我夢中でその手を掴んだ。
辺りは相変わらずネガフィルムの世界だったが、前を走る少年だけは普通の色を保っていた。
トリコロールの縞シャツ。赤い帽子に赤いスカーフ。黒い髪の少年は、リュカの手を引いて走っていく。
「本当は、こっちに首を突っ込んじゃいけないんだけどね」
そう言ってこちらを見た横顔はネスに似ているようでいて、少し違っていた。
「君は、誰……?」
リュカがそう問いかけると、彼は微笑んだ。
「僕はニンテン。こっちとは少し違う世界に住んでる。ロイドが言うには、“パラレルワールド”なんじゃないかって」
「えぇと、僕はリュカ。ニンテン、パラレルワールドってどういうこと? ロイドって誰?」
「ごめん。説明したいけど、あまりここには長くいられないんだ。今はとにかく、僕についてきて!」
つかまれた手がぐっと引っ張られたかと思うと、二人の左右で急に景色が流れるように引き伸ばされ、やがて色のついた縞模様となっていく。
次の一歩が踏み下ろされた先は、一面の雪景色だった。
気温の急な変化に身を縮こまらせつつも、リュカは辺りの景色に気を取られた様子で首を巡らせていた。
信じられないほど大きな岩の柱が、彼らの周囲を丸く取り囲むようにして立ち並んでいた。中にはそれを支えとして、さらに上に岩が横たえられているものもある。それはさながら、巨人が岩を積み木代わりにして遊んだかのよう。
「こっちだ」
ニンテンの声に、行く手に注意を向ける。
「暗いから、足元気を付けて」
巨石が描く円の中央、そこには人一人が出入りできる程度の穴がぽかりと空いている。
帽子の少年を追って穴の中へ降りていき、暗い洞窟を通り抜け、奥へ奥へと進んでいく。
靴の裏から感じ取れる地面は石造りで、ところどころ荒削りの部分もある。どうやらここは岩盤をそのまま掘りぬいただけの通路らしい。
次第に目が慣れてくると、辺りの岩肌が紫がかった不思議な色をしているのが分かってきた。ノーウェア島にもあったオケラ達の住処、オケラホールにも似ているが、こちらの方が全体的に広い空洞が多く、道筋が単純な気がした。
そんなことを考えていた時、リュカはふと、大事なことを言い忘れているのに気が付いた。
「……そうだ、ニンテン。あの……ありがとう、助けてくれて」
「どういたしまして。それにしても、危ないところだったね」
「うん……でも、あれはたぶん……」
そう言って俯いてしまったリュカに、ニンテンは気遣うような眼差しを向けていた。
やがて、きっぱりと前を向き、彼はこう伝える。
「あの子が『閉じこもった』のは、理由があるんだ。この先にその理由がある」
その言葉と同時に、二人の前で景色ががらりと変わる。
目の前に開けたのは、暗く、どこまでも広がるような空間。足音が変わったことに気が付いて足元を見ると、いつの間にか通路は金属でできたタイルのようなものになっていた。後ろを振り返ると、そこには黒紫色に怪しく光る壁が高くそびえ立っている。金属とも石ともつかず、何となく、地球上の物質ではないように感じられる。
「ここは……?」
「僕も名前は知らないんだ。誰が、何の目的で作ったのかも。でも今は――」
そう言ってニンテンは、その先へと歩いていった。リュカも彼について歩いていく。
通路に設けられた欄干を掴み、その下を覗き込んだ二人の目に映ったのは、床も見えないほどにびっしりと埋め尽くされた緑色のカプセル。遠くてよく見えないが、それらのカプセルには何か人間のようなものが閉じ込められているようだ。
唖然として眼下の光景を見ていたリュカ。ようやくのことでそこから目を離し、ニンテンにこう言った。
「――これ、知ってる。見たことある……!」
それを聞いたニンテンは、ちょっと目を丸くした。その表情からは、どこか親近感のようなものが感じられた。
「あ、君も知ってたんだね!」
「僕のところだと、あれはポーキーが作らせたものだったんだ。ポーキーのことを尊敬するようにしてしまう、そういうカプセル。でも、こっちのポーキーはそんなことはできそうにないし、じゃあ、誰が……?」
ニンテンはリュカの問いに対し、微笑を返す。
即答することを避け、彼はこう提案した。
「……下に降りて、もう少し近くで見てみようか」
宙に架けられた梯子を下りていき、一番下の階層までたどり着く。
カプセルの上部が見えるくらいまで降りてきた二人は、再び欄干へと近づいた。
