星は夢を抱いて巡る
第6章 魔術師 ⑥
オネットの北部にある山。さほど高い山ではないものの、市街地からは遠く、ほとんど住んでいる人もいない。
ヘビやカラスがめぼしい食べ物を求めてうろつく山道に、不意に、空間の歪みが生じる。
動物たちは異変を感じてそちらを見やるなり、慌てて道を空ける。一瞬遅れて、空間の歪みから子供たちが現れ、山道を駆け抜けていった。
プーを先頭に、ポーラ、ジェフが続く隊列は次第にスピードを落とし、その場で一旦立ち止まった。
「無事に着いたな」
辺りを見渡し、プーはそう言った。その道着の肩には、カブトムシの姿をしたピットがつかまっている。
「……ここって北の山だよね。彼の家を素通りしちゃったけど、良いの?」
「良いんだ。どのみち、行ったって入ることもできない」
プーはきっぱりと答える。彼らもピットと同様の試行錯誤を重ね、そのうえで無理だと分かったのだろう。
三人の子供たちはピットを連れ、山道を登り始めた。その肩で揺られつつ、ピットはこう言っていた。
「まあ、確かにね……。そしたら、用事があるのはもしかして、山頂?」
今度はジェフがそれに応じた。
「そうです。この山は、特別な場所なんです」
折しも、三人はそこで山頂にたどり着いた。
そこには、何の変哲もない草原が広がるばかり。特段、変わったところは見受けられない。
平凡でのどかな高原を前に、ジェフはやがてこう言った。
「本当はここに……隕石が落ちていたはずなんです」
「え、隕石?! そんなのがこんな、町の近くに落ちたらタダじゃすまないよね……?」
ジェフはそれを聞き、笑みを見せた。
「普通の隕石じゃなかったんです、きっと。実際、その隕石は『未来』から来たひとの乗り物だったそうなので」
その言葉を受けて、プーがふと何かを思い出した様子でジェフの方を見る。
「そういえば……その未来から来たひとというのも、虫の姿をしていたと言っていなかったか、あいつは」
ジェフも、そしてポーラも頷いた。
ポーラがこう答える。
「そう。カブトムシのような姿だって」
「僕は未来から来たわけじゃないけど……」
ピットはその先は――『エリア』の外から来た、と言うのは控えておいた。
それから主にジェフが語り役となり、時にポーラやプーが補足しながらも伝えられたのは、こんな話だった。
ある日の夜、オネットの山頂に隕石が落ちた。
その隕石を見に行った彼らの友人は、そこから姿を現したカブトムシのようなひと、“ブンブーン”から地球に迫る危機を伝えられる。
宇宙最大の破壊主“ギーグ”、その魔の手が地球にも迫りつつある。ブンブーンのいる十年後の未来は惨憺たる有様となってしまったが、同時に希望となる言い伝えも残されていた。
三人の少年と一人の少女がギーグを倒す、と。
ブンブーンはその“少年”のうちの一人が君なのだと告げ、それに導かれるようにして、彼らの友人は長い旅の最初の一歩を踏み出すことになったのだ。
「でも、オネット一帯、とりわけ彼の家の近くでは時間の流れがほとんど止まったようになってしまっていて、ずっと同じところを繰り返しているみたいなんです。山頂もこの通り……隕石なんかどこにもない。つまり、旅に出る前で、時間が足踏みを繰り返している状態なんだと思うんです」
ジェフの説明を聞き終え、ピットは内心でこう考えていた。
唯一の友達が遠くに行ってしまうのを邪魔するために時間を巻き戻し続ける。それも踏み越えてやってこようとする者には、先ほどのような怪物や宇宙人をけしかけて追い払う。それらも乗り越えて彼の家に辿り着いた者がいたなら、強制的にオネットのどこかへとワープさせてしまう。
あの時ジャイアントステップで、たまたま家から外出していたネスに出会えたのは千載一遇の幸運だったのかもしれない。いつもは四六時中ポーキーが付き纏っていて、彼に近づく不審な存在があれば先ほどのような怪物や宇宙人を呼び出して追い払わせていたのかもしれない。
だからポーキーを足止めすれば、きっとそれも防げるはず。ピットはそう予想していたのだが、それでもうまくいかなかった。
おそらく、特に重要なネスの家の周辺にはポーキー無しでも自動で発動するような『トラップ』が仕掛けられていたのだろう。
そこまでを考えたところで、彼は子供たちに向き直った。
「じゃあ、どうすれば……。君たちは何か、手掛かりを見つけてるの?」
尋ねたピットに、プーが単刀直入に答えを返す。
「ここに足りないものを加えれば良い。星を落とせば良いんだ」
「えっ……星を落とすって……?! 君たち、そんなことできるの?」
「星を落とす方法はある。PKスターストームだ」
自信たっぷりにそう答えたプー。ポーラもこう言った。
「実際、わたしたち、もう試しているんです。わたしたちだと星が落ちた途端に締め出されてしまうけど、あなたなら……きっと大丈夫。その先に残ることができるはず」
そしてジェフも。
「僕らが残れないのは、あの時、あの場所には僕らがいなかったからだと予想してます。だから、少しでも同じ時刻にあの場所にいた可能性のある、この町の人にお願いしようとしましたが……誰を連れてきても、どこに立たせても同じだったんです。でも、きっとあなたなら」
子供たちは期待に満ちた眼差しで、ピットのことを見つめていた。
彼らのあまりにも純粋で真っ直ぐな思いを前に、ピットはかえって気が引けてしまうのを感じていた。
「いくら僕がそのブンブーンに似てるからって――」
と言いかけて、彼ははっと目を見開く。
思い出したのはこのエリアにたどり着いた先で女神から伝えられた言葉。
『エインシャントさんによると、あなたが任務を遂行するために適した“外見”は、その甲虫だというお話で』
納得すると同時に、ピットは内心で一層疑念を深めていた。
――まるでこうなることを知ってたみたいだ。あの人は……エインシャントは一体どこまで知ってるんだ?
ジェフとポーラ、そしてピットが見守る中、プーは静かに息をつき、意識を集中させていた。
それからゆっくりと両の手を天に向け、空を振り仰ぐ。すると、わずかな間を置いて空に変化が現れた。青空のあちこちできらりと光が灯ったかと思うと、それらは眩い光球となって落ちてくる。
それを見たピットは、先ほど、あの宇宙人を追い払うためにも使われた技だと気づいた。
光は轟音を立ててあちこちに降り注ぎ、美しいきらめきをあたりに振りまいて消えていく。
そして最後に、ひときわ大きな輝きが落ちてきたかと思うと、耳を聾するような音と共に山頂に墜落した。
熱い風が、砂煙が全身に吹き付ける中、ピットは子供たちの声を聞いた。
「後は頼んだぞ!」
「この先はあなたに掛かっています!」
「わたしたちが一緒にいられるのはここまで。どうか、あの子を、彼を――!」
ポーラの祈るような声は途中で消えてしまい、振り向いた時には、もうそこには彼らの姿は見えなくなっていた。
辺りに広がるのは静寂と、火の爆ぜる音。
いつの間にか夜になっており、山頂で明々と燃える隕石だけが辺りの草木を照らしていた。
どうやら、自分だけが『その先』に進めたらしい。だが、それを思うピットは自分の心の内に緊張が高まっていくのを感じていた。
ネスが来ることを信じてその場で待つうちに、辺りがにわかに騒がしくなってきた。
サイレンの音が幾つも集まり、群れを成して山を登ってくる。山頂に至る道の手前辺りまで来たパトカーもいるらしく、下の方に見える木々が回転灯の明かりで赤く照らされていた。
男たちの声がしばらくがやがやと言い合っていたかと思うと、やがて懐中電灯を持った警察官が三人、山頂の様子を見にやってきた。
彼らは山頂にたどり着くも、それ以上は前に出ようとせず、遠巻きに隕石を眺め、懐中電灯の光を当てていた。
「うわっ」
「ひぇぇ……」
「おい、あれは……」
「本物だ。本物の隕石だ」
「本物ってお前、隕石見たことあるのかよ……」
ささやくように言っていたが、彼らはそれ以上近くに来ることはなく、再び引き返してしまった。
――“名物”の道路封鎖をしにいったのかな。そうされちゃうと困るんだけど……。
つい様子を見に行こうして、ピットはすんでのところで踏みとどまる。
ジェフが説明した通り、ブンブーンはここに“いた”はず。したがってネスに会うためには、自分がここを動いてしまってはいけないのだ。
そこまで考えたところでふと気になり、ピットは隕石の様子を見に行った。もしも本物のブンブーンがいるのなら、ややこしいことになる前に事情を説明しておいた方が良いのではないか、と思ったのだ。
だが、墜落したばかりの隕石は尋常ではない熱を帯びており、ピットは少しも近づかないうちに慌てて引き返さざるを得なかった。
――ダメだ。これ以上近づいたら、それこそ羽が燃えちゃう。……それにしても、あんなに熱かったら中はとんでもないことになってそうだけど、本当にこれが乗り物なのかなぁ?
隕石から距離を置き、そう考えつつ首をひねっていた時だった。
小さな足音が近づいてくる。二人分の足音だ。
期待と緊張で胸が高鳴るのを感じつつ、ピットはそちらの方角に目を向ける。
やがて足音は坂を上がり、やってきたのは――
「うそ……」
ピットは思わず、そう呟いてしまった。
顔をのぞかせたのは、金髪のおかっぱ頭の少年たち。ポーキーと、おそらくはその弟だろうか。
凍り付いたように動けないピットの頭の中では、行き場を失った思いが堂々巡りを繰り返していた。
――ああ、リュカ君、大丈夫かな……やっぱり、僕もついていくべきだったんじゃないか? まったく、ほんとに、なんで一人で行かせちゃったんだろう……!
自省の念に駆られるピットをよそに、ポーキーとその弟はしばらく山頂を恐る恐るうかがっていたが、ついに思い切って近くまで上がってくる。
草原に伏せているピットには気が付かぬまま、彼らは、燃え盛る隕石にじりじりとにじり寄る。
二人もまたあるところでそれ以上近づけずに立ち止まり、腕を庇代わりにして隕石を眺めていた。
視線を隕石に釘付けにされたままで、彼らは恐々と小声で話し合う。
「うわぁ……熱い」
「こいつはすごいや……カメラ、持ってくりゃ良かった」
と、その時、隕石の方で何か固いものが爆ぜる大きな音がした。
少年二人はびっくりして跳びあがり、てんでばらばらな方角に一目散に駆けて行った。弟の方は下山する方角ではなく、山頂の行き止まりに向かっていってしまったのだが、兄は全く気が付くことなく、慌てふためいて山を駆け下りていってしまった。
遅れてそれに気が付いた弟は、はたと我に返り、辺りを慌てて見回す。
「……えっ? ポ、ポーキー! どこ行っちゃったんだよう!」
返事は無く、弟があわあわと辺りを見渡しているうちに、また隕石が大きな音を出す。
おそらく急激に冷えたせいでどこかにひびが生じただけなのだが、それを知る由もなく、弟はすっかり怯えた様子で近くの木立の後ろに隠れてしまった。
さすがに彼が気の毒になったピットは、そちらの方へ飛んでいき、声を掛けた。
「大丈夫? 誰か呼んでこようか?」
しかし頭を抱えて震える少年は、姿の見えない声にかえって驚いてしまったようだ。
「わっ?! だ、だれだ! お化けじゃないだろうな! ……もう、あっちいけよ!」
そう言って腕をやみくもに振り回すばかり。
少なくともその場から動く様子は無さそうだったので、ピットは彼をそっとしておくことにした。そのうち落ち着いたころに下山する道を教えてあげよう、と。
木の陰でぶるぶると震えている少年を見守りつつ、ピットは山頂でネスが来ることを信じ、待ち続けていた。
やがてオネットの街並みの向こう、夜空の底がごくうっすらと青みを帯びてきたころ、ようやく待ち望んでいた声が耳に届く。
「おーい、ピッキー! いるのかーい!」
ピットがそちらを向いた横で、ポーキーの弟もはたと顔を上げる。
それから急いで目をこすり、涙の跡をごまかす。さすがに駆け寄っていくほどの勇気はなかったらしく、その場で彼が来るのを待つことにしたらしい。
やがて山頂にたどり着いたネスの後ろには、やはりと言うべきか、ポーキーの姿もあった。
進むべきか、待つべきか。
――ここは、先手必勝!
ためらっていたのも一瞬のうち、ピットは心を決めると手紙を取り出し、ネスに向かって飛んでいった。
「ネス君! この手紙を受け取って!」
赤い帽子の少年はそれを見て、後ずさる。
首をのろのろと横に振り、その表情は呆然としたものから徐々に、恐れへと変わっていく。
彼は、やがてこう呟いた。
「――違う。……君は、誰……?」
次の瞬間、世界が暗転した。
暗い穴を、どこまでもどこまでも落ちていくような感覚があった。
暗闇に、ぽつりと淡い緑色の斑点が生まれたかと思うと、急速に広がっていき――ピットは、柔らかい音を立ててその地面にめり込んだ。
「――ぷはっ!」
顔を上げて、そこで彼ははたと気が付く。
自分に、起こすことのできる上半身があることを、そして、それを支える二本の腕があることを。
目の前に持ってきた手はカブトムシのものではなく、本来の自分の手になっていた。胴も、白いチュニックを着たいつもの姿だ。後ろを振り返ると、ちゃんと背中には本来の白い翼がついていた。
「戻ってる……?」
彼は元の姿に戻れたことを喜びつつも、奇跡が切れてしまったことに言い知れぬ不安を感じていた。
眉根を寄せる彼の周囲が、にわかに騒がしくなった。
その騒ぎの中には、興奮した様子の声と、訝しむような声が混ざり合っていた。
「あれって、まさか!」
「え、本物? 本物?」
「なんでこんなところにいるんだ?」
「うそーっ! 信じられなーい!」
「こんなところで会えるなんて!」
「彼ってここにいたっけ?」
自分を取り囲む声、その声の主たちを、ピットは唖然として見回していた。
辛うじて人の形をしていることが分かる、不定形の光。男か女かも、表情すらも分からず、もはやぼんやりとした腕や足の動きでしか感情を読み取ることができない。
彼らは頭をそれぞれに左右に振り、人垣の隙間からピットのことをよく見ようとしつつも、それでいてピットから一定の距離を取り、それ以上近づいてくる様子は無かった。
円陣を組むかのようなその様子にふと思い出すものがあり、ピットはまだ状況が飲み込めないまでも、彼らにこう尋ねてみる。
「……あのー、君たちさ。ひょっとして、マリオ達のエリアにもいた?」
ところが、それを聞いた彼らは途端に押し黙り、戸惑った様子で互いに顔を見合わせ始めた。
「あー……」
「えーと?」
上の空といった様子でしばらくもごもごと何事かを喋っていたが、そうしているうちに不意に、彼らは興味を失くしてしまった様子で顔を背け、三々五々解散してしまった。
後には唖然としたピット一人が取り残される。
「なんだったの……?」
ピットが落ちてきたのは、一面に緑色が広がる不思議な地面。草地のようでもあるが、ついた足がわずかに沈み込み、まるで絨毯やクッションのような感触でもある。
見渡すと、辺りにはドールハウスに使われていそうな形をした草や木が立ち並んでいたり、顔のついた花が咲いていたり、どことなく絵本の中のような風景が広がっている。時々、やけに根っこの太い新種の樹木があると思ったら、それは巨大な人参だった。そんな奇妙な草原の中を、光る影法師たちがのんびりと歩き回っている。
ここは一体どこなのだろうか。
少なくとも危険は感じられなかったので、ピットは様子を伺いつつ歩き始めた。
白い影法師たちは一人だけでうろうろしている者もあれば、複数人で固まり、頭を寄せている者たちもいた。誰もが何かしらぶつぶつと呟いており、彼らの横を通り過ぎた時、その内容が聞こえてきた。
「シャーク団がおとなしくなってもお金がないからゲームはできない。……ということが分かりました」
「一番知りたいのは『ストーンヘンジ』の中心が、どこかにつながる入り口だっていううわさかな。いつかぼくらで調べてみたいもんだよねぇ」
「やっぱりモノトリーって悪魔に力を借りてたらしいわねぇ」
「この辺じゃ見かけない顔だ。何か用かな。わしの方からは用は無いよ」
「わたし、ネズミに『SMAAAASH!!』ってされちゃったの」
ある人は口になじませるように何度も繰り返し、またある人は感情を込めて身振りをつけ、宙に語り掛けるように。また、集団で集まっている影法師は、だいたいみんなで同じ台詞を言い合っていることが多かった。
まるで何か演劇の練習をしているような様子ではあったが、“シャーク団”や“モノトリー”等々、これまでに耳にしてきた単語があちこちで呟かれるのを聞くたびに、思わずピットはそちらを振り向いてしまう。
影法師たちは練習に夢中になっており、もうピットに注意を向けることはなくなっていた。何となくピットも彼らの邪魔をしてはいけないような気がしたが、このままではらちが明かないので、思い切って彼らに道を尋ねてみる。しかし、彼らから返ってくるのは戸惑い気味の反応ばかり。こちらが質問した途端に語彙を失ってしまい、『分からない』というように首を横に振る。
おとぎ話の風景には終わりが無く、どこまで歩いても白い影法師とおもちゃの草木しか見当たらない。
とうとう立ち止まり、途方に暮れて見上げた空は一面の赤紫色。星とは違う細かな輝きが散りばめられ、静かに漂っている。
「はーい、並んで並んでー」
不意にそんな声が聞こえて、ピットはそちらに顔を向けた。
光る影法師が若干いい加減な列を作って集まっている場所がある。その列の先頭、彼らと向き合うようにして立つ何者かがいた。黒い兎のような耳が影法師たちの列の上に飛び出している。
「順番、順番だよ」
そちらの方へ歩いていくと、じきに、影法師たちを集めて喋っている者の姿が見えてきた。白い手袋をはめた、二足歩行の大きな黒ウサギ。ただ、その尻尾は兎というよりもネコのように長い。
どこかテーマパークの着ぐるみのようにも見える黒ウサギは、先頭にいる影法師にこう尋ねていた。
「はい。じゃあいよいよ向こうに降りてもらうわけだけど、準備はできてるかい?」
光る影法師は何も言わず頭を頷かせる。表情は見えないが、どことなくそわそわと浮足立っているようだ。
「だいじょうぶかな? もしもまだ心配だったら、ここに残って練習してて良いんだよ」
ウサギに聞かれ、影法師はきっぱりと首を横に振った。
「……うん。だいじょうぶそうだね! それじゃあ、君の行く場所につなげるよ。疲れたらいつでも、ここに戻っておいで」
ウサギはそう言って、影法師の手を取り、草原の端へといざなっていく。
その先は赤紫色のさざ波が寄せる海。その水面が揺らいだかと思うと、どこかの通りの上空が映し出された。
ウサギが見守る向こう、影法師は迷うことなくその幻に向かって歩いていき、吸い込まれるようにその中へと落ちていった。
「いってらっしゃーい」
黒いウサギはひらひらと手を振り、そうしてまた影法師たちの集まる場所に戻ってきた。
ピットは逡巡の後、思い切ってウサギのもとに駆け寄っていく。
「ねえ、君! ここはどこなの?」
声を掛けられてこちらを振り向き、ウサギは驚いた様子で目を瞬いた。
「あれー? 君、ここに来たばかりなのかい? ずいぶん欲張りさんだね。そんなにいっぱい持ち込んじゃダメだよー」
「え、持ち込み……?」
「ほら、それ。それだよ。よけいな荷物はちゃんと置いてこなきゃ」
黒いウサギはそう言ってピットを指さす。
「武器? それともまさか、服じゃないよね?」
「ちがうよー、全部だよ。全部」
「全部って……まさか」
ようやくウサギの言わんとするところに思い至り、ピットは思わず言葉を失う。
辺りで揺らめく影法師を振り返る。彼らのあの姿は、“全部”を捨てた後の姿だというのか。
身構えるピットに対し、ウサギは相変わらずあっけらかんとしてこう言った。
「もう要らないでしょ」
「要らないわけないよ。君が何やってるか知らないけど、僕は部外者だからね」
「ふーん……? そういうのもあるの?」
黒ウサギはのんきに小首をかしげる。
「僕が聞きたいのは、ここはどこかってこと。それから、出口も知りたいんだ」
かみ砕いてそう説明すると、ウサギからはこんな答えが返ってきた。
「ここはマジカントの国。彼の心が生み出した国だよ。ここから出るのは簡単さ。要らないものを置いてきて、ここになじめば良いんだよ」
要するに、先ほど水面の幻に落ちていったあれを言っているのだろう。影法師たちの一員になれと。
だが、こちらはそうするわけにはいかない。
「それ以外の方法は?」
「えー? ぼくには思いつかないなぁ。他のひとに聞いてみてよ」
黒ウサギは、少なくとも出口が他にあることを否定しなかった。本当にここが誰かの心によって生み出された空間だというのなら、その誰かに掛け合えば出口を、あるいは脱出方法を教えてもらえるかもしれない。
草原にはさっきの黒ウサギが一匹と、後は無数の影法師しかいない。そこでピットは別の場所につながる道を探すため、草原の外周をぐるりと歩いた。だが残念なことにどこまで歩いても海岸線が続くばかりで、ここが完全に孤立した島だということが分かった。
海を隔てて向こう側には幾つかの島影が見えているが、泳いでいくしかないのだろうか。
ギザギザの海岸線に立ち、向こう岸を眺めて呻吟していたピットだったが、やがて腹を決め、海に手を浸してみた。赤紫色の水は思っていたよりも暖かく、人肌より少し熱い程度、ぬるめの温泉のようだ。続いて岸辺に腰を下ろし、片足をできる限り伸ばして水深を測ろうとするも、どこまで下ろしても水底に着く気配がない。思い切って岸を両手でつかみ、今度は全身を水につけてまで水深を探ったが、やはり足は何もないところを掻くばかりだった。
だが、少なくとも身体は浮くようだ。
「……よし。やってみよう」
半ば自分を奮い立たせるためにそう呟き、ピットは岸から手を離して、一番近くに見える島を目指して泳ぎ始めた。
加護を施された衣服は濡れて重くなることもなく、水温も暖かくて体温を奪われることがない。
とはいえ、つかまるものが何もない海原をたった一人で泳いでいくのは心細く、ピットは次第に不安が募るのを感じ始めていた。
泳いでも泳いでも、島影は少しも視界の中で動かず、まるで遠ざかっているようにも見えてくる。体力を温存するために時々休憩をはさんでいたのも、もどかしくなってきてだんだんと時間が短くなっていく。
水がやけに重くなってきたと感じた時にはもう遅く、彼は少しも進めないうちにすっかり気力も体力も使い果たしてしまっていた。
ともかくおぼれないためにその場で頭だけを出し、疲れ切った手足をぼんやりと動かしつつ、もっと安全な姿勢があったはずだと考えていた彼の視界に、何か黄色いものが映った。
力強い水しぶきを上げて泳いでくる五つの人影。見る見るうちに近づいてくるのは、鳥の頭を持つ筋骨隆々の人たち。勇ましく羽ばたくようなバタフライでやってきた彼らは、ピットが何かを言うより先に、何も言わずに手際よくピットを胸や足のところで抱きかかえると、彼が目指そうとしていた岸辺に向けて運び始めた。
見事な連携で泳ぎ切ると、五人の鳥人はピットを岸辺に引き上げてくれた。
今度の島は純白の色合いをしていたが、やはりその感触はクッションや絨毯のように柔らかだった。疲れ切った足ではすぐに立ち上がることはできず、ピットはその場に座りこんで息を整えようとしていた。
「……ありがとう、助けてくれて。君たちは……?」
ピットが尋ねると、黄色い鳥人たちの一人がこう答えた。
「私達は彼の勇気。名前は……そうですね、フライングマンとでも言っておきましょうか」
逞しい身体に見合わず、意外と穏やかで丁寧な口調だった。
また、別のフライングマンがこう言った。
「礼には及びません。私達は、あなたが見せた勇気に心を動かされたのです」
「勇気……そうだ、君たち、“彼の勇気”だって言ってたけど、それってネス君のことだよね」
「はい。彼がここに来て助けを望む時、私達はいつでもついてゆきます。そのために、ここでずっと待っているのです」
彼が指した向こう、針葉樹のような形をした細長い屋根をもつ家が建っていた。家の傍らには誰のものなのか、十字架のついたお墓が一つ、佇んでいる。
自分たちの家の方角を眺め、フライングマンたちは少し声を落としてこう続ける。
「……しかし、彼はもう私達を必要としていないのかもしれません。もう長いこと、彼の姿を見ていないのです」
「彼が強くなったのなら、喜ぶべきことなのでしょうが……」
「マジカントが残っているということは、彼が未だ目覚めていない証拠。彼の一部、もしくはすべてが、この国のどこかに留まっているのかもしれません」
それを聞き、ピットははっと目を見開く。
「ネス君が、ここのどこかに……」
状況から考えれば、マジカントというのはネスの心が作り出した国と仮定して良いだろう。そしてそこに彼の心が、あるいはその一部が捕らえられているのだとしたら、ジャイアントステップでネスに出会ったときにリュカの方を見ていなかったのも、オネットの山頂であんな反応を見せたのも説明が付きそうだ。
このエリアにおいてそんなことができる人物は限られている。
「ねぇ、君たち。このマジカントでポーキーがいそうな場所、分かる?」
「ポーキー。ネスの隣の家の子ですね。子供たちなら、あちらの方で遊んでいますよ」
一人がそう言って指さした先、確かに小さな子たちが集まっている場所があった。
決心し、ピットは立ち上がるとフライングマンたちに言った。
「――分かった。教えてくれてありがとう! ネス君は僕が必ず見つけ出すから」
そう宣言して走りだしたこちらの背中に、フライングマンが声を投げかける。
「異邦の勇敢な友人よ。どうか気をつけて」
「私達はついてゆくことはできませんが、ここであなたの幸運を祈っています」
島と島を繋ぐ細長い道を渡り、子供たちのいる方角に走っていく。
途中、野ざらしのソファとテーブルが置かれているのが目に入り、ピットはそちらを向いた。見ると、そこだけ四角くフローリングが敷かれており、まるでどこかの家の一室を持ってきたようになっている。ソファには誰も座っておらず、ピットは怪訝そうに首を傾げつつその横を通り過ぎて行った。
おもちゃのような質感の草木や岩、本物の雪だるまがいる中を走り、ようやく子供たちのいるところにたどり着いた。彼らは例の黒ウサギを先頭に並んでおり、楽しそうに遊んでいる。どうやら列車ごっこをしているらしい。なぜか一匹、二足歩行の子ザルも紛れ込んでいる。
彼らは幼く、ネスよりも明らかに小さな子たちばかりだった。一人、ポーキーの弟に似た顔のちびっ子もいた。
「ねぇ、君たち――」
ピットが声を掛けると、ちびっ子たちはいっせいにこちらを向いた。
「わー! お兄ちゃん、だれー?」
「お兄ちゃん、その羽ほんものなの?」
「今ねーぼくらねー、きかんしゃごっこしてるのー」
「お兄ちゃん、いっしょにあそぼ!」
列を崩さないまでも、彼らは口々に賑やかに騒いでいた。
「えぇと、ごめんね。僕はちょっと忙しくて……人を探してるんだ。君たち、この辺りにポーキーって子、いる?」
すると途端に子供たちは困ったような表情になり、互いに顔を見合わせた。
「しらなーい」
「あいつ、きらい。いじわるするもん」
「ポーキー兄ちゃん、こないだなんて、ぼくのおかし取ったんだよ」
「すべりだいもブランコもひとりじめするし」
どうやら彼らは知らないようだ。
「じゃあ、ネス君はどこにいるか知ってるかな」
ピットがそう尋ねると、彼らからはこんな答えが返ってきた。
「ネスちゃん? ううん」
「あそびたいのに、いないんだ」
「ネスちゃん、どこかに行っちゃった」
そう答えたポニーテールの女の子に、ピットはこう尋ねてみる。
「どこに行ったか、覚えてる?」
「あっち」
女の子がそう言って指さしたのは、フライングマンの家がある方角だった。
とはいえ、フライングマンたちもしばらくネスを見ていないという話だったので、おそらくは更にその先へと進んでいったのかもしれない。
フライングマンの家の前を通り過ぎ、道なりに歩いていた時だった。
見えない一線を踏み越えたところで急に辺りの色合いが変わり、見渡す限りの地面が白から赤に染まる。紫色の空には金属光沢のある球が浮かび、赤紫色の海の照り返しを受けながらゆったりと漂っていた。
木々や草はもう見当たらず、その代わりに立ち並ぶのは、人の背丈を優に超える円筒形の金属柱。いよいよ幻想的な光景となった道を前に、ピットは、今から自分がマジカントの深部に立ち入ろうとしているのだと感じていた。
ここから見えるのは、細く曲がりくねる分かれ道。それが海の上に唐草模様を描くようにして、見渡す限りに広がっている。
しかし壁になるものは無く、ここからでもゴールと思しき場所は分かった。迷路が広がる一帯、その中央の小島に、くるりとねじれた尻尾のようなものが生えている。
――本当は迷路を通るのが礼儀なんだろうけど……こっちも、あまり時間を使ってられないんだ。早くネス君を見つけて、リュカ君の無事を確かめなきゃ!