「この人たち……」
見渡す限りに広がる緑色のカプセル。透明なガラス越しに垣間見える人々の姿形を一目見て、リュカは戸惑ったように呟いた。
カプセル内の人間たちには、統一性というものが全く無かった。服装の趣向や髪の色が違うまでは未だ良い。頭の大きさ、手の大きさ、腕や足の長さ――中にはその本数さえも違っていたり、体の一部が動物のものになっている人までいた。
個性的と片づけるにはあまりにも異様な“人間”たち。誰も彼も目をつぶり、ぴくりとも動かない。
リュカは彼らを見つめ、眉間にしわを寄せ、言葉を見失ってしまったようになっていた。そんな彼の様子を横で眺めていたニンテンは、やがてこう言った。
「やっぱり、君にも分かるんだね」
「……この人たち、何も聞こえてこない。でも、生きてるよね……?」
「生きてると思う。でも、ここにあるのは『抜け殻』なんだ。たぶん」
そう答えたニンテンは、真剣な顔で眼下のカプセル群を見つめていた。
「抜け殻……じゃあ、心はどこに行っちゃったの?」
尋ねかけて、そこで彼ははっと息をのむ。答えに思い至ったのだ。
このエリアにおいてリュカは、様々な人に聞き込みを行った。ほとんど無意識のうちにその意識を探り、心を感じ取るうちに、彼らのうちのいくらかに言い知れぬ違和感があることに気づき始めていた。今まではそれを、ネスにまつわる真実を言おうとして止められているからだと思っていたが――
リュカの思考を読み取ったように、ニンテンは頷いた。
「そう。あの子は……この人たちをここに閉じ込めて、それっきり忘れてしまうこともできたはず。なのに、あの子はそれをしなかった。彼らに役を与えたんだ」
「この人たちは、誰? どこから来たの? 何か……悪いことをしたの?」
戸惑い気味に尋ねたリュカ。
ニンテンはそれに答えようとしたが、はっと表情を険しくして後ろを振り向いた。リュカも気配を察知し、後ろに向き直る。
いつの間にか、彼らの背後に人影が現れていた。白銀色の肌をした、人型の宇宙人。
一人、また一人と宙から滲み出るように出現し、見る見るうちにその人数は増えていく。
「スターマン……!」
ニンテンは警戒を声に滲ませ、呟く。
「どうする?」
「この人数じゃ、ムリに戦わない方が良いな。リュカ、ついてきて!」
そう言うなり、いきなりニンテンは欄干を飛び越えて、カプセルの海原に飛び乗った。そのままカプセルの頂部を飛び移り、進んでいく。リュカも慌ててその後を追いかけ、無我夢中で走り続けた。
カプセルが放つ緑色の光が眩しく、幾度となく足場を見間違えそうになりつつも、二人は懸命に走っていく。後ろからスターマンが追いかけてくるかどうかを見る余裕もなく、ただひたすらに腕と足を動かして走るうちに、ついに出口が見えてきた。
あれだけぎっしりと詰まっていたカプセルも次第にまばらになってきて、二人はしまいにカプセルから降りて洞窟の床に着地し、ほとんど駆け込むようにして洞窟の出口をくぐり抜ける。
砂色の岩肌。切り立った崖。洞窟を抜けた先に広がっていたのは、荒涼とした山岳地帯だった。
膝に手をつき、息をつくニンテン。さすがにあれだけ疾走して疲れたのだろう。
「ここまで来たら、きっと……あいつらも、追ってこないよ」
「……ここは? さっきの雪が積もってたとことは、なんだか違うみたいだけど」
きょろきょろと辺りを見回しているリュカに、後ろから声が掛けられる。
「ここはホーリーローリーマウンテンよ」
振り返ると、そこには二人の少年少女がいた。声を掛けてきた方、ピンクの帽子を被った女の子はリュカの目をじっと見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「――あら、あなたは……別の子なのかしら」
戸惑うリュカの代わりに、ようやく息が整ったニンテンがこう返す。
「あの子には会えなかったんだ。でもその代わり、リュカに会えた。何となくの勘だけど、リュカならきっとあの子に会いに行ける。そう思って、来てもらったよ」
彼の答えに、女の子は笑顔を見せて頷いた。
「わたしもそう思うわ。……リュカ君って言うのね。わたしはアナよ」
隣にいた眼鏡の男の子も、ちょっと緊張した様子で進み出る。
「ぼくはロイド。二人が言うならぼくも信じるよ。よろしくね、リュカ君」