そう心の中で思い、ピットは再びマジカントの海に飛び込んでいった。
短い距離を泳ぎ、通路に上陸し、また海を泳ぎ――着実に小島へと近づいていく。迷路には目玉や唇だけのモンスターやら帽子を被ったサイコロやらがうろついていたが、ピットは彼らを相手にせず、襲われそうになっても光の矢を射かけて追い払った。
そうしていた時だった。頭上を一陣の風が通り過ぎて行ったかと思うと、行く手から老人の声が聞こえてきた。
「これ、お若いの。そんなに急いでどこへ行く?」
泳ぎながら顔を上げると、向こう岸に仙人のような風体の老人が立っていた。長く伸びたひげに白い眉毛、身体には緑色の布を纏い、片手で杖をついている。
老人が待つ岸辺にたどり着き、我が身を水面から引き上げてピットは短く答える。
「僕の友達のところだよ」
迷わず通り過ぎて、次の海を泳ごうとするピットに、老人は悲しげな目を向けていた。
「なるほど、余程大切な友人なのじゃろうなぁ……。しかし、お若いの。郷に入っては郷に従え、急がば回れとのことわざもあるぞ」
相手をしている暇は無いとばかりに泳ぎ去るピット。だが瞬きするうちに、老人は次の岸辺へと移動していた。
ピットが驚いているのをよそに、仙人はこう語り掛ける。
「確かにここはお前の心の国ではない。だがのぅ……もう少し向き合ってみてはどうじゃ。お前は何か、大事なものを見落としておる」
「時間があればそうしてるさ。でも今は急がなくちゃ。リュカ君が危ない目に遭ってるかもしれないんだ」
通路に上陸し、再び合間の海へと飛び込む。目指す小島はいよいよ目の前に近づいていた。
泳いでいくピットの見る先、ねじれた尻尾の横に忽然と現れ、老人はこう言った。
「お若いの。この先は『エデンの海』に繋がっておる。究極の知恵が渦巻き、宇宙の真理に一瞬だけ触れることのできる場所……じゃが、お前には近づくことはできぬ場所じゃ」
「そんなの、試してみなきゃ分からないじゃないか」
ピットが言い返すと、仙人は眉間にしわを寄せて首を振った。
「悪いことは言わん。引きかえした方がよい」
それを最後に、老人の姿は小さな竜巻の中に消え、飛び去ってしまった。
ピットは小島に上陸する。謎の仙人が掛けた言葉も気がかりだったが、友人を想う気持ちがそれにも増して強かった。
目の前で神秘的な輝きを放つ、白銀色のねじれた尻尾。躊躇っていたのも一瞬のうち、ピットは思い切ってそれを掴んだ。
リュカはニンテンたちに連れられて、ホーリーローリーマウンテンの山道を登っていた。
余程高い山なのだろうか、辺りには木々も生えておらず、荒涼とした岩肌が広がるばかり。生き物の気配は無かったが、辺りには異様なまでに張り詰めた空気が漂っていた。警戒するように辺りを見渡していたリュカは、じきにその理由に出くわすことになる。
行く手の道からにわかに金属のぶつかり合う音が迫り、リュカははっとそちらに目を向ける。
「リュカ。僕らの後ろに!」
ニンテンの声がそう言い、ロイドとアナがその横に進み出る。
彼らが見る先、立ちはだかったのは三体の鎧。どことなく異国の雰囲気がある黄金の鎧は槍らしき武器を構え、冷酷に光る眼で少年たちをじっと睨みつけていた。
だが、驚くのはまだ早かった。ニンテンたちは手慣れた様子でこれに立ち向かい、PSIやバット、光線銃のようなものを駆使してあっという間に鎧をスクラップにしてしまったのだ。
その後も金色のスターマンや、爆弾の形をしたロボットなども出てきたが、ほとんどニンテン達の足を止めることができないままに退けられていく。
それらの敵たちから感じられた威圧感は尋常ではなく、リュカにとってはノーウェア島の最後のハリが刺さっていた地底深くの洞窟、そこにうろついていた不思議な生き物たちと同じか、もしかしたらそれ以上の強さを持っているというように感じられていた。
「リュカ君?」
ロイドの声に、我に返る。気づくと、少し進んだところで三人が待っていた。リュカは慌てて彼らのもとに向かっていく。
後ろを走っているロイドに追いつき、リュカはこう尋ねかけた。
「ねぇ、もしかして……君たちってとても強いの?」
ロイドはちょっと照れたような笑みを見せた。
「まぁ、昔から比べたらね。最初にこの山に来た時は、ぼくら、あいつらから何とか逃げながら山を登ってたんだ。だから“イヴ”が仲間になってくれて、とても助かったんだけど……」
そこで彼はふと、向こうに視線をやる。彼はどこか遠くに思いを寄せるような目をして、それっきり黙ってしまった。その横顔からは悲しみが感じられた。
その先はアナが引き継ぎ、こう説明する。
「イヴはニンテンのひいおじいさんが作ったロボットなの。この山に隠された研究所でずっと待っていて、山頂を目指すわたしたちを守ってくれた。でも手ごわいロボットが出てきて、それを倒すために……。あ、ほら、見えてきたわ。あれがイヴよ」
彼女が指さす先、赤茶けた色の金属が見えてくる。
岩壁にもたれかかり、横に倒れた人型のロボット。手足はほとんど壊れてしまい、元の身長を推し量るのは難しいが、きっとこの胴の寸法なら人の身長の二、三倍はあっただろう。横に細長い楕円形の頭、その目にはすでに光は無く、胸の辺りから音楽の一節がずっと繰り返し流れ続けていた。
子供たちはイヴの周りに集まり、じっとその音楽に耳を傾けているようだった。
やがて、ニンテンが口を開く。
「……最初にこの山に来た時、僕らはイヴのおかげでこの先に進むことができた。でも……ギーグには勝てなかった。僕らが『歌』を歌えばギーグの攻撃は止まるんだけど、そこで追い返されてしまう。何度試しても、僕らがどんなにここで鍛えてもダメなんだ。きっと、歌が中途半端だからなんだと思う。その先が続かないから、ギーグを止めることができないんだ。……『イヴが最後に歌う時、クイーンマリーに時間が戻る』。あのギターのお兄さんが言ってたことが本当なら、これが最後のはずだった。でも……歌は完成しなかった」
そう言って、ニンテンはリュカに真剣な眼差しを送った。
送られてきた、言葉以前のイメージ。その意味を読み取ったリュカははっと目を見開く。
「――もしかして、君はそれであっちの世界に来てたの?」
「そうなんだ。詳しいことは、クイーンマリーから直接聞いた方が良いかもしれない。リュカ、もう少しだけついてきてくれるかい?」
ニンテンの言葉に、リュカは迷うことなく頷いた。
ニンテンがめのうで出来た釣り針をかざすと、辺りに柔らかい光が満ち――気づくと彼らは、淡い桃色の雲が形作る景色の中に立っていた。
雲の島々の間には明るい水色の川が流れ、少し離れたところには巻貝のような形をした家が建ち並んでいる。辺りでは、お揃いのとんがり帽子を被った人々がのんびりと散策していた。
幻想的で平和な光景を前に、ただただ言葉を失って辺りを見回すばかりになっていたリュカ。彼の心の中の問いを読み取ったように、ニンテンがこう言った。
「ここはマジカントの国。クイーンマリーはここに住んでるんだ」
ニンテンたちはここを何度も訪れているのだろう。彼らの足取りに迷いはなく、辺りのマジカントの人々も誰もが皆、ニンテンの姿を見かけると親しげに挨拶をしていた。
リュカはそんなニンテンたちに連れられるままにマジカントの町を抜け、ピンクの雲の大地を歩いていく。
その先に高い塀に囲まれた大きな宮殿が見えてきたが、その宮殿を見ていたリュカはふと怪訝そうに眉を寄せた。
「……」
気のせいか、宮殿の周りに、ぼんやりと黒くもやがかかっているように見える。
それだけではなく、近づくにつれて、ガリガリと雑音を混じらせた何とも言い難い不快な金属音が聞こえてきた。
「ねぇ、何か聞こえない……? それに、あのもやもやは?」
リュカが尋ねると、ニンテンはこう答えた。
「向こうのゆがみ、時間の流れをせき止めたり、巻き戻したり、みんなの心をコントロールしたり。そういうのの反動みたいなのがこっちにまであふれ出て、ぶつかり合ってるんだ。ホーリーローリーマウンテンと、あっちの地下がつながってたのも、きっとそのゆがみのせいだよ」
宮殿に入ると、幾分金属音は和らいだ。
磨き抜かれたエメラルド色の床、明るいグリーンの壁。そして小高い天井。
物珍しさに辺りを眺めていたリュカは、町の方にいた人たちとは違う格好の人が辺りにいることに気づく。服の色は様々だが、彼らは揃って白い袋を頭からすっぽり被り、目のところにだけ穴を開けてある。素顔が見えないことに怖さを感じたものの、彼らもまたニンテンたちを見て暖かく迎え入れ、宮殿の奥へと通してくれた。
幾つもの部屋をくぐり、赤い絨毯の上を歩いていった先、玉座に腰かける女性の姿が見えてきた。
明るい金色の髪に桃色の王冠を戴き、桃色のドレスを着た美しい女性。ただ、近づくにつれて彼女の肌色も見えてきた。色白というには少し血色が悪いようだ。どこか具合でも悪いのかもしれない。
リュカがそう思っているうちに彼女の玉座の前にたどり着く。
女王は、優しい声でこう言った。
「ようこそ、ニンテン。アナ、ロイドもよく来たわね。そしてあなたは……そう、リュカというのね」
名乗らないうちに言い当てられ、驚くリュカ。女王は可笑しそうに微笑む。
その笑顔は威厳よりも、どこか親しみを感じるものだった。リュカは彼女の優しい笑みを見ているうちに、なぜか、自分の母親のことを思い出していた。
「改めましてようこそ、マジカント国へ。私がクイーンマリーです。あなたがここに来てくれたということは、ニンテンは向こうへ行き、無事に戻ってこられたのですね」
これにニンテンが応えた。
「うん。でも……あの子には会えなかった。クイーンマリーも、まだ……『歌』、思い出せないんだよね」
「ええ、ごめんなさいね。あれからあなたたちに教えてもらった歌を歌ってみてはいるのだけど……どうしてもその先が思い出せないの」
そこで女王はそっとこめかみを抑え、首を横に振る。
「……リュカには、まだお話していなかったわね。ニンテンに向こうの世界のことを教えたのは、私なの」
クイーンマリーはそう言って、語り始めた。
「歌の続きは思い出せないままだけど、私はそれ以外のことが少しずつ、分かるようになってきた。ここではない別の世界に暮らす、勇敢で優しい子。その子の悲しみが、ここにも流れ込んでいることを。……ニンテンとあの子が似ていたように、この世界と向こうの世界は、違うようでいて、とても深い関係にある。だから、向こうの世界に暮らすあの子の苦しみが、『時間がここで止まって欲しい』というあの子の願いがあまりにも大きくなった結果、ここにも影響を与えるほどになってしまったの」
それを聞いた時、リュカは思わずこう尋ねていた。
「時間……。クイーンマリーは分かりますか? どうして、ネスが時間を止めたいと願っているのか」
女王は少し哀しげに微笑み、頷いた。
「少し長くなるけれども、私の知る限りのことを話しますね。少しでも多くを知っておくことが、これから向こうに向かうあなたを助けてくれるはず」
それから、クイーンマリーは玉座の前に並んだ子供たちに向けて、一つの長い話を聞かせた。
リュカにとってはあまりにも荒唐無稽で信じ難い話だったが、ニンテンと共に道中で見た光景の一つ一つがそれを裏付けるものであることに気づき、次第にそれをありのままの事実として受け入れるようになっていった。
クイーンマリーが語り終えた時、謁見の間には彼女の声の微かな残響だけが残っていた。
やがて静寂を破り、ニンテンが声を落としてこう言った。
「何となく、思うんだ。僕らもあの子の立場だったなら、そうなってたかもしれない。だから、何とかして助けなきゃって」
彼の思い、そしてネスを取り巻いていた事情を知り、リュカは居たたまれない気持ちになっていた。
彼の胸に去来していたのは、虚空から掛けられた少年の声。彼は明らかに、ポーキーがキングPとなるまでの経緯を理解していた。そして二度とそうならないよう、しっかりとここで時間を止めると決意していた。つまりオネットが旅立ちの前の日でずっと止まっていた理由は――
クイーンマリーがその名前を呼び、リュカははたと顔を上げる。
「リュカ。あなたはあの子の名前を知っています。そして、あなたは未だ思い出せていないけれど、きっとそれ以上のことも。あなたとあの子の間には、強いつながりを感じます。だからきっと、あなたなら、行くべき場所が分かるはず。どうか……あの子を助けてあげて」
クイーンマリーは最後まで玉座から立ち上がらないまま、謁見を終えた。
やはり体調が思わしくないのだろう。そんな中でも、彼女は終始ニンテンたちを、そしてネスのことを案じていた。
宮殿を後にするリュカは、気もそぞろの様子でニンテンたちの後をついて行く。彼の頭を占めていたのは、クイーンマリーの最後の言葉。ネスと自分には強いつながりがあるという言葉だった。
いまだにリュカは、彼について名前以上の記憶を思い出せていない。ニューポークシティで目にした映画も、こちらが一方的に彼の冒険の成り行きを知っただけに過ぎない。本当にクイーンマリーが言うように、まだ思い出せていない記憶があるのだろうか。
――でも……ネスのいた時間も空間も、僕とは違う。なのに、どうやって?
一生懸命に思い出そうとしていたリュカに、ニンテンが声を掛けた。
「リュカ。君は“テレポーテーション”は使える?」
「……テレポーテーション? そういうPSIがあるの?」
尋ねると、ニンテンは頷いてこう言った。
「自分の知ってるところならどこにでも行けるんだ。助走が必要で、途中で何かにぶつかると焦げちゃうけど……」
それを聞いたリュカが青ざめたのを見て、ニンテンは思わず笑ってしまう。
「大丈夫。コツは、まず真っ直ぐに開けたところを見つけること。そう、例えば……この辺りが良いかな」
そう言って示されたのは、宮殿の裏手に広がるピンクの平原。確かにここなら、ぶつかるものは何もなさそうだ。
「僕の知ってるところならどこでも……」
呟くも、そこでリュカは困ったように眉根を寄せた。
「――でもニンテン、僕が知ってるのはノーウェア島だよ。向こうの世界のオネットとかにも行けるかもしれないけど、そこからじゃネスに会えそうにない。さっきも追い出されちゃったし……」
まごついているリュカの手を、ニンテンが両手で握る。勇気づけるように、ニンテンはまっすぐにリュカを見て言った。
「君ならできる。きっと、心の奥では分かってる。後は心を研ぎ澄ませて、自分がどこに行けばいいのかを『分かる』んだ」
ニンテンからテレパシーでPSIを受け継いだリュカは、マジカントの桃色の平原を前に、目を閉じ、意識を集中させていた。
離れたところでニンテン、ロイド、アナが見守っているのを感じる。彼らの祈りが暖かさとなって自分の心に伝わってくる。
不安、心配、恐れを一旦手放して、一切の先入観を持たずにあの子の名前を、姿を見つめる。ジャイアントステップであの子が歌っていた歌を思い出す。
「……」
リュカは、はっと目を開いた。閃きが消えてしまわないうちに、自分のポケットから一枚の手紙を取り出す。
封蝋に記された『円に十字』の模様。それを指でなぞっていたリュカの目に、やがて灯火のように、熱く静かな決意が宿った。
頭が締め付けられるような痛みで、目を覚ます。
立ち上がろうとして、ピットは自分があおむけになり、ぬるま湯に浮かんでいることに気が付く。
足はぬるま湯の中を沈んでいき、今度は水底に着いた。だが、そこから立ち上がっても水深はお腹の辺りまである。移動には苦労しそうだった。
身を起こしたせいか鈍い頭痛がぶり返し、ピットはこめかみを抑えて顔をしかめつつも、慎重に辺りを見回す。
そこは暗い洞窟の中。見渡す限りに、濁ったぬるま湯を湛えた生暖かい地底湖が広がっている。
ふと、遠くでおぼろげに動いている影が見えた。そのシルエットには嫌な既視感があった。オネットで彼を襲った頭でっかちの“大蛇”に似ているのだ。
――なるべく出くわさないようにしなきゃ……。
さすがに声に出すほどの余裕はなく、ピットは心の中でそう言って、水面を掻き分けるようにして歩き始めた。
先へと進みながら、ピットは先ほど、迷路の中心の小島でねじれた尻尾を掴んだ瞬間を思い返していた。
まるで雷に打たれたようだった。耳をつんざくような金属音、それが頭のてっぺんから足の先までを貫き、神経を無数の針で突かれたような不快な痺れが全身を駆けめぐる。不快な音は一向に止む気配を見せず、あまりにも大きな音を聞かされ続けるうちに頭痛までしてきた。涙でぼやけた視界の中、マジカントの色彩が目まぐるしく揺らめき、サイケデリックな色合いへと変化していくのが映っていた。
色彩の変化を別にすれば、あの現象には既視感があった。亜空砲戦艦が訓練場を破壊しながら現れた時。そしてもう一つ、ポップスターで鏡に自分の姿を映された時。いずれもあの不快なノイズが鳴り響いた。さっきの状況と共通するのは何なのだろうか。そして、揺れや音の大きさには、何か比例するものがあるのだろうか。
黙考しながら歩いていたピットは、自分の名を呼ぶ声に現実に引き戻された。
「ピットさん!」
小さな体で懸命に水を掻き分け、ほとんど泳ぐようにして、金髪の少年がやってくる。
辺りに大蛇がうろついていることも忘れ、ピットは安堵の声を上げた。
「リュカ君……! 無事だったんだね!」
もどかしげに頷き、リュカは懸命にこう伝える。
「ピットさん、聞いてください。ここに……ここにネスがいるはずなんです……!」
「やっぱり、そうなんだね。僕も彼を探してここまで来たんだよ。ここはマジカントっていって、ネス君の心の国らしいんだ」
「……マジカント?」
リュカは、少し驚いた様子で目を丸くしていた。しかし折しもピットは辺りに注意を向けており、彼の様子は目に入っていなかった。
「きっとこの海のどこかに、彼の心が閉じ込められてるんだ。――さあ、探しに行こう!」
きっぱりとそう告げ、ピットは右の手を差し出す。
だが、リュカはその手をじっと見つめるばかり。困った様子で眉間にしわを寄せていた彼は、やがて首を横に振り、ピットを見上げる。
静かな、それでいてはっきりと耳に届く声で、少年は言った。
「閉じ込められたんじゃありません……閉じ込めたんです」
「閉じ込めた……? それって――」
ピットが戸惑いながらも言わんとした言葉を先読みし、リュカはもう一度首を横に振る。
「ポーキーじゃありません。……あの子は、違いました。違ったんです、僕の知ってたポーキーとは」
それから彼は、申し訳なさそうに少し俯く。
「あの……ごめんなさい。僕の言ったことで、ピットさんを間違った方に連れていってしまって」
それから顔を上げ、こう続ける。
「ピットさんとわかれた後、ポーキーと話しました。それで、あの子は何も知らない、何もしてないって分かったんです。……少なくとも、あのオネットにいるポーキーは、まだ何も」
「じゃあ……閉じ込めたって言うのは……」
その結論を前に、ピットは茫然と立ち尽くす。
「……まさか、彼が自分で、自分を? でもなんで、どうしてそんなことを?」
「これ以上繰り返させないためです。みんなが、本当にみんなが幸せだった頃で時間を――!」
答えかけたリュカ。不意に、その顔に緊張が張り詰め、横を向く。
鈍い振動と共に、何者かの声が辺りに響き渡った。
『……カエレ……』
『カエレ……カエレ……』
『違ウ……オ前タチハ、違ウ』
『……ココハ、ワタシノ場所ダ』
それらの声は男か女かも分からず、聞き取ろうとすれば焦点がぼやけ、それでいて死角から心に爪を立て、食い込み、直接刺さりこんでくるかのような異様な感触を伴っていた。
ざわめき、重なり合い、声は次第に高まって海を揺さぶり始める。
『オ前タチ、ドウシテ邪魔ヲスル……』
『眠リナサイ。眠リナサイ。全テ忘レテシマイナサイ』
『……コレ以上、進メテハナラナイノダ』
並みならぬ決意に満ちた声が二人を追い詰めていき、ピットとリュカは知らず知らずのうちに身構え、声が聞こえてくる方角に全神経を集中させていた。
気配も、予兆も、何も無かった。全くの不意に、不可視の衝撃波が二人に襲い掛かった。
見えない波動、四方八方から鞭のように唸りを上げ、幾度も全身を打ち据える。
正体を掴めない攻撃では防御のしようもない。ピット達は反射的に腕で顔を守ったが、耐え切れず、思わずよろよろと後退する。
攻撃の波が過ぎ去り、用心しつつ薄目を開けたピットは、そこで目に飛び込んできた光景に唖然として目を見開く。
いつの間にか、ピット達の目の前には盲目の大蛇が何匹も集まっていた。彼らは巨大な頭をもたげ、口先からは炎の舌をちろちろと立ち昇らせ、嗤うかのように口の端を吊り上げている。
そして、それら大蛇を従えて宙に浮かぶのは、黄金の人型の像。腕を胸の前で組んだ恰好の像、その頭には、まるで悪魔のような二本の角が生えていた。
見上げた先、像の輝きが一層強さを増し、これと対峙するピット達の周りにある岩肌、空気、水、あらゆるものが二人に敵意を抱き、無数の棘を逆立てていく。
追い詰められた二人を見おろし、悪魔の像が声を発した。
『ワタシノ場所ニ馴染ムツモリガ無イノナラバ、出テ行ケ!』
僅かな時間、その言葉がピットの脳裏を駆け巡り、記憶を呼び起こす。
『ここはマジカントの国。彼の心が生み出した国だよ。ここから出るのは簡単さ。要らないものを置いてきて、ここになじめば良いんだよ』
『マジカントが残っているということは、彼が未だ目覚めていない証拠。彼の一部、もしくはすべてが、この国のどこかに留まっているのかもしれません』
『でも……時を進めることがあの子にとってつらいことなら、わたしたちはそれをすべきじゃないのかしら』
『確かにここはお前の心の国ではない。だがのぅ……もう少し向き合ってみてはどうじゃ。お前は何か、大事なものを見落としておる』
眩暈さえ感じるほどのイメージの奔流。しかし過ぎ去った時間は一秒にも満たず、目の前の像は未だに攻撃を発していなかった。
――ここが彼の心の国で、あれも彼の心の一部なら……!
心を固め、ピットは像にしっかりと向き合うと声を張り上げた。
「ネス! 目を覚ますんだ!」
途端に、全ての動きが止まる。
悪魔の像も、大蛇の群れも、周囲に満ちようとしていた強烈な敵意も、凍り付いたように動かなくなった。
呆気に取られ、ピット達も動けずにいた。彼らが見つめる先、悪魔の像の陰になって見えない後ろで、何かが一瞬光ったように思えた。
遅れて大蛇が後ろを振り向き、それから像も向き直る。だが時すでに遅く、地底湖全体を揺さぶるような轟音と共に色鮮やかな光が炸裂し、大蛇の群れは一瞬のうちに白黒のフラッシュの中に燃え上がり、かき消えてしまった。
しかし、悪魔の像には通用しなかったらしい。
無傷のまま立ちはだかっている――いや、そればかりではない。我が身に降りかかった光の刃を押し留め、丸く収束させたかと思う間に、発動者目掛けて矢のように撃ち放つ。
その矢が向かう先、悪魔の像の向こう側に立つ誰かの姿が見えてきた。
赤い帽子、縞模様のシャツ、青いズボンに赤い靴、黒髪の少年。
彼は悪魔の像が跳ね返した自分の念動力を、避けることもせず、ただ顔の前で腕を交差させて真っ正面から受け止めた。痛かっただろうに、彼は少しも怯む様子を見せず、悪魔の像を真っ向から見据え、その手に野球バットを構えると一息に跳んだ。
悪魔が電撃を撃ち放つ。だが彼は念力で自分の跳躍の軌道を曲げ、くるりと宙返りし、電光を難なく避けた。
そのまま彼は地底湖に落ちていくかに見えた。だが、水面すれすれに空間の揺らぎが生じたかと思うと、彼はその見えない足場を踏み切って最後の距離を詰める。
彼は悪魔の像を見据え、バットを思い切り横に振りかぶる。
気合の一声を辺り一帯に響かせて、像を目掛けて全力で叩きつけた。
小気味のいい音が辺りに響き渡る。悪魔の像は真っ二つに折れたかと思うと、細かな金色のきらめきとなって霧散し、消えていった。
気づけば、エデンの海は跡形も無く消え去り、彼らはいつの間にかマジカントの島へと戻っていた。
野球バットを振り切った姿勢のまま、着地していた赤い帽子の少年。やがて彼は帽子の向きを直すと、顔を上げてピットとリュカに向き合った。
ネスはその瞳で二人を真っ直ぐに見つめ、それから帽子を取って、深く一礼する。
「ごめんなさい。それと……ありがとう」
再び顔を上げて、帽子を被る。
「ほんとは分かってたんだ。こんなことをしたって何もかもが元通りになるわけじゃないんだって……」
真剣な中にも、後悔の色をにじませて、彼はそう言った。
目をそらさずに、こちらを見上げる少年。『配り手』としての命を受けたはずのピットが取った行動は、しかし、手紙を渡すこではなかった。
一歩前に進み出て、心持ち姿勢を低くして目線を合わせ、穏やかな声で語り掛ける。
「……聞いても良いかな。ここに、君に、何があったのか」
赤紫の水面が静かに波打ち、三人が立つ渚には、小さなさざ波が寄せては引いていく。
それをじっと見つめていたネスは、やがて顔を上げ、二人に向けてこう語り始めた。
「僕はずっと長い間、忘れてた。自分がほんとはどんな人間なのかも、どういうことをやりとげたのかも。みんなに掛けた暗示は僕にも掛かっていて、僕は自分のことを、ずっと普通の子供だと思ってたんだ」
「みんなに、暗示……? じゃあ、ここの人間たちの十中八九――いや、万に一つしか君の名前を言えなかったのも、君がどこに行ったのか分からなかったのも……」
「うん。僕はみんなに、自分のことを忘れさせたんだ。誰も僕のことを思い出さないように。誰も僕のことを、探しに来ないように」
目をそらすことなく、ネスはそう言い切った。
その眼差しに込められたのは、強い意志。ピットはそれを見て、彼が探してほしくなかった理由は消極的なものではなく、むしろ苦渋の取捨選択の上に成り立ったものであることを悟る。
「そこまでしなきゃいけない、何かがあったんだね」
そう言うと、ネスは静かに頷いた。
何かに反応したのだろうか、辺りが急にかげったかと思うと、マジカントの景色は全く色合いを変えてしまう。
緑だった大地は暗い紫色に沈み、辺りの木々も暗く蔭ってしまった。ネスはそれらに特に注意を向けることも無く、言葉を探すように目を伏せていた。
やがて、彼は再び語り始める。
「……最初は、ちょっとした違和感だった。初めて来るはずの場所なのに、何となく見覚えがあったり、初めて会う人でも、そんな気がしなかったり。気のせいかな、夢とかで見たのかなって思ってたけど……そうじゃなかった。僕がどんなに進んでも、一度も行ったことのないはずの街や国にたどり着いても、『いつか、どこかで見たことある』っていう感覚は、どこまでも追いかけてきたんだ」
いつしか彼の語りに呼応して、三人の見る向こう、宙に映像が浮かんでいた。
ピットとリュカが歩いた街、オネット、ツーソンやスリーク、フォーサイドを旅するネスの姿。時には一人で、時には友達を連れて、やがて彼は未だピット達が見たことのない街へ赴き、海を船で渡って砂漠へ向かい、ピラミッドを探検し、熱帯雨林を抜けて地底大陸を歩み、そして――
霧深い景色。切り立った、細長い道が続いている。
そこにぽつねんと置かれた、どこかユーモラスな見た目の丸い機械から四体のロボットが降りてくる。先頭の一体はネスと同じ、赤い帽子を被らされていた。
ロボット達は広大な霧の中を進み、行く手に立ちはだかる怪物たちを次々と退け、ついに最奥部の空間にたどり着く。
天井から壁、床を埋め尽くすのは、まるで腸のような質感を持つ肉色の配管。グロテスクな空間の奥、肉色の管が束ねられて向かっていく先には、同じ色をした大きな堆積物がそびえ立っている。
まるで巨大な生物の臓器を取り出し、整然と積み上げたかのような外観。あまりの異質さに、ピットはそこから目が離せなくなっていた。
「……あれは?」
思わず口をついて出た言葉に、ネスが答えた。
「ギーグだよ。時の彼方から地球を……それだけじゃなく、銀河、宇宙を狙っていた。でも『知恵のリンゴ』っていうマシンが、僕という存在によって、その計画は失敗に終わると予言したらしいんだ。だからギーグは必死になって僕らの邪魔をしようとした。僕らも負けずにここまで辿り着いて、諦めずに戦った。……けれど、ギーグにはどんな攻撃も効かなくて、倒れないようにするのが精一杯だった」
ネスの言葉はその先へと進んでいるにも関わらず、映像は巨大な臓器に対峙した場面で止まったままだった。
宙に浮かぶ、動かない幻。それを見上げるネスに、ピットは尋ねた。
「それでも、君達は勝ったんだよね」
ネスは頷いた。そして、空を見上げたままこう返す。
「ギーグは消え去った。みんなが僕らの無事を願ってくれて、その願いが時の彼方にいた僕らの元にまで届いたんだ。僕らの戦いは、そうして終わった。……元いた時代に戻ってくることができて、みんなはそれぞれ自分の家に帰っていった。僕も、どこもかしこも平和になってるのを見てから、僕の家に帰ってきた。けれど次に目を覚ました時……僕は冒険の途中に戻っていた」
幻がようやく動き始めた。
どこかのホテルで目を覚ますネス。しばらく唖然として辺りを見回していたが、やがてはたと気づき、別のベッドで寝ていたジェフを揺り起こそうとする。
ようやく眠い目をこすって起き、眼鏡を掛けたジェフにネスは何事かを必死に説明している。だがジェフは怪訝そうに眉をひそめて首を振り、何かを答えると、また布団を被って寝てしまった。
「この時は、これはきっと夢なんだって自分に言い聞かせて寝たけれど、時間は巻き戻ったままだった。しかもそれだけじゃなく、この後、僕の周りで時間が巻き戻ったり、飛んだりを繰り返すようになってきた。例えるなら、レコードの針飛びとか、本をでたらめにめくって読み上げるような、そんな感じに。……どんな物事も、たいてい僕が覚えている通りにしかならなかった。そしてどんなに辛いことも、どんなに腹が立つことも、乗り越えたそばから『無かったこと』になってしまった」
彼の説明を聞いているうちに、ピットはふと気づいてこう問いかけた。
「それじゃあ、君が感じていた『見たことがある』って感覚はもしかして、時間の巻き戻りに薄々気づき始めたせいだったのかな?」
「たぶん、そうだと思う。きっと僕が気づくよりも前から、時間の流れはおかしくなってたのかもしれない。けれど、巻き戻るたびに記憶も戻っちゃうから、誰も……僕も気づかなかった。だから、これが始まったのがどのくらい前からなのかも分からないんだ。しかも僕がようやく気づいた後も、ジェフもポーラもプーも、誰も気づかないままだった。どんなに繰り返しても、気づいているのは僕だけだったんだ。どんなに説明しても、不思議そうな顔をされるだけだった。気のせいじゃないかって言われて、それでも違うって言い続けたら、大丈夫かって心配されて。……だからそのうち、僕は一人で考えることにしたんだ。何が起きてるのか、どこがおかしくなってるのか。でも――」
空に浮かぶ幻の中、様々な行動に出るネスの姿が映し出されていく。
仲間と共に歩いていたところから、出し抜けに別の方角へ走っていこうとする姿。行き止まりに鎮座する大岩を目掛けてPSIを試みようとする姿。家に入ろうとするポーキーを呼び止め、何かを説得する姿。どの場面も周りの人がピタリと動きを止め、辺りが暗転するところで終わってしまう。
当時のことを思い返しているのだろうか、ネスは流石に声を落としてこう続ける。
「いつも、ほとんど何も変えられないうちに、僕は別の時間に飛ばされてしまった。そのうちにだんだん、僕があんまり“違う”ことをしようとすると、そうなるんだってことが分かってきた。それはまるで、『全部、覚えている通りにやりなさい』って言われてるみたいだった。あの時はとても焦ったし、怖かったよ。どうにもならなくて、訳が分からなくて」
首を横に振り、ネスはピットの方を見上げた。
辺りの草原も、暗い色から明るいオレンジ色へと変わる。
「……でも、繰り返すのも悪いことばかりじゃなかった。僕は自分が使えるPSIならいつでも、全部思い出せるようになった。それに、同じに見えた繰り返しの中でも、毎回、ちょっとした違いがあることにも気づき始めたんだ」
空の映像の中でも、ネスの試行錯誤は続いていた。
町の中を歩いていたかと思うと、急に振り返り、後ろを歩いていた人に話しかけようとする。デパートで商品を見ていた客に、声を掛ける。ネス達の活躍を遠目から見物している人垣に向かっていき、そのうちの一人を呼び止めようとする。
やはりどの場面も暗転で終わっていたが、先ほどとは違い、声を掛けられた人は明らかに他の人々よりも大きな反応を示していた。目をむいて固まっていたり、文字通り飛び上がってしまったり。
「ほとんど同じ繰り返しの中でたった一つ、いたりいなかったりする人たち。よく分からないけど、何となくなじまない雰囲気がある人たち。もしかしたら、あの人たちがカギなのかもしれない。僕はそう思うようになってきた。……そして、ようやく時間のふらつきが僕をここへ運んできた時、僕は真っ先に“エデンの海”に向かった。そこでなら、答えが分かるかもしれない。時間がおかしくなったのに気づいたのが僕だけだったとしても、きっと僕の心だったら、もっと多くのことに気づいてる。『何が起きていて、どうすれば良いのか』知ってるはずだって」
そこで一呼吸を置き、彼は落ち着いた声音のままでこう続けた。
「エデンの海、その奥深くにたどり着いた僕は、そこで初めて目が覚めた。気づいたんだ。あの人たちは姿をごまかしてて、実は“本当の姿”が別にある。そして、それは僕の周りの人たちとはどこか違っているんだってことに」
これを聞いたピットとリュカは、ほとんど同時に、それぞれこう口にする。
「じゃあ、あの白い影法師みたいなのはやっぱり――」
「あの、緑のカプセルに閉じ込められてたのは――」
二人の答えをどちらも肯定するように、ネスは頷いた。
「そう。あの人たちはみんな、『よそ』から来た人たち。あの人たちが僕らの冒険を、まるでビデオテープを巻き戻したり早送りするみたいにして、何度も何度も見続けていた。それが原因だったんだ」
彼の口調、表情、すべては彼の言うことが本当であることを示していた。けれどもピットは、唐突に示された荒唐無稽な答えに、ただ茫然としてこう呟くことしかできなかった。
「そんな、そんなことって……」
一方、隣に立つリュカの方は相手に同情の眼差しを向け、いたたまれない顔をしていた。それはどこか、すでにその答えが返ってくることを予期していた様子だった。
ピットに代わって、リュカが問いかける。
「ネスは、分かったの? あの人たちがどこから来たのか。どうして時間をごちゃまぜにしたのか」
リュカにそう問いかけられ、ネスは首を横に振る。
「ううん。いくら聞いても教えてくれなかった。……というより、まるで僕があの人たちにそんなことを聞くこと自体あり得ないみたいな、そんな変な反応だった。心の声を聞こうとしても、ひどい雑音が被さっててうまく行かなかった。仕方がないから、せめて元いたところに帰ってもらおうとしたんだけど、誰も僕の言うことをまともに受け止めてくれなかったし、すぐに別の時間に飛ばされてしまって……。しかも、そうしてるうちに、恐ろしいことが起き始めたんだ。あちこちの町から、だんだん人が少なくなっていった。時間が繰り返すたびに少しずつ、僕が行けない場所も増えてきた」
空に浮かぶ画像は、彼の記憶を映し出していた。
ノックしても返事のない家。ピラミッドの周りだけが申し訳程度に残された、小島のような小さな砂漠。空いている客席を前に、何も気づかない様子で演奏を続けるトンズラブラザーズ。車も人もほとんど通らず、がらんと広いばかりのフォーサイド。
「僕は『よそ』から来た人たちに何か知らないか聞いたけど、やっぱりまともな答えが返ってくる前に目の前が真っ暗になって……。だから、何が起きているのか想像するしかなかった。レコードもビデオも、何度も再生したらそのうちすり減ってくる。僕らの“テープ”も、あんまりにも巻き戻しを繰り返されたせいですり切れてきたんじゃないかって、そう思い始めたんだ。このまま何もしなかったら、何もかもが無くなってしまうかもしれない。それで僕は、本当に取り返しのつかないことになる前に何とかみんなを守ろうと、そう思ってここに……」
そこで言葉は立ち消える。空の幻も、赤い空に溶け込むようにしてぼやけ、散ってしまう。
ネスは心持ち目を伏せ、見るともなしにマジカントの水面を眺めていた。
訪れた沈黙を、やがてピットの呟きが破る。
「……そうか、だからか。そういうことだったんだ」
『入り込んだ者は誰一人として帰ってきたことがない』
『そのエリアに入るためには“あるルール”に従う必要がある』
エインシャントから伝えられた言葉は、『よそ』――つまりエリアの外から来た人々は姿によって選定を受け、あまりにもそのエリアではありえない姿をしている者は弾かれること。さらにそれに合格したとしても、入り込んだ者はネスの心の力によってエリアの中に閉じ込められてしまい、帰ってこないことを示していたのだ。
――いや、閉じ込められたというよりも、あれは……。
考えたその先は、いつの間にか言葉の形になっていた。
「元々の記憶を失ってしまったから、帰ろうとも思わなくなったんだ。これ以上巻き戻させないために記憶をどこかに置いてこさせて、その代わりに、いなくなった人たちの記憶を覚えさせて、平和な頃の街とかに送り込んで……『今のままで良いじゃないか』って、思うように……」
そこで彼はようやく、自分が声に出してそれを言っていることに気が付き、はたと口を閉じる。
ネスはこちらをじっと見上げていた。そしてゆっくりと頷いてみせる。
「そう。でも最初は、こんなにうまく行くなんて思ってなかったよ。閉じ込めて、記憶を隠したら、そこでまたどこかに飛ばされちゃうんだろう、でもそれでもいいやって思ってた。もう、あの時はやけっぱちだったんだ。それがあっさりすんでしまって、かえってあの人たちがかわいそうになって……。僕は分かってたんだ。あの人たちも悪気があったわけじゃない。僕らが最後の戦いに挑むとき、あの人たちも無事を祈ってくれるのを知ってたから。……だから、僕も『よそ』の人たちがやったみたいにして、時間のテープを操ることにした。時間のテープは一本きりで、何をしたとしても、しまいには、起きた通りにしかならない。でも逆に言えば、どんな国のどんな場所も、時間さえ止めれば一番幸せなときのままにできる。あとはあの人たちを、その場所に連れて行ったんだ」
そこまでを聞き届けたピットは、ためらいながらもこう問いかける。
「一つ気になることがあるんだ。さっきの君の話なら、本当に一番平和な頃っていうのはギーグを倒した後のはずだよね? でも……例えばオネットは、君の故郷はほとんどのところがもっと前、君が冒険に出る前のままになっていた。それは、どうして?」
「たぶん、僕がそう望んだから。……でも、冒険に出たくなかったってわけじゃないよ。辛いこと、大変なこともいっぱいあったけど、僕がオネットを出ていなかったら、きっとポーラやジェフ、プーと会うことも無かったから。それでもオネットがあの時間のままになっていたのは、ポーキーのことが……」
そこで、ネスは言葉を探しあぐねた様子で眉間にしわを寄せ、首を横に振った。
「とにかく、見てもらった方が早いかも」
そう言って見上げた先、彼の言葉に呼応して再び幻の光景が浮かび上がる。
映し出されたのは、暗闇の中で明々と燃え盛る岩。ピットにとっては、少し前に目の当りにしたばかりの景色。冒険の始まりを告げた、オネットの隕石だ。
ポーキーとピッキーを連れたネス。隕石の横を通り過ぎようとしたところで、ふと彼らは辺りをきょろきょろと眺め、そして隕石の方へと顔を向ける。その次の瞬間、隕石の一点から眩い光が放たれたかと思うと、中から小さな黒い影が飛び出してきた。
本物の“ブンブーン”はネスの頭上を飛び回り始める。幻には音がついておらず、ブンブーンが告げているであろう言葉を知ることはできなかった。
代わりに、こちら側に立っているネスが、補足するようにこう言った。
「僕にギーグの悪だくみを知らせてくれたのが、あの小さなひと、ブンブーンだった。ギーグのせいで未来はひどい有様になっている。地球に残された希望はたった一つ、三人の少年と一人の少女が立ち向かうことなんだって。ブンブーンは僕のことを、三人の少年のうちの一人だって言ってた。けど、ギーグは『何もかもを地獄の暗闇に叩きこんでしまった』って言う話だし、そんなの相手にしろなんて急に言われても、僕にできるのかなって。……ブンブーンは他の子供が誰なのかについては何も言ってなかったけど、この時のポーキーは、その少年っていうのが『自分だったらイヤだ』なんて言ってたな。でも……今から思うと、そんなこと言ってても、ポーキーはもしかするとちょっぴり……期待してたんじゃないかって思うんだ。後で僕が自分のところにやってきて、力を貸してほしい、君じゃなきゃダメなんだって言うのを」
そう説明する一方で、宙に浮かぶ幻の中では、刺客として立ちはだかったスターマンをブンブーンが退ける場面が、そして家に送り届けられたポーキーとピッキーが両親にしこたま叱られ、二階の部屋に追いやられる場面が映し出されていた。
「結局あの時は、ポーキーとはそれっきりになった。声を掛けてみようなんて思いつくことも無いまま、僕は冒険の旅に出て……。でもその間に、ポーキーは変わってしまったんだ」
次に映し出されたのは、ほとんど手つかずのままの自然が広がる峡谷地帯。人里離れたところにポツンと建つボロ小屋。
その家屋の中へと場面は切り替わり、頑丈な金属の柵で区切られた奥に立ち、一心に祈る少女の姿が見えてくる。リュカはニューポークの映画の中で、ピットはオネットで、それぞれ見覚えのある女の子だった。
「あれは……ポーラ?」
「知ってるんだね! そう、あの子がポーラだよ。あれは、ハッピーハッピー村のカーペインターさんがギーグにそそのかされて、ポーラを誘拐して閉じ込めてしまった時の様子だね……。『ハッピーハッピー教の信者と、それから太った子供がポーラを誘拐した』って聞いてたんだけど――」
ポーラを助けに来たものの、ネスは檻をどうすることもできずにいた。代わりに柵越しにポーラから何かを渡され、ネスは決意に満ちた表情で頷くと、踵を返して小屋の外に出た。
しかし、少年が出てくるのを待ち受けていた者がいた。
全身を青紫色の衣服ですっぽりと覆った怪しげな恰好の人が二人。なぜかカラスも一羽。そして彼らの後ろにいるのは、おかっぱ頭の太った少年。
ポーキーは口をへの字に曲げていたが、ネスが戸惑いの表情を浮かべているのを見ると意地悪く笑った。
そして彼は、あろうことか、青ずくめの二人をけしかけてきたのだ。
「……ポーラを騙して、幼稚園から連れ出して誘拐したのは……ポーキーだったんだ。ポーキーは僕に、なんで邪魔しに来たんだ、せっかくハッピーハッピー教の偉い人になれそうだったのにって言った。……これも、何度も繰り返してようやく覚えられた言葉だよ。最初の時は全然、そんなのを聞く余裕なんて無かった。信じられなかったんだ。僕の家の隣に住んでるポーキーが、なんで何もしてない子をさらうなんてことをしたのか。……公園のブランコや滑り台を独り占めするとか、そんなこととは全然、まるっきり違う話だ。そんなの、警察に捕まってもおかしくない。なのにどうして、一体どうしちゃったんだって……」
いつの間にか、マジカントの海は真っ黒に染まっていた。
黒い海の上、映像の中のネスは、ハッピーハッピー教の本部に乗り込んでいた。
ひしめく信者たちを押しのけ、歯向かう者は力づくでも大人しくさせ、ついにカーペインターと思しき白髭の人物の前にたどり着く。
彼はその後ろに、黄金に輝く像を飾っていた。そのデザインを見たピットは、ふと目をすがめる。やはり気のせいではない。その像は、先ほどエデンの海で出てきた“悪魔”と酷似していた。
そう思っている間に、映像の中のカーペインターはネスの前に敗れ去る。我に返った彼はネスに平身低頭して謝り、ハッピーハッピー教を解散させた様子だった。
そして本部を出てきたネスの前に、再びポーキーが現れる。
彼は取り繕ったような笑いを浮かべ、手を差し伸べていた。
「『また友達になろう』……そう言われたのは分かった。でも、僕は納得できなかった。ポーラにあんなひどい仕打ちをして、僕にも大人の人たちをけしかけておいて、何を言ってるんだ、そんな簡単な言葉で、僕と君とが元に戻れるわけないじゃないかって……そういう思いが頭の中でいっぱいになって……この時の僕はただ信じられないって顔をしたまま、何も返事ができなかったんだ」
差し伸べられた手が握られることは、ついに無かった。
空のままの手を力なく下げ、ポーキーは気落ちした様子で踵を返し、立ち去る。だが数歩歩いたところで振り返ったかと思うと、彼はネスに向かって馬鹿にしたように舌を出して見せた。小憎らしい顔つきで何事かを言ってよこし、顔を背けると、そのまま峡谷の方に駆けていって見えなくなってしまった。
「その後もポーキーは僕らの行く先々に姿を見せた。けれど、邪魔をするというよりも、僕に張り合おうとしているみたいに見えた。フォーサイドではモノトリーさんに取り入ってずいぶん贅沢をしていたみたいだし、僕らが乗ろうとしたヘリコプターを横取りした時も、『僕らよりも上を行かなきゃ気が済まない、僕なんかいなくてもすごくなれるんだ』っていうのが大きかったように見えて。それに、ポーキーはいつの間にかお金持ちになってたから、僕らの邪魔を本気でやるなら何だってできたはずなんだ。僕らが先に進むための手掛かりの物を買い取ってしまったり、行く先々の人を騙して僕らに協力しないようにさせたり、そういう良くないことをね。……でも、そんなことをしてなくても、どっちでも結局は変わらなかったのかもしれない。僕に張り合おうとするあまりに、ポーキーは取り返しのつかないところまで行ってしまったんだ」
空の幻は再び、最後の戦いの場面を映し出す。
暗闇の中に横たわる、生々しい肉色の堆積物。
その中心部、ひときわ大きな球体がうごめいたかと思うと、中心から、狭い隙間を押しのけるようにして巨大な塊がせり出してきた。ひどくグロテスクで血色の悪いそれは、明らかに帽子を被ったネスの顔を模していた。それは計画的なものというよりは、もはや感情的なもの、ある種の執念を感じさせる動作だった。
動揺したのか、帽子を被ったロボット――おそらくネスが顔を背ける。
映像はそこで終わりではなかった。
ギーグの横に、蜘蛛のような形の機械が降りてきた。中央のコックピットに座り、ポーキーはロボットの姿をしたネス達を見下ろし、にやにやと笑っていた。
悪夢のような光景。それを見上げたまま目をそらせず、何も言えなくなってしまったピット。その傍らに立つリュカも唖然としていたが、やがて強く首を横に振り、こう言った。
「そんな……こんなの、映画じゃ出てこなかった……!」
「――出さないと思うよ。だって……」
ネスが静かにそう返した向こうで、幻の景色に変化があった。
ギーグとの戦いが始まる。ギーグを懸命に倒そうとするネス達を、ポーキーは横から容赦なく攻撃してくる。
彼は友達だったはずのネスを攻撃しながら、明らかに笑っていた。その底意地の悪い笑みは幼稚なようでいて残酷で、もはや普通の子供のそれとは思えなかった。
ギーグに自分たちの攻撃が通じないと悟ったネスは他の皆に声をかけ、まずはポーキーの機械を止めることに全力を傾ける。旗色の悪くなったポーキーは一旦退き、機械とも臓器ともつかないギーグの身体の横に回り込むと、何かのスイッチを切った。
途端に、辺りの景色が一変する。
暗い洞窟も肉色の機械も、すべてが消え去った。辺り一面に満ちるのは、異様に歪んだ顔のような、赤黒い幻影。ギーグは苦しんでいるのか、悲しんでいるのか、それすらも分からない。すでに知性の抜け落ちた、“顔だったものたち”がネス達四人を取り囲んでいた。
「ギーグはあまりの力の強さに、自分で自分を壊してしまってたらしいんだ。もう考えることも、自分が何をしているのかも分からない。今までは装置の力でどうにか姿を保っていたけれど、ポーキーはそれを切ってしまった。もう、ギーグがポーキーに指図してるんじゃなくて、ポーキーがギーグをけしかけてるみたいだった。まるで猛獣使いか何かみたいにして、途方もない力を持つギーグを暴走させたんだ」
はっきりとそう言い切った彼は、そこで幾分声を落として、呟くようにこう言った。
「ポーキーは……そうまでして、僕らに勝ちたかったのかな」
正体不明となったギーグ。制御不能となったエネルギーは際限なく膨れ上がり、空間を歪ませ、時間を引き裂こうとする。
もはや、ネス達に向けられた攻撃とは思えないほどに狙いを失い、暴走する力。本格的に対抗手段を見失い、ロボットの姿のネス達はしばらく防戦一方となっていた。四人で身を寄せ合い、互いに傷を癒しながら、何とかその場に立っているのが精いっぱいだった。
だがその内の一人、おそらくポーラが祈るようにロボットの手を合わせた時、不思議なことが起こった。
辺りの顔たちに、一瞬の動揺が走った。続いて、どことも知れない彼方から見えない波動が何度も押し寄せ、ギーグを少しずつ弱らせていった。辺りの幻影もノイズ交じりになっていき、辛うじて見えていた顔もどきも本格的に意味を失い、ノイズの中に消えていく。
ポーキーはコックピットの中から、慌てた様子で辺りを見渡していた。やがて、悔しげに歯を食いしばったかと思うと、再びネス達の前に降りてくる。なけなしの余裕を取り繕ってネス達を見下ろし、彼は何か負け惜しみのようなことを言っているようだった。それを最後に彼の姿もノイズに紛れ、消えてしまった。
「ポーキーとは、それっきりだった。後でピッキーのところに、僕宛の手紙が届いたけど――僕はまだ、その先に行ったことがない。僕が自由にできるテープの部分は、そこまでで終わってるみたいなんだ」
ネスはそこで言葉を一旦途切れさせ、首を横に振る。
「……ギーグのところに現れた時、ポーキーはこう言っていたんだ。自分はギーグに導かれてここに来たって。その意味に気づいたのは、僕が何度も時間のテープを巻き戻された後だった」
空に浮かぶ映像の中でも時間が遡り、ハッピーハッピー村の教団本部が映し出される。ネスが対峙する教祖、カーペインターの後ろでは黄金の像が怪しい輝きを纏っていた。
「あれはマニマニの悪魔。見た目は金ぴかの像にしか見えないけど、本当はギーグが作らせた幻覚マシーンで、関わった人の中にある悪い心を増幅させる、そういう装置なんだ。どのくらい強い力があるのかっていうと――」
ネスが見上げた先、空の幻がもう少し時を遡る。たった一人でハッピーハッピー村に乗り込んだネス。
村の中は異様な気配に包まれていた。家も木々も、そして牧場の牛も、何もかもが青く染められてしまい、見ているだけで気が滅入ってくる。だが村人は何とも思っていないどころか、むしろ妙な使命感と多幸感で目を爛々と輝かせ、青ざめた村の中を浮ついた足取りで歩いているのだった。
彼らは、青く染まっていないネスに気が付くと、途端に罰当たりなものでも見たかのように眉をひそめたり、あるいは憐れむような目で眺めた。頭巾とローブに身を包んだ、いかにも熱心そうな信者に至っては、たかだか十代の少年に向かってペンキブラシを振り回し、徒党を組んで襲い掛かってきた。
だがネスが教祖のカーペインターを改心させた後は、信者たちで埋め尽くされていた本部も閑散としてしまい、残った青頭巾の人々も途方に暮れたような目をして、所在なさげにぶらぶらと歩くばかり。もはやネスに危害を加えようとする者はいなくなっていた。村の中でも村民が狐につままれたような顔で立ち尽くしており、ネスを見つけて謝る者もいた。
「あの像は、村のみんなの心を操れるくらいの力を持っていた。ハッピーハッピー村の次はフォーサイドのモノトリーさんが手に入れて、そこでもやっぱり、良くないことを起こしたんだ。普通のおじさんだったモノトリーさんはすっかり欲深くなってしまって、街の人たちから強引にお金を取り上げて、警察も弁護士も自由に動かせるくらいの力を手に入れた。……ポーキーは、それくらい危険な幻覚マシーンとほとんど行動を一緒にしてたんだ。何も起こらないはずがない。今から思えば、ハッピーハッピー村で仲直りをしようって言い出したときのポーキーは、まだ“戻れた”のかもしれないんだ。でも、僕は……一番初めの僕は、それに気が付いてあげられなかった。そのせいで時間のテープはああなるように『決まって』しまった――」
顔を俯かせ、ネスは少しの間じっと黙っていた。
心の中に渦巻いているであろう様々な思いに、何とか整理をつけようとしている彼に、やがてリュカが声を掛ける。
「でも今は、ネスは『よそ』から来た人が時間をどうにかしないよう、ずっと止めてるんだよね。あの……ポーキーが、どうにもならなくなる前で」
ネスは力なく頷き、続いてその首を横に振った。
「……でも、だからといって解決したことにはなってない。僕は『よそ』から誰かが来るたびに、無意識で追い返したり、追い返せなかったら捕まえて記憶を隠してきた。でも、いつかは追いつかなくなるかもしれない。そうじゃなくても、『よそ』の人たちが気づいて、僕のことを止めるかもしれない。僕らの記憶を操ることも、時間を操ることも、僕が気づくより前からやり方を知ってた人たちなんだ。もしもみんなで掛かってきたら、僕一人じゃとても敵わない。……そうしてまた時間が動き出せば、ポーキーは同じ道を歩いていって……どうしようもないくらい悪いやつになってしまう」
「ネス……。君のせいじゃない、君のせいじゃないよ」
リュカは真剣な面持ちでそう言ったが、ネスは安易に頷こうとはせず、じっと沈黙を貫いていた。
彼らの傍に立つピットも、彼らに掛けるべき言葉を探し続けていた。ネスは、目を覚ますことが無ければ、あるいはそれ以前に自分たちが彼のいるエリアを訪れなければ、こうまで思い悩むことはなかったのかもしれない。自分が何をやっているのかを思い出すこともなく、心の中に本当の自分を閉じ込めたまま、普通の少年として何も知らずに暮らし続けていただろう。
だがそれは、果たして幸せなことなのだろうか。
考えた末に、ピットはやがて心を決める。肩掛けカバンから一通の手紙を取り出し、ネスに差し出した。
「ネス君。これは、君宛の報せなんだ。僕はこれを配りに来た。けれど……それが君にとって良い報せになるか分からない。もしかしたら君をもっと落ち込ませるかもしれない。それでも、僕はこの報せが、君自身を救い出すきっかけになると信じてる」
手紙を読み進める少年の周りで、心の国は様々に色合いを変化させた。それはまるで、彼の心象を映し出しているかのようだった。
明るく、暗く、鮮やかに、それから淡くなり――そして最後に、本来の色へと戻っていく。
ネスの顔には、笑みが戻っていた。それは、安心と、後悔の入り混じった複雑な笑顔だった。
「なんだ……それじゃあもう、とっくに前に進んでよかったんじゃないか」
彼は帽子のつばをつまんで俯き、表情をその下に隠す。
少しの間彼はそうしていたが、やがてきっぱりと顔を上げた時、彼はまじりっ気のない笑顔になっていた。
彼は何を見つけたのか。ピットは問いかけようとする。
「それって――?」
その先を読み取ったかのように、ネスは天使を見上げてこう言った。
「もう『よそ』からは誰も来ない。今いる『よそ』の人たちも、“空っぽの影”でしかない。もう誰も、時間を巻き戻す人はいない。あとは僕だけだ」
それから、彼はリュカの方に向き直る。
「僕はこれから、あの子に会ってくる」
リュカは彼の意図を察し、そこまでしなくても良いんだ、というように首を横に振る。
「ネス、僕はもう大丈夫だよ。あれから本当に色々あって、でも僕は――僕らはこっちでやっていけてるから」
「それでもだよ。変わらなかったとしても。……『ごめん』なんて言わないかもしれない。ポーキーのことだから、意地悪なことを言ってそっぽを向くか、僕のことを馬鹿にして笑うかもしれない。でも、それでも僕は言うよ。いくら人のことが羨ましくても、いくら人よりかっこよくなりたいって思っても、それはやっちゃいけないことなんだって」
そして彼は二人を見つめ、一歩後ろへと下がる。
決意に満ちた表情で、ネスはこう宣言した。
「僕は、必ずここを出るよ。でもその前に、ちゃんと決着をつけてくる。ギーグに、そしてポーキーに。だから、それまで待ってて」
いつの間に集まったのだろうか、三人の周りには、いつしかマジカントの人々が姿を現していた。
ネスの記憶の中にある、幼い頃の友達の姿。それから長いしっぽの黒ウサギに、黄色いアヒルのひな。のっぽの雪だるま、小鬼、そして鳥人間たち。
彼の旅立ちを励まし、見守る人々。そんな彼らに、ネスは名残を惜しむように目を向けていたが、やがてポケットから青い石を取り出した。彼がその小石を額に当てると、マジカントの大地をゆっくりと震わせて、不思議で暖かな調べの音楽が聞こえてきた。海の中から聞いているような、くぐもった音色。心臓の鼓動のように刻まれるリズム。
マジカントの島も、海も、少しずつ暗くなっていき、やがてネスの姿も見えなくなってしまう。
足の裏に感じていた地面の感触が急に柔らかくなったかと思うと、ずぶずぶとどこまでも沈み始める。リュカが思わず驚きの声を上げて、ピットはほとんど大地を足でかくようにして彼の方に向かい、その手を掴む。
やがて二人は暗く暖かな空間をゆっくりと落ち始めるが、不思議と恐ろしさは感じなかった。
心の奥底に、ネスが自分たちをどこか安全な場所へ連れていこうとしているのだという直感があった。
しばらくして、心地よい暗闇のどこからか、くぐもった声が響く。
「……ネス」
「ネス!」
「ネス、ようやく戻ってきたな」
「ああ、よかった……! やっと……やっと会えたわね!」
「僕の予想では、君がきっとここに来るって思っていた。けど……ううん。ネス、本当に、帰ってきてくれたんだね」
「どんなことがあったとしても、お前はおれたちの“かしら”だ。おれは、お前が必ず戻ってくると信じていた」
三人分の声は徐々に遠ざかっていき、ネスの声がそれに何かを返したときには、ほとんど意味を取れないくらいにぼやけてしまっていた。二人は、遠ざかっていく声の方角を何とはなしに見上げ、目で追っていた。
その後ろ、どこか遠く彼方から、不意に別の声が響く。
「ありがとう……ありがとう、勇気ある子どもたち……。これであの子も、きっと…………」
感謝と慈愛に満ちた、優しい声。ピットはそれに聞き覚えが無く、怪訝そうに眉間にしわを寄せていたが、リュカの方ははっと小さく息をのみ、クイーンマリーの名を呟いていた。
女性の声はこだまを残して暗闇に溶け込んでいき、大きな毛布にくるまれたような暗さと暖かさ、静寂が二人の周りに満ちていく。その安寧に誘われるようにして、二人は抗いがたい眠気に襲われ、どちらからともなくいつの間にか目を閉じていた。
顔をそよ風が撫でていき、ピットはふと目を覚ます。
視界に映ったのは緑の草原。まだ寝ぼけたまま身を起こし、頭をすっきりさせようと大きく息を吸う。辺りの風に潮のかおりを感じ、そこで彼はようやく辺りを見渡し、そこが今回の旅の出発地点、オネットの“くちばし岬”であることに気が付いた。
ただし、記憶が正しければあの頃には無かったものが一つだけある。宙に浮かぶ赤い扉。助っ人のキーパーソンを帰還させるための扉だ。
それを見るピットはすでに眠気もどこかへ消え去った様子で、じっと口を引き結び、扉の方を見つめていた。
そこで握っていた手が軽く引っ張られ、ピットはそちらに目を向ける。眠っていても手を離さなかったリュカは、仰向けのまま「ううん」と唸って片手で瞼をこすっていた。
目を開き、リュカはぽそりと呟く。
「あれ……? ここ……」
「くちばし岬だよ。戻ってきたんだ。君が帰るための扉も……ほら、あそこにある」
ピットが指さしたので、リュカはまだ眠そうな顔をしつつもピットの手を離して起き上がり、その方面に顔を向けた。
「ほんとだ……じゃあ、これでもう大丈夫なんですね」
膝に手をついて立ち上がる。
ピットも座っていたところから立って、服についていた草の切れ端を払った。
「僕の依頼はほとんど、キーパーソンが全員扉を出るまで見届けるってことが多いんだけどね。でも扉が出たってことは、君はもう帰って大丈夫ってことだよ。手伝ってくれて本当にありがとう! ……いやぁ、それにしても今回は大変なんてものじゃなかったね。リュカ君がいなきゃきっとクリアできなかったよ」
つい癖で言ってしまった言い回しに、少年はきょとんと目を瞬く。
「クリア……?」
「……あぁ、ごめん。忘れて! こっちの慣用句みたいなものだから」
リュカは扉の方へと歩き始める。だが彼はふと、そこで立ち止まってしまった。
やがて彼は振り返る。どこか名残惜しそうな顔をして、こう尋ねた。
「……ピットさん。また、会えますよね? ネスにも……これが、最後じゃないですよね」
目をそらすことなく、ピットは頷いてみせる。
「会えるよ。僕らはみんな、前にどこかで会ったことがある。閉じ込められていた君たちがそれを忘れていたのは、それが真犯人にとって都合の悪い記憶だからだと思うんだ。つまり、『僕らが会ったことのある世界』が、君たちが本来暮らしていた世界で間違いないんだよ。だから君たちが本当の居場所に帰って来られたなら、その時はきっと、またみんなに会えるさ」
それを聞き、やがてリュカの顔に微笑みが戻った。
「うん……そうですよね、きっと」
そうして改めてこちらに向き直ると、彼は大きく手を振った。
「それじゃあ、また!」
「また会おうね!」
ピットも手を振り返し、リュカは今度はきっぱりと扉へと歩いていく。小さな手でドアノブを掴み、扉を引き開けた。
徐々に開かれていく隙間からは眩しい光があふれだし、ピットは思わず小手をかざして目をすがめる。朝日のように清らかな光の中、どこかの家の中のような光景がうっすらと見えたような気がした。風に乗って、美味しそうな料理の匂いが流れてきた。
「ただいま!」
少し声を弾ませてそう言い、リュカも光の中に姿を消す。
くちばし岬の潮騒に紛れてしまいそうになりながらも、誰かの声が聞こえてきた。
「おお、ちょうど帰ってきたな」
「あ、リュカ! ね、ほら、僕の言った通りだったでしょ?」
「おかえりなさい。ふわふわオムレツ、あなたの分も用意しているわよ」
子供たちの笑い声、親の穏やかな話し声。それらは自然と閉まっていく扉の向こう側に遠ざかっていき、戸が閉まると同時にふつりと聞こえなくなった。
赤色の扉がすっかり閉じてしまっても、ピットはオネットの岬に一人、残っていた。
依頼は完了したはずだが、彼はなぜかバッジに触れようという素振りも見せず、扉の消えた辺りをじっと見つめて何事かを真剣に考えこんでいた。
佇む彼の髪を、白い翼を、潮風がなびかせる。
――僕は今まで、『エリア』っていうのは地上界の人間たちを問答無用で閉じ込めるものなんだって、そう思っていた。けど……
かつて、あるキーパーソンは、手紙を見る前までの自分を指して『目隠しをされ、本当の景色を知らないまま、迷宮の中に閉じ込められた』ようだと言っていた。
実際、手紙無しでエリアを出られた人には、今までに一度も出会ったことがない。脱出することはおろか、そこが牢獄であることにすら気がつけないのだ。周りの人よりも頭抜けて強く、または賢く、あるいは才能に恵まれたキーパーソンでさえも。だからピットは、『エリア』とはそれほどまでに絶対的なものなのだと、そう思ってきた。
だが、今回は違っていた。キーパーソンはエリアの不自然さに気づき、なおかつそれを、自らのやり方でコントロールしようとしていた。エリアの在り方に影響を与えていたのは地上界の人間たちを箱庭に閉じ込めた犯人やその協力者などではなく、ほかならぬキーパーソン自身だった。
彼こそが、各地の時間を任意の時間で止めたり、それを無理やり変えようとする者が出てくればどこか遠くに追い払ったり、自分の記憶にある人や動物を出現させて行く手を阻ませていた張本人だったのだ。
――ただ、ネス君は不思議な力を持ってる。色んな人の記憶をごまかしたり、自分のことを思い出せないようにしたり。何となくあの子も勘の鋭いところがあったし、もしかしたらテレパシーみたいなのも使えたのかもしれない。エデンの海でも物凄い威力の念力みたいなのを使ってたし……やっぱり、そのくらいの人間じゃないと、エリアを操作することはできないんじゃないかな。
そう結論付けようとしたピットだったが、そこでふと眉根を寄せる。
記憶の片隅に、引っかかるものを感じたのだ。
「……そうだ。そういえば、リュカ君も――」
思わず呟いた彼、その脳裏に浮かんでいたのは、渡した手紙をリュカが読んだ時の光景。彼が激しく動揺するとともに、辺りの景色が様変わりした。まるで、別の時間から持ってきた景色を、ほんの一瞬だけ上書きしたかのように。
今回リュカから聞いた話から考えれば、あれはおそらく彼の記憶にあった光景を再現したものだったのだろう。
つまり――無意識だったとはいえ、彼も『自分の意思でエリアの時間を曲げ、エリアの在り方を変えた』ということになるのではないか。
ではあれは、心の力を扱える、特殊な人間たちに限ったことだったのだろうか?
その仮説を検証していたピットは、しばらくして首を横に振る。
「いや、違う。もしかしたらあの時のあれも……」
まず思い出したのは、無名の大都市での出来事。
誰が統御しているのかも定かではない、規則正しく揺るぎないイベントの繰り返し。ピットたちがいくら介入しようとしても、与えた影響は常に何らかの形で吸収されてしまい、見えない壁を超えてキーパーソンに出会うことはおろか、声を掛けることさえもままならなかった。
ところが、エインシャントの曖昧な助言を受けてようやく一人のキーパーソンに会えた後、点と点を繋ぐようにしてキーパーソン同士の協力を得られていく。そして彼らが起こした『イベントにない出来事』によって残りのキーパーソンたちも目を覚まし、堂々巡りを脱することができた。
あれもまた、『毎日ほとんど同じ日々が繰り返される』というエリアのルールを、キーパーソン自身が自分の意志で曲げることによって破った、と言うことができるだろう。
思い当たる節は、もっと前のエリアにもあった。
あきれかえるほど平和だったはずのエリア。無数の侵略者たちが奪い合いを続け、どうしようもないほどに混沌としてしまったエリアを元に戻したのは、手紙を読んでキーパーソン自身が思いついた行動によるものだった。
平和な頃の自分に手紙を読ませてこのエリアの真実に気付かせることで、侵略者も来なくなる。あの時は因果関係が分からなかったが、今から思えば、まだ取り返しの効く時点であのエリアのキーパーソンたちの意識の持ち方が変わったことによって、エリアの在り方にも何らかの影響が及んだのかもしれない。
そして、もっと前の任務でも。
同じ顔ばかりの異様な軍勢に襲われていた、霧深い山間の小国。最初に辿り着いた若き盟主に導かれるように、ありとあらゆる地域から先鋭の軍勢が集まり、連合軍を結成していた。
戦争は一進一退を繰り返し、永い間続いていた。ピットの目から見ても、連合軍の彼らが相当に才覚と経験にあふれた人間だというのは間違いなかったのだが、そんな彼らをしても苦戦し、時に敗退するのには訳があった。敵の軍勢は、倒されるたびに復活していたのだ。
当時の自分はキーパーソンたちに対する既視感に気付いておらず、エリア内の出来事も完全に作り物なのだから、彼らがそうまでしてエリア内のことで苦悩するのも時間が勿体ないだけだと思っていた。だから、最後の一人に配り終えた途端に彼らが戦いを放棄し、小国を後にした時も特に何も思わず、無事に目標を達成できたという思いしか浮かばなかった。
だが、今であれば気づくことができる。
相手の軍勢と休戦協定を結ぶこともなく出て行ってしまえば、小国に残った彼らの部下や臣下はまとめる者のいないまま、不死身の軍勢と戦うことになるはずだ。しかし誰も連合軍の盟主の決定に異を唱えず、彼の『戦争は終わった』という言葉を疑うことなく信じて送り出した。
つまりあれは、あのエリアのキーパーソン全員が『この戦争がまやかしである』と気付いたことによって、本当に敵の軍勢が消滅するか無力化するかして戦争が終わっていたのだ。他の人々も無意識のうちに戦争が終わったことを理解していて、だからこそ彼らのリーダーが出て行くのを止めようともしなかった。荒唐無稽だが、それくらいしか説明が思いつかない。
どうにも理屈に合わない現象はあのエリアに限らず、今までの任務の全てで大なり小なり目にしてきた。これまでの自分は、単にまだ関心を持っていなかったり、おかしいと感じても忙しさにかまけて棚上げしていたりで、まともに正面から向き合ったことがなかった。
ようやく問題を捉えることができた今、ピットは我知らず腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
――もしかしたら、自分でも分からないうちに避けてたのかも……。なんか嫌な予感がするから、解明しないでおこうって。
気の持ちようで世界の在り方が変わる。
例え『エリア』がハリボテの紛い物だったとしても、それが現実に存在する以上は、そんなことは起こり得ない。ましてや、本物の世界を区切ったものだというのならなおさらだ。
ここから考えられることは一つ。
「……『エリア』は、もしかしたら……キーパーソンたちが見ている夢……?」
夢だとすれば、その中での出来事が夢を見ている人によって左右されるのも分かる。
ピットが訪れるまでは、キーパーソンは自分が夢を見ていることも知らず、自分の無意識が作り出すおかしな出来事を疑いもせず受け入れ、従い、その中で暮らしてきた。だが手紙を読んだことによって、夢を見ているのだと自覚できるようになり、夢の中にはびこる不条理を正せるようになった。
いつか女神から聞いた豆知識によれば、その状態は『明晰夢』と呼ばれる。そこが夢の中だと気づくと、自分の意志で夢の中に影響を及ぼすことが可能になるのだと。
しかし、そこまでを考えていたところでふとピットは怪訝そうに首を傾げ、呟く。
「でも、そうしたら……なんでみんな目を覚さないんだろう。なんで、みんな夢の中に戻ってるんだろう……?」
助っ人として再び出会った時の彼らは皆、自分がまだエリアにいると言っていた。本当の世界に帰る手段も見つかっていない、と。
彼らはもう、起きようと思えば起きられるはず。そうして自分を夢の中に閉じ込めた何者かを探し始めていて良いはずなのだ。
もしかしたら彼らは、同じく夢の中に閉じ込められているが、キーパーソンのように気付けるきっかけのない友人や知人、その他縁のある人々を放っておけないのかもしれない。だがそれにしても、自分が起きた上で、眠りこけている彼らを片っ端から起こしていけば良いように思える。
それがまだ、彼ら自身も出ることができていないというのなら――
「まさか、起きようと思っても起きられないくらい、深い眠りに……?」
複数の人間たちが同じ夢を共有している時点で、それは普通の眠りではない。夢を操ることのできる何者かが、地上界の人間たちをいくつかの集団に分けて、醒めることのない夢に閉じ込めた。そうとしか考えられない。
――でもそんなのが相手だとしたら、キーパーソンの協力は得られない。絶対に覚めることのない夢に閉じ込められてる限り。だから彼らを助けるためには、パルテナ様と一緒に、僕が戦うしかない……
心中で次第に焦りを募らせていたピットの意識に、自分の名を呼ぶ声が届くまでにはしばらく掛かった。
『ピットさん。……ピットさん? 聞こえていますか?』
「……えっ? あ、は、はい!」
慌てて返答した向こう側、宝飾の方からエインシャントの安堵のため息が聞こえてきた。
『ああ。無事に通信ができるようになったということは、ここのキーパーソンにも手紙を渡すことができたのですね』
「ええ、まあ……」
そう答えつつ、ピットは岬に浮かぶ赤い扉の方を見てこう考えていた。わざわざ口頭で確認するまで安心できなかったということは、あの扉はエインシャントが開けるんじゃなく、もっと自動的なものなのかな、と。
『このエリアは数あるエリアの中でも最難関の部類に入るのです。ピットさん、もっと自分を誇って良いのですよ。……それとも、こんなのは難しいうちに入らなかったですか?』
「何言ってるんですか。助っ人がいなかったら、まともに手も足も出ませんでしたよ。まったく、あんなカブトムシの姿を指定するなんて……」
不満をぶつけていたピットだったが、そこでふと思い出す。
このエリアにネスが課していた、厳しいルール。今回、エインシャントが指定した任務の条件や助っ人の人選は、そのルールの穴をつくものだったのではないか。
ピットが指定された姿は、このオネットの山に訪れた未来人、ブンブーンのものだった。
リュカは姿を変えられていなかったが、それは変える必要がなかったからだろう。リュカの暮らすノーウェア島にポーキーが来たということは、時代は違うにせよオネットとノーウェア島は同じ軸の上にある、繋がりがあるということ。だからネスも彼の姿を見て、『ここになじまない』とは感じなかったのだ。
エインシャントは知っていたのだろうか。このエリアに何が起きていたのかを。
「あなたは……」
思い切って尋ねようとした、彼の口は、そこで言葉が立ち消える。
安易に問うべきではない。直感がそう言ったのだ。
『そぐわない人物は弾かれるか、閉じ込められる』というルールの存在を知るには、実際にエリアに干渉する必要があるはずだ。エインシャントがそれをできるのだとすれば、彼はピットのようにエリアに干渉することができ、実際にそうしていたにも関わらず、なぜか自分の手ではキーパーソンたちを助けようとはしなかった、ということになる。
さらに、エリアが夢であることもずっと前から知っていたというのなら、やはり夢を操る何者かの存在にも気付いていたはずだ。
それがなぜ、こんなにも回りくどい方法を取るのだろうか。
内心に不信感が募る中、彼はそれを言葉には出さず、代わりに短くこう言った。
「……パルテナ様を呼んでください」
『ええ、分かりました』
通信の向こうでありながら、彼が微笑んでいるのが分かった。
全てを見透かされたような声音に、ピットは釈然としない表情をする。下げられた拳はきつく握りしめられていたが、彼は心中の思いを引き結んだ口の奥に押し込め、じっと前を見据えて立っていた。まるで、見えない何かに立ち向かうかのように。